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福島の春を訪ねる旅の2日目は、喜多方 ⇒ 会津若松 ⇒ 大内宿と、会津地方を巡るコースです。<br />会津若松は会津藩23万石の城下町として栄え、街のシンボルは難攻不落と言われた鶴ヶ城。<br />40年ほど前の夏休みに車で家族旅行をし、佐渡島から会津若松に来たことがありますが、今は鶴ヶ城の周辺も城址公園として綺麗に整備され、多くの観光客が訪れています。<br />そして、東山温泉や猪苗代湖、小原庄助さんで有名になった磐梯山とお酒、などなど会津は魅力がいっぱい。<br />2017年の統計によると、福島県を訪れた観光客数は5449万人で、会津若松市など会津が1639万人と全体の3割を占めています。<br />白虎隊の歴史を噛みしめながら、春の会津を巡りました。

福島の春を訪ねて<2> 喜多方~会津若松~大内宿

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2019/04/11 - 2019/04/12

868位(同エリア1344件中)

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ペコちゃん

ペコちゃんさん

福島の春を訪ねる旅の2日目は、喜多方 ⇒ 会津若松 ⇒ 大内宿と、会津地方を巡るコースです。
会津若松は会津藩23万石の城下町として栄え、街のシンボルは難攻不落と言われた鶴ヶ城。
40年ほど前の夏休みに車で家族旅行をし、佐渡島から会津若松に来たことがありますが、今は鶴ヶ城の周辺も城址公園として綺麗に整備され、多くの観光客が訪れています。
そして、東山温泉や猪苗代湖、小原庄助さんで有名になった磐梯山とお酒、などなど会津は魅力がいっぱい。
2017年の統計によると、福島県を訪れた観光客数は5449万人で、会津若松市など会津が1639万人と全体の3割を占めています。
白虎隊の歴史を噛みしめながら、春の会津を巡りました。

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
観光バス 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • <2日目><br />朝食前にホテル前のハーブガーデンを散策。<br />ここは5~10月にかけて、500種のハーブの他、ラベンダーやコスモスなど季節の花が楽しめる広大なガーデンですが、大きな彫刻の像があちこちに置かれています。

    <2日目>
    朝食前にホテル前のハーブガーデンを散策。
    ここは5~10月にかけて、500種のハーブの他、ラベンダーやコスモスなど季節の花が楽しめる広大なガーデンですが、大きな彫刻の像があちこちに置かれています。

  • 高さ5mの巨木彫刻は、カナダ人の彫刻家、グレン・グリーンサイド氏が日本の干支をテーマに、1996年から毎年1体作った作品群です。<br />(左上)「福ネズミ」・・・鼠は、「食べることに困らない」という謂れから、大いなる福を呼び込んでくれる、御利益のある”巨大福鼠”です。<br />(右上)「開運べこ」・・・力強く大空に向かって蹴り上げるダイナミックな姿は、不景気を蹴ちらし、訪れた方々に幸運をもたらします。<br />(左下)「成就とら」・・・みなぎるエネルギーと王者の気品猛々しくに満ちた虎の勇姿は、自らの手で勝利を勝ち取る「成就」につながります。<br />(右下)「豊穣ひつじ」・・・太陽のエネルギーを体一杯に吸収し、堂々と立ちつくすひつじの像は、明るい未来を暗示しています。

    高さ5mの巨木彫刻は、カナダ人の彫刻家、グレン・グリーンサイド氏が日本の干支をテーマに、1996年から毎年1体作った作品群です。
    (左上)「福ネズミ」・・・鼠は、「食べることに困らない」という謂れから、大いなる福を呼び込んでくれる、御利益のある”巨大福鼠”です。
    (右上)「開運べこ」・・・力強く大空に向かって蹴り上げるダイナミックな姿は、不景気を蹴ちらし、訪れた方々に幸運をもたらします。
    (左下)「成就とら」・・・みなぎるエネルギーと王者の気品猛々しくに満ちた虎の勇姿は、自らの手で勝利を勝ち取る「成就」につながります。
    (右下)「豊穣ひつじ」・・・太陽のエネルギーを体一杯に吸収し、堂々と立ちつくすひつじの像は、明るい未来を暗示しています。

  • 朝食をとった後、8時半にホテルを出発。

    朝食をとった後、8時半にホテルを出発。

  • 雪の磐梯山を見ながら、喜多方に向かいます。

    雪の磐梯山を見ながら、喜多方に向かいます。

  • 喜多方では「日中線記念自転車歩行者道のしだれ桜」を見に行きます。<br />バスを停めた押切川公園には体育館があり、その周りは庭園風になっています。

    喜多方では「日中線記念自転車歩行者道のしだれ桜」を見に行きます。
    バスを停めた押切川公園には体育館があり、その周りは庭園風になっています。

  • 公園に飾られた銅像作品。<br />(上の写真)「王と王の王」 白沢菊夫作<br />(下の写真)「梟―ミネルヴァのもとへ」 伊藤聖悦作<br />

    公園に飾られた銅像作品。
    (上の写真)「王と王の王」 白沢菊夫作
    (下の写真)「梟―ミネルヴァのもとへ」 伊藤聖悦作

  • 駐車場から数分で「しだれ桜散歩道」へ。<br />ここは、昭和59年に廃線となった旧国鉄日中線の跡地の一部を遊歩道にした「日中線記念自転車歩行者道」。<br />3kmにわたって約1000本のしだれ桜が植えられています。

