五箇山周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
Y社のツアー「世界遺産・五箇山ライトアップ&スカイランタンと庄川紅葉クルーズ・北陸味覚食べ放題2日間」に参加してまいりました。富山県へは2011年夏の黒部立山アルペンルート以来の訪問となります。富山県と聞いて最初にイメージするのは、やはり水深1000mを超える富山湾から3000m級の峰々が連なる立山連峰へと一気に駆け上がる高低差4000mの一大パノラマではないでしょうか?<br />三方を北アルプスの立山連峰や後立山連峰などの急峻な山岳地帯に囲まれ、裾野には実り豊かな沖積平野が広がり、やがて富山湾へと開けていきます。「植生自然度本州一」が示すように四季の遷移が鮮明で、美味しい水や豊富な食材など、日本有数の美しく豊かな自然と味覚が魅力のエリアです。<br />一方、美術館や世界遺産 五箇山、国宝 瑞龍寺、高岡大仏、舞台芸術など、伝統文化・工芸・歴史に触れ合えるスポットが充実しているのも富山の魅力です。更には、漫画界の巨匠で『ドラえもん』の作者 藤子・F・不二雄先生の生誕地が高岡市、藤子・A・不二雄先生の出身地が氷見市であることや万葉歌人 大伴家持所縁の地、偉大な作曲家 滝廉太郎の記念館など、ファンには垂涎の的となるマニアックなスポットが点在しています。<br />今回は、五箇山 菅沼合掌造り集落のライトアップを中心にお届けします。

情緒纏綿 越中富山紀行①五箇山 菅沼合掌造り集落(前編)

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2019/11/10 - 2019/11/11

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

Y社のツアー「世界遺産・五箇山ライトアップ&スカイランタンと庄川紅葉クルーズ・北陸味覚食べ放題2日間」に参加してまいりました。富山県へは2011年夏の黒部立山アルペンルート以来の訪問となります。富山県と聞いて最初にイメージするのは、やはり水深1000mを超える富山湾から3000m級の峰々が連なる立山連峰へと一気に駆け上がる高低差4000mの一大パノラマではないでしょうか?
三方を北アルプスの立山連峰や後立山連峰などの急峻な山岳地帯に囲まれ、裾野には実り豊かな沖積平野が広がり、やがて富山湾へと開けていきます。「植生自然度本州一」が示すように四季の遷移が鮮明で、美味しい水や豊富な食材など、日本有数の美しく豊かな自然と味覚が魅力のエリアです。
一方、美術館や世界遺産 五箇山、国宝 瑞龍寺、高岡大仏、舞台芸術など、伝統文化・工芸・歴史に触れ合えるスポットが充実しているのも富山の魅力です。更には、漫画界の巨匠で『ドラえもん』の作者 藤子・F・不二雄先生の生誕地が高岡市、藤子・A・不二雄先生の出身地が氷見市であることや万葉歌人 大伴家持所縁の地、偉大な作曲家 滝廉太郎の記念館など、ファンには垂涎の的となるマニアックなスポットが点在しています。
今回は、五箇山 菅沼合掌造り集落のライトアップを中心にお届けします。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線 JR特急
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
読売旅行
  • 北陸新幹線 W7系<br />大阪から金沢までJR西日本とIRいしかわ鉄道が運行する特急「サンダーバード」を利用し、金沢から北陸新幹線に乗り換えて新高岡駅へ向かいます。五箇山へのアクセスは金沢からでも不便ではないのですが、旅行会社が気を遣って1区間だけ北陸新幹線を利用できるプランを立てたのでしょう。団体行動にしてはタイトな乗り換え時間のため、新幹線には飛び乗りでした。この画像は、帰路の新高岡駅で撮影したものです。<br />北陸新幹線は、上信越・北陸を経由して東京都と大阪市を結ぶ高速鉄道路線であり、整備新幹線5路線の一つです。 2015年3月に東京~ 金沢間が開通し、最短2時間28分で結んでいます。また、金沢~敦賀間は2022年度末に開業予定、未着工区間の敦賀 ~新大阪間は2019年5月に環境アセスメントのための概略ルートが公表されました。<br />北陸新幹線用に開発されたのが、JR東日本のE7系とJR西日本のW7系電車です。形式名は異なりますが、構造や性能、デザインはほぼ同じです。現在は、東京~長野間の「あさま」、東京~金沢間の「かがやき」、「はくたか」と富山~金沢間の「つるぎ」のラインナップです。これらに先行して開発されたE5・E6系に比べてノーズが短く、形状もシンプルになっており、デザイン的には一世代前に巻き戻されています。これは、最高速度が法令で260km/hに抑制されているため、騒音対策が不要なためです。騒音絡みでもうひとつ通常の新幹線車両と異なる点は、新設計のパンタグラフとその横に仰々しい遮音板がないことです。パンタグラフの空力と架線への追随性を改善し、パンタグラフが発する騒音を減らすと共に、最小限の遮音壁を設置することで沿線への騒音課題を克服しています。

    北陸新幹線 W7系
    大阪から金沢までJR西日本とIRいしかわ鉄道が運行する特急「サンダーバード」を利用し、金沢から北陸新幹線に乗り換えて新高岡駅へ向かいます。五箇山へのアクセスは金沢からでも不便ではないのですが、旅行会社が気を遣って1区間だけ北陸新幹線を利用できるプランを立てたのでしょう。団体行動にしてはタイトな乗り換え時間のため、新幹線には飛び乗りでした。この画像は、帰路の新高岡駅で撮影したものです。
    北陸新幹線は、上信越・北陸を経由して東京都と大阪市を結ぶ高速鉄道路線であり、整備新幹線5路線の一つです。 2015年3月に東京~ 金沢間が開通し、最短2時間28分で結んでいます。また、金沢~敦賀間は2022年度末に開業予定、未着工区間の敦賀 ~新大阪間は2019年5月に環境アセスメントのための概略ルートが公表されました。
    北陸新幹線用に開発されたのが、JR東日本のE7系とJR西日本のW7系電車です。形式名は異なりますが、構造や性能、デザインはほぼ同じです。現在は、東京~長野間の「あさま」、東京~金沢間の「かがやき」、「はくたか」と富山~金沢間の「つるぎ」のラインナップです。これらに先行して開発されたE5・E6系に比べてノーズが短く、形状もシンプルになっており、デザイン的には一世代前に巻き戻されています。これは、最高速度が法令で260km/hに抑制されているため、騒音対策が不要なためです。騒音絡みでもうひとつ通常の新幹線車両と異なる点は、新設計のパンタグラフとその横に仰々しい遮音板がないことです。パンタグラフの空力と架線への追随性を改善し、パンタグラフが発する騒音を減らすと共に、最小限の遮音壁を設置することで沿線への騒音課題を克服しています。

  • 北陸新幹線 E7系<br />すれ違いざまに「かがやき」を車窓から激写!<br />車両のデザインコンセプトは、首都圏と北陸線を結び、日本の伝統文化と未来を繋ぐという意味から「和の未来」です。デザインはエンツォ・フェラーリやE6系を手がけた奥山清行氏の監修の下、川崎重工業が担いました。車両デザインは、日本の伝統と最新技術の融合により新たな価値を生むことで「洗練さ」を、和風の空間に集うことで得られる心地よさで「ゆとり・解放感」を表現しています。<br />2014年にグッドデザイン賞、2015年に「鉄道友の会」の第58回ブルーリボン賞を受賞しています。 後者の賞は、電気の周波数を50と60Hzで3ヶ所切り替える必要があり、どちらの周波数でも作動する新開発モータ機器の搭載や、1000分の30の急勾配に対応するパワーとブレーキ性能の両立、かつ耐雪設備の強化対策など、厳しい条件を克服しつつバード面をまとめ上げたデザインの優秀さを評価しています。

    北陸新幹線 E7系
    すれ違いざまに「かがやき」を車窓から激写!
    車両のデザインコンセプトは、首都圏と北陸線を結び、日本の伝統文化と未来を繋ぐという意味から「和の未来」です。デザインはエンツォ・フェラーリやE6系を手がけた奥山清行氏の監修の下、川崎重工業が担いました。車両デザインは、日本の伝統と最新技術の融合により新たな価値を生むことで「洗練さ」を、和風の空間に集うことで得られる心地よさで「ゆとり・解放感」を表現しています。
    2014年にグッドデザイン賞、2015年に「鉄道友の会」の第58回ブルーリボン賞を受賞しています。 後者の賞は、電気の周波数を50と60Hzで3ヶ所切り替える必要があり、どちらの周波数でも作動する新開発モータ機器の搭載や、1000分の30の急勾配に対応するパワーとブレーキ性能の両立、かつ耐雪設備の強化対策など、厳しい条件を克服しつつバード面をまとめ上げたデザインの優秀さを評価しています。

  • 北陸新幹線 <br />乗降口にあるロゴマークは、車両形式E7/W7の「7」の文字をシルバーの矢じりのような形状で表現し、「輝く未来に向かって突き進む」ことを表現しています。マークのデザインはE7・W7共通ですが、その下にある英文はEASTとWESTで使い分けています。<br />フロントマスクも、スピード感と精悍さを表現したスタイリッシュなデザインです。また、車体色をアイボリーとし、車体正面に空色を配置、帯色は銅色としています。JR東日本のHPでは、「アイボリーは日本的な気品や落ち着きを表現し、空色は沿線に広がる青空を象徴し、銅色は日本の伝統工芸である銅器や象嵌を表現している」と説明されています。<br />車体デザインを監修された奥山氏はもう少し具体的に、「白が九谷焼の磁器の色であったり、大陸から渡ってきた古来の青銅文化が北陸において花開き、それを象徴する銅器文化の象徴としての銅の色。青は太平洋とは違う日本海の青や空の青を象徴している。しかし、実は開発秘話としては、金沢にある成巽閣の『群青の間』の素晴らしい青に開発陣一同感銘を受け、この青の色をこの中に込めた」と説明されています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.jreast.co.jp/press/2013/20140212.pdf

    北陸新幹線
    乗降口にあるロゴマークは、車両形式E7/W7の「7」の文字をシルバーの矢じりのような形状で表現し、「輝く未来に向かって突き進む」ことを表現しています。マークのデザインはE7・W7共通ですが、その下にある英文はEASTとWESTで使い分けています。
    フロントマスクも、スピード感と精悍さを表現したスタイリッシュなデザインです。また、車体色をアイボリーとし、車体正面に空色を配置、帯色は銅色としています。JR東日本のHPでは、「アイボリーは日本的な気品や落ち着きを表現し、空色は沿線に広がる青空を象徴し、銅色は日本の伝統工芸である銅器や象嵌を表現している」と説明されています。
    車体デザインを監修された奥山氏はもう少し具体的に、「白が九谷焼の磁器の色であったり、大陸から渡ってきた古来の青銅文化が北陸において花開き、それを象徴する銅器文化の象徴としての銅の色。青は太平洋とは違う日本海の青や空の青を象徴している。しかし、実は開発秘話としては、金沢にある成巽閣の『群青の間』の素晴らしい青に開発陣一同感銘を受け、この青の色をこの中に込めた」と説明されています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.jreast.co.jp/press/2013/20140212.pdf

  • 北陸新幹線 <br />何度もニュースで流され、その度に心を痛めた映像です。<br />台風19号により長野車両センターで浸水被害に遭ったのは、北陸新幹線の全車両の3分の1に当たる10編成でした。その内訳は、E7系が8編成、W7系が2編成。水没車両については、電気系統機器は水に弱く、安全を第一に考えた末、JR東・西日本は120両を全て廃車にすると発表しました。<br />現在の運行本数は全体で通常の8割、東京~金沢間の直通列車が9割です。ダイヤにも影響しているのか、今回のツアーではサンダーバードの遅延により乗り継ぎ時間が不足し、4分遅れでの発車となり大変ご迷惑をおかけしました。<br />他路線の車両が投入できないのは、北陸新幹線の特殊事情のためです。周波数の切り替えが必要であり、また、急勾配に対応するため特殊モータやブレーキが必須となり、北陸の苛酷な条件を満たすのはE7・W7系以外にないからです。JR東日本は5路線で新幹線を運行していますが、地域毎に車両の能力や形状が異なり、自然災害に備えた車両の共通化などの課題が浮き彫りになりました。<br />当面の打開策は、上越新幹線に投入予定だった新造車両を振り替えるようです。最大5編成が年内投入の予定です。これにより車両不足を補い、ダイヤの完全復旧に近づけると共に安全運行を目指します。また、日立製作所や川崎重工業、総合車両製作所に新造車両の打診を始めています。工場には生産余力があるものの、製造には1年はかかるとみられています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.47news.jp/news/4104199.html

