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朝起きたら,素晴らしくいい天気,そうだ京都に行こう.宣伝文句と同じですが<br />慌てて出かけましたが嵯峨野に着いたらちょうどお昼,紅葉見物は午後1時からになり弘源院、天龍寺,宝厳院<br />この3寺を見学したらもう日暮れ.<br />充分に堪能できなくて心残りです.

紅葉

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2018/11/17 - 2018/11/17

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tomvo

tomvoさん

朝起きたら,素晴らしくいい天気,そうだ京都に行こう.宣伝文句と同じですが
慌てて出かけましたが嵯峨野に着いたらちょうどお昼,紅葉見物は午後1時からになり弘源院、天龍寺,宝厳院
この3寺を見学したらもう日暮れ.
充分に堪能できなくて心残りです.

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  • 弘源寺<br /> 高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派(りんざいしゅうちゅうほうは)(幻住派(げんじゅうは)とも)の本山です。甲斐(山梨)の栖雲寺(せいうんじ)が東天目と呼ぶのに対して、高源寺は西天目(にしてんもく)と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られています。<br /> 開山の遠谿祖雄禅師は、当地青垣町の遠坂地区にあった山垣城(やまがいじょう)の城主足立遠政(あだちとおまさ)公の孫の光基(みつもと)の三男です。遠谿祖雄は、幼少の頃より出家し、1306年に中国に渡り、杭州天目山の中峰国師(ちゅうほうこくし)のもとで約10年修行をして悟りを開きます。そして、帰国後、霊夢で得た天目山に似た佐治郷小倉に堂宇を創建します。<br />1326年には後醍醐天皇より高源寺号を賜り、また後柏原天皇の代には、勅願所の礼遇を許され、住職は末代紫衣の宣旨を受けました。そして、全国に末寺を持つ大本山となりました。<br /> しかし、天正年間、織田信長の丹波攻略で建物をことごとく焼失しました。その後、享保の始めに天岩明啓(てんがんめいけい)禅師が再興し、1799年には、弘巌玄猊(こうがんげんげい)禅師が柏原藩の援助を得て再び再建し、現在に至っています。<br /> 建物は現在、惣門・山門・仏殿・方丈・鐘堂・多宝塔などがあります。<br /> また、紅葉の名所としても知られています。

    弘源寺
     高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派(りんざいしゅうちゅうほうは)(幻住派(げんじゅうは)とも)の本山です。甲斐(山梨)の栖雲寺(せいうんじ)が東天目と呼ぶのに対して、高源寺は西天目(にしてんもく)と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られています。
     開山の遠谿祖雄禅師は、当地青垣町の遠坂地区にあった山垣城(やまがいじょう)の城主足立遠政(あだちとおまさ)公の孫の光基(みつもと)の三男です。遠谿祖雄は、幼少の頃より出家し、1306年に中国に渡り、杭州天目山の中峰国師(ちゅうほうこくし)のもとで約10年修行をして悟りを開きます。そして、帰国後、霊夢で得た天目山に似た佐治郷小倉に堂宇を創建します。
    1326年には後醍醐天皇より高源寺号を賜り、また後柏原天皇の代には、勅願所の礼遇を許され、住職は末代紫衣の宣旨を受けました。そして、全国に末寺を持つ大本山となりました。
     しかし、天正年間、織田信長の丹波攻略で建物をことごとく焼失しました。その後、享保の始めに天岩明啓(てんがんめいけい)禅師が再興し、1799年には、弘巌玄猊(こうがんげんげい)禅師が柏原藩の援助を得て再び再建し、現在に至っています。
     建物は現在、惣門・山門・仏殿・方丈・鐘堂・多宝塔などがあります。
     また、紅葉の名所としても知られています。

  • これは珍しいので写しましたが色々あったんですねー.

    これは珍しいので写しましたが色々あったんですねー.

  • 高源寺の隣のお寺です.

    高源寺の隣のお寺です.

  • 天龍寺<br />かつては嵐山一帯が天龍寺の境内でした。<br />1339年後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が開基、夢窓疎石を開山として開かれました。<br />もともとは嵯峨天皇の皇后が開いた檀林寺があり、その後に荒廃していた檀林寺を、後嵯峨天皇と亀山天皇が「亀山殿」という離宮を営んでいました。<br />亀山とは西にある小倉山のことを言います。<br /><br />建立に際し、尊氏や光厳上皇が荘園を寄進しましたが建立費用が足りず、元との貿易を再開し建立費用に充てたと言われ、「天龍寺船」が始まったと言われています。<br />1345年に完成し、五山の第一位に位置づけられました。<br /><br />

    天龍寺
    かつては嵐山一帯が天龍寺の境内でした。
    1339年後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が開基、夢窓疎石を開山として開かれました。
    もともとは嵯峨天皇の皇后が開いた檀林寺があり、その後に荒廃していた檀林寺を、後嵯峨天皇と亀山天皇が「亀山殿」という離宮を営んでいました。
    亀山とは西にある小倉山のことを言います。

    建立に際し、尊氏や光厳上皇が荘園を寄進しましたが建立費用が足りず、元との貿易を再開し建立費用に充てたと言われ、「天龍寺船」が始まったと言われています。
    1345年に完成し、五山の第一位に位置づけられました。

  • イチオシ

  • 有名な竹林をほんの少し

    有名な竹林をほんの少し

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