2019/09/20 - 2019/09/20
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ベームさん
その1の続きです。
護良親王、北条高時最後の場を訪ねました。
写真は護良親王が幽閉され、最期を遂げた土牢。鎌倉宮。
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今日の全コース。
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その2。
地図右半分。 -
鎌倉駅に戻ってきました。
駅前の食堂で昼を摂り、タクシーで右半分の一番遠い所まで行きます。 -
行く先は大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)の墓。
後醍醐天皇の皇子で、楠木正成、新田義貞らとともに鎌倉幕府打倒のため闘い、建武の新政後征夷大将軍となるも、謀反の疑いで父後醍醐天皇の命により捕らえられ、鎌倉で幽閉後中先代の乱の混乱のなか足利直義に殺される。
足利尊氏との権力争いに敗れたともいわれる。 -
後ろの岡の高みにその墓があります。
護良親王(もりなが、もりよししんのう)。1308~1335年。
後醍醐天皇の第3子。幼少時より利発、比叡山に入り父の威光もあり20歳の若さで天台座主の位につき大塔宮(おおとうのみや、だいとうのみや)と呼ばれる。。 -
しかし仏法の修行、学問よりはもっぱら武芸を好み乱暴者で、日頃の素行は悪かったそうです。手下に命じ京都の町中で辻切りなどの狼藉を働かせたそうです。
二条河原の落書:この頃都にはやる物、夜討・強盗・にせ綸旨・・・。 -
墓はこの石段のずっと上ですが、台風の被害を受け立ち入り禁止となっていました。
宮内庁の管理下にあります。
1331年、後醍醐天皇のもと楠木正成らとともに討幕の挙兵をするも敗れ、後醍醐天皇は隠岐の島に流罪となるも護良親王は逃れる。元弘の変。この時日野俊基は捕らえられ、鎌倉で処刑された。(その1)。 -
ちょっとご免こうむって中へ。
1333年、後醍醐天皇は隠岐の島より脱出し護良親王、楠木正成、新田義貞、足利尊氏らの奮戦でついに鎌倉幕府を倒す。
建武の新政が始まり護良親王征夷大将軍になる。このころより護良親王と足利尊氏の対立が深まる。
1334年、親王は尊氏討伐を志すが、逆に足利尊氏、阿野廉子(あのれんし、後醍醐天皇の寵姫)の讒言(護良親王に皇位簒奪の謀反心あり)により捕らえられ、鎌倉の足利直義のもとに幽閉される。 -
石段の上のほうで倒木が覆いかぶさっています。君子これ以上近寄らず。
1335年、滅ぼされた鎌倉幕府最後の執権北条高時の息、北条時行が鎌倉に攻め込んだ際(中先代の乱)、鎌倉を逃げ出す足利直義の命により護良親王は殺害される。 -
護良親王墓所。
WEBより借用しました。 -
墓所はもともとここにあった理智光寺の跡です。
なぜ後醍醐天皇は尊氏や廉子の讒言を信じたのかわかりません。尊氏を間に挟み天皇と親王の間に不信感が生じていたようですが、それにしても建武の中興の大功労者を見放すとは。寵姫廉子の色香に迷わされたか、廉子との間の皇子を後釜にしたくて讒言を護良親王排除の好機と捉えたのか。
権謀術数をほしいままにした後醍醐ですが、建武の新政は失敗に終わり、武士の不満を結集した尊氏により京都を追われ吉野(南朝)で生を終えます。 -
鎌倉宮まで歩く途中、日本画家平山郁夫旧宅がありました。タクシーの運転手が教えてくれました。
今もご遺族が住まわれているようです。 -
やはり途中、鎌倉ローン・テニスクラブの所を200mほど入ったところに、
国指定史跡「永福寺跡」がありました。 -
パンフレット。
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源頼朝が1189年に奥州平泉を攻めた後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために建てた寺です。
以下はパンフレット。より。 -
寺の中心が二階堂で、ここ一体の地名の由来です。
池は当時からあり、もっと広かった。 -
頼朝以降も歴代の将軍の行事がここで行われ、幕府の迎賓館としても使われました。
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数度の火災にあい都度再建されますが、1405年の火災でほとんどの建物が焼け落ち、その後再建されることはなかった。
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昭和58年から平成8年にかけ発掘調査が行われました。
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発掘の状況。
パンフレット。 -
鎌倉宮に着きました。護良親王墓から歩いて10分ほど。
護良親王が切られた東光寺の跡に明治2年、明治天皇の勅旨により創建された。 -
葛原岡神社といい鎌倉宮といい、明治天皇は明治維新の大業は遠く日野俊基や護良親王の忠義によるものだとして建立しました。今の天皇制ではあり得ないことですね。
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そのような時代に戻らないことを願います。
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手水舎。
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厄割り石。
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1枚100円のかわらけをこの石に投げつけます。葛原岡神社にも似たようなのがありました。魔去ル石でした。
気に入らないと簡単に人の頭をぶち割るご時世です。皿を割るくらいで済むなら平穏なものです。 -
かわらけの投げ方の説明。
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拝殿。
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拝殿の右後ろに、村上社、という摂社(末社)があります。
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一体の木の像:撫で身代り。村上義光(むらかみよしてる)像です。
