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島根県出雲市にある日御碕に鎮座する神社です。<br />式内社で旧社格は国幣小社ですが、社領は出雲国内で杵築大社(出雲大社)に次ぐ規模を誇りました。出雲大社の「祖(おや)神様」として格が上であり、地元をはじめ全国から崇敬を集め、通称「みさきさん」と呼ばれています。<br />奈良時代に編纂された『出雲国風土記』には「美佐伎社」、平安時代の『延喜式』には「御碕社」と記されている古社です。時代が下って国家守護の宮として「日」の字を村上天皇より賜り、「日御碕大神宮」と称せられるようになりました。<br />下の宮「日沈宮(ひしずみのみや)」(沈は正しくはさんずいに冗)と上の宮「神の宮(かんのみや)」という上下2社からなり、両本社を総称して「日御碕神社」と称します。別々の建物が並ぶ形式は、出雲地方でも特異な構成とされます。日沈宮、神の宮ともに拝殿、本殿の構成を地形に合わせ、高低差を巧みに利用した配置です。<br />主祭神には、天照大神と素戔嗚尊を祀ります。天照大神の和魂(にぎみたま)と素戔嗚尊の奇魂(くしみたま)の霊威による神徳は、商売繁盛、火防守護、金運招福、諸願成就、安産祈願、五穀豊穣、縁結びなどに霊験あらたかです。出雲國神仏霊場20番でもあります。 <br />神社を紹介されているHPです。<br />http://www.izumo-shinwa.com/spot_dtl_hinomisaki.html

萬福笑來 山陽・山陰紀行⑥出雲 日御碕神社

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2019/01/30 - 2019/02/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

島根県出雲市にある日御碕に鎮座する神社です。
式内社で旧社格は国幣小社ですが、社領は出雲国内で杵築大社(出雲大社)に次ぐ規模を誇りました。出雲大社の「祖(おや)神様」として格が上であり、地元をはじめ全国から崇敬を集め、通称「みさきさん」と呼ばれています。
奈良時代に編纂された『出雲国風土記』には「美佐伎社」、平安時代の『延喜式』には「御碕社」と記されている古社です。時代が下って国家守護の宮として「日」の字を村上天皇より賜り、「日御碕大神宮」と称せられるようになりました。
下の宮「日沈宮(ひしずみのみや)」(沈は正しくはさんずいに冗)と上の宮「神の宮(かんのみや)」という上下2社からなり、両本社を総称して「日御碕神社」と称します。別々の建物が並ぶ形式は、出雲地方でも特異な構成とされます。日沈宮、神の宮ともに拝殿、本殿の構成を地形に合わせ、高低差を巧みに利用した配置です。
主祭神には、天照大神と素戔嗚尊を祀ります。天照大神の和魂(にぎみたま)と素戔嗚尊の奇魂(くしみたま)の霊威による神徳は、商売繁盛、火防守護、金運招福、諸願成就、安産祈願、五穀豊穣、縁結びなどに霊験あらたかです。出雲國神仏霊場20番でもあります。
神社を紹介されているHPです。
http://www.izumo-shinwa.com/spot_dtl_hinomisaki.html

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム

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  • 大鳥居(重文)<br />御影石造の鳥居の前には朱色の欄干を持つ太鼓状の石橋が架けられ、鳥居を潜ると境内に入ります。<br />元々この鳥居は、昔の参道入口の宇龍にありましたが、1935(昭和10)年に現在地に移されました。移転の際に銘が発見され、1639(寛永16)年に徳川家光が寄進したものと判り、神社西の清江の浜入口に立つ家光寄進の鳥居と併せて国の重要文化財に指定されています。

    大鳥居(重文)
    御影石造の鳥居の前には朱色の欄干を持つ太鼓状の石橋が架けられ、鳥居を潜ると境内に入ります。
    元々この鳥居は、昔の参道入口の宇龍にありましたが、1935(昭和10)年に現在地に移されました。移転の際に銘が発見され、1639(寛永16)年に徳川家光が寄進したものと判り、神社西の清江の浜入口に立つ家光寄進の鳥居と併せて国の重要文化財に指定されています。

  • 境内案内図

    境内案内図

  • 和布刈神事(めかりしんじ)のレリーフ<br />参道の右手にあり、比較的大きなレリーフです。<br />和布刈神事は、「13代成務天皇6年(350年頃)1月5日の早朝、1羽のウミネコが未だ糊の滴る海謀を口にくわえ来て、宇竜港の権現島(蓬来島)頂上にある熊野神社(日御碕神社末社)の神社の欄干に掛けて飛び去ること3度、それを見た社人は不思議に思い、直ちに浄水で洗い神前に供えたところ、この海藻が和布(ワカメ)になった」という故事に倣って行なわれる神事です。<br />毎年旧暦1月5日に宇龍港の権現島に鎮座する熊野神社で行なわれています。「日御碕わかめ」は、この神事が終わってから初めて刈り取るしきたりになっています。<br />古来、日本では海藻は貴重な食料であり、ワカメは万物に先んじて旧暦正月に芽を出して成長し、自然に繁茂することから幸福を招くとされ、神聖視されてきました。また、縁起物として新年の予祝行事に重んじられ、神前に捧げてその年の無病息災や海上安全を祈る和布刈神事に用いられてきました。<br />和布刈神事は、山陰から福岡県北部にあるいくつかの古社で行われていたようですが、現在では日御崎神社や住吉神社(山口県下関市)、和布刈神社(福岡県北九州市)にしか伝承されていないそうです。

