2019/11/10 - 2019/11/11
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montsaintmichelさん
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インバウンドや厳冬期の水墨画風の絶景を求めるインスタグラマに人気を博すスポットが「庄川峡遊覧」です。庄川峡へのインバウンドは、この5年で40倍、2017年に1万人を超えました。
庄川は江戸~昭和時代初期までは飛騨山地で伐採された木材を流送する水路として利用されてきました。しかし、1930(昭和5)年に堤高79.2m、堤頂長300.8m、最大出力85600kWという日本初の高堰堤式小牧ダムが竣工し、往時は「東洋一のダム」と称されました。その時に出現したのが観光遊覧船の航路となっている小牧湛水池です。「双竜湖」や「双美峡」とも称される優美なダム湖です。
遊覧船は、 ダム堰堤付近にある小牧港を発着し、風光明媚な庄川峡の湖上遊覧が愉しめます。定期運航は、小牧ダム~大牧温泉の間を約1時間で往復遊覧する「大牧温泉コース」と長崎橋を潜った先からUターンする30分弱のショートクルーズ「長崎橋周遊コース」の2コースあります。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は水墨画の世界が堪能できます。紅葉の見頃は例年11月10日前後だそうですが、今年は少し遅れているようです。
庄川遊覧船株式会社のHPです。
http://www.shogawa-yuran.co.jp/access.html
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 船 新幹線 JR特急
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 読売旅行
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小牧港乗り場
小牧トンネルと小牧1スノーシェッド(洞門)との間にドライブイン小牧と庄川峡遊覧船乗り場があり、その下が遊覧船の発着場です。
昭和43年竣工、全長118mの小牧トンネルは、小牧ダム工事のための資材運搬用に敷かれた専用鉄道のトンネル跡を転用した車道です。
看板には「大牧温泉のりば」と書かれてあり勘違いしそうですが、「大牧温泉行き」のりばです。 -
例年なら紅葉の見頃の時期だそうですが、錦秋と表現できるほどは紅葉していません。しかし、色付き始めた山々とエメラルドグリーンの湖面とのコントラストは圧巻です。
遊覧船に乗り、カエデやヤマブキ、ナラ、ウルシなどの紅葉を探勝することができますが、近年はカシノナガキクイムシ(カシナガ)が媒介するナラ菌により、ミズナラ等が集団的に枯損する「ナラ枯れ」が発生し、茶色になっている樹木もあります。紅葉する落葉樹(広葉樹)ばかりをターゲットにするいまいましい昆虫です。 -
桟橋の先に碇泊しているのは、2層の甲板室を持つカタマラン(双胴船)「クルーズ庄川」です。広島県にあるツネイシクラフト&ファシリティーズ株式会社が製造したアルミ合金製船舶で、船長17.6m、船幅4.6m、旅客定員94名、船員2名、総トン数19トン、いすゞ製128馬力ディーゼルエンジン2基を搭載し、2011年に進水しています。
船体には青色、水色、黄色のラインが走ります。
遊覧船の背後には、関西電力カラーの黒いラジアルゲートが並んでいます。 -
今回のショートクルーズに使用されるのは、上層に操舵室がある大型船「やまぶき」です。旅客定員120名ですから「クルーズ庄川」よりひとまわり大きいのですが、詳細は不詳です。
小牧ダムを単なる発電用施設ではなく観光地たらしめている施設が、現在では珍しい存在となった湖上遊覧船です。この遊覧船が今まで生き長らえた最大の理由は、遊覧船でしか行けない大牧温泉があることです。 -
出港した小牧港を振り返ります。
急峻な山肌を掘削して国道156号の脇にささやかな平場を造成し、石垣護岸が守る造作です。
戦前のダム竣工当初の雰囲気を湛えた鄙びた港風景です。
