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五箇山 菅沼合掌造り集落(後編)は、ライトアップとスカイランタン、越中八尾おわら風の盆のステージをお届けいたします。<br />ランタン(天燈)と言えば冬の風物詩として全国的に認知度が高いのが台湾や長崎のランタンフェスティバルです。それを五箇山で行いましょうと言うのが今回のツアーの趣向です。<br />「秋の日はつるべ落とし」と言うように日没後わずかな時間で夜を迎えますが、山深い五箇山ではそうした感覚が一層研ぎ澄まされます。<br />

情緒纏綿 越中富山紀行②五箇山 菅沼合掌造り集落(後編)

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2019/11/10 - 2019/11/11

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

五箇山 菅沼合掌造り集落(後編)は、ライトアップとスカイランタン、越中八尾おわら風の盆のステージをお届けいたします。
ランタン(天燈)と言えば冬の風物詩として全国的に認知度が高いのが台湾や長崎のランタンフェスティバルです。それを五箇山で行いましょうと言うのが今回のツアーの趣向です。
「秋の日はつるべ落とし」と言うように日没後わずかな時間で夜を迎えますが、山深い五箇山ではそうした感覚が一層研ぎ澄まされます。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線 JR特急
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
読売旅行
  • 菅沼合掌造り集落の周辺マップです。<br />https://suganuma.info/wp-content/uploads/2016/05/suganumamap.pdf

    菅沼合掌造り集落の周辺マップです。
    https://suganuma.info/wp-content/uploads/2016/05/suganumamap.pdf

  • 菅沼合掌造り集落<br />合掌造りが世界的に注目されるようになったのは、ドイツのモダニズム建築の巨匠 ブルーノ・タウト氏が『日本美の再発見』で合掌造りを「日本のゴシック様式」と称したのが発端です。<br />氏は、1933(昭和8)年から3年余り日本に滞在し、各地を巡って日本が誇るべき「美の再発見」に努めました。氏は、1935(昭和10)年に御母衣の遠山家を調査するために白川郷を訪れ、「この辺の風景は、もうまったく日本的ではない。少なくとも、私がこれまで一度も見たことの無い景色だ。これは、むしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ」と絶賛しました。<br />また、講演会『日本建築の基礎』では、「合掌造りは、建築学上その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独得の存在である」と解説しています。山間の田園風景の中に林立する4~5階建ビルの高さに匹敵する合掌造りは、氏の目には「日本離れした存在」と映ったことでしょう。<br />こうした評価が奏功し、合掌造り集落は世界中の人々の関心を集めるようになりました。その80年後の現在、合掌造り家屋の多くは無情にもダム湖の底に水没しましたが、氏が訪れた昭和時代初期には300棟あったそうですから、その眺めも壮観だったに違いありません。

    菅沼合掌造り集落
    合掌造りが世界的に注目されるようになったのは、ドイツのモダニズム建築の巨匠 ブルーノ・タウト氏が『日本美の再発見』で合掌造りを「日本のゴシック様式」と称したのが発端です。
    氏は、1933(昭和8)年から3年余り日本に滞在し、各地を巡って日本が誇るべき「美の再発見」に努めました。氏は、1935(昭和10)年に御母衣の遠山家を調査するために白川郷を訪れ、「この辺の風景は、もうまったく日本的ではない。少なくとも、私がこれまで一度も見たことの無い景色だ。これは、むしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ」と絶賛しました。
    また、講演会『日本建築の基礎』では、「合掌造りは、建築学上その構造が合理的であり論理的であるという点においては、日本全国を通じてまったく独得の存在である」と解説しています。山間の田園風景の中に林立する4~5階建ビルの高さに匹敵する合掌造りは、氏の目には「日本離れした存在」と映ったことでしょう。
    こうした評価が奏功し、合掌造り集落は世界中の人々の関心を集めるようになりました。その80年後の現在、合掌造り家屋の多くは無情にもダム湖の底に水没しましたが、氏が訪れた昭和時代初期には300棟あったそうですから、その眺めも壮観だったに違いありません。

  • 菅沼合掌造り集落<br />お食事処「吾郎平」(右)とお土産処「かっぱ」(左)<br />五箇山を代表する民謡『麦や節』の由来にも諸説あります。五箇山が「平家のかくれ里」であったことから平家落人が創ったとの説、平家の落武者 平紋弥が教えたことから『もんや節』をルーツとする説、五箇山民謡の恩人とされる「お小夜」が教えたとする説など、諸説紛々です。しかし、和紙作りや堅豆腐など都の文化が古くから入っていることなどから、平家落人説が有力とされます。<br />一方、旧上平村の菅沼集落と旧平村の相倉集落に共通する「平」という村名が連想させるのは、源氏の追手から身を隠す平家落人です。早々に刈り取られる麻に平氏の悲運を重ねたかのような「麻が刈らりょか 半土用に」などや「浪の屋島を遠くのがれきて、薪樵(たきぎか)るちょう深山辺(みやまべ)に 烏帽子狩衣脱ぎうちすてて、いまは越路の杣屋(そまや)かな」など歌詞の随所から、源氏との戦いに敗れ、五箇山に落ち延びた平家落人の素朴な農作業の情景と共に、刀を鍬に持ち替えた落武者たちの悲哀が漏れ聞こえます。

    菅沼合掌造り集落
    お食事処「吾郎平」(右)とお土産処「かっぱ」(左)
    五箇山を代表する民謡『麦や節』の由来にも諸説あります。五箇山が「平家のかくれ里」であったことから平家落人が創ったとの説、平家の落武者 平紋弥が教えたことから『もんや節』をルーツとする説、五箇山民謡の恩人とされる「お小夜」が教えたとする説など、諸説紛々です。しかし、和紙作りや堅豆腐など都の文化が古くから入っていることなどから、平家落人説が有力とされます。
    一方、旧上平村の菅沼集落と旧平村の相倉集落に共通する「平」という村名が連想させるのは、源氏の追手から身を隠す平家落人です。早々に刈り取られる麻に平氏の悲運を重ねたかのような「麻が刈らりょか 半土用に」などや「浪の屋島を遠くのがれきて、薪樵(たきぎか)るちょう深山辺(みやまべ)に 烏帽子狩衣脱ぎうちすてて、いまは越路の杣屋(そまや)かな」など歌詞の随所から、源氏との戦いに敗れ、五箇山に落ち延びた平家落人の素朴な農作業の情景と共に、刀を鍬に持ち替えた落武者たちの悲哀が漏れ聞こえます。