    和布刈神事(めかりしんじ)のレリーフ
    参道の右手にあり、比較的大きなレリーフです。
    和布刈神事は、「13代成務天皇6年(350年頃)1月5日の早朝、1羽のウミネコが未だ糊の滴る海謀を口にくわえ来て、宇竜港の権現島(蓬来島)頂上にある熊野神社(日御碕神社末社)の神社の欄干に掛けて飛び去ること3度、それを見た社人は不思議に思い、直ちに浄水で洗い神前に供えたところ、この海藻が和布(ワカメ)になった」という故事に倣って行なわれる神事です。
    毎年旧暦1月5日に宇龍港の権現島に鎮座する熊野神社で行なわれています。「日御碕わかめ」は、この神事が終わってから初めて刈り取るしきたりになっています。
    古来、日本では海藻は貴重な食料であり、ワカメは万物に先んじて旧暦正月に芽を出して成長し、自然に繁茂することから幸福を招くとされ、神聖視されてきました。また、縁起物として新年の予祝行事に重んじられ、神前に捧げてその年の無病息災や海上安全を祈る和布刈神事に用いられてきました。
    和布刈神事は、山陰から福岡県北部にあるいくつかの古社で行われていたようですが、現在では日御崎神社や住吉神社(山口県下関市)、和布刈神社(福岡県北九州市)にしか伝承されていないそうです。

  • 楼門(重文)<br />鳥居を潜った先には松林を背景に朱の楼門が鮮やかに映え、荘厳な雰囲気を湛えています。楼門の前に手水舎と社号標があります。<br />1644(寛永21)年21)に建てられた、三間一戸、入母屋造、柿葺の丹塗りの楼門です。蟇股には松竹梅や龍、虎、鳥などの縁起物が彫られています。

    楼門(重文)
    鳥居を潜った先には松林を背景に朱の楼門が鮮やかに映え、荘厳な雰囲気を湛えています。楼門の前に手水舎と社号標があります。
    1644(寛永21)年21)に建てられた、三間一戸、入母屋造、柿葺の丹塗りの楼門です。蟇股には松竹梅や龍、虎、鳥などの縁起物が彫られています。

  • 楼門 狛犬<br />楼門で睨みを利かせる寄木造の狛犬は、力強く逞しい造形ですが、風化が激しいのが残念なところです。<br />高さ2m程あり、双方とも角付きというのは珍しいものです。<br />安土桃山時代の作品です。

    楼門 狛犬
    楼門で睨みを利かせる寄木造の狛犬は、力強く逞しい造形ですが、風化が激しいのが残念なところです。
    高さ2m程あり、双方とも角付きというのは珍しいものです。
    安土桃山時代の作品です。

  • 楼門 狛犬<br />阿形は、舌までリアルに表現しており、獅子舞を彷彿とさせます。<br /><br />日御碕神社の縁起は、神代の時代に遡ります。出雲の国造りをした素戔嗚尊が「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏葉はこの神社がある「隠ヶ丘」に止まりました。そこで、素戔嗚尊の子孫「天葺根命(アメノフキネノミコト)」がこの地に素戔嗚尊を奉斎しました。<br />また「日沈宮」は、「日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん」との神勅により祀られたのが始まりと伝わります。伊勢神宮が「昼を守る神社」なら、日御碕神社は「夜を守る神社」と言うことです。平安時代末期(12世紀)には、すでに代表的な修験の場であったとされ、鎌倉時代以降は幕府の崇敬が篤く、戦国時代には藩主 堀尾氏の780石余の寄進、更に江戸幕府の600石の朱印領安堵と、社運盛んだったと伝えます。

    楼門 狛犬
    阿形は、舌までリアルに表現しており、獅子舞を彷彿とさせます。

    日御碕神社の縁起は、神代の時代に遡ります。出雲の国造りをした素戔嗚尊が「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏葉はこの神社がある「隠ヶ丘」に止まりました。そこで、素戔嗚尊の子孫「天葺根命(アメノフキネノミコト)」がこの地に素戔嗚尊を奉斎しました。
    また「日沈宮」は、「日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん」との神勅により祀られたのが始まりと伝わります。伊勢神宮が「昼を守る神社」なら、日御碕神社は「夜を守る神社」と言うことです。平安時代末期(12世紀)には、すでに代表的な修験の場であったとされ、鎌倉時代以降は幕府の崇敬が篤く、戦国時代には藩主 堀尾氏の780石余の寄進、更に江戸幕府の600石の朱印領安堵と、社運盛んだったと伝えます。

  • 楼門 狛犬<br />狛犬のタイプはどちらかと言えば威嚇型です。胸を前に大きく張り出し、顔付はいかめしく威厳をもって真っ直ぐ前を見つめています。そして筋肉質のマッチョな足が特徴です。コンデジなら格子の間から全景を撮影できたのですが…。<br />因みに、狛犬の阿吽像の配置も、通常とは逆にしています。<br />この後でレポしますが、注連縄や千木、勝男木も逆になっています。<br />他の神社とは違い、天上天下唯我独尊、我が道を行くといった矜持が窺えます。

    楼門 狛犬
    狛犬のタイプはどちらかと言えば威嚇型です。胸を前に大きく張り出し、顔付はいかめしく威厳をもって真っ直ぐ前を見つめています。そして筋肉質のマッチョな足が特徴です。コンデジなら格子の間から全景を撮影できたのですが…。
    因みに、狛犬の阿吽像の配置も、通常とは逆にしています。
    この後でレポしますが、注連縄や千木、勝男木も逆になっています。
    他の神社とは違い、天上天下唯我独尊、我が道を行くといった矜持が窺えます。

  • 末社 門客人(かどまろうど)社(重文)<br />参道を挟んで末社  門客人が対峙しており、境内を守護しています。通常、摂社や末社は本殿の脇や裏手にひっそりと鎮まりますが、ここでは楼門を潜って直ぐの所に堂々と構え、門衛の役割を担っています。つまり、「随神門」に当たります。一間社入母屋造、向拝一間、檜皮葺で、楼門や他の社殿と同時に建立されたものです。<br />祭神は、櫛磐窓神(クシイワマドノカミ)と豊磐窗神(トヨイワマドノカミ)ですので、随神門の随身と同じ「門神」です。2柱は天石門別神(アマノイワトワケノカミ)の別名とされ、天石門別神は『古事記』の天孫降臨の段に登場し、邇邇芸命(ニニギノミコト)が天降る際、三種の神器に常世思金神・天力男神・天石門別神を添えたと記され、「御門の神」とされています。<br />客人神は、「神社の主祭神に対してほぼ対等もしくはやや低い地位にあり、曖昧な関係にある神格」とされます。また、客人神とは、元々土着の地主神だった神であり、外来の邪霊を撃退する神と考えられています。つまり、出雲族がこの地にやってくる以前の地元神と考えられます。柳田国男氏も『石神問答』の中で、櫛石窓と豊石窓の2神を石神とし、土着の神と見做しています。