遊覧船の2階展望デッキからは360度のパノラマ風景が愉しめます。民謡『こきりこ節』等をBGMに観光案内が流れる中、心地よい川風が頬を撫でていきます。「やまぶき」のデッキには「クルーズ庄川」のような屋根がないため、雨天の時にデッキに立つのは難しいかもしれません。 -
小牧ダムの堤体には17門の供水吐ラジアルゲートが整然と並びます。
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堤体から1箇所だけスロープが渡されています。
上流から流れてきた木材を湖面から引き上げ、下流にある放流ポイントまで鉄道で陸送したそうです。 -
ダムで堰き止められてできたエメラルドグリーンの双竜湖面は、僅かにさざめきながら両岸に迫る山の稜線を印象派の絵画の如く水面に映し込んでいます。清流として名高い庄川は、どの季節に訪れてもこうした神秘的な色を呈しています。また、湖面と錦秋に彩られた山々とのコントラストを愛でられるクルーズは、海とは異なり波がないため、船酔いの心配がないのも嬉しいところです。
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往路は逆光になるため、発色が悪いのがネックです。
小牧ダムから始まる、左岸のスノーシェッド(洞門)の連続も見所です。
庄川の左岸(左側)の山腹を縫うように走るのが国道156号です。深い谷間やダム湖畔を縫って走る風光明媚さや、合掌の里、国立公園の白山一帯を沿道とすることから、岐阜県御母衣湖から富山県砺波市までの区間を「飛越峡合掌ライン」と呼んでいます。
一方、地形の険しさと冬期の積雪の多さから、整備の遅れた路線でもありました。1979(昭和54)年に岐阜~富山県境のバイパス「飛越七橋(虹のかけ橋)」が開通するまでは、冬期のこの区間は5ヶ月間通行止めでした。また、雪崩や落石、土砂崩れによる通行止めも珍しくなく、路線番号にかけた「イチコロ線」と揶揄された交通の難所でもありました。 -
崖の下や浅い谷を桟道で渡る区間に設けられたスノーシェッドとそれを支える堅牢なラーメン構造が雪崩や落石の恐怖を黙して語ります。また、僅かな区間すら雪崩・落石防止の柵や壁で重厚に手当てされた痛々しい光景は、この地に国道を通すことの難しさを諭します。
小牧ダムから大牧トンネルまで、約6.5kmのうち5kmは、こうした落石・雪崩避けシェッドの中にあります。昭和40年頃から、平成に至るまでに整備されたもので、現在では必要な箇所を全て覆い隠すに至っています。すなわち、車窓からはラーメン構造が邪魔して風光明媚な景観が見え難いということです。 -
途中、小雨がぱらつきましたが、何とか持ちこたえてくれました。
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遊覧船は山裾を縫うように大きく蛇行して進みます。
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利賀(とが)川の合流地点の突端には、2連のアーチ橋の橋脚を兼ねた朽ちた主塔が佇みます。また、湖面を挟んで右手にも主塔の一部が顔を覗かせており、これらはアーチ橋と吊橋を連続させた珍しい形式を持った橋の遺構です。吊橋の中央の径間は撤去され、両岸の径間と主塔だけを遺す廃橋です。
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かつては両岸を結んだ動線だっただろうに、黒ずんで朽ちたコンクリート製主塔には星霜を経た寂寥感と共に時代を開拓してきた気高さが入り混じっています。どこか人生の縮図を思わせるもの悲しさがあります。
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左岸の樹木の陰から頭を覗かせているのが対岸にある主塔の相方です。
左岸側は大橋平と呼ばれ、昔からあった橋に由来する地名だそうです。 -
利賀川と庄川が合流する地点は、2頭の竜が交わる姿を彷彿とさせることから「双竜湖」、また景観の美しさから「双美峡」とも称されています。
主塔のある出合いの突端は、竜頭のようにも映ります。 -
正面から流れ込むのが利賀川です。
