2018/10/26 - 2018/10/26
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河内温泉大学名誉教授さん
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吉野川が紀の川と名が変わる直前、吉野川は川底が岩礁となり曲がりくねり川幅も狭く、急峻な流れの場所が多くなる。それが栄山寺を過ぎた辺りから、元の表情を取り戻し五條の街へと流れ込む。幾ら豊かな水路であっても、あまりにも荒れる表情を見せると、舟運などには利用し難いだろう。五條辺りからは紀泉山脈から流れ込む水も加え、穏やかな流れとなる。
吉野川から紀の川への変化を多少のこじつけではありますが、細かく書いたのは先に挙げた「栄山寺」散策を書くためであります。元々この寺は遙か昔に友人の偐家持氏に教えられた事が、頭の片隅に残っている。そこへ、直近の若草読書会で取り上げた課題図書の「南北朝」で南朝の長慶天皇が河内天野行宮から追い詰められて(13738月)、ここ栄山寺に行宮を求めることとなった。 栄山寺は奈良時代に藤原武智麻呂(むちまろ)の創建(719年)の寺。現在は真言宗豊山派に属している。薬師如来像(重文)をまつる本堂、子の仲麻呂建立と伝わる八角堂(国宝)、と梵鐘(国宝)そして重文の石塔婆等が吉野川と寺の背後の山の間を水の流れに沿うように配置されています。
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栄山寺本堂と重文の石灯籠
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同説明板
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訪れた日の前日から御本尊薬師如来秋の御開帳が始まったばかり、多少の混雑は覚悟で出掛けたが予想に反して誰一人おらず、寺男と間違えた住職が一人落ち葉を集めているだけ。牛車を所定の位置に停めるとパンフレットを車まで持って来てくれて、その御開帳の案内をしてくださる。当方既に承知しています・・・で、御開帳に伴う特別拝観料はと問うと不要らしい。商売っ気が無いと云えば現金な河内風、当地は信仰心に篤いのだろう。導入部で紹介した地形だけに、大型バスが何台も横付けできるならガイドが団体客を引き連れてやってくることになるのだろう。これは私としては「悪し」悪しです。
秘仏御開帳ですが撮影は出来ません、お庭をどうぞ -
大日堂
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大日堂の前には、重要文化財の七重石塔婆
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国宝梵鐘建物が鉄筋でとかくもの言われていますが
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吉野川の流れに逆らうように、山内の細い通路沿いに散策する。**式伽藍配置等と言うが、当寺は奥行きが無い横一線の配置です。陽の当たる先端が少し赤みがかった紅葉を斜光に眺める八角円堂は法隆寺のそれに近い建物です。しかしより自然の中に在るようで神神しく思えます。菅原道真撰、小野道風書の国宝梵鐘は近代的な建物故にとかくケチが付けられているが、そのような小言どこ吹く風と堂々としている。本堂内の十二神将は室町期とか、奈良、平安そして室町と多くの信仰を集めた栄山寺でありますが、今(今日)は訪れる者も斯様に私一人。おかげで充分に堪能出来た。
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国宝八角円堂
外観が八角、名前が円堂、身舎が四角とはこれ如何にです。
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今日は更に五條から分け入り賀名生の里そして桜温泉までの牛車&銀輪行、さい先の良いスタートを切れました。
木漏れ日の国宝八角円堂
木漏れ日
八角の 円堂身舎は 四角なり <偐偶数好> -
栄山寺配置図
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栄山寺から賀名生までは国道25号に一旦出てから五條市内で国道168号にスイッチするが、今回私は吉野川左岸をショートカットした。以前この付近をバイクで散歩したことがあり、多少の土地勘が残っていた。途中、辯天宗総本山如意寺の脇を通ると168号にすり寄る。この辺りからは、幻の「五新鉄道」とつかず離れずの間隔を持ちつつ紀伊半島の山深く入っていくことになります。
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賀名生は元は「穴生」(あなう)と呼ばれていましたが、1351年足利尊氏が南朝後醍醐天皇に帰順したことを天皇が喜び「願いが叶って目出度い」という意味から「加名生」(かなう)と命名して京都へ還幸された。これが、「正平の一統」です。後に「賀名生」に改められ、明治初期には呼び方を「あのう」と統一された。しかし、昭和34年の町村合併で自治組織としての名称は歴史から消え去りました。賀名生には見事な梅林があり、その近くの堀家には後醍醐天皇(1336年)は足利尊氏に追われ京都を脱出吉野に御所を移す間に、1348年には後村上天皇が、1373年には長慶天皇がそれぞれ行宮としました。この様に賀名生の地は通算約20年間に亘って南朝の行宮として機能していたことになります。