    末社 門客人(かどまろうど)社(重文)
    参道を挟んで末社 門客人が対峙しており、境内を守護しています。通常、摂社や末社は本殿の脇や裏手にひっそりと鎮まりますが、ここでは楼門を潜って直ぐの所に堂々と構え、門衛の役割を担っています。つまり、「随神門」に当たります。一間社入母屋造、向拝一間、檜皮葺で、楼門や他の社殿と同時に建立されたものです。
    祭神は、櫛磐窓神(クシイワマドノカミ)と豊磐窗神(トヨイワマドノカミ)ですので、随神門の随身と同じ「門神」です。2柱は天石門別神(アマノイワトワケノカミ)の別名とされ、天石門別神は『古事記』の天孫降臨の段に登場し、邇邇芸命(ニニギノミコト)が天降る際、三種の神器に常世思金神・天力男神・天石門別神を添えたと記され、「御門の神」とされています。
    客人神は、「神社の主祭神に対してほぼ対等もしくはやや低い地位にあり、曖昧な関係にある神格」とされます。また、客人神とは、元々土着の地主神だった神であり、外来の邪霊を撃退する神と考えられています。つまり、出雲族がこの地にやってくる以前の地元神と考えられます。柳田国男氏も『石神問答』の中で、櫛石窓と豊石窓の2神を石神とし、土着の神と見做しています。

  • 楼門<br />『記紀』神話をご存知の方は、何故、仲たがいした天照大神と素戔嗚尊が合祀されているか不思議に思われるかもしれません。2人の関係をダイジェストで紹介しておきます。<br />天照大神は、日本の国を造ったイザナギの左目から産まれた出来の良い子であり、イザナギに代わり高天原(天上界)で昼の世界を治めていました。それとは対照的に弟の素戔嗚尊は出来が悪く、粗暴が目に余ってイザナギにより国を追放されました。 <br />素戔嗚尊が「姉さんの所に挨拶に行こう」と高天原へ向かうと、天照大神は 「国を奪いに来たに違いない」と疑心暗鬼になり、男装&武装して出迎え 「挨拶に来た証拠を見せなさい」と問い質しました。素戔嗚尊は、「証拠はないけど子供なら生める」と 姉&弟で「子供生み対決」をする運びとなり、素戔嗚尊がこの勝負に勝ちました。しかし、勝ち誇って更に悪事を働く様子を見るにつけ、天照大神は素戔嗚尊が怖くなり天岩戸に隠れてしまいました。<br />天が暗くなり困り果てた他の神様は、天鈿女命( アメノウズメ)に陽気に裸踊りをさせて興味を引かせました。天照大神が戸を開けて外を覗いた刹那、力持ちの神様に連れ出され、天は再び明るさを取り戻しました。<br />一方、素戔嗚尊は沢山の品物を献上させられ、髭と手足の爪を切られた挙句、また追放されてしまいました。その後日談が出雲における八岐大蛇退治です。<br />この2大神が仲直りしたという逸話はどこにもないのですが、長い歳月を経て同じ神社で祀られているというのは、なんとも平和なことではありませんか!?<br />こうした観念は日本固有のものなのでしょう。

    楼門
    『記紀』神話をご存知の方は、何故、仲たがいした天照大神と素戔嗚尊が合祀されているか不思議に思われるかもしれません。2人の関係をダイジェストで紹介しておきます。
    天照大神は、日本の国を造ったイザナギの左目から産まれた出来の良い子であり、イザナギに代わり高天原(天上界)で昼の世界を治めていました。それとは対照的に弟の素戔嗚尊は出来が悪く、粗暴が目に余ってイザナギにより国を追放されました。
    素戔嗚尊が「姉さんの所に挨拶に行こう」と高天原へ向かうと、天照大神は 「国を奪いに来たに違いない」と疑心暗鬼になり、男装&武装して出迎え 「挨拶に来た証拠を見せなさい」と問い質しました。素戔嗚尊は、「証拠はないけど子供なら生める」と 姉&弟で「子供生み対決」をする運びとなり、素戔嗚尊がこの勝負に勝ちました。しかし、勝ち誇って更に悪事を働く様子を見るにつけ、天照大神は素戔嗚尊が怖くなり天岩戸に隠れてしまいました。
    天が暗くなり困り果てた他の神様は、天鈿女命( アメノウズメ)に陽気に裸踊りをさせて興味を引かせました。天照大神が戸を開けて外を覗いた刹那、力持ちの神様に連れ出され、天は再び明るさを取り戻しました。
    一方、素戔嗚尊は沢山の品物を献上させられ、髭と手足の爪を切られた挙句、また追放されてしまいました。その後日談が出雲における八岐大蛇退治です。
    この2大神が仲直りしたという逸話はどこにもないのですが、長い歳月を経て同じ神社で祀られているというのは、なんとも平和なことではありませんか!?
    こうした観念は日本固有のものなのでしょう。

  • 日沈宮(下の宮) 拝殿(重文)<br />楼門の真正面には下の宮「日沈宮」が鎮まります。こちらは天照大神を祀ります。日沈宮は、小野検校家の遠祖 天葺根命が天照大神の神託「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」を受け、紀元前536年に第3代 安寧天皇13年の勅命によって天照大神の御魂を清江の浜にある経島の百枝松を神木として祀り、開化天皇2年の勅命により神殿を創立したのが『出雲風土記』が記す「百枝槐社」です。その後、948(天暦2)年に村上天皇勅命により現在地に遷座しています。<br />「日沈宮」の名の由来は、「伊勢神宮が日の本の昼を守るのに対し、日御碕神社は日の本の夜を守る」との神勅を受けたことに因みます。