  • 菅沼合掌造り集落 一般民家(左)と喫茶「掌」(右)<br />「お小夜」について紹介しておきます。<br />その昔、五箇山小原に流刑されてきた「お小夜」という遊女がいました。五箇山にて29年間に亘る数奇な生涯を自ら閉じました。<br />お小夜は能登の貧農の家に生まれ、13歳で素麺屋へ奉公に出された。18歳で年季を終えて実家に戻ると、今度は金沢の遊女に売られてしまう。往時、遊郭の営業は認められておらず、雇い主は藩士と結託して密かに出会茶屋を経営していた。しかしそれが発覚したため、お小夜ら遊女も流罪と決まったが、流刑先が輪島であったため、お小夜だけは郷里に近いという理由から、五箇山小原への配流となった。お小夜が21歳の時でした。<br />五箇山では、監禁されることもなく、集落に出歩ける自由もあった。やがてお小夜は遊郭で習った歌や踊り、三味線などを村人に教えるようになる。村人も彼女の技芸に憧れ、そしてお小夜も集落に馴染んで暮らすようになった。<br />ある日、お小夜は村の若者 吉間と恋仲となった。しかし子を身籠もり、状況は一変する。流刑の身の者と集落の者が結婚することも、子をなすことも御法度であった。このままでは彼や村にも罰が及ぶと思い悩んだお小夜は、庄川へ身を投げたのである。<br />ふたりの逢瀬の場であった「女郎ヶ池」は『お小夜節』の歌詞にもあり、今でも女郎ヶ池では毎年「おさよ祭り」が開かれています。

    菅沼合掌造り集落 一般民家(左)と喫茶「掌」(右)
    「お小夜」について紹介しておきます。
    その昔、五箇山小原に流刑されてきた「お小夜」という遊女がいました。五箇山にて29年間に亘る数奇な生涯を自ら閉じました。
    お小夜は能登の貧農の家に生まれ、13歳で素麺屋へ奉公に出された。18歳で年季を終えて実家に戻ると、今度は金沢の遊女に売られてしまう。往時、遊郭の営業は認められておらず、雇い主は藩士と結託して密かに出会茶屋を経営していた。しかしそれが発覚したため、お小夜ら遊女も流罪と決まったが、流刑先が輪島であったため、お小夜だけは郷里に近いという理由から、五箇山小原への配流となった。お小夜が21歳の時でした。
    五箇山では、監禁されることもなく、集落に出歩ける自由もあった。やがてお小夜は遊郭で習った歌や踊り、三味線などを村人に教えるようになる。村人も彼女の技芸に憧れ、そしてお小夜も集落に馴染んで暮らすようになった。
    ある日、お小夜は村の若者 吉間と恋仲となった。しかし子を身籠もり、状況は一変する。流刑の身の者と集落の者が結婚することも、子をなすことも御法度であった。このままでは彼や村にも罰が及ぶと思い悩んだお小夜は、庄川へ身を投げたのである。
    ふたりの逢瀬の場であった「女郎ヶ池」は『お小夜節』の歌詞にもあり、今でも女郎ヶ池では毎年「おさよ祭り」が開かれています。

  • 菅沼合掌造り集落 お食事処「吾郎平」<br />民謡『といちんさ』の語源は、五箇山に生息する日本一小さい鳥「サイチン(みそさざい)」に由来します。水屋の樋の傍で遊ぶ様子を表現した「トイのサイチン」を縮めたものです。五箇山に春を告げるサイチンの鳴き声や動きが、唄のリズムや明るさに表れています。また、娘を持つ母親が、「自分の娘もこの小鳥のようにかいがいしく働く嫁になるように」と願いを込めた唄でもあります。<br />『といちんさ』」では、三味線や胡弓、笛、太鼓などを用いた賑やかな伴奏に合わせ、女性たちがモンペ姿で楽しそうに手踊りします。その姿はサイチンが飛び回る光景を彷彿とさせ、観客まで笑顔になれるそうです。

    菅沼合掌造り集落 お食事処「吾郎平」
    民謡『といちんさ』の語源は、五箇山に生息する日本一小さい鳥「サイチン(みそさざい)」に由来します。水屋の樋の傍で遊ぶ様子を表現した「トイのサイチン」を縮めたものです。五箇山に春を告げるサイチンの鳴き声や動きが、唄のリズムや明るさに表れています。また、娘を持つ母親が、「自分の娘もこの小鳥のようにかいがいしく働く嫁になるように」と願いを込めた唄でもあります。
    『といちんさ』」では、三味線や胡弓、笛、太鼓などを用いた賑やかな伴奏に合わせ、女性たちがモンペ姿で楽しそうに手踊りします。その姿はサイチンが飛び回る光景を彷彿とさせ、観客まで笑顔になれるそうです。

  • 菅沼合掌造り集落 お食事処「吾郎平」<br />60度もある急勾配のため、合掌造りの屋根に積もった雪は自然に落下するものと思っていましたが、実際には、雪の降り始めの頃と春暖かくなれば滑り落ちるものの、真冬は雪下しをするそうです。<br />屋根に上り、長い柄のコシケ(木鋤=除雪具)を使って棟に積もった雪を取り除くことから始めます。合掌造りの棟は1m程の巾があり、これをしないと棟に大きな重量の布団を被せた具合になるため、その布団を半分に割るのが棟割作業としての除雪です。

    菅沼合掌造り集落 お食事処「吾郎平」
    60度もある急勾配のため、合掌造りの屋根に積もった雪は自然に落下するものと思っていましたが、実際には、雪の降り始めの頃と春暖かくなれば滑り落ちるものの、真冬は雪下しをするそうです。
    屋根に上り、長い柄のコシケ(木鋤=除雪具)を使って棟に積もった雪を取り除くことから始めます。合掌造りの棟は1m程の巾があり、これをしないと棟に大きな重量の布団を被せた具合になるため、その布団を半分に割るのが棟割作業としての除雪です。

