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始皇帝陵から無料バスで兵馬俑坑まで戻り,「遊5」バスで今度は「華清池」へ行く。

2018.9西安・華山・洛陽・鄭州・嵩山・鄭州・開封の旅(9)~「華清池」

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2018/09/14 - 2018/09/27

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HOUKOU

HOUKOUさん

始皇帝陵から無料バスで兵馬俑坑まで戻り,「遊5」バスで今度は「華清池」へ行く。

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  • 始皇帝陵から無料バスで兵馬俑坑まで戻り,「遊5」バスで今度は「華清池」へ行く。<br /><br />例によってバス停標識もないようなところで下され,驪山は見えているが華清池の入場口の方向さえわからない。<br />一緒にバスを降りた中国人中年夫婦も同様のありさまで,通行人に道を聞いていた。<br />しばらくその夫婦の行動を観察する。<br />どうやら横断歩道を渡ってまっすぐ行けばいいらしい。<br />

    始皇帝陵から無料バスで兵馬俑坑まで戻り,「遊5」バスで今度は「華清池」へ行く。

    例によってバス停標識もないようなところで下され,驪山は見えているが華清池の入場口の方向さえわからない。
    一緒にバスを降りた中国人中年夫婦も同様のありさまで,通行人に道を聞いていた。
    しばらくその夫婦の行動を観察する。
    どうやら横断歩道を渡ってまっすぐ行けばいいらしい。

  • 途中「臨潼博物館」というものが目に付いたので入ってみる。<br />

    途中「臨潼博物館」というものが目に付いたので入ってみる。

  • ここが「華池宮」の正門。

    ここが「華池宮」の正門。

  • 中は様々な建物が入り組んで立ち並んでいる。<br />山裾に広がる宮殿であるため,配置が不規則で回りにくい。<br /><br />多くの建物はほとんど歴史的根拠がなさそうに思える。<br />もし歴史的検証があったとしたら,もっと豊富な解説パネルや再現模型などが展示されているはずだ。<br />

    中は様々な建物が入り組んで立ち並んでいる。
    山裾に広がる宮殿であるため,配置が不規則で回りにくい。

    多くの建物はほとんど歴史的根拠がなさそうに思える。
    もし歴史的検証があったとしたら,もっと豊富な解説パネルや再現模型などが展示されているはずだ。

  • この池に面した建物は「長生殿」という名前がついている。<br />あの長恨歌の最後に出てくる「長生殿」である。<br /><br />この詩情が理解できる人にとっては「長生殿」とは忘れがたい名前なのである。<br />

    この池に面した建物は「長生殿」という名前がついている。
    あの長恨歌の最後に出てくる「長生殿」である。

    この詩情が理解できる人にとっては「長生殿」とは忘れがたい名前なのである。

  • 楊貴妃像。<br />裸像なので,今から「湯を賜る」ところであろう。<br />

    楊貴妃像。
    裸像なので,今から「湯を賜る」ところであろう。

  • これはその楊貴妃が使ったといわれる有名な「海棠の湯」。<br />楊貴妃専用の浴槽として造られたもの。

    これはその楊貴妃が使ったといわれる有名な「海棠の湯」。
    楊貴妃専用の浴槽として造られたもの。

  • 「蓮花の湯」は,玄宗皇帝専用の湯。<br />皇帝の湯だけあって湯船がでかい。<br />

    「蓮花の湯」は,玄宗皇帝専用の湯。
    皇帝の湯だけあって湯船がでかい。

  • 太宗李世民の湯船も残っている。<br />「星辰の湯」<br />北斗七星を象ったものという。<br />

    太宗李世民の湯船も残っている。
    「星辰の湯」
    北斗七星を象ったものという。

  • 「温泉古源」<br />泉質はどうなんだろうか?<br />日本の温泉地のほとんどで感じる硫黄臭は全く感じなかったのだが。<br />

    「温泉古源」
    泉質はどうなんだろうか?
    日本の温泉地のほとんどで感じる硫黄臭は全く感じなかったのだが。

  • 近世・近代になっても時の権力者により,華清池は愛され続けた。<br /><br />これは楊貴妃「海棠の湯」を模して清代に作られた湯船である。<br />1703年には康熙帝が西方巡察の折に立ち寄る。<br />更には西太后と光緒帝が義和団事件後の列強の北京進出を恐れ成都への逃避行の途中立ち寄って湯を浴びたという。

