2017/08/18 - 2017/08/22
697位(同エリア4267件中)
maayさん
2017年8月11日~22日までの
3都市巡りの旅の最後はプラハ。
様々な歴史の渦に巻き込まれ翻弄され、それでも沈まず今に至る古都。
Ⅰ街
Ⅱブルタヴァ
Ⅲプラハ市民会館とミュシャ
Ⅳヴィシェフラド
Ⅴ宿
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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-
ザルツブルクからウィーンへ戻り、
列車を乗り換えプラハに向かいます。 -
オーストリアとは車窓の眺めがだいぶん違ってくる。
列車の内部も…かなり違う!
プラハ本駅に着き、トラムで宿のある駅に向かう。
トラムが来たから、中に券売機もあるだろう!
とドイツのようなつもりで
急いで乗り込むが
券売機がなくて次の駅で慌てて下車。
結局、次の駅にも近くにも
傍のキオスクにも売ってなくて…
娘が一駅歩いて戻ってチケット買って戻る事態に(笑) -
【ダンシングビル】
腰をひねって踊っているような
ダンシングビル。
ちょうど可愛いトラムが来て
お気に入りの一枚。 -
【プラハ城】
プラハカードを買って街をめぐることに。
プラハをめぐる観光バス?が
カードで乗れたので乗ってみる。
日本語の音声ガイドもあり
(ちょっと…変な日本語でしたが(笑))、
プラハの街の感覚が少しわかる。 -
ものすごい人混み。
ちょうど衛兵の交代の時間らしい。
ラッキーです。 -
プラハ。
歴史の波に翻弄され、それでも今、
この街並みを残している。
チェコの歴史に触れると、
ここに流れてきた激動の歴史に
圧倒されてしまう。 -
私なんかが生半可に語れる歴史じゃない。。
プラハの栄光と悲痛と…歓喜。
「たゆとえど沈ます」は
パリの標語だけれども
プラハにもあてはまるのかな…
こんなこと勝手に言っちゃいかんと思いますが… -
【聖ヴィート大聖堂】
600年の歳月を経て完成された。
歴代の王が祀られている。
バラ窓が麗しい。。 -
アルフォンス・ムハのステンドグラス。
この年の春、
ムハの「プラハ叙事詩」が
六本木の新国立美術館に来ていた。
その時に見た作品に圧倒されて、
今、私はプラハにいる。 -
完成までに600年の時が流れた
「聖ヴィート教会」
若いときにフランスで成功し、
フランス語読みで
「ミュシャ」と呼ばれる
「アルフォンソ・ムハ」
彼が製作した美しいステンドグラスは、
ヴィート教会が完成した1928年頃のもの。 -
チェコの英雄ヴァーツラフが眠るこの教会に
歴代のチェコの王達が立ち、
歴史が流れた。 -
それをいつから見つめてきたのか…
純銀の天使たち。 -
暗い内部を美しい色彩が照らしている
-
貴方はどこから見ていた?
ヴァーツラフ一世には…会っていない?
