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「越中富山の薬売り」と言われ医薬品産業が盛んな富山市に、年間7万人もの観光客が押し寄せる人気の薬屋があります。それが堤町通りに店舗を構える「池田屋安兵衛商店」です。<br />ひと際目を引くなまこ壁と瓦葺土蔵造りの店舗には、大きく「反魂丹(はんごんたん)」と染め抜いた暖簾を掛けています。その中央にある屋号「角三」は、「信用」「伝統」「研鑽」の3つを極めよという家訓を表しています。映画『釣りバカ日誌13・ハマちゃん危機一髪!』では、老舗薬問屋「天狗堂」の名で外観が映されました。<br />池田屋安兵衛商店を堪能した後は、地元ボランティア・ガイドさんと一緒に街ブラを愉しみました。飽きさせない巧みな話術とガイドブックにない情報が満載で、真の「おもてなし」におのずと頭が下がります。<br />池田屋安兵衛商店のHPです。<br />http://www.hangontan.co.jp/

情緒纏綿 越中富山紀行④池田屋安兵衛商店+街ある記

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2019/11/10 - 2019/11/11

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

「越中富山の薬売り」と言われ医薬品産業が盛んな富山市に、年間7万人もの観光客が押し寄せる人気の薬屋があります。それが堤町通りに店舗を構える「池田屋安兵衛商店」です。
ひと際目を引くなまこ壁と瓦葺土蔵造りの店舗には、大きく「反魂丹(はんごんたん)」と染め抜いた暖簾を掛けています。その中央にある屋号「角三」は、「信用」「伝統」「研鑽」の3つを極めよという家訓を表しています。映画『釣りバカ日誌13・ハマちゃん危機一髪!』では、老舗薬問屋「天狗堂」の名で外観が映されました。
池田屋安兵衛商店を堪能した後は、地元ボランティア・ガイドさんと一緒に街ブラを愉しみました。飽きさせない巧みな話術とガイドブックにない情報が満載で、真の「おもてなし」におのずと頭が下がります。
池田屋安兵衛商店のHPです。
http://www.hangontan.co.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線 JR特急
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
読売旅行
  • 池田屋安兵衛商店<br />創業は昭和11(1936)年。初代 池田実氏が和漢薬種問屋として暖簾を掲げた後、戦後まもなく江戸時代に一世を風靡した「反魂丹」を現代風にアレンジした和漢薬として復刻させ、製造販売を始めました。創業当時は店舗内で製造・調剤して卸・小売を行っていたそうですが、戦後、薬事法制定により製造と卸部門は郊外へ移転しました。現在は140 種の漢方薬を扱い、個人調合もされています。

    池田屋安兵衛商店
    創業は昭和11(1936)年。初代 池田実氏が和漢薬種問屋として暖簾を掲げた後、戦後まもなく江戸時代に一世を風靡した「反魂丹」を現代風にアレンジした和漢薬として復刻させ、製造販売を始めました。創業当時は店舗内で製造・調剤して卸・小売を行っていたそうですが、戦後、薬事法制定により製造と卸部門は郊外へ移転しました。現在は140 種の漢方薬を扱い、個人調合もされています。

  • 池田屋安兵衛商店<br />現在の建屋は、かつて住居兼生薬倉庫として使っていた家屋をリノベーションして吹抜けの開放的な空間に改築したものです。創業時の店舗は太平洋戦争末期の空襲で焼失し、戦後ほどない1946年になまこ壁の美しい外観で再建されました。富山市の中心市街地では最古の木造建築物の一つです。店内は1992年に改装され、2階に薬膳料理を提供するレストラン「薬都」を開設し、観光バスを誘致するまでになっています。

    池田屋安兵衛商店
    現在の建屋は、かつて住居兼生薬倉庫として使っていた家屋をリノベーションして吹抜けの開放的な空間に改築したものです。創業時の店舗は太平洋戦争末期の空襲で焼失し、戦後ほどない1946年になまこ壁の美しい外観で再建されました。富山市の中心市街地では最古の木造建築物の一つです。店内は1992年に改装され、2階に薬膳料理を提供するレストラン「薬都」を開設し、観光バスを誘致するまでになっています。

  • 池田屋安兵衛商店<br />富山藩主2代 前田正甫(まさとし)は薬草の研究家として知られ、城内には薬草園までありました。家庭用医薬品の歴史は室町時代に遡ります。堺の商人 万代掃部助 (もずかもんのすけ) が唐人から「反魂丹」の処方を学び家伝薬としたのが始まりとされます。伝承によると、富山藩主2代 前田正甫が腹痛を起こした際、備前の反魂丹を服用して快癒し、1683(天和3)年に備前から医師 万代家11代目 常閑を越中に招聘し、これを基に独自に調合した300年以上の伝統を持つ富山の薬売りが始まりました。<br />もう一つ、富山売薬が繁栄した背景にあるのは、「先用後利(せんようこうり)=置き薬」と言う独自のビジネスモデルです。基本理念「先用後利」は、「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ」という正甫の訓示からの引用です。<br />薬を客に預け、使った分だけ後から代金を徴収する仕組みを構築し、全国津々浦々、どんな僻地にも届けました。全盛期の昭和時代初期、市内の3軒に1軒は売薬関係の仕事に携わっていたといい、現在の富山経済の基盤にもなっています。

    池田屋安兵衛商店
    富山藩主2代 前田正甫(まさとし)は薬草の研究家として知られ、城内には薬草園までありました。家庭用医薬品の歴史は室町時代に遡ります。堺の商人 万代掃部助 (もずかもんのすけ) が唐人から「反魂丹」の処方を学び家伝薬としたのが始まりとされます。伝承によると、富山藩主2代 前田正甫が腹痛を起こした際、備前の反魂丹を服用して快癒し、1683(天和3)年に備前から医師 万代家11代目 常閑を越中に招聘し、これを基に独自に調合した300年以上の伝統を持つ富山の薬売りが始まりました。
    もう一つ、富山売薬が繁栄した背景にあるのは、「先用後利(せんようこうり)=置き薬」と言う独自のビジネスモデルです。基本理念「先用後利」は、「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ」という正甫の訓示からの引用です。
    薬を客に預け、使った分だけ後から代金を徴収する仕組みを構築し、全国津々浦々、どんな僻地にも届けました。全盛期の昭和時代初期、市内の3軒に1軒は売薬関係の仕事に携わっていたといい、現在の富山経済の基盤にもなっています。

  • 池田屋安兵衛商店<br />富山市の観光ルートに組込まれているため、観光客がメイン顧客になるのはご愛敬です。しかし、それを意識した薬や健康をPRする仕組みを作り、巧みに展開されているのには頭が下がります。<br />まず、歴史を感じさせる「なまこ壁」の店構えです。この景観でノスタルジーを呼び覚まします。<br />次は、「座売り」という昔ながらの販売方法に拘っていることです。薬剤師が客と膝を交えてカウンセリングして調合するのが「座売り」です。そもそも和漢薬は、症状や体力、体質に応じて調剤して提供するものです。入口の左手にある座売りの場は、土間と上がり框(かまち)の構成とし、その奥にある調剤室は調剤の様子をガラス越しに見られます。

    池田屋安兵衛商店
    富山市の観光ルートに組込まれているため、観光客がメイン顧客になるのはご愛敬です。しかし、それを意識した薬や健康をPRする仕組みを作り、巧みに展開されているのには頭が下がります。
    まず、歴史を感じさせる「なまこ壁」の店構えです。この景観でノスタルジーを呼び覚まします。
    次は、「座売り」という昔ながらの販売方法に拘っていることです。薬剤師が客と膝を交えてカウンセリングして調合するのが「座売り」です。そもそも和漢薬は、症状や体力、体質に応じて調剤して提供するものです。入口の左手にある座売りの場は、土間と上がり框(かまち)の構成とし、その奥にある調剤室は調剤の様子をガラス越しに見られます。

