2019/11/07 - 2019/11/07
1060位(同エリア7323件中)
杏仁豆腐さん
秋の気配も感じる鎌倉。紅葉が見頃となると人もたくさん出ます。人が増える前に北鎌倉を散策しました。
この日は、北鎌倉のメジャーな場所はすでに訪問しているので、まだ行っていない所を訪れました。
天気も良く、散策するにはいい日です。歩いていると汗ばむくらいの陽気でした。
修学旅行の小学生があちこちにいました。班別行動ですね。
小学生と年配の女性が目立つ鎌倉です。
☆後半の旅行記はこちら
11月初めの北鎌倉②☆海蔵寺・浄光明寺・寿福寺☆かかん鎌倉本店☆2019/11/07
https://4travel.jp/travelogue/11564595
秋の北鎌倉①☆円覚寺☆弁天堂茶屋☆2014/11/04
https://4travel.jp/travelogue/10949508
秋の北鎌倉②☆建長寺☆ぬふ・いちの鎌倉野菜のスープカリー☆2014/11/04
https://4travel.jp/travelogue/10949628
秋の北鎌倉①☆東慶寺☆浄智寺☆2015/11/09
https://4travel.jp/travelogue/11076061
秋の北鎌倉②☆明月院☆円応寺☆ミンカ☆2015/11/09
https://4travel.jp/travelogue/11076091
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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北鎌倉駅で下車。
ここから北鎌倉散策開始です。 -
北鎌倉駅前の光泉で稲荷ずしを購入します。
昭和26年に創業した稲荷ずしの専門店です。 -
稲荷寿司と海苔巻き、かっぱ巻きです。
棒状の稲荷寿司を真ん中でカットしてあります。甘辛い濃いめの味付けをした油揚げは、創業時からの注ぎ足してきた秘伝のタレを使用しているそうです。中身の酢飯には粗塩を使い、油揚げの甘みが際立つよう酢を控えめにしています。 -
創業からずっとデザインが変わらぬ包み紙。
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次に、北鎌倉駅そばの松花堂に来ました。
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ショーウインドウには「ツバキ文具店」と「ツバキ文具店の鎌倉案内」が。
稲荷ずしの光泉も登場しています。
もちろん、松花堂のあがり羊羹も。 -
尾張徳川家献上の品「あがり羊羹」の伝統を継承し、製造販売しています。
材料は小豆と砂糖と小麦だけというシンプルなものです。 -
あがり羊羹の包み紙。
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水ようかんよりは固く、練り羊羹よりは柔らかい食感です。
ういろうに近いですが、ういろうよりは柔らかいです。
上品な味わいで、美味しいです。 -
葛原岡神社に向かいます。
坂道をひたすら上ります。 -
途中に、北鎌倉延命地蔵菩薩。
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お地蔵さま
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たくさんの鈴が奉納されています。
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水かけ観音
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坂道を上っていると、案内板がありました。
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まだまだ坂道です。
後ろを振り返るとこんな風景。 -
やがて視界が広がり、葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)に着きました。
葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。明治天皇が日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治20年(1887)に創建されました。 -
魔去る石
「魔が去る」が転じて「勝(まさる)」という意味で、幸せを勝ち取る石と言われています。願いを込めて、杯をこの石に当てて割れば不運と決別です。 -
境内には「男石」「女石」があり、あわせて縁結びの石として恋愛成就のご利益があります。
縁結び守りに付いている赤い糸に5円をつけて、縁結びの石のしめ縄に結びます。 -
手水舎
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本殿
ご祭神の日野俊基卿は、建武の中興への道を開かれたことから開運の神様と呼ばれています。 -
昇運の神龍
旧本殿に納められていたもので、神様のお使いとして願い事をより早く届けてくれる龍だそうです。 -
ハート形の絵馬が奉納されています。
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『鎌倉に 雪降る離乃 別れかな』
俳人・宮下翠舟が詠んだ句。