    近世・近代になっても時の権力者により,華清池は愛され続けた。

    これは楊貴妃「海棠の湯」を模して清代に作られた湯船である。
    1703年には康熙帝が西方巡察の折に立ち寄る。
    更には西太后と光緒帝が義和団事件後の列強の北京進出を恐れ成都への逃避行の途中立ち寄って湯を浴びたという。

  • そして華清池を有名にしているもう一つの大事件が「西安事件」である。<br />この湯船は蒋介石が滞在していた「五間庁」のま近にあり,将軍も疲れをいやしたのだろう。<br />これがその五間庁である。<br />西安事件と張学良は時代の流れを変えた出来事として,中国人もよく知っているみたいで見学者も多い。<br />今の日本人で,どれほどこの事件が歴史的意味を持っているのか知っている人はあまりいないのではないか。<br />

    そして華清池を有名にしているもう一つの大事件が「西安事件」である。
    この湯船は蒋介石が滞在していた「五間庁」のま近にあり,将軍も疲れをいやしたのだろう。
    これがその五間庁である。
    西安事件と張学良は時代の流れを変えた出来事として,中国人もよく知っているみたいで見学者も多い。
    今の日本人で,どれほどこの事件が歴史的意味を持っているのか知っている人はあまりいないのではないか。

  • 当時大陸に進出してきた日本に対して,挙国一致して対抗すべきところ<br />国民党軍と共産軍は内戦状態であった。<br />戦況は国民党に有利であり,蒋介石としては共産党を叩き潰したのち,本格的に日本軍へ対処しようとしていたところだった。<br /><br />首謀者である張学良は元々蒋介石の忠実な部下である。<br />しかし,(動機については諸説ある)この内戦状態を憂慮し,蒋介石を裏切る形で,この「五間庁」を襲撃し蒋介石を拉致。<br /><br />共産党指導部は蒋介石を殺害したかったが,当時さからうことができなかったソビエトの意向で釈放された。<br /><br />周恩来や宋美齢など要人家族も蒋介石が監禁されている西安に集まり,度重なる交渉がなされた。<br /><br />結果的に一致団結(表面的には)して抗日に当たることになる。(第二次国共合作)<br /><br />日本では張学良といえば,年配の人であれば長い監禁ののち突然その生存が明らかにされ,テレビに登場した人物であることぐらいは記憶にあるかもしれない。<br />しかしおそらく学良よりは,爆殺された父親の張作霖のほうが有名ではないか。<br /><br />中国では,張学良は稀代の英雄として大事に扱われている。<br />かつての活躍の拠点であった瀋陽の史跡でも父親より張学良が大きく取り上げられていた。<br />それも当然で,当時共産党は国民党軍に追い詰められ壊滅状態にあったのだ。<br />蒋介石が,南京からこの地西安に来たのも,共産軍討伐の督励のためであった。<br />共産党からしたら命の恩人とさえ言えるだろう。

    当時大陸に進出してきた日本に対して,挙国一致して対抗すべきところ
    国民党軍と共産軍は内戦状態であった。
    戦況は国民党に有利であり,蒋介石としては共産党を叩き潰したのち,本格的に日本軍へ対処しようとしていたところだった。

    首謀者である張学良は元々蒋介石の忠実な部下である。
    しかし,(動機については諸説ある)この内戦状態を憂慮し,蒋介石を裏切る形で,この「五間庁」を襲撃し蒋介石を拉致。

    共産党指導部は蒋介石を殺害したかったが,当時さからうことができなかったソビエトの意向で釈放された。

    周恩来や宋美齢など要人家族も蒋介石が監禁されている西安に集まり,度重なる交渉がなされた。

    結果的に一致団結(表面的には)して抗日に当たることになる。(第二次国共合作)