  • 池田屋安兵衛商店<br />富山県は「薬の都」と称されますが、越中富山の薬の原点となったのが江戸時代に富山藩で作られていた丸薬「反魂丹」でした。「反魂丹」は「体から抜けた魂を呼び戻す練り薬」に因んで命名され、オウレン、センブリ、ショウキョウ、牛胆に自然の生薬を配合した胃腸薬です。また、熊の胆も配合しており、食べ過ぎ、飲み過ぎ、二日酔い、バス酔いなどに効く江戸時代からの超ロングセラー万能薬です。しかし今ではこの店以外ではほぼ入手困難であり、絶滅危惧種に数えられる幻の薬でもあります。

    池田屋安兵衛商店
    富山県は「薬の都」と称されますが、越中富山の薬の原点となったのが江戸時代に富山藩で作られていた丸薬「反魂丹」でした。「反魂丹」は「体から抜けた魂を呼び戻す練り薬」に因んで命名され、オウレン、センブリ、ショウキョウ、牛胆に自然の生薬を配合した胃腸薬です。また、熊の胆も配合しており、食べ過ぎ、飲み過ぎ、二日酔い、バス酔いなどに効く江戸時代からの超ロングセラー万能薬です。しかし今ではこの店以外ではほぼ入手困難であり、絶滅危惧種に数えられる幻の薬でもあります。

  • 池田屋安兵衛商店<br />「置き薬」は、今やアジアでも浸透し始めているそうです。日本財団は、2004年にモンゴルの遊牧民を中心に10万人(2万世帯)に置き薬を提供、2009年にはタイやミャンマーにも展開しました。また、NPO法人「AfriMedico」は、発熱や下痢など些細な病気で子供が死亡するアフリカの農村部の現状を改善するため、アフリカ版「置き薬」を展開しています。例えば、ニジェールでは年間345万人が5歳未満で命を落とすそうです。<br />旧き佳き富山の文化が世界で受け入れられ広がっているのは誇らしいことです。

    池田屋安兵衛商店
    「置き薬」は、今やアジアでも浸透し始めているそうです。日本財団は、2004年にモンゴルの遊牧民を中心に10万人(2万世帯)に置き薬を提供、2009年にはタイやミャンマーにも展開しました。また、NPO法人「AfriMedico」は、発熱や下痢など些細な病気で子供が死亡するアフリカの農村部の現状を改善するため、アフリカ版「置き薬」を展開しています。例えば、ニジェールでは年間345万人が5歳未満で命を落とすそうです。
    旧き佳き富山の文化が世界で受け入れられ広がっているのは誇らしいことです。

  • 池田屋安兵衛商店<br />ずらりと引き出しが並ぶ薬草箱に、薬の町らしさが伝わってきます。<br />その昔、中国から薬の知識と技術が伝来し、日本古来の薬草と融合して日本人に合った和漢薬が生まれました。その名が全国に認知されたのは、1690(元禄3) 年に起こった「江戸城腹痛事件」に遡ります。江戸城内で三春(福島県)藩主 秋田輝季が腹痛を訴えた。そこに居合わせた富山藩主 前田正甫が印籠から「反魂丹」を取り出して与えたところ、たちどころに快癒した。居並ぶ大名はその効き目に驚き、「我が藩でも販売して欲しい」と懇願した。このエピソードは、トップセールスの成功事例と言えます。その後、正甫が全国で自由に商売できる許可証『他領商売勝手』を発布し、城下の薬種商 松井屋源右衛門に製薬を命じ、八重崎屋源六が行商して全国に普及させたと伝わります。「殿様商売」ではなく、官民一体となった積極的な経済政策が奏功し、外貨を稼いで藩の財政を潤した訳です。<br />しかしその後、西洋かぶれした明治政府は前時代の文化を全て否定し、医学に関しては西洋医学を積極的に導入した経緯もあり、かつては名を馳せた反魂丹もその姿を消していきました。

    池田屋安兵衛商店
    ずらりと引き出しが並ぶ薬草箱に、薬の町らしさが伝わってきます。
    その昔、中国から薬の知識と技術が伝来し、日本古来の薬草と融合して日本人に合った和漢薬が生まれました。その名が全国に認知されたのは、1690(元禄3) 年に起こった「江戸城腹痛事件」に遡ります。江戸城内で三春(福島県)藩主 秋田輝季が腹痛を訴えた。そこに居合わせた富山藩主 前田正甫が印籠から「反魂丹」を取り出して与えたところ、たちどころに快癒した。居並ぶ大名はその効き目に驚き、「我が藩でも販売して欲しい」と懇願した。このエピソードは、トップセールスの成功事例と言えます。その後、正甫が全国で自由に商売できる許可証『他領商売勝手』を発布し、城下の薬種商 松井屋源右衛門に製薬を命じ、八重崎屋源六が行商して全国に普及させたと伝わります。「殿様商売」ではなく、官民一体となった積極的な経済政策が奏功し、外貨を稼いで藩の財政を潤した訳です。
    しかしその後、西洋かぶれした明治政府は前時代の文化を全て否定し、医学に関しては西洋医学を積極的に導入した経緯もあり、かつては名を馳せた反魂丹もその姿を消していきました。

  • 池田屋安兵衛商店<br />富山の売薬は、全国津々浦々にあった売薬とは品質管理や経営方針が一線を画していました。具体的に言えば、原料の仕入れから製造プロセスに至るまで全ての工程をチェックする機能を置いたことです。これは現在のトヨタ生産方式の工程保証と同じ考え方です。そのチェック機能を「吟味方」と言い、富山藩が担いました。現代で言えば「国家管理」に匹敵する品質が保たれ、それ故に富山の売薬は圧倒的な寡占ができたのです。

    池田屋安兵衛商店
    富山の売薬は、全国津々浦々にあった売薬とは品質管理や経営方針が一線を画していました。具体的に言えば、原料の仕入れから製造プロセスに至るまで全ての工程をチェックする機能を置いたことです。これは現在のトヨタ生産方式の工程保証と同じ考え方です。そのチェック機能を「吟味方」と言い、富山藩が担いました。現代で言えば「国家管理」に匹敵する品質が保たれ、それ故に富山の売薬は圧倒的な寡占ができたのです。

  • 池田屋安兵衛商店<br />釘を使わずに建てられた太い梁や漆喰の壁、上がり框などにも趣があります。<br />店内の壁に掛けられたクラシックなブリキ製看板は、大正~昭和時代初期に実際に使われていたもので、先代のコレクションだそうです。<br />これらの看板は薬メーカから取引のある卸問屋に提供されたもので、「大学目薬」と書かれた看板は「サンテ目薬」で有名な参天製薬、「中将湯」とあるのは漢方薬で知られる「ツムラ」の看板です。さすが創業昭和11年の薬問屋だけあり、本家の製薬会社にも残されていない激レアなお宝を拝見することができます。

    池田屋安兵衛商店
    釘を使わずに建てられた太い梁や漆喰の壁、上がり框などにも趣があります。
    店内の壁に掛けられたクラシックなブリキ製看板は、大正~昭和時代初期に実際に使われていたもので、先代のコレクションだそうです。
    これらの看板は薬メーカから取引のある卸問屋に提供されたもので、「大学目薬」と書かれた看板は「サンテ目薬」で有名な参天製薬、「中将湯」とあるのは漢方薬で知られる「ツムラ」の看板です。さすが創業昭和11年の薬問屋だけあり、本家の製薬会社にも残されていない激レアなお宝を拝見することができます。

