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 江の島にある岩本楼は良く知られた老舗旅館である。看板には「旧岩本院」と書かれている。<br /> 「江島縁起」によると、欽明天皇13年(552年)に天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造ったとある。江の島が隆起してでき、そこの洞窟岩屋(第一岩屋)に天女を祀ったのが江島神社の始まりである。その岩屋本宮に海水が入りこんでしまう旧暦四月~十月までの期間、岩屋本宮のご本尊が遷座されたところが江戸時代までは本宮御旅所(ほんぐうおたびしょ)と言われていた。創建年代は不詳であるが、風土記などの資料から1600年代に奥津宮が創建と考えられている。<br /> 文武天皇4年(700年)に、修験者・役小角(えんのおづぬ)が、江の島の洞窟に参籠して神感を受け、修験の霊場を開いた。<br /> 弘仁5年(814年)に空海が岩屋本宮を創建した。これにより江ノ島は金亀山与願寺(よがんじ)となった。<br /> 仁寿3年(853年)に慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建した。<br /> 建永元年(1206年)には慈覚上人良真が下之宮(辺津宮)を創建した。<br /> 岩屋本宮には岩本坊、上之宮には上ノ坊、下之宮には下ノ坊の3つの別当があったが、その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。<br /> その後、慶安2年(1649年)に京都・仁和寺の末寺となった。それにより、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。三坊は競って当社の縁起を説いて回り、参詣者を集めた。そのうちに利権争いが起こり、寛永17年(1640年)、岩本院は幕府からの朱印状を得て上ノ坊を吸収した。後に下ノ坊も支配するようになり、岩本院が全島の権益を握ることとなった。<br /> 明治元年(1868年)の廃仏毀釈により仏教色を排し、明治6年(1872年)には、「江島神社」へ改称した。この時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、「岩本楼」へ改称し、旅館となった。岩本坊からの由緒があり、江戸時代前期の岩本院からの歴史もある。<br /> 常識的には「岩本」は岩屋本宮を意味する名で、上之宮(中津宮)や下之宮(辺津宮)が創建される以前からある平安時代(弘仁5年(814年))からの僧坊を引き継ぐものであろう。<br /> 「旧岩本院 岩本楼」は有形文化財の「岩本楼ローマ風呂」や「弁天洞窟風呂」の神秘の湯が楽しめる老舗旅館であるには違いないが、「江の島(の)歴史を伝える島の宿」と謳っているのは当を得ていることだ。<br />(表紙写真は「旧宮本院 岩本楼」)<br /> <br />

江の島岩本楼

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2018/10/29 - 2018/11/15

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 江の島にある岩本楼は良く知られた老舗旅館である。看板には「旧岩本院」と書かれている。
 「江島縁起」によると、欽明天皇13年(552年)に天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造ったとある。江の島が隆起してでき、そこの洞窟岩屋(第一岩屋)に天女を祀ったのが江島神社の始まりである。その岩屋本宮に海水が入りこんでしまう旧暦四月~十月までの期間、岩屋本宮のご本尊が遷座されたところが江戸時代までは本宮御旅所(ほんぐうおたびしょ)と言われていた。創建年代は不詳であるが、風土記などの資料から1600年代に奥津宮が創建と考えられている。
 文武天皇4年(700年)に、修験者・役小角(えんのおづぬ)が、江の島の洞窟に参籠して神感を受け、修験の霊場を開いた。
 弘仁5年(814年)に空海が岩屋本宮を創建した。これにより江ノ島は金亀山与願寺(よがんじ)となった。
 仁寿3年(853年)に慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建した。
 建永元年(1206年)には慈覚上人良真が下之宮(辺津宮)を創建した。
 岩屋本宮には岩本坊、上之宮には上ノ坊、下之宮には下ノ坊の3つの別当があったが、その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。
 その後、慶安2年(1649年)に京都・仁和寺の末寺となった。それにより、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。三坊は競って当社の縁起を説いて回り、参詣者を集めた。そのうちに利権争いが起こり、寛永17年(1640年)、岩本院は幕府からの朱印状を得て上ノ坊を吸収した。後に下ノ坊も支配するようになり、岩本院が全島の権益を握ることとなった。
 明治元年(1868年)の廃仏毀釈により仏教色を排し、明治6年(1872年)には、「江島神社」へ改称した。この時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、「岩本楼」へ改称し、旅館となった。岩本坊からの由緒があり、江戸時代前期の岩本院からの歴史もある。
 常識的には「岩本」は岩屋本宮を意味する名で、上之宮(中津宮)や下之宮(辺津宮)が創建される以前からある平安時代(弘仁5年(814年))からの僧坊を引き継ぐものであろう。
 「旧岩本院 岩本楼」は有形文化財の「岩本楼ローマ風呂」や「弁天洞窟風呂」の神秘の湯が楽しめる老舗旅館であるには違いないが、「江の島(の)歴史を伝える島の宿」と謳っているのは当を得ていることだ。
(表紙写真は「旧宮本院 岩本楼」)
 

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  • 岩本楼。積まれた石垣が弁財天仲見世通りの段差を示している。

