2018/09/14 - 2018/09/27
1101位(同エリア1649件中)
HOUKOUさん
- HOUKOUさんTOP
- 旅行記93冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 44,108アクセス
- フォロワー5人
「56路(原副21路)」バスで咸陽へ。
-
【9月16日(日)旅行3日目】
朝食も面料理(笑),
これも全国的に有名になった「ビヤンビヤン面」である。
料理の内容というより,それを表す画数が多い特有の漢字で有名だ。
昨夜の「油溌面」も幅広であったが,この面は更に幅広。
もはや日本語でいう「ラーメン」ではない。
何か湯葉料理でも食べているかのようだ。 -
今日は少し遠出して,感陽へ向かう。
最初の目的地は「咸陽博物館」。
地下鉄1号線で,まず「后衛塞」へ。
「歩き方」では,ここから21番バスに乗り換えると書いてある。
ところが,大通りにずらりと並んだバスをまんべんなく見て回ったが,21路というバスは見当たらない。
雨は降るし,やめようかと思いかけたとき「56路(原副21路)」というのがあり,標識の停車バス停の中に「博物館」という文字を見つけた。
路線番号が変わったようだ。 -
「咸陽博物館」は,「博物館」バス停からすぐ近くにあった。
「文廟」であった建物を利用して博物館としている。 -
展示品は土地柄,咸陽宮のものが多い。
咸陽宮(1号宮殿)の復元模型。
咸陽周辺には,様々な宮殿が造営された。
渭河の南(現西安市)の阿房宮は最も有名であるが,これはおそらく未完成に終わり,秦の権力中枢はこの咸陽宮にあったはずだ。
始皇帝が天下に号令し,また燕国からの刺客,荊軻に追い回されたのもこの宮殿での出来事であったのか。
宮殿は排水や防御のためか高台に建てられ,谷を隔てて2棟に分かれている。(通路橋で行き来できるようになっている)
現在はその土台である丘しか見ることができないそうであるが,さまざまな出土品をこの博物館で見ることができる。 -
-
1号宮殿から出土した瓦。
-
これも1号宮殿から出土した「空心磚」。
中空に焼き上げられたこのような煉瓦は,宮殿の主に階段に用いられたという。
軽量,防音,湿気防止などさまざまなメリットがあるとされる。 -
これは陶製の濾過機である。
-
この博物館は咸陽宮出土品以外の目玉として「楊家湾」出土の兵馬俑がある。
後に真近に見ることになる始皇帝の兵馬俑に比べればミニサイズであるが,偏執的ともいうべきこの数には驚かされる。
いったい他のどこの民族が,同じような形の人形をこれだけの数揃えようと思うのだろう。 -
さて計画では,せっかく咸陽まで来たからには,その「咸陽宮」跡に行こうと思っていた。
7路というバスに乗れば近くまで行けるという情報も得ていた。
「博物館」バス停にはその路線が載っていない。
一旦咸陽駅までバスで行けば,乗り継ぎで行けるかもしれない。
ただ先日に続き,今日も途切れなく雨が降っている。
大降りでもないが,厚い雲が渭河盆地を覆っているようで止む様子もない。
やはり雨模様の日は活動力がどうしても低下してしまう。
「もう少しがんばってみよう」という気力が衰える。
あっさり諦めることにする。
私は一度行った都市には,再訪しない主義であるが,さすがに5泊4日の短期間で西安周辺をまんべんなく見て回ることは元々無理な話で,将来的にもう一回西安に来て,見こぼした場所をゆっくり見学することも選択肢として最初から考えていた。
「また来る機会もあるだろう」
何気なく西安行のバス停付近をあるいていると,渭河に歩道橋が架かっていることに気づく。
これは単なる歩道橋ではなく「古渡廊橋」という名の比較的新しくできた観光施設らしい。
旅の前の情報収集で感じたのだが,ここ咸陽市は観光PRに力を入れている印象が強い。
観光当局による日本語HPも充実していた。
西安に比べれば一般受けする観光資源に乏しく,歯がゆい思いがあるのだろう。
この橋もそうした思いで作られたのであろう。 -
かなり人工的な光景ではあるが,中国有数の歴史の中心舞台である渭河が一望できる。
橋の上には秦王朝ゆかりの人物像が並ぶ。 -
「扶蘇」
始皇帝の長男であり,本来は2世皇帝となるべき人物であった。
人物的にも優れていたが,父始皇帝の焚書坑儒に反対したため疎まれて北方を守る蒙恬(もうてん)のもとに送られた。
始皇帝が巡察中客死すると,宦官の趙高が李斯をそそのかし,偽の勅書をでっちあげ,弟で愚昧な胡亥を2世皇帝に立てる。
当然ながら扶蘇・蒙恬は死を迫られることになる。
蒙恬はだいぶ抵抗したようだが,偽勅に従い扶蘇は潔く自害する。
中国の歴史で何回も繰り返され,繰り返すことになる跡目争いの典型である。 -
「李斯」
宦官の趙高と組んで(あるいは趙高に恫喝されて),しばらくは始皇帝の死を隠し勅書を改ざんし二世皇帝胡亥を担ぎあげた。
しかし,胡亥や趙高よりは「まとも」だったようで,始皇帝亡き後世が次第に乱れるのを顧みず遊行に耽る2世皇帝の愚行ぶりにたびたび諫言している。
二世皇帝から疎まれ,共謀者だった趙高にはめられ,監獄に入れられ拷問を受けた処刑される。
ところで,監獄で鞭打たれながらも,李斯から二世皇帝にあてた上書といわれるものが残されている。
数々の自分の功績を挙げ,それが罪だったという全体が反語で書かれたものだ。
これが全く聞き届けられなかったのは,処刑の方法を見ればわかる。
李斯が受けたのは「腰斬の刑」である。
これは一つの凌辱刑であり,身体の一部ずつを切り取られ最後は腰を断つという残虐なものである。 -
「商鞅」
混乱の戦国時代にあって秦が頭角を表し強国として天下ににらみを利かすようになったのは,この商鞅がもたらした改革によることは周知のことである。
商鞅の改革は一言でいえば法家思想に基く社会秩序の徹底であった。
功績により領主にとりたてられたが,反対派の動きにより都からの逃亡を余儀なくされた。
途中宿をとろうとしたが,宿の主人から「商鞅さまが決めた法により旅券を持たないものと泊めることはできない(どこかの国みたいだ)」と断られる。
最後は,(李斯よりもましかもしれないが)車裂きの刑に処せられている。
「歴史は繰り返される」かもしれない。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
HOUKOUさんの関連旅行記
西安(中国) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
14