    日本では張学良といえば,年配の人であれば長い監禁ののち突然その生存が明らかにされ,テレビに登場した人物であることぐらいは記憶にあるかもしれない。
    しかしおそらく学良よりは,爆殺された父親の張作霖のほうが有名ではないか。

    中国では,張学良は稀代の英雄として大事に扱われている。
    かつての活躍の拠点であった瀋陽の史跡でも父親より張学良が大きく取り上げられていた。
    それも当然で,当時共産党は国民党軍に追い詰められ壊滅状態にあったのだ。
    蒋介石が,南京からこの地西安に来たのも,共産軍討伐の督励のためであった。
    共産党からしたら命の恩人とさえ言えるだろう。

  • 蒋介石の寝室。<br />トレードマークの黒い帽子とマントがベッドわきに掛けられている。<br />

    蒋介石の寝室。
    トレードマークの黒い帽子とマントがベッドわきに掛けられている。

  • ちょっと怪しい気もするが,事件当時の銃撃戦で割れたガラス窓ということだ。<br />

    ちょっと怪しい気もするが,事件当時の銃撃戦で割れたガラス窓ということだ。

  • 右の写真は,蒋介石,張学良,楊虎城とが仲良く写真に納まったもの。<br />もちろん西安事件前のもので西安郊外の茂陵に遊んだときのもの。<br />

    右の写真は,蒋介石,張学良,楊虎城とが仲良く写真に納まったもの。
    もちろん西安事件前のもので西安郊外の茂陵に遊んだときのもの。

  • 事件は1936年12月12日に起きた。<br />午前6時25分張学良配下の拉致実行部隊が五間庁を襲う<br /><br />おそらく寝込みを襲われたと同じような状態ではなかっただろうか。<br />警備隊が応戦するも,防ぎきれず蒋介石と取り巻き数人が建物を脱出。<br /><br />周りの者が次々に銃弾に倒れる中,蒋介石は山を登り上り,途中の岩陰に一人身をひそめた。<br /><br />その場所にはぜひ行ってみたいと前から思っていた。<br />ただそれは驪山の中腹にあり,そこに至るには少なからず坂道を登っていかなければいけないようだ。<br />中国の観光地では必ずと言っていいほど見かける電動カートに乗ることにした。<br />蒋介石が潜んでいた岩場はさらにそこから坂を登らなければならない。<br /><br />寝込みを襲われ着の身着のまま12月の身を切る寒さの中,ここまで登ってくるとは,さすが軍人蒋介石である。<br />このとき,蒋介石は50歳くらい。<br />黄埔軍官学校の校長であり,中国統一のため北伐など歴戦を潜り抜け頑強な体だったのであろう。<br />日本の軍人精神やストイシズムにあこがれを持っていたようで,きっと日頃の鍛錬もかかさなかったのであろう。<br /><br />この時の蒋介石の心中はいかばかり悲痛なものであったか。<br /><br />掃共のうえ国家統一までまと一歩というところで,信頼する部下に裏切られ,寝込みを襲われ死の恐怖にさいなまれ,寒気に裸同然の身を震わせている蒋介石を想像すると,心中察するに余りある。<br /><br />吉良上野介も赤穂浪士に屋敷を襲われ,雪の降る寒気で炭小屋に隠れていたというが,蒋介石の場合は大望が絶たれた悔しさもありはるかに絶望的な思いにとらわれたはずだ。

    事件は1936年12月12日に起きた。
    午前6時25分張学良配下の拉致実行部隊が五間庁を襲う

    おそらく寝込みを襲われたと同じような状態ではなかっただろうか。
    警備隊が応戦するも,防ぎきれず蒋介石と取り巻き数人が建物を脱出。

    周りの者が次々に銃弾に倒れる中,蒋介石は山を登り上り,途中の岩陰に一人身をひそめた。

    その場所にはぜひ行ってみたいと前から思っていた。
    ただそれは驪山の中腹にあり,そこに至るには少なからず坂道を登っていかなければいけないようだ。
    中国の観光地では必ずと言っていいほど見かける電動カートに乗ることにした。
    蒋介石が潜んでいた岩場はさらにそこから坂を登らなければならない。