  • 池田屋安兵衛商店<br />こちらも古い看板ですが、メーカ名をインターネットで検索してもヒットしません。

    池田屋安兵衛商店
    こちらも古い看板ですが、メーカ名をインターネットで検索してもヒットしません。

  • 池田屋安兵衛商店<br />三重県にある翠松堂製薬株式会社が製造する和漢処方の便秘薬「百毒下し」の看板です。翠松堂製薬は、室町時代の1570(元亀元)年から続く、現存する最古の製薬会社です。室町時代中期、赤堀(現 四日市市)に城を築いた田原景信の典医として仕えた加藤家が発祥です。加藤家は、織田信長によって田原家が滅ぼされた後、加藤延寿軒の名で製薬業を興しました。江戸時代の文化年間には、二条関白家より二条殿製薬所に認められ、全国に家伝薬を販売しました。1887(明治20)年、松の緑に覆われた庭園内に製薬所があったことから、商号を加藤翠松堂と改めまています。<br />「百毒下し」は、徳川第14代将軍 家茂の侍医を務め、その後新撰組隊士の治療や初代陸軍軍医総監を務めた松本良順が、1892(明治25)年頃に蘭方医として江戸と長崎の往来の際に加藤家に投宿し、その返礼に加藤家に授けらた処方と伝えらます。効能書きには「瘡毒一切に効あり」とあり、解毒や性病の治療などに使用されました。名医 良順による宣伝効果は大きく、知名度は広まり、それ以来、伊勢参りする人々の常備薬やお土産物として人気を集めたそうです。

    池田屋安兵衛商店
    三重県にある翠松堂製薬株式会社が製造する和漢処方の便秘薬「百毒下し」の看板です。 翠松堂製薬は、室町時代の1570(元亀元)年から続く、現存する最古の製薬会社です。室町時代中期、赤堀(現 四日市市)に城を築いた田原景信の典医として仕えた加藤家が発祥です。加藤家は、織田信長によって田原家が滅ぼされた後、加藤延寿軒の名で製薬業を興しました。江戸時代の文化年間には、二条関白家より二条殿製薬所に認められ、全国に家伝薬を販売しました。1887(明治20)年、松の緑に覆われた庭園内に製薬所があったことから、商号を加藤翠松堂と改めまています。
    「百毒下し」は、徳川第14代将軍 家茂の侍医を務め、その後新撰組隊士の治療や初代陸軍軍医総監を務めた松本良順が、1892(明治25)年頃に蘭方医として江戸と長崎の往来の際に加藤家に投宿し、その返礼に加藤家に授けらた処方と伝えらます。効能書きには「瘡毒一切に効あり」とあり、解毒や性病の治療などに使用されました。名医 良順による宣伝効果は大きく、知名度は広まり、それ以来、伊勢参りする人々の常備薬やお土産物として人気を集めたそうです。

  • 池田屋安兵衛商店<br />浅田飴の看板です。<br />「良薬にして口に甘し」というキャッチフレーズで売り出されたのは、1887(明治20)年のことでした。当初は「御薬(おんくすり)さらし水飴」と命名しましたが、2年後に浅田宗伯に因んで「浅田飴」と改称し、息子の初代 堀内伊太郎の手により発売されました。<br />浅田宗伯は同郷のよしみから創始者 堀内伊三郎に処方を伝授しました。宗伯は、信濃国の医業を営む家に生まれ、15歳の頃より京都や江戸で漢方医学と共に頼山陽らから儒学・歴史学を学びました。1866(慶応2)年には将軍 家定の夫人天璋院はじめ大奥の侍医となり、法眼に叙せられました。また、維新後に嘉仁親王(後の大正天皇)の侍医となり難症を治し、西洋医学が主流となった中で漢方医学の最後の大家といわれた人物です。

    池田屋安兵衛商店
    浅田飴の看板です。
    「良薬にして口に甘し」というキャッチフレーズで売り出されたのは、1887(明治20)年のことでした。当初は「御薬(おんくすり)さらし水飴」と命名しましたが、2年後に浅田宗伯に因んで「浅田飴」と改称し、息子の初代 堀内伊太郎の手により発売されました。
    浅田宗伯は同郷のよしみから創始者 堀内伊三郎に処方を伝授しました。宗伯は、信濃国の医業を営む家に生まれ、15歳の頃より京都や江戸で漢方医学と共に頼山陽らから儒学・歴史学を学びました。1866(慶応2)年には将軍 家定の夫人天璋院はじめ大奥の侍医となり、法眼に叙せられました。また、維新後に嘉仁親王(後の大正天皇)の侍医となり難症を治し、西洋医学が主流となった中で漢方医学の最後の大家といわれた人物です。

  • 池田屋安兵衛商店<br />入口右手にある立売りの場では、ユニークなパッケージデザインの妙薬をゲットできます。<br />整然と並ぶのは、戦前から作られている富山生まれの薬の数々です。レトロ感溢れるキュートなパッケージデザインのものも少なくなく、実は絵柄やユーモラスなネーミングには深い意味があります。

    池田屋安兵衛商店
    入口右手にある立売りの場では、ユニークなパッケージデザインの妙薬をゲットできます。
    整然と並ぶのは、戦前から作られている富山生まれの薬の数々です。レトロ感溢れるキュートなパッケージデザインのものも少なくなく、実は絵柄やユーモラスなネーミングには深い意味があります。

  • 池田屋安兵衛商店<br />例えば、だるまの形をした薬は、風邪薬「ハイトン」。名の由来は、「はい、頓服(とんぷく)飲んで!」の「ハイ」と、とんぷくの「トン」から。ダルマのパッケージは、病気で寝込んでもすぐに起き上がれるように縁起を担いでの抜擢です。「達磨」は、禅宗の開祖であり、達磨大師とも呼ばれます。尚、「ダルマ」はサンスクリット語で「法」を表す言葉です。玩具の「起き上がり小法師(こぼし)」は、何度も起き上がる様子を大師が面壁9年という坐禅を行った逸話に因み、達磨の顔を描くようになったとされます。更に、ダルマが赤いのは、大師が赤い衣を着ていたことに由来しますが、赤色には魔除け効果があり、天然痘を引き起こす疱瘡神が赤色を嫌うと信じられていたことに因みます。

    池田屋安兵衛商店
    例えば、だるまの形をした薬は、風邪薬「ハイトン」。名の由来は、「はい、頓服(とんぷく)飲んで!」の「ハイ」と、とんぷくの「トン」から。ダルマのパッケージは、病気で寝込んでもすぐに起き上がれるように縁起を担いでの抜擢です。「達磨」は、禅宗の開祖であり、達磨大師とも呼ばれます。尚、「ダルマ」はサンスクリット語で「法」を表す言葉です。玩具の「起き上がり小法師(こぼし)」は、何度も起き上がる様子を大師が面壁9年という坐禅を行った逸話に因み、達磨の顔を描くようになったとされます。更に、ダルマが赤いのは、大師が赤い衣を着ていたことに由来しますが、赤色には魔除け効果があり、天然痘を引き起こす疱瘡神が赤色を嫌うと信じられていたことに因みます。

  • 池田屋安兵衛商店<br />お腹を丸出しにした布袋の絵は「胃腸薬(赤玉)」、飛行機やロケットは「即効性が売りの薬」といった具合です。更には、頭に手を添えた絵は頭痛薬、手を添えないのは咳止めの目印です。その他、笑顔の女性がマスクを外す「咳止め(セキピタル)」など、絵を見るだけでビジュアルに薬の用途が判る仕組みです。<br />最初見た時には「ノリと勢い」で絵柄をデザインしているのかと思いましたが、説明を聞くに及び、買い手のことを慮ったデザインであり、熟慮の末のものであることに感服した次第です。<br />我々年配者にはどこか懐古的なデザインに思えますが、若者の間では「かわいい」と人気だそうです。

