2019/04/08 - 2019/04/08
1950位(同エリア7786件中)
玄白さん
沖縄旅行4日目は、西表島を朝出発し、昼過ぎに那覇へ。本島初日は、首里城を見学。1945年の沖縄戦で全焼してしまったが、その12年後から少しづつ復元作業が始まり、1992年には正殿の復元が完成し首里城公園として開園となっている。復元施設ではあるが、1429年から450年間続いた琉球王国の歴史・文化がよくわかる展示になっている。中一日おいて6日目には、美ら海水族館見学の後に、今帰仁城遺跡を、ボランティアガイドの案内で見学してきた。
いままで琉球の歴史に関してはほとんど知識がなかったが、2つの歴史遺産を巡ることで、琉球王国という島嶼国家の栄枯盛衰を知ることができた。琉球王朝時代に独立国家とは言え、中国、日本という大国の影響下にあり、やがて日本に併合され、アメリカの戦後統治時代をへて、現代にいたる歴史は、太平洋の東側にあった島嶼国家ハワイが100年ほどハワイ王国という独立国家存続の後、アメリカに併合された歴史に重なる。生産力が弱い島嶼では、国家として成立する時期の遅さ、独立国家としての存続期間の短さなど、共通する点が多々あり、社会の発展の普遍的法則を垣間見る思いがした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 船 レンタカー バニラエア
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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4月8日
8時過ぎにやまねこレンタカーの事務所で、レンタカーを返却、港まで送ってもらって定刻通り8:45の船で石垣港離島ターミナルへ。接続がうまく行き、新石垣空港まで路線バス、そして11:50発の那覇行バニラエア882便で、空路沖縄本島へ。 -
帰りは、天気もよく、大原港から石垣港に向けておきなわブルーの石西礁湖と言われるサンゴ礁の海、ラグーンを快調に進む。
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那覇空港到着後、まず予約しておいたレンタカー会社の送迎で空港近くの事務所で、レンタカーを借り受け、首里城へ。
首里城公園駐車場は満杯で、公園周辺の民家の敷地を開放している駐車場をようやく見つけて、いざ首里城へ。
しかし、この旅行記では、琉球の歴史を編年体風に俯瞰して綴ってみたいので、変則的だが、先に翌々日に訪れた今帰仁城遺跡を紹介したい。 -
4月10日
午前中、美ら海水族館を見たあと、本島北部本部半島にある今帰仁城跡を訪問。読み方は「なきじんぐすくあと」。知らなければ絶対に読めない。“ぐすく”とは、琉球古語で城という意味合いだが、軍事施設としての城というだけでなく、豪族の屋敷、神殿、墓としての御嶽(うたき)の機能を持った施設も“ぐすく”とよんでいた。”なきじん”は1609年の薩摩侵攻後しばらくは日本語風に”いまきじん”と呼ばれていたそうだが、徐々に”なきじん”と変わっていったようだ。 -
2000年に、この今帰仁城跡を始め首里城跡、斎場御嶽(せーふぁうたき)など9つの遺跡が「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
今帰仁城が建造されたのは、発掘調査から琉球王国成立前の12~13世紀ごろと推定されている。琉球王国前史は資料は多くなく、はっきりしていることは少ない。何しろ、10世紀ごろまで、琉球人は狩猟採集を主とする生活だったという。要するに平安時代まで琉球では縄文時代が続いていたということである。12世紀ごろには農耕が行われるようになり、穀物生産・蓄積により貧富の格差が生まれ権力者が現れて部族国家が生まれてきた。弥生時代の”クニ”である。部族の権力者たち、豪族は「按司」と呼ばれ、群雄割拠していたが、14世紀になると、按司をまとめて勢力を拡大した王が現れる。南部の南山、中部の中山、北部の北山と呼ばれ、次第にこれらの国々が、沖縄統一を目指して争うようになっていく。南山の本拠は島尻大里城、中山の本拠は浦添城、北山の本拠は今帰仁城にそれぞれ構えていた。 -
このような琉球前史も含めて、ボランティアガイドの女性から丁寧な説明を聞きながら、今帰仁城跡を見て回った。
14世紀初めに、羽地按司の怕尼芝という人物が北山王国を建国した。その居城が、今帰仁城だった。14世紀中ごろには沖永良部島、与論島まで勢力下におき、14世紀末ごろには明と朝貢貿易を行い中国との関係を背景に栄えていたが、1416年には覇を争っていた中山の尚巴志に滅ぼされてしまい、今帰仁城には、北山監守という琉球王国の代官の居城となった。 -
