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花のパリ、美術館巡りはまずオルセーから。<br /><br />私は3度目のオルセーです。<br />パリの美術館巡りはルーブルを先にするかオルセーを先にするか、出発前から悩んでいました。<br />しかしルーブルはいつも長蛇の列で混雑するというし、モナリザさんにも何度かご挨拶しているし、それに今の私は古典的な作品より印象派の作品に早く合いたい・・・。<br /><br />実はそう思わせる出来事があったのです。<br /><br />パリ行のANAの機内で大変面白いビデオを見ました。<br />日本では余り知られていないオーギュスト・カイユボット。彼は貧しい時代の印象派の画家たちを経済的に支え続けたのです。<br />売れない彼らの作品を高価な金額で何点も購入したり、家賃を払ってやったり、自腹で印象派展を開催したり・・・。<br />そしてカイユボットは若くして亡くなりました。<br /><br />カイユボットの収蔵品を離散することなく、現在のようにオルセー美術館でまとめ見ることができるのも、遺言執行人であるオーギュスト・ルノワールの功績のお蔭なのです。<br /><br />齢を取りますと、写真撮影可能の美術館は大変うれしいです。どんなにすばらしい絵画であっても、齢と共に覚える力が衰退し、見ただけではほとんど頭に残りません。<br />それを写真に撮って帰り、後で絵にまつわるいろんなことを調べる・・・、何と言う至福な時間か。ボケ防止にもつながりますし、これが楽しくて仕方がありません。<br />お蔭でまたまた枚数の多いダラダラした旅行記になりました。<br />ご容赦ください。<br /><br />

2019秋旅 何度行ってもオルセーはすごい!☆印象派

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2019/09/25 - 2019/09/25

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frau.himmel

frau.himmelさん

花のパリ、美術館巡りはまずオルセーから。

私は3度目のオルセーです。
パリの美術館巡りはルーブルを先にするかオルセーを先にするか、出発前から悩んでいました。
しかしルーブルはいつも長蛇の列で混雑するというし、モナリザさんにも何度かご挨拶しているし、それに今の私は古典的な作品より印象派の作品に早く合いたい・・・。

実はそう思わせる出来事があったのです。

パリ行のANAの機内で大変面白いビデオを見ました。
日本では余り知られていないオーギュスト・カイユボット。彼は貧しい時代の印象派の画家たちを経済的に支え続けたのです。
売れない彼らの作品を高価な金額で何点も購入したり、家賃を払ってやったり、自腹で印象派展を開催したり・・・。
そしてカイユボットは若くして亡くなりました。

カイユボットの収蔵品を離散することなく、現在のようにオルセー美術館でまとめ見ることができるのも、遺言執行人であるオーギュスト・ルノワールの功績のお蔭なのです。

齢を取りますと、写真撮影可能の美術館は大変うれしいです。どんなにすばらしい絵画であっても、齢と共に覚える力が衰退し、見ただけではほとんど頭に残りません。
それを写真に撮って帰り、後で絵にまつわるいろんなことを調べる・・・、何と言う至福な時間か。ボケ防止にもつながりますし、これが楽しくて仕方がありません。
お蔭でまたまた枚数の多いダラダラした旅行記になりました。
ご容赦ください。

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  • 9月25日、朝から雨。<br />まずはオルセー美術館を訪れます。<br /><br />メトロをコンコルド駅で乗り換えて12号線のソルフェリーノまで。<br />少し歩きますが、大勢の人に付いていったら美術館に着いていました。<br />

    9月25日、朝から雨。
    まずはオルセー美術館を訪れます。

    メトロをコンコルド駅で乗り換えて12号線のソルフェリーノまで。
    少し歩きますが、大勢の人に付いていったら美術館に着いていました。

  • 日本の方の姿も結構見かけました。<br /><br />オルセーの外壁には歴史的彫像がずらり並んでいる。<br />さすがオルセー!<br />

    日本の方の姿も結構見かけました。

    オルセーの外壁には歴史的彫像がずらり並んでいる。
    さすがオルセー!

  • 10分ほど並んでチケットを買い、案外すんなりと入場できました。<br /><br />オルセー美術館は、もともとオルセー駅とホテルでしたが、パリ万博に合わせて美術館に生まれ変わったものです。<br />中央通路にはその当時ホームがあり、線路が通っていました。<br />

    10分ほど並んでチケットを買い、案外すんなりと入場できました。

    オルセー美術館は、もともとオルセー駅とホテルでしたが、パリ万博に合わせて美術館に生まれ変わったものです。
    中央通路にはその当時ホームがあり、線路が通っていました。

  • まずは5階から最初に攻めます。<br /><br />案内には「印象派、新印象派、ポスト印象派」とあります。<br />やはりオルセーって言ったら印象派ですね。疲れないうちにこちらを先に・・・。<br />

    まずは5階から最初に攻めます。

    案内には「印象派、新印象派、ポスト印象派」とあります。
    やはりオルセーって言ったら印象派ですね。疲れないうちにこちらを先に・・・。

  • まず最初に入った部屋で出迎えてくれた絵は、集団肖像画みたいなもの。<br /><br />アンリ・ファンタン・ラトゥール(1836-1904)「ドラクロア礼賛」1864.<br /><br />フランスロマン主義の巨匠ドラクロアの肖像を囲んで、彼を礼賛する芸術家の集まりです。<br />

    まず最初に入った部屋で出迎えてくれた絵は、集団肖像画みたいなもの。

    アンリ・ファンタン・ラトゥール(1836-1904)「ドラクロア礼賛」1864.