    池田屋安兵衛商店
    お腹を丸出しにした布袋の絵は「胃腸薬(赤玉)」、飛行機やロケットは「即効性が売りの薬」といった具合です。更には、頭に手を添えた絵は頭痛薬、手を添えないのは咳止めの目印です。その他、笑顔の女性がマスクを外す「咳止め(セキピタル)」など、絵を見るだけでビジュアルに薬の用途が判る仕組みです。
    最初見た時には「ノリと勢い」で絵柄をデザインしているのかと思いましたが、説明を聞くに及び、買い手のことを慮ったデザインであり、熟慮の末のものであることに感服した次第です。
    我々年配者にはどこか懐古的なデザインに思えますが、若者の間では「かわいい」と人気だそうです。

  • 池田屋安兵衛商店<br />銭湯で見かけた「ケロリンの黄色い風呂桶」を思い出します。解熱鎮痛薬「ケロリン」は、1925(大正14)年に笹山林蔵氏が開発し、元々は内外薬品㈱が製造していましたが現在は富山めぐみ製薬が製造しています。商品名にあるオノマトペから、誰もが「ケロッと治る薬」と想像できます。この薬をPRする大役を担ったのが銭湯の風呂桶でした。漫画『テルマエ・ロマエ』の小道具の他、現在もスーパー銭湯などで見られます。<br />ケロリンの湯桶の誕生秘話をご存知でしょうか?東京五輪直前の1963(昭和38)年、木桶が主流だった中、プラステック製湯桶の販売を推し進める睦和商事。如何にすれば売れるかを考え抜いた末、ある営業マンが広告入りの湯桶を考案したのが始まりだそうです。しかし現実は厳しく、様々な会社に売り込むも採用には至りませんでした。そんな中、内外薬品㈱と運命の出会いがあった訳です。お互いにWin-Winの関係が築かれ、ケロリンの湯桶が誕生したそうです。因みに、当初は白い湯桶だったそうです。

    池田屋安兵衛商店
    銭湯で見かけた「ケロリンの黄色い風呂桶」を思い出します。解熱鎮痛薬「ケロリン」は、1925(大正14)年に笹山林蔵氏が開発し、元々は内外薬品㈱が製造していましたが現在は富山めぐみ製薬が製造しています。商品名にあるオノマトペから、誰もが「ケロッと治る薬」と想像できます。この薬をPRする大役を担ったのが銭湯の風呂桶でした。漫画『テルマエ・ロマエ』の小道具の他、現在もスーパー銭湯などで見られます。
    ケロリンの湯桶の誕生秘話をご存知でしょうか?東京五輪直前の1963(昭和38)年、木桶が主流だった中、プラステック製湯桶の販売を推し進める睦和商事。如何にすれば売れるかを考え抜いた末、ある営業マンが広告入りの湯桶を考案したのが始まりだそうです。しかし現実は厳しく、様々な会社に売り込むも採用には至りませんでした。そんな中、内外薬品㈱と運命の出会いがあった訳です。お互いにWin-Winの関係が築かれ、ケロリンの湯桶が誕生したそうです。因みに、当初は白い湯桶だったそうです。

  • 池田屋安兵衛商店<br />薬のネーミングにもただならぬものがあります。<br />「ズバリ」は「頭と歯の痛みに利く」からズバリ(頭歯利)とストレートに表現。女性の絵柄の解熱鎮痛「アスナオール」は「今日飲めば、明日治る」から。関西人ゆえ、「明日まで治らんのかい!?」と突っ込みたくなるところですが…。

    池田屋安兵衛商店
    薬のネーミングにもただならぬものがあります。
    「ズバリ」は「頭と歯の痛みに利く」からズバリ(頭歯利)とストレートに表現。女性の絵柄の解熱鎮痛「アスナオール」は「今日飲めば、明日治る」から。関西人ゆえ、「明日まで治らんのかい!?」と突っ込みたくなるところですが…。

  • 池田屋安兵衛商店<br />アスピリン系解熱鎮痛薬「ネオはれやか」は富山薬品株式会社が製造、アスピリン系解熱鎮痛薬「ケロール」は富山県の中新薬業株式会社が製造しています。

    池田屋安兵衛商店
    アスピリン系解熱鎮痛薬「ネオはれやか」は富山薬品株式会社が製造、アスピリン系解熱鎮痛薬「ケロール」は富山県の中新薬業株式会社が製造しています。

  • 池田屋安兵衛商店<br />反魂飴は、反魂丹が混ぜられた飴ではなく、ミント系ハーブ味の他、カモミール、酒粕、抹茶、生姜の5種類の味覚です。ここから北へ徒歩3分程の距離にある創業1663(寛文3)年の「島川あめ店」とコラボして生まれた飴です。<br />薬商人たちは、子供でも薬が飲み易いように常に麦芽水飴を持ち歩いていたそうです。また、麦芽水飴は生薬を丸薬にする際のつなぎにも用いられ、薬と飴には密接な関係がありました。<br />しかし、時代と共に医薬品を取り巻く環境が変化し、更には甘味料として砂糖の普及も重なり、水飴屋は衰退しました。現在、富山市内に残る水飴屋は島川あめ店だけだそうです。

    池田屋安兵衛商店
    反魂飴は、反魂丹が混ぜられた飴ではなく、ミント系ハーブ味の他、カモミール、酒粕、抹茶、生姜の5種類の味覚です。ここから北へ徒歩3分程の距離にある創業1663(寛文3)年の「島川あめ店」とコラボして生まれた飴です。
    薬商人たちは、子供でも薬が飲み易いように常に麦芽水飴を持ち歩いていたそうです。また、麦芽水飴は生薬を丸薬にする際のつなぎにも用いられ、薬と飴には密接な関係がありました。
    しかし、時代と共に医薬品を取り巻く環境が変化し、更には甘味料として砂糖の普及も重なり、水飴屋は衰退しました。現在、富山市内に残る水飴屋は島川あめ店だけだそうです。

  • 池田屋安兵衛商店<br />薬研やこね鉢など、TVドラマの「小石川養生所」のシーンで見かけた薬煎道具が積みあがっています。<br />

    池田屋安兵衛商店
    薬研やこね鉢など、TVドラマの「小石川養生所」のシーンで見かけた薬煎道具が積みあがっています。

  • 池田屋安兵衛商店<br />レトロ感たっぷりの薬箱です。<br />先用後利に使用されていた薬箱は桐で作られており、売薬商人たちは竹や籐を編んで作られた柳行李(やなぎごうり)に薬を入れて担いで運んだそうです。<br />その柳行李も薬箱の下のガラス棚に収められています。

    池田屋安兵衛商店
    レトロ感たっぷりの薬箱です。
    先用後利に使用されていた薬箱は桐で作られており、売薬商人たちは竹や籐を編んで作られた柳行李(やなぎごうり)に薬を入れて担いで運んだそうです。
    その柳行李も薬箱の下のガラス棚に収められています。

  • 池田屋安兵衛商店<br />店内中央には40年程前まで現役だった昔ながらの木製「製丸機」が置かれ、これを使って丸薬作りの実演見学と無料体験ができます。今では機械化も進み、手動で作れる「丸薬師」は池田屋安兵衛商店に勤める2人だけだそうです。因みに、丸薬作りは、富山藩の下級武士の内職でもあったそうなのですが…。

    池田屋安兵衛商店
    店内中央には40年程前まで現役だった昔ながらの木製「製丸機」が置かれ、これを使って丸薬作りの実演見学と無料体験ができます。今では機械化も進み、手動で作れる「丸薬師」は池田屋安兵衛商店に勤める2人だけだそうです。因みに、丸薬作りは、富山藩の下級武士の内職でもあったそうなのですが…。