  • 菅沼合掌造り集落 お土産処「かっぱ」<br />軒先には唐辛子が干され、その下には子どもたちの遊具が置かれ、生活感が漂っています。<br />また、茅葺屋根の厚さも身近で実感することができます。

    菅沼合掌造り集落 お土産処「かっぱ」
    軒先には唐辛子が干され、その下には子どもたちの遊具が置かれ、生活感が漂っています。
    また、茅葺屋根の厚さも身近で実感することができます。

  • 菅沼合掌造り集落 お土産処「かっぱ」<br />かつて秘境と呼ばれた五箇山には民謡などの文化遺産と共に独自の食文化が継承されており、その代表が郷土料理「五箇山豆腐」です。水分が少なく、縄で縛っても崩れず、出来立てのチーズのような堅めの豆腐で、大豆本来の旨みと豆腐本来の姿を今に伝えています。<br />五箇山では、古来中国から伝承された堅豆腐 が伝統製法で作り続けられています。その堅さは、「寝る時に枕にした」や「つまづいて生爪を剥がした」などと比喩されるほどです。<br />実は奈良時代に中国から伝わった豆腐の原型が堅豆腐だそうです。その後、工夫を重ねて水分を潤沢に含んだ柔らかい木綿豆腐や絹ごし豆腐などが開発されましたが、五箇山ではオリジナルの堅豆腐が現代まで続いています。

    菅沼合掌造り集落 お土産処「かっぱ」
    かつて秘境と呼ばれた五箇山には民謡などの文化遺産と共に独自の食文化が継承されており、その代表が郷土料理「五箇山豆腐」です。水分が少なく、縄で縛っても崩れず、出来立てのチーズのような堅めの豆腐で、大豆本来の旨みと豆腐本来の姿を今に伝えています。
    五箇山では、古来中国から伝承された堅豆腐 が伝統製法で作り続けられています。その堅さは、「寝る時に枕にした」や「つまづいて生爪を剥がした」などと比喩されるほどです。
    実は奈良時代に中国から伝わった豆腐の原型が堅豆腐だそうです。その後、工夫を重ねて水分を潤沢に含んだ柔らかい木綿豆腐や絹ごし豆腐などが開発されましたが、五箇山ではオリジナルの堅豆腐が現代まで続いています。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />何故これぼど山深い五箇山に中国伝来の都の文化が伝わったのか不思議です。この謎を解くには五箇山に伝わる伝説を紐解く必要があります。それが「平家伝説」を謡ったとされる民謡『麦や節』です。<br />「浪の屋島を遠くのがれきて、薪樵(たきぎか)るちょう深山辺(みやまべ)に、烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)脱ぎうちすてて、いまは越路の杣屋(そまや)かな」。<br />平家落人が刀を鍬や鎌に持ち替えて麦を刈る時に歌ったと伝えられます。平家は倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲軍に敗れ、その折に平家落人が安住の地を求めて五箇山の地に住みついたと伝わり、「堅豆腐」はその平家落人が伝えたといいます。

    菅沼合掌造り集落
    何故これぼど山深い五箇山に中国伝来の都の文化が伝わったのか不思議です。この謎を解くには五箇山に伝わる伝説を紐解く必要があります。それが「平家伝説」を謡ったとされる民謡『麦や節』です。
    「浪の屋島を遠くのがれきて、薪樵(たきぎか)るちょう深山辺(みやまべ)に、烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)脱ぎうちすてて、いまは越路の杣屋(そまや)かな」。
    平家落人が刀を鍬や鎌に持ち替えて麦を刈る時に歌ったと伝えられます。平家は倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲軍に敗れ、その折に平家落人が安住の地を求めて五箇山の地に住みついたと伝わり、「堅豆腐」はその平家落人が伝えたといいます。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />しかし、その後、時代を経て街道も通り、新しい都の文化が五箇山にも伝わったはずです。それでもなお、堅豆腐に拘った理由は何だったのでしょうか?<br />その訳は、交通が不便な五箇山では豆腐を持ち運ぶのに荒縄で縛って運んでいたためです。また、日持ちが良い堅豆腐は、貴重なタンパク源として重宝されてきました。つまり、土地柄にジャストミートしていた訳です。<br />因みに、堅豆腐は煮くずれし難く、「ホンコサマ」と呼ばれる親鸞を偲んで催される仏事「報恩講」などの法要や祭りの料理には欠かせない食材だそうです。

    菅沼合掌造り集落
    しかし、その後、時代を経て街道も通り、新しい都の文化が五箇山にも伝わったはずです。それでもなお、堅豆腐に拘った理由は何だったのでしょうか?
    その訳は、交通が不便な五箇山では豆腐を持ち運ぶのに荒縄で縛って運んでいたためです。また、日持ちが良い堅豆腐は、貴重なタンパク源として重宝されてきました。つまり、土地柄にジャストミートしていた訳です。
    因みに、堅豆腐は煮くずれし難く、「ホンコサマ」と呼ばれる親鸞を偲んで催される仏事「報恩講」などの法要や祭りの料理には欠かせない食材だそうです。

  • 菅沼合掌造り集落 五箇山民俗館<br />民俗館に向かって左手前には「国指定史跡 越中五箇山菅沼集落」の石碑があります。<br />集落内が意外に明るく開放的に感じられるのは、家屋と家屋の間隔が広いからでしょうか…。

    菅沼合掌造り集落 五箇山民俗館
    民俗館に向かって左手前には「国指定史跡 越中五箇山菅沼集落」の石碑があります。
    集落内が意外に明るく開放的に感じられるのは、家屋と家屋の間隔が広いからでしょうか…。

  • 菅沼合掌造り集落 お食事処「かっぱ」<br />妻側と平側に小屋根が設けられており、一見、2階建て家屋にも見えます。平側の小屋根は店舗用の増設とも考えられますが、他の合掌造りとは趣が異なります。

    菅沼合掌造り集落 お食事処「かっぱ」
    妻側と平側に小屋根が設けられており、一見、2階建て家屋にも見えます。平側の小屋根は店舗用の増設とも考えられますが、他の合掌造りとは趣が異なります。