源流は新・日本百名山に選ばれた霊峰「人形山(標高1726m)」や「水無山(標高1505m)」などに所在し、庄川の支流となる延長36kmにも及ぶ一級河川です。 -
この廃橋は「旧利賀大橋」と言い、国道156号と対岸の利賀村仙野原を結んでいました。廃道マニアの間ではよく知られた存在だそうです。
それ以前には仙納原大橋が架かっていましたが、1930(昭和5)年に小牧ダム建設で水没し、その後、新仙納原大橋が再建されるも1933(昭和8)年に突風により湖水に没しています。
その後継として1937(昭和12)年に竣工したのが、橋長130m、幅員3mの旧利賀大橋でした。しかし、2度も雪崩で落橋しており、その度に復旧されています。1948(昭和23)年に復旧された後に火災により崩落し、現在は橋の一部を無残に晒すだけです。 -
橋が火災で焼け落ちるというのは尋常ではありません。調べてみると、仙野原集落の過疎化で利用者が激減して老朽化の補修に手が回らず、やがて川風により橋が揺れる際に摩擦が起こるようになり、摩擦熱が原因で火災が度々発生したそうです。橋板が次々に焼け落ちたことから、1970(昭和45)に通行止めになりました。その後、遊覧船観光の安全確保のため、1977(昭和52)年に主塔部を残して撤去されました。
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ダム湖の出現で「陸の孤島」と化した集落。そのライフラインとなる橋が過疎化に同期して朽ち果てたとは、その時代を象徴する歴史遺構と言えまいか…。対峙する両主塔は、過去と未来を繋ぐ幻の吊橋の姿を偲ばせるよすがです。
廃橋となった旧利賀大橋の前に少なくとも2つの橋が存在し、湖底にはそれら3つの橋の残骸が眠っているかと思うと浪漫を感じずにはいられません。 -
このように自己主張する廃主塔を目にすると寂しい気持ちになりますが、これほど再利用が困難な土木構造物も他にないのも事実です。全てのコンクリート製構造体は使い捨ての宿命を背負っています。
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切れ込んだ涸れ滝の様な地形があります。
雨季には滝が流れているのかもしれません。 -
乗船して10分程、左へ大きく曲がると、湖面を横断する優美な赤い橋が姿を見せます。この長崎大橋は、国道156号と対岸の利賀村長崎を結び、利賀村にも5軒の民宿や旅館を擁する庄川峡長崎温泉があります。因みに、そこにある北原荘は、TVアニメ『ゆるゆり♪♪』の聖地でもあるそうです。
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エメラルドグリーンの水面に橋の赤色はよいアクセントになっており、ショートクルージングのクライマックスになります。
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名前には大橋とありますが、調べてみると橋長191m、幅員4mのアーチ式林道橋です。利賀村の過疎対策や観光開発の目玉として1971(昭和46)年に竣工しています。
完成当時は、林道橋としては日本一の規模を誇っていたそうです。 -
この橋の上は、厳冬期の水墨画の世界観を撮影するスポットになっています。
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橋のすぐ先には先代の旧長崎大橋(吊橋)の主塔がポツンと取り残されています。
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この橋を潜った先で遊覧船は折り返します。
どのワンシーンを切り取っても絵になる光景です。 -
長崎大橋の先に架かる利賀大橋は、2018年に竣工した庄川峡長崎温泉への新たな動線で、橋長368m、有効幅員8.5m、アーチ支間距離205mの鋼上路橋式のアーチ橋です。水面からの高さは60mあり、周囲の景観に映える赤いアーチリブが誇らしげです。この橋ができるまでは長崎温泉へのアプローチは長崎大橋を渡って道幅の狭い市道大牧線を通る必要があり、土砂崩れや積雪などの影響により度々通行に支障が生じる難所でした。