マサリクにはもちろん会っているね。
そして、ナチスの軍服に身を固めた人たちも
貴方の側を通っていった。 -
ヤン・ネポムツキーの墓碑を守る天使たち
-
チェコの英雄
ヴァーツラフ一世の礼拝堂
壁には、ヴァーツラフの生涯が描かれている。 -
民衆に危機が迫ったときにはよみがえり、
眠れる騎士達を引き連れて外敵と戦い、
国と民衆を守ると言われている。
チェコの守護聖人。 -
堂々たる佇まい。
-
イジー教会
-
チェコの歴史は、
周辺の列強国に翻弄され続けた歴史。 -
チェコの人々は、
時に抗い、
時に忍耐強く、
時を過ごしてきた。 -
【正門の上の巨人像】
チェコ語さえ使うことができない時代もあった。
だからこそ、スメタナは「我が祖国」を作曲した。 -
様々な地域からなっていたチェコは、
長らくまわりの列強国の一部とされ、
統治されていた。
第一次世界大戦の後、
チェコの英雄
トマーシュ・マサリクらにより
チェコスロバキアとして、
悲願の独立を成し遂げた。
トマーシュ・マサリクは、初代大統領に就任。
チェコスロバキアの
平和な時代が
しばらくは、続いた。 -
【プラハ城正門】
だが、
トマーシュ・マサリクの死後、
ナチスドイツが侵攻。
チェコスロバキアは、
まわりの列強国によって解体され、
事実上、
地図の上から消え去ってしまう…。 -
【プラハ城正門前の広場】
1938年 ミュンヘン協定
トマーシュ・マサリクの息子で
外交官だった
ヤン・マサリク。
国の代表としてその場にいた。
チェコスロバキア解体の協定の
あまりの酷さに
涙したという…。 -
【プラハ城の広場横からマラーストラナの街並みを眺める】
長い長い、
民族としての歴史と文化を持ちながら、
国として独立して
わずか20年ほどで、
またしても国を失ってしまう。 -
【王の道を降りていく】
ナチスに統治されると、
ナチスは、このプラハ城をの本拠地とし、
そして最終的には、
「プラハの虐殺者」と呼ばれるようになる
ラインハルト・ハイドリッヒが
統治者となる… -
【この道は、降りていくのが正解でした!】
本当に美しい…素晴らしい道です。 -
ヤン・マサリクを中心に、
ロンドンにチェコスロバキア亡命政府が置かれた。
プラハは、
ナチスドイツに統治され、
ユダヤ人やチェコの指導者層など、
五万人ものプラハ市民が、
命を奪われていった…。 -
【2つの建物をつなぐ美しいな回廊】
チェコの統治者となったハイドリッヒは、
労働者層に手厚い政策をとったため、
ナチスに対する抵抗運動に、
賛同する労働者階級はいなくなる。
反ナチスの抵抗運動は、
骨抜きになり消滅していく… -
チェコスロバキア在英亡命政府は、
選り抜きの軍人をプラハに送り、
ハイドリッヒの暗殺を企てる。
「歴史」としては知ってはいたが、
映画「Anthropoid」(エンスラポイド作戦)
を見て、衝撃を受けた…
邦題は「ハイドリッヒを撃て」というのだけれど
この映画の全編を覆う沈鬱な雰囲気には
全く合っていないと思う…
俳優達、
特に主役の二人が素晴らしく
心に刺さる映画でした。 -
「暁の七人」は、観たことがなかったのだけれど…
1941年12月28日の夜
チェコスロバキア在英亡命政府が送った
7人の兵士が、
プラハの郊外に
パラシュートで降下した。 -
彼らは、
レジスタンス運動に協力している
プラハ市民の家族や教会などに身をかくし、
入念に、
ハイドリッヒ暗殺計画を練る。 -
【旧市街広場近く】
プラハの建物は本当に美しい。
外壁に様々な時代の装飾が残され、
丁寧に維持されている。
チェコ人の知り合いが、
言っていたのだけれど、
歴史の荒波にあまり抵抗せずに身を任せていて
街が破壊される戦いにならなかったのは
チェコ人の気質。
だからプラハの街並みは
残された訳だけれども…。
少し複雑な気持ちになった…。 -
【市庁舎の時計台】
市庁舎はメンテナンス中で上に登れず残念…! -
ハイドリッヒ暗殺計画
「エンスラポイド作戦」
生還の可能性はない任務とされ、
家族を持たない七人の兵士が選ばれていた。
「人間味のある総督」を演出していたハイドリッヒは
自宅からプラハ城に向かうときに、
オープンカーに乗り
自らの姿を市民に見せていた。
それが彼の命取りとなった。 -
【ディーン教会】
1942年5月27日
急ぎの用事でプラハ城に向かうため
護衛をつけていなかったハイドリッヒの乗る
ベンツのオープンカーが止められ、
ヨゼフ・ガプチークと
ヤン・クビシュが
作戦を実行した。
ハイドリッヒは倒れ、
1週間後に病院で命を落とす。 -
【ディーン教会】