  • 池田屋安兵衛商店<br />「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて萬金丹 それをのむ奴ァあんぽんたん」という俗謡の懐かしいフレーズ通り、鼻くそを丸めたような姿に思わず頬が弛みます。因みに、霊薬「萬金丹」 は伊勢のおかげ横丁にある薬屋さんの商標です。<br />一方、反魂丹の末尾に付けられた「丹」の文字には「よく練った薬」、他にも「丸」には「丸薬」、「散」には「粉薬」、「湯」には「煎じたもの」との意味があり、名前で薬の形態が分かるそうです。近年、女性に人気なのは、血行を良くして体を温める「当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)」だそうです。

    池田屋安兵衛商店
    「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて萬金丹 それをのむ奴ァあんぽんたん」という俗謡の懐かしいフレーズ通り、鼻くそを丸めたような姿に思わず頬が弛みます。因みに、霊薬「萬金丹」 は伊勢のおかげ横丁にある薬屋さんの商標です。
    一方、反魂丹の末尾に付けられた「丹」の文字には「よく練った薬」、他にも「丸」には「丸薬」、「散」には「粉薬」、「湯」には「煎じたもの」との意味があり、名前で薬の形態が分かるそうです。近年、女性に人気なのは、血行を良くして体を温める「当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)」だそうです。

  • 富山県物産館 <br />隣接の「まちの駅ビル」1Fにある、池田屋安兵衛商店が運営するショップです。薬屋と土産処が軒を連ねるのは観光客志向そのものですが、ほぼワンストップで欲しいものが入手できます。<br />ます寿司、巻かまぼこ、ホタルイカ、白エビの加工品、地酒など、富山の特産品が並んでいます。<br />当方が興味を持ったのは、この巨大な立山連峰のパノラマ写真です。

    富山県物産館
    隣接の「まちの駅ビル」1Fにある、池田屋安兵衛商店が運営するショップです。薬屋と土産処が軒を連ねるのは観光客志向そのものですが、ほぼワンストップで欲しいものが入手できます。
    ます寿司、巻かまぼこ、ホタルイカ、白エビの加工品、地酒など、富山の特産品が並んでいます。
    当方が興味を持ったのは、この巨大な立山連峰のパノラマ写真です。

  • 堤町通り<br />店先を走る堤町通りは、元々は富山通坊への参道だったそうです。高岡市伏木にある浄土真宗の巨刹 勝興寺の支坊(富山通坊)が現在の「中教院」交差点の辺りにあり、江戸時代の富山城下町で一番賑わったのがこの通坊前の門前町でした。<br />立山登拝の道は幾筋もありましたが、富山から佐々成政ゆかりのいたち川沿いに南東に向かうメインルートの基点が富山通坊でした。1872(明治5)年には神仏分離から仏教廃止にまで至り、神道宣布のために中教院が建ち、そこには鐘楼に似た形をした立山遙拝所があったそうです。1925(大正14)年に路線電車の線路を敷設するに当たり、中教院は鹿島町に移転しましたが、その後の富山大空襲で焼失しています。現在の中教院は、戦後にその由緒を知る有志が祀られたものだそうです。因みに、中教院は「日本一小さい神社」として知られています。<br /><br />富山市の道路は道幅が広くてゆったりしています。また、歩道も自転車用レーンと歩行者用レーンが分かれており、広々としています。歩道が幅広の理由は、冬期には車道寄りのゾーンは歩道の雪を除雪して積み上げて仮置きするスペースになるからです。ここに高く積み上げられた雪は道路側から重機によって処理されます。<br />しかし、昔から広い道路と歩道を備えていた訳ではありません。富山市内は太平洋戦争の大空襲で市街地の99.5%を焼失したことが契機となりました。広島や長崎の原爆を除き、地方都市としては最大級の被害だったことから、ゼロベースで都市計画が行えたそうです。

    堤町通り
    店先を走る堤町通りは、元々は富山通坊への参道だったそうです。高岡市伏木にある浄土真宗の巨刹 勝興寺の支坊(富山通坊)が現在の「中教院」交差点の辺りにあり、江戸時代の富山城下町で一番賑わったのがこの通坊前の門前町でした。
    立山登拝の道は幾筋もありましたが、富山から佐々成政ゆかりのいたち川沿いに南東に向かうメインルートの基点が富山通坊でした。1872(明治5)年には神仏分離から仏教廃止にまで至り、神道宣布のために中教院が建ち、そこには鐘楼に似た形をした立山遙拝所があったそうです。1925(大正14)年に路線電車の線路を敷設するに当たり、中教院は鹿島町に移転しましたが、その後の富山大空襲で焼失しています。現在の中教院は、戦後にその由緒を知る有志が祀られたものだそうです。因みに、中教院は「日本一小さい神社」として知られています。

    富山市の道路は道幅が広くてゆったりしています。また、歩道も自転車用レーンと歩行者用レーンが分かれており、広々としています。歩道が幅広の理由は、冬期には車道寄りのゾーンは歩道の雪を除雪して積み上げて仮置きするスペースになるからです。ここに高く積み上げられた雪は道路側から重機によって処理されます。
    しかし、昔から広い道路と歩道を備えていた訳ではありません。富山市内は太平洋戦争の大空襲で市街地の99.5%を焼失したことが契機となりました。広島や長崎の原爆を除き、地方都市としては最大級の被害だったことから、ゼロベースで都市計画が行えたそうです。

  • 堤町通りは<br />市の中心部には路面電車が縦横無尽に走っており、こうしたデ9001形 CENTRAM(セントラム)も走っています(遠いですが道路中央)。2009年、オーストリアのウィーンの市内を巡る路線電車をお手本に、新潟トランシス㈱製造の2車体連節低床式路面電車(LRV)が3編成導入されました。この車両は、2020年予定の富山ライトレール富山港線と富山地方鉄道との合弁に先駆けて富山市が富山地方鉄道に運行を委託しているものです。<br />路面電車は、市内の回遊性の強化や利便性の促進、コンパクトなまちづくりを目指すための軸となるインフラです。つまり、自動車依存のライフスタイルを見直し、郊外から市街地への移住を促し、「歩いて暮らせる街」を目指しています。富山駅を中心とする市街地や鉄道駅やバス停などを中心とする徒歩圏の拠点地域を「お団子」と呼び、それらを「串」と呼ぶ公共交通で繋ぐ発想です。つまり、環境にも配慮した「マイカー」から「マイライン」へのモーダルシフトです。<br />富山市は、2010年をピークに人口が減少に転じ、自動車保有率は全国2位という自動車依存の地域でした。マイカー前提のため宅地は地価の安い郊外へと広がり、それに伴いゴミ収集や除雪などの行政サービスのコスト増大、質の低下などの問題が顕在化し、その解決策としてコンパクトシティへの取組みを始めました。<br />富山市はコンパクトシティの成功事例として語られることが多く、その要因は、経済的なインセンティブだけでなく、新しい土地でのコミュニティに参加し易くするなどのソフト面での施策が奏功したとされます。企業活動も同様ですが、ハードだけ導入しても業務改革が進む訳ではありません。包括的で持続可能な計画になっているかを見極める必要があります。今後は郊外から市街地へ移住できない高齢者のケアなどが新たな課題になってくるのでは…。

