2019/09/20 - 2019/09/20
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ベームさん
その2の続きです。
極楽寺坂の切通しを突破できない新田義貞は稲村ケ崎の海岸沿いに鎌倉侵入を図ります。
文部省唱歌「鎌倉」
「七里ヶ浜のいそ伝い 稲村ケ崎 名将の 剣投ぜし古戦場 極楽寺坂越え行けば 長谷観音の堂近く 露座の大仏おわします」
新田義貞:上野国新田荘(今の群馬家大田市)の武将。1301~1338年。清和源氏の流れをくむ。
鎌倉幕府の御家人として1331年の元弘の変の時は楠木正成討伐軍に加わっていたが、途中で病気を理由に兵を引いた。後醍醐天皇の策略があったともいわれる。軍費調達のため幕府の新田荘での過酷な徴税、新田討伐の動きにたいし、義貞はついに挙兵する。1333年5月初め。
北条政権に不満を持つ武士たちが続々と義貞のもとにはせ参じ、上野、武蔵、相模国へと軍を進める。小手指原、分倍河原の戦い。
鎌倉に迫るも険峻な切通しに阻まれる。稲村ケ崎の海岸沿いからの攻略に策を変え、5月21日、干潮を利用し磯伝いに一気に鎌倉に突入。22日執権北条高時自害し鎌倉幕府滅亡。挙兵後わずか十数日だった。
その後義貞は京都に上り、後醍醐天皇の権謀術数、足利尊氏との対立に巻き込まれる。後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏に対し、楠木正成とともに天皇側に立ち戦うが最後は後醍醐天皇に裏切られ、1338年7月、越前国藤島で討ち死に。
写真は稲村ケ崎海岸。
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その3では鎌倉駅より江ノ電で地図左下、稲村ケ崎方面に行きます。
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江ノ電鎌倉駅。
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1日乗り降り自由の乗車券「のりおりくん」600円を買いました。3回しか乗り降りしないので得というほどではありませんが。
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その混雑ぶりが伝えられている江ノ電ですが、今日は行きも帰りも座れました。
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極楽寺で降ります。
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極楽寺駅舎。
関東の駅100選に選ばれています。 -
駅から少し戻ると極楽寺坂切通しに出ます。
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坂の中ほどの石段は成就院に上る石段です。
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坂の下にある極楽寺坂石碑。
ここは極楽寺から由比ヶ浜に抜ける鎌倉七切り通しの一つで、1333年5月の新田義貞の鎌倉攻め激戦地の一つでした。
軍を化粧坂、巨福呂坂、極楽寺坂と三手に分けた義貞は2万の兵を率い極楽寺坂へ攻め入ります。
ここを先途と迎え撃つ鎌倉軍、狭い坂ゆえどうしても突破できず大館氏など多くの将を失い、義貞は戦略を変えます。 -
太平記:極楽寺の切通しへ向かはれたる大館次郎宗氏氏、本間に討たれて、兵ども片瀬・腰越まで引き退きぬと聞こえければ、新田義貞兵二万余騎を率いて、・・・、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへ、数万の兵陣を並べて並みいたり。
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坂の下から。
今でこそ広げられていますが、昔は狭く急峻でとても大軍が一挙には進めなかったでしょう。その1で見た化粧坂は今も昔のままでした。 -
石段を登って成就院に寄りました。
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石段を登りきると遠くに素晴らしい景観が広がっていました。
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相模湾と由比ヶ浜海岸です。
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アップ。
由比ヶ浜を一望するここは鎌倉を守る要所だったことがわかります。 -
山門。
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1219年北条泰時の創建。
新田義貞の鎌倉攻めのさい焼失したが、江戸中期に再興。 -
手水鉢。
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寺の本尊不動明王の分身です。
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境内。
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子安地蔵と子生み石。手前の丸い石です。撫でると御利益があります。
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成就院から駅のほうに少し戻り江ノ電の線路を跨ぐ橋です。朱の欄干が鮮やかでした。
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橋の上から。
江ノ電唯一のトンネル極楽堂。 -
渡ったところに導地蔵堂。
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極楽寺です。極楽寺駅のホームの裏側にあります。
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山門。
関東大震災で本堂他倒壊し、この山門が現存する最も古いものです。1863年築。 -
1259年、北条重時開基。
鎌倉では珍しい真言律宗の寺だそうです。 -
参道。
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盛時には七堂伽藍に49の子院を持つ大寺院でした。
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両側は桜の木で、春は桜の名所だそうです。
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小さな本堂です。
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こんな建物も。