城跡の入り口に、グスクと取り囲む石組の城壁のジオラマが展示されている。現在、今帰仁城はこの城壁だけが残されている。
グスクの石垣は、土地の起伏に従って優美な曲線で作られている。 -
イチオシ
実際のグスクの城壁は、こんな具合だ。石垣の総延長は1.5km、グスクの広さは東京ドーム1.5倍あるとは、ガイドの話。東京からはるか離れたこんな場所でも広さを語るとき、東京ドームを持ち出すところが面白い。
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石垣の材料は、今帰仁城周辺の石灰岩が使われている。およそ、2億5000万年の古生石灰岩で、こんなアンモナイトなどの古生代の化石がよく見つかるという。
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三山時代になるまで、琉球は文字を持たなかったことも琉球王国前史のことが知られていない大きな理由である。国が形成されるようになると、国家運営、民の支配のため文字が使われるようになるというのは歴史の法則だが、琉球も例外ではない。明との交易が国の大事な財政的基盤だったので、漢字が使われていたのかと思いきや、意外にも日本語、それもひらがなが使われていたという。明が相手の外交文書だけは漢字だが、国内の公的文書はひらがなだったという。ひらがなは平安時代初期に生まれたが、日本本土では、ひらがなは主に女性が使う非公式の文字だが、琉球では公的文書に使われていたというのが面白い。中国の歴史書に、7世紀に琉球人30人が日本(大和)に帰化したという記述があったり、遣唐使船が台風で沖縄に漂着したということもあって、日本との文化交流も古くからあったらしい。
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石垣の外側に広がる窪地。グスク内に水源がないので、この窪地にある水をくみ上げていたと推測されている。
琉球の文字がひらがなだったというのは面白いが、言語としての琉球語についても日本語との関連性はある。琉球の文字としてひらがなが使われていたとしても、書かれているのは琉球語であり、一般の日本人には意味が分からない。しかし、言語学的分析と考古学、人類学の成果をまとめると、紀元前後から奈良時代の間に日本語と琉球語に分かれたという。この間のある時期、九州から南西諸島へ大規模な集団移動があり、これが琉球語の起源になったという説もある。同じ琉球語でも方言の地域差が日本語の方言よりずっと大きいそうだ。ガイドをしてくれている女性は、那覇生まれの那覇育ちなので、那覇の琉球言葉はわかるが、沖縄北部の琉球言葉はわからないと言っていた。
琉球語の発音の特徴は、日本語のあいうえおの「え」と「お」がなく、日本語の「い」と「う」と微妙に異なる「い」と「う」という発音になる。琉球の神聖な祈りの場所である御嶽は、日本語では「おたけ」であるが、琉球語では「うたき」となるのである。
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グスク入り口から王の住まいがあったとされる奥に続く整備された歩道。これは古くからあったものではなく、戦後、遺跡を公園として整備したときに造られたものだという。道の両側の緑はカンヒザクラの並木。毎年1月下旬から2月上旬にかけて咲き、日本で一番早く花見ができるところである。
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我々は、新しい歩道ではなく、古来からある道を登っていくことにした。
再び、中国(明)との関係について。
中国の歴代王朝は、周辺国の首長に対して臣下の礼を取り、中国に隷属するように求め、貢物を献上させてきた。その代わり、周辺国の首長に王の称号を与えたり、貢物の数十倍の価値あるものを与えたりしてきた。いわゆる柵封体制であり、モノの行き来が朝貢貿易である。
琉球も14世紀の三山時代にその体制に組み込まれ、北山、中山、南山それぞれが朝貢貿易を行い、それが経済的に重要な国家の財源だった。「琉球」という国名は、冊封により中国皇帝が与えた名前だという。
面白いのは、覇権を争っている三山だが、明に進貢船を派遣するときは、同じ船で一緒に行ったという。派遣を争うといっても四六時中、日本の戦国時代のような血で血を洗う激烈な戦闘を繰り広げていたのではなく、どこかおだやかでゆったりした関係だったようだ。貢物は、本島北部で当時産出していた硫黄と馬だったらしい。
琉球の名産品が馬というのはピンとこないが、今帰仁地区出身の某考古学者によると、騎馬民族モンゴルが建国した元が、明に滅ぼされたとき、一部のモンゴル族が琉球に馬を連れて逃れてきた結果、琉球で名馬が産出されるようになったという説もあるという。こんな話はネットで調べてもわからず、現地のボランティアガイドから聞いた興味深い話である。 -
