2019/01/30 - 2019/02/01
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montsaintmichelさん
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「やはらぐる光や空に満ちぬらん 雲に分け入る千木の片そぎ」。
1190(建久元)年の春、出雲の地を訪ねて出雲大社に詣でた寂蓮法師は感銘のあまりこう詠みました。また、その印象を「この世の事とも覚えざりける」と表現しています。
八雲立つ出雲の国が「神の国」・「神話の国」とされるのは、神々を祀る古社が今日も至る処に鎮座しているからです。そして、その中心となるのが大国主神(おおくにぬしのかみ)を祀る出雲大社です。大国主神は、七福神の「大黒様」と習合し、日本全国津々浦々で慕われている身近な神様でもあります。
出雲大社の正しい仮名遣いは「いづもおおやしろ」です。古来、「天日隅宮(あまのひすみのみや)」や「杵築大社(きづたいしゃ)」と呼ばれていましたが、1871(明治4)年に出雲大社と改称されました。
『記紀』によると、大国主神が国造りした日本の国土「豊葦原の瑞穂国」を、皇室の祖先神である天照大神に「国譲り」した際、その功績を称えて宇迦山の麓に壮大な神殿「天日隅宮」が創建され、そこに大国主神が鎮まったとされます。『日本書紀』には、659年(斉明天皇5)年に出雲国造に命じて「神之宮」を修造させたとの記述があります。
しかし、謎だらけの神社としても折り紙付きです。それを解明するのが、今回のミッションになります。
境内マップです。
http://www.izumooyashiro.or.jp/wp/wp-content/themes/izumotaisya/images/keidai.pdf
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
蕎麦処 八雲東店
まずは腹ごしらえです。11時半頃に出雲大社に到着したため、八雲さんも席が空いていました。
こちらは「八雲」本店ではなく、大駐車場から「神楽殿」へ向かう通路沿いにある店舗です。勿論、味とメニューは同じです。あまり知られていないため、穴場でもあります。 -
蕎麦処 八雲東店
店内は落ち着いた雰囲気で寛げます。
背面にある壁には、ここを訪れた多くの芸能人のサイン入り色紙が所狭しと貼り巡らされています。恐らくTV番組のロケの際に立ち寄られたのだと思います。 -
蕎麦処 八雲東店
出雲蕎麦は、蕎麦の実を皮ごと石臼で挽くため、蕎麦の色は黒が濃く、香りが強く立つのが特徴です。出雲では、「割り子蕎麦」や「釜揚げ蕎麦」といった独特の食べ方でいただけます。
注文したのは、定番の「三色割子」です。それぞれ、とろろ、天かす、卵がトッピングされ、三種類の風味でいただけます。濃い目の出汁がコシのある手打ち蕎麦によく合い、チョコンと載せられた「もみじおろし」が味を引き立てます。また、麺は細めで、出汁は甘辛と、そのバランスが程良い感じです。懐かしさの中にも上品に香るお蕎麦をいただくことができました。 -
蕎麦処 八雲本店
こちらが、大駐車場から二の鳥居に向かう途中にある八雲本店です。
信州を全国有数の蕎麦処とするのは異論のないところですが、西日本でそれに匹敵するのは出雲と出石(兵庫県)ではないでしょうか?
出石町内には49軒もの蕎麦屋が軒を連ねていますが、これは出石藩主 仙石政明が1706(宝永3)に上田藩から転封された時に伝えたものとされます。上田から随伴してきた蕎麦職人を先祖に持つ蕎麦屋「南枝」は現在も営業されています。
一方、出雲蕎麦も昔風のしっかりした田舎蕎麦です。一般の蕎麦と異なる点は、割り子に入った蕎麦に出汁を直接かけて食べる点です。
では何故、出雲地方に信州蕎麦と似た蕎麦切りが存在するのでしょうか?
松本から転封された松平直政が、仙石政明と同様に蕎麦職人を随伴して来たであろう事は想像に難くありません。出雲の茶人として有名な7代藩主 松平不昧(ふまい)は、蕎麦が大好物だったそうです。直政が持ち込んだ蕎麦をこよなく愛した不昧が、松江を中心とした蓮と呼ばれた通人たちと共にその文化をお茶と共に末代まで伝えたのでしょう。 -
二の鳥居
大駐車場から出雲大社へのアプローチの仕方は3種類あります。最も近道なのが、神楽殿を経由して拝殿前に進む方法です。次は、祓橋(はらいのはし)から三の鳥居がある松の参道に入るアプローチです。このレポでは、二の鳥居からのアプローチで紹介いたします。
出雲大社には4つの鳥居があり、それぞれ材質を違えています。1つ目の鳥居が石造、2つ目が木造、3つ目が鉄製、4つ目が青銅製です。
二の鳥居は、塗装のせいか古色蒼然とした姿ではなく、木造の鳥居の佇まいには見えません。正式には 「勢溜(せいだまり)の大鳥居」と呼ばれ、「出雲全日本大学選抜駅伝競走」のスタート地点にもなっています。左手には八百万の神々が稲佐の浜から出雲大社へ来られる「神迎(かみむかえ)の道」が伸びています。
昔、大きな芝居小屋などが建って賑わっていたそうで、人の勢いが溜まるところから勢溜という名が付いたとされます。 -
一の鳥居
では、一の鳥居は何処にあるかと言いますと、二の鳥居から振り返った先に佇みます。距離で言えば、二の鳥居から500m程あります。
松並木が美しい神門通りの宇迦橋にあり、コンクリート製です。高さが23m、柱の周り6.5m、扁額の大きさは畳6畳分もある国内最大級の鳥居で、正式には「大鳥居」と呼びます。
一の鳥居からは、このように緩やかな坂を登ってニの鳥居に至ります。 -
参道
二の鳥居を潜ると神域に入り、参道は下り坂になります。通常、神社は上り参道が多く、こうした下り参道は全国的にも珍しいものです。
下り坂は、二の鳥居の付近がかつて砂丘の丘陵だった名残だとされます。広大な砂丘に面していた出雲大社が、現在の賑わいになったのは江戸時代中期以降のことです。 -
祓社(はらいのやしろ)
参道の右側に鎮まるのが「祓社」です。 祀られている4柱の祓井神(はらいどのかみ)が参拝者の罪や汚れを落としてくれるため、ここで心身を清めてから参拝するのがマナーです。祓社の裏手には「浄めの池」が広がっています。
「瀬織津比売神(セオリツヒメ)」は、種々の禍事・罪・穢れを川から海へ流します。
「速開都比売神(ハヤアキツヒメ)」は海底におり、禍事・罪・穢れを飲み込みます。
「気吹戸主神(イブキドヌシ)」は、速開都比売が禍事・罪・穢れを飲み込んだものを根の国・底の国に息吹と共に放ちます。
「速佐須良比売神(ハヤサスラヒメ)」は、根の国・底の国に持ち込まれた、禍事・罪・穢れをさすらって無くします。 -
祓橋(はらいのはし)
境内を流れる「素鵞川」に架けられた太鼓橋の祓橋から二の鳥居方向を振り返った様子です。 -
三の鳥居
祓橋を渡った先は樹齢400年を越える松並木が見事な「松の参道」になっており、その入口の先に鉄製の三の鳥居が聳えています。「松の参道の鳥居」や「中の鳥居」と呼ばれています。松の葉の緑と鉄の錆びた赤茶色とのコントラストが見事です。
松の参道は3本の路に分かれており、鳥居を潜る真ん中の路は神様が通る道とされてきました。ですから、神職や皇族など身分の高い人だけが通ることを許されていましたが、現在は松の根を痛めないように通行禁止になっています。
因みに、往路は向かって右側、復路は左側の路を通るのが正式だそうです。
尚、この松の参道は「日本の名松百選」にも選ばれています。 -
四の鳥居
二股になった夫婦松のような黒松です。
「縁結びの神」の象徴とも言えます。 -
『御慈愛の御神像』のモニュメント
四の鳥居の手前、参道の左側にあるのが大国主神と八上姫のロマンスを綴る「因幡の素兎」をモチーフにした『御慈愛の御神像』のモニュメントです。このロマンスは大国主神が素戔嗚尊の命で国造りを始める少し前のことで、『出雲神話 八上姫』に記されています。