    寝込みを襲われ着の身着のまま12月の身を切る寒さの中,ここまで登ってくるとは,さすが軍人蒋介石である。
    このとき,蒋介石は50歳くらい。
    黄埔軍官学校の校長であり,中国統一のため北伐など歴戦を潜り抜け頑強な体だったのであろう。
    日本の軍人精神やストイシズムにあこがれを持っていたようで,きっと日頃の鍛錬もかかさなかったのであろう。

    この時の蒋介石の心中はいかばかり悲痛なものであったか。

    掃共のうえ国家統一までまと一歩というところで,信頼する部下に裏切られ,寝込みを襲われ死の恐怖にさいなまれ,寒気に裸同然の身を震わせている蒋介石を想像すると,心中察するに余りある。

    吉良上野介も赤穂浪士に屋敷を襲われ,雪の降る寒気で炭小屋に隠れていたというが,蒋介石の場合は大望が絶たれた悔しさもありはるかに絶望的な思いにとらわれたはずだ。

  • これがその岩の裂け目なのか。<br /><br />午前9時ごろこの岩場に潜んでいるところをとらえられたという。<br />捉えられたときはおそらく擦り傷だらけのみじめな姿だったのではないか。<br />名誉を重んじる軍人として,国民党の指導者として,耐えられないほどの屈辱を味わったに違いない。<br /><br />その後蒋介石は西安に移送され,張学良らと歴史的な協議を行うことになる。<br />この時,蒋介石解放後の張学良の命は保障するとの協約があったようである。<br /><br />しかし,おそらくこの時の屈辱を蒋介石は生涯忘れることはなかったはずである。<br />協約どおり張学良は命は取られることはなかったが,数十年にわたって決して表にでることもなく軟禁生活を余儀なくされる。<br />世界のだれもが,張学良の存在を完全に忘れていたとき,突然その生存が知らされ,世界的なニュースとして取り上げられた。<br /><br />1990年に行われたNHKの単独インタビューを覚えている方はたくさんいるであろう。<br />個人的には,張学良がインタビューを締めくくるに際して言った言葉「夫子の道は忠恕のみ」という論語の一節が強く印象に残っている。<br /><br />しかし,もう一人の共謀者である楊虎城には容赦しなかった。<br />1949年共産党軍により重慶が陥落する際,蒋介石の命令で本人、幼い娘、秘書ら6人すべて惨殺された。<br />

    これがその岩の裂け目なのか。

    午前9時ごろこの岩場に潜んでいるところをとらえられたという。
    捉えられたときはおそらく擦り傷だらけのみじめな姿だったのではないか。
    名誉を重んじる軍人として,国民党の指導者として,耐えられないほどの屈辱を味わったに違いない。

    その後蒋介石は西安に移送され,張学良らと歴史的な協議を行うことになる。
    この時,蒋介石解放後の張学良の命は保障するとの協約があったようである。

    しかし,おそらくこの時の屈辱を蒋介石は生涯忘れることはなかったはずである。
    協約どおり張学良は命は取られることはなかったが,数十年にわたって決して表にでることもなく軟禁生活を余儀なくされる。
    世界のだれもが,張学良の存在を完全に忘れていたとき,突然その生存が知らされ,世界的なニュースとして取り上げられた。

    1990年に行われたNHKの単独インタビューを覚えている方はたくさんいるであろう。
    個人的には,張学良がインタビューを締めくくるに際して言った言葉「夫子の道は忠恕のみ」という論語の一節が強く印象に残っている。

    しかし,もう一人の共謀者である楊虎城には容赦しなかった。
    1949年共産党軍により重慶が陥落する際,蒋介石の命令で本人、幼い娘、秘書ら6人すべて惨殺された。

