2019/04/18 - 2019/04/18
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belleduneさん
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初めての角館ですが、桜はまだ固い蕾でした。満開には、後2週間ほどでしょうか。
満開の桜の頃は、観光客で溢れかえると思いますが、まだということで空いていて、ゆっくり見ることができました。
表紙の写真は江戸期の藩の寺子屋を200m先から移築し、店舗として改築したものだそうで、現在稲庭うどん店になっています。角館で最古の建物となっています。店内も見たかったのですが、もう時間が遅く閉まっていました。因みに饂飩店は不定休だそうです。
- 旅行の満足度
- 4.0
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天正6年(1590)、戸沢氏が角館城を築きました。その後、秋田藩主・佐竹義宣の実弟、芦名義勝が統一しました。河川の氾濫などで、元和6年(1620) に古城山の南側に、新しい城下町がつくられました。明暦2年(1656)芦名氏断絶後、佐竹氏一族の佐竹義隣が支配し、廃藩するまでの200年間を統治していました。この地にある枝垂桜は、佐竹義隣が生家の京都から持ってきたということです。
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これは、角館郷校弘道館院跡にあった枝垂桜ですが、現在、土壌改良が行われています。其々の木に合わせて、次の6種類の方法を組み合わせて生育環境を改善しているそうです。1)根の保護、2)根系誘導(U字溝を逆さに入れ、根の伸びる場所を確保、3)根系通気(根が窒息しないように空気を通す、4)盛り土の除去(根の上に盛り上げられた土を取り去る、5)保護柵設置(根が踏まれないよう柵を設け立入りを制限、6)隣接樹木の剪定(隣接木の枝を剪定し、日当たりを確保)
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「角館郷校弘道館跡復元検討に係る発掘調査地区」となっている場所です。平成27年度に実施した地区。
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弘道館は、寛政5年(1793)に開設され、秋田藩の藩校「明道館」(後に明徳館と改称されます)の下部組織として、藩士師弟の教育を担っていました。明治時代になって、角館学校の校舎として使用され、明治18年(1885)に増築され、明治21年(1888)に元の弘道館校舎が取り壊れ、明治32年(1899)に新校舎が完成しましたが、翌年火災のために類焼しています。その後、明治35年(1902)に新校舎が完成しました。
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こちらは発掘調査地区のもう一方の門です。いつか復元された弘道館の校舎を見たいものです。
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武家屋敷資料館にあった四季の写真ですが、雪好きな私はやはり冬に来たいなぁ、と思いました。
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これは、表紙にあった古泉洞の建物です。
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この武家屋敷で一番古いだけあって、人目を引きます。
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稲庭うどん店となっていますが、残念ながらもう閉まっていました。
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建物正面
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側面
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側面
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2階の屋根部分
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寺子屋だったという建物ですが、移築され、改築もされています。正面の屋根周りは構造はそれほど変わっていないと思いますが...
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こちらは、佐藤養助の稲庭うどん店。創業は、万延元年(1860)で、宗家は稲庭の地に伝わった稲庭饂飩の原型となる技術を受け継いだ稲庭吉左ヱ門でした。秋田藩主・佐竹氏から御用製造を受けたその技術は、吉左ヱ門家の一子相伝、門外不出であったため、製造法の根絶を憂いた吉左ヱ門が、2代目佐藤養助に特別に伝授し、と梅の創業となったという。明治時代になって、当時の宮内省から買い上げされたり、博覧会等でも賞を受けていました。一般庶民は食べる機会はなかったのですが、佐藤養助の稲庭饂飩は、完全手作りのその技と味わいは歴代の養助によって、受け継がれ、現在に至っているそうです。現在ではうどんは庶民的な食べ物ですが。
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店舗前にあった枝垂桜の木は見事でした。
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武家屋敷・小田野家の門から入り、門方向を振り返ったところです。
佐竹義宣の秋田への国替えに、常陸から少し遅れて移ってきた小田野氏は、今宮弾正の配下となり、角館の菅沢町(現・田町武家屋敷)に居を構えました。小田野氏は、角館に分家をつくり、ここの小田野主水家は長右衛門家から別れた清右衛門家ということです。両家ともに、佐竹北家組下に変わり、解体新書の挿図をはじめ、蘭画で名高い小田直武は、長右衛門家で有楽町に住んでいました。ここの小田野氏は、主水を代々名乗り、武芸に秀でていたという。 -
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9代目藩主・佐竹義和が文化8年(1811)、角館を訪れた時に、19歳の小田野主水直政は、藩主御前で武芸を披露したそうです。また、眼科医としても名を成し、安政2年(1855)、江戸で出版された「東講商人鑑」の「羽州仙北角館之図」の広告欄に眼科の名医として小田野主水が紹介されていたそうです。
