2018/04/24 - 2018/04/26
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旅人のくまさんさん
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東北北部の名城巡り、続日本百名城の九戸城の紹介です。西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館、外館、松の丸などの曲輪群を持つ、東北地方では有数の規模でしたが、江戸初期に廃城となりました。
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『国指定史跡・九戸城跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。豊臣秀吉が、全国制覇を果たした最後の地としても有名です。天正19年(1591年)、秀吉は豊臣秀次を総大将に浅野長政、蒲生氏郷や関東、奥羽の諸将を鎮圧軍として派遣しました。鎮圧軍は一揆を平定しながら北進し、9月に約6万の兵で九戸城を包囲、助命の約束で9月4日に降伏、開城となりました。
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現在のエントランス広場にある、ガイドハウスの建物光景です。この辺りは、かつての『三の丸』になるようでした。善戦した九戸政実(1536~1591年)でしたが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、出家姿で討伐軍に降伏しました。 豊臣秀次の陣へと引き出された政実・実親兄弟らは死を覚悟しており、従容として斬首されたと伝わります。
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開城時の約束は反故にされ、城主の九戸政実はじめ、主だった首謀者は処刑され、城内にいた者は女、子供構わず撫で斬りにされ、皆殺しされたとも伝わります。平成になって、城内から人骨が多数発掘されましたが、落城時に殺害された人達であるかどうかは、判明していません。(ウィキペディア)
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豊臣秀吉の命により編成された九戸討伐軍は、豊臣秀次(1568~1593年)を総大将とし蒲生氏郷(1556~1596年)や浅野長政(1547~1611年)、石田三成(1559~1600年)を主力として奥州への進軍を開始し、さらに小野寺義道、戸沢政盛、秋田実季、大浦為信が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回ったとされます。
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『史跡・九戸城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。九戸討伐軍の総大将となった秀次は、豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男です。 秀吉の嫡男の鶴松(1589~1591年)が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役(1592~1593年)の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続しました。ところが、その後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられ、高野山青巌寺に蟄居、後に切腹となりました。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑されました。
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振り返って眺めた、先程立寄ったガイドハウス方面の光景です。秀次は、凡庸・無能な武将として見られることがありますが、秀次の主な失敗は、わずか16歳の時の小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけとされます。その後の紀伊・四国攻め、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においても山内一豊、堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなしました。
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二の丸の周りの土塁跡の頂上の光景になるようです。秀次の話しに戻ります。秀次が本格的に統治を行った近江八幡では、町割など行政活動を積極的に行って発展させていて、近江八幡では未だに尊敬されているようです。近江八幡公園には銅像も建てられています。相応の力量があり、文武両道の人物であったようです。因みに、琵琶湖に近い八幡山城は、続日本百名城の157番に指定されています。
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最初に紹介した城跡案内図には、『深田堀』と記されていた光景です。防御にも効果があった湿地帯のようです。秀次は、古典の収集に励み、これを保護しました。小田原征伐後、こちらの奥州に赴いた秀次は、中尊寺の大蔵経を接収して、これを持ち帰りました。このほかにも足利学校や金沢文庫所収の書籍をも持ち帰っています。奥州は、日本の令制国の一つで陸奥国のことです。
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同じく、『深田堀』の光景です。秀次は、かねてから蒐集していたとみられる『日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『文徳実録』、『三代実録』、『類聚三代格』、『実了記』、『百練抄』などを朝廷に献じています。秀次は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもありました。天正16年以前に『源氏物語』を書写させて所持していました。(ウィキペディア)
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『ミズバショウ(水芭蕉)』
サトイモ科ミズバショウ属の多年草
花期:低地では4月から5月、高地では融雪後の5月から7月。
特徴:花に見える仏炎苞は、葉の変形したものです。
その他:湿地を好む植物です。 -
『ミズバショウ(水芭蕉)』
サトイモ科ミズバショウ属の多年草
花期:低地では4月から5月、高地では融雪後の5月から7月。
特徴:花に見える仏炎苞は、葉の変形したものです。
その他:日本各地に多数の群落があります。 -
ピンク色の花を咲かせた『ヒメオドリコソウ(姫踊子草)』と、青色の花を咲かせた『オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)』の小群落の光景です。ヒメオドリコソウは、『ホトケノザ(仏の座)』によく似た花を咲かせる、ヨーロッパ原産のシソ科オドリコソウ属の越年草です。オオイヌノフグリは、可愛そうな名前を付けられた春の野草です。
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深田堀から眺めた、『二の丸切り岸』の光景になるようです。自然の地形を利用した急峻な崖になっていました。秀次の話題に戻ります。彼の学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記も現存するようです。養父の大名の三好康長(生没年不詳)は、茶人としても有名で、連歌にも秀でていました。秀次も養子に入ってからこれらを習い、茶道や連歌を嗜む教養人でした。