旧道を登っているとき、こんな平べったいカタツムリを発見。ガイドさんによると、シュリケマイマイ(首里毛蝸牛)というカタツムリの一種で、石灰岩質の岩の割れ目に潜んでいることが多いという。写真を拡大してみるとわかるのだが、軟体動物なのに殻の周囲に毛が生えている珍しいカタツムリだ。沖縄の固有種で絶滅危惧種に指定されているが、ガイドさんの話では、この旧道沿いの石灰岩の上ではよく見かけるそうだ。
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グスクの最上部に昇って来た。このあたりは身分が高い人たち(琉球の支配階級は武士とは言わず士分という)の館の後だという。規則正しく置かれた石が建物の基礎で、掘立柱の小屋のような建物だったらしい。
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フクギ(福木)の大木。5~6月に花を咲かせ、その実はオオコウモリが好んで食べるという。本部半島に多く見られ、美ら海水族館の近くには観光名所になっているフクギ並木がある。実際にそのフクギ並木を見ているが、それは別途、次の旅行記で紹介したい。
潮風、火気に強く、並べて植えて防風林、防火林として現代でも利用されている。原産はフィリピンだという。琉球は地理的には東アジアの交易の起点として有利な位置にあるので、中国、日本だけでなく、台湾や東南アジアとの交易も行われていたので、フィリピンの産物が琉球に入っていても不思議ではない。 -
グスクの最上部から北側を見下ろしたところ。石垣が曲線を描いて続いているのがよくわかる。ミニ万里の長城のようだ。朝貢貿易により明に渡った琉球人が、明代に建設された万里の長城の情報を得ていたり、実際に見た可能性もあり、それを模して築城したのではないかという説もあるようだ。
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堅固な要塞としての機能を備えていて外敵に責められても容易には落とされないように見える。中山の軍に責められたときも、鉄壁の守りで持ちこたえていたが、裏切り者が出て、北側の石垣の門を開け中山軍を導き入れたために北山は滅亡したという。
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王の居城と推測される場所の近くに、唯一建物が残っている。火事や災難から家族を守ってくれるヒヌカンという神を祀っている祠である。ヒヌカン←火ぬ神←火の神である。多くの家庭にもそれぞれ、ヒヌカンを祀る祠があるそうだ。
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普段は鍵が掛けられて中は見えないが、ガイドツアーだと扉をあけて、内部を見ることができる。小さなかまどが置かれている。
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琉球に仏教が伝来するのは17世紀で、それ以前の琉球人の信仰はヒヌカンが最も大切な神として祀られ、仏より格上と考えられている。現代の沖縄でも、その信仰は脈々と生きていて、熱心な家庭では、毎月旧暦の一日、十五日に祀りを欠かさないそうだ。そのとき、備える線香が沖縄独特のもので6本がつながっている線香でヒラウコウという。これを一枚6本2つと半分の3本にしたもの、15本をセットにして焚いて祈るのだという。6×2=12本は干支を表し、3本は天、地、竜を意味する。このあたりは、中国文化の影響を受けているようだ。
紙切れのようなものは、ウチカビという紙銭で、線香を焚くとき、一緒に燃やすのだという。先祖が来世での生活に困らないようにお金を備えるという意味があるのだという。以前、TV番組で中国で同じ風習があることを覚えている。これも中国からもたらされた風習・信仰なのだろう。 -
石が無造作に積み上げられた何の変哲もない一角だが、ここが今帰仁城の御嶽(うたき)だ。御嶽というのは琉球神話の神が居る、ないしは降臨する場所であり、また祖先を祀る場でもある。現代でも地域の祭祀においては中心となる施設であり、地域を守護する聖域とされている。御嶽信仰では神に仕えるのは女性とされるため、かつては御嶽は完全に男子禁制だった。ただ、日本の神社のように、御神体と称するモノがあったり、鳥居のような施設があるわけではなく、何もない空間なので、言われなければ、そこが神聖な場所とはわからない。
御嶽で著名なのは世界遺産の構成要素になっている斎場御嶽(セーファウタキ)だが、パワースポットと称して観光地化されてしまっている。そんな状況に、根っからの沖縄人であるガイド女史は苦々しく思っている様子だった。この今帰仁城の御嶽のところに来たときは手をあわせていたし、説明が終わって立ち去るときにも、丁寧にお辞儀をしていたのが印象深く、現代でも脈々と御嶽信仰が生き続けていることが見て取れた。 -