    日沈宮(下の宮) 拝殿(重文)
    楼門の真正面には下の宮「日沈宮」が鎮まります。こちらは天照大神を祀ります。日沈宮は、小野検校家の遠祖 天葺根命が天照大神の神託「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」を受け、紀元前536年に第3代 安寧天皇13年の勅命によって天照大神の御魂を清江の浜にある経島の百枝松を神木として祀り、開化天皇2年の勅命により神殿を創立したのが『出雲風土記』が記す「百枝槐社」です。その後、948(天暦2)年に村上天皇勅命により現在地に遷座しています。
    「日沈宮」の名の由来は、「伊勢神宮が日の本の昼を守るのに対し、日御碕神社は日の本の夜を守る」との神勅を受けたことに因みます。

  • 日沈宮 拝殿<br />神紋「三ツ柏葉」を刻んだお賽銭箱です。<br />日沈宮は、天照大神の神勅が降臨したと伝わる「経島」の方角を向けて建てられています。また、夏至の日没方向へ向けて、参道~楼門~日沈宮が一直線になる配置です。それはまた、冬至の日出方向へ真正面に対座していることにもなります。

    日沈宮 拝殿
    神紋「三ツ柏葉」を刻んだお賽銭箱です。
    日沈宮は、天照大神の神勅が降臨したと伝わる「経島」の方角を向けて建てられています。また、夏至の日没方向へ向けて、参道~楼門~日沈宮が一直線になる配置です。それはまた、冬至の日出方向へ真正面に対座していることにもなります。

  • 日沈宮 拝殿 だるまみくじ<br />相殿として、天照大神と素戔嗚尊の誓約により天照大神から生まれたと伝わる天津神の男神5柱(正哉吾勝尊(マサカアカツノミコト)、天穂日命(アメノホヒノミコト)、天津彦根(アマツヒコネノミコト)、活津彦根命(イクツヒコネノミコト)、熊野ク樟日命(クマノクスビノミコト))を祀っています。

    日沈宮 拝殿 だるまみくじ
    相殿として、天照大神と素戔嗚尊の誓約により天照大神から生まれたと伝わる天津神の男神5柱(正哉吾勝尊(マサカアカツノミコト)、天穂日命(アメノホヒノミコト)、天津彦根(アマツヒコネノミコト)、活津彦根命(イクツヒコネノミコト)、熊野ク樟日命(クマノクスビノミコト))を祀っています。

  • 絵馬<br />日御碕神社は戦国末期に一時衰退しましたが、元和年間に御碕神社の荒廃を嘆いた社僧 順式慶雄が社殿の修復を幕府に懇請した結果、日沈宮、神の宮ともに江戸幕府3代将軍 徳川家光の命により、松江藩主 京極忠高が奉行となって1634(寛永11)年に「日御碕の天下普請」として着手されました。忠高は途中で病死するも、代行した松平直政が1644年に完成させ、これが現在の社殿です。<br />両宮とも正面に拝殿を構え、背面にある平入の本殿との間を幣殿(繋ぎ役の建物)で結ばせた権現造(東照宮造)と呼ばれる社殿様式です。<br />規模から言えば日沈の宮の方が大きく、標高から言うと神の宮の方が高く、いずれにも敬意を払ってバランスを保つよう配慮されているのが窺えます。

    絵馬
    日御碕神社は戦国末期に一時衰退しましたが、元和年間に御碕神社の荒廃を嘆いた社僧 順式慶雄が社殿の修復を幕府に懇請した結果、日沈宮、神の宮ともに江戸幕府3代将軍 徳川家光の命により、松江藩主 京極忠高が奉行となって1634(寛永11)年に「日御碕の天下普請」として着手されました。忠高は途中で病死するも、代行した松平直政が1644年に完成させ、これが現在の社殿です。
    両宮とも正面に拝殿を構え、背面にある平入の本殿との間を幣殿(繋ぎ役の建物)で結ばせた権現造(東照宮造)と呼ばれる社殿様式です。
    規模から言えば日沈の宮の方が大きく、標高から言うと神の宮の方が高く、いずれにも敬意を払ってバランスを保つよう配慮されているのが窺えます。

  • 日沈宮 拝殿<br />日御碕神社の社殿の中でも最大の建物で、内部は上段の間と下段の間に分かれ、古文書には上段の間を「神楽所」と呼んだと記されています。<br />桁行五間、梁間六間、入母屋造向拝一間、唐破風造檜皮葺で、堂々とした佇まいです。屋根は檜皮葺、壁や木の切り口は白色をしており、柱や横木が丹塗りされた社殿は桃山時代の面影を色濃く残しています。半蔀(はじとみ)」は上半分を外へはね揚げるようにし、下部は嵌め込み式の蔀です。<br />左端にある白木の回廊は、左手に建つ祓所(重文)への通路となっています。<br />尚、正式参拝でないと拝殿には上がれませんのでご注意ください。

    日沈宮 拝殿
    日御碕神社の社殿の中でも最大の建物で、内部は上段の間と下段の間に分かれ、古文書には上段の間を「神楽所」と呼んだと記されています。
    桁行五間、梁間六間、入母屋造向拝一間、唐破風造檜皮葺で、堂々とした佇まいです。屋根は檜皮葺、壁や木の切り口は白色をしており、柱や横木が丹塗りされた社殿は桃山時代の面影を色濃く残しています。半蔀(はじとみ)」は上半分を外へはね揚げるようにし、下部は嵌め込み式の蔀です。
    左端にある白木の回廊は、左手に建つ祓所(重文)への通路となっています。
    尚、正式参拝でないと拝殿には上がれませんのでご注意ください。

  • 日沈宮 本殿(重文)<br />大きな蟇股と豪快な三手先の朱色の組物、整然と並ぶ垂木の金色の小口が構造的な美しさを生み出しています。日光東照宮に引き続いて幕府直轄工事として建築された、桃山時代の面影を残す精巧な権現造であり、豪壮な趣に溢れています。本殿の蟇股を中心とする彫刻は、竜虎をはじめ鶴亀や松竹梅、そして日光東照宮を彷彿とさせる「見ざる、言わざる、聞かざる」の3猿を象った彫刻が施されています。<br />また、立ち入ることはできませんが、本殿内陣の内壁や天井には、狩野派や土佐派の絵師による密画が描かれているそうです。