7人の兵士は、
“聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂”
に身を隠す。
この夏にプラハを訪れたときには、
その教会のことは知らずにいた。
ダンシングビルから歩いてすぐの所にある。 -
【旧市街広場に面している建物の装飾】
報奨金目当ての
カレル・チュルダにより密告されるまで
彼らや彼らをかくまった家族のことを
ゲシュタポは見つけることが出来なかった。
映画では、
報奨金と共に、
暗殺実行犯が捕まらなければ、
多くのプラハ市民が殺されると知り、
カレル・チュルダの心が動いていたが…。
カレル・チュルダは、
戦後1947年に自殺したが
未遂に終わり、
ナチス協力の罪で処刑されている…。
7人の兵士をかくまった家族も
酷い運命を辿ることとなってしまう… -
【旧市街広場ヤン・フス像の前】
“聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂”には
何百人ものナチスの親衛隊の軍隊が押し寄せ、
7人は、
6時間に及ぶ銃撃戦末、
最後に残った者も捕らわれることを避け、
自決する…。 -
“聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂”の外壁には
今も当時の銃痕が残されている。 -
ハイドリッヒの死後、
ヒトラーはチェコに報復をする…。
1万3000もの名もない人々が
命を奪われ、
リディツェ村、レジャーキ村は、
完全に破壊されて
消滅してしまう… -
ハイドリッヒは、
ヒトラーを継ぐ者と言われていた人物で
彼が暗殺されたことは、
ナチスの衰退につながった
という見方もある。
亡命政府は、
プラハのレジスタンス活動を援助するつもりで
この作戦を実行したという。
でも当時、プラハの人々は、
ナチスの報復を恐れていて、
もはや
レジスタンス活動は、
ほとんど失われていたらしい… -
レディツェ村は、
大きな美しい村だった。
200人の15才以上の男性は
納屋に集められ
10人づつ外に出され
銃により命を奪われた…
女性や子供は
収容所に送られ
ほとんどが命を失った…
レジャーキ村は、
小川に水車が回る小さなのどかな村だった。
30人ほどの村人は
男女問わず包囲されて
銃で命を奪われ、
村は
全てが焼き払われたという… -
プラハを訪れた後に、
プラハをもっと知りたくなった。
第二次世界大戦後、
チェコスロバキア共和国は復活した。
ヤン・マサリクは、
外務大臣となり祖国に戻る。
しかし、
次第にソ連の影響が濃くなり… -
【ユダヤ教会 シナゴーグ】
1948年 ヤン・マサリクは転落死。
モスクワ訪問の直後だった。
チェコスロバキア共産主義政府にとって
チェコスロバキア民主化の英雄
トマーシュ・マサリクの息子は
民衆の英雄でもあったわけで、
マサリクは、
政府の大半となっていたソ連の影響を受けている共産主義者に
窓から突き落とされ
殺された
と言われている。 -
【シナゴーグの近くにあったお店】
その名の通り、古い時計が沢山あり
素敵なお店でした。 -
【プラハで最も古いシナゴーグ】
その後のチェコの
20世紀の歴史も本当に…
ソ連の大きな影響を受け続け、
1960年に社会主義共和国に。
その後、自由化・民主化を望む
「プラハの春」
の運動が高まるが
ソ連を中心として、
チェコは軍事介入され、
東ドイツと並ぶ
警察国家となっていく。 -
【ユダヤ人街の美しい装飾の建物群】
この年に
プラハに行くときには、ちょうど
春江一也著「プラハの春」
を読んでいた。 -
「プラハの春」の活動家達にとって
他国に亡命するか、
プラハに残るか、
苦渋の決断だったという。
ある活動家は、
亡命するチャンスもあったが
暮れていくプラハ城を眺めながら、
悩んだ末に、
プラハこそ自分の居場所と、
プラハに残る決断をする。 -
プラハで
仕事を持つこともままならない人々が、
沢山いたそうだ。。
しかし、1989年「ビロード革命」
他の東欧の国々も
大きく揺れ動き、
ベルリンの壁も崩された
あのとき。
日本のTVも新聞も
全てヨーロッパの国々の大きな波
一色だった。
連日、
一日中、
報道が溢れていた。 -
学生のデモ行進が
プラハのカレル大学前から始まり、
何万人もの市民が
これに賛同し
大規模なデモ行進は
プラハ旧市街に向かう。
沢山の市民がろうそくを掲げ、
民主化を訴えてデモ行進する姿が
日本のTVにも
映し出されていた。 -
ソ連やチェコスロバキア政府は、
これに軍事介入はしなかった!