大国主神の異母兄弟の八十神たちは、因幡国の八上郷に美しい姫がいると伝え聞き、姫を娶ろうとしました。神々は、弟の大国主神に姫への贈物を持たせ、弟を置いてきぼりにして因幡へ向かいました。途中の海岸で傷付いた白兎が泣いていましたが、神々は誤った治し方を教えて笑いものにしました。しかし、大国主神は訳を聞いて助けてやりました。
先に八上郷に着いた神々は八上姫に求婚するも、全て撃沈しました。やがて遅れて着いた大国主神に姫は「私の慕うお方はあなたです」と告げました。
2人のロマンスに因んだ地名が河原町には今も残されています。例えば、大国主神が贈物を詰めた袋を捨てた千代川の河原が「袋河原」、恋文を書いた処が「倭文(しどり)」です。また「円通寺」は、2人が縁を通じた「縁通路」に由来します。
後日談もあります。2人は八上郷で幸せな生活をはじめ、子供をもうけました。これを契機に、姫は夫と共に出雲に移ることになりましたが、そこに待ち受けていたのが正妻 須勢理比売でした。気性が激しく嫉妬深い彼女と折りが合わず、八上姫は子供を残して因幡へ戻りました。傷心の姫を郷の人々は優しく迎え入れました。そして、姫は、死後に売沼(めぬま)神社に祀られ、その裏山にある嶽古墳は姫の墓と伝えられます。 -
『ムスビの御神像』のモニュメント
参道の右側にあるのが、『ムスビの御神像』のモニュメントです。大国主神が出雲の国造りをしていた頃、大国主神の前に「幸魂(サキミタマ)」・「奇魂(クシミタマ)」が現れて神性を授かったシーンを表わしています
大国主神と共に国造りを行っていた少彦名(スクナヒコナ)が常世の国へと去り、どうやってこの国を造って行けば良いのか悩んでいると、海の向こうから光り輝く神様が現れます。そして自分の御魂を丁寧に祀れば、私はあなたに協力してこの国を完成させましょうと告げました。
この幸魂・奇魂の正体は、奈良の大神神社に祀られる「大物主」とも言われていますが、実は海面で目を光らせている海蛇の様子を表したものだそうです。出雲大社近くの「稲佐の浜」では、旧暦10月頃に亜熱帯の海から暖流に流されてきたセグロウミヘビが打ち上げれられます。古代出雲では竜蛇神信仰があり、このウミヘビを捕らえてミイラを作り、龍神の依代として崇めたそうです。旧暦10月13日には稲佐の浜から竜蛇神を迎える神事が行われており、「神在月」の発祥となったといいます。 -
松の参道
かつて出雲王国が存在し、そしてその上に覆い被さるかのようにヤマト政権が成立したとの推定は、壮大な日本国家の生い立ちというテーマそのものでもあります。
関 裕二著『消された王権・物部氏の謎』は、事代主神=竹内宿禰という仮設を立て、伊勢神宮(神功皇后)との関係から出雲の謎に迫っています。当方の推論とは方向性が異なるため詳述しませんが、『日本書記』は、蘇我氏や物部氏を抹殺するために藤原不比等によって創作されたフィクションであり、蘇我氏に対する聖徳太子のように、大物主神(大国主神)は子 事代主神(竹内宿禰)を抹殺するために登場させたと記しています。
また、梅原猛著『出雲王国の謎を解く』は、大国主神の存在から、出雲というもう一つの日本の源泉、もうひとつの日本の姿を歴史の中に透かし見ることで、日本史を再編する必要性を説いています。出雲が謎のベールに包まれているため、多彩な仮説が打ち立てられています。 -
四の鳥居
主祭神の大国主神は素戔嗚尊の娘婿で、多くの兄弟の末っ子として出雲に生まれました。神話『因幡の素兎』でも知られ、「サメを騙したため全身の皮を剥かれた白兎が大国主神の兄たちに助けを求めたところ、海水に浸かり風に当たるとよいと言われ、塩水が沁みてよけいにひどくなった。兄たちに荷物を持たされ遅れてやってきた大国主神が痛みで泣いている兎を可哀想に思い、真水で塩を洗い、がまの穂にくるまると良いと教えたところ、兎の傷は治った」とあり、大国主神の優しい性格を伝えるエピソードです。
大国主神は出雲王朝を繁栄させた王とされますが、大きな袋を肩に掛け、ずきんを被り、右手に打出の小槌を持って米俵の上に立つ、あの人懐こいお姿の「大黒天」もまた、大国主神です。 これは、「大国」が「ダイコク」と読めることから、同じ音である大黒天と神仏習合したためです。
大国主神は、大穴持命(オオナムチノミコト)や八千矛神(ヤチホコノカ)、葦原色許男(アシハラノシコオ)などの別名を持ち、「国引き」や「出雲の国造り」、「国譲り」などの神話に登場する出雲を代表する神様です。『記紀』は、「出雲伝説」でその1/3を占め、往時は出雲への関心が高かったことの証と言えます。 -
四の鳥居(重文)
手水舎で心身を清めた後に潜るのが四の鳥居です。
日本最古の青銅製の鳥居で、「銅鳥居」とも呼ばれ、1666(寛文6)年6月に毛利輝元の孫 綱広が寄進したものです。毛利家の祖は大江氏とされ、大江氏の祖が出雲大社の宮司家 千家国造家と同じ天穂日命(アメノホヒノミコト)であるため、崇敬の念が篤かったようです。因みに、現人神は84代目になり、天皇家を除き日本で最も古い家柄です。
毛利藩の鋳物師により長州阿武郡(現 萩市)で鋳造されたと伝えられます。高さ6m、柱の直径52cmという圧巻の大きさです。銅鳥居に触ると金運がアップすると言われており、パワースポットのひとつとなっています。
この鳥居の先は荒垣に囲まれた一段と重要な聖域となります。
<境内の参拝の順序>
1.四の鳥居(銅鳥居)を潜る。
2.拝殿にお参りする。
3.八足門から本殿にお参りする。
4.反時計回りに右から摂社・末社に拝礼して回る。
(太陽と同じ動きで回る) -
四の鳥居
鳥居に刻まれた文字の2行目には「日神者地神五代之祖天照大神、月神者月読尊也、須佐之男命雲陽大社神也」とあります。旅行後に調べた所、これは、かつて「スサノオ」がここに祀られていたことの名残のようです。
出雲大社の主祭神は、創建時には大国主神でしたが、鎌倉時代の一時期、「スサノオ」に主祭神が代わったと伝わります。神仏習合の影響のより、出雲地方を総括していた「鰐淵寺(がくえんじ)」がスサノオこそが出雲国を造った真の主であると提唱したのが定着したようです。しかし、江戸時代初期に往時の出雲国造が幕府に申し立て、再び主祭神は大国主神に戻されました。 -
馬と牛の像
この像は、境内御垣内の出入口に当たる銅鳥居を潜った左脇にあります。この「牛の像」と「馬の像」も出雲大社と深い関わりがあります。「牛と馬」は神様の乗り物や神様の使いともされ、「神牛(しんぎゅう)」と「神馬(しんめ)」と呼ばれます。そうしたことから、境内の入口に置かれていると考えられています。 -
神牛
神牛の言われについては諸説ありますが、菅原道真と関係があるようです。道真の祖先が出雲国の出身で、出雲 千家家の親戚筋にある家系とも伝わります。
因みに、菅原家は、天照大神の第2子「天穂日命(アマノホヒノミコト)」の子孫とされています。ですから、出雲大社に道真由来の「撫で牛」を祀っても何ら不思議ではないことになります。因みに、ご利益は天満宮と同じで学業成就です。 -
神馬
「かねおまさん」と呼ばれ、鼻の部分を触ると子宝を授かると伝わります。
銅鳥居と同時期の1667(寛文7)年に周防国と長門国を支配していた藩主 毛利綱廣が京都の名工 名越弥七朗に制作させて寄進したと伝わります。
では何故、子宝にご利益があるかと言えば、弥七朗の妻の出産にまつわります。かつて神社では「出産=穢れ」とされ、出産前に制作を終えないと「馬の像」を納品できなかったのです。そこで作業後に弥七朗は、出産が遅れるよう出雲大社で祈りました。こうした祈りが通じ、出産は予定から3ヶ月も遅れ、無事に「馬の像」を納品できました。それに加え、安産で生まれた子は、往時では珍しい丈夫な子に育ったそうです。こうしたことから、「神馬」は子宝・安産のご利益があると広まったようです。 -
奉納絵馬
出雲大社は、何故縁結びの神様なのでしょうか?