    フランスロマン主義の巨匠ドラクロアの肖像を囲んで、彼を礼賛する芸術家の集まりです。

  • ここに名入りの説明がありました。<br /><br />主な人物のみ。<br />②ラトゥール(画家・本人)<br />③ホイッスラー(画家)<br />⑤マネ(画家)<br />⑥ボードレール(詩人) その他。<br /><br />ここに描かれている人物はモネやルノワールなど後の印象派に影響を与えた人々です。<br />いわば印象派の「さきがけ」とも言うべき人々か(?)。<br />

    ここに名入りの説明がありました。

    主な人物のみ。
    ②ラトゥール(画家・本人)
    ③ホイッスラー(画家)
    ⑤マネ(画家)
    ⑥ボードレール(詩人) その他。

    ここに描かれている人物はモネやルノワールなど後の印象派に影響を与えた人々です。
    いわば印象派の「さきがけ」とも言うべき人々か(?)。

  • 仲良くマネとモネの静物画が並んでいます。<br /><br />上:エドゥアール・マネ(1832-1883)「卓上の果物」1864<br />下:クロード・モネ(1840-1926)「肉の塊のある静物」1864<br /><br />共に同じ年に制作されたもの。<br /><br />マネとモネ、1字違いで同じ時代の画家ですから私の単細胞の脳内はどっちがどっちかいつも混乱してしまいます。<br />

    仲良くマネとモネの静物画が並んでいます。

    上:エドゥアール・マネ(1832-1883)「卓上の果物」1864
    下:クロード・モネ(1840-1926)「肉の塊のある静物」1864

    共に同じ年に制作されたもの。

    マネとモネ、1字違いで同じ時代の画家ですから私の単細胞の脳内はどっちがどっちかいつも混乱してしまいます。

  • 更に混乱することが・・。<br /><br />これはマネの有名な絵、「草上の昼食」1863。<br /><br />当初の題名は「水浴」だったそうです。<br />ところでどうして裸で昼食を?<br />サロン展に出展しましたが、不道徳だとして、もちろん落選でした。<br />しかしこの絵はセンセーショナルな話題を呼び、この作品にインスピレーションを得た画家がいました。<br />

    更に混乱することが・・。

    これはマネの有名な絵、「草上の昼食」1863。

    当初の題名は「水浴」だったそうです。
    ところでどうして裸で昼食を?
    サロン展に出展しましたが、不道徳だとして、もちろん落選でした。
    しかしこの絵はセンセーショナルな話題を呼び、この作品にインスピレーションを得た画家がいました。

  • クロード・モネです。<br />1864年に登場人物に服を着せて、「草上の昼食」として発表しました。<br /><br />マネはこれに反応して、当初の「水浴」からモネと同じ題名で「草上の昼食」と改題しました。<br /><br />ここにマネとモネの二つの「草上の昼食」が並んだわけです。<br />混乱しますよね。<br />

    クロード・モネです。
    1864年に登場人物に服を着せて、「草上の昼食」として発表しました。

    マネはこれに反応して、当初の「水浴」からモネと同じ題名で「草上の昼食」と改題しました。

    ここにマネとモネの二つの「草上の昼食」が並んだわけです。
    混乱しますよね。

  • エドゥアール・マネ 「しゃくやくの花瓶」1864年。<br />美しい絵ですね。<br /><br />マネとモネ、決して仲が悪かったわけではありません。<br />マネが8歳年上で当時は画家として既に名を成していました。<br />モネはまだ新人でしたから、1字違いのマネの名前を利用して有名になりたいと思ったわけではないでしょうけど、マネからしたら「若造が何をこしゃくな・・・!」といったところでしょうか。<br />

    エドゥアール・マネ 「しゃくやくの花瓶」1864年。
    美しい絵ですね。

    マネとモネ、決して仲が悪かったわけではありません。
    マネが8歳年上で当時は画家として既に名を成していました。
    モネはまだ新人でしたから、1字違いのマネの名前を利用して有名になりたいと思ったわけではないでしょうけど、マネからしたら「若造が何をこしゃくな・・・!」といったところでしょうか。

  • クロード・モネ。「エトルタの荒海」1868-1869。<br /><br />モネはマネを尊敬していましたし、マネもまたモネの実力を認めて、経済的に苦しかったモネに金銭的支援するなど、二人の交流はマネが亡くなるまで続きました。<br />

    クロード・モネ。「エトルタの荒海」1868-1869。

    モネはマネを尊敬していましたし、マネもまたモネの実力を認めて、経済的に苦しかったモネに金銭的支援するなど、二人の交流はマネが亡くなるまで続きました。

  • ここにそれを証明する集団肖像画があります。<br /><br />アンリ・ファンタン・ラトゥール 「バティニョールのアトリエ」1870 <br /><br />パリのバティニョールにあるマネのアトリエ、集まっているのはルノワール、バジール、それにモネもいます。<br />絵筆をとるマネを敬愛の目でじっと見つめる印象派の面々。<br /><br />マネはそのころ指導者的立場にあり、後に印象派を代表する画家となる彼らに影響を与えました。<br />しかしマネ自身は印象派とは一線を画し、印象派のグループ展には一度も参加しませんでした。<br /><br />(写真:機内ビデオより)

    ここにそれを証明する集団肖像画があります。

    アンリ・ファンタン・ラトゥール 「バティニョールのアトリエ」1870 

    パリのバティニョールにあるマネのアトリエ、集まっているのはルノワール、バジール、それにモネもいます。
    絵筆をとるマネを敬愛の目でじっと見つめる印象派の面々。

    マネはそのころ指導者的立場にあり、後に印象派を代表する画家となる彼らに影響を与えました。
    しかしマネ自身は印象派とは一線を画し、印象派のグループ展には一度も参加しませんでした。

    (写真:機内ビデオより)

  • ところで話は変わって・・・。<br /><br />パリ行のANAの機内で大変面白いビデオを見ました。<br />印象派の画家たちを支え続けたカイユボットとオルセー美術館の関係についてでした。<br />もしカイユボットがいなかったら、オルセー美術館でこんなにまとまって印象派の作品は見られなかったかもしれない、というものです。<br /><br />カイユボットって日本ではあまり知られていませんよね。<br />パリ行の機内でこのビデオを見て、オルセー美術館を訪れるのが更に楽しみなものになりました。<br />

    ところで話は変わって・・・。

    パリ行のANAの機内で大変面白いビデオを見ました。
    印象派の画家たちを支え続けたカイユボットとオルセー美術館の関係についてでした。
    もしカイユボットがいなかったら、オルセー美術館でこんなにまとまって印象派の作品は見られなかったかもしれない、というものです。