    駐車場から数分で「しだれ桜散歩道」へ。
    ここは、昭和59年に廃線となった旧国鉄日中線の跡地の一部を遊歩道にした「日中線記念自転車歩行者道」。
    3kmにわたって約1000本のしだれ桜が植えられています。

  • 日中線は喜多方駅から熱塩加納村(現・喜多方市)の熱塩駅まで11.6kmを結んで昭和13年に開業した国鉄の路線で、路線名は熱塩駅の北にある日中温泉に因んだもの。<br />満開の時は、桜のトンネルのような景観だそうですが・・・

    日中線は喜多方駅から熱塩加納村(現・喜多方市)の熱塩駅まで11.6kmを結んで昭和13年に開業した国鉄の路線で、路線名は熱塩駅の北にある日中温泉に因んだもの。
    満開の時は、桜のトンネルのような景観だそうですが・・・

  • 今は蕾の状態。

    今は蕾の状態。

  • 僅かに咲いた花を見つけました。

    僅かに咲いた花を見つけました。

  • 日中線は典型的な閑散ローカル線で、廃止の時点では1日3往復(朝1往復、夕方2往復)・・・「日中走らぬ日中線」「日中は走りま線」と揶揄されたそうです。

    日中線は典型的な閑散ローカル線で、廃止の時点では1日3往復(朝1往復、夕方2往復)・・・「日中走らぬ日中線」「日中は走りま線」と揶揄されたそうです。

  • 散歩道の中ほどにSLが展示されています。

    散歩道の中ほどにSLが展示されています。

  • 日中線はこの「C11形蒸気機関車」のほかに、C12形とDE10形ディーゼル機関車が旅客列車をけん引していました。

    日中線はこの「C11形蒸気機関車」のほかに、C12形とDE10形ディーゼル機関車が旅客列車をけん引していました。

  • 喜多方から会津若松市一箕町にある「石部桜」へ向かいました。<br />NHK大河ドラマ『八重の桜』のオープニング映像に登場した桜が「石部桜」です。<br />大型バスが停まれる駐車場が近くにないので、道路上で下車し、ここから田んぼの脇の農道を歩いて、石部桜まで300m。

    喜多方から会津若松市一箕町にある「石部桜」へ向かいました。
    NHK大河ドラマ『八重の桜』のオープニング映像に登場した桜が「石部桜」です。
    大型バスが停まれる駐車場が近くにないので、道路上で下車し、ここから田んぼの脇の農道を歩いて、石部桜まで300m。

  • 田んぼの先に見えてきた石部桜は、樹齢約650年といわれるエドヒガンザクラで、会津領主・葦名氏の重臣・石部治部大輔(じぶだゆう)の庭にあったと伝えられています。

    田んぼの先に見えてきた石部桜は、樹齢約650年といわれるエドヒガンザクラで、会津領主・葦名氏の重臣・石部治部大輔(じぶだゆう)の庭にあったと伝えられています。

  • 白虎隊の悲劇で知られる飯盛山の北側の田園地帯にある石部桜・・・まだ蕾の状態です。

    白虎隊の悲劇で知られる飯盛山の北側の田園地帯にある石部桜・・・まだ蕾の状態です。

  • 10本の幹からなる石部桜・・・のびのびと枝を広げた雄大な姿に、力強い生命力を感じます。<br />石部桜は江戸時代から名木として知られ、満開の時期には藩主をはじめ多くの人が訪れました。

    10本の幹からなる石部桜・・・のびのびと枝を広げた雄大な姿に、力強い生命力を感じます。
    石部桜は江戸時代から名木として知られ、満開の時期には藩主をはじめ多くの人が訪れました。

  • 2013年に放送された『八重の桜』は、会津戦争で明治政府軍と対峙し、のちに同志社を創設した新島襄の妻となった山本(新島)八重の生涯を描いた作品でしたが、石部桜の映像と共にヒロイン・綾瀬はるかを思い出します。

    2013年に放送された『八重の桜』は、会津戦争で明治政府軍と対峙し、のちに同志社を創設した新島襄の妻となった山本(新島)八重の生涯を描いた作品でしたが、石部桜の映像と共にヒロイン・綾瀬はるかを思い出します。

  • 会津若松市のシンボル「鶴ヶ城」は、1384年に葦名氏が東黒川館を造ったのが始まりとされます。<br />慶応4年(1868)、戊辰戦争の際に会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は、薩長を中心とする政府軍の攻撃に1か月間持ちこたえましたが、明治7年(1874)に天守をはじめとする建造物は総て解体されました。<br />現在の天守閣は昭和40年の再建で、城内にはソメイヨシノを主に、大小約1,000本の桜が植えられ、満開時には夜桜見物客で賑わいをみせます。