    日沈宮 本殿(重文)
    大きな蟇股と豪快な三手先の朱色の組物、整然と並ぶ垂木の金色の小口が構造的な美しさを生み出しています。日光東照宮に引き続いて幕府直轄工事として建築された、桃山時代の面影を残す精巧な権現造であり、豪壮な趣に溢れています。本殿の蟇股を中心とする彫刻は、竜虎をはじめ鶴亀や松竹梅、そして日光東照宮を彷彿とさせる「見ざる、言わざる、聞かざる」の3猿を象った彫刻が施されています。
    また、立ち入ることはできませんが、本殿内陣の内壁や天井には、狩野派や土佐派の絵師による密画が描かれているそうです。

  • 日沈宮 本殿「3猿」の蟇股<br />旅行ブログ等には、本殿に「3猿」の蟇股があるとは書かれているものの、その写真や場所は記されておらず、探すのに時間を要しました。今回のミッションのひとつが「3猿」詣ででした。<br />その蟇股は、拝殿を左から回り込んだ所から仰ぎ見られます。場所は、本殿の正面左側の蟇股になります。本殿の背丈が結構あるため、周りが暗い場合は肉眼では見難いかもしれません。<br />ひとつ前の画像の中央にある蟇股です。

    日沈宮 本殿「3猿」の蟇股
    旅行ブログ等には、本殿に「3猿」の蟇股があるとは書かれているものの、その写真や場所は記されておらず、探すのに時間を要しました。今回のミッションのひとつが「3猿」詣ででした。
    その蟇股は、拝殿を左から回り込んだ所から仰ぎ見られます。場所は、本殿の正面左側の蟇股になります。本殿の背丈が結構あるため、周りが暗い場合は肉眼では見難いかもしれません。
    ひとつ前の画像の中央にある蟇股です。

  • 日沈宮<br />日沈宮は、本殿・幣殿・拝殿・玉垣・禊所・廻廊・楼門・門客人社2棟からなります。これら社殿の全てと境内にある石鳥居や石燈籠も含め、江戸時代初期の貴重な建築様式として1953(昭和28)年に重文に指定されています。

    日沈宮
    日沈宮は、本殿・幣殿・拝殿・玉垣・禊所・廻廊・楼門・門客人社2棟からなります。これら社殿の全てと境内にある石鳥居や石燈籠も含め、江戸時代初期の貴重な建築様式として1953(昭和28)年に重文に指定されています。

  • 末社 蛭児社<br />日沈宮の境内には、蛭児命を祀る蛭児社が建っています。蛭児命は、イザミギとイザナミの最初の子とされ、不具であったため葦の舟に入れられオノゴロ島より大海に流されました。その蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地にあり、えびす様と習合して祀られています。

    末社 蛭児社
    日沈宮の境内には、蛭児命を祀る蛭児社が建っています。蛭児命は、イザミギとイザナミの最初の子とされ、不具であったため葦の舟に入れられオノゴロ島より大海に流されました。その蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地にあり、えびす様と習合して祀られています。

  • 日沈宮 本殿<br />本殿の棟には3本の勝男木と千木を付け、極彩色の装飾は見応えがあります。千木は「外削ぎ」です。一般的に、男性神を祀る場合は「外削ぎ」、女性神の場合は「内削ぎ」とされますが、この社ではその逆です。また、勝男木も奇数なら男神とされますが、これも逆です。<br />因みに、注連縄の綯い方も逆です。一般的には神様に向かって右方を上位にして綯いますが、左方を上位、右方を下位とした「大黒じめ」と呼ばれるものです。出雲ではこれが普通なのかもしれません。(日御碕神社と出雲大社だけですのでサンプリング数が不足かも…。)

    日沈宮 本殿
    本殿の棟には3本の勝男木と千木を付け、極彩色の装飾は見応えがあります。千木は「外削ぎ」です。一般的に、男性神を祀る場合は「外削ぎ」、女性神の場合は「内削ぎ」とされますが、この社ではその逆です。また、勝男木も奇数なら男神とされますが、これも逆です。
    因みに、注連縄の綯い方も逆です。一般的には神様に向かって右方を上位にして綯いますが、左方を上位、右方を下位とした「大黒じめ」と呼ばれるものです。出雲ではこれが普通なのかもしれません。(日御碕神社と出雲大社だけですのでサンプリング数が不足かも…。)

  • 日沈宮 本殿<br />入母屋の妻飾りの装飾も手が込んでいます。猪目懸魚の上の破風板の錺(かざり)金具や虹梁の上下にあしらわれた彫刻も華麗です。ここには、太陽・三日月・星の彫刻が施されており、「天照大神」、「月夜見尊」、「素戔嗚尊」の兄弟三神のシンボルを表わしています。<br />『古事記』によると、イザナギの右目から生まれたのが長女 天照大御神(太陽の神)、左目から生まれたのが長男 月夜見尊(夜の神)、鼻から生まれたのが次男 素戔嗚尊(海原の神)とされます。

    日沈宮 本殿
    入母屋の妻飾りの装飾も手が込んでいます。猪目懸魚の上の破風板の錺(かざり)金具や虹梁の上下にあしらわれた彫刻も華麗です。ここには、太陽・三日月・星の彫刻が施されており、「天照大神」、「月夜見尊」、「素戔嗚尊」の兄弟三神のシンボルを表わしています。
    『古事記』によると、イザナギの右目から生まれたのが長女 天照大御神(太陽の神)、左目から生まれたのが長男 月夜見尊(夜の神)、鼻から生まれたのが次男 素戔嗚尊(海原の神)とされます。

  • 宝庫(重文)<br />「神の宮」の宝庫です。社殿の華やかな権現造とは対照的な質素な白木造です。<br />桁行正面三間、背面二間、梁間二間、寄棟造向拝一間、檜皮葺です。<br />神社の社宝には国宝「白糸威鎧(しろいとおどしよろい)」があります。これは島根県にある6件の国宝のひとつであり、源頼朝から寄進されたと伝わりますが、一説には塩冶高貞から寄進されたとも伝えられています。他に名和長年から寄進された「藍葦威腹巻(あいかわおどしはらまき)」が重文になっています。