1333年、護良親王は吉野城に拠っていた時幕府軍に攻められ、最早これまでと自害しようとした。その時忠臣村上義光が手傷を負いながら駆け寄り、我身代わりにならんと親王の鎧兜を身に着け、幕府軍の前で我は護良親王なり、と大音声を発し腹を掻き切った。 -
樹齢103年のケヤキの木だそうです。
太平記:(護良親王の落ち延びたのを見届けた後)大音声を揚げて名のりけるは
「天照大神の御子孫、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子、一品兵部卿親王尊仁(護良親王のこと)、逆臣のために亡ぼされ、恨みを泉下に報ぜんために、ただ今自害する有様を見おいて、汝らが腹を切らんずる時の手本にせよ」と言うままに、・・・、白く清げなるはだに刀を突き立てて、左の脇より右の腹まで一文字に掻き切って、はらわた掴んでなげつけ、太刀を口にくわへて、・・・。 -
村上義光(むらかみよしてる)像。
幕府軍の首実検によりこれは護良親王ではないと判明したがすでに親王は高野山に落ち延びていた。
その功に明治天皇は従三位を追贈しています。 -
宮さま(護良親王)の盾。
守りたい良縁と断ち切りたい悪縁を書いて奉納すると、宮様の御神徳により聴き遂げられるそうです。 -
奉納した人たちはおそらく善男善女なのでしょう。こういうのは悪徳商法とは言わないのですね、信心の問題ですから。
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拝殿の先に入るには300円払います。
本殿は木立にさえぎられてよく見えません。 -
小賀玉(おがたま)の木。
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一番奥に崖に穿たれた洞穴がありました。
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ここが護良親王が殺害された所、土牢です。
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1334年、足利尊氏、阿野廉子の讒訴により後醍醐天皇の命で捕らえられ、足利直義支配下の鎌倉に護送されこの土牢に幽閉された。
1335年、滅ぼされた北条高時の遺児時行が信濃で兵をあげ鎌倉に攻め込んできた。劣勢に立った足利直義は鎌倉から逃げ出す際家来の淵辺義博に護良親王殺害を命じた。 -
北条時行が護良親王を助け出し手を組んで対抗勢力となるのを怖れたからのようです。
淵辺は土牢の親王を襲います。武勇に優れた親王ですが、半年以上の土牢幽閉で足腰が弱っており、さしもの勇者もついに討たれます。
太平記にその様子がリアルに描かれています。 -
土牢の近くの御構廟(首塚)。
掻いた護良親王の首印を取り上げた淵辺ですが、驚いた。親王は打ち込んだ淵辺の刃をがっきと口で受け止め、折れた刃先を噛んだまま生きているように睨んでいるのです。 -
恐怖にかられた淵辺は首をここに捨てて逃げました。親王の世話役として京よりお供してきた南の方がその首を拾い理智光寺(先ほどの護良親王の墓のあるところ)で厚く葬りました。
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石灯篭。
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教育勅語および五箇条の御誓文の碑。
教育勅語とは明治23年、明治天皇が日本の教育の基本方針として下した勅語です。
「朕(ちん)思うにわが皇祖皇宗(こうそこうそう)国をはじむること宏遠(こうえん)に・・・我が臣民(しんみん)よく忠によく孝に・・・朕なんじ臣民と共に拳拳服膺(けんけんふくよう)して・・・」
これを昭和20年の敗戦の時まで子供たちは学校で暗唱させられたのです。私は終戦時学業前だったので経験ありませんが、「ちんおもうに、ちんおもうに○○○○」とふざけたのは記憶にあります。
進駐軍によりその朗読と神聖化が禁止され、昭和23年に正式に排除されました。 -
宝物殿。
近年一部の保守政治家の中に、教育勅語にも良い部分がある、なんて言いだす者もいるようです。
中の一部の文言を評価するのではなく、勅語全体が意図し目指す所、それが国民教育、日本の軍国主義にいかに悪影響を与えたかをよく考え全否定すべきです。 -
護良親王の生涯を描いた絵など。
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山本五十六の書。
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乃木希典。
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左:伊藤博文。右:勝海舟。
教育勅語の碑といい、これらといいまさに明治大正、敗戦前の昭和の天皇制軍国主義の時代の亡霊に出会ったような気がしました。 -
大鳥居の下に日本最初の蜜柑の子孫が植わっています。
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アナクロニスムに満ちた鎌倉宮を後に次へ。少しでも足をいたわるためバスに乗りました。
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岐れ道で下車。
左が鎌倉宮方面、右が朝比奈方面。 -
朝比奈方向にちょっと行くと荏柄天神社の鳥居があります。神社はずっと奥なので行きません。
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関取場跡というのがあります。
小田原城主北条氏康がここに関所を設け、通行人から関銭、通行税を取ったそうです。 -
史跡委員会、とありますが子供の字のようです。
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大御堂橋という橋がありました。赤いポスト。
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滑川に架かる橋です。
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橋を渡ったところの石碑。
文覚(もんがく)上人屋敷跡。1139~1203年。