橋の基本コンセプトは「庄川峡観光船からの見え方にも留意しつつ、利賀村への入口としてのゲート的役割を担う橋梁」であり、利賀ダム建設のための工事用道路として国土交通省と富山県で架橋を進めたものです。国道471号利賀バイパスの一部区間も兼ねています。 -
アーチ部分を補強するリブには円弧上の鋼管(直径1m)3本を逆三角形に配置した三角トラスリブを採用し、側径間はコンクリート橋脚と剛結する複合ラーメン構造です。放物線形固定アーチとし、各橋脚は上部と下部構造の間に支承を設けない剛結構造とし、橋台上にのみゴム製支承を設けた新構造です。
一般的なアーチリブにはブレースドリブとソリッドリブ形式がありますが、三角トラス形式は剛性面においてその中間にあり、補剛桁の断面積を小さくでき、かつ弾性座屈安全率が担保できるのが特徴です。これにより、橋梁上部工の重量を軽減でき、経済性・施工性・景観性に優れた橋梁となります。支柱にブレース材が不要なため、シンプルで骨太なラインを繊細なトラスアーチが支える優美な姿を魅せます。 -
サスペンスドラマに度々登場するのが秘湯「大牧温泉」です。
船を利用しないと行けない大牧温泉は、ここから遊覧船で更に15分程上流に佇みます。意外なことに、その不便さが人気の起爆剤となったそうです。小牧港は砺波市にありますが、大牧港は南砺市になります。
小牧ダム建設で元々の温泉宿はダム湖に水没しましたが、湖底に沈んだ村落から豊富に湧き出る源泉を採り込んで再興したのが大牧温泉観光旅館の基となっています。幸運にも、源泉の温度は地表に湧き出していた頃よりも高くなり、湯量も増えたそうです。
1913(大正2)年に書かれた『越中の大牧温泉』によると、開湯は1389~92年に遡り、室町時代初期の南北朝が統一された頃に当たります。旅の僧侶が山中を歩いていた時、山鳩が群れをなして庄川渓谷に降りていくのを見かけたことから、河原に湧き出す温泉を発見したと伝わります。
また一説には、1183年の砺波山の倶利伽羅峠の戦いに敗れた平家の落武者が山中を彷徨していた時に発見したとも伝えます。いずれにしても歴史ある温泉であることは間違いありません。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
http://toyama.visit-town.com/toyamastyle/omakionsen -
小牧ダムで避けて通れないのが往時社会問題となった「庄川流木争議」です。これを題材にした短編小説が三島由紀夫著『山の魂』です。人間が潜在的に持つ欲望を飲み込んだダム湖にまつわる物語です。庄川を木材流送に利用し、「流木権」を主張する飛州木材㈱および流域各村と水力発電用ダムを計画した庄川水電(現 関西電力)との間で、訴訟から果ては流血の実力行使に至る係争が8年間続きました。激しい抗争が全国に認知されるに至り、その後の電源開発のあり方に一矢を報いた争議です。
小坂田和美著『庄川流木事件』や石川賢吉著『庄川問題』等の内容を要約して紹介いたします。小牧ダム建設は、電力利用や河川水量の調節等の利点がある一方、庄川での木材流送や漁猟を生活の糧とする者にとり死活問題でした。そこで県は、木材流送に代わる運材施設と魚道の設置を付帯条件に1926(大正15)年に着工を許めました。
しかし飛州木材は、県知事を相手取り「実施設計認可取消請求」と「工事禁止の仮処分」を申し立て、庄川水電と全面対立しました。これが後の「庄川流木争議」の幕開けでした。 -
1927(昭和2)年末、庄川水電の後ろ盾だった地元出身のセメント王 浅野総一郎と飛州木材 専務 平野増吉が会談しました。浅野は「君の山には木が幾本ある、一本幾らだ。山ぐるみ残らず買ってやろう。値段を云いなさい」と切り出し、平野が「私等は山の売買を目的としているのではない。庄川にダムができ、木材が流れなくなれば、その流域に属する山林が全部立ち腐れになってしまう。これを憂うのが我々の根本思想である」と切り返すも一顧だにもせず、一方的に金銭での決着を試みました。浅野は、相手の痛みを判ろうともせず、話し合う気持ちも皆無でした。ここに金銭万能主義者と民主主義者の会談は決裂。後日談ですが、平野は近衛文麿等と共に太平洋戦争の終結工作のため、東奔西走するに及んだそうです。