    会津若松市のシンボル「鶴ヶ城」は、1384年に葦名氏が東黒川館を造ったのが始まりとされます。
    慶応4年(1868)、戊辰戦争の際に会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は、薩長を中心とする政府軍の攻撃に1か月間持ちこたえましたが、明治7年(1874)に天守をはじめとする建造物は総て解体されました。
    現在の天守閣は昭和40年の再建で、城内にはソメイヨシノを主に、大小約1,000本の桜が植えられ、満開時には夜桜見物客で賑わいをみせます。

  • 駐車場から「鶴ヶ城会館」へ向かいます。

    駐車場から「鶴ヶ城会館」へ向かいます。

  • 1階の土産売り場を通り、2階の大ホールで団体用メニューの「会津わっぱ飯」で昼食。<br />彩りわっぱ飯/前菜/季節の小鉢に蕎麦がついて1,080円。

    1階の土産売り場を通り、2階の大ホールで団体用メニューの「会津わっぱ飯」で昼食。
    彩りわっぱ飯/前菜/季節の小鉢に蕎麦がついて1,080円。

  • 1593年に、蒲生氏郷が7層の天守閣を建てて外郭を築き、黒川の地名を会津に改め、城を「鶴ヶ城」と命名します。<br />難攻不落の名城と謳われた鶴ヶ城でしたが、取り壊された後に残ったのは、石垣とお濠だけ。

    1593年に、蒲生氏郷が7層の天守閣を建てて外郭を築き、黒川の地名を会津に改め、城を「鶴ヶ城」と命名します。
    難攻不落の名城と謳われた鶴ヶ城でしたが、取り壊された後に残ったのは、石垣とお濠だけ。

  • お濠に沿って進むと、敵を三方から攻撃できる「桝形」があります。<br />この石垣は、今から約370年前に堅固な桝形として整備された石垣で、さらに右に曲がった場所には、内部を見透かされないように北出丸大手門がありました。

    お濠に沿って進むと、敵を三方から攻撃できる「桝形」があります。
    この石垣は、今から約370年前に堅固な桝形として整備された石垣で、さらに右に曲がった場所には、内部を見透かされないように北出丸大手門がありました。

  • 寛永16年(1639)に造られた「北出丸」・・・本丸を守る重要な出丸だった北出丸は、侵入した敵を三方から攻撃することが出来たので「鏖丸/みなごろしまる」とも言われていました。

    寛永16年(1639)に造られた「北出丸」・・・本丸を守る重要な出丸だった北出丸は、侵入した敵を三方から攻撃することが出来たので「鏖丸/みなごろしまる」とも言われていました。

  • 北出丸から本丸へと通じる城への玄関口「椿坂」・・・この坂を制するものが城を制すると言われる程、重要な坂でした。

    北出丸から本丸へと通じる城への玄関口「椿坂」・・・この坂を制するものが城を制すると言われる程、重要な坂でした。

  • かつて椿坂を登った石垣の所には、直径五尺八寸(約1.8m)の大太鼓を備えた「多聞櫓」が建てられ、藩主の登城や非常事態などの合図に使用したことから「太鼓門」と呼ばれました。

    かつて椿坂を登った石垣の所には、直径五尺八寸(約1.8m)の大太鼓を備えた「多聞櫓」が建てられ、藩主の登城や非常事態などの合図に使用したことから「太鼓門」と呼ばれました。

  • 東黒川館を築いた葦名氏以降、伊達・蒲生・上杉・加藤といった名だたる戦国大名が次々に居城とし、1643年には三代将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で転封し、徳川の親藩となります。(親藩:尾張・紀伊・水戸の徳川御三家と越前・会津の2松平家)<br />保科家は3代・正容(まさかた)から松平性に改姓し、徳川の葵紋が許されて家紋は会津葵となり、9代続いて明治を迎えました。

    東黒川館を築いた葦名氏以降、伊達・蒲生・上杉・加藤といった名だたる戦国大名が次々に居城とし、1643年には三代将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で転封し、徳川の親藩となります。(親藩:尾張・紀伊・水戸の徳川御三家と越前・会津の2松平家)
    保科家は3代・正容(まさかた)から松平性に改姓し、徳川の葵紋が許されて家紋は会津葵となり、9代続いて明治を迎えました。

  • 天守閣は取り壊されましたが、自然石を組み合わせて積み上げた「野面(のづら)積み」の石垣は400年前のまま・・・傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴です。

    天守閣は取り壊されましたが、自然石を組み合わせて積み上げた「野面(のづら)積み」の石垣は400年前のまま・・・傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴です。

  • 「武者走り」は、大手門の渡り櫓などへ簡単にアクセスできるよう、V字型に造られた階段。<br />武者走りは、左が上りで右が下りと決まっているのをご存知ですか?<br />武士は左に刀を差していたので、刀が石垣にぶつからないためのルールです。

    「武者走り」は、大手門の渡り櫓などへ簡単にアクセスできるよう、V字型に造られた階段。
    武者走りは、左が上りで右が下りと決まっているのをご存知ですか?
    武士は左に刀を差していたので、刀が石垣にぶつからないためのルールです。

  • 鶴ヶ城には、ハートの形をした石が2つありますが、そのうちの1つが武者走りにあるこの石・・・見つけられたら幸せになれるとか・・・

    鶴ヶ城には、ハートの形をした石が2つありますが、そのうちの1つが武者走りにあるこの石・・・見つけられたら幸せになれるとか・・・

  • 鶴ヶ城の表玄関に当たる重厚な「鉄門(くろがねもん)」・・・左右の石垣は、四角形に加工した石を巧みに積む「切込ハギ」という工法で造られています。

    鶴ヶ城の表玄関に当たる重厚な「鉄門(くろがねもん)」・・・左右の石垣は、四角形に加工した石を巧みに積む「切込ハギ」という工法で造られています。

  • ここに、2つ目のハート型の石!