    宝庫(重文)
    「神の宮」の宝庫です。社殿の華やかな権現造とは対照的な質素な白木造です。
    桁行正面三間、背面二間、梁間二間、寄棟造向拝一間、檜皮葺です。
    神社の社宝には国宝「白糸威鎧(しろいとおどしよろい)」があります。これは島根県にある6件の国宝のひとつであり、源頼朝から寄進されたと伝わりますが、一説には塩冶高貞から寄進されたとも伝えられています。他に名和長年から寄進された「藍葦威腹巻(あいかわおどしはらまき)」が重文になっています。

  • 神の宮<br />宝庫から見上げた神の宮の佇まいです。

    神の宮
    宝庫から見上げた神の宮の佇まいです。

  • 摂社 荒魂(あらみたま)神社<br />宝庫の左後方には、速荒雄命(ハヤスサノオノミコト)を祀る小さな荒魂神社が鎮まります。祭神の速荒雄命とは、「素戔嗚尊の荒魂」のことです。<br />出雲市大社町宇龍には、日御碕神社の境外摂社 荒魂神社があります。こちらの祭神は素戔嗚尊です。

    摂社 荒魂(あらみたま)神社
    宝庫の左後方には、速荒雄命(ハヤスサノオノミコト)を祀る小さな荒魂神社が鎮まります。祭神の速荒雄命とは、「素戔嗚尊の荒魂」のことです。
    出雲市大社町宇龍には、日御碕神社の境外摂社 荒魂神社があります。こちらの祭神は素戔嗚尊です。

  • 摂社 立花神社<br />立花神社自体の祭神は伊弉諾命(イザナギノミコト)です。元々は宇龍の字立花にあったそうですが、1854(安政元)年に境内に移され、1877(明治10)年に摂社となりました。<br />八幡社、大歳社・若宮社、坂戸社、加賀社・問社、大野社、真野社、窟社、宇賀社、中津社、摂社立花社、大土社・波知社、意保美社・大山祇社、曽能若姫社・秘臺社、日和碕社が並びます。立花神社以外は全て末社です。これらの末社も、近隣の地域から境内に移されたものです。

    摂社 立花神社
    立花神社自体の祭神は伊弉諾命(イザナギノミコト)です。元々は宇龍の字立花にあったそうですが、1854(安政元)年に境内に移され、1877(明治10)年に摂社となりました。
    八幡社、大歳社・若宮社、坂戸社、加賀社・問社、大野社、真野社、窟社、宇賀社、中津社、摂社立花社、大土社・波知社、意保美社・大山祇社、曽能若姫社・秘臺社、日和碕社が並びます。立花神社以外は全て末社です。これらの末社も、近隣の地域から境内に移されたものです。

  • 神の宮(上の宮)拝殿(重文)<br />楼門の先にある右手階段の上の小高い所に「神の宮」が鎮まり、全国の素戔嗚尊を祀る神社の総本社となっています。上の宮は、本殿・幣殿・拝殿・玉垣・宝庫・鳥居2基からなり、その奥には素戔嗚尊の墓とも伝わる「隠ケ丘」が鎮まります。<br />出雲の国造りをした素戔嗚尊が根の国(黄泉国)より、「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏葉は風に舞い、この神社背後の「隠ヶ丘」に止まったと伝わります。その後、素戔嗚尊の5世の孫 天葺根命(アメノフキネノミコト)がこの地に素戔嗚尊を奉斎したと伝えます。

    神の宮(上の宮)拝殿(重文)
    楼門の先にある右手階段の上の小高い所に「神の宮」が鎮まり、全国の素戔嗚尊を祀る神社の総本社となっています。上の宮は、本殿・幣殿・拝殿・玉垣・宝庫・鳥居2基からなり、その奥には素戔嗚尊の墓とも伝わる「隠ケ丘」が鎮まります。
    出雲の国造りをした素戔嗚尊が根の国(黄泉国)より、「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏葉は風に舞い、この神社背後の「隠ヶ丘」に止まったと伝わります。その後、素戔嗚尊の5世の孫 天葺根命(アメノフキネノミコト)がこの地に素戔嗚尊を奉斎したと伝えます。

  • 神の宮 拝殿<br />仰ぎ見ると、今にも天に羽ばたきそうな鳳凰を彷彿とさせます。<br />拝殿は、桁行三間、梁間三間、入母屋造、向拝一間、唐破風造、檜皮葺です。<br />

    神の宮 拝殿
    仰ぎ見ると、今にも天に羽ばたきそうな鳳凰を彷彿とさせます。
    拝殿は、桁行三間、梁間三間、入母屋造、向拝一間、唐破風造、檜皮葺です。

  • 神の宮 本殿(重文)<br />本殿の棟には5本の勝男木と千木を付け、極彩色が施されています。千木は内削ぎ(平削ぎ)です。<br />現在は「日沈宮」の方を上位に見ているようですが、かつては出雲の神を祀る官社であった「神の宮」の方が重視されていたそうです。

    神の宮 本殿(重文)
    本殿の棟には5本の勝男木と千木を付け、極彩色が施されています。千木は内削ぎ(平削ぎ)です。
    現在は「日沈宮」の方を上位に見ているようですが、かつては出雲の神を祀る官社であった「神の宮」の方が重視されていたそうです。

  • 神の宮 本殿<br />桁行三間、梁間三間、入母屋造、檜皮葺であり、日沈宮と共に3代将軍 徳川家光の命で、1644(寛永21)年に竣工したものです。本殿内部の天井四壁の絵画は狩野、土佐両派の画匠による密画です。

    神の宮 本殿
    桁行三間、梁間三間、入母屋造、檜皮葺であり、日沈宮と共に3代将軍 徳川家光の命で、1644(寛永21)年に竣工したものです。本殿内部の天井四壁の絵画は狩野、土佐両派の画匠による密画です。