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ダム湛水開始目前の1930(昭和5)年、訴訟合戦は泥仕合に発展し、4月には工事禁止の仮処分が執行されました。しかし7月に仮処分は取り消され、その後も控訴が却下され、9月にダム湛水が始まりました。この頃、庄川上流には越美南線美濃白鳥駅~鳩ヶ谷まで通称「百万円道路(国道156号の前身)」が庄川水電の負担で整備され、木材陸送が可能となったことで周辺住民は訴訟から外れ、また、飛州木材も闘争出費で経営が悪化し、争議の形勢は電力側へと傾いていきました。1933(昭和8)年、飛州木材への電力会社の経営参画などを柱とした内務省和解案を受け入れて双方が訴訟を取り下げ、ここに第一次産業V.S第二次産業の闘争は終結しました。しかし木材流送の関係者の多くは、北海道や朝鮮、果ては満州や南樺太にまで流送の出稼ぎに行きました。時代に翻弄され、職場を失った彼らの無念はいかばかりだったでしょう。
この争議は「ダム争議の原点」とされ、電力側の狡猾さ、政官財の癒着の構図、贈収賄の劣悪さは想像を絶します。時代は繰り返すと言う通り、随所に今般の関電の高浜原発での不祥事が重なります。また、こうした弱者切り捨ての構図が現世にも蔓延っているのは何故なのか…。因みに、この争議以降のダム建設は、木材流送の代替手段として鉄道や道路建設が慣行となりました。 -
和解に伴いダム工事用資材搬入路が別に確保され、専用鉄道は不要になりました。しかし運材施設を兼ねており撤去できず、しかも稼働は最盛期だけで維持管理は不経済でした。そんな中、小牧ダムが出現させたダム湖は景勝地の誉れ高く、遊覧船観光が人気を博しました。そこで庄川水電は、専用鉄道を庄川峡の旅客鉄道として運行しました。しかし採算ベースに乗らず、更に争議中の乱伐や百万円道路により小牧方面への運材が激減し、鉄道存続の意義は次第に失せていきました。因みに、庄川遊覧船は、国道156号が五箇山方面まで整備されていなかった時代には、冬季の交通路としても活用されました。昭和52年に大牧トンネルの完成により、小牧~祖山間が冬季も通行できるようになるまで、上流の平村や上平村の人々の生命線となっていたのが村営の連絡船でした。
1938(昭和13)年、道路整備に伴い旅客輸送はバス運行に切り替わりました。戦後、庄川峡は再び観光地として注目され、そのアクセスとして鉄道の復活が再浮上しますが、折からのモータリゼーションに阻まれ実現は見ませんでした。現存すれば、黒部峡谷線のように渓谷美が売りの人気路線になっていたことでしょう。 -
1990年、庄川町水記念公園に浅野総一郎を顕彰する銅像が建立されました。「この事業の遂行により工業の発展はもとより灌漑、治水、文化、観光等に与えた影響ははかり知れず、その恩恵は無限である」と英雄の如く讃えています。総一郎率いる浅野財閥は、大正時代中期の最盛期には31社を経営していたこともあり、その関係者等が銅像を各地に立てています。
時代の潮流で考えれば、電源開発はその後の戦争に直結する産業に不可欠であり、天秤にかけて第一次産業という弱者を犠牲にしたと言えます。それにしても何故Win-Winの関係が築けなかったのか、恐らく総一郎の人格が災いしたのでしょう。
総一郎は、不要の物を換金する錬金術に長けた実業家でした。砂糖水を湯呑1杯1銭で売る「冷やっこい屋」から発し、竹の皮から薪炭、石炭へと事業を拡大し、工場廃棄物を燃料にしたセメント製造で儲け、京浜海岸を廃棄物で埋め立てた工業立国日本の立役者とも称されています。しかし、物の要・不要を見極めるには慧眼が必要です。どこでボタンを掛け違えて錬金術の亡者と化したのか、故郷の忘れ難き庄川を見て「黄金が流れてる」と言い放ち、最期に汚点を残すとは…。
因みに、総一郎は小牧ダム始動の1週間前に没し、この争議が冥途の土産になりました。原告側のその後の惨状を知ることなく、苦悩することもなく息を引き取ったのでしょう。「歴史は勝者が作る」の典型ですが、この電源開発が多大なる犠牲の下に成立したことは忘れてはならないと思います。 -