    ここに、2つ目のハート型の石!

  • この写真は、明治5年に撮影された天守閣と走長屋・鉄門。<br />会津戦争で1か月の砲撃にも耐えた難攻不落の鶴ヶ城でしたが、降伏した後は廃墟状態・・・薩長連合に大砲を打ち込まれ、ボロボロになった様子が分かります。

    この写真は、明治5年に撮影された天守閣と走長屋・鉄門。
    会津戦争で1か月の砲撃にも耐えた難攻不落の鶴ヶ城でしたが、降伏した後は廃墟状態・・・薩長連合に大砲を打ち込まれ、ボロボロになった様子が分かります。

  • その後、昭和40年に会津のシンボルとして天守が再建され・・・

    その後、昭和40年に会津のシンボルとして天守が再建され・・・

  • 平成13年に干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋も復元。<br />平成23年には、黒瓦だった天守の屋根瓦も、明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元されました。

    平成13年に干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋も復元。
    平成23年には、黒瓦だった天守の屋根瓦も、明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元されました。

  • 蒲生時代の表門。<br />小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、蒲生氏郷(1556~1595)に会津を託します。<br />氏郷は、1593年に甲州流の縄張(曲輪や堀、門、虎口等の配置)を用いて郭を築き、七層の天守閣をもつ若松城を築城しました。

    蒲生時代の表門。
    小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、蒲生氏郷(1556~1595)に会津を託します。
    氏郷は、1593年に甲州流の縄張(曲輪や堀、門、虎口等の配置)を用いて郭を築き、七層の天守閣をもつ若松城を築城しました。

  • 鶴ヶ城の前に鎮座するのは、会津若松市出身の笹川ひろし氏がデザインした「お城ボくん」・・・キャスターで動く着ぐるみロボットで、中に人が入っているとか。<br />5層の天守は「若松城天守閣郷土博物館」となっており、1層~4層は展示フロア、5層は展望台。

    鶴ヶ城の前に鎮座するのは、会津若松市出身の笹川ひろし氏がデザインした「お城ボくん」・・・キャスターで動く着ぐるみロボットで、中に人が入っているとか。
    5層の天守は「若松城天守閣郷土博物館」となっており、1層~4層は展示フロア、5層は展望台。

  • 博物館のポスターに描かれている「白虎隊の自刃の図」は、明治2年に穂積朝春が描いた図で、生き残った飯沼貞吉から聞いた自刃の様子が描かれています。

    博物館のポスターに描かれている「白虎隊の自刃の図」は、明治2年に穂積朝春が描いた図で、生き残った飯沼貞吉から聞いた自刃の様子が描かれています。

  • 地下1階の展示は、戦いに備え塩の備蓄状況を見回りする蔵役人と、塩カマスを積み上げた「塩蔵」。<br />海を持たない会津にとって塩は貴重品であり、越後方面から舟で輸送された塩は、籠城時の備えとして蓄えられていました。

    地下1階の展示は、戦いに備え塩の備蓄状況を見回りする蔵役人と、塩カマスを積み上げた「塩蔵」。
    海を持たない会津にとって塩は貴重品であり、越後方面から舟で輸送された塩は、籠城時の備えとして蓄えられていました。

  • 白虎隊は、会津戦争の際に16~17歳の武家の男子で組織された部隊。<br />城外に出撃していた白虎隊の少年20名は、飯盛山から炎に包まれる城下の光景を見て絶望し、全員が自刃(うち1名はその後生存)するという悲劇を残しました。<br />しかし実際は落城したと思ったのではなく、「敵軍突入か、城へ戻るか」激論を交わし、進退窮まった上で武士らしく潔く自刃した、という説が真相のようです。

    白虎隊は、会津戦争の際に16~17歳の武家の男子で組織された部隊。
    城外に出撃していた白虎隊の少年20名は、飯盛山から炎に包まれる城下の光景を見て絶望し、全員が自刃(うち1名はその後生存)するという悲劇を残しました。
    しかし実際は落城したと思ったのではなく、「敵軍突入か、城へ戻るか」激論を交わし、進退窮まった上で武士らしく潔く自刃した、という説が真相のようです。

