2019/10/11 - 2019/10/11
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worldspanさん
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大和郡山に訪れたのは今回が二度目。前回大ずれた時と町に大きな変わりはなかったが、ただ残念だったのは金魚の電話ボックスがなくなっていたこと。著作権の関係で撤去されてしまっていたが、そんなことに巻き込まれ郡山の名所が消えてしまっていたとはとても残念だ。
大和郡山は豊臣秀吉の弟、豊臣秀長により発展を遂げた町、歴史が好きな人にはたまらない町だ。ただ現在の郡山の町はどこか寂れた感じがし残念な感じもする。
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スタートはJR郡山駅からスタート。
郡山駅 駅
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郡山城方面に歩いているとまず目の前に現れるのが外堀緑地北門周辺には外堀があった場所。城門の周辺の外堀は埋め立てられ緑地公園となっている。城下町の雰囲気を出すのがこの北門。北門は再現されたものであるが、当時の作り方をそのまま模擬しているのかまでは不明。
外堀緑地 公園・植物園
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外堀緑地に位置する常念寺。外堀緑地自体は明治維新以後に外堀が埋められ緑地になったわけだが、この常念寺が作られたのは18世紀ごろだといわれている。その後大和郡山城城主からの庇護を受けたり、家老職菩提樹として役割を果たす。
常念寺 寺・神社・教会
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大和郡山城の城下町には古くから続く家屋が残されている。その一つが葉本家住宅。葉本家住宅は明治24年ごろに作られた100年以上続く建物だ。当時葉本家では両替商を営んでいた。当時の権勢は大きかったのだろう。屋根の上に注目をしてもらいたい。屋根の上にはこんもりとなった場所があるが、これは煙出し。昔ながらの長屋。
ハモトプチミュージアム (元両替商葉本邸) 美術館・博物館
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蔵が残る旧市街
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江戸時代から明治時代頃に作られた街並み
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欄町通りに出ると、大和郡山市の歴史地区にある火の見櫓で、江戸時代には4基ほどあったそうだが、現在はこの1基のみが残されている。櫓の下には消防団の事務所が置かれているのが面白い。木造の櫓で当時を偲ぶ建物なので、是非見てみたい
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火の見やぐらを再現
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豊臣秀吉の弟、豊臣秀長の菩提寺でもある春岳寺。豊臣秀長は秀吉の右腕として活躍した戦国武将。ここ大和郡山城の城主として100万石をおさめた。まさか秀長であればもっと大きな寺院かと思いきや意外とこじんまりとしていて驚かされる。
春岳院 寺・神社・教会
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春岳寺
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藺町街区公園
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蘭町通り
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紺屋川と箱本。紺屋川は幅1メートルほどの水路でその水路沿いには昔ながらの家屋が並んでいる。このエリアは豊臣秀長により整備されたといわれている。紺屋川の藍染の職人たちが集まり、紺屋川で染ものをさらしていたのだろう。現在その紺屋川には金魚が泳いでいる。「紺屋」には箱本を形成したこの職人たちが使用した染具などの資料が展示されている。
箱本館「紺屋」 美術館・博物館
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これがどこだったか・・・
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源九郎稲荷神社。地味な稲荷神社ではあるが、実は日本三社稲荷の一つに数えられる神社だ。源九朗とはあの、源九朗義経の名前から由来している。源義経は源頼朝との戦いの中、何度もこの稲荷のご運に救われたといわれている。とても静かなたたずまいで、三社稲荷の一つとは感じさせない。
源九郎稲荷神社 寺・神社・教会
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洞泉寺町周辺は昔遊郭街だったのだろうか、そんな雰囲気を漂わせる町並みが残る
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柳町商店街の街並み
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昔はそれなりに人通りも多かったのかな。
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昔ながらの家屋。
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郡山八幡神社。平城京を築いた聖武天皇の勅命により749年に作られたのがこの郡山八幡神社。国家安寧、長寿安産、家内安全、厄除開運、学業成就、商売繁盛など何でもご利益のある神社だ。大和郡山城を守護する神社とも言える。
郡山八幡神社 寺・神社・教会
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郡山八幡神社。
郡山八幡神社 寺・神社・教会
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かつてこの場所には金魚の電話ボックスがあった。この電話ボックスは大和郡山では人気があり、金魚の町、郡山の顔的存在だった。それだけにこの金魚電話ボックスが著作権の関係で撤去されてしまったのは本当に残念で仕方がない。
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金魚の電話ボックス周辺にも古い町並みが残る。
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次に訪れた場所は大納言塚。そう、豊臣大納言秀長、つまり豊臣秀吉の弟のお墓だ。豊臣系の人物になるので江戸時代に破壊されたり、埋められたりしているのかと思いきや、秀長の居城郡山城のすぐそばに現存するとは思いもしなかった。墓所はとても静かでほとんど観光客がいなかった。
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豊臣大納言秀長の墓所
大納言塚 名所・史跡
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カトリック大和郡山教会。1955年に建設された教会。この教会には「浦上切支丹大和郡山流配者記念碑」が建立されている。明治維新後もキリスト教に対する弾圧が続き、明治2年に長崎の浦上で捕らえられた86名がこの地に流刑され、強制労働を強いられた場所でもある。明治維新後もこうした弾圧が続いていたこと自体知らなかったので驚かされた。
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黄檗宗龍華山永慶寺。大和郡山城のすぐ傍らにある。江戸時代中期から後期を統治した柳沢家の菩提寺だ。柳沢家といえば綱吉の時代に大老職の柳澤吉保が五代将軍徳川綱吉の寵愛を受け権勢をふるったことで知られている。まさかその柳沢家が吉保の息子の時代に大和郡山城に転封されているとは。そして永慶寺が転封の際に甲府から移されたことも驚きだ。
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郡山城の背後にある郡山高校の周辺は城址公園になっている。かつてお濠だった鰻堀池や鷺堀池が残り、散策ができるようになっている。季節がよい時期であればゆっくり歩いてみて回るのよいかもしれない。鰻堀池側は整備されている。
郡山城跡 花見
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お城の石垣が美しい
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空堀もある
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郡山城の城内にある柳沢文庫。昭和35年、1960年にかつての藩主だった柳沢家を中心に有志が歴史的資料を集めつくった図書館だ。柳沢文庫は明治時代に作られた柳沢家の邸宅を利用して作られている歴史的価値のある場所だ。
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明治13年に郡山城の本丸の跡地につくられたのが柳沢神社。柳沢神社の祭神は5代将軍徳川綱吉の時代に一大の権勢をふるった柳沢吉保だ。神社の周辺には数百株の桜が植えられており、4月頃になると多くの桜が花をつけ花見の名所となっている。
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郡山城址。現在天守は残されていない。大和郡山城といえば写真の追手向櫓だ。これは復元されたもの。大和郡山城は筒井順慶により築城され、その後羽柴秀長、ました長盛といった戦国の有名人たちが城主となった。畿内に近い場所にあるので当時の重要な人物が大和郡山城に転封されていたのだろう。
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大和郡山城の内堀
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大和郡山城の城内に建設されている城址会館。日露戦争の戦勝を記念して作られた建物で明治41年に建設された建物。瓦屋根は日本風ではあるもののの、建物の正面は大連で見かけるようなロシアティックな趣を見せる建物で和洋折衷、和露折衷といったところだろうか。
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大和郡山城の追手門。大和郡山城は筒井順慶により築城されたが、その後豊臣秀長が入城し、その際に追手門が作られたといわれている。追手門は残念ながら明治6年に破壊されてしまったが、昭和55年に再建された。
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帰りは近鉄の郡山駅から大阪に。
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