  • 神の宮 本殿<br />素戔嗚尊を祀る神の宮は、現社殿の背後の隠ヶ丘に祀られていたものを、安寧天皇13年に現在地に遷座したと伝えられています。しかし、日御碕神社は、海岸線が迫り、また、神社の方向が西向きであることから風の影響も受け易く、今までに幾度となく塩害や大風の被害を受けています。<br />2012年に神の宮の本殿、2013年に楼門が被害を受け、2013~16年まで修理事業を行っています。神の宮の本殿は、修理を兼ねて屋根の葺替えと金具補修、塗装の塗直しが行われています。専門家によると、日本で最も過酷な場所にある国指定建造物だそうです。

    神の宮 本殿
    素戔嗚尊を祀る神の宮は、現社殿の背後の隠ヶ丘に祀られていたものを、安寧天皇13年に現在地に遷座したと伝えられています。しかし、日御碕神社は、海岸線が迫り、また、神社の方向が西向きであることから風の影響も受け易く、今までに幾度となく塩害や大風の被害を受けています。
    2012年に神の宮の本殿、2013年に楼門が被害を受け、2013~16年まで修理事業を行っています。神の宮の本殿は、修理を兼ねて屋根の葺替えと金具補修、塗装の塗直しが行われています。専門家によると、日本で最も過酷な場所にある国指定建造物だそうです。

  • 神の宮 本殿<br />相殿として、宗像三女神の田心姫(タゴリヒメ)、湍津姫(タギツヒメ)、厳島姫(イチキシマヒメ)を祀っています。<br />宗像三女神は『古事記』により素戔嗚尊の娘とされますが、宗像三女神の総本社となる宗像大社では『日本書紀』の記述に従って天照大神の娘としています。この違いは、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた子神たちをどちらの子と見るかが『古事記』と『日本書紀』で異なることに起因しています。日御碕神社では『古事記』の記述を重んじているようです。<br />もし『日本書紀』に則るとすれば、宗像三女神は天照大神の子となり、日沈宮に相殿として祀られている天津神の男神5柱は素戔嗚尊の子となります。そうであれば、次男である天穂日命(アメノホヒ)を祖神とする出雲国造も素戔嗚尊の子孫ということになります。これが、古代出雲王家の末裔「富家(向家)」の伝承のルーツのようです。これにより、出雲大社の主祭神にも2通りの解釈が生まれた訳です。

    神の宮 本殿
    相殿として、宗像三女神の田心姫(タゴリヒメ)、湍津姫(タギツヒメ)、厳島姫(イチキシマヒメ)を祀っています。
    宗像三女神は『古事記』により素戔嗚尊の娘とされますが、宗像三女神の総本社となる宗像大社では『日本書紀』の記述に従って天照大神の娘としています。この違いは、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた子神たちをどちらの子と見るかが『古事記』と『日本書紀』で異なることに起因しています。日御碕神社では『古事記』の記述を重んじているようです。
    もし『日本書紀』に則るとすれば、宗像三女神は天照大神の子となり、日沈宮に相殿として祀られている天津神の男神5柱は素戔嗚尊の子となります。そうであれば、次男である天穂日命(アメノホヒ)を祖神とする出雲国造も素戔嗚尊の子孫ということになります。これが、古代出雲王家の末裔「富家(向家)」の伝承のルーツのようです。これにより、出雲大社の主祭神にも2通りの解釈が生まれた訳です。

  • 境内<br />神の宮の一角から見下ろすと、左下に日沈宮が鎮まり、その右端に宝庫が見えます。宝庫の右手には、多数の末社が長屋状態で祀られている立花神社があります。

    境内
    神の宮の一角から見下ろすと、左下に日沈宮が鎮まり、その右端に宝庫が見えます。宝庫の右手には、多数の末社が長屋状態で祀られている立花神社があります。

  • 御神砂之碑<br />国造りの神様「素戔嗚尊」に因むのか、境内の砂は地鎮祭の砂として求められると聞きましたが、十数年からは身体守護のご利益に求める方が多いそうです。医師に見放されたほどの交通事故に遭った方が、地鎮祭の清めに使っていたお砂を塗り付けたところ、一命を取り留め、しかも全快したそうです。東日本大震災の時もこのお守りを持っていた人たちが助かったそうで、お礼参りに来られたそうです。また悪霊退散の体験も多いようです。そこから、交通安全や車酔い悪霊退散などにご利益があると口コミで広がったようです。<br />御守り袋の中には清められた砂が入っており、何かあった時にこのお守りを握ると守ってくれると言われる厄払いの御守りです。<br />因みに、「御神砂守」は御守授与所の表にはなく、神職の方に頼まないと出していただけません。社務所で、「砂のお守りをいただきたいのですが」と言うと後ろから出していただけ、初穂料500円です。今回は品切れのため、授与していただくことは叶いませんでした。御朱印はいただけました。

    御神砂之碑
    国造りの神様「素戔嗚尊」に因むのか、境内の砂は地鎮祭の砂として求められると聞きましたが、十数年からは身体守護のご利益に求める方が多いそうです。医師に見放されたほどの交通事故に遭った方が、地鎮祭の清めに使っていたお砂を塗り付けたところ、一命を取り留め、しかも全快したそうです。東日本大震災の時もこのお守りを持っていた人たちが助かったそうで、お礼参りに来られたそうです。また悪霊退散の体験も多いようです。そこから、交通安全や車酔い悪霊退散などにご利益があると口コミで広がったようです。
    御守り袋の中には清められた砂が入っており、何かあった時にこのお守りを握ると守ってくれると言われる厄払いの御守りです。
    因みに、「御神砂守」は御守授与所の表にはなく、神職の方に頼まないと出していただけません。社務所で、「砂のお守りをいただきたいのですが」と言うと後ろから出していただけ、初穂料500円です。今回は品切れのため、授与していただくことは叶いませんでした。御朱印はいただけました。

  • 境内<br />白砂で囲まれた石碑には、昭和天皇御製の御歌が刻まれています。<br />「秋の果の碕の浜の みやしろに をおがみ祈る 世のたひらぎを」とあります。<br />1982(昭和57)年に「くにびき国体」に行幸のみぎり、日御碕神社にご親拝された際に賜った御歌だそうです。