    カイユボットって日本ではあまり知られていませんよね。
    パリ行の機内でこのビデオを見て、オルセー美術館を訪れるのが更に楽しみなものになりました。

  • ギュスターヴ・カイユボット(1848-1894)はパリの大変裕福な上流階級の家に生まれました。<br />法学部を出て弁護士免許を取りましたが、絵が好きで、その後本格的に勉強をして絵画の道に進みます。<br /><br />写真はパリ近郊イエールにあるカイユボット家の別荘。<br />カイユボットはこの別荘で多くの絵の構想を膨らませました。<br />

    ギュスターヴ・カイユボット(1848-1894)はパリの大変裕福な上流階級の家に生まれました。
    法学部を出て弁護士免許を取りましたが、絵が好きで、その後本格的に勉強をして絵画の道に進みます。

    写真はパリ近郊イエールにあるカイユボット家の別荘。
    カイユボットはこの別荘で多くの絵の構想を膨らませました。

  • カイユボットの代表作 「床に鉋をかける人」1875<br />

    カイユボットの代表作 「床に鉋をかける人」1875

  • カイユボット 「飛び込み」1877年。<br /><br />夏はイエールの別荘で過ごすのが常でした。<br />カイユボットが可愛がっていた2つ違いの弟ルネ。若くして亡くなりました。<br />弟の死にショックを受けたカイユボットはその2日後に遺言書を書きました。<br />

    カイユボット 「飛び込み」1877年。

    夏はイエールの別荘で過ごすのが常でした。
    カイユボットが可愛がっていた2つ違いの弟ルネ。若くして亡くなりました。
    弟の死にショックを受けたカイユボットはその2日後に遺言書を書きました。

  • カイユボットはこの頃、モネ、セザンヌ、ピサロ、ドガ、シスレー、モリゾ、ルノワールなど印象派の画家たちと知り合い、印象派展を開催することに力を注ぎます。<br />

    カイユボットはこの頃、モネ、セザンヌ、ピサロ、ドガ、シスレー、モリゾ、ルノワールなど印象派の画家たちと知り合い、印象派展を開催することに力を注ぎます。

  • カイユボット 「アルジャントゥーユのヨット」1888<br /><br />カイユボットは当時貧しいそれら印象派の画家たちの生活支援などをしていました。<br />印象派展で彼らが認められることはもちろん、彼らの絵に買い手が付いて彼らの生活が楽になればいいと考えたからです。

    カイユボット 「アルジャントゥーユのヨット」1888

    カイユボットは当時貧しいそれら印象派の画家たちの生活支援などをしていました。
    印象派展で彼らが認められることはもちろん、彼らの絵に買い手が付いて彼らの生活が楽になればいいと考えたからです。

  • 実はカイユボットより以前に印象派を理解し、作品の購入や金銭的な援助をしていた人物がありました。<br /><br />フレデリック・バジール(1841-1870)。<br /><br />バジールも裕福な家庭に生まれ、生活に困っている仲間の絵を買ったり、自分の借りた家に住まわせたりして、援助していました。

    実はカイユボットより以前に印象派を理解し、作品の購入や金銭的な援助をしていた人物がありました。

    フレデリック・バジール(1841-1870)。

    バジールも裕福な家庭に生まれ、生活に困っている仲間の絵を買ったり、自分の借りた家に住まわせたりして、援助していました。

  • フレデリック・バジール 「コンダミヌ街のバジールのアトリエ」(1870)<br /><br />この絵はバジールが画壇の重鎮マネに作成中の絵の批評を受けている場面。<br />このころルノワールはバジールのアパートに住みながら制作活動をしていました。<br /><br />絵に描かれている人物は、マネ、モネ、バジール、ルノワール。<br />その他に階段に立っているのはエミール・ゾラ、ピアノに向かっているのは音楽家エドモン・メートル。<br /><br />バジールの交友関係の広さが覗えます。<br />しかしバジールは普仏戦争で29歳の若さで亡くなります。<br />

    フレデリック・バジール 「コンダミヌ街のバジールのアトリエ」(1870)

    この絵はバジールが画壇の重鎮マネに作成中の絵の批評を受けている場面。
    このころルノワールはバジールのアパートに住みながら制作活動をしていました。

    絵に描かれている人物は、マネ、モネ、バジール、ルノワール。
    その他に階段に立っているのはエミール・ゾラ、ピアノに向かっているのは音楽家エドモン・メートル。

    バジールの交友関係の広さが覗えます。
    しかしバジールは普仏戦争で29歳の若さで亡くなります。

  • カイユボット 「自画像」1892<br /><br />その後を継いだのはカイユボット。<br />貧しい時代の印象派の画家たちの作品を高価で購入したり、生活の面倒も見ていました。<br />特にモネはカイユボットから相当の金銭的援助を受けたという資料が残っています。<br />

    カイユボット 「自画像」1892

    その後を継いだのはカイユボット。
    貧しい時代の印象派の画家たちの作品を高価で購入したり、生活の面倒も見ていました。
    特にモネはカイユボットから相当の金銭的援助を受けたという資料が残っています。

  • 1894年、カイユボットは45歳の若さで亡くなりました。<br /><br />しかし彼は遺言書を残していました。<br />その遺言執行人としてオーギュスト・ルノワールの名前がしたためられていました。<br />

    1894年、カイユボットは45歳の若さで亡くなりました。

    しかし彼は遺言書を残していました。
    その遺言執行人としてオーギュスト・ルノワールの名前がしたためられていました。

  • 「遺言」<br /><br />1878年に開かれる印象派の画家たちの展覧会が最高の状態で開かれるように必要な金額は私の財産から支払われる。<br />3万フランから4万フラン それ以上になるかもしれない。<br /><br />私が所有する絵は国に寄付する。<br />この遺贈が受け入れられることを望む。<br /><br />屋根裏部屋でもなく地方の美術館でもなくリュクサンブールへ、のちにルーブルへ受け入れられることを望む。<br />この遺言が履行されるには 市民に受け入れられるまでかなりの時間がかかるだろう。<br /><br />遺言執行人はルノアールに依頼する。<br />

    「遺言」

    1878年に開かれる印象派の画家たちの展覧会が最高の状態で開かれるように必要な金額は私の財産から支払われる。
    3万フランから4万フラン それ以上になるかもしれない。