    堤町通りは
    市の中心部には路面電車が縦横無尽に走っており、こうしたデ9001形 CENTRAM(セントラム)も走っています(遠いですが道路中央)。2009年、オーストリアのウィーンの市内を巡る路線電車をお手本に、新潟トランシス㈱製造の2車体連節低床式路面電車(LRV)が3編成導入されました。この車両は、2020年予定の富山ライトレール富山港線と富山地方鉄道との合弁に先駆けて富山市が富山地方鉄道に運行を委託しているものです。
    路面電車は、市内の回遊性の強化や利便性の促進、コンパクトなまちづくりを目指すための軸となるインフラです。つまり、自動車依存のライフスタイルを見直し、郊外から市街地への移住を促し、「歩いて暮らせる街」を目指しています。富山駅を中心とする市街地や鉄道駅やバス停などを中心とする徒歩圏の拠点地域を「お団子」と呼び、それらを「串」と呼ぶ公共交通で繋ぐ発想です。つまり、環境にも配慮した「マイカー」から「マイライン」へのモーダルシフトです。
    富山市は、2010年をピークに人口が減少に転じ、自動車保有率は全国2位という自動車依存の地域でした。マイカー前提のため宅地は地価の安い郊外へと広がり、それに伴いゴミ収集や除雪などの行政サービスのコスト増大、質の低下などの問題が顕在化し、その解決策としてコンパクトシティへの取組みを始めました。
    富山市はコンパクトシティの成功事例として語られることが多く、その要因は、経済的なインセンティブだけでなく、新しい土地でのコミュニティに参加し易くするなどのソフト面での施策が奏功したとされます。企業活動も同様ですが、ハードだけ導入しても業務改革が進む訳ではありません。包括的で持続可能な計画になっているかを見極める必要があります。今後は郊外から市街地へ移住できない高齢者のケアなどが新たな課題になってくるのでは…。

  • 北陸銀行本店(登録有形文化財)<br />ここからは地元の観光ボランティア・ガイド「紙ふうせん」さんの案内で街を散策します。堤町通りを挟んで池田屋安兵衛商店と対面しているビルです。<br />1961(昭和36)年竣工、1973年に増築された、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下2階、地上6階、塔屋3階建です。外観は、6層分の柱と梁で力強さを表現し、柱間には小割の石を貼詰めています。1階には表通りの堤町通りから裏通りの中央通りアーケードを結ぶコロネード(柱廊)を通しています。銀行らしく重厚な構造でありながらもリズミカルなコロネードが軽快さを演出し、富山市の戦後復興期を象徴する大型事務所建築として評価されています。設計は日建設計工務が行い、施工を大林組が担ったビルです。代表的な地方銀行の建築として 1963(昭和38)年第4回建築業協会賞(BCS賞)を受賞しています。<br />1943年、北陸銀行は金沢と富山に前身を持つ十二銀行と他3銀行の合併で設立されました。1877年、加賀前田藩が7割を出資して設立したのが金沢第十二国立銀行です。その後、富山第百二十三国立銀行と合併し、本店をこの地に構えました。<br />また、2004年には北海道銀行と経営統合し、ほくほくフィナンシャルグループとなっています。元々、北陸銀行は、北前船を通じて経済交流の深かった北海道に1899年に進出しており、多数の支店を構えています。

    北陸銀行本店(登録有形文化財)
    ここからは地元の観光ボランティア・ガイド「紙ふうせん」さんの案内で街を散策します。堤町通りを挟んで池田屋安兵衛商店と対面しているビルです。
    1961(昭和36)年竣工、1973年に増築された、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下2階、地上6階、塔屋3階建です。外観は、6層分の柱と梁で力強さを表現し、柱間には小割の石を貼詰めています。1階には表通りの堤町通りから裏通りの中央通りアーケードを結ぶコロネード(柱廊)を通しています。銀行らしく重厚な構造でありながらもリズミカルなコロネードが軽快さを演出し、富山市の戦後復興期を象徴する大型事務所建築として評価されています。設計は日建設計工務が行い、施工を大林組が担ったビルです。代表的な地方銀行の建築として 1963(昭和38)年第4回建築業協会賞(BCS賞)を受賞しています。
    1943年、北陸銀行は金沢と富山に前身を持つ十二銀行と他3銀行の合併で設立されました。1877年、加賀前田藩が7割を出資して設立したのが金沢第十二国立銀行です。その後、富山第百二十三国立銀行と合併し、本店をこの地に構えました。
    また、2004年には北海道銀行と経営統合し、ほくほくフィナンシャルグループとなっています。元々、北陸銀行は、北前船を通じて経済交流の深かった北海道に1899年に進出しており、多数の支店を構えています。

  • マンホールの蓋<br />シンプルに旧富山市の草花「アザミ」を放射状に配し、受枠にアザミの葉をデザインしてあります。このデザインの蓋は、市内中心部の浜黒崎処理区で1986年以降に設置されたものに使われています。<br />2005年、旧富山市、上新川郡大沢野町、大山町、婦負郡八尾町、婦中町、山田村、細入村の7市町村による新設合併により、現在の富山市が発足しました。1973(昭和48)年、「アザミ」が旧富山市の木「けやき」、市の花木「つばき」と共に選出されたことから、市職員が「アザミ」と「薬都富山」をモチーフに デザインしたものです。「アザミ」は赤紫色の花と深緑のトゲのある葉が特徴のありふれた草花ですが、根は薬用になり、「富山の薬」とも繋がることから選ばれたそうです。アザミは、昔から根の成分が胃痛や神経痛に 効くとされてきた他、葉の汁には皮膚の腫れや炎症を抑える効能があると言わています。

    マンホールの蓋
    シンプルに旧富山市の草花「アザミ」を放射状に配し、受枠にアザミの葉をデザインしてあります。このデザインの蓋は、市内中心部の浜黒崎処理区で1986年以降に設置されたものに使われています。
    2005年、旧富山市、上新川郡大沢野町、大山町、婦負郡八尾町、婦中町、山田村、細入村の7市町村による新設合併により、現在の富山市が発足しました。 1973(昭和48)年、「アザミ」が旧富山市の木「けやき」、市の花木「つばき」と共に選出されたことから、市職員が「アザミ」と「薬都富山」をモチーフに デザインしたものです。「アザミ」は赤紫色の花と深緑のトゲのある葉が特徴のありふれた草花ですが、根は薬用になり、「富山の薬」とも繋がることから選ばれたそうです。アザミは、昔から根の成分が胃痛や神経痛に 効くとされてきた他、葉の汁には皮膚の腫れや炎症を抑える効能があると言わています。

  • 臨池居(りんちきょ)跡(富山市西三番町「とよた酒店」のある一画)<br />富山は学問や研究に秀でた土地柄であり、江戸時代にはこの地の寺子屋の数は諸藩の中でもトップクラスでした。その富山随一、全国でもトップ3に入る規模を誇った寺小屋が「臨池居」でした。1766(明和3)年に小西鳴鶴によって始められたことから「小西塾」とも呼ばれました。明治時代の「学制」頒布後も特例をもって廃止されず、1899(明治32)年まで続いた名門塾でした。塾名の由来は、「中国後漢時代の書家 張芝が硯の水を自由に得られるようにと池に臨んで家を構えて書に専念した」という故事に因みます。<br />明治20年頃には、男子600人・女子200人が通い、そのうち300人は遠方のため、塾の裏手の寄宿舎で寝起きしていたそうです。2階建で、上階は女子用60畳、下階は男子用100畳の教室でした。<br />授業内容は、商人の実用性を学ぶ「商売往来」、信頼される人間性を学ぶ道徳「童子教」、手紙の書き方「庭訓往来」等を教えたそうです。「商売は人なり」という、越中売薬の基盤を支えた人材教育の中核を担いました。