  • 菅沼合掌造り集落 一般民家<br />合掌造りの代表的な間取りについて紹介をしておきます。<br />囲炉裏が切られた居間的な空間を「オエ」と言い、現在で言えばリビングルームであり、暖をとり、炊事や作業をする場です。<br />仏間は「オマエ」と言い神聖な場です。<br />「チョウダ」はナンドともいい、家長の寝室として使われ、きつくつらい作業を終えてすぐに寝られるように万年床だったそうです。「チョウダ」へ出入りする部分を「帳台構え」と言い、床より5寸上がりの片引き板戸になっています。 <br />「ニワ(土間)」は牛馬を飼う厩と炊事場の空間で、紙漉きや脱穀、風呂場、ミージャと言う流し場があります。<br />「マヤ」は農耕用牛馬を飼うコーナーであり、厩肥を得るためのものです。間取りの形態は田の字型の整形の間取りです。

    菅沼合掌造り集落 一般民家
    合掌造りの代表的な間取りについて紹介をしておきます。
    囲炉裏が切られた居間的な空間を「オエ」と言い、現在で言えばリビングルームであり、暖をとり、炊事や作業をする場です。
    仏間は「オマエ」と言い神聖な場です。
    「チョウダ」はナンドともいい、家長の寝室として使われ、きつくつらい作業を終えてすぐに寝られるように万年床だったそうです。「チョウダ」へ出入りする部分を「帳台構え」と言い、床より5寸上がりの片引き板戸になっています。
    「ニワ(土間)」は牛馬を飼う厩と炊事場の空間で、紙漉きや脱穀、風呂場、ミージャと言う流し場があります。
    「マヤ」は農耕用牛馬を飼うコーナーであり、厩肥を得るためのものです。間取りの形態は田の字型の整形の間取りです。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />お土産・お食事処「与八」もライトアップすると別物に変身します。<br />妻入玄関の小屋根が茅葺で無いため、合掌造り本来の切妻造りに近い形になっています。白川郷合掌造り家屋は典型的な切妻造りのため「男造り」と言われますが、美山で見られるような入母屋造りの合掌造り家屋は「女造り」と言われます。こうしたカテゴライズから言えば、菅沼合掌造り家屋は「Xジェンダー」と言えるのかもしれません。

    菅沼合掌造り集落
    お土産・お食事処「与八」もライトアップすると別物に変身します。
    妻入玄関の小屋根が茅葺で無いため、合掌造り本来の切妻造りに近い形になっています。白川郷合掌造り家屋は典型的な切妻造りのため「男造り」と言われますが、美山で見られるような入母屋造りの合掌造り家屋は「女造り」と言われます。こうしたカテゴライズから言えば、菅沼合掌造り家屋は「Xジェンダー」と言えるのかもしれません。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />これで集落をグルリと一周したことになります。

    菅沼合掌造り集落
    これで集落をグルリと一周したことになります。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />撮影に夢中になっていると、いつの間にか薄暗くなってきました。<br />「秋の日はつるべ落とし」と言いますが、この時期は日没後わずか1時間半程で真っ暗になります。それに対し、6月は薄明の継続時間が最も長く、日沈から約2時間かけてゆっくりと暗くなっていきます。実際には30分強の差しかないのですが、この差が急に暗くなったという感覚を助長させているそうです。

    菅沼合掌造り集落
    撮影に夢中になっていると、いつの間にか薄暗くなってきました。
    「秋の日はつるべ落とし」と言いますが、この時期は日没後わずか1時間半程で真っ暗になります。それに対し、6月は薄明の継続時間が最も長く、日沈から約2時間かけてゆっくりと暗くなっていきます。実際には30分強の差しかないのですが、この差が急に暗くなったという感覚を助長させているそうです。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />再び国道156号から集落を展望できるスポットに足を運びます。<br />周りには三脚隊がずらりと並んでいますが、一言声を掛ければ割り込ませていただけます。国道沿いの樹木が景観を阻害し、展望スポットが限定されるのがネックです。

    菅沼合掌造り集落
    再び国道156号から集落を展望できるスポットに足を運びます。
    周りには三脚隊がずらりと並んでいますが、一言声を掛ければ割り込ませていただけます。国道沿いの樹木が景観を阻害し、展望スポットが限定されるのがネックです。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />冬季以外にもライトアップがなされているとの情報を知らず、三脚を観光バスのトランクルームに預けてしまったことを悔やみます。(Y社の特別企画だったのかもしれません。)50基の照明でライトアップされているそうです。<br />こうした場合には、手ブレを生じないようにISO感度を上げてシャッタースピードを早くして対応するしかありません。手持ちかつ望遠であることを踏まえると1/60秒以上が欲しい所ですが、贅沢は言えません。

    菅沼合掌造り集落
    冬季以外にもライトアップがなされているとの情報を知らず、三脚を観光バスのトランクルームに預けてしまったことを悔やみます。(Y社の特別企画だったのかもしれません。)50基の照明でライトアップされているそうです。
    こうした場合には、手ブレを生じないようにISO感度を上げてシャッタースピードを早くして対応するしかありません。手持ちかつ望遠であることを踏まえると1/60秒以上が欲しい所ですが、贅沢は言えません。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />「山深き地に鎮まる合掌造り家屋」というイメージが上手く表現できた画像です。<br />互いに身を寄せ合う姿が、ある種のノスタルジーを誘います。

    菅沼合掌造り集落
    「山深き地に鎮まる合掌造り家屋」というイメージが上手く表現できた画像です。
    互いに身を寄せ合う姿が、ある種のノスタルジーを誘います。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />暗い場所を望遠で撮影する場合は、手ブレが生じ易いため、手持ち撮影するにはそれなりの工夫が求められます。<br />この画像のメタデータはISO6400、絞り値F/5(ほぼ解放)、シャッタースピード1/6秒ですが、歩道脇にある柵のポールの上にカメラを保持し、手ブレを防いでいます。ポールの頂点は球形のためカメラを安定させることはできませんが、これだけの所作で通常の手持ちに比べれば何倍もの威力を発揮します。