    私が所有する絵は国に寄付する。
    この遺贈が受け入れられることを望む。

    屋根裏部屋でもなく地方の美術館でもなくリュクサンブールへ、のちにルーブルへ受け入れられることを望む。
    この遺言が履行されるには 市民に受け入れられるまでかなりの時間がかかるだろう。

    遺言執行人はルノアールに依頼する。

  • 当時は印象派の絵画は世間にまだ認められていませんでした。<br />その受け入れにはサロンや画家だけでなく一般市民の間にも論争が起きました。<br /><br />「パティニョールのアトリエ」1870 アンリ・ファンタン・ラトゥール作<br />

    当時は印象派の絵画は世間にまだ認められていませんでした。
    その受け入れにはサロンや画家だけでなく一般市民の間にも論争が起きました。

    「パティニョールのアトリエ」1870 アンリ・ファンタン・ラトゥール作

  • ルノワールはそんな世間の風潮の中、カイユボットの遺言を執行するためにありとあらゆる努力を惜しみませんでした。<br /><br />ようやくリュクサンブール美術館にカイユボットの収蔵品が寄贈されました。<br />その中にはセザンヌ4点、ドガ8点、マネ3点、モネ16点、ピサロ13点、ルノワール8点、シスレー8点なども含まれていました。<br />

    ルノワールはそんな世間の風潮の中、カイユボットの遺言を執行するためにありとあらゆる努力を惜しみませんでした。

    ようやくリュクサンブール美術館にカイユボットの収蔵品が寄贈されました。
    その中にはセザンヌ4点、ドガ8点、マネ3点、モネ16点、ピサロ13点、ルノワール8点、シスレー8点なども含まれていました。

  • 今ここに、カイユボットが収集した印象派の収蔵品が散逸しないで、オルセーでまとめてみることができるのも、カイユボットの意志をしっかりと受け継いだルノワールの功績によるところが大きいのです。<br />

    今ここに、カイユボットが収集した印象派の収蔵品が散逸しないで、オルセーでまとめてみることができるのも、カイユボットの意志をしっかりと受け継いだルノワールの功績によるところが大きいのです。

  • カイユボット作「ジャン・ドレンの肖像画」1885。<br /><br />今回、カイユボットのコーナーにはもう一つ嬉しいニュースがありました。新たにカイユボットの作品が5点加わったのです。<br /><br />肖像画のジャン・ドレイルは19世紀後半、カイユボット家の執事を務めた人です。<br />

    カイユボット作「ジャン・ドレンの肖像画」1885。

    今回、カイユボットのコーナーにはもう一つ嬉しいニュースがありました。新たにカイユボットの作品が5点加わったのです。

    肖像画のジャン・ドレイルは19世紀後半、カイユボット家の執事を務めた人です。

  • カイユボット 「ジャン・ドレイル」1887.<br /><br />ジャンはカイユボットの両親が亡くなった後も、カイユボットや弟のために働きました。執事として、時には絵のモデルとして。<br /><br />今回新たに5点が、ジャンのひ孫からオルセー美術館に寄贈されました。<br />

    カイユボット 「ジャン・ドレイル」1887.

    ジャンはカイユボットの両親が亡くなった後も、カイユボットや弟のために働きました。執事として、時には絵のモデルとして。

    今回新たに5点が、ジャンのひ孫からオルセー美術館に寄贈されました。

  • 寄贈された5点の作品にはこのように黄色のプレートで<br />「Nouvelle scquisition」と表示してあります。<br />

    寄贈された5点の作品にはこのように黄色のプレートで
    「Nouvelle scquisition」と表示してあります。

  • カイユボット 「花の木」1888。<br />ジャン・ドレイルの寄贈。<br /><br />それまでカイユボットの作品はオルセーには7点しかなかったので、寄贈された5点は重要な意味を持つとされる。<br />

    カイユボット 「花の木」1888。
    ジャン・ドレイルの寄贈。

    それまでカイユボットの作品はオルセーには7点しかなかったので、寄贈された5点は重要な意味を持つとされる。

  • 5階テラスからセーヌ川を望む。<br /><br />それでは印象派の画家たちの作品を見てまいりましょう。<br /><br />写真可能な美術館を訪れると、すっかりハイテンションになり手当たり次第にバシャバシャ撮ってしまう私の悪い癖。<br />でも、これらの作品をいろいろ調べているうちに、興味深い歴史背景、人物像、エピソードなどが出てきたりするともう嬉しくてたまらない。<br /><br />せっかく撮った写真は歿にするのは勿体ないし、作者・題名など極力調べてできるだけ載せるようにしています。<br />ダラダラと長い写真集になりますが、端折ってご覧になってください。<br /><br />一応、作者ごとに、作成年代順に並べています。<br />

    5階テラスからセーヌ川を望む。

    それでは印象派の画家たちの作品を見てまいりましょう。

    写真可能な美術館を訪れると、すっかりハイテンションになり手当たり次第にバシャバシャ撮ってしまう私の悪い癖。
    でも、これらの作品をいろいろ調べているうちに、興味深い歴史背景、人物像、エピソードなどが出てきたりするともう嬉しくてたまらない。

    せっかく撮った写真は歿にするのは勿体ないし、作者・題名など極力調べてできるだけ載せるようにしています。
    ダラダラと長い写真集になりますが、端折ってご覧になってください。

    一応、作者ごとに、作成年代順に並べています。

  • まずはカイユボットの遺贈に多大な貢献をしたルノワールから。<br /><br />オーギュスト・ルノワール(1841-1919)「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876)<br />モンマルトルのダンスホールに憩う庶民の姿を描いた。<br /><br />あまりにも有名な作品ですね。この作品もカイユボットが所蔵していたものです。<br />

    まずはカイユボットの遺贈に多大な貢献をしたルノワールから。

    オーギュスト・ルノワール(1841-1919)「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876)
    モンマルトルのダンスホールに憩う庶民の姿を描いた。

    あまりにも有名な作品ですね。この作品もカイユボットが所蔵していたものです。

  • オーギュスト・ルノワール「ブランコ」(1876)<br /><br />ルノワールがアトリエとして使っていたモンマルトルの庭で描かれた。<br />カイユボットの遺贈<br />