    北陸新幹線
    何度もニュースで流され、その度に心を痛めた映像です。
    台風19号により長野車両センターで浸水被害に遭ったのは、北陸新幹線の全車両の3分の1に当たる10編成でした。その内訳は、E7系が8編成、W7系が2編成。水没車両については、電気系統機器は水に弱く、安全を第一に考えた末、JR東・西日本は120両を全て廃車にすると発表しました。
    現在の運行本数は全体で通常の8割、東京~金沢間の直通列車が9割です。ダイヤにも影響しているのか、今回のツアーではサンダーバードの遅延により乗り継ぎ時間が不足し、4分遅れでの発車となり大変ご迷惑をおかけしました。
    他路線の車両が投入できないのは、北陸新幹線の特殊事情のためです。周波数の切り替えが必要であり、また、急勾配に対応するため特殊モータやブレーキが必須となり、北陸の苛酷な条件を満たすのはE7・W7系以外にないからです。JR東日本は5路線で新幹線を運行していますが、地域毎に車両の能力や形状が異なり、自然災害に備えた車両の共通化などの課題が浮き彫りになりました。
    当面の打開策は、上越新幹線に投入予定だった新造車両を振り替えるようです。最大5編成が年内投入の予定です。これにより車両不足を補い、ダイヤの完全復旧に近づけると共に安全運行を目指します。また、日立製作所や川崎重工業、総合車両製作所に新造車両の打診を始めています。工場には生産余力があるものの、製造には1年はかかるとみられています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.47news.jp/news/4104199.html

  • 立山連峰(車窓)<br />新高岡駅に到着する少し手前から、右側の車窓から雄大な飛騨山脈の一画 立山連峰が望めます。<br />左側の端正な三角形をした峰が剱岳(標高2999m)、剣御前と別山を挟んで右側の冠雪した峰が立山です。

    立山連峰(車窓)
    新高岡駅に到着する少し手前から、右側の車窓から雄大な飛騨山脈の一画 立山連峰が望めます。
    左側の端正な三角形をした峰が剱岳(標高2999m)、剣御前と別山を挟んで右側の冠雪した峰が立山です。

  • 立山連峰(車窓)<br />立山は、雄山(標高3003m)、大汝山(標高3015mm)、富士ノ折立(標高2999m)の3つの峰の総称です。<br />立山・剱岳は、主人が大学2年の時にテントを背負って初めての単独行を敢行した思い出の場のようです。立山連峰の画像が多いのは、こうした事情からです。

    立山連峰(車窓)
    立山は、雄山(標高3003m)、大汝山(標高3015mm)、富士ノ折立(標高2999m)の3つの峰の総称です。
    立山・剱岳は、主人が大学2年の時にテントを背負って初めての単独行を敢行した思い出の場のようです。立山連峰の画像が多いのは、こうした事情からです。

  • JR新高岡駅<br />北陸新幹線の長野~金沢駅間延伸開通と同時に開業した駅で、城端線との交点に設けられています。<br />1F外壁は、鮮やかな彩紅桜石の外壁と木質風のアルミルーバーとし地場産業を象徴しているように思えます。それとは対照的に2F外壁は、合掌造の民家や高岡銅器などをイメージさせる銅色系です。また、アルミパネルや鋳物を用いたリズミカルで細やかな縦ラインのデザインは、歴史都市高岡の伝統様式「千本格子」を彷彿とさせます。<br />設計は、1945(昭和20)年に清田文永を中心とするメンバーによって創設された梓設計が担いました。東京国際空港国際線旅客ターミナルや埼玉スタジアムなど著名作品を多数手がけており、技術力には定評があります。<br />駅の南側には北陸エリア最大級の200店もの専門店を擁するイオンモールもあり賑わっています。

    JR新高岡駅
    北陸新幹線の長野~金沢駅間延伸開通と同時に開業した駅で、城端線との交点に設けられています。
    1F外壁は、鮮やかな彩紅桜石の外壁と木質風のアルミルーバーとし地場産業を象徴しているように思えます。それとは対照的に2F外壁は、合掌造の民家や高岡銅器などをイメージさせる銅色系です。また、アルミパネルや鋳物を用いたリズミカルで細やかな縦ラインのデザインは、歴史都市高岡の伝統様式「千本格子」を彷彿とさせます。
    設計は、1945(昭和20)年に清田文永を中心とするメンバーによって創設された梓設計が担いました。東京国際空港国際線旅客ターミナルや埼玉スタジアムなど著名作品を多数手がけており、技術力には定評があります。
    駅の南側には北陸エリア最大級の200店もの専門店を擁するイオンモールもあり賑わっています。

  • 高岡市街<br />剱岳がごっつ近いです!<br />北陸新幹線を新高岡駅で降り、そこから富山地鉄グループの観光バスに乗り換えて五箇山へ向かいます。途中まではこのように左手に立山連峰が見送ってくれます。<br />これから向かう五箇山は南砺市(なんとし)にあります。南砺市は、富山県西部に位置し、富山県富山市・砺波市・小矢部市、岐阜県飛騨市・白川村、石川県金沢市に隣接しています。面積の80%が森林であり、岐阜・石川の県境に連なる峰々からは庄川や小矢部川が流れ、豊かな自然と田園風景が広がっています。こうした日本の原風景と旧き佳き伝統文化を今に遺し、世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」と世界演劇祭で知られる旧利賀(とが)村を擁しています。 <br />具体的に挙げると、絹織物で栄え「越中の小京都」と称された城端や木彫りで知られる井波には薫り高い歴史と文化が息づいています。また、世界的板画家 棟方志功氏が約6年半暮らした福光、南砺地方の交易の中心地で「市場町」として発展してきた福野、椿の里で知られる井口、 世界演劇祭「SCOTサマーシーズン」で知られる演劇と都市交流の利賀など、南砺の里山は旅心をくすぐる魅力に溢れています。

    高岡市街
    剱岳がごっつ近いです!
    北陸新幹線を新高岡駅で降り、そこから富山地鉄グループの観光バスに乗り換えて五箇山へ向かいます。途中まではこのように左手に立山連峰が見送ってくれます。
    これから向かう五箇山は南砺市(なんとし)にあります。南砺市は、富山県西部に位置し、富山県富山市・砺波市・小矢部市、岐阜県飛騨市・白川村、石川県金沢市に隣接しています。面積の80%が森林であり、岐阜・石川の県境に連なる峰々からは庄川や小矢部川が流れ、豊かな自然と田園風景が広がっています。こうした日本の原風景と旧き佳き伝統文化を今に遺し、世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」と世界演劇祭で知られる旧利賀(とが)村を擁しています。
    具体的に挙げると、絹織物で栄え「越中の小京都」と称された城端や木彫りで知られる井波には薫り高い歴史と文化が息づいています。また、世界的板画家 棟方志功氏が約6年半暮らした福光、南砺地方の交易の中心地で「市場町」として発展してきた福野、椿の里で知られる井口、 世界演劇祭「SCOTサマーシーズン」で知られる演劇と都市交流の利賀など、南砺の里山は旅心をくすぐる魅力に溢れています。

  • 東海北陸自動車道<br />富山平野から望む山並です。北は朝日岳から南は三俣蓮華岳まで一望できます。<br />画像の左端は赤沢山、右端のこんもりした大らかな峰が薬師岳(標高2926m)です。<br />薬師岳付近に先端が尖って見える山は、佐々成政の埋蔵金伝説がある鍬崎山です。<br />昔、富山城主 佐々成政が数百万両の軍用金を埋めたと言う「黄金伝説」が有名です。<br />「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」<br />この歌は、越中に伝わる鍬崎山に関する里歌です。佐々成政は数百万両の軍用金を立山山中に埋蔵した伝わります。伝説によると、成政がささら(厳冬の北アルプス)越えを行なった際、途中で旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中に軍用金があったといいます。

    東海北陸自動車道
    富山平野から望む山並です。北は朝日岳から南は三俣蓮華岳まで一望できます。
    画像の左端は赤沢山、右端のこんもりした大らかな峰が薬師岳(標高2926m)です。
    薬師岳付近に先端が尖って見える山は、佐々成政の埋蔵金伝説がある鍬崎山です。
    昔、富山城主 佐々成政が数百万両の軍用金を埋めたと言う「黄金伝説」が有名です。
    「朝日さす夕日かがやく鍬崎に 七つむすび七むすび黄金一ぱい光かがやく」
    この歌は、越中に伝わる鍬崎山に関する里歌です。佐々成政は数百万両の軍用金を立山山中に埋蔵した伝わります。伝説によると、成政がささら(厳冬の北アルプス)越えを行なった際、途中で旅の妨げになるものを雪の中に埋めさせ、その中に軍用金があったといいます。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里<br />東海北陸自動車道の五箇山ICの手前、庄川を渡った左手に一瞬合掌集落が見えてきます。これは、菅沼集落のすぐ隣にある「合掌の里」です。今回は、ここの五箇山側駐車場でアトラクションのスカイランタンや八尾おはら風の盆を愉しみました。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里
    東海北陸自動車道の五箇山ICの手前、庄川を渡った左手に一瞬合掌集落が見えてきます。これは、菅沼集落のすぐ隣にある「合掌の里」です。今回は、ここの五箇山側駐車場でアトラクションのスカイランタンや八尾おはら風の盆を愉しみました。

  • 道の駅上平 ささら館<br />東海北陸道の五箇山ICを降りて国道156号を南に走るとほどなく、南砺市(旧 上平村)にある道の駅に到着します。菅沼合掌造り集落へはここから車で15分程、岐阜県白川郷へは25分程で行ける位置関係になります。  <br />雰囲気的には寂れかけたドライブインといった風合いですが、この日はバイクツーリングを愉しんでいるグループも見かけました。<br />因みに、「ささら」とは、五箇山の民謡『こきりこ節』を唄い舞う際に使われる古代民族楽器で、大化の改新の頃に誕生したとされます。五箇山には古くから伝わる民謡が数多く残されており、大半は起源不詳ですが口頭伝承で受け継がれ、風土と共に発展してきた文化遺産です。代表的な『こきりこ節』や『麦や節』は無形文化財に登録されています。日本最古とされる民謡『こきりこ節』は、五穀豊穣を祈り、百姓を労うため、田楽法師と呼ばれる職業芸能人が田植えや稲刈りの間に行う田踊りとして発展してきました。<br />また、祭礼の日や盆などに若い男女が集まる『まいまい』は、男女が手を繋いで円を描きながら踊り、輪の中の1人が唄い、最後の節を皆で復唱します。肩やかかとが触れ合う距離で踊る姿から「日本最古のフォークダンス」とも言われ、手を繋いだ相手と結ばれるケースも少なくなかったそうです。