出雲大社に祀られている大国主神は「縁結びの神」として知られていますが、実は男女の縁だけでなく、あらゆる繋がりや縁にご利益があります。2014年には、高円宮家の典子さまが出雲大社権宮司 千家国麿さんとご結婚されたことも話題になり、近年は「ヒーリングスポット」としても人気の地になっています。近年、パワースポットとして特に女性から高い支持を得ていますが、その理由は次のようなものです。
国譲り後、天津国の神々が人間界の政治を執行すると取り決められました。逆に、人間界を司っていた大国主神は天津国の政治を任されました。天津国(=神の世界)は幽世(かくりよ)と呼ばれ、幽世の政治を「幽れたる神事」と言い、万物の結びの取り決めを司りました。旧暦10月には全国の神々が出雲に集まり、隠れた神事を行ないます。その中には男女の縁も含まれ、出雲大社は縁結びの神様として信仰されるようになりました。
以上は表向きの理由ですが、裏の理由もあります。『記紀』に記されていますが、大国主神は恋多き神としても知られ、八上姫や須勢理比売、奴奈川姫、多紀理比売など、多くの姫神と恋に堕ち、180もの子をもうけたと伝わります。こうした神話から恋愛運が強いと解釈され、縁結びの神様と認識されています。 -
境内
「出雲大社」には大国主神の他に天照大神や須勢理比売命などの女神様も祀られています。しかし、その女神様は気性が激しく嫉妬深いため、カップルで「出雲大社」に参拝するとそのカップルは別れるという都市伝説もあります。これも、出雲大社の謎のひとつとされます。伊勢神宮にも同様の言い伝えがありますが…。 -
拝殿
1519年、戦国武将 尼子経久により拝殿「鑽火殿(さんかでん)」が造営されましたが、1953年の正遷宮奉祝の際、不慮の火災で焼失しました。現在の拝殿は、1959(昭和34)年に再建されたものであり、戦後の本格的な木造建築として屈指の規模を誇るものです。
ここでは、参拝者の祈祷や古伝新嘗祭等のお祭の他、様々な奉納行事が行われています。
珍しいのは、二拝・四拍手・一拝の作法(正確には一拝・祈念・二拝・四拍手・一拝)で拝礼することです。一時は明治政府の方針で全国統一の作法(二拝二拍手一拝)に統一されましたが、昭和時代に自由化されて元の作法に戻しました。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であり、創建以来、天照大神の子 天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきました。
二拝四拍手一拝の「四拍手」の理由にも諸説あります。
1.「四」は「シ」であり「死」に通じる。(大国主封印説)
2.幸せの「し」だから四拍手。
3.左を向いている大国主神によく聞こえるように.
4.人や神の魂は、「和魂」、「荒魂」、「奇魂」、「幸魂」の4種類があり、この4つの魂にそれぞれ柏手を打っている。
二拝二拍手一拝が全国統一されたのは明治時代のことであり、それまでは全国の神社で二拝、四拝、八拝と様々な参拝方法があったそうです。ですから、出雲大社だけが四拍手なのではなく、宇佐神宮(大分県)や弥彦神社(新潟県)でも四拍手ですし、伊勢神宮でも参拝者はしませんが八開手という作法があります。 -
拝殿
注連縄は神楽殿より小振りながら、重さ1トンあるものが下げられています。その下にいる人と比べるとその大きさが判ります。
拝殿の設計は、神社建築学の権威 福山敏男博士が担いました。大社造と切妻造の折衷様式となっているのが特徴です。屋根は銅板葺ですが、木曽檜材を用いた木造建築で、建坪485平方m(約147坪)、高さ12.9mあります。
宇豆柱の礎石には、愛知県産の岡崎石(重量13トン)が運ばれ、工事請負は桃山時代から棟梁家として続いた伊藤平左衛門氏が担いました。また、拝殿の錺金具も美術的価値のあるものにしたいとの意向から、東京芸術大学 山脇洋三・若林作司両教授に設計を委託しています。 -
拝殿
拝殿の裏側の様子です。
戦後の歴史学は皇国史観に利用された神話を排除してきましたが、近年、神話を見直す気運が高まり、遺跡空白エリアの出雲にも考古学的な大発見がありました。奇しくも、2013年に出雲大社と伊勢神宮の遷宮が重なったことで衆目を集め、史学的な成果や神話から「出雲=邪馬台国」と豪語する研究者も現れたほどです。
神話では、「天岩戸⇒素戔嗚尊の八岐大蛇退治⇒大国主の国造り⇒大国主の国譲り⇒天孫降臨⇒神武東征」と展開します。明確なのは、『記紀』は「神代」の伝説としながらもヤマト朝廷の前政権の存在を暗示していることです。出雲にはヤマト政権が無視、抹消できないほどの史実が残されていたに違いありません。その歴史の大部分は勝者によって抹殺されてしまったのですが…。 -
八足門(重文)
拝殿の北側、正面の石段の先に八足門があります。一般の参拝は、正月三が日と特別なことがない限りこの先へは立ち入れません。
この門は1667(寛文7)年の造営の際に建立され、門内部の鴨居部分上部の蟇股や欄間などには、流水を基調とした中に紅葉や桜、鳥など花鳥風月が散り嵌められています。柱には木目の美しいケヤキ材を用いるなど、豊かな装飾に彩られた門です。 -
「宇豆柱(うづはしら)」の痕跡
地面にある茶褐色の3つの円に注目です。これは「隠れミッキー」ではありません。出雲大社は、鎌倉時代には高さ48mもある神殿が造られていたとされ、その時の柱の痕跡です。大きな神殿が実在していた証と言えます。
この3つの円形は、この場所で2000年に柱の遺構が発掘されたことを記念したものです。直径約1.35mもある巨木3本を束ねてひとつの柱にしたものです。合計9束の柱で本殿を支えていたとされる、鎌倉時代の「宇豆柱」の痕跡です。一説には、出雲大社本殿の高さは、太古は96m、中古(1248年頃)は48m(15階建ビルに相当)、近古には24mだったとされます。48mの高さは、『金輪御造営差図』と呼ばれる往時の平面図から推測されています。本殿に架けられた橋の長さは、1町(100m)を超えます。
諸説紛々であり、いずれも確証には至っていませんが、古来破格の高層建築であったことは間違いないようです。 -
八足門
平安時代(970年頃)の数え歌『口遊(くちずさみ)』には、「雲太、和仁、京三」という大きなものを順番に並べた歌詞があります。「雲太」は出雲太郎(=出雲大社)、「和仁」は大和二郎(=東大寺の大仏殿)、「京三」は京三郎(=平安京の太極殿)です。ひと昔前までは、学者の間では「これは数え歌の類で、子供が口ずさみやすい、語呂がよい言葉の組み合わせ」と片付けられていましたが、それを覆す事実がこの宇豆柱の大発見でした。
また、源経頼の日記『左経記』には、1031(長元4)年に「出雲大社本殿が風もないのに振れて倒れた」との興味深い記述があり、巨大建築の存在が窺えます。更に、1110(天仁3)年の「寄木の造営」の際、大社近くの海岸に流れ着いた大木100本をもって本殿を造営したとの伝承が残されています。流木の1本が長さ15丈、直径1丈5尺あったとされることから、少なくとも平安時代中期には16丈(48m)の高さを誇る出雲大社が存在したと考えられています。 -
八足門
八足門の先にあるのは古色蒼然とした楼門です。
では何故このように大きな神殿が必要だったのでしょうか?