    オーギュスト・ルノワール「ブランコ」(1876)

    ルノワールがアトリエとして使っていたモンマルトルの庭で描かれた。
    カイユボットの遺贈

  • オーギュスト・ルノワール「シャルパンテエ夫人」(1877-1878)<br /><br />出版業で成功したジョルジュ・シャルパンティエ夫人がモデル。<br />夫妻はルノワールの重要なパトロンでした。<br />

    オーギュスト・ルノワール「シャルパンテエ夫人」(1877-1878)

    出版業で成功したジョルジュ・シャルパンティエ夫人がモデル。
    夫妻はルノワールの重要なパトロンでした。

  • ルノワールの代表的な作品が2つ並んでいます。<br /><br />オーギュスト・ルノワール 右:「田舎のダンス」(1883)<br />女性はルノアールのお気に入りのモデルで後に彼の妻になるアリーヌ・シャリゴ。<br /><br /><br />左:「都会のダンス」(1883)<br />女性はモーリス・ユトリロ(1883-1955)の母親のシュザンヌ・ヴァラドン、当時18歳でした。<br />モデルになった当時、ヴァラドンのお腹にはユトリロがいたということになります。<br />

    ルノワールの代表的な作品が2つ並んでいます。

    オーギュスト・ルノワール 右:「田舎のダンス」(1883)
    女性はルノアールのお気に入りのモデルで後に彼の妻になるアリーヌ・シャリゴ。


    左:「都会のダンス」(1883)
    女性はモーリス・ユトリロ(1883-1955)の母親のシュザンヌ・ヴァラドン、当時18歳でした。
    モデルになった当時、ヴァラドンのお腹にはユトリロがいたということになります。

  • ルノワール。「劇場の桟敷席(音楽会にて)」1880<br />

    ルノワール。「劇場の桟敷席(音楽会にて)」1880

  • ルノワール 「モスク」1881。<br /><br />これがルノワール?と思うくらい作風が変わっています。<br />尊敬していたロマン派の巨匠ドラクロアに影響を受けて描いたものと言われている。<br />

    ルノワール 「モスク」1881。

    これがルノワール?と思うくらい作風が変わっています。
    尊敬していたロマン派の巨匠ドラクロアに影響を受けて描いたものと言われている。

  • ルノワール 「シャトー(イヴリーヌ)の鉄道橋」、または「バラ色のマロニエ」1881<br />

    ルノワール 「シャトー(イヴリーヌ)の鉄道橋」、または「バラ色のマロニエ」1881

  • ルノワール。「乳飲み子 ルノワール夫人と息子ピエール」1885。<br /><br />ルノワール夫人は「田舎のダンス」のモデル アリーヌ<br />

    ルノワール。「乳飲み子 ルノワール夫人と息子ピエール」1885。

    ルノワール夫人は「田舎のダンス」のモデル アリーヌ

  • ルノワール 「ジュリー・マネ」1887.<br /><br />この女の子ジュリーはベルト・モリゾ(1841-1883))とエドゥアール・マネの弟ウジューヌ・マネの一人娘、9歳のころ。<br /><br />ルノワールはよほどこのジュリーがお気に入りだったのでしょうね、他にも彼女を描いた肖像画があります。<br />

    ルノワール 「ジュリー・マネ」1887.

    この女の子ジュリーはベルト・モリゾ(1841-1883))とエドゥアール・マネの弟ウジューヌ・マネの一人娘、9歳のころ。

    ルノワールはよほどこのジュリーがお気に入りだったのでしょうね、他にも彼女を描いた肖像画があります。

  • ルノワール 「座る若い女性」1909<br />

    ルノワール 「座る若い女性」1909

  • パリの画商 ベンネーム兄弟画廊は印象派を支え、多くの画家を世に出しました。<br />ルノワールはベルネーム家の肖像画を多く描いています。<br /><br />「ガストン・ベルネーム・ド・ヴィレール夫人の肖像」1901<br />

    パリの画商 ベンネーム兄弟画廊は印象派を支え、多くの画家を世に出しました。
    ルノワールはベルネーム家の肖像画を多く描いています。

    「ガストン・ベルネーム・ド・ヴィレール夫人の肖像」1901

  • ルノワール 「ガストン・べルネーム・ド・ヴィレール夫妻」1910。<br /><br />ベルネーム兄弟画廊はガストンとジョスの双子の兄弟の経営です。<br />こちらはガストン夫妻。<br />

    ルノワール 「ガストン・べルネーム・ド・ヴィレール夫妻」1910。

    ベルネーム兄弟画廊はガストンとジョスの双子の兄弟の経営です。
    こちらはガストン夫妻。

  • ルノワール 「ヴィレール夫人とその息子フィルス・ヘンリー」1910<br /><br />ルノワールを支えた画商ジョス・ベルネーム=ジュヌの妻と息子がモデルです。<br />上のガストンとこのジョスの二人の夫人、よく似ていますね。<br /><br />ルノワールが晩年を過ごした南仏のカーニュで描かれました。<br />

    ルノワール 「ヴィレール夫人とその息子フィルス・ヘンリー」1910

    ルノワールを支えた画商ジョス・ベルネーム=ジュヌの妻と息子がモデルです。
    上のガストンとこのジョスの二人の夫人、よく似ていますね。

    ルノワールが晩年を過ごした南仏のカーニュで描かれました。

  • ルノワール 「コローナ・ロマーノ」1913<br /><br />Gabrielle Colonna-Romano (1888?1981)はフランスの映画女優。<br />ルノワールは彼女をモデルとして何点か描いています。<br />