    道の駅上平 ささら館
    東海北陸道の五箇山ICを降りて国道156号を南に走るとほどなく、南砺市(旧 上平村)にある道の駅に到着します。菅沼合掌造り集落へはここから車で15分程、岐阜県白川郷へは25分程で行ける位置関係になります。 
    雰囲気的には寂れかけたドライブインといった風合いですが、この日はバイクツーリングを愉しんでいるグループも見かけました。
    因みに、「ささら」とは、五箇山の民謡『こきりこ節』を唄い舞う際に使われる古代民族楽器で、大化の改新の頃に誕生したとされます。五箇山には古くから伝わる民謡が数多く残されており、大半は起源不詳ですが口頭伝承で受け継がれ、風土と共に発展してきた文化遺産です。代表的な『こきりこ節』や『麦や節』は無形文化財に登録されています。日本最古とされる民謡『こきりこ節』は、五穀豊穣を祈り、百姓を労うため、田楽法師と呼ばれる職業芸能人が田植えや稲刈りの間に行う田踊りとして発展してきました。
    また、祭礼の日や盆などに若い男女が集まる『まいまい』は、男女が手を繋いで円を描きながら踊り、輪の中の1人が唄い、最後の節を皆で復唱します。肩やかかとが触れ合う距離で踊る姿から「日本最古のフォークダンス」とも言われ、手を繋いだ相手と結ばれるケースも少なくなかったそうです。

  • 道の駅上平 ささら館<br />道の駅の売店の裏手には庄川が滔々と流れており、錦秋を纏った渓谷美を堪能することができます。<br /><br />道中に城端の町を通過しました。そこは「城端絹織物」が有名です。通常、蚕は1頭で一つの繭をつくります。しかし、稀に2頭が複雑に糸を絡み合わせて一つの繭を作ることがあり、それを玉繭と呼びます。その玉繭から紡いだ玉糸を横糸にして織り上げたのが、しけ絹です。太さが不均一な玉糸で織り上げたしけ絹には所々に節が現れ、独特の表情で観る人を魅了する芸術作品へと姿を変えます。<br />『城端絹起源伝記』によると、城端絹織物は戦国時代末期の1577(天正5)年に 畑氏8代 庄右衛門が始めたと伝えます。庄右衛門の代に加賀藩3代藩主 前田利常より絹織物業の元祖ゆえ絹屋と称すのを許されたのをもって城端絹織物の起源としています。<br />江戸時代には、城端と小松で織られた絹織物が「加賀絹」として加賀藩に庇護され、絹織物業が隆盛を極めました。元禄時代、絹織物の消費が盛んになり、京都・大坂をはじめ江戸でも販売されるようになりました。1693(元禄6)年の記録『元禄品々帳』によると、城端の戸数689軒中半数以上の375軒が絹織物に携わっていたそうです。

    道の駅上平 ささら館
    道の駅の売店の裏手には庄川が滔々と流れており、錦秋を纏った渓谷美を堪能することができます。

    道中に城端の町を通過しました。そこは「城端絹織物」が有名です。通常、蚕は1頭で一つの繭をつくります。しかし、稀に2頭が複雑に糸を絡み合わせて一つの繭を作ることがあり、それを玉繭と呼びます。その玉繭から紡いだ玉糸を横糸にして織り上げたのが、しけ絹です。太さが不均一な玉糸で織り上げたしけ絹には所々に節が現れ、独特の表情で観る人を魅了する芸術作品へと姿を変えます。
    『城端絹起源伝記』によると、城端絹織物は戦国時代末期の1577(天正5)年に 畑氏8代 庄右衛門が始めたと伝えます。庄右衛門の代に加賀藩3代藩主 前田利常より絹織物業の元祖ゆえ絹屋と称すのを許されたのをもって城端絹織物の起源としています。
    江戸時代には、城端と小松で織られた絹織物が「加賀絹」として加賀藩に庇護され、絹織物業が隆盛を極めました。元禄時代、絹織物の消費が盛んになり、京都・大坂をはじめ江戸でも販売されるようになりました。1693(元禄6)年の記録『元禄品々帳』によると、城端の戸数689軒中半数以上の375軒が絹織物に携わっていたそうです。

  • 道の駅上平 ささら館<br />判り難いのですが、中央やや右側に流れ落ちているのが「真背戸の滝」です。<br /><br />畑庄左衛門が武士を捨てて絹織物に従事した理由には、次のような伝承があります。<br />ある日、庄左衛門が京の北野天満宮に参詣し、神前に籠り一心に城端の繁栄を祈念したところ、暁夢に白髪の老翁が現れ、「我が昔筑紫の大宰府に移るとき家臣に自筆の像を賜え、我に仕えると思いこの影像を崇めよ。故あって今はその国の領主荒木が方でこれを所持しており、早くこれを求めて信心すべし」とのお告げを受けた。城端に戻った庄左衛門は早速領主より尊像を貰い受けて信仰した。更に、産業の興隆を願い祈願したところ、糸絹を業とすれば市中繁昌間違いなしとのお告げがあり、絹織物を始めた。<br />絹業商売守護の神として崇められた尊像は、城端町野下の曹洞宗禅寺「水月庵」に寄進され、現在繊維に携わる人々から「機神様」として崇拝されています。水月寺は菅原道真筆の自画像を祀ることから「水月庵天満宮」とも称せられています。

    道の駅上平 ささら館
    判り難いのですが、中央やや右側に流れ落ちているのが「真背戸の滝」です。

    畑庄左衛門が武士を捨てて絹織物に従事した理由には、次のような伝承があります。
    ある日、庄左衛門が京の北野天満宮に参詣し、神前に籠り一心に城端の繁栄を祈念したところ、暁夢に白髪の老翁が現れ、「我が昔筑紫の大宰府に移るとき家臣に自筆の像を賜え、我に仕えると思いこの影像を崇めよ。故あって今はその国の領主荒木が方でこれを所持しており、早くこれを求めて信心すべし」とのお告げを受けた。城端に戻った庄左衛門は早速領主より尊像を貰い受けて信仰した。更に、産業の興隆を願い祈願したところ、糸絹を業とすれば市中繁昌間違いなしとのお告げがあり、絹織物を始めた。
    絹業商売守護の神として崇められた尊像は、城端町野下の曹洞宗禅寺「水月庵」に寄進され、現在繊維に携わる人々から「機神様」として崇拝されています。水月寺は菅原道真筆の自画像を祀ることから「水月庵天満宮」とも称せられています。

  • 道の駅上平 ささら館 真背戸の滝<br />庄川を挟んで対岸に落差40mの2段瀑「真背戸の滝」が望めます。かつて当地には巨大な岩があり、その上から望む滝は格別だったそうですが、その岩は赤尾ダムの建設により失われたといいます。<br />名称の「真背戸」は、対岸にある真木集落の裏側(背戸)に滝の水源地があることから、真木と背戸を併せた造語だそうです。<br /><br />「富山干柿」も南砺市特産の「三社柿」を使った干し柿です。<br />秋~冬にかけて医王山から吹く「医王おろし」が独特の甘味を生み出します。干柿には、果糖の他、食物繊維やビタミンが多く含まれ、消化を助けるなどの働きがあります。また、昔から二日酔いや悪酔いを防止するとも言われ、タンニンの作用で高血圧や成人病、神経症の予防にも効果があるとされます。

    道の駅上平 ささら館 真背戸の滝
    庄川を挟んで対岸に落差40mの2段瀑「真背戸の滝」が望めます。かつて当地には巨大な岩があり、その上から望む滝は格別だったそうですが、その岩は赤尾ダムの建設により失われたといいます。
    名称の「真背戸」は、対岸にある真木集落の裏側(背戸)に滝の水源地があることから、真木と背戸を併せた造語だそうです。

    「富山干柿」も南砺市特産の「三社柿」を使った干し柿です。
    秋~冬にかけて医王山から吹く「医王おろし」が独特の甘味を生み出します。干柿には、果糖の他、食物繊維やビタミンが多く含まれ、消化を助けるなどの働きがあります。また、昔から二日酔いや悪酔いを防止するとも言われ、タンニンの作用で高血圧や成人病、神経症の予防にも効果があるとされます。

  • 道の駅上平 ささら館 赤尾ダム<br />赤尾ダムを下流側から望むことができます。<br />赤尾ダムは、1978(昭和53)年に南砺市を流れる一級河川 庄川水系に関西電力が竣工したダムです。高さ29.2mの越流型直線重力式コンクリートダムで、最大32500kWを発電します。<br />5門の巨大な鋼製ローラーゲートが存在感を顕わにしており、このゲートを上下させるための高い支柱の上に屋根付き管理用通路が渡されています。

    道の駅上平 ささら館 赤尾ダム
    赤尾ダムを下流側から望むことができます。
    赤尾ダムは、1978(昭和53)年に南砺市を流れる一級河川 庄川水系に関西電力が竣工したダムです。高さ29.2mの越流型直線重力式コンクリートダムで、最大32500kWを発電します。
    5門の巨大な鋼製ローラーゲートが存在感を顕わにしており、このゲートを上下させるための高い支柱の上に屋根付き管理用通路が渡されています。

  • 道の駅上平 ささら館<br />楓でしょうか、ここだけ真っ赤に色づいています。<br /><br />「五箇山ぼべら」をご存知でしょうか?<br />南砺ブランドのラグビーボール型をした「かぼちゃ」です。<br />熱を加えることでねっとりと濃厚な甘みを増す伝統野菜です。現在は、交配しないよう地域で代々受け継がれてきた種子を使い、合掌造りの葺き替えで発生する古茅を活用した伝統農法により、世界遺産の郷である五箇山地域内での栽培が条件という付加価値の高いブランド野菜です。

    道の駅上平 ささら館
    楓でしょうか、ここだけ真っ赤に色づいています。

    「五箇山ぼべら」をご存知でしょうか?
    南砺ブランドのラグビーボール型をした「かぼちゃ」です。
    熱を加えることでねっとりと濃厚な甘みを増す伝統野菜です。現在は、交配しないよう地域で代々受け継がれてきた種子を使い、合掌造りの葺き替えで発生する古茅を活用した伝統農法により、世界遺産の郷である五箇山地域内での栽培が条件という付加価値の高いブランド野菜です。

  • 道の駅上平 ささら館 折破搗ち<br />巨大な「鹿威し」のような道具です。<br />名称から察するに、溜まった水の重さを利用し、何かを搗いて粉々にするもののようです。<br />後方の緑の三角屋根がお土産処「珍品堂」です。五箇山の特産品の赤かぶらや五箇山豆腐(完売)、地酒、豆腐の燻製「いぶりとっぺ」などが店内に並んでいます。焼きたての五箇山団子の他、民謡『コキリコ節』で使われる楽器「ささら」も販売しています。