西方向の眺め。晴れていれば、彼方の海の青と、グスクをとり囲む新緑のコントラストが美しい風景が見られる展望台にて。
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イチオシ
三山時代から中山による琉球統一後も、王家と家来である士分(武士に相当)との関係は、家来に領地を分け与え、事があれば守るかわりに、年貢を納め、軍事力を提供させるという日本本土のような封建制度ではなかったようだ。そのため、領地拡大が動機の戦乱はなく、朝貢貿易で得た富を分配することで主従関係を維持していたという。覇権争いや権力奪取の陰謀、諍いはあったものの総じて至って穏やかな平和な社会だったようだ。狭い土地なので、家来に分け与える土地がそんなになかったこと、そしてわずか200年ほど前までは狩猟採集の縄文的生活様式で、平等に富を分配するという気分が濃厚に残っていたことが要因だろうか。
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そういうおだやかな琉球社会は、1429年、琉球王朝成立後も続いていた。しかし、それから180年後に状況は一変した。1609年、薩摩の兵3000人からなる島津軍が琉球に侵攻してきた。真っ先に薩摩軍に攻撃されたのが、今帰仁城だった。当然、薩摩単独の行動ではなく、すでに徳川幕藩体制が敷かれていた日本であるから、裏で徳川幕府の意向が働いていたことは想像に難くない。
軍事力で圧倒的優位に立つ薩摩は、わずか12日間で、名目上は琉球王朝を存続させつつ、実質的には琉球を支配下におき、薩摩藩の諸制度を敷いていった。庶民にとって、最も大きな変化は、苛烈な税の取り立てであった。形だけは琉球王朝を存続させたのは、明との朝貢貿易を続けさせ、その成果を収奪することにあったという。
それからおよそ300年後、明治政府は、1875年琉球王府を解体し、沖縄県に編入、太平洋戦争末期には、本土防衛の捨て石として沖縄を唯一の地上戦に巻き込み多大な犠牲者を出し、戦後は米軍の占領により、先祖伝来の土地を強制徴用されて米軍基地にされ、本土復帰の際は沖縄の民意を無視した基地付き返還を飲まされ、そして今なお日本の国土の0.6%しかない沖縄に日本に駐留する米軍基地の70%が集中している現状を容認している自民党政権の沖縄政策・・・
薩摩の琉球侵攻以来、実に400年にわたって沖縄の人々は苦難の道を歩んできているのである。 生粋の沖縄人であるガイド女史の言葉の端々に伺えるヤマトンチュー(大和人)への複雑な気持ちは、元をたどれば薩摩の琉球侵攻にあるのかもしれない。現在、ギスギスした日韓関係も、近代になってからの植民地支配の根っこに豊臣秀吉の朝鮮出兵があるのかもしれない。こうした歴史からくる感情は、支配した側は忘れがちであるが、支配された側は決して忘れないものである。 -
志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑。書かれている文字は
今帰仁の城 しもなりの九年母
志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
ガイド女史の解説によると、”今帰仁城の南にある志慶真ムラという集落に「乙樽」という美女がいた。黒髪が美しい乙女のうわさは国中に広がり時の北山王は側室として仕えさせた。何不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしていたが、高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も世継ぎを授かることばかりを祈っていた。やがて王妃が子を授かり、そのことを季節はずれの蜜柑が実ったことに例え、子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っている”のだそうだ。
琉球歌も、俳句や和歌のように定型文字数があるが、その数はハ八八六だそうだ。最後にガイド女史が、碑文を、琉球歌の節回しで歌い上げてくれて、ガイドは終了。 -
今度はグスク内の新しい歩道の方を歩いて出口に向かう。石灰岩の岩場をたむろしている猫に出会う。
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チケット売り場が入っている公園事務所の前で、連れ合いが目ざとくこんな露店を見つけた。連れ合いによると、沖縄ぜんざいというのは、本土のぜんざいとは違って、砂糖や黒糖で甘く煮た豆がトッピングされているかき氷のことだという。こういうことは、事前によく調べている!