  • 『八重の桜』のヒロイン・山本/新島八重(1845~1932)は幕末の会津に生まれ、戊辰戦争の際に断髪・男装して新式のスペンサー銃を担いで迫り来る新政府軍と勇敢に対峙し、その奮闘ぶりから「幕末のジャンヌ・ダルク」と称されました。<br />明治になって京都に移り、キリスト者・新島襄と出逢って再婚した後は、新島襄の同志社大学設立の夢を支えます。<br />夫の亡き後は日本赤十字社の正社員となって、日清・日露戦争の篤志看護婦として傷病者の看護にあたり、また、看護婦の地位向上にも努めて「日本のナイチンゲール」とも称されました。

    『八重の桜』のヒロイン・山本/新島八重(1845~1932)は幕末の会津に生まれ、戊辰戦争の際に断髪・男装して新式のスペンサー銃を担いで迫り来る新政府軍と勇敢に対峙し、その奮闘ぶりから「幕末のジャンヌ・ダルク」と称されました。
    明治になって京都に移り、キリスト者・新島襄と出逢って再婚した後は、新島襄の同志社大学設立の夢を支えます。
    夫の亡き後は日本赤十字社の正社員となって、日清・日露戦争の篤志看護婦として傷病者の看護にあたり、また、看護婦の地位向上にも努めて「日本のナイチンゲール」とも称されました。

  • 5階の展望台からは、360度の眺望。<br />磐梯山(1819m)が迫ってきます。

    5階の展望台からは、360度の眺望。
    磐梯山(1819m)が迫ってきます。

  • 雪の飯豊連峰。<br />左から大日岳(2128m)、御西山(2012m)、飯豊山(2105m)。

    雪の飯豊連峰。
    左から大日岳(2128m)、御西山(2012m)、飯豊山(2105m)。

  • 古城ケ峰(1287m)。

    古城ケ峰(1287m)。

  • 白虎隊十九士の墓がある飯盛山。

    白虎隊十九士の墓がある飯盛山。

  • 石部桜から鶴ヶ城に向かう途中でも見えた、高さ57mの巨大な「会津慈母大観音像」・・・1986年に建立され、日本で8番目に大きな観音様は、全体のフォルムが丸々しくて優しいイメージで、遠くから眺めても存在感があります。

    石部桜から鶴ヶ城に向かう途中でも見えた、高さ57mの巨大な「会津慈母大観音像」・・・1986年に建立され、日本で8番目に大きな観音様は、全体のフォルムが丸々しくて優しいイメージで、遠くから眺めても存在感があります。

  • 天守閣の次は茶室・麟閣へ。<br />茶室「麟閣(りんかく)」は、茶人・千利休の子、小庵が建てたと言われる茶室です。<br />天正19年(1591)利休が豊臣秀吉の怒りに触れて死を命じられた折、利休七哲(千利休の筆頭弟子7名)の一人であった蒲生氏郷が小庵を会津に匿いましたが、その際に小庵が建てたものとされています。<br />会津戦争後の鶴ヶ城取り壊しの際に、指月庵宗久によって移築され、平成2年に鶴ヶ城の敷地内へ再移築されました。<br />この「表門」の扁額は、裏千家当主によるもの。

    天守閣の次は茶室・麟閣へ。
    茶室「麟閣(りんかく)」は、茶人・千利休の子、小庵が建てたと言われる茶室です。
    天正19年(1591)利休が豊臣秀吉の怒りに触れて死を命じられた折、利休七哲(千利休の筆頭弟子7名)の一人であった蒲生氏郷が小庵を会津に匿いましたが、その際に小庵が建てたものとされています。
    会津戦争後の鶴ヶ城取り壊しの際に、指月庵宗久によって移築され、平成2年に鶴ヶ城の敷地内へ再移築されました。
    この「表門」の扁額は、裏千家当主によるもの。

  • 1594年に徳川家康・蒲生氏郷のとりなしで、秀吉から赦されて京に戻った少庵は千家を再興し、宗左・宗室・宗守の3人の孫によって、表・裏・武者小路の三千家が興され、今日の茶道の基礎が築かれました。<br />表門を入った所にある「寄付(よりつき)」は、茶会客の待ち合わせや、身支度を整えて席入りの準備をするための建物。

    1594年に徳川家康・蒲生氏郷のとりなしで、秀吉から赦されて京に戻った少庵は千家を再興し、宗左・宗室・宗守の3人の孫によって、表・裏・武者小路の三千家が興され、今日の茶道の基礎が築かれました。
    表門を入った所にある「寄付(よりつき)」は、茶会客の待ち合わせや、身支度を整えて席入りの準備をするための建物。

  • 「中門(ちゅうもん)」は内露地の出入り口に設けられた門で、高さが低く抑えられ、潜りの意味が込められています。

    「中門(ちゅうもん)」は内露地の出入り口に設けられた門で、高さが低く抑えられ、潜りの意味が込められています。

  • 「腰掛け待合」は客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立ちの際にの際に一旦路地に出て、後の席入りの合図を待つ施設です。

    「腰掛け待合」は客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立ちの際にの際に一旦路地に出て、後の席入りの合図を待つ施設です。