ヴァーツラフ広場に
人々が集まっている映像も
何度もTVで流されていた。 -
【プラハ国民劇場とドヴォルザークの銅像】
そして最も心に残っているのは、
革命が成功に終わった後、
ラファエロ・クーベリック指揮
チェコフィルハーモニーが
旧市街広場で、
スメタナの「我が祖国」を演奏した映像。
音も映像も荒かったけれど
圧倒される思いで見ていたことを思いだす。 -
そのプラハに来られるとは、
その時は全く思わなかった。
私が来られるくらいだから、
今は、世界中の観光客でいっぱいのプラハ。 -
【エステート劇場】
そう、
モーツァルトがオペラ「ドンジョバンニ」を
初演した劇場!
モーツァルトは、
プラハの人たちのお気に入りだった。 -
次にプラハを訪れる時、
さらに
プラハをより深く見つめ、
プラハの街を漂いたい…
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ウィーン・ザルツブルク・プラハの旅 2017/8
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この旅行記へのコメント (4)
-
- ねもさん 2019/01/20 21:21:14
- 初めまして
- maayさん ご投票ありがとうございます。
同じころ結構近くを歩いていました。懐かしい画像がいっぱいです。
私もプラハへの思いはなかなかと自認していましたが、maayさんのプラハ愛には完全に負けます(笑)。maayさんは、アラ還世代の私より若いのでは?と想像します。
私のプラハへの関心は、1968年のプラハの春とソ連の軍事介入に始まります。多感な中学生にはショッキングな事件でした。この旅行記を拝読すると、プラハの苦難はもっともっと長い前史があったのですね。涙が出そうです。
ところで、ウィーンのアマーリングバイスルにも行かれたのですね。あちらを拝見していて、この風景は観たぞと気づきました。安くて美味しい、実に良い居酒屋でした。
他の旅行記も読ませてください。
- maayさん からの返信 2019/01/20 23:50:49
- Re: 初めまして
- ねもさん
はじめまして。
旅行記に投票いただき、コメントもありがとうございます。
本当に、同じ頃にウィーン、プラハにいたようですね(^^)
若い頃は、ヨーロッパ一の美しい街と聞きながらも、東欧の国で、プラハに旅できる日が来るとは思っていませんでした。
「プラハの春」は認識できる歳ではありませんでしたが(笑)、ビロード革命など、あの頃のヨーロッパの激動に衝撃を受けた世代です。
プラハを訪れて、もっとプラハを知りたくなり興味を持ちました。
プラハ愛をお褒めいただきありがとうございます(*^^*)
ウィーンの居酒屋!素敵でしたね。娘が調べて連れていってくれました。
ねもさんのプラハ旅行記の居酒屋、名前が思い出せませんが…兵士の大きな人形と写真を撮られていた…
行きたかったので羨ましいです(*´-`)
旅行記沢山読んでいただいてありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。
maay
-
- mistralさん 2018/12/17 13:05:47
- 旅のその後。
- maayさん
こんにちは。
いつもご訪問をいただき有難うございます。
私もだいぶ前になりますがプラハを訪問して感動しました。
「プラハを訪れた後に、プラハをもっと知りたくなった。」
同感でした。
今回、街のお写真をアップされながら、たどられた歴史が
書かれていました。
複雑な歴史を辿った国!
なかなか一度で呑み込むのは難しいです。
私も「プラハの春」を読んで行きました。
繋がって「ベルリンの冬」も読み
数年後?ベルリンにも行ってきました。
旅のきっかけは、あちこちにあることを実感しています。
来年も元気で旅ができますよう
お互いに健康に気をつけましょうね。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。
mistral
- maayさん からの返信 2018/12/17 21:13:43
- Re: 旅のその後。
- mistralさん
コメントをありがとうございます!
自由学園明日館、訪れたくなりました。
プラハの旅行記も読んでいただいて、本当にありがとうございます。
思えば、旅への憧れは、高校生の頃に読み始めた、森本哲郎さんの旅行記が根源にあるんだと思います。
こんな風に自由に旅する人がいるんだ、と憧れました(*´-`)
なので、mistralさんの森本さんを引用してるのに、とっても共感しています(^-^)
自由に旅するのは、健康でいてこそですからね…本当に。
旅が終わるとやり残したことに気づく、本当にそうですね。
次の旅の計画は、もはや人生の楽しみ、そのものかもしれないなぁ、なんて思い始めています。
これからもよろしくお願いします(*^^*)
maay
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