    菅沼合掌造り集落
    暗い場所を望遠で撮影する場合は、手ブレが生じ易いため、手持ち撮影するにはそれなりの工夫が求められます。
    この画像のメタデータはISO6400、絞り値F/5(ほぼ解放)、シャッタースピード1/6秒ですが、歩道脇にある柵のポールの上にカメラを保持し、手ブレを防いでいます。ポールの頂点は球形のためカメラを安定させることはできませんが、これだけの所作で通常の手持ちに比べれば何倍もの威力を発揮します。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />シャッターを押す時にブレることも多々あり、奥義としてはセルフタイマーを併用することもお勧めです。(今回はセルフタイマー未使用)<br />ISO感度を高めるとノイズが目立つようになりますが、画像を拡大して見ることがなければ特にこだわる必要はないと思います。(カメラ機能によりISO感度に伴うノイズレベルは異なるため、事前に確認されることをお勧めいたします。)

    菅沼合掌造り集落
    シャッターを押す時にブレることも多々あり、奥義としてはセルフタイマーを併用することもお勧めです。(今回はセルフタイマー未使用)
    ISO感度を高めるとノイズが目立つようになりますが、画像を拡大して見ることがなければ特にこだわる必要はないと思います。(カメラ機能によりISO感度に伴うノイズレベルは異なるため、事前に確認されることをお勧めいたします。)

  • 菅沼合掌造り集落 <br />ライトアップされた様子は、まるでジオラマでも見ているような不思議な感覚にさせられます。<br />

    菅沼合掌造り集落
    ライトアップされた様子は、まるでジオラマでも見ているような不思議な感覚にさせられます。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />借景となる山のシルエットがアクセントになります。

    菅沼合掌造り集落
    借景となる山のシルエットがアクセントになります。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />溜め池に映り込んだ「塩硝の館」。<br />

    菅沼合掌造り集落
    溜め池に映り込んだ「塩硝の館」。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />一般民家もライトアップされているのには驚かされます。<br />

    菅沼合掌造り集落
    一般民家もライトアップされているのには驚かされます。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />お食事処「吾郎平」(右)とお土産処「かっぱ」

    菅沼合掌造り集落
    お食事処「吾郎平」(右)とお土産処「かっぱ」

  • 菅沼合掌造り集落 五箇山民俗館<br />朧月夜に背中を照らされながら、18時からのスカイランタンに向けて菅沼集落を後にします。<br />

    菅沼合掌造り集落 五箇山民俗館
    朧月夜に背中を照らされながら、18時からのスカイランタンに向けて菅沼集落を後にします。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里<br />遊歩道トンネルを抜けて五箇山側駐車場まで戻ってまいりました。<br />高台にある休憩所ではすでにランタンが宙を舞っています。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里
    遊歩道トンネルを抜けて五箇山側駐車場まで戻ってまいりました。
    高台にある休憩所ではすでにランタンが宙を舞っています。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里<br />アトラクションのスカイランタンはY社の特別企画で、北は北海道、南は福岡県から600名が大型バス16台で五箇山に乗り付けました。2人に1個のランタン(天燈)が配布されていますので、合計300個のランタンが夜空に舞います。<br />ランタンは、チャイニーズ・ランタンと呼ばれる紙で出来た熱気球のようなものです。ヘリウム入りの風船と電池付きのLEDを五箇山和紙で覆っています。また、糸と重りが繋がれており、回収できる仕組みです。本来はロウソクを使うそうですが、なんせ世界遺産ですので火気厳禁です。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里
    アトラクションのスカイランタンはY社の特別企画で、北は北海道、南は福岡県から600名が大型バス16台で五箇山に乗り付けました。2人に1個のランタン(天燈)が配布されていますので、合計300個のランタンが夜空に舞います。
    ランタンは、チャイニーズ・ランタンと呼ばれる紙で出来た熱気球のようなものです。ヘリウム入りの風船と電池付きのLEDを五箇山和紙で覆っています。また、糸と重りが繋がれており、回収できる仕組みです。本来はロウソクを使うそうですが、なんせ世界遺産ですので火気厳禁です。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里<br />台湾の平渓におけるランタン(天燈)の由来で一番有力な説が次のようなものです。<br />17世紀中頃、明の末から清の初頭、中国から大勢の漢民族が台湾へやってきた時代のお話です。往時この地は頻繁に盗賊が来襲し、村人たちはその度に山中への避難を余儀なくされました。そんな折、一人の若者が勇敢にも村に残って盗賊と戦い、見事に撃退しました。そして「安全だから帰っておいで」と避難した人々に知らせるため、目印となるランタンを飛ばしたのがはじまりというものです。<br />その後、「幸福」や「家内安全」などの祈願へと意味合いを変え、現代まで連綿と続けられてきました。<br />ランタン発祥の頃の人々へ思いを馳せれば、余興のランタンもまた違って見えてくるものです。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里
    台湾の平渓におけるランタン(天燈)の由来で一番有力な説が次のようなものです。
    17世紀中頃、明の末から清の初頭、中国から大勢の漢民族が台湾へやってきた時代のお話です。往時この地は頻繁に盗賊が来襲し、村人たちはその度に山中への避難を余儀なくされました。そんな折、一人の若者が勇敢にも村に残って盗賊と戦い、見事に撃退しました。そして「安全だから帰っておいで」と避難した人々に知らせるため、目印となるランタンを飛ばしたのがはじまりというものです。
    その後、「幸福」や「家内安全」などの祈願へと意味合いを変え、現代まで連綿と続けられてきました。
    ランタン発祥の頃の人々へ思いを馳せれば、余興のランタンもまた違って見えてくるものです。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里<br />すっかり夜の帳が降りた18時、カウントダウンにより600人分の願いごとが一斉に夜空へと飛び立ちます。<br />中国での起源説としては、「三国時代の諸葛亮(孔明)が軍の通信手段として発明した」や「孔明の帽子に形が似ているから」というものがあり、別名「孔明燈」とも言われます。<br />戦況を早く伝えるため熱気による上昇原理を利用してランタンを空中に浮かべたとされ、偽りの「星象(古代の占いに使われていた星周り)」情報を捏造し、司馬懿の大軍を出し抜いたと伝わります。<br />淡い光を放ちながら夜空に吸い込まれていくランタンはとても優美かつ幻想的で圧巻です。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里
    すっかり夜の帳が降りた18時、カウントダウンにより600人分の願いごとが一斉に夜空へと飛び立ちます。
    中国での起源説としては、「三国時代の諸葛亮(孔明)が軍の通信手段として発明した」や「孔明の帽子に形が似ているから」というものがあり、別名「孔明燈」とも言われます。
    戦況を早く伝えるため熱気による上昇原理を利用してランタンを空中に浮かべたとされ、偽りの「星象(古代の占いに使われていた星周り)」情報を捏造し、司馬懿の大軍を出し抜いたと伝わります。
    淡い光を放ちながら夜空に吸い込まれていくランタンはとても優美かつ幻想的で圧巻です。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里<br />東海北陸自動車道から浮遊するランタンを見られた方は、何事かと目を丸くされたことでしょうね!わき見運転事故の原因にならなければいいのですが…。自らの幸福祈願のために他人の不幸を招いてはシャレになりませんから…。<br />ランタンと言えば赤色のイメージが強いのですが、正式には願いごとにより使う色が異なるそうです。<br />赤は健康・安全運を願うもの、黄色は金銭運アップ、青は仕事運を得るもの、紫色は勉強運・合格祈願だそうです。<br />また、恋愛運や良縁祈願にはピンクを使うそうです。<br />今回は願いごとを紙に書き、それをランタンに貼り付けて飛ばしました。<br />願いごとがゆっくりと天高く舞い上がる姿を見ていると、天の神様が願いを叶えてくれるような神秘的な気持ちになってくるから不思議です。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里
    東海北陸自動車道から浮遊するランタンを見られた方は、何事かと目を丸くされたことでしょうね!わき見運転事故の原因にならなければいいのですが…。自らの幸福祈願のために他人の不幸を招いてはシャレになりませんから…。
    ランタンと言えば赤色のイメージが強いのですが、正式には願いごとにより使う色が異なるそうです。
    赤は健康・安全運を願うもの、黄色は金銭運アップ、青は仕事運を得るもの、紫色は勉強運・合格祈願だそうです。
    また、恋愛運や良縁祈願にはピンクを使うそうです。
    今回は願いごとを紙に書き、それをランタンに貼り付けて飛ばしました。
    願いごとがゆっくりと天高く舞い上がる姿を見ていると、天の神様が願いを叶えてくれるような神秘的な気持ちになってくるから不思議です。

