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 土曜日朝から鎌倉へ遊びに行きました。今回は、鶴岡八幡宮⇒長谷寺⇒高徳院(鎌倉大仏)⇒円覚寺のコースで遊んできました。最終目的は、3か月前に予約できた、円覚寺の安寧さんの昼ご飯を食べるために行きました。4月で桜も終わった状況では、少し人が少なく感じました。

大好きな鎌倉散策!

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2018/04/14 - 2018/04/14

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しゅいぐー

しゅいぐーさん

 土曜日朝から鎌倉へ遊びに行きました。今回は、鶴岡八幡宮⇒長谷寺⇒高徳院(鎌倉大仏)⇒円覚寺のコースで遊んできました。最終目的は、3か月前に予約できた、円覚寺の安寧さんの昼ご飯を食べるために行きました。4月で桜も終わった状況では、少し人が少なく感じました。

  • 鎌倉駅から鶴岡八幡宮までの参道です。この道は、鶴岡八幡宮に向かって徐々に狭くなります。

    鎌倉駅から鶴岡八幡宮までの参道です。この道は、鶴岡八幡宮に向かって徐々に狭くなります。

  • 鎌倉駅からゆっくり歩いて10分弱、ようやく到着しました。

    鎌倉駅からゆっくり歩いて10分弱、ようやく到着しました。

  • 康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。

    康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。

  • 源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。

    源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。

  • 頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事を興し、 関東の総鎮守として当宮に厚い崇敬の誠を寄せたのです。

    頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事を興し、 関東の総鎮守として当宮に厚い崇敬の誠を寄せたのです。

  • 結婚式をしていました。

    結婚式をしていました。

  • 武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まりました。

    武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まりました。

  • 鶴岡八幡宮 本殿横側

    鶴岡八幡宮 本殿横側

    鶴岡八幡宮 寺・神社・教会

  • 鶴岡八幡宮 ご朱印

    鶴岡八幡宮 ご朱印

  • 観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっております。

    観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっております。

  • 境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相は、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情を呈しております。

    境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相は、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情を呈しております。

    長谷寺 (長谷観音) 寺・神社・教会

  • つつじも綺麗でした。

    つつじも綺麗でした。

  • 十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂

    十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂

  • 十一面観音菩薩像(長谷観音)

    十一面観音菩薩像(長谷観音)

  • 大黒堂

    大黒堂

  • 大黒堂像は、応永十九年(1412)の銘を持つ神奈川県でも最古の尊像です(通常非公開)。

    大黒堂像は、応永十九年(1412)の銘を持つ神奈川県でも最古の尊像です(通常非公開)。

  • かわいいお地蔵さんもお出ましです。

    かわいいお地蔵さんもお出ましです。

  • ぼたんの花も綺麗でした。

    ぼたんの花も綺麗でした。

  • 高徳院<br />鎌倉大仏へやってきました。

    高徳院
    鎌倉大仏へやってきました。

    高徳院(鎌倉大仏) 寺・神社・教会

  • 「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。

    「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。

  • 北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252( 建長四) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。

    北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252( 建長四) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。

  • 創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334( 建武元) 年および1369( 応安二) 年の大風と1498( 明応七) 年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができます。

    創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334( 建武元) 年および1369( 応安二) 年の大風と1498( 明応七) 年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができます。

  • 露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門( 泰祐) の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみました。

    露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門( 泰祐) の喜捨を得た祐天※・養国の手で復興をみました。

  • 江ノ電です。

    江ノ電です。

  • 土日は、結構混みます。

    土日は、結構混みます。

  • 今度は、北鎌倉の円覚寺

    今度は、北鎌倉の円覚寺

    円覚寺 寺・神社・教会

  • 鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。

    鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。

  • 国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。

    国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。

  • 円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経えんがくきょう」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山ずいろくさん(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます。

    円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経えんがくきょう」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山ずいろくさん(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます。

  • 無学祖元禅師の法灯は高峰顕日こうほうけんにち禅師、夢窓疎石むそうそせき禅師と受け継がれ、その法脈は室町時代に日本の禅の中心的存在となり、 五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。

    無学祖元禅師の法灯は高峰顕日こうほうけんにち禅師、夢窓疎石むそうそせき禅師と受け継がれ、その法脈は室町時代に日本の禅の中心的存在となり、 五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。

  • 円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。

    円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。

  • 室町時代から江戸時代にかけて、いくたびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸時代後期(天明年間)に大用国師だいゆうこくしが僧堂・山門等の伽藍を復興され、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。

    室町時代から江戸時代にかけて、いくたびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸時代後期(天明年間)に大用国師だいゆうこくしが僧堂・山門等の伽藍を復興され、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。

  • 明治時代以降、今北洪川いまきたこうせん老師・釈宗演しゃくそうえん老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。今日の静寂な伽藍は、創建以来の七堂伽藍の形式を伝えており、現在もさまざまな坐禅会が行われています。

    明治時代以降、今北洪川いまきたこうせん老師・釈宗演しゃくそうえん老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。今日の静寂な伽藍は、創建以来の七堂伽藍の形式を伝えており、現在もさまざまな坐禅会が行われています。

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この旅行記へのコメント (1)

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  • イチローさん 2018/05/10 17:19:22
    昔とずい分変わったと感じる鶴岡八幡宮
    こんにちは。
    先に円覚寺の食事を見てからココへ来ました。
    (くいしん坊なので順序が逆になりました)。
    鎌倉も子供の頃から見ているので鶴岡八幡宮も大仏も「むかしと変わらないなァ」という気分で見ていたはずですが、大きな変化も見逃す事が出来ません。

    最初の画像、「参道」ですね。
    この参道は「段葛(だんかずら)」と呼ばれ二の鳥居から八幡宮前にある三の鳥居まで続く道です。
    しゅいぐーさんがコメントしている様に、二の鳥居から歩いて行くとその参道の幅は段々狭くなっています。これは遠近法を使い八幡宮の方から見るとずーっと道幅が同じに見える様に作ったと言われております。確かに八幡宮の交差点を渡った辺りから真っ直ぐに見るとそれが良くわかります。画像で見るとこの道は現在舗装されているのでしょうか? 私が子供の頃は小さな砂利が敷かれた道でとても風情がありました。これも時代の流れなのでしょうか?

    それから八幡宮の敷地に入ると最初に目に付くのが「太鼓橋(たいこばし)」です。源氏池と平家池(確かそうだったと思います)を結ぶ所にかかっている橋で長さは数メートル。登る時はかなり急な角度を登らなくてはなりません。

    私が子供の頃は登る事が出来ましたが、いつからか登る事が出来なくなりました。恐らくけが人が出たか「あぶないから」という理由で登らせなくなったのだと思います。世知辛い世の中になりましたネ。

    中を真っ直ぐ舞殿の方に進み、大石段を見上げる所の左側に、かつて大銀杏(おおいちょう)の木がありました。樹齢千年とも言われておりましたが数年前に強風で根元から倒れたようです。秋に葉が黄色く色づくととてもキレイでした。

    この様に変わった所はたくさんありますが、十分に楽しめる場所である事も確かです。かつては(今もあるのかな?)ここの池に蓮(ハス)がたくさんあって夏の朝に見に行くと花が開く所を見る事が出来ました。

    またお時間のある時に訪れてみて下さい。
    新しい発見があるかも知れませんよ。

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