    ルノワール 「コローナ・ロマーノ」1913

    Gabrielle Colonna-Romano (1888?1981)はフランスの映画女優。
    ルノワールは彼女をモデルとして何点か描いています。

  • やっとモネです。<br /><br />クロード・モネ(1840-1926)「昼食」(1873)。<br />

    やっとモネです。

    クロード・モネ(1840-1926)「昼食」(1873)。

  • モネ 「アルジャントゥイユのひなげし」(1873)。<br /><br />描かれているのは妻カミーユと息子ジャン。<br /><br />

    モネ 「アルジャントゥイユのひなげし」(1873)。

    描かれているのは妻カミーユと息子ジャン。

  • クロード・モネ 「戸外の人物習作(右向き日傘の女)」、「戸外の人物習作(左向き日傘の女)」1875<br />

    クロード・モネ 「戸外の人物習作(右向き日傘の女)」、「戸外の人物習作(左向き日傘の女)」1875

  • クロド・モネ 「七面鳥」1876<br />

    クロド・モネ 「七面鳥」1876

  • クロード・モネ 「サン・ラザール駅」1877。<br /><br />フランス初のターミナル駅であるサン・ラザール駅。<br />鉄とガラスでできた斬新な駅舎、そこに力強く煙を上げて入線してくる鉄の塊 蒸気機関車。<br />その躍動的で近代的なサン・ラザール駅の風景は、印象派の画家たちの格好のモチーフでした。<br />

    クロード・モネ 「サン・ラザール駅」1877。

    フランス初のターミナル駅であるサン・ラザール駅。
    鉄とガラスでできた斬新な駅舎、そこに力強く煙を上げて入線してくる鉄の塊 蒸気機関車。
    その躍動的で近代的なサン・ラザール駅の風景は、印象派の画家たちの格好のモチーフでした。

  • クロード・モネ 「石炭降ろし」1875<br />

    クロード・モネ 「石炭降ろし」1875

  • クロード・モネ 「旗で飾られたモントルグイユ街」1878 <br />

    クロード・モネ 「旗で飾られたモントルグイユ街」1878 

  • クロード・モネ 「死の床のカミーユ」1879<br /><br />死の床に臥す妻カミーユを見つめるモネの目は複雑だった。<br />妻との永遠の別れがすぐそこに迫っているのに、カミーユが変貌していく姿を画家の目で観察していることに気が付いた、と後に友人に語っていたそうです。<br /><br />もちろん、深い悲しみ、カミーユに対する愛情も計り知れないものがあったとは思いますが、画家の性(さが)でしょうか、悲しいですね。<br />

    クロード・モネ 「死の床のカミーユ」1879

    死の床に臥す妻カミーユを見つめるモネの目は複雑だった。
    妻との永遠の別れがすぐそこに迫っているのに、カミーユが変貌していく姿を画家の目で観察していることに気が付いた、と後に友人に語っていたそうです。

    もちろん、深い悲しみ、カミーユに対する愛情も計り知れないものがあったとは思いますが、画家の性(さが)でしょうか、悲しいですね。

  • クロード・モネ 「エトルタの浜辺」(1883)<br />

    クロード・モネ 「エトルタの浜辺」(1883)

  • クロード・モネ 「積みわら 夏の終わり」(1891)<br /><br />モネは積みわらの連作を描いています。

    クロード・モネ 「積みわら 夏の終わり」(1891)

    モネは積みわらの連作を描いています。

  • クロード・モネ 「ポプラ並木」(1891)<br />

    クロード・モネ 「ポプラ並木」(1891)

  • クロード・モネ(1840-1926) 「ルーアン大聖堂 ポルターユ 朝の光 青の調和」(1893)。<br /><br />

    クロード・モネ(1840-1926) 「ルーアン大聖堂 ポルターユ 朝の光 青の調和」(1893)。

  • クロード・モネ 「ルーアン大聖堂」連作<br />

    クロード・モネ 「ルーアン大聖堂」連作

  • クロード・モネ 「ジヴェルニー近郊のセーヌ川の支流」(1897)<br />

    クロード・モネ 「ジヴェルニー近郊のセーヌ川の支流」(1897)

  • クロード・モネ 「水連の池 グリーンの調和」(1899)<br />

    クロード・モネ 「水連の池 グリーンの調和」(1899)

  • クロード・モネ 「日本の橋とスイレンの池」(1899)<br />

    クロード・モネ 「日本の橋とスイレンの池」(1899)

  • クロード・モネ 「すいれんの池 バラ色の調和」(1900

    クロード・モネ 「すいれんの池 バラ色の調和」(1900

  • クロード・モネ 「ジヴェルニーのモネの庭」(1900)<br /><br />

    クロード・モネ 「ジヴェルニーのモネの庭」(1900)

  • カミーユ・ピサロ<br /><br />カミーユ・ピサロ(1830-1903)La Seine a Port-Marly,le lavoir(1872)<br />

    カミーユ・ピサロ

    カミーユ・ピサロ(1830-1903)La Seine a Port-Marly,le lavoir(1872)

  • カミーユ・ピサロ 「エルミタージュの丘 ポントワーズ」1873<br />

    カミーユ・ピサロ 「エルミタージュの丘 ポントワーズ」1873

  • カミーユ・ピサロ 「赤い屋根 村の一角 冬の効果」1877<br /><br />この絵もカイユボットの遺贈<br />

    カミーユ・ピサロ 「赤い屋根 村の一角 冬の効果」1877

    この絵もカイユボットの遺贈

  • カミーユ・ピサロ 「ポントワーズ・エルミタージュの菜園」(1879)<br />

    カミーユ・ピサロ 「ポントワーズ・エルミタージュの菜園」(1879)

  • カミーユ・ピサロ(1830-1903) 「小枝を持つ羊飼いの少女」(1881)<br />

    カミーユ・ピサロ(1830-1903) 「小枝を持つ羊飼いの少女」(1881)

  • カミーユ・ピサロ(1830-1903) 「bergere rentrant des moutons(羊飼いの羊を連れて行く)」(1886)<br />

    カミーユ・ピサロ(1830-1903) 「bergere rentrant des moutons(羊飼いの羊を連れて行く)」(1886)

  • この絵の案内に記されていた「NAZIS(ナチス)」という文字が気になりました。フランス語はさっぱりわかりませんので、帰国して調べてみました。<br /><br />この絵は、ドイツ軍によるパリ占領時代にナチスにより掠奪されたものでした。元の所有者はホロコーストの生存者。<br />長い裁判の末、2016年に遺族に返却されました。<br /><br />遺族は、この絵はホロコーストの犠牲者の勝利だ、多くの人々に見てもらいたいと、フランスとオクラホマで交互に展示することにしたそうです。<br />