  • 越中八尾(やつお)おわら風の盆 (かぜのぼん)<br />「合掌の里」にある五箇山側駐車場の一画に設えられた野外ステージで、「おわら保存会」の方々の唄・演奏と踊りを拝見し、「風の盆」の雰囲気を味わいました。<br />毎年9月1~3日にかけて八尾町一帯で繰り広げられる富山県を代表する郷土芸能です。『おわら節』の哀愁に満ちた旋律に合わせ、町の道筋で無言の踊り手たちが「おわら踊り」を披露します。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀愁が漂う音色を奏でる胡弓の調べが相俟って観衆を魅了します。<br />八尾町は飛騨と越中の交易の中継点であり、地場産業の養蚕や和紙の取引を中心に商人の町として栄えました。今も残る古民家に往時の繁栄ぶりが窺えますが、曳山祭りや風の盆の風情を大切にする住民の意識の高さが格子や白壁の町並みを守り続ける原動力のようです。

    越中八尾(やつお)おわら風の盆 (かぜのぼん)
    「合掌の里」にある五箇山側駐車場の一画に設えられた野外ステージで、「おわら保存会」の方々の唄・演奏と踊りを拝見し、「風の盆」の雰囲気を味わいました。
    毎年9月1~3日にかけて八尾町一帯で繰り広げられる富山県を代表する郷土芸能です。『おわら節』の哀愁に満ちた旋律に合わせ、町の道筋で無言の踊り手たちが「おわら踊り」を披露します。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀愁が漂う音色を奏でる胡弓の調べが相俟って観衆を魅了します。
    八尾町は飛騨と越中の交易の中継点であり、地場産業の養蚕や和紙の取引を中心に商人の町として栄えました。今も残る古民家に往時の繁栄ぶりが窺えますが、曳山祭りや風の盆の風情を大切にする住民の意識の高さが格子や白壁の町並みを守り続ける原動力のようです。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />発祥当初の唄や踊りを忠実に引き継いだものではなく、「おわら踊り」と『おわら節』を基軸に時代毎に風土などと結び付きながら洗練され、現在に至ります。<br />『おわら節』の特徴は、弓奏弦楽器「胡弓」が奏でる旋律です。唄と楽器が溶け合うように奏でられ、その艶やかで情緒的な音色は哀愁を誘います。元々は使われていなかった楽器でしたが、大正時代初期に胡弓の名手で「越中最後の瞽女」と呼ばれた佐藤千代が八尾にもたらしたと伝わります。

    越中八尾おわら風の盆
    発祥当初の唄や踊りを忠実に引き継いだものではなく、「おわら踊り」と『おわら節』を基軸に時代毎に風土などと結び付きながら洗練され、現在に至ります。
    『おわら節』の特徴は、弓奏弦楽器「胡弓」が奏でる旋律です。唄と楽器が溶け合うように奏でられ、その艶やかで情緒的な音色は哀愁を誘います。元々は使われていなかった楽器でしたが、大正時代初期に胡弓の名手で「越中最後の瞽女」と呼ばれた佐藤千代が八尾にもたらしたと伝わります。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />1909年刊行の『越中婦負郡志』によると、おわら風の盆の歴史は1702(元禄15)年に遡るものの、起源は不詳です。加賀藩から下された『町建御墨付文書』を八尾の町衆が町の開祖 米屋少兵衛家所有から取り戻したお祝いに、3日3晩、歌舞音曲の無礼講で町を練り歩いたのが始まりとされます。突然民衆が練り歩くというのは理解に苦しむため、元々八尾には時宗の踊り念仏信仰が根付いており、それに触発されたとも考えられます。<br />元々は春季のお祭りでしたが、次第に孟蘭盆会でも練り廻るようになり、やがて210日の風の厄日(雨が降り易く、台風も多い時期)に収穫前の稲が被害に遭わないよう風神鎮魂を願う「風の盆」という祭りへ遷移しました。 2006年には「とやまの文化財百選」に選ばれています。