  • 蹲踞(つくばい)は俗界の汚れを払って清らかな心で席入りするために、手を洗って口をすすぐためのものです。

    蹲踞(つくばい)は俗界の汚れを払って清らかな心で席入りするために、手を洗って口をすすぐためのものです。

  • 茶室の麟閣につながる「蒲鶴亭」。

    茶室の麟閣につながる「蒲鶴亭」。

  • 茶客はこの小さな躙口(にじりぐち)から、「麟閣」の中へ・・・奥に見えるのが茶室です。

    茶客はこの小さな躙口(にじりぐち)から、「麟閣」の中へ・・・奥に見えるのが茶室です。

  • 庭園を眺めながらお抹茶を楽しめます。

    庭園を眺めながらお抹茶を楽しめます。

  • 幕末時代の瓦(赤瓦)をまとった天守閣を眺めながら、私も一服。<br />

    幕末時代の瓦(赤瓦)をまとった天守閣を眺めながら、私も一服。

  • 茶室・麟閣の近くにある晩翠直筆の「荒城の月碑」。<br />昭和21年、土井晩翠を招いた音楽祭で「荒城の月」が鶴ヶ城と仙台の青葉城をモチーフに作詞されたことが分かり、翌年、土井晩翠夫妻を招いて歌碑の除幕式が行われました。<br />「荒城の月碑」は鶴ヶ城・青葉城の他、作曲者・滝廉太郎の故郷・大分県竹田城址の三ヶ所にあります。

    茶室・麟閣の近くにある晩翠直筆の「荒城の月碑」。
    昭和21年、土井晩翠を招いた音楽祭で「荒城の月」が鶴ヶ城と仙台の青葉城をモチーフに作詞されたことが分かり、翌年、土井晩翠夫妻を招いて歌碑の除幕式が行われました。
    「荒城の月碑」は鶴ヶ城・青葉城の他、作曲者・滝廉太郎の故郷・大分県竹田城址の三ヶ所にあります。

  • 市の条例で、天守より高い建物の建築が禁止されているので、会津若松では今も昔も天守が一番高い建物です。<br />会津戦争の哀しみを背負った美しい鶴ヶ城は、会津人の誇りであり、心の故郷だと思いました。<br /><br />

    市の条例で、天守より高い建物の建築が禁止されているので、会津若松では今も昔も天守が一番高い建物です。
    会津戦争の哀しみを背負った美しい鶴ヶ城は、会津人の誇りであり、心の故郷だと思いました。

  • 鶴ヶ城の後は、会津鉄道の芦ノ牧温泉駅~湯野上温泉駅までローカル列車に乗って、大内宿に向かいます。

    鶴ヶ城の後は、会津鉄道の芦ノ牧温泉駅~湯野上温泉駅までローカル列車に乗って、大内宿に向かいます。

  • 芦ノ牧温泉駅は「ねこが働く駅」として人気のスポット。<br />レトロな駅舎は、開業当初(昭和2年)のものです。

    芦ノ牧温泉駅は「ねこが働く駅」として人気のスポット。
    レトロな駅舎は、開業当初(昭和2年)のものです。

  • アメリカンカールの2代目駅長「らぶ駅長」は駅事務室にいましたが、撮影は禁止・・・初代駅長がカメラのフラッシュで目をやられたためです。<br />らぶ駅長と弟のぴーち施設長の業務内容は、列車の見送り・駅構内の巡回・待合室での旅客応対(癒し)だとか。

    アメリカンカールの2代目駅長「らぶ駅長」は駅事務室にいましたが、撮影は禁止・・・初代駅長がカメラのフラッシュで目をやられたためです。
    らぶ駅長と弟のぴーち施設長の業務内容は、列車の見送り・駅構内の巡回・待合室での旅客応対(癒し)だとか。

  • 旧国鉄から第3セクターに引き継がれた会津鉄道は、西若松駅~会津高原尾瀬口駅までの57.4kmを21駅で繋ぎ、鬼怒川・日光・浅草へと接続します。<br />私達が乗車するのは、14時10分発の会津田島行き快速。

    旧国鉄から第3セクターに引き継がれた会津鉄道は、西若松駅~会津高原尾瀬口駅までの57.4kmを21駅で繋ぎ、鬼怒川・日光・浅草へと接続します。
    私達が乗車するのは、14時10分発の会津田島行き快速。