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建物は、明治3年(1900)の大火で主屋は焼失しましたが、その後、再建された主屋の間取りは、近世武家住宅の通りとなっています。武家屋敷の特徴としては、薬医門から玄関までの灯台躑躅(ドウダンツツジ)と黒塀に沿って熊笹が生い茂っていることです。
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小田野家屋敷平面図
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内部には入れないので、外からぐるっと回って見ます。
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定位は主人が日頃いるところで、居間とは少し異なっています。右手が囲炉裏のある居間です。
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障子の上の飾りが面白い。
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武家屋敷・岩橋家
岩橋氏は、南奥州の名門会津黒川城主・芦名氏の重臣でした。天正17年(1579)芦名氏が伊達政宗に敗れ、兄である常陸の佐竹氏を頼って、常州へ移り、江戸崎で秀吉から4万5千石を与えられルト、岩橋氏も芦名氏に随従して江戸崎に移りました。関ヶ原の戦後、慶長7年(1602)、佐竹氏の出羽移封と共に、芦名氏も出羽に下り、角館1万5千石を与えられました。岩橋氏は、一時江戸崎を立ち退き、津軽氏に300石で仕えていましたが、主君の角館居住に伴い、芦名氏に帰参して、再度角館に住むことになっています。 -
芦名氏が承応2年(1653)3代で断絶することになり、代わって角館所預となった佐竹北家の組下(86石)として、廃藩まで仕えました。この建物は、江戸時代末期に改造され、屋根も茅葺から木羽葺に変わっています。
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玄関前
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玄関右手の木戸を入って、母屋側面へ
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ここも内部へは入れませんので、外からぐるっと回ります。
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ザグ割り(木羽)
ザクとは天然杉の柾目に沿って、薄く割った板のこと。屋根材として、広く使われていましたが、秋田藩では、江戸時代中期に、木材資源の枯渇を案じて、使用を禁止し、茅葺に改めるよう指導しました。しかし、角館では、特に願い出て、許可をもらったということです。大正以降、屋根材はトタンに代わり、あまり見られなくなりました。またザクは、手作業のため、職人も少なくなりました。 -
母屋屋根(木羽葺屋根)135,5平方mが平成18年に補修されました。翌年、下屋根部分92,5平方mが完成しています。東屋根にある銅板の箱のようなものは、大屋根からの雨を緩和し、少しでも下屋を長持ちさせるための雨樋です。
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井戸も覗いてみましたが、深い。
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蔀戸から見た台所
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座敷
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台所のある土間部分
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雲の多い空に、太陽が枝垂桜越しに綺麗でした。今頃は、満開からそろそろ散り際の桜でしょうね。
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花上庵(安藤味噌醸造元安藤家)安藤家は嘉永から味噌を醸造し、醤油も作るようになりました。下新町本店は、「煉瓦蔵座敷の安藤家」と呼ばれて、珍しがられているそうです。
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青柳家は、天正8年常陸国青柳和泉守から続く角館を代表する武家屋敷です。敷地は3千坪と広く、現在、武器蔵、解体新書記念館、秋山郷土館、武家道具館、ハイカラ館などがあります。この薬医門を入って、母屋を見たかったのですが、5時で閉館でした。こちらから回れば良かった、順序を間違えてしまいましたね。
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ということで、薬医門をじっくりと見ます。
次回、内部を拝見することにします。 -
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母屋です。
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現当主が小学生の頃、矢印の木に落雷があり、黒く焦げていますが、それ以後も生きていて、高く伸びています。物凄い音だったそうです。
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これが恐らく武器蔵かな。
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武器蔵
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奥にも色々と建物が見えます。手前左手には大きな灯篭があります
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こちらは、隣の石黒家の門が続きます。
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「角館くら吉」の店舗
秋田銘菓「もろこし」は小豆と砂糖から作る打ち物というものでそうです。起源は、江戸時代らしく、ある藩主に献上したところ、『諸々を超えるほどに風味よし』と言われたところから、その名がついたそうです。「モロコシ」というのは中国のことで、奈良時代に書かれた日本書紀に記されています。この時代に鑑真が砂糖を日本に伝えました。中国から伝わった打菓子(押物)が全国に広まり、特色ある農産物を原料とした銘菓になっていきました。秋田の小豆粉で作った打菓子が、やがて評判となり、「中国渡の菓子」モロコシと言われるようになったそうです。
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