    越中八尾おわら風の盆
    1909年刊行の『越中婦負郡志』によると、おわら風の盆の歴史は1702(元禄15)年に遡るものの、起源は不詳です。加賀藩から下された『町建御墨付文書』を八尾の町衆が町の開祖 米屋少兵衛家所有から取り戻したお祝いに、3日3晩、歌舞音曲の無礼講で町を練り歩いたのが始まりとされます。突然民衆が練り歩くというのは理解に苦しむため、元々八尾には時宗の踊り念仏信仰が根付いており、それに触発されたとも考えられます。
    元々は春季のお祭りでしたが、次第に孟蘭盆会でも練り廻るようになり、やがて210日の風の厄日(雨が降り易く、台風も多い時期)に収穫前の稲が被害に遭わないよう風神鎮魂を願う「風の盆」という祭りへ遷移しました。 2006年には「とやまの文化財百選」に選ばれています。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />「おわら踊り」には「豊年踊り(旧踊り)」「男踊り」「女踊り」の3通りあり、編み笠を被って男女が踊る姿にはうっとりさせられます。町流しや輪踊りが主体なのが「豊年踊り」、舞踊的な踊りで主にステージなどで披露されるのが「男踊り」と「女踊り」です。<br />男性が「法被」姿なのは、農作業衣を象っているからです。それでも、勇壮な踊りに見合うように羽二重で作られた贅沢な衣装となっています。

    越中八尾おわら風の盆
    「おわら踊り」には「豊年踊り(旧踊り)」「男踊り」「女踊り」の3通りあり、編み笠を被って男女が踊る姿にはうっとりさせられます。町流しや輪踊りが主体なのが「豊年踊り」、舞踊的な踊りで主にステージなどで披露されるのが「男踊り」と「女踊り」です。
    男性が「法被」姿なのは、農作業衣を象っているからです。それでも、勇壮な踊りに見合うように羽二重で作られた贅沢な衣装となっています。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />男踊りは、舞台用に振り付けられた「かかし踊り」とも言われる勇壮な踊りです。<br />日本舞踊家の若柳吉三郎氏によって振り付けられ、素直で素朴な力強さの中にしなやかさを持つ反面、農作業の所作を手や指先の動きで表現する繊細さも兼ね備えています。

    越中八尾おわら風の盆
    男踊りは、舞台用に振り付けられた「かかし踊り」とも言われる勇壮な踊りです。
    日本舞踊家の若柳吉三郎氏によって振り付けられ、素直で素朴な力強さの中にしなやかさを持つ反面、農作業の所作を手や指先の動きで表現する繊細さも兼ね備えています。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />「おわら」という言葉の起源には諸説あり、芸達者が唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差し挟んで踊ったからとか、その年の豊作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたと言う「小原村」説などがあります。 <br />

    越中八尾おわら風の盆
    「おわら」という言葉の起源には諸説あり、芸達者が唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差し挟んで踊ったからとか、その年の豊作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたと言う「小原村」説などがあります。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />「風の盆」の由来についても、風鎮祭からとも、お盆行事からとも言われますが、明確なことは不詳です。立山連峰を越えて日本海から八尾へ吹き下ろす強い風は「ダシ」と呼ばれ、稲作に害をもたらしました。このため、風神を祀り風除けを祈願する「風の宮」という風習がありました。一方、9月を「盆」と言うのは違和感があります。これは、富山では休日を「ボン(盆日)」と言い、古くから「種まき盆」「植え付け盆」「雨降り盆」などの習わしがあることで説明できます。<br />つまり、「風の盆」の由来は、八尾独特の地理風土にまつわる「風」と「盆」が合体したものと思われます。

    越中八尾おわら風の盆
    「風の盆」の由来についても、風鎮祭からとも、お盆行事からとも言われますが、明確なことは不詳です。立山連峰を越えて日本海から八尾へ吹き下ろす強い風は「ダシ」と呼ばれ、稲作に害をもたらしました。このため、風神を祀り風除けを祈願する「風の宮」という風習がありました。一方、9月を「盆」と言うのは違和感があります。これは、富山では休日を「ボン(盆日)」と言い、古くから「種まき盆」「植え付け盆」「雨降り盆」などの習わしがあることで説明できます。
    つまり、「風の盆」の由来は、八尾独特の地理風土にまつわる「風」と「盆」が合体したものと思われます。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />編み笠を目深に被り、顔を見せない仕草も艶っぽさを演出しています。これは、風の盆の町廻りが始まった頃、気恥ずかしさから手ぬぐいで顔を隠して踊った名残とされます。それが時代を重ね、編み笠になったそうです。

    越中八尾おわら風の盆
    編み笠を目深に被り、顔を見せない仕草も艶っぽさを演出しています。これは、風の盆の町廻りが始まった頃、気恥ずかしさから手ぬぐいで顔を隠して踊った名残とされます。それが時代を重ね、編み笠になったそうです。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />女踊りも舞台用として振り付けられた踊りです。こちらも手や足の動きが複雑で、見様見真似で踊れるものではありません。また、「四季踊り」とも言われるように、四季折々に異なった所作があるそうです。<br />画家であり俳人でもあった小杉放庵が八尾の春夏秋冬を詠った「八尾四季」のために振り付けたのが最初とされ、その後、夏の河原で女性が蛍取りに興じる姿を表した一連の女踊りとして完成を見ました。<br />振り付けは、男踊りと同じく若柳吉三郎氏の手になり、日舞の艶めきがあります。

    越中八尾おわら風の盆
    女踊りも舞台用として振り付けられた踊りです。こちらも手や足の動きが複雑で、見様見真似で踊れるものではありません。また、「四季踊り」とも言われるように、四季折々に異なった所作があるそうです。
    画家であり俳人でもあった小杉放庵が八尾の春夏秋冬を詠った「八尾四季」のために振り付けたのが最初とされ、その後、夏の河原で女性が蛍取りに興じる姿を表した一連の女踊りとして完成を見ました。
    振り付けは、男踊りと同じく若柳吉三郎氏の手になり、日舞の艶めきがあります。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />女性の帯が「黒帯」姿なのは、衣装を揃える際に帯まで手が回らず、誰もが持つ冠婚葬祭用の黒帯を用いた名残とされます。