    道の駅上平 ささら館 折破搗ち
    巨大な「鹿威し」のような道具です。
    名称から察するに、溜まった水の重さを利用し、何かを搗いて粉々にするもののようです。
    後方の緑の三角屋根がお土産処「珍品堂」です。五箇山の特産品の赤かぶらや五箇山豆腐(完売)、地酒、豆腐の燻製「いぶりとっぺ」などが店内に並んでいます。焼きたての五箇山団子の他、民謡『コキリコ節』で使われる楽器「ささら」も販売しています。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里 旧山下家<br />五箇山側駐車場から直ぐの所にあるのが、合掌造りコテージの宿泊施設を備えた「合掌の里」です。ここには合掌造り家屋が13棟ありますが、世界遺産には登録されていません。その理由は、全て別の場所から移築された家屋だからです。その多くは、ダム開発で湖底に沈んだ地域からの移築だそうです。<br />この家屋は、元は山下家の住居でしたが、現在はコテージとして利用されています。<br />五箇山側駐車場から菅沼合掌集落までは、徒歩7分程の距離になります。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里 旧山下家
    五箇山側駐車場から直ぐの所にあるのが、合掌造りコテージの宿泊施設を備えた「合掌の里」です。ここには合掌造り家屋が13棟ありますが、世界遺産には登録されていません。その理由は、全て別の場所から移築された家屋だからです。その多くは、ダム開発で湖底に沈んだ地域からの移築だそうです。
    この家屋は、元は山下家の住居でしたが、現在はコテージとして利用されています。
    五箇山側駐車場から菅沼合掌集落までは、徒歩7分程の距離になります。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里 旧氷上家<br />ここは菅沼集落の雰囲気そのままに合掌造り家屋での生活体験ができる施設です。団体予約をすれば、絵付け、はり絵、岩魚つかみ、もちつき、わら細工、民謡講習などが体験できます。更に、敷地内には「五箇山生活館」があり、合掌造りの解体図や萱葺きの様子、五箇山の四季や方言などが学べます。<br />手前は氷上家の住居だったもので、ここも今はコテージです。後方は陶芸の家になっています。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里 旧氷上家
    ここは菅沼集落の雰囲気そのままに合掌造り家屋での生活体験ができる施設です。団体予約をすれば、絵付け、はり絵、岩魚つかみ、もちつき、わら細工、民謡講習などが体験できます。更に、敷地内には「五箇山生活館」があり、合掌造りの解体図や萱葺きの様子、五箇山の四季や方言などが学べます。
    手前は氷上家の住居だったもので、ここも今はコテージです。後方は陶芸の家になっています。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里 籠の渡し<br />遊歩道トンネルの手前から庄川の対岸に架けられているのが籠の渡しです。<br />かつては罪人の流刑地でもあった五箇山では、川に橋を架けるのはご法度であり、「籠の渡し」という道具を使って渡りました。渡る際には、絶壁に挟まれた川にブドウの蔓で作った大綱を張り、そこに取り付けた籠に人が乗って渡るという、危険と隣り合わせの乗り物でした。因みに、流刑地に流された罪人は、この「籠の渡し」に乗せられ、川の中央で籠を大きく揺らされるという洗礼を受けたそうです。そうすることで、罪人は恐怖心から脱走するのを諦めたといいます。<br />「籠の渡し」が採用された最大の理由は、流刑地であったことです。1667(寛文7)年から明治維新までの200年間で150余人もの罪人が送られてきたそうです。一方、軍事機密の塩硝を製造していた五箇山に他所から人が侵入するのを阻むためでもあり、塩硝の持ち出しを禁ずるという加賀藩の思惑もあったと伝わります。因みに、江戸時代、五箇山内には13ヶ所の籠の渡しがあったそうです。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里 籠の渡し
    遊歩道トンネルの手前から庄川の対岸に架けられているのが籠の渡しです。
    かつては罪人の流刑地でもあった五箇山では、川に橋を架けるのはご法度であり、「籠の渡し」という道具を使って渡りました。渡る際には、絶壁に挟まれた川にブドウの蔓で作った大綱を張り、そこに取り付けた籠に人が乗って渡るという、危険と隣り合わせの乗り物でした。因みに、流刑地に流された罪人は、この「籠の渡し」に乗せられ、川の中央で籠を大きく揺らされるという洗礼を受けたそうです。そうすることで、罪人は恐怖心から脱走するのを諦めたといいます。
    「籠の渡し」が採用された最大の理由は、流刑地であったことです。1667(寛文7)年から明治維新までの200年間で150余人もの罪人が送られてきたそうです。一方、軍事機密の塩硝を製造していた五箇山に他所から人が侵入するのを阻むためでもあり、塩硝の持ち出しを禁ずるという加賀藩の思惑もあったと伝わります。因みに、江戸時代、五箇山内には13ヶ所の籠の渡しがあったそうです。

  • 五箇山青少年旅行村 合掌の里 籠の渡し<br />鎌倉時代後期、藤原長清が選集した私撰和歌集『夫木和歌抄』には、「越の方に修行しありきて云々」の詞書を添えた天台座主第54世 快修の歌が収められています。<br />「身をすてて かごの渡を せしときも 君ばかりこそ わすれざりしか」<br />また、蕉門の路通も1695(元禄8)年、『城端十景』で一句詠んでいます。<br />「ふらふらと 駕の渡りや ほととぎす」<br />『おくのほそ道』 では、芭蕉は同道者として初めは路通を選びましたが、結局は曾良が務めました。その理由は、路通は品行が悪いからとの説と、曾良が越後村上での元主人の墓参を願い、それを実現させるためとの2説あります。同道できなかった路通ですが、敦賀で芭蕉を出迎えて大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年まで京・大坂で生活を共にしています。

    五箇山青少年旅行村 合掌の里 籠の渡し
    鎌倉時代後期、藤原長清が選集した私撰和歌集『夫木和歌抄』には、「越の方に修行しありきて云々」の詞書を添えた天台座主第54世 快修の歌が収められています。
    「身をすてて かごの渡を せしときも 君ばかりこそ わすれざりしか」
    また、蕉門の路通も1695(元禄8)年、『城端十景』で一句詠んでいます。
    「ふらふらと 駕の渡りや ほととぎす」
    『おくのほそ道』 では、芭蕉は同道者として初めは路通を選びましたが、結局は曾良が務めました。その理由は、路通は品行が悪いからとの説と、曾良が越後村上での元主人の墓参を願い、それを実現させるためとの2説あります。同道できなかった路通ですが、敦賀で芭蕉を出迎えて大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年まで京・大坂で生活を共にしています。

  • 遊歩道トンネル<br />菅沼集落へのアプローチは、菅沼展望広場駐車場が便利です。高台にある駐車場からエレベータでこのトンネルの中間点に降りてきます。少し意表を突かれますが、これはマナー違反をするマイカーを集落に入れないようにするためでもあるそうです。数年前に4億円もの巨額を投じてこの工事が行われました。また、冬季にはライトアップし、雪国の幻想的な景観を魅せることでも知られています。その時期にはこの小さな集落に大型観光バスが60台程訪れ、写真撮影のベストポジションを確保するために早朝から三脚を立てて陣取り合戦が始まるそうです。ネットに氾濫している幻想的な画像の裏に、人知れず隠れた苦労があったとは…。<br />一方、相倉集落では電線がなく、全て地下ケーブル化されています。観光地化の典型ですが、世界遺産の景観保護に寄与しているとも言えます。

    遊歩道トンネル
    菅沼集落へのアプローチは、菅沼展望広場駐車場が便利です。高台にある駐車場からエレベータでこのトンネルの中間点に降りてきます。少し意表を突かれますが、これはマナー違反をするマイカーを集落に入れないようにするためでもあるそうです。数年前に4億円もの巨額を投じてこの工事が行われました。また、冬季にはライトアップし、雪国の幻想的な景観を魅せることでも知られています。その時期にはこの小さな集落に大型観光バスが60台程訪れ、写真撮影のベストポジションを確保するために早朝から三脚を立てて陣取り合戦が始まるそうです。ネットに氾濫している幻想的な画像の裏に、人知れず隠れた苦労があったとは…。
    一方、相倉集落では電線がなく、全て地下ケーブル化されています。観光地化の典型ですが、世界遺産の景観保護に寄与しているとも言えます。

  • 菅沼合掌造り集落<br />菅沼合掌造り集落は、1995年に相倉(五箇山)と荻町(白川郷)と共にユネスコ世界遺産に登録されました。また、五箇山合掌造り集落は2009年度版『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で3つ星を獲得しています。<br />南砺市の険しい山間を流れる庄川沿いの僅かな河岸段丘に肩を寄せ合って佇みます。その立地は、三方を庄川が囲み、もう一方は雪持林(ゆきもちりん)と呼ばれる雪崩から集落を守る防雪林が樹立する急斜面となり、人を寄せ付けません。こうした雪持林や茅場などの山林、土蔵や板倉などの伝統的な建物も含めて史跡に指定されており、観光地化を逃れたありのままの自然に出会え、遙か昔にタイムスリップしたトランス状態に浸れます。<br />12棟のうち9棟が合掌造りであり、江戸時代末期のもの2棟、明治時代のもの6棟、最新は大正14年(1925)年に建築され、この頃まで合掌造りが築造されていたことが判ります。合掌造りは、国内有数の豪雪地帯という厳しい自然環境に耐える住居として、また、養蚕や塩硝作りなど生活の糧となる仕事場として、頑丈な構造で支えて作った空間を合理的に活かした多層構造家屋です。知恵を結集したその逞しくも美しい佇まいは、日本の原風景とも称されるほのぼのとした里山に溶け込んでいます。<br />集落には五箇山の歴史や文化に触れられる「五箇山民俗館」があり、生活用具などを展示しています。また「塩硝の館」では、加賀藩政時代300年に亘って続けられた火薬の原料となる塩硝作りの過程を材料採取から出荷まで人形や影絵などを駆使して紹介しています。

    菅沼合掌造り集落
    菅沼合掌造り集落は、1995年に相倉(五箇山)と荻町(白川郷)と共にユネスコ世界遺産に登録されました。また、五箇山合掌造り集落は2009年度版『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で3つ星を獲得しています。
    南砺市の険しい山間を流れる庄川沿いの僅かな河岸段丘に肩を寄せ合って佇みます。その立地は、三方を庄川が囲み、もう一方は雪持林(ゆきもちりん)と呼ばれる雪崩から集落を守る防雪林が樹立する急斜面となり、人を寄せ付けません。こうした雪持林や茅場などの山林、土蔵や板倉などの伝統的な建物も含めて史跡に指定されており、観光地化を逃れたありのままの自然に出会え、遙か昔にタイムスリップしたトランス状態に浸れます。
    12棟のうち9棟が合掌造りであり、江戸時代末期のもの2棟、明治時代のもの6棟、最新は大正14年(1925)年に建築され、この頃まで合掌造りが築造されていたことが判ります。合掌造りは、国内有数の豪雪地帯という厳しい自然環境に耐える住居として、また、養蚕や塩硝作りなど生活の糧となる仕事場として、頑丈な構造で支えて作った空間を合理的に活かした多層構造家屋です。知恵を結集したその逞しくも美しい佇まいは、日本の原風景とも称されるほのぼのとした里山に溶け込んでいます。
    集落には五箇山の歴史や文化に触れられる「五箇山民俗館」があり、生活用具などを展示しています。また「塩硝の館」では、加賀藩政時代300年に亘って続けられた火薬の原料となる塩硝作りの過程を材料採取から出荷まで人形や影絵などを駆使して紹介しています。

  • 菅沼合掌造り集落<br />合掌造りの集落名が文献で初見されるのは、「五箇山」は16世紀初頭、「相倉」は16世紀中期、「菅沼」は17世紀前期であり、それ以前に各集落が存在した証左です。因みに、高度経済成長期までは、五箇山には菅沼や相倉以外にも合掌造り集落がありましたが、ダム開発で湖底に沈んでいます。国道156号に並行して伸びる集落の小径は、かつて生活物資が運ばれた主要道「旧五箇山街道」です。特に人喰谷~朴峠の間は急峻な斜面を開削して造った隘路で、城端の町へ出る時は雪崩の恐怖に怯えながら通行したそうです。この街道を通じて徐々に瓦葺文化が流入しましたが、五箇山は山奥ゆえに整備が遅れていました。それが奏功し、歴史と文化を伝える茅葺屋根の集落が良好な状態で遺されていました。<br />そこに着目したのが国でした。1970(昭和45)年に国指定史跡に登録され、これにより住民には景観を保持する義務が与えられ、観光地化されることもなく、1995年に世界文化遺産に登録されました。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />http://webkay.com/jp2014suganuma.html

    菅沼合掌造り集落
    合掌造りの集落名が文献で初見されるのは、「五箇山」は16世紀初頭、「相倉」は16世紀中期、「菅沼」は17世紀前期であり、それ以前に各集落が存在した証左です。因みに、高度経済成長期までは、五箇山には菅沼や相倉以外にも合掌造り集落がありましたが、ダム開発で湖底に沈んでいます。 国道156号に並行して伸びる集落の小径は、かつて生活物資が運ばれた主要道「旧五箇山街道」です。特に人喰谷~朴峠の間は急峻な斜面を開削して造った隘路で、城端の町へ出る時は雪崩の恐怖に怯えながら通行したそうです。この街道を通じて徐々に瓦葺文化が流入しましたが、五箇山は山奥ゆえに整備が遅れていました。それが奏功し、歴史と文化を伝える茅葺屋根の集落が良好な状態で遺されていました。
    そこに着目したのが国でした。1970(昭和45)年に国指定史跡に登録され、これにより住民には景観を保持する義務が与えられ、観光地化されることもなく、1995年に世界文化遺産に登録されました。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    http://webkay.com/jp2014suganuma.html