賀名生の言われの標識 -
賀名生の歴史学習施設として国道脇に建てられたのが「賀名生の里歴史民俗資料館」。郷土史の書籍や文化財の展示そして賀名生と南朝の歴史を学習する電子紙芝居が見学出来ます。「観梅シーズンは多くの人が来られます・・・」と案内のご婦人が、ちらしを渡しながら語られるがここでも私一人。全館貸し切り状態で観覧するのも、少々浮かび上がってしまいます。
賀名生の里歴史資料館外観 -
軒瓦も菊の御紋です
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南朝の歴史を電子紙芝居で学習できます
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施設内の風景
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隣接する敷地には移設された「堀家住居」も、天誅組吉村虎太郎が「皇居」と書いたという偏額のレプリカが掲げられています。但し、本物は資料館にありますが。
同説明は西吉野村となっています、西吉野村の意地でしょうか -
当地を歩いてみると、今は柿の出荷シーズンの盛りです。全山柿色と云っても過言で無い見事な柿の山と、急斜面に点在する砦の様な立派な農家。これを往時に当てはめると柿が杉や檜の木材。そして、山々に囲まれた地形、さらには山を越えると東海や瀬戸内へと繋がる港と海路をひかえ、守りには絶好の位置と云えます。古くは壬申の乱でも、一旦吉野にこもった大海人皇子がここを起点に反撃に出て大友皇子を打ち破ります。吉野には、斯様な勢力を受け入れる要素が在ったのかも知れません。幕末の天誅組もその例であったのでしょうか。天誅組は敗れますが、大意は事後大成されて維新を迎えました。話が、大きく前後し過ぎ元へ戻しましょう。
堀家住居外観
五條人 強情なのか 互譲か <偐山頭火> -
天誅組吉村虎太郎の「皇居」偏額
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歴史資料館の裏山にあるという北畠親房の墓を探します。が、少々案内にならない案内標識のおかげで銀輪散歩の距離が稼げます。最後は急峻に付き例によってバイクを押して上がりますと少しひらけた場所に出ます。案内標識によると「県立五條高校賀名生分校」跡とか、更に階段を数段上がると墓が在ります。ほぼ周囲の山々を見渡せる場所が、賀名生行宮の場所でもあったらしい。皇居跡にあった分校の校祖は後醍醐天皇と云える、皇室縁の由緒正しい学校と云うことになるわけですね。
我が母校の同志社は、御所の真向かいという近さでしたが中ではありませんので完全に「負け」ですな -
北畠親房の墓
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その五條高校賀名生分校舎の門
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さて南朝行宮巡りはこの辺にして、最後の課題である西吉野桜温泉へ向かうこととしましょう。その前に西吉野に来たなら是非土産にと薦められた「柿」を買うこととしましょう。資料館の職員のお勧めは「選果場」とか、只少し戻って貰わねばと云うが、わずか10分ほどとのこと。今まで700年ほど前の世界を彷徨いていました、10分程度なら簡単なことです。しかし、この10分大した値打ちが在りました。と、言いますのは帰宅して妻に報告すると随分安い買い物だったようです。
選果場で柿を購入、とにかくお安いです
柿
柿食えば 天下も美味いと 賀名生では <偐四季> -
芋と枝豆は別ですが、柿が一箱で1500円とは
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西吉野温泉と言えば40年ほど前に通った、ここから少し先の西吉野支所脇にあったのを思い出しますが、今は「西吉野きすみ館」という温浴施設となって少し離れた場所に立地している。しかし、これも現在改修中とかで更に先に最近出来た「西吉野桜温泉」という温浴施設を目指すこととなった。
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この西吉野桜温泉ですが、国道から随分入った谷筋の造成地にある。途中待避場所で向こうからの車を待ったり、待たせたりかなり無理をして作られているのがよく分かります。温泉は循環の溜め置きとで言うか、客が少ないので循環するほどでも無いので止めているのだろう。桜温泉の軒先には「もみじ温泉」と提灯がある。これで紫陽花と梅でもあれば「四季の湯」になるな・・・とぼんやりと眺めていたら引き継ぎ客が来たので退散することとした。
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今回は行宮巡りと組み合わせたので、西吉野桜温泉行となったが後数十分走ると十津川温泉郷に入るという選択肢もあります。泉質や設え等の好みがありますが、温泉大学としてはカラオケやバーベキューよりも、質素だが落ち着きがあり泉質に勝る十津川かなと思いました。次回は先に温泉からにしよう。
少し前の写真ですが「十津川温泉湯泉地温泉」です
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