  • 近くに立っているのが「兵諫亭」。<br /><br />この四阿は1946年に国民党によって建てられた。<br />当初は「総理蒙難亭」などと呼ばれたが,共産党政権樹立後は「捉蒋亭」(蒋介石を捉える)という不名誉な名前に変えられた。<br />1986年西安事件50周年に,さすがに台湾に配慮したのだろう,今の名称に変えられた。<br /><br />近くには「兵諫園」といのもがあって,西安事件ゆかりのものが展示されている。

    近くに立っているのが「兵諫亭」。

    この四阿は1946年に国民党によって建てられた。
    当初は「総理蒙難亭」などと呼ばれたが,共産党政権樹立後は「捉蒋亭」(蒋介石を捉える)という不名誉な名前に変えられた。
    1986年西安事件50周年に,さすがに台湾に配慮したのだろう,今の名称に変えられた。

    近くには「兵諫園」といのもがあって,西安事件ゆかりのものが展示されている。

  • 「兵諫亭」から華清池方向を望む。<br /><br />霞かかっていて遠望がきかない。<br />驪山頂上はまだ上なのだが,疲れてきたし山を下りることにした。<br />

    「兵諫亭」から華清池方向を望む。

    霞かかっていて遠望がきかない。
    驪山頂上はまだ上なのだが,疲れてきたし山を下りることにした。

  • 「遊5路」バスを降りたところまで戻るが,そこはバス停である標識もなく,バス待ち客も全く見当たらない。<br />しかたがないので,大通りを西安方向に歩いて行く。<br /><br />その内,中国各地で見かける車掌付きのバスがスピードを落として近づいてきて乗車を誘われる。<br />行き先が「西安站」と表示されていたので,乗り込む。<br /><br />同じような人は結構いるようで,バスはあちこちで乗客を拾いながら西安に向かっていく。

    「遊5路」バスを降りたところまで戻るが,そこはバス停である標識もなく,バス待ち客も全く見当たらない。
    しかたがないので,大通りを西安方向に歩いて行く。

    その内,中国各地で見かける車掌付きのバスがスピードを落として近づいてきて乗車を誘われる。
    行き先が「西安站」と表示されていたので,乗り込む。

    同じような人は結構いるようで,バスはあちこちで乗客を拾いながら西安に向かっていく。

  • 夕食はホテル近くの蘭州ラーメン屋で「ヤンロウパオモー」(羊肉泡「食莫」)22元を食べる。<br />「食莫(モー)」とは遊牧民族発祥の素焼きのパンのことであるらしい。<br />この料理を知ったのは随分前のことで,いつかは食べてみたい調理ではあったのだ。<br />その時印象的だったのは「食莫(モー)」は,時間をかけてなるべき小さくちぎった方がおいしいということだった。<br />サイコロ型に切られて「食莫(モー)」が出てきたのだが,面倒くさいのでそのまま羊スープに入れてしまう。<br />食べていて感じたのは,なるほどこれは遊牧民の簡便な料理だなということであった。<br />ストックした羊スープに,残り物のパン。<br />ちょうど日本人がお茶漬けを食べる感覚なのだなと感じた。<br />

    夕食はホテル近くの蘭州ラーメン屋で「ヤンロウパオモー」(羊肉泡「食莫」)22元を食べる。
    「食莫(モー)」とは遊牧民族発祥の素焼きのパンのことであるらしい。
    この料理を知ったのは随分前のことで,いつかは食べてみたい調理ではあったのだ。
    その時印象的だったのは「食莫(モー)」は,時間をかけてなるべき小さくちぎった方がおいしいということだった。
    サイコロ型に切られて「食莫(モー)」が出てきたのだが,面倒くさいのでそのまま羊スープに入れてしまう。
    食べていて感じたのは,なるほどこれは遊牧民の簡便な料理だなということであった。
    ストックした羊スープに,残り物のパン。
    ちょうど日本人がお茶漬けを食べる感覚なのだなと感じた。

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