  • 菅沼合掌造り集落<br />五箇山と白川郷は合掌造りで知られ、五箇山は富山県南砺市、白川郷(荻町集落)は岐阜県大野郡白川村にあります。共に庄川流域の立地ですが、前者は越中富山、後者は飛騨高山の文化圏に属します。知名度や規模では白川郷に軍配が上がりますが、大勢の観光客が訪れる白川郷に比べ、五箇山はより素朴な山里の原風景を留めています。尚、五箇山には「菅沼」と「相倉(あいのくら)」の2つの合掌造り集落があります。<br />屋根は積もった雪を落とすために急勾配にしてあり、その形が両手を合掌させたように見えることから「合掌造り」と呼ばれ、別名「ナンマンダブツ」とも言います。藤島亥治郎著『庄川系民家の調査(1936年)』によると、「いわゆる合掌造りと土地の人の言う…」とあり、それ以前からすでに「合掌造り」という言葉が存在していたことが判ります。

    菅沼合掌造り集落
    五箇山と白川郷は合掌造りで知られ、五箇山は富山県南砺市、白川郷(荻町集落)は岐阜県大野郡白川村にあります。共に庄川流域の立地ですが、前者は越中富山、後者は飛騨高山の文化圏に属します。知名度や規模では白川郷に軍配が上がりますが、大勢の観光客が訪れる白川郷に比べ、五箇山はより素朴な山里の原風景を留めています。尚、五箇山には「菅沼」と「相倉(あいのくら)」の2つの合掌造り集落があります。
    屋根は積もった雪を落とすために急勾配にしてあり、その形が両手を合掌させたように見えることから「合掌造り」と呼ばれ、別名「ナンマンダブツ」とも言います。藤島亥治郎著『庄川系民家の調査(1936年)』によると、「いわゆる合掌造りと土地の人の言う…」とあり、それ以前からすでに「合掌造り」という言葉が存在していたことが判ります。

  • 菅沼合掌造り集落 お食事・お土産処「与八」<br />「五箇山」とは、5つの山の総称ではなく、庄川流域にある5つの谷間(赤尾谷、上梨、下梨、小谷、利賀谷)の総称です。「五ヶ谷間」が「五箇山」に転訛したそうです。<br />五箇山集落の始まりは、倶利伽羅峠の戦いで源氏に敗れて逃げ落ちた「平家落人のかくれ里」とも言われています。こうした小さな山里の集落が世界遺産として評価された理由には大きく3つあります。<br />①合掌造り家屋は、豪雪地帯に適した建築様式を代表する顕著な見本であること。<br />②合掌造り集落は、その地域の大家族制度や地場産業に見合った土地利用の顕著な見本であること。土地が狭く、増築が困難という課題を、家屋内のスペースの有効利用で解消している点。<br />③集落に発達した地場産業と文化の存在。<br />屋根裏での養蚕と地下での塩硝の製造、和紙や民謡など、地域環境と調和しながら受け継がれてきた人々の営みが世界に認められています。

    菅沼合掌造り集落 お食事・お土産処「与八」
    「五箇山」とは、5つの山の総称ではなく、庄川流域にある5つの谷間(赤尾谷、上梨、下梨、小谷、利賀谷)の総称です。「五ヶ谷間」が「五箇山」に転訛したそうです。
    五箇山集落の始まりは、倶利伽羅峠の戦いで源氏に敗れて逃げ落ちた「平家落人のかくれ里」とも言われています。こうした小さな山里の集落が世界遺産として評価された理由には大きく3つあります。
    ①合掌造り家屋は、豪雪地帯に適した建築様式を代表する顕著な見本であること。
    ②合掌造り集落は、その地域の大家族制度や地場産業に見合った土地利用の顕著な見本であること。土地が狭く、増築が困難という課題を、家屋内のスペースの有効利用で解消している点。
    ③集落に発達した地場産業と文化の存在。
    屋根裏での養蚕と地下での塩硝の製造、和紙や民謡など、地域環境と調和しながら受け継がれてきた人々の営みが世界に認められています。

  • 菅沼合掌造り集落<br />菅沼集落と相倉集落で見られる合掌造り家屋は、全国有数の豪雪地帯で暮らす人々の生活の知恵によって発達してきました。土地が狭く増築できないため屋内空間を極限まで有効活用し、生活の場と作業場を両立させるべく床面積が広くとれる多層構造としたのが合掌造りです。<br />また、叉首(さす)構造の切妻屋根とした茅葺が特徴です。「人」の字形に寄りかかった部材を棟木の所で交差させてトラス構造とし、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で木材の性質上、優れた構造です。

    菅沼合掌造り集落
    菅沼集落と相倉集落で見られる合掌造り家屋は、全国有数の豪雪地帯で暮らす人々の生活の知恵によって発達してきました。土地が狭く増築できないため屋内空間を極限まで有効活用し、生活の場と作業場を両立させるべく床面積が広くとれる多層構造としたのが合掌造りです。
    また、叉首(さす)構造の切妻屋根とした茅葺が特徴です。「人」の字形に寄りかかった部材を棟木の所で交差させてトラス構造とし、梁材に与える曲げモーメントを低減し、引張力に集中させるという点で木材の性質上、優れた構造です。

  • 菅沼合掌造り集落<br />合掌造りの定義は曖昧ですが、政府が白川郷と五箇山集落を世界遺産に推薦した際は、「小屋内を積極的に利用するために、叉首構造の切妻造屋根とした茅葺き家屋」と定義しました。それ故、同じ合掌造りでも白川郷と五箇山では相違点が幾つか見られます。<br />まず屋根の勾配です。共に豪雪地帯に立地しますが、五箇山では湿気が多く重い雪であり、多雨地帯でもあるため、屋根から雪や雨水が落ち易いように60度と少し急勾配にしています。<br />また、五箇山は、切妻造屋根の端の破風を刈り揃えず、少し丸みを帯びさせ、やさしげな印象を与えます。更には、玄関が「妻入」なのは菅沼集落のみで、その他は「平入」です。菅沼集落では妻側に半間ほどの下屋を造り、その中央寄りに玄関を設けています。それに加え、下屋の屋根も茅葺きのため入母屋造にも見え、雰囲気が異なります。<br />一方、地場産業のあり方にも相違点が見られます。白川郷は江戸時代初期には高山藩領でしたが、中期以降、明治維新まで江戸幕府の直轄領でした。それに対し五箇山は、江戸時代を通じて加賀藩領でした。そのため、白川郷では江戸幕府の命で塩硝作りがなされ、五箇山では加賀藩が軍事用に秘密裏に塩硝を作らせていました。

    菅沼合掌造り集落
    合掌造りの定義は曖昧ですが、政府が白川郷と五箇山集落を世界遺産に推薦した際は、「小屋内を積極的に利用するために、叉首構造の切妻造屋根とした茅葺き家屋」と定義しました。それ故、同じ合掌造りでも白川郷と五箇山では相違点が幾つか見られます。
    まず屋根の勾配です。共に豪雪地帯に立地しますが、五箇山では湿気が多く重い雪であり、多雨地帯でもあるため、屋根から雪や雨水が落ち易いように60度と少し急勾配にしています。
    また、五箇山は、切妻造屋根の端の破風を刈り揃えず、少し丸みを帯びさせ、やさしげな印象を与えます。更には、玄関が「妻入」なのは菅沼集落のみで、その他は「平入」です。菅沼集落では妻側に半間ほどの下屋を造り、その中央寄りに玄関を設けています。それに加え、下屋の屋根も茅葺きのため入母屋造にも見え、雰囲気が異なります。
    一方、地場産業のあり方にも相違点が見られます。白川郷は江戸時代初期には高山藩領でしたが、中期以降、明治維新まで江戸幕府の直轄領でした。それに対し五箇山は、江戸時代を通じて加賀藩領でした。そのため、白川郷では江戸幕府の命で塩硝作りがなされ、五箇山では加賀藩が軍事用に秘密裏に塩硝を作らせていました。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />もうひとつの特徴が「ウスバリ(シキゲタとも言う三角形の底辺)構造」です。柱や桁、梁で構成される下層の軸組部と上層となるウスバリの上にある屋根を支える小屋組部を分離しています。<br />上層の三角形部分は更に2層に区切られ、下から「アマ」「ソラアマ」と呼びます。一般家屋では、アマとソラアマを柱が屋根まで貫き、内部は吹き抜けです。それに対し合掌造りは、下層の軸組部を先に組み上げてその上に小屋組部を載せ、軸組部と小屋組部は構造的にも空間的にも分離しています。<br />つまり、三角帽子はヤジロベエのように支点を定めて下層の軸組みの上に載せただけで、固定されていません。この構造のルーツは、合掌造り特有の建築方法に由来します。下層の軸組部は専門技術を持つ大工が請け負いますが、上層の小屋組部と屋根は住民による伝統的互助制度「結(ゆい)」で行います。そのため、上層は丸太材のまま斧や手斧による粗い仕上げとなり、組立も釘や金具を使わず、荒縄やマンサクの蔓などで結ぶ単純構造です。これは現金収入の乏しかった山村の知恵と言え、至って合理的です。因みに、このような山深い山村では、独立して生計が立てられるほどの仕事量がないため大工は存在せず、家を建てる際には地方から呼び寄せたそうです。

    菅沼合掌造り集落
    もうひとつの特徴が「ウスバリ(シキゲタとも言う三角形の底辺)構造」です。柱や桁、梁で構成される下層の軸組部と上層となるウスバリの上にある屋根を支える小屋組部を分離しています。
    上層の三角形部分は更に2層に区切られ、下から「アマ」「ソラアマ」と呼びます。一般家屋では、アマとソラアマを柱が屋根まで貫き、内部は吹き抜けです。それに対し合掌造りは、下層の軸組部を先に組み上げてその上に小屋組部を載せ、軸組部と小屋組部は構造的にも空間的にも分離しています。
    つまり、三角帽子はヤジロベエのように支点を定めて下層の軸組みの上に載せただけで、固定されていません。この構造のルーツは、合掌造り特有の建築方法に由来します。下層の軸組部は専門技術を持つ大工が請け負いますが、上層の小屋組部と屋根は住民による伝統的互助制度「結(ゆい)」で行います。そのため、上層は丸太材のまま斧や手斧による粗い仕上げとなり、組立も釘や金具を使わず、荒縄やマンサクの蔓などで結ぶ単純構造です。これは現金収入の乏しかった山村の知恵と言え、至って合理的です。因みに、このような山深い山村では、独立して生計が立てられるほどの仕事量がないため大工は存在せず、家を建てる際には地方から呼び寄せたそうです。

  • 菅沼合掌造り集落<br />この家屋は、土産処や食事処が多い中、完全な民家です。<br /><br />「結」の精神のルーツは、五箇山に根付いた真宗信仰にあります。五箇山では、本願寺8世 蓮如が越中で布教していた時代に五箇山赤尾生まれの道宗が広めました。真宗信徒となった住民は、集落に建った念仏道場で称名念仏を唱えながら仏法を聴聞したそうです。<br />道宗には逸話があります。10歳の時、夕食の岩魚を目にし、父に「罪のない人を殺すのは悪いことだというのに、人が罪もない魚を獲って食うてもよいものですか?」と尋ねたそうです。<br />道宗が真宗を信仰したきっかけは、13歳の時に亡くした両親に似た五百羅漢を探す旅の途中で見た夢でした。夢に信州更科の僧(善光寺の阿弥陀如来)が現れ、「蓮如上人を訪ねれば、まことの親に会える」とお告げを受け、本願寺を訪ねました。蓮如の尊い姿と法話に感激した道宗は、3日3晩蓮如の側を離れずに聴聞したと伝わります。五箇山に帰ってからも年に1度は京へ赴き、蓮如の教えを賜りました。<br />一方、道宗の体には傷跡が沢山あり、それを見た村人が尋ねてもその訳を言いませんでした。村人が不思議に思ってこっそり覗くと、道宗は自らを戒めるため、阿弥陀如来の48の誓願に似せて48本の割木を並べ、その上で寝ていたそうです。夜中、痛みで目覚める度に合掌し、念仏を唱えられることに感謝したそうです。こうした道宗の日々の行いは、『赤尾道宗心得21箇条』として今に残されています。