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肌寒い日でかき氷を食べる気分ではないのだが、せがまれて食べるハメになった。
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今帰仁城跡の入場券は、公園事務所の近くにある今帰仁村歴史文化センター入場券も兼ねているので、ちょっと覗いてみた。昔使われていた農具、民具の展示や村の地名の由来の説明パネルなどが展示されていた。
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センター入り口の脇にさび付いた小さな漁船が置いてあった。なんだろうと思い、そばのパネルを見たところ、なんと岩手県山田町の大石秀男さんという漁師の船が、東日本大震災で流されたが、7年後の昨年5月に今帰仁村古宇利島沖で漂流しているところを発見され、展示されていた。持ち主の家族が対面しに今帰仁村を訪れたということが地元の新聞で話題になったそうだ。
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イチオシ
4月8日
日付を遡り、西表島から本島に移動した日の午後、首里城の見学
案内所でもらったマップの見学コースに従って進む。まずは首里城のシンボル的建造物の守礼門を通過。最近めったに目にすることがなくなった2000円札のデザインに使われていた有名な門である。
扁額には「守禮之邦」とあるが、琉球第2王国第6代の王尚永が朝貢の際、明の万暦帝から賜った言葉だという。琉球は礼節を守る善き国であるという誉め言葉である。当初、明からの使者を迎えるときだけ、この扁額を掲げ、普段は首里という扁額が掲げられてようだが、17世紀中ごろからは「守禮之邦」の扁額が常設されるようになり、今日に至っている。
日本の城の大手門に対応する門だが、扉がない。中国の三間牌楼という「孔子廟」の前などに建てられた門の様式をまねたものだという。城の防御という役割がないということは、琉球王朝では戦乱の恐れがない平和国家だったということでもある。 -
2000年に「琉球王国のグスクおよびその関連施設群」としてユネスコ文化遺産に登録されたのだが、再建された首里城の建物は構成要件に含まれていない。構成要件の首里城跡として登録されているのは2つしかなくて、その一つが、「園比屋武御嶽石門(そのびゃんうたきいしもん)」である。
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1519年、第9代琉球王(第2尚氏王朝3代目)、尚真の時代に築かれた門で、王家の拝所として使用されていた。門の背後の森が御嶽となっている。国王が城外に出る時に道中の安全を祈願したり、聖地を巡礼する行事や最高神女(のろ)・聞得大君(きこえおおきみ)の即位式も最初にここを参拝したといわれている。木の扉以外は琉球石灰岩で作られている。
沖縄戦では一部破壊されたものの全壊は免れ、首里城の建物としては唯一、王朝時代の遺産の形をとどめている。 -
守礼門、園比屋武御嶽石門を過ぎると、三番目の門、歓会門に至る。いわば首里城の正門で、中国からの使者、冊封使を迎えるときには、国王みずからこの門まで出迎えたとされている。園比屋武御嶽石門と同じく尚真王の時代に建造された。
第1尚氏王朝の尚把志が琉球全土を統一してから90年、第2尚氏王朝3代目尚真は13歳で即位し50年間王位についていた。その間、宮古島、石垣島、与那国島など先島諸島も支配下に置き、那覇をアジア各国の貿易の拠点として交易で国家財政を潤したり、国内の武器をすべて国庫に納めさせ治安を安定させ、各地の按司を首里に住まわせて中央集権を強化するなど、琉球王国の黄金期を築いた名君とされている。
国力が充実した時期だったため、これら首里城の増築も行うことができたのだろう。 -
歓会門は石造りのアーチの上に木造の中国風の櫓が立てられている。戦前は、国宝に指定されていたが、沖縄戦で全壊し、1974年に再建された。櫓は朱塗りされていないので、あたかも琉球王朝時代のもののような雰囲気がある。
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門の両脇をシーサーが守っている。シーサーは獅子の琉球語名で、日本本土の神社の狛犬などと同様、邪気を払う魔除けの意味を持ち、その源流はメソポタミアのライオン像だという。
