2018/03/14 - 2018/03/14
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belleduneさん
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東北自動車道から分かれて、昨年11月に開通した9キロ弱の栗子トンネルを通り、山形市へ。米沢城跡の本丸跡にある上杉神社へお参りしました。米沢城は別名舞鶴城、松ヶ岬城と呼ばれています。江戸時代には、米沢藩上杉氏の藩庁が置かれ、上杉景勝、上杉鷹山らが居住し、二の丸には米沢新田藩の藩庁が置かれていました。築城は暦仁元年(1238)頃、長井時広によって建てられたと言われています。米沢市の中心地にあり、戦国時代後期には、伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生したお城だそうです。平城で、本丸、二の丸、三の丸からなる輪郭式縄張りの城。10基の櫓と17棟の門が開かれていたという。上杉氏築城当時は、30万石の居城で、石垣や天守はなく、土塁を築いて、本丸に2基の3階櫓を建てて、天守の代用地していました。旧上杉伯爵邸のある二の丸跡には、米沢市上杉記念館があります。江戸時代の二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する法音寺、大乗寺など御堂に交替で勤める真言宗の二一ヶ寺を置いたそうです。三の丸には、上級、中級家臣の屋敷があり、町人町は、郭外に置かれた町家郭外形の典型的な城下町でした
明治4年(1871)の廃藩置県によって、米沢県隣、最後の藩主・斉憲は城内にあった謙信の御堂を鷹山と共に合祀して、上杉神社としました。明治6年には二の丸の藩の政庁がそのまま郡役所、町役場として利用されました。
- 旅行の満足度
- 4.0
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米沢城趾は現在、松ヶ岬公園となっています。堀もうっすらと張っていた氷がこの暖かさで溶けつつありました。
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上杉謙信は、山内上杉家第16代当主で、越後守護代・長尾為景の4男として生まれ、初名は長尾景虎でした。31才の時に関東管領・上杉憲政の養子となって、家督を譲られました。上杉の性と憲政の「政」の1字を与えられ、上杉政虎と改名。その後、室町幕府の将軍・足利義輝から偏諱(輝の1字)を受けて、上杉輝虎と名乗り、更にのちに称した法号が不識庵謙信でした。
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反対側の景色です。
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これは、参道にある上杉鷹山公の像です。
江戸中期の第9代米沢藩主の上杉治憲は、諱は初め勝興で、後に治憲隣、隠居後に、米沢藩領北部の白鷹山に由来して「鷹山」としたと言われています。領地返上寸前だった米沢藩を再生する切掛を作って、江戸時代屈指の名君だったということは有名です。
「なせば為る 成さねば為らぬ 何事も 成らぬ人の なさぬなりけり」は今も人の心に残る言葉ですね。
ケネディ元大統領は鷹山公を尊敬していたと娘のキャロライン元駐日大使が明言されていることが像の横にも書かれています。 -
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拝殿
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宝物殿の稽照殿は12月1日から3月下旬まで閉館していました。
かの伊東忠太が設計したものだそうです。彼の設計した建物を難点か見ていますが、外観に彼の特徴が見られます。 -
神楽殿
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マツ科のヒマラヤスギの大木。成長が早い木だそうです。
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全体はこんな感じです。
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これは鷹山公の像
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上杉謙信公の像
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上杉家と伊達家はどちらも「竹に雀」というよく似た家紋ですが、上杉家の方は、二羽の雀と輪竹ですが、伊達家はたくさんの葉が広がる根竹が描かれています。
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お堀の向こうに雪を懐いた山並みが見えています。
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