右岸の山腹の所々には露出した岩盤が見られます。また、小牧ダム下流にある庄川水記念公園に対峙した崖には石切り場の跡地があります。合口ダムから小牧発電所対岸寒原の南方一帯には青白色の岩盤「緑色凝灰岩(グリーンタフ)」が露出しており、そこから採掘される石は富山を代表するブランド石「金屋石」です。日本列島が海中にあった新生代第三紀前半、火山噴火で噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿し、それが凝固したものです。因みに、金屋石は2018年に砺波市の「となみブランド」に認定されています。
金屋石は、柔らかいため加工がし易く、また、弾力性に富み、藩政時代から昭和40年代まで広く使用されてきました。具体的には、金沢城や辰巳用水などの樋石(石管)に使われた他、土蔵や地蔵堂などの建材、神社・寺院の狛犬・燈籠などに用いられました。
加賀藩3代藩主 前田利常は1632(寛永9)年に金沢城を再建しましたが、この時に城内に水を運び入れる樋石として金屋石を使ったと伝わります。また1843(天保14)年の金沢城修築工事に際しても樋石として金屋石が運ばれました。この時の樋石が1970(昭和45)年の発掘調査により数十本掘り出されています。 -
出航から25分程で小牧港まで戻ってまいりました。
遊覧船観光の後は、トイレ休憩中に猛ダッシュで撮影した小牧ダムを紹介いたします。ここまで来て小牧ダムの雄姿を拝まずには帰れません。
遊覧船乗り場からダムの下流側を望むポイントまでは、小牧トンネルを潜った少し先にあります。 -
小牧ダム
首脳陣による不正な金品受領が発覚し、役員が辞職して信用を失墜させた関西電力㈱が管理する水力発電用ダムです。
1930(昭和5)年竣工の越流型曲線重力式コンクリートダムで、往時は「東洋一の巨艦ダム」として有効落差70mを誇りました。庄川関電ダム群では一目置かれる存在であり、その形状から「バットレス(扶壁)ダム」とも呼ばれる優美な扇形フォルムが魅力です。この地にダムが建設されたのは、河川が曲がりくねり、ダム建設用地としては安全かつ有利との判断に拠ります。 -
小牧ダム
初期設計は米国のアーロックダム(1916年竣工)を設計した米国ストーン・エンド・ウェブスター社が担い、その後、日本初のコンクリート施工ダム「大峯ダム(1924(大正13)年竣工)」の建設に従事した石井頴一郎(えいいちろう)氏が工事主任として招聘され、大幅な設計変更を行いました。その折に招聘されたのが、後にモダニズム建築の大家となる山口文象(ぶんぞう)氏でした。石井氏の期待通りにバットレスで堤体の補強と共に美観を添えたのは山口氏のなせる業でした。また、天端の橋脚上に一つ置きに配された円筒形の電灯柱のモダニズムにもその片鱗が見られます。
因みに、このゴールデンコンビは、後の黒部川開発の折、第二ダムおよび発電所のデザインを担い、傑作を輩出しています。石井氏が土木構造物と自然との調和を意識していたことは、「此工事ハ黒部峡谷ノ自然美ニ人工ノ構造美ヲ調和サセルコトニ苦心シタ、日本第一ノ美シイ工事デアルト誇ル」の言葉からも読み取れます。 -
小牧ダム
手前の平坦部が材木乗越設備跡の下流側に当たります。ダム上流側で引き揚げた木材をここで鉄道に積み替えて陸送し、発電所の下流で再び川に戻したそうです。
堤体の緩やかなアーチ曲線やゲートとピアを共通デザインとしたバットレス形状は、アーチ効果と相俟って心地よいリズム感を刻んでいます。また、堤体に開いた穴は、建設時に使用した横抗の遺構です。 -
小牧ダム
クレストを見上げると、関西電力仕様の精悍なブラック・ラジアルゲートが顔を覗かせています。因みに、中部電力仕様はレッドになります。
終戦前に建造されたダムの堤高トップ3は次のようになります。
第1位 堤高87m:耳川のエンペラーと称される塚原ダム(1938年竣工)宮崎県
第2位 堤高83.2m:大同電力のフラッグシップである三浦ダム(1945年竣工)長野県
第3位 堤高79.2m:庄川のダム神と称される小牧ダム(1930年竣工)富山県 -
小牧ダム
右岸寄り上部に監視小屋のような魚道操作室跡とその手前に2本のスロープが確認できますが、これが日本初のエレベータ式魚道です。鮎やサクラマスの遡上を阻害しないことを目的に設置され、往時は世界一の魚道技術ともてはやされました。スロープの下方で籠の中に魚を誘導し、籠ごとスロープを登らせて上部で放流する仕掛けです。イメージ的にはエレベータよりもインクラインに近いものです。 -