    岩本楼。積まれた石垣が弁財天仲見世通りの段差を示している。

  • 「旧岩本院 岩本楼」。<br /> 江島神社は慶安2年(1649年)に神仏習合し、金亀山与願寺と号した。岩屋本宮(奥津宮)、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮はそれぞれ「宿坊」を備えていた。しかし、明治時代の神仏分離により江島神社となり、宿坊は一般向けの旅館としてそれぞれ岩本楼、金亀楼、恵比壽楼となった。中津宮の手前には花の名所の中津宮広場になっているが、ここは、上ノ坊が旅館金亀楼として営業していた場所の跡である。金亀楼はこの江の島の山号が付けられた旅館であった。<br /> どのWebにも岩本楼の名前の由来が記載されてはいないが、「駿河府中」が「駿府」となったように、「岩本」は「岩屋本宮」を縮めたものであろう。

    「旧岩本院 岩本楼」。
     江島神社は慶安2年(1649年)に神仏習合し、金亀山与願寺と号した。岩屋本宮(奥津宮)、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮はそれぞれ「宿坊」を備えていた。しかし、明治時代の神仏分離により江島神社となり、宿坊は一般向けの旅館としてそれぞれ岩本楼、金亀楼、恵比壽楼となった。中津宮の手前には花の名所の中津宮広場になっているが、ここは、上ノ坊が旅館金亀楼として営業していた場所の跡である。金亀楼はこの江の島の山号が付けられた旅館であった。
     どのWebにも岩本楼の名前の由来が記載されてはいないが、「駿河府中」が「駿府」となったように、「岩本」は「岩屋本宮」を縮めたものであろう。

  • 岩本楼の西洋建築。

    岩本楼の西洋建築。

  • 岩本楼の和風建築。

    岩本楼の和風建築。

  • 岩本楼。

    岩本楼。

  • 岩本楼玄関。フロントで当家50代当主からお話を伺ってきた。岩本家には江島神社の社紋は後北条家の家紋であると伝承されている。また、岩本の名は諸説あり、岩屋本宮説以外にも、岩屋本宮の誰々という人の中に岩本姓が居たということも可能性が高いという。岩本家は岩本院となった江戸時代以降は血縁であるが、それ以前に岩本坊に入っていた血縁ではない当主も入れて50代なのだという。50代といえば、1,000年を越える歳月を要するであろう。

    岩本楼玄関。フロントで当家50代当主からお話を伺ってきた。岩本家には江島神社の社紋は後北条家の家紋であると伝承されている。また、岩本の名は諸説あり、岩屋本宮説以外にも、岩屋本宮の誰々という人の中に岩本姓が居たということも可能性が高いという。岩本家は岩本院となった江戸時代以降は血縁であるが、それ以前に岩本坊に入っていた血縁ではない当主も入れて50代なのだという。50代といえば、1,000年を越える歳月を要するであろう。

  • 岩本楼の庭の梅の老木。

    岩本楼の庭の梅の老木。

  • 岩本楼。

    岩本楼。

  • 岩本楼。

    岩本楼。

  • 「旧岩本院(岩本楼)」。<br />

    「旧岩本院(岩本楼)」。

  • 「旧岩本院(岩本楼)<br /> 江の島の歴史の中で、貴重な役割を担ってきたのが、この岩本院です。<br /> 中世、江の島には弁才天を本尊とした、「岩屋本宮」・「上之宮」(現中津宮)・「下之宮」(現辺津宮)の三宮があり、それぞれ岩本坊・上之坊・下之坊の各別当寺が管理にあたっていました。<br /> この三坊の中で「岩本坊」は「岩屋本宮」及び、弁才天の御旅所であった「奥津宮」の別当寺で、江戸時代に、院号の使用を許され「岩本院」と称し、江の島全体の総別当でした。<br /> この岩本院の先祖は源氏一族の中の「宇多源氏」の流れをくむ、近江源氏として有名な「佐々木氏」です。<br /> 江戸時代には、文学や芸能にもとりあげられ、中でも歌舞伎の「青砥稿花紅彩画(通称「白浪五人男」)に出てくる「弁天小僧菊之助」は「岩本院の稚児」がモデルであると言われています。」<br /><br />中世からの歴史があると記載されている。しかし、古代からの歴史があるはずだ。

    「旧岩本院(岩本楼)
     江の島の歴史の中で、貴重な役割を担ってきたのが、この岩本院です。
     中世、江の島には弁才天を本尊とした、「岩屋本宮」・「上之宮」(現中津宮)・「下之宮」(現辺津宮)の三宮があり、それぞれ岩本坊・上之坊・下之坊の各別当寺が管理にあたっていました。
     この三坊の中で「岩本坊」は「岩屋本宮」及び、弁才天の御旅所であった「奥津宮」の別当寺で、江戸時代に、院号の使用を許され「岩本院」と称し、江の島全体の総別当でした。
     この岩本院の先祖は源氏一族の中の「宇多源氏」の流れをくむ、近江源氏として有名な「佐々木氏」です。
     江戸時代には、文学や芸能にもとりあげられ、中でも歌舞伎の「青砥稿花紅彩画(通称「白浪五人男」)に出てくる「弁天小僧菊之助」は「岩本院の稚児」がモデルであると言われています。」

    中世からの歴史があると記載されている。しかし、古代からの歴史があるはずだ。

  • 「黄金水汲記念碑」(昭和4年(1929年)銘)。<br />昭和4年(1929年)に岩屋の前の海中で黄金水を汲み取った記念碑で、「江の島のこがねの水や楽風時」ほかが刻まれている。

    「黄金水汲記念碑」(昭和4年(1929年)銘)。
    昭和4年(1929年)に岩屋の前の海中で黄金水を汲み取った記念碑で、「江の島のこがねの水や楽風時」ほかが刻まれている。

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