  • 向かいのホームに設置された「あいづっこ宣言」の看板。<br />孫たちにも教えなきゃ・・・

    向かいのホームに設置された「あいづっこ宣言」の看板。
    孫たちにも教えなきゃ・・・

  • 2両編成の列車が到着。

    2両編成の列車が到着。

  • 大型バス3台分のお客さんが乗り込みましたが、皆さん大体座れました。

    大型バス3台分のお客さんが乗り込みましたが、皆さん大体座れました。

  • 雪深い会津なので、この辺りの家の屋根はトタン葺き。<br />梅は満開ですが、桜はまだですね。

    雪深い会津なので、この辺りの家の屋根はトタン葺き。
    梅は満開ですが、桜はまだですね。

  • 快速列車なので「大川ダム公園駅」は通過。

    快速列車なので「大川ダム公園駅」は通過。

  • トンネルをくぐって・・・

    トンネルをくぐって・・・

  • 「芦ノ牧温泉南駅」も通過。

    「芦ノ牧温泉南駅」も通過。

  • 橋梁の上で、列車が一旦停止して、周囲の景観を車内アナウンスで案内してくれます。<br />最初に止まったのは、深沢渓谷に架かる深沢鉄橋の上。

    橋梁の上で、列車が一旦停止して、周囲の景観を車内アナウンスで案内してくれます。
    最初に止まったのは、深沢渓谷に架かる深沢鉄橋の上。

  • 美しい眺めは、阿賀川に造られた大川ダムのダム湖「若郷湖」(わかさとこ)に架かる大川湖面橋。

    美しい眺めは、阿賀川に造られた大川ダムのダム湖「若郷湖」(わかさとこ)に架かる大川湖面橋。

  • 次に止まったのは、湯野上温泉駅手前の第三大川橋梁が望める場所・・・若郷湖の深いグリーンの色が印象的です。

    次に止まったのは、湯野上温泉駅手前の第三大川橋梁が望める場所・・・若郷湖の深いグリーンの色が印象的です。

  • 昭和7年に開業した大内宿の玄関口・湯野上温泉駅に到着。<br />第三セクターに転換した昭和62年に、大内宿の街並みに合わせて茅葺の駅となりました。

    昭和7年に開業した大内宿の玄関口・湯野上温泉駅に到着。
    第三セクターに転換した昭和62年に、大内宿の街並みに合わせて茅葺の駅となりました。

  • 駅舎の中ではストーブが焚かれ、ローカルムードがいっぱい。

    駅舎の中ではストーブが焚かれ、ローカルムードがいっぱい。

  • 「江戸風情と湯けむりの里」湯野上温泉駅は、大内宿と湯野上温泉の玄関口。

    「江戸風情と湯けむりの里」湯野上温泉駅は、大内宿と湯野上温泉の玄関口。

  • 駅舎の左側には、足湯があります。

    駅舎の左側には、足湯があります。

  • 湯野上温泉駅から大内宿・塔のへつりを循環するバスの「猿游号(さるゆうごう)」(1日フリーで1000円)。

    湯野上温泉駅から大内宿・塔のへつりを循環するバスの「猿游号(さるゆうごう)」(1日フリーで1000円)。

  • 15時前に大内宿に到着。<br />江戸時代、大内宿は会津若松と日光を結ぶ会津西街道(下野街道)と呼ばれる街道の宿場町で、会津城下から3番目の宿駅として1640年頃に整備されました。<br />

    15時前に大内宿に到着。
    江戸時代、大内宿は会津若松と日光を結ぶ会津西街道(下野街道)と呼ばれる街道の宿場町で、会津城下から3番目の宿駅として1640年頃に整備されました。

  • 南会津の山中にある大内宿は、約450mの旧街道沿いに、江戸時代の宿場の雰囲気を残す寄棟造の民家が50軒ほど整然と建ち並んでいます。

    南会津の山中にある大内宿は、約450mの旧街道沿いに、江戸時代の宿場の雰囲気を残す寄棟造の民家が50軒ほど整然と建ち並んでいます。

  • 大内宿には3軒の民宿がありますが、白壁の建物は蔵に泊まれる民宿・本家扇屋。

    大内宿には3軒の民宿がありますが、白壁の建物は蔵に泊まれる民宿・本家扇屋。

  • 左側に高倉神社の「一の鳥居」、奥には火の見櫓が見えます。<br />

    左側に高倉神社の「一の鳥居」、奥には火の見櫓が見えます。

  • 丘から流れ下ってきた疎水が道の両側に流れ、昔は里人が飲料水や台所用水に使っていたようです。<br />今も疎水で洗い物が出来るように、一段下がった洗い場があり、お婆さんが「ねぎそば」用のネギを洗っていました。

    丘から流れ下ってきた疎水が道の両側に流れ、昔は里人が飲料水や台所用水に使っていたようです。
    今も疎水で洗い物が出来るように、一段下がった洗い場があり、お婆さんが「ねぎそば」用のネギを洗っていました。

  • 年間で約80万人の観光客が訪れるようになった今は、殆どの家が農業から土産店・蕎麦屋等の店へと変わりました。<br />江戸時代からの大切な遺産を未来に引き継いで行くために、住民憲章を作って「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り、景観の保存と伝統的な屋根葺きの技術継承に取り組んでいます。

    年間で約80万人の観光客が訪れるようになった今は、殆どの家が農業から土産店・蕎麦屋等の店へと変わりました。
    江戸時代からの大切な遺産を未来に引き継いで行くために、住民憲章を作って「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り、景観の保存と伝統的な屋根葺きの技術継承に取り組んでいます。

  • 会津の工芸品などを販売している「えびす屋」。

    会津の工芸品などを販売している「えびす屋」。

  • 蕎麦に添えられた1本のネギを、箸の代わりにして頂く大内宿名物の「ねぎそば」・・・蕎麦の薬味は輪切りに刻んだネギが一般的ですが、これは箸代わりのネギをかじりながら食べるという郷土食です。<br />会津の蕎麦は、昔は祝いの席や徳川将軍への献上品だったため、「切る」というのは縁起が悪いとされ、ネギを切らずにそのまま使ったのが始まりだとか。