鎌倉に居を構えていた宮下翠舟は家に残された雛人形を片付ける際に、嫁いだ娘と日野俊基の一生を重ね併せ、この句を詠んだとされています。 -
合鎚稲荷社
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鎌倉時代の刀工、五郎入道正宗の屋敷に祭られた稲荷神社だそうです
以前は屋敷跡の無量寺にあったそうですが平成25年に葛原岡神社境内に遷座したそうです。
左手には鍵。 -
右手には珠。
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縁結びが成就したら、お礼参り。
葛原岡神社では“御礼参りの折鶴”があります。
箱の中にはたくさんの折り鶴。縁結びが成就した人がたくさんいますね。
葛原岡神社は、ドラマ「まだ結婚できない男」第5話のロケ地になっていました。 -
藤原仲能之墓 (ふじわらなかよしのはか)
この場所は、道智(どうち)の塚または阿古耶尼(あこやに)の塚であると伝えられていますが、海蔵(かいぞう)寺の伝えによりますと、藤原仲能(なかよし)の墓と考えられます。仲能(なかよし)は、鎌倉幕府の重臣でしたが、その後、海蔵寺の発展に尽くしました。 1256年12月9日死に、道智禅師と言われたらしく、その位牌(いはい)がこの寺に現存しております。 -
葛原岡神社の駐車場から見た風景。
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日野俊基(ひのとしとも)の墓所。
日野俊基は、1323年(元享3年)に後醍醐天皇に抜擢され蔵人になり、日野資朝とともに後醍醐天皇の側近として倒幕計画を先導し、武士を組織しました。正中元年(1324)の正中の変(1325)で倒幕計画が漏れ、日野資朝・日野俊基が捕らえられ鎌倉に連行されました。
俊基は、証拠不十分で罪を許され、資朝は死罪を免ぜられ、佐渡へ配流になりました。俊基は、後醍醐天皇の下で再び北条氏倒幕計画を進めたが、元弘元年(1331)の元弘の変で六波羅に捕らわれ、鎌倉に護送され、翌年元弘2年(1332)6月2日に葛原岡で処刑されました。後醍醐天皇も隠岐へ流されました。 -
鎌倉幕府の討幕を目指した、日野俊基卿が最期を迎えた地なんですね。
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俊基朝臣墓所の碑
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源氏山公園の源頼朝像に来ました。
かつて源義家が後三年の役に際して、山頂に白旗を掲げて戦勝を祈願したと言い伝えられる源氏山。
鎌倉の街を見下ろせる源氏山、源頼朝像が鎌倉の街に向いて鎮座しています。 -
源頼朝像のまわりで、小学生たちがお弁当を食べていました。
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化粧坂切通しを下ります。
元弘3年(1333)5月18日、新田義貞の鎌倉攻めの時、激戦地となったつづら折の坂道です。わずか80m程の坂道ですが幕府軍の抵抗は激しく、新田軍は、4日後の21日になっても突破できませんでした。
化粧坂切通しは、鎌倉七切通しの一つで、武蔵方面から葛原が岡を通って鎌倉へ入る切通しです。 -
この切通しは、武蔵方面へ通じる主要な出入り口として、鎌倉の防御上重要な意味をもっていました。
名の由来は、平家の武将の首を化粧して首実検したからと言われています。この地は、鎌倉後期には栄え、人々の往来で賑わっていたようです。国史跡となっています。 -
濡れている個所も多く、滑りやすくなっていました。
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滑らないように慎重に下りてきました。
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化粧坂 (けわいざか)の碑がありました。
「けわいざか」の漢字は、 「化粧坂」又は「形勢坂」と 当てています。この名前は、 昔平家の大将を討取り、誰の 首か確認しやすくため、その 首に化粧をしたことによるとの説があります。また昔この 坂の麓(ふもと)に遊女のいる 所があったのでその名がある との伝えがありますが、吾妻 鑑(あずまかがみ:鎌倉時代の 歴史書)にはその名前は出てきません。この坂はいわゆる 鎌倉七口(ななくち)のひとつであり、鎌倉を攻めるにも守るにも重要な地点でありまし た。1333年5月に新田義貞の軍が鎌倉に攻め入って以来しばしば戦場となった所です。 -
鎌倉を歩いているとこのような風景によく出会います。
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景清窟・向陽庵大悲堂碑
下には、向陽庵大悲堂碑があります。
景清の娘である人丸姫は、捕えられた父に会うため京都より鎌倉に下ってきましたが会うことはできず、景清の死後に尼となり、景清が幽閉されていた石牢の上に、景清の守本尊(十一面観音像、現在は海蔵寺にあるそうです)を祀りました。
それが向陽庵だそうです。 -
上にあるのが「水鑑景清大居士」と刻まれた碑。
源頼朝の暗殺を企てた平氏の侍大将平景清が幽閉されていた牢の跡である景清窟があった所だそうです。
ここから海蔵寺に向かいます。
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