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漏刻門。櫓の中に漏刻すなわち水時計があり、ここで時間を計って首里城下に時を告げていたことから漏刻門とよばれている。かごで登城が許されていた高級役人も、ここでかごを降りて徒歩で正殿に向かったところから「かこ居せ御門(うじょう)」とも呼ばれている。漏刻による時間計測と太鼓で城下へ時刻を知らせるやり方は明治12年の王朝廃止、沖縄県設置(いわゆる琉球処分)まで続いていたという。
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王宮の広場に通じる最後の門、広福門。左右に居室を持つ門で、それぞれ、戸籍を管理する役所、神社、寺を管理する役所が置かれていた。今では有料エリアとなっている正殿と付属施設のチケット売り場になっている。
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ここまで来ると、有料エリアとなっている正殿の一部が見えている。
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奉神門。ここをくぐれば、御庭(うなー)、そして正殿すなわち王宮を望むことになる。門の中に改札がある。
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イチオシ
首里城正殿。創建時期ははっきりしないが、三山時代の中山の居城としてすでに使われていたと推測されている。尚把志が三山を統一し琉球王朝を起こすと、歴代琉球王の居城となった。琉球王朝時代に3度、火災で焼失しているが、そのたびに再建されてきた。琉球王国最大の木造建築で、二層三階建てで、中国、日本の建築様式に琉球独自の様式が加わった特徴的な宮殿である。
明治12年の琉球処分以降は、荒廃が進み、取り壊しも検討されたが、関係者の奔走により保存が決定。だが、戦前の国家神道に組み込まれ、県社沖縄神社とされた。沖縄戦では、陸軍第32軍総司令部が首里城地下壕に本部を置いていたため、米軍の艦砲射撃で全壊してしまった。戦後は首里城跡地に琉球大学の校舎が建てられ、多くの遺構が撤去、あるいは埋められてしまったが、1989年より再建が始まり、1992年に完成して国営首里城公園として開園された。
なお、復元された正殿の屋根瓦は美しい赤い瓦だが、2014年アメリカ公文書館で見つかった戦前の正殿のカラー写真から、当時の瓦は赤ではなかったことが分かっている。なにしろ戦災で、ほとんどの資料が焼失・散逸してしまった中での復元作業だったので、こういうこともやむを得ないだろう。 -
正殿の前の広場は御庭(うなー)と呼ばれ、様々な儀式で使われていた。赤と白で整然と区切られているが、儀式に参加する役人の階級に応じて整列しやすいようにしたためだという。中央の通路は浮道と呼ばれ、王と中国からの柵封使だけが通ることが許されたという。
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正面の門は、弓状に沿った唐破風の下の妻壁には火炎宝珠、両脇に金龍、瑞雲の装飾が施された華やかな造りになっている。
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正殿内部は琉球王朝の様々な文物が展示された博物館になっているが、写真撮影は禁止となっている。一階、二階の一部のみ撮影が許可されている。
写真は御差床(うさすか)という国王の玉座である。頭上の扁額「中山世土」は、琉球は中山王が納める土地であるというような意味のスローガンであるらしい。 -
正殿の骨建築構造を示すジオラマの展示。
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一階の一部がガラス張りになっていて、琉球王国時代のグスクの遺構を観察できるようになっている。世界遺産の構成要件で首里城に関係するのは、先の園比屋武御嶽石門と、このグスクの石垣の遺構だけなのである。復元された建物群は世界遺産要件には含まれていない!