    臨池居(りんちきょ)跡(富山市西三番町「とよた酒店」のある一画)
    富山は学問や研究に秀でた土地柄であり、江戸時代にはこの地の寺子屋の数は諸藩の中でもトップクラスでした。その富山随一、全国でもトップ3に入る規模を誇った寺小屋が「臨池居」でした。1766(明和3)年に小西鳴鶴によって始められたことから「小西塾」とも呼ばれました。明治時代の「学制」頒布後も特例をもって廃止されず、1899(明治32)年まで続いた名門塾でした。塾名の由来は、「中国後漢時代の書家 張芝が硯の水を自由に得られるようにと池に臨んで家を構えて書に専念した」という故事に因みます。
    明治20年頃には、男子600人・女子200人が通い、そのうち300人は遠方のため、塾の裏手の寄宿舎で寝起きしていたそうです。2階建で、上階は女子用60畳、下階は男子用100畳の教室でした。
    授業内容は、商人の実用性を学ぶ「商売往来」、信頼される人間性を学ぶ道徳「童子教」、手紙の書き方「庭訓往来」等を教えたそうです。「商売は人なり」という、越中売薬の基盤を支えた人材教育の中核を担いました。

  • 街区表示板<br />塀に街区表示板が2つ並んでいます。これは、三番町と古鍛冶町の境界線が2つのプレートの中央にあることを示しており、戦後の都市計画の悪戯です。富山市にはこのような町割りが他にも見られるようです。<br />三番町は、慶長年間の江戸の初め前田利長によって富山町の街づくりが行われた際、富山城の大手先から東に一番町から五番町まで付けた、現在まで残る本町三五町の一つです。因みに、四番町は縁起が悪いため、存在しないようです。三番町は、どちらかと言えば商人の街だったようです。

    街区表示板
    塀に街区表示板が2つ並んでいます。これは、三番町と古鍛冶町の境界線が2つのプレートの中央にあることを示しており、戦後の都市計画の悪戯です。富山市にはこのような町割りが他にも見られるようです。
    三番町は、慶長年間の江戸の初め前田利長によって富山町の街づくりが行われた際、富山城の大手先から東に一番町から五番町まで付けた、現在まで残る本町三五町の一つです。因みに、四番町は縁起が悪いため、存在しないようです。三番町は、どちらかと言えば商人の街だったようです。

  • 街区表示板<br />古鍛冶町も本町三五町の一つです。この周辺に鍛冶屋が多くあったことに由来し、江戸時代には東・西古鍛冶町と称していました。<br />では何をもって商人の町と鍛冶屋の町を境界としているかと言えば、この何の変哲もない側溝です。

    街区表示板
    古鍛冶町も本町三五町の一つです。この周辺に鍛冶屋が多くあったことに由来し、江戸時代には東・西古鍛冶町と称していました。
    では何をもって商人の町と鍛冶屋の町を境界としているかと言えば、この何の変哲もない側溝です。

  • 島川あめ店<br />1663(寛文3)年、江戸時代初期に初代 山屋長兵衛が創業し、屋号を「山長(ヤマチョウ)」としました。 現在は14代目に当たります。<br />麦芽水飴は、砂糖を使わず澱粉と米の甘味を麦芽で引き出し、越中立山の水で煮あげたからだに優しい水飴です。<br />ゆっくりと体内に吸収されるため、体に優しく、疲労時や病後などの栄養補助食品にもなるそうです。<br />今時風の嗜好品として「あめ屋のマーシュ」を販売されています。麦芽水飴と卵白のみで仕上げたお口の中でシュワっと溶ける新食感の飴菓子です。<br />富山の薬と縁の深い水飴製造業者は、大正時代のこの周辺の古地図には7軒ほど確認できるそうです。しかし、昭和時代に入り、砂糖の普及と丸薬づくりの技術者の減少により衰退して行き、現在は「島川あめ店」のみとなりました。<br />店舗のHPです。<br />http://www.shimakawaameten.co.jp/

    島川あめ店
    1663(寛文3)年、江戸時代初期に初代 山屋長兵衛が創業し、屋号を「山長(ヤマチョウ)」としました。 現在は14代目に当たります。
    麦芽水飴は、砂糖を使わず澱粉と米の甘味を麦芽で引き出し、越中立山の水で煮あげたからだに優しい水飴です。
    ゆっくりと体内に吸収されるため、体に優しく、疲労時や病後などの栄養補助食品にもなるそうです。
    今時風の嗜好品として「あめ屋のマーシュ」を販売されています。麦芽水飴と卵白のみで仕上げたお口の中でシュワっと溶ける新食感の飴菓子です。
    富山の薬と縁の深い水飴製造業者は、大正時代のこの周辺の古地図には7軒ほど確認できるそうです。しかし、昭和時代に入り、砂糖の普及と丸薬づくりの技術者の減少により衰退して行き、現在は「島川あめ店」のみとなりました。
    店舗のHPです。
    http://www.shimakawaameten.co.jp/

  • 北陸電力城南変電所(古鍛冶町)<br />珍しく市街地にある変電所です。と言っても、外観からは変電所をイメージすることはできません。<br />発電所から送られてくる高電圧の電気を適切な電圧に変換して送り出すのが変電所の役割です。

    北陸電力城南変電所(古鍛冶町)
    珍しく市街地にある変電所です。と言っても、外観からは変電所をイメージすることはできません。
    発電所から送られてくる高電圧の電気を適切な電圧に変換して送り出すのが変電所の役割です。

  • 富山寺(ふせんじ)<br />藤居山(とうきょさん)富山寺は、富山城下町の古鍛冶町に佇む真言宗の小さな古刹です。また、北陸白寿三十三観音霊場第29番札所でもあります。山号「藤居山」は、かつて寺院が存在した藤居村(現 富山城跡周辺)に由来するとされます。<br />創建は724(神亀元)年。藤居村を巡錫で訪れた行基の開山と伝わり、富山市内では1、2を争う古刹です。平安時代末期には木曽義仲が平家との倶利伽羅峠の戦いの必勝を祈願し、最盛期には千石町まで参道が延び坊舎が軒を連ねたそうです。<br />1581(天正9)年に佐々成政が富山城を居城として改修した際、あるいは1597(慶長2)年に前田利長が富山城を得て近世城郭として整備した際、現在地に境内を移され寺号を普泉寺と改称しました。その後、1910(明治43)年に旧寺号の富山寺に戻しています。本尊には薬師如来を祀り、富山市内の産土神 富山城鎮守山王権現(現日枝神社)の本地仏とされます。『越登賀三州志』にある「医王院」の呼称や、『越中旧事記』の「普泉寺(薬師堂)」の記述から、かつては天台宗寺院だったともされます。

    富山寺(ふせんじ)
    藤居山(とうきょさん)富山寺は、富山城下町の古鍛冶町に佇む真言宗の小さな古刹です。また、北陸白寿三十三観音霊場第29番札所でもあります。山号「藤居山」は、かつて寺院が存在した藤居村(現 富山城跡周辺)に由来するとされます。
    創建は724(神亀元)年。藤居村を巡錫で訪れた行基の開山と伝わり、富山市内では1、2を争う古刹です。平安時代末期には木曽義仲が平家との倶利伽羅峠の戦いの必勝を祈願し、最盛期には千石町まで参道が延び坊舎が軒を連ねたそうです。
    1581(天正9)年に佐々成政が富山城を居城として改修した際、あるいは1597(慶長2)年に前田利長が富山城を得て近世城郭として整備した際、現在地に境内を移され寺号を普泉寺と改称しました。その後、1910(明治43)年に旧寺号の富山寺に戻しています。 本尊には薬師如来を祀り、富山市内の産土神 富山城鎮守山王権現(現日枝神社)の本地仏とされます。『越登賀三州志』にある「医王院」の呼称や、『越中旧事記』の「普泉寺(薬師堂)」の記述から、かつては天台宗寺院だったともされます。