諸説ありますが、一説には「国譲り」における交換条件のひとつだったということです。「出雲神話」では、葦原中原(地上)の主 大国主神が高天原の支配者 天照大神に葦原中原を譲るよう迫られます。この時、大国主神が国を譲る条件として提示したのが自らが住む宮殿の造営でした。その結果、建てられたのが「天日隅宮」もしくは「杵築の宮」と呼ばれる神殿で、後の出雲大社です。天孫が住むのと同等規模の宮殿を建て、幽世を司るために限りなく天に近づけようと高い位置に建造したと考えられています。出雲版、「バベルの塔」と言えるかもしれません。 -
八足門
彫刻は、流水の中で2羽の兎が戯れています。縁結びに因んで、「つがい」という設定なのでしょう。
椙山林継著『古代出雲大社の祭儀と神殿』には、「他の神社、例えば藤原氏などは春日大社の本殿をとびきり大きなものに造る力があった。でも作らなかった。それは自分たちの神社の本殿は別に小さいもので構わない、という認識があったのだろう。出雲大社については、国を譲られ、その地の本殿は高い建物だったのを見た大和政権が、国家の祀りとして立てるのだから、威信をかけて、他ではまねのできないようなとびきり大きなものを建てようとしたのではないか」と交換条件説を肯定されています。
一方、井沢元彦著『逆説の日本史1古代黎明編』では、天津国側が大国主神の祟りを恐れて大きな社殿で祀ったとの説を展開されています。井沢氏は、大国主神が天津国側(大和朝廷)との戦いで負け、自殺したか処刑されたことにより祟りが生じたとの仮説から、怨霊を封じ込めるために巨大な神殿を造営したと展開されています。 -
八足門
神紋は、「二重亀甲に花剣菱」です。しかし正確には亀が由来の亀甲ではなく、出雲で古来信奉されてきた龍蛇神を表す龍鱗紋であり、龍蛇神セグロウミヘビの尾に浮かぶ亀甲模様が原型です。
この「龍鱗花剣菱」紋は、今では出雲国造の紋のように扱われていますが、元々は出雲大社に遷座された大国主神の元宮「三屋神社」の神紋だったそうです。 -
八足門
彫刻は、流水に花です。蟇股は梅の花のようですが、鳥は何処かへ出かけているようです。
日本全国には、神社本庁管轄以外の社も含め30万もの神社が存在します。そのため神社にまつわる謎は星の数ほど存在しますが、その中で最もベールに包まれているのが出雲大社の御神体です。一般的には神様が宿る鏡や勾玉などの依代を御神体として祀ります。例えば、伊勢神宮の八咫鏡や熱田神宮の天叢雲剣、あるいは山や木といった森羅万象が御神体になりますが、出雲大社の御神体は封印されており、何が依代なのか謎なのです。
長い歴史の中では、そんな御神体を知ろうとした者がいました。
1031年:平安時代の貴族 源経頼が記した日記『左経記』には、風もないのに本殿が倒れた時、七宝の筥(はこ)が安置されていたと記されています。
1638年:郷土史『雲陽秘事記』には、松江藩初代城主 松平直政が参拝の折、御神体を強引に覗いた際、大きな9穴の鮑が祀られており、見た途端に18m程の大蛇となり、直政は畏れて逃げたとあります。
昭和初年頃:靖国神社宮司 加茂百樹著『神祇回答宝典』には、出雲大社の御神体は「鏡」と記されています。 -
八足門
彫刻は、流水にもみじです。蟇股は山鳥に梅の花です。
平成の大遷宮で御神体も遷移されましたが、御神体は御輿の中にあり、その御輿も絹垣と呼ばれる白い布で覆われて中を窺い知ることはできませんでした。しかし、搬送の様子から、「重いもの」と大方の見当がつきます。剣や勾玉、八雲山を御神体とする説もありましたが、いずれでもないのは自明です。
個人的には、「亀石」説が有力と思っています。元々出雲大社は亀と由縁が深く、神紋は亀甲です。次に、八雲山を中央にして左側には鶴山が右側には亀山が鎮座します。また、『因幡の素兎』が和邇(わに)の背を伝って海を渡った話がありますが、和邇は鮫と解釈されていますが、古代は亀を和邇と呼んでいたようです。更には、亀に蛇が巻き付いたものが「玄武」ですが、出雲大社の神使は海蛇です。以上に加え、加茂岩倉遺跡から発掘された出雲固有とされる銅鐸には、「海亀」が描かれているのです。 -
八足門 釘隠し
六葉釘隠しは、葉と葉の間に「猪目(いのめ)」と呼ばれるハート型の隙間ができています。良縁にあやかりたい方なら、このハートに心ときめかすかも知れません。彫金文様はシンプルなものです。
決定的なのは、日御碕にある海底遺跡から人工的に手を加えたと思しき「亀石」が発見されたことです。その付近には玉砂利を敷き詰めた洞窟もあり、880年の出雲地震で沈んだ神社とも考えられています。日御碕は、『出雲国風土記』の冒頭を飾る「国引き」神話では、朝鮮半島の新羅から引いてきたとされます。また、近くの経島は今でも神域で立入禁止ですが、往時は陸続きであり、この地が祭祀の場所だったようです。何らかの目的で御神体の「亀石」の代わりに岩を刻んで祀ったとは考えられないでしょうか?
ここで郷土史『雲陽秘事記』の記録と照合すると、「九穴の鮑」の「九穴」は一般に口・両眼・両耳・両鼻孔・尿道口・肛門の総称とされ、顔や体の一部を指します。鮑から顔や手足が出たものと言えば、まさに亀そのものです。海と深い所縁を持つ古代出雲族は、亀石を御神体に祀り、海蛇を神使にすることで海の怒りを鎮めようとしたのではないのか…。 -
楼門(重文)
本殿の手前、八足門との間に佇むこの門は、高さ7.3mの白木造とし、組物を巧みに用い、八足門と共に装飾性に富む建造物です。1667(寛文7)年の造営遷宮で建てられたものを延享の造営(1744年)の際にここへ移築したものとされます。因みに、楼門とは1階の部分に屋根のない2階造の門を言います。
屋根は格式の高い入母屋造に檜皮葺、初層部の間口は1間で残りの2間を左右に割り振る三間一戸の構造です。出組は楼門建築ならでは巧みさを魅せ、初層には江戸時代中期の特徴を示す蟇股、2層目には間斗束ではなく撥束(ばちづか)を用いています。 -
本殿(国宝)
流麗な屋根の曲線に沿って鮮やかに輝く緑青と金、黒の模様と棟飾りは、遷宮の際に「ちゃん塗り」という伝統技法で再塗装された部分です。エゴマ油、石灰、松ヤニ、鉛を混ぜた塗料を用いる「ちゃん塗り」は、銅板を保護するための塗装です。千木や勝男木などの棟飾りには油煙(炭)を混ぜた「黒ちゃん」、破風板の錺金具には緑青を混ぜた「緑ちゃん」が塗られ、破風板や鬼板の御神紋は鍍金をした後に地を「黒ちゃん」で塗っています。
ちゃん塗りは、漆喰塗装の代替えとして18世紀初頭に全国に普及した塗装手法とされ、渡来の油性塗装です。千木や勝男木などの「黒」と破風の「緑青」、真新しい檜皮の「茶」のコントラストが甦ったのは約130年ぶりのことだそうです。 -
観祭楼及び廻廊・西廻廊(重文)
八足門の両側に廻廊があり、東側には途中2階建となる観祭楼が付けられています。観祭楼2階は、畳敷きの部屋が2室あり、朝廷や幕府、藩の要人が南側境内(拝殿西側)にあった舞台を望めるようになっています。そうしたこともあり、良質の材料が潤沢に用いられています。屋根は入母屋造、檜皮葺で、廻廊も檜皮葺です。 -
末社 東十九社(重文)
瑞垣を反時計回りに進むと、長屋のような社殿があります。十九社といい、本殿を挟んで東西に対峙し、それぞれ十九の部屋が連なるのが名の由来です。1809(文化6)年に建造されたもので、多くの部材にモミの木が使われています。通常、建材にモミが使用されるのは珍しく、出雲大社境内でもこの十九社だけだそうです。
「神在月」の神在祭の間(旧暦10/11~17)は全ての扉が開かれ、八百万の神々が宿泊する神殿になります。神無月には全国的にお祭りが多く、その場に神が不在というのは不自然ですが、神無月伝説が全国でまかり通るのは出雲大社の営業力に負うところが大きいのかも知れません。 -
末社 釜社(かまのやしろ)
創建年は、1667(寛文7)年とされます。門神社の造りに似ていますが、この釜社は欄干と縁が御神体を安置する母屋を廻っています。社格は末社であり、末社の中で釜社にだけ欄干と縁が据えられているのは重要度が高い証左です。