    この絵の案内に記されていた「NAZIS(ナチス)」という文字が気になりました。フランス語はさっぱりわかりませんので、帰国して調べてみました。

    この絵は、ドイツ軍によるパリ占領時代にナチスにより掠奪されたものでした。元の所有者はホロコーストの生存者。
    長い裁判の末、2016年に遺族に返却されました。

    遺族は、この絵はホロコーストの犠牲者の勝利だ、多くの人々に見てもらいたいと、フランスとオクラホマで交互に展示することにしたそうです。

  • カミーユ・ピサロ(1830-1903) 「葡萄畑の女性」(1887)<br />

    カミーユ・ピサロ(1830-1903) 「葡萄畑の女性」(1887)

  • カミーユ・ピサロ(1830-1903) 「ノックの教会」(1894)<br />

    カミーユ・ピサロ(1830-1903) 「ノックの教会」(1894)

  • エドガー・ドガ(1834-1917)「カフェにて アプサント」1875-1876<br />

    エドガー・ドガ(1834-1917)「カフェにて アプサント」1875-1876

  • エドガー・ドガ(1834-1917)「アイロンをかける女たち」1884-1886<br />

    エドガー・ドガ(1834-1917)「アイロンをかける女たち」1884-1886

  • アルフレット・シスレー(1839-1894) 「Bateaux a I ecluse」(1873)<br />

    アルフレット・シスレー(1839-1894) 「Bateaux a I ecluse」(1873)

  • アルフレット・シスレー 「モレジーのレガッタ」1874<br />

    アルフレット・シスレー 「モレジーのレガッタ」1874

  • アルフレット・シスレー 「ポール・マルリーの洪水」1876<br />

    アルフレット・シスレー 「ポール・マルリーの洪水」1876

  • アルフレット・シスレー 「Le Repos au bord du ruisseau」(1879)<br />

    アルフレット・シスレー 「Le Repos au bord du ruisseau」(1879)

  • ベルト・モリゾ(1841-1894)「蝶々捕り」 (1874)。<br /><br />私の大好きな画家なのに、なぜだかこれ1枚しか撮ってない。不思議です。<br />

    ベルト・モリゾ(1841-1894)「蝶々捕り」 (1874)。

    私の大好きな画家なのに、なぜだかこれ1枚しか撮ってない。不思議です。

  • メアリー・カサット(1844-1926)<br /><br />母と子の絵といったらこの人、母性溢れる絵です。<br />赤ちゃんのお尻をちょっと突っつきたくなります。<br /><br />ベルト・モリゾと共に3大女性印象派の一人と言われる。もう一人はわかりません。<br />

    メアリー・カサット(1844-1926)

    母と子の絵といったらこの人、母性溢れる絵です。
    赤ちゃんのお尻をちょっと突っつきたくなります。

    ベルト・モリゾと共に3大女性印象派の一人と言われる。もう一人はわかりません。

  • メアリー・カサット(1844-1926)「母と子 指をしゃぶるアン」1897<br />

    メアリー・カサット(1844-1926)「母と子 指をしゃぶるアン」1897

  • メアリー・カサット(1844-1926)<br />

    メアリー・カサット(1844-1926)

  • 写真の数も多くなりましたので、後編に続けます。<br /><br /><br />昔のオルセー駅の名残を残す大時計。立っている女性の姿が素敵でしょう?

    写真の数も多くなりましたので、後編に続けます。


    昔のオルセー駅の名残を残す大時計。立っている女性の姿が素敵でしょう?

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この旅行記へのコメント (8)

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  • あの街からさん 2020/06/07 12:26:40
    リクエスト! もう歳だからと書くのは止めにしましょうよ(^ー^)
    ヒンメルさん こんにちは(^ー^) オルセーにやって来ました。
    ヒンメルさんが来てくれた時、ベルリン編に手をかけていた
    時でしたからヒンメルさんのベルリン編は自分が書き上げてから
    見ようと思い前回は、故意に他の旅行記を選んでみました。

    もちろん、どの旅行記も興味深々のタイトルが並んでいて
    ならばと、自分がとった手法?は
    最近シリーズの最初から訪ねた度に読み進めるこのにしました。

    オルセー
    自分にとってもパリを訪れる際のあらゆる目的のBest3から
    外れることのない大切なところです。
    今回ヒンメルさんの旅行記は
    特にオーギュスト・カイユボットの存在とオルセーとの逸話
    のところに興味をそそられ オルセーにとっては重要な人であった
    ことを知りました。

    それから、久しぶりに「ラトゥール」の名前を見つけ
    うれしくなりました。 自分は信者ではないのですが
    神父さんと知りあう機会がありその方のお名前が
    ラトゥールさんでした。彼が日本での務めを終え
    カナダにお帰りになる直前にもお会いする機会があり
    私(自分)が「近々LAに」と話したら「LAにいらしたら
    是非ゲティー美術館にいらして、ラトゥールの絵をご覧に
    なってください。」「数少ない現存する一枚が展示されています。」
    とお聞きしそれから注視する画家の一人となりました。
    ご存知とは思いますが、ベルリン・ルーブルにも所蔵されています。
    丁度ゲティー美術館に行く数日前でしたか上野の国立西洋美術館で
    「ラ・トゥール展」が開催されていて光の陰影が素晴らしい絵を
    初めて目にしました。
    先日「日曜美術館」でルーブル所蔵の「いかさま師」を紹介して
    いましたが この絵は自分的には( ̄O ̄;)かなぁ。

    偶然 最近はヒンメルさんとBさんのパリ美術館編 三昧で楽しんでいます。
    あの街

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2020/06/07 21:05:27
    RE: リクエスト!遅かった〜〜(^ー^)
    あの街さん、こんばんは。

    さっき新旅行記を投稿したあとにあの街さんからのコメントを拝見しました。
    遅かった〜〜。旅行記に、トシだー・トシだー・・って何度も書いてしまいました。( ;∀;)
    いつもはそう思わないのですが、このコロナ禍で失われた貴重な時間が悔しくて、ついついぼやきたくなってしまいます。
    でもこれからは気を付けます。