小牧ダム
竹林征三、他著『日本初のエレベーター式魚道の土木史的考察(1995年)』によると、1931年に掬い揚げた魚の総数は鮎を主として67307尾にのぼり、富山県水産会が想定した37500尾の倍近い成果を上げました。しかし、年々掬い揚げる総数が減少し、1943(昭和18)年に地元へ補償金を支払うことで運転中止に追い込まれています。 魚道の併設で漁業に影響なしとの判断でダム建設に至りましたが、実際には魚道は機能不全でした。こうして、庄川上流では鮎やサクラマスが姿を消しました。こうした現実を踏まえ、1997年の河川法改正では河川の生態系の保全を位置付けましたが、「遅きに失した」と思えてなりません。 -
小牧ダム
小牧トンネルの手前の国道156号沿いには、駐車スペースと碑が建立されたこじんまりした広場が整備されています。
堤体から桟橋の様にダム湖面に伸びる設備が材木乗越設備跡です。 堤体から渡されたスロープにチェーンコンベアを設け、上流から流れてきた木材を湖面から引き上げて下流にある二万石用水取り入れ口付近の放流ポイントまで鉄道で陸送したそうです。
小牧ダムは、2001年に土木学会選奨土木遺産に認定、その翌年に河川用ダムとしては初めて有形文化財に登録、また、2007年に近代化産業遺産に登録されており、それらの表彰プレートが石碑に埋め込まれています。これらの評価は物部理論に拠る所が大ですが、その他にもボーリングによる地質調査の実施、配合別堤体ゾーニング、横継ぎ目と止水板の設置、白金温度計による堤体内部温度の実測など、新技術の導入が決め手となりました。 -
小牧ダム
ダム軸にアーチ形状を導入するのは戦前の日本のダムの特徴です。理由は、堤体の安定感を増すためです。アーチには堤体構造対策という米国の考え方と温度応力対策というドイツの考え方がありますが、小牧ダムは米国技術者によりダム軸にアーチを導入しました。基礎岩盤の掘削後、右岸の河床に大きな断層が発見され、断層を避けるのにアーチ形状が幸いした旨のエピソードを石井氏が土木学会誌『小牧発電工事報告』で吐露しています。
この画像は、次のサイトから引用させていただきました。
http://www.city.tonami.toyama.jp/blog/group/tonamiteki/detail.jsp?id=1983 -
小牧ダム
世界中に200m超のハイダムが40基以上も存在する時代に堤高79.2mでは話題にも上りませんが、アーチ状(ラジアル方向)に湾曲した扇体を埋め尽くすかのように17門の供水吐ラジアルゲートが整然と並び、その重畳がもたらす重厚感と威容はただものではありません。川幅全体にラジアルゲートが並ぶダムは他にも多々ありますが、高さ80mあるクレストからゲートが並ぶ壮観な姿は他に類を見ません。
この画像は、次のサイトから引用させていただきました。
http://damsite.m78.com/photo/photo/g/komaki1.html -
小牧ダム(車窓)
東京帝大 物部長穂助教授が考案した耐震設計理論を初めて採用し、飛躍的に大型化を果たしたダムであり、後世のハイダム建設の魁となりました。物部理論が地震国日本での多目的ダム論の根拠となり、その後の河川史・国土開発史の方向性を決定付けた記念碑的ダムと言えます。因みに、土木構造体と自然との関係については、物部氏も石井氏と同じポリシーだったそうです。因みに、石井氏と物部氏が東京帝大 土木工学科の同級生だったというのは奇遇です。 -
小牧発電所(車窓)
発電用水はダムサイト左岸の取り入れ口より取水され、約1.5km下流の小牧発電所へと導水されています。4本の高圧水管を流れ落ち、かつては72000kwの電力を作り出していました。1999~2006年の大改修により、現在は85600kwとなっています。
この続きは、情緒纏綿 越中富山紀行⑦新湊界隈(放生津八幡宮、他)でお届けします。
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