祭神は、素戔嗚尊の子神「女神 宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」です。この辺りの北山山地を宇迦山と呼びますが、宇迦之御魂は稲荷神であり、食物を司る神です。商売繁盛の「お稲荷さん」としても信仰され、京都伏見稲荷大社の主祭神です。
出雲大社ではこのように神釜を宇迦之御魂神と伝えますが、稲荷神を稲荷神が廻ることはあり得えず、「釜」は素戔嗚尊のアトリビュートでもあり、素戔嗚尊の分身と捉えるのが素直です。末社としては造りが格調高いのは、その証左と言えます。
「古伝新嘗祭」では、ここから御釜を拝殿まで運んで「御釜神事」を行います。古伝新嘗祭は、出雲国造の霊力を蘇らせる神事であると共に、神職が御釜の周りを巡る「御釜神事」によって五穀豊穣への感謝と、豊作を祈願するものです。 -
本殿
「天下無双の大廈(たいか)」と称えられる本殿は、悠久の歴史の中で造営遷宮と修造遷宮を繰り返し、今にその姿を受け継いでいます。現在の本殿は1744(延享元)年に造営されたもので、1952(昭和27)年に国宝に指定されました。
本殿の高さは8丈(24m)にも及び神社としては破格の大きさです。
白木を用いた日本最古の神社建築様式「大社造」は、伊勢神宮の「神明造」と共に神社建築の2大源流です。大社造は古代の住居様式、神明造は古代の高床式倉庫がルーツだとされます。本殿の特徴は切妻造、妻入(妻側に入口)の構造にあり、9本の柱が田の字型に配置された畳敷きの正方形の間取り(約15畳X4部屋)をした出雲地方独特の建築様式です。出入口側(南側)から見て正面と背面の中央には棟を支える宇豆柱(うずばしら)を立て、そのため中央に戸口が造れず、東側の間に御扉(みとびら)、15段の木階(きざはし=階段)、階隠(はしかくし=階段上の傾斜した屋根)を設けています。 -
摂社 天前社(あまさきのやしろ)・御向社(みむかいのやしろ)(重文)
本殿の手前右側に摂社2社が佇みます。
手前が「神魂伊能知比売神社(かみむすびいのちひめのかみのやしろ)(天前社)」で、大国主神が兄弟の八十神に殺されかけた時、彼を助けた2女神「蚶貝比賣命(キサガヒヒメノミコト)」と「蛤貝比賣命(ウムガヒヒメノミコト)」を祀っています。大国主神を治療して助けたことから、「看護の神様」として信仰されています。
奥は「大神大后神社(おおかみおおきさきのかみのやしろ)(御向社)」で、大国主神の正妻で素戔嗚尊の娘「須勢理比売命(スセリヒメノミコト)」を祀ります。大国主神の国造りを助けた女神とされます。しかし、須勢理比売は架空の神であり、本来は向家の祖神を祀る場所だったとも伝えます。
ここからは見られませんが、本殿の左側(西側)にも宗像三女神の長女「多紀理毘売命(タキリヒメ)」を祀る「筑紫社(ちくしのやしろ)」があります。いずれも、瑞垣の外から拝礼します。
これらの3社は、脇宮3社と呼ばれ、形と大きさが同じです。社殿の形式は本殿に似ていますが、正面の宇豆柱がなく、御扉、木階、階隠が社殿の中央にあるのが特徴です。いずれも1744(延享元)年の造営で建てられたものです。 -
瑞垣(手前)・玉垣(奥)(重文)
不思議なのは、本殿を囲むように2重の結界が張られていることです。何故ここまでガードを堅くする必要があったのでしょうか?まるで、大国主神を幽閉するかのようですが、結界を巡らせた理由は誰も判らないそうです。
第1の結界「瑞垣」は、主に杉材で作られた一周229mあるもので、「文化五年(1808)」の墨書が発見されています。風化の見える廻廊の柱に風化の少ない瑞垣の柱が添えられています。
瑞垣は八足門によって封じられ、その中には大国主神にまつわる女神を祀る天前社と御向社、筑紫社の3社が並びます。
本殿を囲む第2の結界が「玉垣」です。寛文の造営で建てられたもので、一周160mあります。ヒノキ材が使われており、構造等も複雑で丁寧な作りです。玉垣は本殿を取り囲み、妻たちが祀られた社と隔離しています。そしてこの玉垣は楼門によって封じられ、出雲大社宮司以外は中に入ることが許されません。 -
本殿(奥)
屋根は檜皮葺とし、緩く弧を描いた美しい曲線が流麗です。長さ121cmある檜皮を9mmずつずらして葺き、重なる部分が多いため檜皮葺の厚さは20cmにもなります。また、軒先の厚い部分は60~90cmもあります。それ故、檜皮の総重量は約40トン、総枚数は約64万枚にもなります。
見方によっては、この本殿は巨大な御輿を彷彿とさせます。それ故、「御輿=棺桶」といった梅原猛氏などの仮説から「怨霊封じ」と解釈されることもしばしばです。 -
本殿(手前奥)
内殿の中央には直径1.1mの心御柱(しんのみはしら)が立てられています。出入口(南側)から見て手前が下段、奥(北側)が上段とされ、下段の右側は板壁で仕切って目隠しし、その奥にある上段に御神体が鎮座する御神座を設えています。従って、御神座は本殿と同じ南向きではなく、西を向いています。
上段の前室には客座を設け、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の別天神5柱を祀ります。これらの神々は高天原の最高神であり、『古事記』では天と地が初めて分かれた時に最初に生まれたとされます。また、心御柱の近くの下段には大国主神の子 和加布都努志命(わかふつぬしのみこと=牛飼神)が祀られています。 -
本殿
通常非公開ですが、天井には5色の八雲の図「瑞雲」が描かれています。描いたのは、江戸時代の狩野派の絵師「黒田弥兵衛」との記録がありますが、別説では竹内随流斉甫記ともあります。何故、「瑞雲」が描かれているかは不詳ですが、千家尊統宮司著『出雲大社』には、「神がいます所は雲の上、あるいは雲の中、あるいは雲の下でも、人里はるかに隔てた雲居の辺だと信じられていたことを示す」と解説されています。
一方、「八雲の図」には、雲の数は7つしかありません。松江城の天主も意図的に真っ直ぐな屋根を配置せず、未完成の部分を残したと伝わります。完成(頂点)の後には転落しかなく、験を担いだとも解釈できます。完成は即ち崩壊、衰退へのはじまりでもあり、敢えて不完全にしておけば未来永劫栄えるとの考え方です。そう考えると、雲の数が足りないことや一雲だけ西向きである事にも合点がいきます。これらについては、松江市にある神魂神社の天井の雲が9つ描かれていることから、「1つの雲が神魂神社へ飛んで行った」と落語のような伝承もあります。また、「心(しん)の雲」の向きを違えているのは、遷宮斎行直前の午の刻(正午)、黒雲の部分に「心」入れという秘儀が行われたことから、ダルマの目入れのように最後に墨を入れて天下泰平など祈念する意味合いともされます。
因みに、出雲大社の後方の山は古来「八雲山」と呼ばれ、出雲大社の御神山として禁足地となっています。 -
本殿
「八雲の図」などの「八雲」の語源は、出雲の須賀に宮を造られた大国主神の父神でもある素戔嗚尊が詠んだ詩にその根拠を持つとも言われています。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る 其の八重垣を」 。
八岐大蛇を退治した後、助けた稲田姫を娶り、出雲の地に新居を構えた幸福の時を詠ったとされます。 -
文庫(ふみぐら)
北東の角に佇むのが文庫ですが、内部に入ることはできません。
創建年代は不詳です。方形造、越屋根付、木造平屋建、檜皮葺の古色蒼然とした白木造です。
一般的に「文庫(ぶんこ)」とは、書物や古文書などを収納する倉庫や収集された蔵書などを指します。出雲大社の文庫も、出雲大社に関係する歴史書や古文書、神道の書物などを保管する目的で造営されたものだと考えられています。