  • 富山寺<br />「富山」の名の由来には諸説あります。<br />①呉羽丘陵が現在の高岡市から外側にあったことから外山(とやま)と呼ばれ、漢字表記に縁起の良い「富」を当てたとする説。尚、「外山」の文献での初見は1398(応永5)年の外山郷地頭職の寄進状にあり、古くからそう呼ばれていたことが窺えます。<br />②かつて存在した藤居村に藤居山富山寺があったことから富山と呼ぶようになったとする説。<br />『越中旧事記』は、佐々成政以降の城下は「外山郷」の藤井村に建設された都市であり、富山城は後に「普泉寺」と改称された「富山寺」の土地に築城されており、それに因んで城下を「富山」と呼ぶようになったと記しています。尚、「普泉寺」は明治時代末期に寺号を「富山寺」に戻しています。<br />一方、『富山県の歴史』によると、①で外山の「外」の字を佳名の「富」としたのは、②富山寺の名に因むとあります。この見解を尊重すれば、①と②にまたがる理由ということのようです。<br />③多くの山々が連なり「富める山の国」の意味からとする説。<br />こちらも①で「外」を「富」に改めた理由の一つと言えるかもしれません。

    富山寺
    「富山」の名の由来には諸説あります。
    ①呉羽丘陵が現在の高岡市から外側にあったことから外山(とやま)と呼ばれ、漢字表記に縁起の良い「富」を当てたとする説。尚、「外山」の文献での初見は1398(応永5)年の外山郷地頭職の寄進状にあり、古くからそう呼ばれていたことが窺えます。
    ②かつて存在した藤居村に藤居山富山寺があったことから富山と呼ぶようになったとする説。
    『越中旧事記』は、佐々成政以降の城下は「外山郷」の藤井村に建設された都市であり、富山城は後に「普泉寺」と改称された「富山寺」の土地に築城されており、それに因んで城下を「富山」と呼ぶようになったと記しています。尚、「普泉寺」は明治時代末期に寺号を「富山寺」に戻しています。
    一方、『富山県の歴史』によると、①で外山の「外」の字を佳名の「富」としたのは、②富山寺の名に因むとあります。この見解を尊重すれば、①と②にまたがる理由ということのようです。
    ③多くの山々が連なり「富める山の国」の意味からとする説。
    こちらも①で「外」を「富」に改めた理由の一つと言えるかもしれません。

  • 消雪装置<br />雪が降る度に活躍するのが道路の中央に帯状に備えられた「消雪装置」です。その半面、散水には大量の地下水を汲み上げるため、導入・維持費が高額となるのがネックです。また、地盤沈下も危惧されます。沈下が起きない基準の「安全水位」は、昨年度は常時観測する3地点で45回も下回ったそうです。これは例年の6倍に達し、相次ぐ大雪のため、装置の稼働が増えたのが要因でした。<br />コストも看過できません。消雪装置は維持管理も含めると機械除雪の10倍の費用がかかるそうです。こうした背景もあり、近年は新設よりも更新に注力せざるを得ない状況だそうです。また、一晩に20cmを超える積雪になると、雪を溶かす機能が果たせないのも課題のようです。<br />こうした雪国特有の苦労を知るのも旅の醍醐味です。

    消雪装置
    雪が降る度に活躍するのが道路の中央に帯状に備えられた「消雪装置」です。その半面、散水には大量の地下水を汲み上げるため、導入・維持費が高額となるのがネックです。また、地盤沈下も危惧されます。沈下が起きない基準の「安全水位」は、昨年度は常時観測する3地点で45回も下回ったそうです。これは例年の6倍に達し、相次ぐ大雪のため、装置の稼働が増えたのが要因でした。
    コストも看過できません。消雪装置は維持管理も含めると機械除雪の10倍の費用がかかるそうです。こうした背景もあり、近年は新設よりも更新に注力せざるを得ない状況だそうです。また、一晩に20cmを超える積雪になると、雪を溶かす機能が果たせないのも課題のようです。
    こうした雪国特有の苦労を知るのも旅の醍醐味です。

  • 堤町通りから<br />通りから望める右側の山が毛勝山です。飛騨山脈立山連峰の北に連なり、標高2415mあります。また、毛勝山・釜谷山・猫又山を併せて毛勝三山と言います。毛勝三山の裏側が黒部川沿いにある宇奈月温泉郷になります。<br />毛勝山の名は「毛勝谷」に因み、夏場に水不足になると、融雪を促すため人々が鍬で毛勝谷などの雪渓を崩したと伝えられています。また、毛勝谷の名の由来は、水不足による凶作、すなわち飢渇(けかつ)が毛勝に転訛したとの説があります。 因みに、「ケカチ谷」とは、年中雪の消えない谷をいい、長野県北部の小谷村や新潟県西頸城の方言になるそうです。

    堤町通りから
    通りから望める右側の山が毛勝山です。飛騨山脈立山連峰の北に連なり、標高2415mあります。また、毛勝山・釜谷山・猫又山を併せて毛勝三山と言います。毛勝三山の裏側が黒部川沿いにある宇奈月温泉郷になります。
    毛勝山の名は「毛勝谷」に因み、夏場に水不足になると、融雪を促すため人々が鍬で毛勝谷などの雪渓を崩したと伝えられています。また、毛勝谷の名の由来は、水不足による凶作、すなわち飢渇(けかつ)が毛勝に転訛したとの説があります。 因みに、「ケカチ谷」とは、年中雪の消えない谷をいい、長野県北部の小谷村や新潟県西頸城の方言になるそうです。

  • T100形 SANTRAM(サントラム)<br />2010~17年までに、超低床路面電車車両(LRV)が4編成導入されています。こちらは、アクセントカラーが赤の2013年に導入された第2編成です。<br />名称は「3両連接」、「ポートラム、セントラムに次ぐ富山市内3番目のLRV車両」、「太陽(SUN)にあやかり、燦然と輝く前途に期待を込めて」などの意を複合したネーミングです。

    T100形 SANTRAM(サントラム)
    2010~17年までに、超低床路面電車車両(LRV)が4編成導入されています。こちらは、アクセントカラーが赤の2013年に導入された第2編成です。
    名称は「3両連接」、「ポートラム、セントラムに次ぐ富山市内3番目のLRV車両」、「太陽(SUN)にあやかり、燦然と輝く前途に期待を込めて」などの意を複合したネーミングです。

  • T100形 SANTRAM(サントラム)<br />こちらは、アクセントカラーが青の2015年に導入した第3編成です。<br />T100形 は、アルナ工機(現 アルナ車両)・東芝・住友金属工業(現 新日鐵住金)・東洋電機製造・ナブコ(現 ナブテスコ)が共同開発した、呼称「リトルダンサー」と呼ばれる車両です。独立車輪方式とは異なる二軸ボルスタレス台車ですが、台車が車体に固定されて回転しない構造を採用し、超低床車のネックである台車部での最小通路幅を実現しています。 <br /><br />この続きは、情緒纏綿 越中富山紀行⑤富山市ガラス美術館でお届けします。

    T100形 SANTRAM(サントラム)
    こちらは、アクセントカラーが青の2015年に導入した第3編成です。
    T100形 は、アルナ工機(現 アルナ車両)・東芝・住友金属工業(現 新日鐵住金)・東洋電機製造・ナブコ(現 ナブテスコ)が共同開発した、呼称「リトルダンサー」と呼ばれる車両です。独立車輪方式とは異なる二軸ボルスタレス台車ですが、台車が車体に固定されて回転しない構造を採用し、超低床車のネックである台車部での最小通路幅を実現しています。

    この続きは、情緒纏綿 越中富山紀行⑤富山市ガラス美術館でお届けします。

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