    越中八尾おわら風の盆
    女性の帯が「黒帯」姿なのは、衣装を揃える際に帯まで手が回らず、誰もが持つ冠婚葬祭用の黒帯を用いた名残とされます。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />民謡研究者は、おわら節は「ハイヤ節」系の歌であり、日本海を中心に海のルートで広まってきたものと考えています。<br />囃子詞(はやしことば)の分布に着目した佐藤文夫氏の研究によると、<br />・キタサノサーアー ドッコイサノサッサ(富山:越中おわら節)  <br />・キッタカサッサ トコ ドッコイ ドッコイ ドッコイナ (秋田:秋田音頭→西馬音内盆踊り等)<br />・キタサノサー コラサノサー ドッコイショ(秋田:生保内節)<br />など、類似したかけ声系の囃子詞が日本海に沿って分布しているのが窺えます。

    越中八尾おわら風の盆
    民謡研究者は、おわら節は「ハイヤ節」系の歌であり、日本海を中心に海のルートで広まってきたものと考えています。
    囃子詞(はやしことば)の分布に着目した佐藤文夫氏の研究によると、
    ・キタサノサーアー ドッコイサノサッサ(富山:越中おわら節)   
    ・キッタカサッサ トコ ドッコイ ドッコイ ドッコイナ (秋田:秋田音頭→西馬音内盆踊り等)
    ・キタサノサー コラサノサー ドッコイショ(秋田:生保内節)
    など、類似したかけ声系の囃子詞が日本海に沿って分布しているのが窺えます。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />「おわら風の盆」の歴史については、産業史の視点から八尾に花開した生糸産業が育てたという仮説があります。江戸時代末期~明治時代初頭にかけて、八尾は生糸繭の産地として名を馳せていました。こうした産業の発展に伴う町方文化の発達が、「おわら」を花開かせたとの説です。良質な繭で名を馳せ、富山藩唯一の生糸交易市場であった八尾で、盆に三味線・太鼓・胡弓に合わせておわら(女たち)が唄いながら町中を練り歩いたて育てたとの考え方には説得力があります。<br />実は製糸産業は「風」と深く関わる産業で、生糸産地の多くは、強い風が吹く場所との共通点があります。これは、蚕を育てる部屋を快適な環境に保つため、風通しを良くする必要があったためです。また、桑に付いた害虫を吹き飛ばすのも強風でした。<br />つまり、近世初期には風害を恐れた農民による「風鎮め」の念仏踊りが踊られ、近世後期から明治時代にかけては「風」のおかげで盛んになった生糸産業の町人たちが「おわら」文化を開花させたとの考え方です。

    越中八尾おわら風の盆
    「おわら風の盆」の歴史については、産業史の視点から八尾に花開した生糸産業が育てたという仮説があります。江戸時代末期~明治時代初頭にかけて、八尾は生糸繭の産地として名を馳せていました。こうした産業の発展に伴う町方文化の発達が、「おわら」を花開かせたとの説です。良質な繭で名を馳せ、富山藩唯一の生糸交易市場であった八尾で、盆に三味線・太鼓・胡弓に合わせておわら(女たち)が唄いながら町中を練り歩いたて育てたとの考え方には説得力があります。
    実は製糸産業は「風」と深く関わる産業で、生糸産地の多くは、強い風が吹く場所との共通点があります。これは、蚕を育てる部屋を快適な環境に保つため、風通しを良くする必要があったためです。また、桑に付いた害虫を吹き飛ばすのも強風でした。
    つまり、近世初期には風害を恐れた農民による「風鎮め」の念仏踊りが踊られ、近世後期から明治時代にかけては「風」のおかげで盛んになった生糸産業の町人たちが「おわら」文化を開花させたとの考え方です。

  • 越中八尾おわら風の盆<br />踊りの時期の理由についても、諸説あります。生糸産業に着目すると、長野や和歌山県の養蚕地域でも、繁忙期がお盆と重なるため、お盆の時期を八朔にずらす風習があります。盆踊りの延長ないしは最終日として「踊り納め」とする地方もありますが、「風鎮め」「風祭り」などの位置付けで踊る所もあります。<br />一方、「真宗王国 富山」に着目すると、浄土真宗の影響により、踊り時期を違えたとの仮説が考えられます。真宗は「雑行雑修」を厳しく排したため、真宗地帯では民俗芸能や民間信仰への参加が制限されました。中でも「盆踊り」は、成仏したはずの祖霊が戻るという仏説に反する風俗であり、厳しく抑圧されました。この取り締まりを逃れるため、あえてお盆の時期を避け、新興芸能と擬装して盆踊りを続けたとも考えられます。抑圧刺さればされるだけ、エネルギーを発散させる場を求めるのが人の性ですから…。<br /><br />この続きは、情緒纏綿 越中富山紀行③富岩運河環水公園でお届けします。

    越中八尾おわら風の盆
    踊りの時期の理由についても、諸説あります。生糸産業に着目すると、長野や和歌山県の養蚕地域でも、繁忙期がお盆と重なるため、お盆の時期を八朔にずらす風習があります。盆踊りの延長ないしは最終日として「踊り納め」とする地方もありますが、「風鎮め」「風祭り」などの位置付けで踊る所もあります。
    一方、「真宗王国 富山」に着目すると、浄土真宗の影響により、踊り時期を違えたとの仮説が考えられます。真宗は「雑行雑修」を厳しく排したため、真宗地帯では民俗芸能や民間信仰への参加が制限されました。中でも「盆踊り」は、成仏したはずの祖霊が戻るという仏説に反する風俗であり、厳しく抑圧されました。この取り締まりを逃れるため、あえてお盆の時期を避け、新興芸能と擬装して盆踊りを続けたとも考えられます。抑圧刺さればされるだけ、エネルギーを発散させる場を求めるのが人の性ですから…。

    この続きは、情緒纏綿 越中富山紀行③富岩運河環水公園でお届けします。

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