    境内
    白砂で囲まれた石碑には、昭和天皇御製の御歌が刻まれています。
    「秋の果の碕の浜の みやしろに をおがみ祈る 世のたひらぎを」とあります。
    1982(昭和57)年に「くにびき国体」に行幸のみぎり、日御碕神社にご親拝された際に賜った御歌だそうです。

  • 日沈宮<br />日御碕神社には素戔嗚尊にまつわる秘祭「神剣奉天神事」が伝わります。旧暦の大晦日に連綿と営まれており、誰も見ることができない神事です。<br />八岐大蛇を退治した際、素戔嗚尊は八岐大蛇の尾から天叢雲剣を得て、それを高天原の天照大神に献上しました。その際に素戔嗚尊の使者を務めた御子神が『日本書紀』に記された天之葺根神(アメノフキネノカミ)です。天照大神は大いに喜び、お返しに草木の種を授けました。<br />日御碕神社の宮司を代々務める小野家の先祖が天之葺根神とされ、こうした『記紀』には記されていない伝承を反映した神事が「神剣奉天神事」です。宝剣献上の使者を務めた天之葺根神に倣ってのことか、歴代宮司は家伝の宝剣を持って一人で天一山に登って神事を営むと伝えられます。当夜は例え雨雪が激しくても神事の始まると共に空が晴れ渡り、未だに宮司の祭服を濡らしたことがないと言われています。<br />世間が年越しのカウントダウンで浮かれている時に、出雲の片隅ではこうした秘事が粛々と行なわれているかと思うと妙な気持ちになります。歴史の中で抹殺された何かを伝えようと必死にもがいているようにも思えてなりません。

    日沈宮
    日御碕神社には素戔嗚尊にまつわる秘祭「神剣奉天神事」が伝わります。旧暦の大晦日に連綿と営まれており、誰も見ることができない神事です。
    八岐大蛇を退治した際、素戔嗚尊は八岐大蛇の尾から天叢雲剣を得て、それを高天原の天照大神に献上しました。その際に素戔嗚尊の使者を務めた御子神が『日本書紀』に記された天之葺根神(アメノフキネノカミ)です。天照大神は大いに喜び、お返しに草木の種を授けました。
    日御碕神社の宮司を代々務める小野家の先祖が天之葺根神とされ、こうした『記紀』には記されていない伝承を反映した神事が「神剣奉天神事」です。宝剣献上の使者を務めた天之葺根神に倣ってのことか、歴代宮司は家伝の宝剣を持って一人で天一山に登って神事を営むと伝えられます。当夜は例え雨雪が激しくても神事の始まると共に空が晴れ渡り、未だに宮司の祭服を濡らしたことがないと言われています。
    世間が年越しのカウントダウンで浮かれている時に、出雲の片隅ではこうした秘事が粛々と行なわれているかと思うと妙な気持ちになります。歴史の中で抹殺された何かを伝えようと必死にもがいているようにも思えてなりません。

  • 日沈宮<br />流麗な檜皮葺が優美です。<br />鬼瓦には神紋「三ツ柏葉」が躍ります。

    日沈宮
    流麗な檜皮葺が優美です。
    鬼瓦には神紋「三ツ柏葉」が躍ります。

  • 神紋石舎<br />「神の宮」本殿の後方に進むと柵で囲まれた中に神紋石舎が佇みます。祠の中には、神の宮創始(隠ヶ丘鎮座)の由来となった「柏の葉」の化石が表面にあった「神紋石」が鎮座しています。神域の付近から出土したものだそうです。

    神紋石舎
    「神の宮」本殿の後方に進むと柵で囲まれた中に神紋石舎が佇みます。祠の中には、神の宮創始(隠ヶ丘鎮座)の由来となった「柏の葉」の化石が表面にあった「神紋石」が鎮座しています。神域の付近から出土したものだそうです。

  • 神紋石舎<br />風化などが進み、柏の葉の化石は原形を留めていません。恐らく、これが神紋「三ツ柏葉」の由来なのでしょう。素戔嗚尊が出雲の国造り後、「私の魂はこの柏の葉がとどまる所に住もう」と言って葉を投げ、風に舞って葉が留まった地が隠ケ丘だった」という古事を後押しするような化石です。

    神紋石舎
    風化などが進み、柏の葉の化石は原形を留めていません。恐らく、これが神紋「三ツ柏葉」の由来なのでしょう。素戔嗚尊が出雲の国造り後、「私の魂はこの柏の葉がとどまる所に住もう」と言って葉を投げ、風に舞って葉が留まった地が隠ケ丘だった」という古事を後押しするような化石です。

  • 神の宮 回廊<br />楼門を潜って直ぐの右手にある回廊からも神の宮に行けます。<br />社人については、1766(明和3)年の『社法式帳』に「検校の下に上官・被官・楽人・神子・神人など64人がいた」と記されています。検校とは日御碕神社では正神主を言い、代々小野家が専掌しています。小野家は家譜によると、素戔鳴尊の5世孫 天葺根命の後裔で、一時は日置姓を名乗ったこともありました。小野家は、戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、石見一ノ宮の物部神社(島根県大田市)・社家の金子家と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していました。 <br /><br />この続きは、萬福笑來 山陽・山陰紀行⑦出雲大社でお届けします。

    神の宮 回廊
    楼門を潜って直ぐの右手にある回廊からも神の宮に行けます。
    社人については、1766(明和3)年の『社法式帳』に「検校の下に上官・被官・楽人・神子・神人など64人がいた」と記されています。検校とは日御碕神社では正神主を言い、代々小野家が専掌しています。小野家は家譜によると、素戔鳴尊の5世孫 天葺根命の後裔で、一時は日置姓を名乗ったこともありました。小野家は、戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、石見一ノ宮の物部神社(島根県大田市)・社家の金子家と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していました。

    この続きは、萬福笑來 山陽・山陰紀行⑦出雲大社でお届けします。

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