屋根が2重のため2階建に見えますが、これは「越屋根」と言い、1階建で屋根の一部を1段高くした構造です。採光や通風に適し、室内の湿気や熱を排出できるため室温を一定に保つことができます。つまり、書物などを収納する倉庫に用いる造りとしては最適と言えます。一方、欠点としては、造りが精巧でないと雨漏れし易いことが挙げられます。再建されたとは聞いていないので、欠点のない造りなのだと思います。 -
本殿
本殿を最も近くで拝見できる場所は北側になり、その大きさを実感できます。
特筆すべきは、今回の遷宮で「ちゃん塗り」が発見されたことです。修復前の銅板塗装は剥げ落ち、明治の遷宮の際に取り換えられたか、もしくは無塗装と考えられていました。しかし、職人さんの拘りが銅板の重なり部分に塗装の痕跡を発見し、色彩の復元に至りました。
塗料成分については、主成分がエゴマ油と判ったものの、他に何がどんな配合で混ざっているのかが判らず、試行錯誤に2年を費やしました。納期が押し迫ったある日、古文書の中に塗料の主成分や混入する材料の配合が記されているのを見つけ、タイムアップ寸前で再現に至っています。
職人気質が生んだ発見、並びに塗料の配合の試行錯誤など伝統的な技法を後世に受け継いでいくという「遷宮の本質」が、ちゃん塗りの再現を可能にしました。先人から引き継いだものを次世代に遺していく。言葉にするのは簡単ですが、それを実現するためには気の遠くなるような地道な努力があったことを忘れてはなりません。祭神と共にこうした技術者魂へも礼拝したいものです。 -
白兎の像
本殿の背後には、本殿を拝む2羽の白兎の像が安置されています。
1890(明治23)年、小泉八雲は外国人として初めて出雲大社の本殿へ昇殿することを許されています。国造 千家専紀宮司の取り次ぎによる正式参拝でした。八雲から見た千家宮司の印象は、「古代ギリシアの神官のように泰然と畳の上に坐した、古の名高い王侯貴族を思わせる姿であった」と記しています。 -
本殿
屋根の棟の上には、長さ7.9m、重さ500kgもある2組の置き千木があります。 千木に開けられた穴は、大人が潜り抜けられるほどの大きさとされ、本殿のスケールが想像できます。千木の穴には、風圧を逃がして社殿を守る役目があると考えられています。
因みに、置き千木は「呪い(まじない)」の一種ともされます。千木は「外削ぎ」で、「男性神」とされます。また、勝男木は3本あり、奇数は「男性神」を表しています。 -
摂社 素鵞社(そがのやしろ)(重文)
本殿の真裏には、素戔嗚尊を祀る「素鵞社」が鎮まります。
『記紀』に大国主神の父神と記された素戔嗚尊を祀る社は、聖域である八雲山の麓の小高い位置にあり、大社本殿を見下ろすように建っているのが象徴的です。『古事記』では、大国主神は直接の子神ではなく素戔嗚尊の子孫となっていますが、素戔嗚尊の娘 須勢理比売を正妻に迎えたとあり、大国主神の義父に当たる神です。また、天照大神の弟神で、神話「八岐大蛇退治」で知られる神でもあります。
延享の造営で建てられた社ですが、拝礼後、後方に回り、社に肩を当てる肩こりが治るそうです。 -
摂社 素鵞社
一方、摂社に過ぎないはずの社が、荘厳な神気に包まれる佇まいには違和感があります。その理由のひとつが、本殿裏にある磐座の存在です。そこには、八雲山の霊気が凝縮したような苔生した大岩が存在感を顕わにしています。
また、この社には、稲佐の浜から持ってきた砂をお供えし、他の人が供えた砂を持ち帰り、家の4隅の置いておけば家を守ってくれるという伝承があります。 -
彰古館(登録有形文化財)
1914(大正3)年、出雲大社の宝物館として造営された建物です。水はけをよくするために石積「亀甲積基壇」の上に建てられた木造2階建、入母屋造、銅板葺の館です。正面中央に一間切妻造の玄関を設け、2階には縁高欄を廻しています。
外観は、境内の社殿群の造りに合わせて杉材を用いた白木造です。特徴的なのは、屋根の先を反らせた「軒反り」が優美なことです。「軒反り」は寺院の建物に多用されている造りであり、神社の代表格の建造物とは思えない仏教的な要素を纏った建造物です。
有料ですが館内を見学できます(土日、祝日のみ開館)。館内には「大小の大黒様の像」や「えびす様の木造彫刻」、「神楽用の楽器類」、「出雲大社の1/30分のサイズの模型」、その他、神社に伝わる古文書類も多数展示されています。 -
本殿
『古事記』には、「出雲乗っ取り」の話が繰り返し述べられています。「国譲り」では、出雲神は天孫神から出雲を渡すよう迫られ、この屈辱的な要求を泣く泣く呑んでいます。大国主神は天皇と同規模の宮殿を建てる条件で幽界に去り、その子 事代主神は呪術的な仕草を伴って海の藻屑と消えました。また、もうひとりの子 建御名方命は信州の諏訪まで逃げ落ち、「この地から出ないから殺さないでくれ」と服従したと伝えます。
崇神天皇の時代には疫病や天変地異が起こり、出雲神 大物主神(大国主大神)の仕業と記されています。祟りと言うのは、ヤマト創建に貢献した出雲がヤマトに対し何らかの恨みを抱いていたことの証左です。また、その後、出雲が歴史の表舞台から忽然と消えたのも極めて自然です。 -
本殿
「出雲大社は怨霊を鎮める神社」との説が流布されています。実は、その裏付けとして中国の史書に倭国は2世紀後半に大きな戦があったと記されています。例えば、『魏志倭人伝』には「倭国乱れる」、『後漢書』には「倭国大いに乱れ何年も主がいなかった」と記されています。また、それを示唆するかの如く、出雲大社から110km程離れた鳥取県青谷上寺地遺跡では5300点の人骨が見つかり、その内110点の人骨に矢じりなどが突き刺さった殺傷痕が認められています。こうした事実から、出雲国を巡って覇権争いがあったことは否めません。ですから、円満な「国譲り」ではなかったと想像するのは難くありません。 -
楼門
『日本書紀』には、斉明天皇の時代にも出雲の祟りがあり、「神の宮」を修繕させたと記しています。こうしたことから、現在にも広く伝わる大国主信仰は、菅原道真が天満宮に祀られたように「畏れ」起源によるものとも考えられます。道真のように無実の罪であったり、非業の死を遂げた者が祟ると考えられていたからで、大国主神の場合も神話が伝えるような平和的な「国譲り」ではなかったと思えるからです。 -
宝庫(重文)
江戸時代中期の1667年に創建された建物です。桁行正面一間、背面二間、切妻造、向拝一間、檜皮葺の白木造の素朴な建物です。
古来御神宝は本殿に奉納収蔵され、宝物はこの宝庫に収蔵されていました。
「怨霊説」は以前からあった伝承ですが、世間に広まったのは井沢元彦著『逆説の日本史1古代黎明編』の影響と思われます。「出雲大社は大怨霊オオクニヌシを封じ込めた神殿である」というのが井沢氏の結論ですが、その論拠として以下を挙げています。
1.出雲大社の本殿が日本で一番大きな建物であった。
2.神座が横を向いている。
3.本殿の5人の客神はヤマト系の神で、オオクニヌシを監視している。
4.注連縄が一般の神社と逆の張り方をしている。
5.四拍手である。
6.出雲の「雲」は死の象徴である。
7.亡ぼしたオオクニヌシが祟らぬよう丁重に祀らなければならなかった。三輪山がその例である。
「怨霊説」の信憑性を高めるため、こじつけとも取れる理由を羅列されたことが逆に破綻を招いている気がします。そもそも神社の性格は「祟り封じ」であり、そうした意味合いを持つのが一般的です。ですから、何故このようなスケールの大きな社が「祟り封じ」のために必要だったかが謎の本質と言えます。逆に言えば、ヤマト政権がそれほどアコギな裏切り行為をしたという証左です。 -
本殿(奥)
本殿に鎮まる御神体の真西には、このように質素な拝所が設けてあります。本殿に祀られる御神体は西向きで稲佐の浜の方角を向き、拝殿(南)から参拝すると神様の左横顔を拝む形になります。ここからなら真正面に御神体を拝むことができ、恐らくは本来の拝所なのでしょう。
御神体が西向きである理由の一般的見解は次のようなものです。
1.海や北九州との関係があるから。