鳥羽上皇に仕える北面の武士だったが、同僚の女房に懸想し、夫を殺すつもりが誤って女房のほうを殺してしまう。罪を悔いて出家する
放浪の途中伊豆に配流されていた源頼朝に出会い、その後ずっと行動を共にする。
頼朝に決起を促したとも。 -
幕府の要人として、また後白河法皇の庇護を受け神護寺の再興、江の島に弁財天勧請など影響力をふるうが、頼朝の死後は力を失っていった。最後は謀反の罪を受け対馬に流罪。
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ちょっと戻って、横浜国大前バス停ちかくにある筋替橋の碑。
鎌倉の川に架かる主要な10の橋の一つ。道に対し橋が斜めに架かっていたのでこの名がつきました。今はありません。 -
国大前から少し八幡宮のほうに行くと宝戒寺があります。
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短い参道。
この近くに鎌倉幕府最後の執権北条高時終焉の地があり、後醍醐天皇は滅亡した北条一族の霊を弔うため、足利尊氏に命じこの寺を建立させたのです。 -
参道のわきに、北条執権邸旧跡の碑が立っていました。
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ここは北条義時以来代々の執権が住んだ屋敷があったところなのです。
新田義貞の鎌倉攻めの時炎上しました。 -
200円の料金を払って境内に入ると咲き始めた萩の花が出迎えてくれました。
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四季を通じ花が咲き、9月には白いハギで境内が埋め尽くされる「萩の寺」として有名だそうです。
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萩を見に来る人もちらほら。まだ少し早いのか遅いのか。
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本堂。
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小さいながらも明るい長閑な境内です。
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萩の群生。
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芙蓉。
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本堂。
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何の木か巨木です。
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境内の隅っこに。
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神仏混交の名残か。
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曼殊沙華が鎌首をもたげていました。
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次に北条高時最後の場所を目指しますが、近くなのに道しるべもなく少し彷徨いました。20分以上はロスしたでしょう、時間よりも足に影響しないか心配です。
途中にあった日蓮上人辻説法跡。 -
1253年安房(千葉)から鎌倉に出てきた日蓮は草庵を結び、この辺りに毎日のように来て法華経の功徳を説く辻説法を行ったといわれます。
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石碑。
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幾人かの人に訊いてようやく見当がつきました。東勝寺橋を渡ります。
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滑川。材木座海岸で相模湾にそそぐ川です。
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この道しるべを見て一安心。
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200mほどの歩くとフェンスに囲われた草原がありました。
東勝寺跡です。13世紀前半、3代執権北条泰時の創建。いまは跡形もありません。 -
1333年5月、新田義貞の鎌倉攻めで追い詰められた執権北条高時以下一族郎党870余人が東勝寺の裏山で自害しました。鎌倉幕府滅亡の時でした。
まさに夏草や兵どもが夢の跡。 -
その先、細い道を上ったところに、やっと腹切やぐらの石碑がありました。
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自害のさまは太平記に生々しく描かれています。
「高時ならびに一門以下(いげ)東勝寺において自害の事」 -
「盃を次のものに指し、これを肴にしたまえと腹を掻き切り腸(はらわた)をつかみ出し伏せる。次のものこれを見てよい肴じゃと盃を干し次のものに指し、同じくこれを肴にしたまえと腹を掻き切り腸をつかみ出し死にけり。」
これがつぎつぎと繰り返される。 -
「あるいは自ら首を掻き落とす者、親子兄弟刺し違える者、腹を切り炎の中に飛び込むもの、思い思いの最後の体、ことにゆゆしくぞみえたり(全くみごとであった)。
元弘三年五月二十二日と申すに、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の憤りをたちまち解き放つことを得たり。」
新田義貞の清和源氏に対し九代続いた執権北条氏は桓武平氏の流れだった。 -
やぐらと呼ばれる横穴には彼岸からでしょうか、まだ新しい花が供えられています。
ちょうど今日は彼岸の入りでした。 -
陰惨な過去から明るい鶴岡八幡宮前に。
ここから若宮大路辺りは平和な時代を享楽する人でにぎわっていました。
若宮大路沿いのタリスコーヒーで少し休んで江ノ電に乗ります。
その3に続く。
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