    蕎麦に添えられた1本のネギを、箸の代わりにして頂く大内宿名物の「ねぎそば」・・・蕎麦の薬味は輪切りに刻んだネギが一般的ですが、これは箸代わりのネギをかじりながら食べるという郷土食です。
    会津の蕎麦は、昔は祝いの席や徳川将軍への献上品だったため、「切る」というのは縁起が悪いとされ、ネギを切らずにそのまま使ったのが始まりだとか。

  • 色とりどりの可愛いちりめん小物が並ぶ民芸品の「叶屋」。

    色とりどりの可愛いちりめん小物が並ぶ民芸品の「叶屋」。

  • 一番奥の突き当りにある「浅沼食堂」・・・築400年の立派な建物です。

    一番奥の突き当りにある「浅沼食堂」・・・築400年の立派な建物です。

  • 浅沼食堂の裏山を登った所にある子安観音、その先が見晴台。

    浅沼食堂の裏山を登った所にある子安観音、その先が見晴台。

  • ここは、まさに絶好のビューポイント!<br />通りを挟んで両側に茅葺きの家が整然と並び、通りを歩く観光客がアリのように見えます。

    ここは、まさに絶好のビューポイント!
    通りを挟んで両側に茅葺きの家が整然と並び、通りを歩く観光客がアリのように見えます。

  • 30軒以上の茅葺き屋根が建ち並ぶ大内宿・・・まるで江戸時代にタイムスリップした感じです。

    30軒以上の茅葺き屋根が建ち並ぶ大内宿・・・まるで江戸時代にタイムスリップした感じです。

  • 夏は涼しく、冬は暖かく、遮音性に優れ、断熱効果も高い茅葺き屋根ですが、屋根全体の葺き替え費用は約2,000万円。<br />トタン屋根の家も目立ちます。<br />

    夏は涼しく、冬は暖かく、遮音性に優れ、断熱効果も高い茅葺き屋根ですが、屋根全体の葺き替え費用は約2,000万円。
    トタン屋根の家も目立ちます。

  • 駐車場の方へ引き返します。

    駐車場の方へ引き返します。

  • 築400年以上のそば処「本家玉屋」。

    築400年以上のそば処「本家玉屋」。

  • これは、大内宿本陣跡に復元された「大内宿町並み展示館」。<br />大名などが宿泊した本陣は、名主などの居宅が一般的でしたが、大内宿の本陣は幕末に没落したため、近隣の本陣を参考にして昭和59年に宿駅時代の本陣が復元されました。<br />入口は左側で、右側は身分の高い人が出入りした乗り込み(玄関)。

    これは、大内宿本陣跡に復元された「大内宿町並み展示館」。
    大名などが宿泊した本陣は、名主などの居宅が一般的でしたが、大内宿の本陣は幕末に没落したため、近隣の本陣を参考にして昭和59年に宿駅時代の本陣が復元されました。
    入口は左側で、右側は身分の高い人が出入りした乗り込み(玄関)。

  • 館内には、写真や生活用具など1,300点あまりが展示され、中央にある囲炉裏では茅屋根保護のため、薪が焚かれています。<br />

    館内には、写真や生活用具など1,300点あまりが展示され、中央にある囲炉裏では茅屋根保護のため、薪が焚かれています。

  • 雛人形のお内裏様のような人形は、学問・書道の神、菅原道真公を祀った「会津天神」・・・子供の健やかな成長と幸せを祈る天神様として、古くから崇拝されてきました。<br />会津藩主・蒲生氏郷が京から職人を呼んで作らせたのが会津天神の始まりで、昔は頭部が練り物でしたが、今は全体が張り子になっています。

    雛人形のお内裏様のような人形は、学問・書道の神、菅原道真公を祀った「会津天神」・・・子供の健やかな成長と幸せを祈る天神様として、古くから崇拝されてきました。
    会津藩主・蒲生氏郷が京から職人を呼んで作らせたのが会津天神の始まりで、昔は頭部が練り物でしたが、今は全体が張り子になっています。

  • 殿様の休憩や寝室に利用された「上段の間」。

    殿様の休憩や寝室に利用された「上段の間」。

  • 殿様用のヒノキ風呂と雪隠(便所)。

    殿様用のヒノキ風呂と雪隠(便所)。

  • 茅葺き屋根を支える柱と骨組み。

    茅葺き屋根を支える柱と骨組み。

  • 「萬屋(よろずや)」で甘酒を飲みながら、大内宿の話を聞きました。

    「萬屋(よろずや)」で甘酒を飲みながら、大内宿の話を聞きました。

  • 大内宿から那須塩原駅に向かいました。

    大内宿から那須塩原駅に向かいました。

  • 帰りは19時31分発の「やまびこ218」。<br />雪あり、花あり、歴史あり、福島の春を楽しんだ1拍2日の旅行でした。

    帰りは19時31分発の「やまびこ218」。
    雪あり、花あり、歴史あり、福島の春を楽しんだ1拍2日の旅行でした。

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