    菅沼合掌造り集落
    この家屋は、土産処や食事処が多い中、完全な民家です。

    「結」の精神のルーツは、五箇山に根付いた真宗信仰にあります。五箇山では、本願寺8世 蓮如が越中で布教していた時代に五箇山赤尾生まれの道宗が広めました。真宗信徒となった住民は、集落に建った念仏道場で称名念仏を唱えながら仏法を聴聞したそうです。
    道宗には逸話があります。10歳の時、夕食の岩魚を目にし、父に「罪のない人を殺すのは悪いことだというのに、人が罪もない魚を獲って食うてもよいものですか?」と尋ねたそうです。
    道宗が真宗を信仰したきっかけは、13歳の時に亡くした両親に似た五百羅漢を探す旅の途中で見た夢でした。夢に信州更科の僧(善光寺の阿弥陀如来)が現れ、「蓮如上人を訪ねれば、まことの親に会える」とお告げを受け、本願寺を訪ねました。蓮如の尊い姿と法話に感激した道宗は、3日3晩蓮如の側を離れずに聴聞したと伝わります。五箇山に帰ってからも年に1度は京へ赴き、蓮如の教えを賜りました。
    一方、道宗の体には傷跡が沢山あり、それを見た村人が尋ねてもその訳を言いませんでした。村人が不思議に思ってこっそり覗くと、道宗は自らを戒めるため、阿弥陀如来の48の誓願に似せて48本の割木を並べ、その上で寝ていたそうです。夜中、痛みで目覚める度に合掌し、念仏を唱えられることに感謝したそうです。こうした道宗の日々の行いは、『赤尾道宗心得21箇条』として今に残されています。

  • 菅沼合掌造り集落<br />合掌造りと言っても、詳細に観るとその形式は実に様々です。それはある意味、合掌造りの進化の歴史と換言できます。生糸や和紙、塩硝の販売で資金が五箇山に入るようになると、それを家屋を大型化する建築費に充当してきたのが合掌造りの歴史です。<br />写真で見ただけですが、相倉集落には原始的な「マタダテ」と呼ばれる合掌造りがあります。一般的な合掌造りでいう屋根組だけの簡素な形式で、弥生時代の竪穴式住居を彷彿とさせます。戦国時代以降、養蚕や和紙、塩硝といった地場産業が発展していく中、1つの頑丈な家屋で住居と仕事場を両立させる必要に迫られ、床面積を拡張するために多層構造にすることが不可避となりました。そこで大工を招いて1階部分を造らせ、その上に屋根となる「アマダテ」を載せて高層化させていったのです。<br />一方、屋根の勾配も、建築年代の古いものほど緩く、新しいものほど急になる傾向が見られます。<br />右下にあるのが相倉集落のマタダテの画像です。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://toyama-bunkaisan.jp/pickup/world02.php

    菅沼合掌造り集落
    合掌造りと言っても、詳細に観るとその形式は実に様々です。それはある意味、合掌造りの進化の歴史と換言できます。生糸や和紙、塩硝の販売で資金が五箇山に入るようになると、それを家屋を大型化する建築費に充当してきたのが合掌造りの歴史です。
    写真で見ただけですが、相倉集落には原始的な「マタダテ」と呼ばれる合掌造りがあります。一般的な合掌造りでいう屋根組だけの簡素な形式で、弥生時代の竪穴式住居を彷彿とさせます。戦国時代以降、養蚕や和紙、塩硝といった地場産業が発展していく中、1つの頑丈な家屋で住居と仕事場を両立させる必要に迫られ、床面積を拡張するために多層構造にすることが不可避となりました。そこで大工を招いて1階部分を造らせ、その上に屋根となる「アマダテ」を載せて高層化させていったのです。
    一方、屋根の勾配も、建築年代の古いものほど緩く、新しいものほど急になる傾向が見られます。
    右下にあるのが相倉集落のマタダテの画像です。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://toyama-bunkaisan.jp/pickup/world02.php

  • 菅沼合掌造り集落 五箇山民俗館<br />この家屋は、ほとんど手が加えられておらず、合掌造りの原形を維持した貴重な存在です。館内には、往時の山村での暮らしぶりや、先人たちの知恵が活かされた生活用具など約200点を展示しています。中でも、寒さを凌ぐための重厚な衣類は必見です。その重さには驚かされます。<br />1階には塩硝の製造に関する道具の他、食器、農機具などを展示しています。塩硝作りは、よもぎや麻殻、蚕の糞などを材料にした「培養法」により、囲炉裏の下の床下で生産されました。五箇山や白川郷では「人工的に塩硝を製造」しており、他藩の「天然のものを採集」とは性質が異なりました。これについては加賀藩の支配下に置かれたことが大きく関与しており、五箇山では幕府の目を盗んで製造していたと伝わります。

    菅沼合掌造り集落 五箇山民俗館
    この家屋は、ほとんど手が加えられておらず、合掌造りの原形を維持した貴重な存在です。館内には、往時の山村での暮らしぶりや、先人たちの知恵が活かされた生活用具など約200点を展示しています。中でも、寒さを凌ぐための重厚な衣類は必見です。その重さには驚かされます。
    1階には塩硝の製造に関する道具の他、食器、農機具などを展示しています。塩硝作りは、よもぎや麻殻、蚕の糞などを材料にした「培養法」により、囲炉裏の下の床下で生産されました。五箇山や白川郷では「人工的に塩硝を製造」しており、他藩の「天然のものを採集」とは性質が異なりました。これについては加賀藩の支配下に置かれたことが大きく関与しており、五箇山では幕府の目を盗んで製造していたと伝わります。

  • 菅沼合掌造り集落<br />屋根の積雪に耐えるには頑丈な構造が求められ、それを支える手斧(ちょうな)の柄の形に似た「チョンナバリ」と呼ばれる太い梁も五箇山の特徴です。雪深い急傾斜地のために根元が曲がって成長したナラ材を用い、土地の気候風土が提供する資材をありのままに有効活用しています。<br />チョンナバリはアーチ形状をしており、屋根や雪の重みを外側の柱に逃がすと共に、天井を高くできることから広い空間を提供します。まさに内部応力を鑑みた構造力学上かつ意匠上の適材適所と言え、この部材の曲がり癖を読み取って活かすところが合掌造りの見せ場です。美的空間を創り出すために同じ曲がり方、かつ同じ太さの用材を調達するのは難しいのですが、それが家主の自慢の一つだったそうです。 <br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://toyama-bunkaisan.jp/pickup/world02.php

    菅沼合掌造り集落
    屋根の積雪に耐えるには頑丈な構造が求められ、それを支える手斧(ちょうな)の柄の形に似た「チョンナバリ」と呼ばれる太い梁も五箇山の特徴です。雪深い急傾斜地のために根元が曲がって成長したナラ材を用い、土地の気候風土が提供する資材をありのままに有効活用しています。
    チョンナバリはアーチ形状をしており、屋根や雪の重みを外側の柱に逃がすと共に、天井を高くできることから広い空間を提供します。まさに内部応力を鑑みた構造力学上かつ意匠上の適材適所と言え、この部材の曲がり癖を読み取って活かすところが合掌造りの見せ場です。美的空間を創り出すために同じ曲がり方、かつ同じ太さの用材を調達するのは難しいのですが、それが家主の自慢の一つだったそうです。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://toyama-bunkaisan.jp/pickup/world02.php

  • 菅沼合掌造り集落 塩硝の館<br />五箇山の三大産業は、養蚕・和紙・塩硝です。現在、そのうちの五箇山 塩硝製造の歴史を伝えるのはこの「塩硝の館」だけです。かつて、培養法による塩硝製造の復元を試みたそうですが失敗に終わったようです。発酵生産技術の根幹は、それに使用される微生物が命です。一旦失われた発酵生産技術は、古文書を読んで再現できる代物ではありません。

    菅沼合掌造り集落 塩硝の館
    五箇山の三大産業は、養蚕・和紙・塩硝です。現在、そのうちの五箇山 塩硝製造の歴史を伝えるのはこの「塩硝の館」だけです。かつて、培養法による塩硝製造の復元を試みたそうですが失敗に終わったようです。発酵生産技術の根幹は、それに使用される微生物が命です。一旦失われた発酵生産技術は、古文書を読んで再現できる代物ではありません。

  • 菅沼合掌造り集落 庄川<br />清流庄川の渓谷沿いに点在する40の集落を総称し「五箇山」と呼びます。その一画、菅沼集落を蛇行するように流れ下る庄川は、全く流れを感じさせません。鎮まった川面は、小さなダム湖を彷彿とさせます。それ故、暫く眺めていても時間がゆっくりと流れるかのように感じられ、まさに「癒し系河川」と言えます。<br />庄川は、岐阜県北部および富山県西部を流れる、庄川水系の一級河川(総延長115km)であり、流域面積の93%を山地が占めます。古称を「雄神川(おがみがわ)」と言い、鉢伏山麓にある雄神神社に因むとされます。神社付近を「雄神の庄」と呼んだことから、そこを流れる川そのものが「雄神の庄川」と呼ばれ、後に「雄神」が外されて「庄川」になったとされます。

    菅沼合掌造り集落 庄川
    清流庄川の渓谷沿いに点在する40の集落を総称し「五箇山」と呼びます。その一画、菅沼集落を蛇行するように流れ下る庄川は、全く流れを感じさせません。鎮まった川面は、小さなダム湖を彷彿とさせます。それ故、暫く眺めていても時間がゆっくりと流れるかのように感じられ、まさに「癒し系河川」と言えます。
    庄川は、岐阜県北部および富山県西部を流れる、庄川水系の一級河川(総延長115km)であり、流域面積の93%を山地が占めます。古称を「雄神川(おがみがわ)」と言い、鉢伏山麓にある雄神神社に因むとされます。神社付近を「雄神の庄」と呼んだことから、そこを流れる川そのものが「雄神の庄川」と呼ばれ、後に「雄神」が外されて「庄川」になったとされます。

  • 菅沼合掌造り集落 庄川<br />庄川は、南砺市で境川や小谷川、利賀川など大小の河川と合流しながら庄川峡と呼ばれる峡谷美を形成します。渓谷を抜けると小矢部川に向かって扇状地が開かれ、裾野に向かって砺波平野が広がります。平野部の流れは散居村が広がる砺波市をたゆたい、高岡市東部を流れ、やがて日本海へ注ぎます。<br />因みに、庄川は富山の隠れた食材「鮎」の古くからの漁場でもあります。平安時代、『夫木和歌抄』に俊頼朝臣の歌として「をがみ川 やきのはやえに あゆつりて あをぶもさめぬ そのね思へば」と詠われたほど、鮎の産地として京の都に知られた川でした。残念ながら庄川のダム開発で鮎は激減しましたが、今でも塩焼きをはじめ、珍味の「うるか」など様々な鮎料理が堪能できます。

    菅沼合掌造り集落 庄川
    庄川は、南砺市で境川や小谷川、利賀川など大小の河川と合流しながら庄川峡と呼ばれる峡谷美を形成します。渓谷を抜けると小矢部川に向かって扇状地が開かれ、裾野に向かって砺波平野が広がります。平野部の流れは散居村が広がる砺波市をたゆたい、高岡市東部を流れ、やがて日本海へ注ぎます。
    因みに、庄川は富山の隠れた食材「鮎」の古くからの漁場でもあります。平安時代、『夫木和歌抄』に俊頼朝臣の歌として「をがみ川 やきのはやえに あゆつりて あをぶもさめぬ そのね思へば」と詠われたほど、鮎の産地として京の都に知られた川でした。残念ながら庄川のダム開発で鮎は激減しましたが、今でも塩焼きをはじめ、珍味の「うるか」など様々な鮎料理が堪能できます。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />集落を一旦通り抜け、道なりに合流する国道156号の坂を少し登った先に展望の利く絶景ポイントがあります。菅沼合掌造り集落を紹介する写真の大半はここから撮られたものです。<br />夏場は手前にある樹木の葉が邪魔になり、撮影ポイントが限定されるかもしれません。冬季のライトアップの期間は、ここにずらりと三脚が並ぶことでしょう。