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サルスベリの大木があります。これほどの大樹を見るのは初めてです。
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名残の花が少し。
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盛りの時はさぞかし見事でしょうね。
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春の桜、夏の芙蓉に百日紅。花時に来てみたいです。
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四方に枝を伸ばした姿が素晴らしい。
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一株に八重と一重が咲く桜の木です。
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北条時宗お手植えの桜の子孫だそうです。
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再び江ノ電で本日の最後の目的地稲村ケ崎へ。
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線路沿いに少し戻り踏切を渡ると十一人塚があります。
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新田義貞の鎌倉攻めの際、極楽寺坂の戦いで討ち死にした重臣大舘宗氏(おおだてむねうじ)主従11人を弔うため義貞ここに十一面観音堂を建てた。
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案内板。
観音堂は今はありません。 -
大館又次郎源宗氏主従十一人墓。
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その先を行くと国道134号線、稲村ケ崎の海岸に出ました。
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左に稲村ケ崎が突き出ています。
由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にある小さな岬です。 -
振り返ると江の島が見えます。
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打ち寄せる浪。
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美景といってよいでしょう。
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遠くに見えるのは逗子あたりか。
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海岸に降りて遊ぶ人もいます。
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一帯は鎌倉海浜公園、別名稲村ケ崎公園となっています。
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史蹟稲村ケ崎新田義貞徒渉伝地の碑が立っていました。
1333年5月、どうしても極楽寺の切通しを突破できない新田義貞は最後に稲村ケ崎の海岸からの鎌倉突入を図った。
しかし崖下の海岸線は狭くひたひたと波が打ち寄せ、海上には幕府の軍船が弓を引き絞って待ち構えている。 -
ここで義貞、稲村ケ崎の巖頭から黄金の剣を海中に投じ龍神に祈願した。
すると潮がたちまち引き干潟となる。幕府の軍船は引き潮に引かれて海岸から遠くなる。ここぞと義貞以下6万の軍勢が磯伝いに鎌倉に突入した。という有名な故事の場所です。 -
太平記:稲村ケ崎干潟と成る事
義貞馬より下りたまひて、兜を脱いで海上を伏し拝み、龍神に向かって祈誓したまひける。「・・・・。願はくは、内海・外海の龍神、臣が忠義を鑑みて、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かしめたまえ」とみずから佩(は)きたまへる金作りの太刀を抜いて、海中へ投げたまひけり。
あとは一瀉千里、北條高時自刃、140年続いた鎌倉幕府滅亡となったのです。 -
義貞黄金の剣を海中に投げるの場面。
史実は潮の干満を十分考えての事だったのでしょう。 -
月岡芳年作。
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公園には逗子開成高校ボート遭難碑があります。
明治43年1月23日、生徒12人がボートで七里ヶ浜沖に漕ぎ出し遭難、全員が死亡した事件。
葬儀で鎌倉女学校生徒により歌われた鎮魂歌「真白き富士の根」がその悲しい歌詞とメロディーで愛唱された。
「真白き富士の根 緑の江の島 仰ぎ見るも今は涙 帰らぬ十二の雄々しきみたまに 捧げまつる 胸と心
ボートは沈みぬ 千尋の海原 風も浪も小さき胸に 力もつきはて呼ぶ名は父母
恨みは深し 七里ヶ浜」
作詞者は兄弟校鎌倉女学校の女性教諭三角錫子。 -
その後関係者の著書で、そんなお涙頂戴の綺麗ごとではなく、亡くなった生徒たちは不良少年で、その日は鳥撃ちをしようと無断でボートを漕ぎだしたもの。生徒の一人は「真白き富士の根」の作詞者と愛人関係にあったなどが暴露され話題となったそうです。
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逆光の中に浮かぶ江の島。
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ギラつく海面。
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打ち寄せる浪。
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逆巻く浪。
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これで本日の全行程終了。
昔、権力争いに巻き込まれて最も辛酸をなめたのは庶民でしたが、戦う権力者、武将たちにもそれぞれの悲哀はあったのですね。動乱の世に平和を求めて書かれたという太平記、いまの平和ボケした世をがいいようで。
どちらかというと、鎌倉市街の周辺部を歩いたので観光客の渦に巻き込まれることなく済みました。
みたび江ノ電に乗り鎌倉駅まで、横須賀線で帰りました。
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