    朝、あの街さんの新旅行記を拝見して、驚きました。
    前回の旅行記からそんなに時間は経っていませんよね。なのにあんな完璧な旅行記を書いていらっしゃる・・・、凄い!としか言いようがない。
    その後の旅行記は書きにくかった〜〜、なんて思い乍ら一日中苦悩しておりました。

    今まであんまりあの街さんのところにお寄りしなかった(すみません、お互いに、ですね)せいもありますが、今回のダイジェスト版を拝見して、私が興味をそそられる旅行記をいっぱい出していらっしゃることに気が付きました。
    これからどういう順番であの街さんの旅行記を拝見するか・・・、なんて難しいことを考えなくても、その時々拝見したいものを拝見すれば間違いがない、という結論に達しました。ただ不器用ですから、そんなに多読(これも私の造語?)はできませんけど。
    あの街さんの旅行記は、むしろじっくり楽しみながら読ませていただくものだと思いました。

    それから私がさすがだな〜〜と思ったこと。
    やはりBさんの旅行記は素晴らしいですよね。私も前から尊敬している方だっただけに、我が意を得たり、と思ったものでした。

    オルセー美術館編を見てくださってありがとうございました。
    私は絵画は全くのシロート。でも見るのは大好きで、アチコチ行っています。
    それにヨーロッパでは写真撮影できるのは普通のことなので、これはとても嬉しいですね。写真を見ながらいろいろ調べられるんですもの。
    広く浅く調べて書いているだけの旅行記ですから、間違いなどありましたら教えてくださいね。

    やっぱりなんとなく女性の友人と話をしている感覚です(^^♪。

    himmel
  • kaoluさん 2019/12/04 15:12:51
    撮影解禁!
    こんにちは。

    frau.himmelさんも印象は大好きなんですね。私もです。
    再びオルセーも撮影可になったんですね。2009年に行ったときはOKだったのに、2014年にデュラン=リュエルの特別展に行ったときは、オルセー収蔵のものは撮影不可でした。(涙)
    ボケ老人としては、画像に収めておかないと何を見たかもわすれてしまいます。

    それにしても一つ一つ丁寧にご覧になっていて、その集中力に頭が下がります。
    動機が不純ですけれど、もう一度オルセーに行きたくなりました。

    続きが楽しみです。

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2019/12/06 11:48:42
    RE: 撮影解禁!
    kaoluさんこんにちは。
    コメントありがとうございます。

    実は私もオルセーは今回が4回目(旅行記には3回目と書いていますが)でして、いずれも随分前のことです。そのころは4トラで旅行記を発表することなんて考えてもいませんでしたので、写真撮影はそんなに重要ではなかった(笑)。
    たぶんあの頃も撮影OKだとは思うのですが、フィルム写真ですからそんなに撮れませんしね。

    最後が12〜3年前、その時はOKでした。
    そのころはデジカメですし、たくさん撮ったのですが、夫が間違って全て消してしまった・・・という苦い経験があります。

    やっぱり撮影OKはいいですね。その後いろいろ調べては、そうだったんだ〜〜・・なんて面白いエピソードが出てきたり・・・。

    >ボケ老人としては、画像に収めておかないと何を見たかもわすれてしまいます。

    何をおっしゃっていますか、ドイツを隈なく車で回っていらっしゃる若い方が・・(ドイツだけではありませんでしたね)。

    続きを早くアップしたいけど、なかなか進みません。今日一つアップできるかな〜。

    kaoluさんの旅行記ものちほど見せていただきますね。

    himmel
  • falcon38さん 2019/11/29 19:41:18
    ManetとMonet
    大変内容の濃い旅行記を、ありがとうございました。

    Manetは、新人Monetを「自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨した」そうですね。「これを機にモネは姓だけの署名をやめ、「クロード・モネ」というフルネームの署名をするようになった」とwikipediaに出ていました。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8D

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2019/11/29 22:19:17
    Re: ManetとMonet
    falcon38さん、こんばんは。
    コメントありがとうございました。

    >Manetは、新人Monetを「自分の名前を利用しようとする人物がいると誤解して憤慨した」そうですね。

    やはりそうなんですね。ネットでそんな文章を読んだのですが、モネとマネ、日本語は1字違いだけど、フランス語ではそんなことはないだろうと思っていました(笑)。
    では、モネが意図的に絵のサインをMonetとしかしなかったのか。

    でも何にしてもそれからはマネとモネ、大変親しく交流があったそうですから、良かった良かった。
    そんな裏の裏を深読みするのも面白いですね。

    また旅行記の方、寄らせていただきます。
    ありがとうございました。

    himmel
  • norisaさん 2019/11/29 16:52:48
    オルセー美術館!
    frau.himmelさん

    こんばんわ。
    お久しぶりです。

    いよいよ待望のオルセー美術館ですね!
    ここに行っていないのが心残りで、大きな美術館ではメトロポリタン、エルミタージュ、そしてここが残っています。
    やはり印象派の数々は眺めていて心安らぎますね。
    古典派でも立体派でも心がざわつきますが印象派は、良いですね。
    知らない画家でも安心して鑑賞できます。

    それにしてもカイユボットとルノワールがオルセー美術館に果たした役割。
    今さらながら彼らに感謝します。
    1,2年のうちにオルセー美術館に行けるといいのですがーー。

    今後ともよろしくお願いいたします。

    norisa

    frau.himmel

    frau.himmelさん からの返信 2019/11/29 21:47:36
    Re: オルセー美術館!
    norisaさんこんばんは。
    コメントありがとうございます。

    この度は不完全な旅行記をお見せして恥ずかしいです。出かける用事があったものですから、推敲もしないで、ぽちっと投稿してしまいました。

    オルセー美術館、やはりいいですね~~。
    今回撮った写真はあんなものではありませんので、またまた旅行記はどうなるのやら、恐怖です。

    私の旅先は偏っていますから、私はメトロポリタンにもエルミタージュにも行ったことはありません。Norisaさんは真っ直ぐだから(笑)いろんなところに行ってらっしゃいますね。
    私もメトロポリタン、エルミタージュ、行ってみた~~い。いつか行けるかしら。
    norisaさんは何度でもオルセーに行く機会はおありになりますよ。

    本当に、素晴らしい絵を鑑賞するっていいですね。
    ありがとうございました。

    himmel

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