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正殿の御庭をはさんで後ろ側にも広場やいくつかの建物がある。ほとんどが王家のプライベートな目的に使われた建物である。その中に、世誇澱(よほこりでん)という塗装されていない質素な建物がある。未婚の王女の居室だったが、現在は、琉球の伝統芸能公演の場所として使われている。
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ちょうど、よいタイミングで、10分後に今日の3回目の公演が行われるというので鑑賞してきた。日替わりで、県内の様々な伝統芸能保存団体が出演するようだ。
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イチオシ
最初の演目「かぎやで風」。琉球語ではカジャデフウと読む。沖縄本島では祝宴の席で踊られるめでたい踊りだそうだ。三線の伴奏と歌に合わせて踊る。歌の意味は「今日の喜びを何とたたえる事ができようか。まるで蕾の花が朝露を受けて、ぱっと咲き開いた様な心持ちだ」というような内容らしい。歌詞は聞いていてもさっぱりわからないが・・・
https://youtu.be/vqwaokJMms0
動画でも撮ってみた。(露出がちょっとおかしいが・・・) -
三番目の演目「鳩間節」。
もとは八重山地方鳩間島の「ゆんた」だが、沖縄本島では、大正時代に伊良波尹吉という人が振り付けた踊りで、舞台で演じられる。
https://youtu.be/hQX4fohwkik -
イチオシ
四番目の演目「貫花(ぬちばな)」 琉球舞踊の中でも、比較的最近の創作で庶民の生活を題材にしたものを雑踊り(ぞうおどり)と言うが、この演目はその代表的なものだという。踊り手が手に持っているレイのようなものが貫花だが、レイと違って輪にはなっていない。
https://youtu.be/qTcZEHbu_Es -
最後に踊り手全員登場して挨拶。拍手!
いずれもスローテンポの独特の節回しの踊りだった。 -
最後に、もっとも東側にある展望台「東(あがり)のアザナ」に行ってみる。
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標高140mの高台にあり、城下の街の様子が展望できる。空気が澄んだ天気がよい日は久高島まで見えるという。残念ながらこの日は霞んでいて見えない。
久高島は琉球神話では、アマミキヨという創造神が、最初に琉球を形作った島で、もっとも神聖な場所とされていた。そのため、琉球王朝時代、さらには沖縄県となってからも大正時代まで島民は納税免除という特別な待遇を受けていた。島全体が神聖な場所ということで、土地の個人所有は認められず、島の共同所有ということになっていて、現代でも島民は固定資産税は払っていない。 -
東のアザナからは正殿裏の御内原(おうちばら)一帯が見渡せる。展望台直下の空き地は、寝廟澱という国王がなくなった時に遺体を安置する建物があったという。どういう建物か資料がないため、復元できず、場所だけが示されている。
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北側のエリアを見下ろす。弧を描いて連なる城壁の先に見えるのは淑順門で、首里城正殿の裏のエリア「御内原」への入り口になる。このエリアは王家を支える女官たちの生活の場であり、王家以外の男子禁制の場所であった。いわば、首里城大奥である。
なお、御内原は、今年2月から初めて一般公開されるようになった。 -
今では出口専用の門となっている久慶門を通って、見学終了。
今帰仁城跡の項で少し触れた明治政府による琉球処分について、補足しておこう。明治4年に本土では廃藩置県が行われている。それに伴い、明治政府は琉球王国を廃止、一旦琉球藩として琉球王国最後の国王第19代尚寧王を藩主に据えて、明の後に起こった中国王朝「清」との交易を絶ち、日本の年号「明治」を使うことを強要し、藩主には東京に居を移すよう求めたが、尚寧王はそれに従わなかったため、1875年(明治8年)松田道之という内務官僚を600人の警官、武装兵と共に派遣して最後の琉球王を追放し、強引に沖縄県として日本に従属させたのである。
この旅行記では、2つの琉球の歴史遺産を巡って知り得たこと、関連してネットで調べたことをまとめて、編年体風に、その歴史を概観してみた。10世紀まで縄文時代的狩猟採集生活を送っていた琉球人が、わずか200年ほどで農業生産に移行し、三山時代を得て独立した琉球王国を建国し、狭い国土で生産力が乏しい中で、中国との朝貢貿易、地理的条件を生かしアジア諸国との交易に活路を見出し450年間、島嶼国家として存続しえたのは、ある意味で奇跡だったかもしれない。太平洋の東側の同じ島嶼国家のハワイは18世紀末からわずか100年しか独立を保ちえなかった。
だが、狭い国土、少ない人口の小国家は、やがては周辺の大国に翻弄され消滅してしまうのは、悲しくも残酷な歴史の必然的法則なのかもしれない。
<続く>
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