2.本殿は古代の住居を現した「大社造」のため、正方形の部屋に仕切りを設けて逆コの字形にし、入口から最も奥まった部屋を上座としたから。
3.祟り神とされる大国主神を参拝者に拝ませたくないから。
4.大国主神は右耳が不自由なため、参拝者に左耳を向けている。
5.背後にある素鵞社には父神の素戔嗚尊が祀られており、それに背を向けるのは不謹慎だから。
因みに、島根半島の稲佐の浜は、「国譲り」の交渉が行なわれた地とされます。高天原の天津神の使者 武御雷神が降臨した場所であり、大国主神は今でも高天原から使者がやって来るのを待っているかのようでもあります。
また、稲佐の浜は「神在祭」の時に全国の八百万の神様が出雲に来るための入口でもあり、幽世を司り、神在祭ではホストに当たる大国主神が入口を向いて神々を出迎えることは何の不自然さもありません。 -
摂社 氏社(重文)
氏社は南北に2つ並んでいます。いずれも、江戸時代中期の1667(寛文7)年頃の創建とされ、切妻造、檜皮葺です。
手前の北側氏社の祭神は、天照大神の第2子である天穂日命(アメノホヒノミコト)です。「国譲り」の使者として出雲国に派遣されたのですが、逆に大国主神の家来になり、高天原へは復命しなかったそうです。
奥の南側の祭神は、天穂日命の子孫で17代目に当たる宮向宿彌(ミヤムキノスクネ)です。宮向宿彌は19代 允恭天皇から「出雲臣」の姓を下賜され、その子孫は出雲大社の宮司家(現 千家家)として今日に至っています。つまり、宮向宿彌は出雲国造家の始祖ということになります。
解体修理中の氏社の屋根から「東側御向」、「東門神」と墨書された材料が発見され、延享の造営時に瑞垣内の社の材料をリサイクルしていることが判明しています。
その先に連なるのが、末社 西十九社(重文)です。 -
摂社 筑紫社(重文)
雲が湧き出でて、「神寂びる」という言葉が似合う風情です。
本殿の西隣(手前)にあるのが「神魂御子神社(カミムスビミコノカミノヤシロ)(筑紫社)」です。
大国主神の前王「天之冬衣(アメノフユキヌ)」に嫁いだ、絶世の美女と称された宗像三女神の長女「多紀理比売命(タキリヒメノミコト)」が祀られています。この神は神話では、天照大神と素戔嗚尊が誓いを立てた時に生まれた神とされます。福岡県の宗像大社に祀られている神であることから、筑紫社と称されています。
ご利益は、海上安全、航海安全、交通安全、漁業豊漁、五穀豊穣など様々なものがあります。
北九州の宗像族の始祖である「吾田片隅(アタカタス)」も、出雲王家の血筋だというのは興味深いところです。 -
本殿
出雲大社の御神体は、一説には「鉄の釜」との説もあります。
これは、「出雲の国造りを行ったのは韓国から渡来したスサノオ」とする『記紀』神話とは異なる伝承に基づくものです。スサノオは鉄の文化や稲作を伝えたことから「鉄の釜」を御神体とすることがあります。つまり、我々は「大国主神」ではなく、「素戔嗚尊」を拝んでいると言うことです。
これは、古代出雲王家の末裔「富家(向家)」の伝承に基づくものです。富當雄氏は司馬遼太郎著の随筆『生きている出雲王朝』に登場する方で、自称「大国主神の末裔」です。『出雲井神社古伝(富氏口伝)』によると、スサノオは実在の人物であり、元来の出雲族ではなく渡来人です。かつてスサノオと出雲族は覇権を争って戦い、スサノオが勝利して出雲族と混交したと伝えます。
スサノオは、紀元前2世紀頃、始皇帝の頃の秦国から出雲に渡来し、大名持であった八千矛命の娘 高照光姫を娶り、高照光姫は天香語山命(イソタケル)を産んだと伝えます。その後、秦国に戻ったスサノオは、再び日本に渡来し、北九州で暮らしたと伝えます。
このスサノオに酷似した人物が「徐福」です。徐福は秦始皇帝に不老不死の薬を探しに行くと称して日本に亡命し、五穀を日本に伝えたとされます。また日本神話では高天原から新羅経由で日本に来たスサノオの髭は杉に、胸毛は檜に、尻毛は板(まき)に、眉毛は楠として植林したとあり、スサノオと徐福はことごとくイメージが重なります。(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』) -
本殿
出雲大社の創建は、富氏の伝承では716(霊亀 2)年 としています 。出雲国造が朝廷で奏上したとされる『出雲国造神賀詞』が伝承されており、この中に 「大穴持命 (大国主神 )杵築宮 (出雲大社 )に鎮まり坐しき 」と記されています 。この儀式は平安時代前期のものと推定されており、時代考証的には富氏の伝承に乖離は見られません 。
その後、神仏習合の影響で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と杵築大社 (出雲大社 )の関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社の神宮寺も兼ねました 。鰐淵寺を中心とした「中世出雲神話」では 、出雲の国引き ・国造りの神をスサノオとしており、中世~17世紀までは出雲大社の祭神はスサノオであったと考えられています 。この証左が銅鳥居に刻まれた文言になります。
寛文年間の出雲大社の遷宮時に出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛仏堂や仏塔は移築 ・撤去され、経蔵は破却されました 。これに併せて祭神はスサノオから、『記紀』の記述に合わせて大国主神に復したとされます 。もしこれが事実ならば、仏教の祭神がスサノオノだったことになります。 -
出雲大社全景
一方、富氏口伝では、鰐淵寺が唱えた「スサノオが出雲国を造った」とする説を否定しています。また、『記紀』は「スサノオは大国主神の父神」としていますが、それも否定しています。出雲国を造ったのは、古代インドから渡来したドラビダ族の末裔で、17代続いた王とその一族(向家と神門臣家)だと伝えます。
また、「スサノオ」の正体は、8代 八千戈王の頃に渡来した「徐福」だとしています。徐福は2度渡来しましたが、初回の上陸は出雲西岸、2度目は佐賀有明海沿岸と伝えます。日本への初上陸に先立ち、徐福の部下が上陸の許可を得るために八千戈王に謁見しました。それが出雲国造の祖と伝わる「天穂日(アメノホヒ)」とその息子「武夷鳥(タケヒナドリ)」と伝えます。
吉田大洋著『謎の弁才天女』には、富當雄氏が亡くなる数日前に遺した言葉が記されています。それが、「我々の大祖先はクナト大首長(岐神)、そして女首長はアラハバキ(荒吐神)。体制側によって祖先が抹殺されようとした時、クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天に変身した」。こちらも神話に近いものと言えますが…。 -
神楽殿
ここも大国主神を祀っています。
元々は千家國造家の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていました。明治時代に出雲大社教が設立されて以降は大社教の神殿としても使われ、現在では国造家大広間や出雲大社・大社教の神楽殿として御祈祷や結婚式をはじめ、様々な祭事行事に使われています。
尚、殿内は撮影禁止です。また、神楽殿の横には「鏡の池」があり、5月には藤が美しい花を咲かせるそうです。 -
神楽殿
正面の大注連縄の太さは両手を広げても余りあり、全長13.5m、重量4.4トンに及びます。この大注連縄は痛みが激しくなると懸け替えられます。奉納されたのは、島根県飯南町「大しめなわ創作館」です。強くしなやかに育った飯南町産の稲藁を使い、10名程で作られています。 -
神楽殿
一般的には注連縄は神様に向かって右方を上位にして綯うそうですが、出雲大社では古来その逆、左方を上位、右方を下位として綯う習わしがあり、「大黒じめ」と呼ばれる珍しいものです。
出雲大社のHPにその由来が載せられています。