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同じく、深田堀から眺めた、『二の丸切り岸』の光景です。少し話は逸れますが、阿波岩倉城主、河内高屋城主だった三好康長について補足しておきます。三好一族の中で最後まで畿内で信長に抵抗を続けましたが、天正3年(1575年)に攻められ、4月に松井友閑を通じて降伏しました。同年7月、相国寺で信長に面会して赦免され、10月に所持していた名物『三日月』を信長に献上しています。
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『信長公記』巻八には、名物のお茶壷の『三日月』について、『天下隠れなき三日月の葉茶壷、三好笑岩進上にて候ひしなり』と記しています。笑岩が信長に降伏するに際して、太子屋からいったん質受けし、これを降伏の証として献上したようです。信長は手に入れた『三日月』を『つくも茄子』や『松嶋』、『白天目』などとともに茶会の際に使用しています。
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信長が茶会で使用したこれらの茶器は、笑岩や松永久秀、本願寺が信長に服属や和議の証として贈ったものであり、織田政権の権威を示す政治的な意図もあったと指摘されています。戦国期において、『天下無双ノ名物』とうたわれた葉茶壷が『三日月』で、いわゆる『東山御物』の一つです。 天正15年(1587年)頃に成立した『山上宗ニ記』には『三日月』の詳しい伝来が記されています。
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天文23年(1554年)成立と考えられる『茶具備討集』や、永禄7年(1564年)成立の『分類草人木』といった茶書には、『松嶋』とともに『三日月』が名壷として記されています。大名物の『松島の壷』は、葉茶壷の一種で東山御物です。三好宗三→
子息右衛門大夫→武野紹鴎→今井宗久と伝世し、1568年10月、義昭入洛の戦いに勝利した信長に、今井宗久がお祝いとして進上しました。 -
名物茶壷の『三日月』の紹介で鵜s。『はじめ奈良興福寺西福院にあり、その後、商人・日向屋道徳、下京の「袋屋」の所持を経て三好実休の手に渡る。この時、戦乱により河内・高屋城で六つに割れてしまったが、千宗易により修復され、「三好老衆」が三千貫の質として太子屋に預けていたところ、太子屋から織田信長へ進上された』
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『史跡・九戸城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。近代工法の石垣の上に建つ石碑には、なんとなく味気ない感じもしました。『三日月』の紹介の続きです。『割れた後も「名物ノ威光」はまだ増し、代は五千貫とも一万貫ともいわれる高値がついたが、信長の時代に焼失してしまった』と記述されています。
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豊臣秀次の紹介から、少し話が逸れてしまいましたが、秀次事件の時、秀吉古参の家臣である前野長康、さらには木村重茲、渡瀬繁詮など多くの人物たちが秀次の無罪を主張し、『五宗記』によれば、石田三成も秀次を弁護しています。また、家臣・小姓からは殉死者も多く出ていることから、徳のない人物ではなかったことの傍証になるようです。
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傍証としては、キリスト教宣教師たちは秀次を『この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった』また、『穏やかで思慮深い性質である』などと記しているルイス・フロイスの『日本史』などもあります。狂っていたのは、晩年の秀吉とする説の方が説得力がありそうです。
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晩年の豊臣秀吉(1537~1598年)の業績には、評価すべきものが少なく、老害とも思えるものが目立つようです。殊に、諫め役であり、調整役だった弟の秀長(1540~1591年)が亡くなった後は、顕著になったようです。
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スイセンの群生光景です。『キズイセン(黄水仙)』のようです。南ヨーロッパやアルジェリアを原産地とする、ヒガンバナ科スイセン属の多年草です。
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『二の丸大手』のタイトルがあった説明看板の光景です。現在位置が、右下の地図の二の丸の東南角に記されていました。その上の写真は、平成7年(1995年)の発掘調査の模様です。二の丸には、3箇所の出入口があり、その一番重要な出入口と紹介されていました。
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『二の丸大手』付近から眺めた、南側方面の光景です。『国指定史跡・九戸城跡』の縄張り図を参照しますと、『在府小路遺蹟(武家屋敷跡)』方面になるようです。
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九戸城の立体模型の光景です。九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部家の本城として南部信直に引き渡されて三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めました。しかし、領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続けたとされます。
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九戸城の立体模型の中心部分のズームアップ光景です。慶長2年(1597年)の不来方(盛岡)築城によって、南部氏の居城は盛岡城へ移されましたが、城は寛永13年(1636年)の廃城、破却まで残されました。
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日差しが強くなり、説明パネルに人の影が映ってしましました。左の説明パネルのタイトルが『九戸城の歴史』、九戸城の文献上の初出が名桜年間(14世紀)から説明されていました。右の図面のタイトルは『九戸御陣図(寛文7年作)でした。寛文7年(1667年)は、天正19年(1591年)の戦いから76年ほど経った江戸時代の作成です。
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左の説明パネルのタイトルが『九戸城の特色』、雄大な規模を持つ平山場で、中世から近代に向かう過渡的な城と紹介されていました。右のパネルのタイトルが『九戸城の規模』でした。昭和10年に国の史跡の指定を受けたのは21万平方メートルほどですが、元々の規模は34万平方メートルの規模であったことなどが紹介されていました。
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『現在地』のタイトルがあった平面図の光景です。現在地が、『二の丸大手口』から入って、左手の『二の丸』の南端の中間点に記されていました。この説明パネルが置かれていた場所です。
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