    菅沼合掌造り集落
    集落を一旦通り抜け、道なりに合流する国道156号の坂を少し登った先に展望の利く絶景ポイントがあります。菅沼合掌造り集落を紹介する写真の大半はここから撮られたものです。
    夏場は手前にある樹木の葉が邪魔になり、撮影ポイントが限定されるかもしれません。冬季のライトアップの期間は、ここにずらりと三脚が並ぶことでしょう。

  • 菅沼合掌造り集落 <br />五箇山では縄文時代の遺跡が各所で発見され、多数の土器片や石器類が出土しています。そこからは、この地が狩猟採集を中心とした生活の場に適していたことが窺えます。鳥獣や川魚、山菜、果実等の食物の入手が容易な山間部の方が、平野部よりも生活に適していたためです。<br />しかしその後の弥生時代や古墳時代の遺跡や遺物は発見されておらず、以後、鎌倉時代までの歴史は史料を欠きます。しかし、奈良時代には岐阜県境の「人形山」や利賀村と婦負郡八尾町の境にある「金剛堂山」は信仰の山として開かれたと伝わり、また、平家落人伝説が色濃く伝承され、落人所縁とされる屋敷跡や地名、食材、民謡などが存在しており、この地での人の営みは脈々と続いていたものと推定されています。

    菅沼合掌造り集落
    五箇山では縄文時代の遺跡が各所で発見され、多数の土器片や石器類が出土しています。そこからは、この地が狩猟採集を中心とした生活の場に適していたことが窺えます。鳥獣や川魚、山菜、果実等の食物の入手が容易な山間部の方が、平野部よりも生活に適していたためです。
    しかしその後の弥生時代や古墳時代の遺跡や遺物は発見されておらず、以後、鎌倉時代までの歴史は史料を欠きます。しかし、奈良時代には岐阜県境の「人形山」や利賀村と婦負郡八尾町の境にある「金剛堂山」は信仰の山として開かれたと伝わり、また、平家落人伝説が色濃く伝承され、落人所縁とされる屋敷跡や地名、食材、民謡などが存在しており、この地での人の営みは脈々と続いていたものと推定されています。

  • 菅沼合掌造り集落<br />五箇山は、深い山々に囲まれ、11月~4月まで雪が降り続き、積雪は3mを超えます。更に雪崩や地滑りも多発し、湧水もありません。往時の技術では山から水も引けず、稲作や畑作には縁のない土地でした。その代わりに生活の糧としたのが「養蚕」、「和紙」、鉄砲の火薬の原料となる「塩硝」でした。五箇山では、夏は塩硝や楮の栽培、冬は紙漉きに勤しみ、その生活と仕事場の融合体こそが合掌造りでした。<br />一説には、養蚕や和紙製造は南北朝争乱時代の後期に後南朝の遺臣が始めたとの伝承があります。また、南砺市にある八若山の名は南朝 後醍醐天皇の第8皇子(宗良(むねなが)親王)に因むとされます。宗良親王が劣勢の南朝方の軍勢を募るため船で陸奥へ向かう途上、座礁して遠江(静岡県西部)に漂着。井伊谷に身を寄せるも北朝軍によって井伊谷城が落ち、その後、越後寺泊などに潜匿。更に1342年に越中射水郡奈呉の浦(放生津)に着き、庄川東岸に位置する牧野村に潜匿し、その後1344年に信濃・伊那の香坂氏に招かれるまでそこで暮らしたと伝わります。<br />他にも、五箇山へ仏教が伝来したのは天台座主 宗良親王に拠るなど、越中に南朝秘話は尽きません。例えば安居山の安居寺や天王山には南朝「長慶天皇陵」があります。長慶天皇は在位を疑問視されていた南朝不振の頃の天皇ですが、調査の結果、在位が認められ、1926(大正15)年に歴代天皇に列せられています。

    菅沼合掌造り集落
    五箇山は、深い山々に囲まれ、11月~4月まで雪が降り続き、積雪は3mを超えます。更に雪崩や地滑りも多発し、湧水もありません。往時の技術では山から水も引けず、稲作や畑作には縁のない土地でした。その代わりに生活の糧としたのが「養蚕」、「和紙」、鉄砲の火薬の原料となる「塩硝」でした。五箇山では、夏は塩硝や楮の栽培、冬は紙漉きに勤しみ、その生活と仕事場の融合体こそが合掌造りでした。
    一説には、養蚕や和紙製造は南北朝争乱時代の後期に後南朝の遺臣が始めたとの伝承があります。また、南砺市にある八若山の名は南朝 後醍醐天皇の第8皇子(宗良(むねなが)親王)に因むとされます。宗良親王が劣勢の南朝方の軍勢を募るため船で陸奥へ向かう途上、座礁して遠江(静岡県西部)に漂着。井伊谷に身を寄せるも北朝軍によって井伊谷城が落ち、その後、越後寺泊などに潜匿。更に1342年に越中射水郡奈呉の浦(放生津)に着き、庄川東岸に位置する牧野村に潜匿し、その後1344年に信濃・伊那の香坂氏に招かれるまでそこで暮らしたと伝わります。
    他にも、五箇山へ仏教が伝来したのは天台座主 宗良親王に拠るなど、越中に南朝秘話は尽きません。例えば安居山の安居寺や天王山には南朝「長慶天皇陵」があります。長慶天皇は在位を疑問視されていた南朝不振の頃の天皇ですが、調査の結果、在位が認められ、1926(大正15)年に歴代天皇に列せられています。

  • 菅沼合掌造り集落<br />合掌造りを語るには、五箇山の三大産業は外せません。その1つ目は養蚕です。往時は、米を買うお金を絹糸を売って稼ぎました。養蚕は「天(アマ)」と呼ばれる屋根裏で営まれ、春遅い五箇山でも階下の囲炉裏の暖が上階の繭床を暖められるように床をスノコ状にし、屋根裏を2層に区切りました。これより、囲炉裏の熱と共に煤が柱の縄に染み込み、建物の強度を増すという相乗効果がありました。また、大きな障子窓も、養蚕に必要な風や光を取り込むための合理的な工夫です。狭い土地で桑を育て、蚕から絹糸を作り、蚕の排泄物から塩硝を作るという現代にも通じる「資源循環型生産システム」が合掌造りの中に見られるもう一つの顔です。<br />一方、合掌造りは単に人が住むだけの住居ではなく、「繭製造工場」であったともされ、その働き手として多い時で30~40人の家族が同じ屋根の下で暮らした大家族制の記録も残されています。<br />製糸は女性が担いました。こうして古道具を見ていると、一所懸命に働く女性たちの姿が目に浮かんでくるようです。一時は五箇山の第一産業にまで発展した養蚕ですが、戦後の様々な変化の中で生糸は売れ難くなり、やがて養蚕業は衰退していきました。

    菅沼合掌造り集落
    合掌造りを語るには、五箇山の三大産業は外せません。その1つ目は養蚕です。往時は、米を買うお金を絹糸を売って稼ぎました。養蚕は「天(アマ)」と呼ばれる屋根裏で営まれ、春遅い五箇山でも階下の囲炉裏の暖が上階の繭床を暖められるように床をスノコ状にし、屋根裏を2層に区切りました。これより、囲炉裏の熱と共に煤が柱の縄に染み込み、建物の強度を増すという相乗効果がありました。また、大きな障子窓も、養蚕に必要な風や光を取り込むための合理的な工夫です。狭い土地で桑を育て、蚕から絹糸を作り、蚕の排泄物から塩硝を作るという現代にも通じる「資源循環型生産システム」が合掌造りの中に見られるもう一つの顔です。
    一方、合掌造りは単に人が住むだけの住居ではなく、「繭製造工場」であったともされ、その働き手として多い時で30~40人の家族が同じ屋根の下で暮らした大家族制の記録も残されています。
    製糸は女性が担いました。こうして古道具を見ていると、一所懸命に働く女性たちの姿が目に浮かんでくるようです。一時は五箇山の第一産業にまで発展した養蚕ですが、戦後の様々な変化の中で生糸は売れ難くなり、やがて養蚕業は衰退していきました。

  • 菅沼合掌造り集落<br />三大産業の2つ目は和紙です。 和紙が担ってきたのは「年貢」の代替です。 米の代わりに和紙を献上していたそうです。和紙は楮(こうぞ)の繊維から作られ、しかも栽培が容易なことから、自然環境の厳しい五箇山でも育ちました。<br />手漉和紙は1階で行われ、養蚕に適さない冬期の重要な生業のひとつでした。その起源は不詳ですが、600年前には和紙を出荷していたとの記録が残されています。天正年間に加賀藩初代藩主 前田利家に五箇山和紙十束を献上、また、2代藩主 利長には中折紙を贈ったとの記録があり、和紙産業が古来伝統産業であったことを裏付けています。<br />以来、五箇山和紙は加賀藩の手厚い庇護を受けて発展し、良質和紙の産地として今日に至りました。かじかんだ指をお湯で温めながら漉く五箇山和紙は、雪の湿気と太陽の光によって雪のように白くなると言い、「洗濯ができる」と称されるほど強靭で優美な風合いを湛えます。都の文化を山里の自然が育んだ五箇山和紙は、八尾和紙、蛭谷和紙と共に「越中和紙」の名で国の伝統工芸品に指定されています。

    菅沼合掌造り集落
    三大産業の2つ目は和紙です。 和紙が担ってきたのは「年貢」の代替です。 米の代わりに和紙を献上していたそうです。和紙は楮(こうぞ)の繊維から作られ、しかも栽培が容易なことから、自然環境の厳しい五箇山でも育ちました。
    手漉和紙は1階で行われ、養蚕に適さない冬期の重要な生業のひとつでした。その起源は不詳ですが、600年前には和紙を出荷していたとの記録が残されています。天正年間に加賀藩初代藩主 前田利家に五箇山和紙十束を献上、また、2代藩主 利長には中折紙を贈ったとの記録があり、和紙産業が古来伝統産業であったことを裏付けています。
    以来、五箇山和紙は加賀藩の手厚い庇護を受けて発展し、良質和紙の産地として今日に至りました。かじかんだ指をお湯で温めながら漉く五箇山和紙は、雪の湿気と太陽の光によって雪のように白くなると言い、「洗濯ができる」と称されるほど強靭で優美な風合いを湛えます。都の文化を山里の自然が育んだ五箇山和紙は、八尾和紙、蛭谷和紙と共に「越中和紙」の名で国の伝統工芸品に指定されています。

  • 菅沼合掌造り集落<br />三大産業の3つ目は加賀塩硝です。塩硝とは火薬の原料になる硝酸カリウムのことです。「塩硝の館」にはその歴史が紹介されています。塩硝の原料はウドやヨモギなど五箇山で採れる植物と蚕の糞でした。これらを床下に掘った穴に4年間寝かせて発酵させると塩硝土になり、それに水と灰を加えて煮詰めると塩硝ができます。<br />床下で製造した理由は、安定した気温が必要だったためです。もう一つは、塩硝製造が加賀藩の軍事機密だったためです。五箇山は秘境の地にあり、幕府に隠れて塩硝を作る「かくれ里」でした。その始まりは、本願寺が浄土真宗信仰が篤いこの地に目を付けて塩硝を作らせ、織田信長との石山合戦に火薬として用いたことでした。江戸時代には加賀藩に納め、藩も塩硝製造を奨励しました。天然塩硝の生産地は限られており、鉄砲が武器の主流だった時代、武将なら誰もが欲しがる軍需品でした。藩は、塩硝を幕府に秘密裏に入手するために床下での製造を命じ、年貢として納めさせました。この作業場を確保するため、地下と1階部分も併せて家屋の規模が巨大化していったそうです。<br />藩は藩政崩壊まで塩硝を大量に買っており、最盛期には年間39トンも買い上げたそうです。往時、その質と量は共に日本一の座にあったといいます。尚、「煙硝」でなく「塩硝」と記するのは、塩硝の結晶は塩とよく似ており、塩と偽って塩硝を取引していたことによります。こうした重厚な合掌造りが維持されてきたのは、藩からの手厚い庇護があったからです。しかし明治時代に入り、加賀藩の消滅や安価なチリ硝石の輸入が始まると、五箇山の塩硝は大きな痛手を受け、衰退していきました。