1.本殿内に祀られている客座五神の上位「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」が左に御鎮座されている。
2.江戸時代の祭事の記録には、お供え物をする際の上位は左側、下位が右側とされている。
井沢元彦著『逆説の日本史1』では、「出雲大社は大国主鎮魂のための神社」であるのが理由と記しています。井沢氏は、大国主神に死んだことを気付かせるためであり、「大社は『死の宮殿』であるからこそ注連縄は『この世の神社と正反対』」と推論されています。梅原猛著『隠された十字架 法隆寺論』の2番煎じのような仮説ですが、調査不足の推論であることは否めません。実はこうした注連縄は、日御碕神社(出雲市)や大山祇神社(愛媛県)、津島神社(愛知県)などにも存在します。インパクトのある興味深い仮説ですが、類例があるのですから推論は破綻しています。 -
神楽殿
扁額には「神光満殿(しんこうまんでん)」とあります。
神の光で満ち足りている様子を言い、殿内にはそうした採光が満ち溢れています。 -
神楽殿
1981(昭和56)年に出雲大社教が創立100年を迎えた折、神楽殿として規模を拡張して建て替えられました。
大広間は270畳あり、神社建築には珍しく正面破風(屋根の三角形の部分)装飾に瑞雲の形をした幅7m、高さ2mの壮大なステンドグラスを嵌め込んでいます。 -
神楽殿
背後には出雲大社宮司家の祖先神や天満宮などを祀った鎮守社が並び、国旗掲揚塔の南には祓社、金刀比羅宮が並んで鎮まっています。 -
一の鳥居
二の鳥居まで戻ってまいりました。
一の鳥居は、出雲大社を熱心に信仰された実業家 小林徳一郎氏が1915(大正4)年に寄進されたものです。扁額の文字は、第80代出雲国造、出雲大社大宮司の千家尊福(たかとみ)氏の揮毫によるものです。 -
出雲 ひらの屋
二の鳥居の前にある道路を渡った直ぐ右手にあります。明治40年創業時は呉服屋を営んでいましたが、現在は商標「縁結び箸」で知られているお店です。
何故、縁結びなのかは、「出雲神話」に登場する「八岐大蛇伝説」に因みます。
天照大神の逆鱗に触れて高天原から出雲に追いやられた素戔嗚尊が出雲国に舞い降り、出雲平野に流れる斐伊川の畔を歩いていると、何かが上流から流れてくるのが目に入った。掬い上げるとそれは箸だった。上流に人が住んでいると思い、肥の河沿いに奥へと登っていく。川面に流れる「お箸」によって導かれた不思議な「縁」で稲田姫と出会い、八岐大蛇を退治して2人は結ばれ幸せになりました。
この神話から神在月に誕生したのが、ひらの屋の登録商標「縁結び箸」です。 -
出雲 ひらの屋
出雲大社でお祓いを受けた巨大な「縁結び箸」が目印です。身長よりも大きな「なで箸」です。
「縁結び箸」は、出雲神話をテーマにした土産品としてひらの屋が2005年に商品化したものです。その3年後に始まった出雲大社の「平成の大遷宮」を機に注目度が高まり、神門通りのこの店舗には年間約5万人が来店するそうです。
素戔嗚尊と稲田姫の出会いの原点の「箸」。2本で1膳という数え方にも深い意味があるお箸ですので、「縁結び箸」が出会いの「箸渡し」となるのかもしれません。
皆さんにも良いご縁がありますように…。 -
出雲 ひらの屋
ひらの屋の縁結び箸に描かれているこちらの文字は、左が「糸へん」、右側がひらがなで「ご・え・ん」という文字を繋げ、縁結び箸をお使いの方が「出雲のご縁」、すなわち男女・家族・仕事・健康など、目に見えない全てのご縁を結ぶ為の「出雲の会わせ文字」になっています。
お箸には、無料で2人の名前も入れていただけます。1膳でペアになるように2人の名前が入れられていました。 -
スターバックス出雲大社前店
参道入口の二の大鳥居から「神迎の道」を挟んで、右斜め前にあります。
2014年に島根県の2号店としてオープンしました。因みに、1号店は松江駅の商業施設にあり、2013年に島根県は日本で46番目にスタバができた県になりました。
外観は純和風とし、長屋風の建物の2階には格子戸が設けられ、1階の瓦屋根の軒の上に看板が掲げられています。アルファベットと瓦屋根のコラボは、今風に言えば「和モダン」と言えるかもしれません。
縁結びの神様として知られる出雲大社(=和)とスターバックス(=洋)との「縁結び」をテーマにインテリアをデザインしているそうです。意匠には、出雲大社からヒントを得た要素も取り入れられています。入口脇の縁側風ベンチシートは、和のテイストを感じさせます。 -
玉造温泉 竹野屋旅館
「ひらの屋」さんでBGMに竹内まりやさんの楽曲が流れていたため、この近所に彼女の実家があるのを思い出しました。私事で恐縮ですが、結婚式の新郎新婦入場では、まりやさんの『本気でオンリーユー(Let's Get Married)』に大変お世話になりました。
1877(明治10)年、初代当主 竹内繁藏氏が、出雲大社の門前町に参拝客を迎える温泉宿として「神々の国への玄関宿」をコンセプトに開いたのが竹野屋旅館の始まりです。創業140年を誇る圧倒的なスケールの老舗旅館の佇まいは、一見の価値があります。
二の鳥居から50m程の参道脇にあり、竹内まりやさんの実家としても知られています。かつては皇族をお迎えした皇室御用達の格式の高い旅館で、近頃何かと話題の沢田研二さんと田中裕子さん夫妻が披露宴を催した場所でもあります。
その竹野屋が、2016年秋にリニューアルオープンしました。一見、照明や設えで華やかに映る本館ですが、リニューアル前の建物の構造や躯体はそのままに門前町の町並みに溶け込んだ落ち着いた風情を湛えています。威風堂々とした建物の佇まいは、通りすがりの観光客も見入ってしまうほどの存在感があります。 -
玉造温泉 竹野屋旅館
4代目(竹内まりやさんの父親)までは土日は予約が取れないと言われた人気の老舗旅館でしたが、長男が5代目を継いでから転落が始まり、一時は旅館をたたむ寸前にまで至ったそうです。その理由は、「顧客ファースト」という考え方を忘れてしまったからでした。
そこに加えられた近年の大幅なテコ入れとリニューアルは、外観や内装だけでなく、人事も含む経営方針のリニューアルでした。2016年に兄弟の長女の娘婿が6代目となりましたが、リニューアルの経費は竹内まりやさんが負担されており、実質的オーナーは彼女のようです。
まりやさんは、平成の大遷宮が行われた2013年には故郷への思いを綴った唱歌『愛しきわが出雲』をプロデュースするなど、強い郷土愛を持たれています。また、2014年にリリースされた『TRADE』のジャケット写真は、竹野屋にある階段で撮影する拘りようです。
80年代の名曲『元気を出して』にある歌詞「チャンスは何度でも訪れてくれるはず…」を地で行くように、彼女は今日も旅館の再建に奔走されています。まさか、30年の時を経て自分への「応援歌」になろうとは思ってもみなかったでしょうが…。
次回の出雲旅行では、微力ながら支援させていただけたらと思っております。 -
マンホールのフタ
出雲大社をデザインするのが難しかったのか、人や車に踏まれるのはまずいと悟ったのかは不明ですが、出雲を代表する風景は「出雲日御碕灯台」のようです。
今回の旅行の最大のミッションである「出雲大社の謎解き」に挑んでまいりましたが、実感的には謎は更に深まったように思います。それと言うのも、出雲の歴史に史学者たちがまじめに取り組み始めてから日が浅いためです。史学は実証主義というか史料至上主義の塊です。その弊害との声も聞こえますが、都合のよい事実だけを紡いで史実をでっち上げても無意味です。科学同様に仮説を立ててそれを地道に実証していくことが重要と思います。新たな発見があれば加速度的に出雲の謎は解明されていくのではないかと、今後の調査に期待する次第です。
この続きは、萬福笑來 山陽・山陰紀行⑧松江城・茶房「喫茶 きはる」でお届けします。
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