2019/07/29 - 2019/07/29
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motogenさん
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森林公園の次は鳥羽山城址と二俣城址。
武田と徳川の激しい戦いがあり、いくつかのドラマもあった砦なのに、それほど有名でなく、訪れる観光客は希少だ。
地元の人たちの歴史認識も、それほど深くはないだろう。
地元の歴史愛好者による発掘調査や研究は行われていたものの、学芸員による公の調査の始まりは遅かったようで、いまだ分かっていないことが多い興味をそそられる城だ。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
森林公園を東に抜け、阿多古川沿いを下って、二俣の町に戻る。
遠州平野に出る直前の天竜川は、大きく蛇行して二俣の町の基盤を作り、
そこから飛び出た岩山に、鳥羽山城と二俣城が造られている。
面白い地形だ。
その地形を動画で見てください。
https://youtu.be/EXs3tBrtKfw -
鳥羽山城址に登ろうとすると、撮影しているスマホが熱でダウン。
気温はぐんぐん上がっている。
私たちはその暑さにも負けず、駐車場に到着した。 -
鳥羽山の頂はそんなに広くない。
東西30~40メートルほどの頂に、本丸や大手門や、からめ手門、東門などが造られていた砦のようだが、全容はまだ分かっていない。
急斜面の岩山で、その高さはおよそ70mある。 -
大手門に向かう大手道を登っていく。
-
鳥羽山城(砦)から500m北に、これまた急斜面の岩山があり、そこに築かれていたのが二俣城だ。
二俣城は今川氏が築いた砦だが、桶狭間の戦いで今川氏の力が衰えると、家康が占拠した。
しかし武田信玄の京を目指す侵攻で、信玄に奪われる。
その二俣城を取り戻そうと、長篠の合戦後に家康が築いたのがこの鳥羽山砦だと言われているが、その前から砦はあったという説もある。 -
大手門があった場所に着いた。
大手門や大手道がきちんと整備されたのは、徳川氏が天下をとり、家康の家臣の堀尾氏が入城した後だと言われている。
鳥羽山城 と二俣城に石垣が築かれたのも、その時期らしい。
それ以前は、実用オンリーの砦だったのだ。 -
城主の堀尾氏は、主城である二俣城ではなく、この鳥羽山城に住んでいたという。
鳥羽山城は来訪者をもてなしたり、政務をとる館だったようだ。
今は城の形跡を残すようなものもなく、芝生の広場だ。 -
草刈り作業に励んでいる職員がいた。
訪問者は少ないが、市の管理はしっかり行なわれている。
文化財を守る管理者というのは、大変だな・・
頭が下がります。 -
展望台が作られていた。
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登ってみると、
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対岸の二俣の町や浜北方面が望める。
「あっ! やっと観光客の人に出会えた・・」
そんな声がして、振り返れば、横浜からやって来た家族がやって来た。
昨夜は掛川のつま恋リゾートに泊まり、ふらっと二俣にやって来たと言う。
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本丸の建っていた広場は、こんな広さ。
どんな建物が建っていたんだろう?
と想像しながら、ドローンから眺めてみます。
https://youtu.be/1BrD4BUkHPc -
天竜浜名湖鉄道の鉄橋を眺めていると、ゴトゴトと音が聞こえてきて、
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線路に注目していると、ディーゼル車がやってきた。
ここを走る車両は、みな一両編成。
存続が危ぶまれているがローカル線は、今日も頑張っている。 -
鳥羽山から北に降りる、細い山道を下る終えると、
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天竜川の堤防に出た。
奇麗な道路だ。
道路の先に二俣城の山がある。 -
この堤防道路は袋小路になっていて、突き当りに車を停めて、
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急斜面を登り始める。
武田軍と徳川軍の戦った当時、この坂道はあったんだろうか?
難攻不落の砦だったという二俣城とのこと、
あったとしても、獣道のようなものだったに違いない。 -
「ふくらはぎが痛くなってきたよお・・」
嘆く女房を振り返り、振り返り、 -
「もうすぐだよ!」
と励ますと、人工的な堀の一部が残っていた。
「堀切」の立札。
だがこんなもので、敵の攻撃を防げるのか?
当時の戦いを想像するのは難しい。 -
頂上には石垣が残っている。
天守閣の跡だが、天守閣ができたのは堀尾氏が城主となった時代らしい。
大きさから言えば、飾りのような天守閣だ。
二俣城址 名所・史跡
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発掘調査から推測する、当時の二俣城の想像図がある。
配置は分かったが、どのような建築物だったかは、今後の研究を待たなくてはならないようだ。 -
広場の周辺は樹木が茂っていて、景色を眺めることができない。
ならばドローンに活躍してもらおう。 -
小型軽量のANAFIが軽く羽音をたてて、虫のように空に舞い上がる。
ここまで上がると音はかすかで、ステルスドローンだ。
https://youtu.be/pa0NTm3OXXA
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家康の嫡男の信康が、武田と通じていると信長から疑われ、自害に追い詰めらた場所だ。
この話、最近の研究で様々な説が現れている。
当時の家康は、全ての家臣をまとめることができず、苦しい立場に立っていたらしい。 -
空腹感に気がついた。
何か食べようと町中に降りると、偶然にもそこに、テレビで紹介されたイノシシ料理の店。
山中で捕ったイノシシを、主人自らがさばいて提供している店だ。
でも今はイノシシじゃなく、簡単で涼しいものを食べたいな・・寿司割烹 竹染 グルメ・レストラン
-
と町中をノロノロ走るが、今の田舎町では食堂は見つからず、車を停める場所もない。
たどり着いたのは『本田宗一郎ものづくり伝承館』の駐車場。
あいにくここは定休日だが、本田宗一郎ものづくり伝承館 美術館・博物館
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目の前にあったのが『信康山清瀧寺』の入り口。
「おおっ! ここにも来たかったんだ!」
清龍寺は家康の嫡男、信康の墓のある寺だ。 -
すぐ近くには、諏訪神社と塩地蔵堂が建っている。
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坂道を登っていくと、それ相当に風格のある門がそびえていて、
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清龍寺隆の本堂が静かに鎮座していた。
清瀧寺 寺・神社・教会
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本堂脇には信康廟への石段。
派手に観光地化されていない素朴さに、気持ちがしゃんと引き締まる。
境内に誰一人いないというのも、信康廟に似合っている。 -
石段を登ると、白壁に黒い木の柵。
わびさびの世界。
しかし、柵は閉じられていて、ここから先に進めない。 -
柵からのぞくと、奥には白壁と赤い門。
そしてその前に、石の塔。
権力によって迫害されたり流されたりして、怨念を抱いて亡くなった者を神として祀るのが日本の伝統文化。
この寺は家康によって建立されたという。
そう思うと、神妙な気持ちになってくるお寺だった。
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この旅行記へのコメント (1)
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- trat baldさん 2019/08/06 22:26:44
- 空腹感はどこへ(^o^)
- なまじ有名では無いお陰で観光地化されずにいるんですね、以前の様に飲み物と食べ物持参でノンビリ廻りたいですね!
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