    菅沼合掌造り集落
    三大産業の3つ目は加賀塩硝です。塩硝とは火薬の原料になる硝酸カリウムのことです。「塩硝の館」にはその歴史が紹介されています。塩硝の原料はウドやヨモギなど五箇山で採れる植物と蚕の糞でした。これらを床下に掘った穴に4年間寝かせて発酵させると塩硝土になり、それに水と灰を加えて煮詰めると塩硝ができます。
    床下で製造した理由は、安定した気温が必要だったためです。もう一つは、塩硝製造が加賀藩の軍事機密だったためです。五箇山は秘境の地にあり、幕府に隠れて塩硝を作る「かくれ里」でした。その始まりは、本願寺が浄土真宗信仰が篤いこの地に目を付けて塩硝を作らせ、織田信長との石山合戦に火薬として用いたことでした。江戸時代には加賀藩に納め、藩も塩硝製造を奨励しました。天然塩硝の生産地は限られており、鉄砲が武器の主流だった時代、武将なら誰もが欲しがる軍需品でした。藩は、塩硝を幕府に秘密裏に入手するために床下での製造を命じ、年貢として納めさせました。この作業場を確保するため、地下と1階部分も併せて家屋の規模が巨大化していったそうです。
    藩は藩政崩壊まで塩硝を大量に買っており、最盛期には年間39トンも買い上げたそうです。往時、その質と量は共に日本一の座にあったといいます。尚、「煙硝」でなく「塩硝」と記するのは、塩硝の結晶は塩とよく似ており、塩と偽って塩硝を取引していたことによります。こうした重厚な合掌造りが維持されてきたのは、藩からの手厚い庇護があったからです。しかし明治時代に入り、加賀藩の消滅や安価なチリ硝石の輸入が始まると、五箇山の塩硝は大きな痛手を受け、衰退していきました。

  • 菅沼合掌造り集落<br />五箇山に塩硝の製造方法が伝承された経緯を辿ってみましょう。<br />1543年に種子島に鉄砲が伝来すると、戦では火縄銃が重宝されるようになり、黒色火薬が用いられました。火薬の製造には硝石が大量に必要ですが、降水量の多い日本ではほとんど産出せず、大半が輸入品でした。しかし本願寺の仲介により火薬の国産化が始まると、本願寺は密約を破って秘伝の製法を五箇山に伝えました。それは、信仰上、本願寺の勢力が五箇山に深く根付いていたためでした。本願寺の仲介で五箇山へ技術者が派遣され、やがて五箇山製の塩硝が搬送され、それを使った本願寺火薬が石山合戦で用いられました。<br />一方、塩硝を加賀藩へ運ぶルートは「塩硝街道」と呼ばれ、史料では3つのルートが確認されています。中でも重要なルートは、五箇山の西にあるブナオ峠を越えて小矢部川の上流に出て、そこから小矢部川沿いに下り、刀利から再び山越えをして湯涌や土清水に至る道筋です。土清水には加賀藩の塩硝蔵があり、そこで火縄銃の黒色火薬を製造したと伝わります。

    菅沼合掌造り集落
    五箇山に塩硝の製造方法が伝承された経緯を辿ってみましょう。
    1543年に種子島に鉄砲が伝来すると、戦では火縄銃が重宝されるようになり、黒色火薬が用いられました。火薬の製造には硝石が大量に必要ですが、降水量の多い日本ではほとんど産出せず、大半が輸入品でした。しかし本願寺の仲介により火薬の国産化が始まると、本願寺は密約を破って秘伝の製法を五箇山に伝えました。それは、信仰上、本願寺の勢力が五箇山に深く根付いていたためでした。本願寺の仲介で五箇山へ技術者が派遣され、やがて五箇山製の塩硝が搬送され、それを使った本願寺火薬が石山合戦で用いられました。
    一方、塩硝を加賀藩へ運ぶルートは「塩硝街道」と呼ばれ、史料では3つのルートが確認されています。中でも重要なルートは、五箇山の西にあるブナオ峠を越えて小矢部川の上流に出て、そこから小矢部川沿いに下り、刀利から再び山越えをして湯涌や土清水に至る道筋です。土清水には加賀藩の塩硝蔵があり、そこで火縄銃の黒色火薬を製造したと伝わります。

  • 菅沼合掌造り集落 神明社<br />浄土真宗が色濃い五箇山ですが、菅沼集落には神明社が、相倉集落には地主神社があります。神明社は本殿だけでなく、狛犬や石鳥居、石燈籠なども含めて国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。背丈のある樹木に囲まれた静謐な空間は、「まつりごと」を行う神聖な場でした。<br />因みに、家の中には、今でも神棚と仏壇が並んでいるそうです。合掌造り集落の佇まいに注目されがちですが、その陰にも多様な魅力が詰まっています。この山深い辺境でどのような文化が発展してきたのかを紐解く歴史の旅もなかなかのものです。

    菅沼合掌造り集落 神明社
    浄土真宗が色濃い五箇山ですが、菅沼集落には神明社が、相倉集落には地主神社があります。神明社は本殿だけでなく、狛犬や石鳥居、石燈籠なども含めて国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。背丈のある樹木に囲まれた静謐な空間は、「まつりごと」を行う神聖な場でした。
    因みに、家の中には、今でも神棚と仏壇が並んでいるそうです。合掌造り集落の佇まいに注目されがちですが、その陰にも多様な魅力が詰まっています。この山深い辺境でどのような文化が発展してきたのかを紐解く歴史の旅もなかなかのものです。

  • 菅沼合掌造り集落 神明社<br />五箇山の魅力は、合掌造り家屋に留まりません。集落にある神社仏閣や独特な姿を呈する自然風景も五箇山の歴史を物語る脇役です。五箇山の最高峰「人形山(標高1726m)」は、奈良時代に霊峰白山を開山した僧 泰澄が開いたと伝わり、白山信仰の修験場となりました。その頃に山岳修験者の行場として小さな村落が開かれており、それが五箇山です。<br />鎌倉時代には五箇山に浄土真宗が広まり、その布教拠点として門徒が寺や念仏道場を設け、宗教色の濃い集落が形成されました。戦国時代、浄土真宗は織田信長と張り合うほどの勢力を持ち、五箇山での信仰が篤くなったことで更に時代の潮流に翻弄されていきます。<br />戦国時代には越中は真宗王国と言われ、五箇山は布教拠点となった井波 瑞泉寺に近い関係から、早くから真宗が浸透しました。五箇山の地名が初見される史料も利賀村高田家蔵『阿弥陀如来絵像裏書』(1513(永正10)年)とされます。真宗の布教は瑞泉寺開基の本願寺5世 綽如や8世 蓮如、行徳寺所縁の道宗に負うところが大きく、天文年間の『証如書状』(五箇山瑞願寺文書)や『五箇山衆連署申定』(五箇山生田家文書)によると、この時期には五箇山一帯が真宗教団化していたことが窺えます。1570年、大坂で石山合戦が勃発した折、本願寺派は信長の天下統一の野望に抗い、鉄砲3千梃で攻撃しました。その戦の際に使用された弾薬は、五箇山で作られた塩硝から製造されたといいます。

    菅沼合掌造り集落 神明社
    五箇山の魅力は、合掌造り家屋に留まりません。集落にある神社仏閣や独特な姿を呈する自然風景も五箇山の歴史を物語る脇役です。五箇山の最高峰「人形山(標高1726m)」は、奈良時代に霊峰白山を開山した僧 泰澄が開いたと伝わり、白山信仰の修験場となりました。その頃に山岳修験者の行場として小さな村落が開かれており、それが五箇山です。
    鎌倉時代には五箇山に浄土真宗が広まり、その布教拠点として門徒が寺や念仏道場を設け、宗教色の濃い集落が形成されました。戦国時代、浄土真宗は織田信長と張り合うほどの勢力を持ち、五箇山での信仰が篤くなったことで更に時代の潮流に翻弄されていきます。
    戦国時代には越中は真宗王国と言われ、五箇山は布教拠点となった井波 瑞泉寺に近い関係から、早くから真宗が浸透しました。五箇山の地名が初見される史料も利賀村高田家蔵『阿弥陀如来絵像裏書』(1513(永正10)年)とされます。真宗の布教は瑞泉寺開基の本願寺5世 綽如や8世 蓮如、行徳寺所縁の道宗に負うところが大きく、天文年間の『証如書状』(五箇山瑞願寺文書)や『五箇山衆連署申定』(五箇山生田家文書)によると、この時期には五箇山一帯が真宗教団化していたことが窺えます。1570年、大坂で石山合戦が勃発した折、本願寺派は信長の天下統一の野望に抗い、鉄砲3千梃で攻撃しました。その戦の際に使用された弾薬は、五箇山で作られた塩硝から製造されたといいます。

  • 菅沼合掌造り集落 神明社<br />宗教と密接に繋がり発展してきた五箇山ですが、その後も宗教の発展は続きます。五箇山の浄土真宗の特徴は、西本願寺派(浄土真宗本願寺派)と東本願寺派(真宗大谷派)が共存していたことです。そもそも浄土真宗が分裂したのは、石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山 石山本願寺が武装解除に応じ、一向宗が石山本願寺から追放されたことに始まります。豊臣秀吉の時代に本願寺派は烏丸で再興を許されるも、その後も内部分裂状態が続き、それを逆手に取った家康の宗教政策により、教如を門主として西本願寺の東隣に東本願寺を分立して大谷派ができました。家康は、信長がどの大名よりも本願寺に手を焼いたのを教訓に、「勢力分断のため東西に分けた」と考えられています。<br />しかし相倉集落では都とは事情が異なりました。東本願寺派が相念寺を建てる際、宗派に関係なく、集落中の住民が資金を寄進したそうです。そのお礼に、東本願寺派の有力者の建物を西本願寺派の有力者宅の横に移設しました。それが「西方道場」です。小さな集落に両派の道場が建立されたのは、同じ宗教を信仰する住民の相互扶助精神「結」の表れでした。現在の五箇山の人々の優しさは、この頃から受け継がれてきたDNAと言えるかもしれません。<br /><br />この続きは、情緒纏綿 越中富山紀行②五箇山(後編)でお届けします。

    菅沼合掌造り集落 神明社
    宗教と密接に繋がり発展してきた五箇山ですが、その後も宗教の発展は続きます。 五箇山の浄土真宗の特徴は、西本願寺派(浄土真宗本願寺派)と東本願寺派(真宗大谷派)が共存していたことです。そもそも浄土真宗が分裂したのは、石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山 石山本願寺が武装解除に応じ、一向宗が石山本願寺から追放されたことに始まります。豊臣秀吉の時代に本願寺派は烏丸で再興を許されるも、その後も内部分裂状態が続き、それを逆手に取った家康の宗教政策により、教如を門主として西本願寺の東隣に東本願寺を分立して大谷派ができました。家康は、信長がどの大名よりも本願寺に手を焼いたのを教訓に、「勢力分断のため東西に分けた」と考えられています。
    しかし相倉集落では都とは事情が異なりました。東本願寺派が相念寺を建てる際、宗派に関係なく、集落中の住民が資金を寄進したそうです。そのお礼に、東本願寺派の有力者の建物を西本願寺派の有力者宅の横に移設しました。それが「西方道場」です。小さな集落に両派の道場が建立されたのは、同じ宗教を信仰する住民の相互扶助精神「結」の表れでした。現在の五箇山の人々の優しさは、この頃から受け継がれてきたDNAと言えるかもしれません。

    この続きは、情緒纏綿 越中富山紀行②五箇山(後編)でお届けします。

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