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東武ア-バンパ-クライン(野田線)大宮公園駅から徒歩10分にある土呂陣屋(とろじんや、埼玉県さいたま市北区土呂町)は天正18年(1590)徳川家康の関東入部後当地に封じられた旗本初鹿野昌久(はじかの・まさひさ、1544?~1624)が政庁とした居館で別名「初鹿野陣屋」とも称されています。<br /><br />昌久は甲斐国都留郡の国人領主で上野原城主加藤虎景(かとう・とらかげ、生没不詳)の六男で甲斐国戦国大名武田信玄の家臣初鹿野伝右衛門の子忠次(ただつぐ)の戦死に伴い養子として名跡を継承、信玄及び勝頼の二代に仕え、天正10年(1582)武田氏の滅亡後は徳川家康に臣従します。<br /><br />具体的な経緯としては武田信玄時代では近習衆や使番を務め勇猛さをいかんなく発揮、信玄を引き継いだ武田勝頼の代では側近の一人として勝頼を支え、長篠合戦に敗走する際に勝頼を最後まで守って退却を果たすなど武勇の武将でもあります。<br /><br />武田氏滅亡後の家康は織田信長横死を機に甲斐国に進出し同国内掌握を進め、その策として離散の武田旧家臣を発掘し自らの勢力に引き入れるなか、昌久は駿河に人質として妻子を差し出し家康に仕えることとなります。<br /><br />その後家康の麾下となった昌久は、小牧長久手合戦で戦功を挙げ、天正18年(1590)いわゆる小田原征伐で使番として役割を果たし、同年家康関東移封に伴い武蔵国足立郡、下総国葛飾郡・相馬郡・香取郡にて700石を下賜されます。その後の昌久は大坂の陣でも使番を務めます。<br /><br />武蔵国足立郡土呂村に陣屋を築いた昌久は旧領の甲斐から御嶽社を勧請し初鹿野氏の氏神・土呂の鎮守として祀り、慶長元年(1596)片柳村の萬年寺火災発生に際しては後にこれを再興させます。<br /><br />その後の初鹿野氏は幕末まで代々に亘り当地の支配を続け、その間歴代当社は旗本として小納戸役(こなんどやく、将軍の日常生活に従事する者)、御書院番(ごしょいんばん、将軍の直轄軍団で江戸城の警備、将軍出行時の侍従などを勤める者)、更に浦賀奉行並びに江戸北町奉行など幕府の要職を勤めます。<br /><br />現在では土呂地域の区画整備事業が推進され、東大宮メディカルセンタ-(公的医療機関)と関連する建物や新道路が施され、すっかり景観を失った陣屋跡は勿論のこと関連する地蔵堂や御嶽社の位置は変遷をとげ、現在は東武ア-バンパ-クラインの南側に移転された御嶽社に僃された説明板には次の通り記されています。<br /><br /><br />「 見沼西縁歴史散歩コ-ス <br />             御 嶽 社<br /> <br />この社は村の鎮守で、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)に土呂村の領主初鹿野昌久が甲州から同氏の氏神として勧請したものと伝えられています。初鹿野氏は甲州武田氏の家臣で武田家滅亡後土呂へ移ったものです。明治40年に市民の森の北方、神明社に合祀されましたが、昭和14年1月に旧地へ新築再興されたものです。<br /><br />当社のほかに初鹿野氏ゆかりの場所として、東方約50mの御嶽墓地内には三代の初鹿野昌次及び昌久の子昌季の墓が、北方の地には土呂地蔵堂があり、同地周辺に陣屋を構えていたといいます。また、片柳の萬年寺には同寺を火災による荒廃から復興させた昌久が中興開基として葬られています。<br /><br />                   さいたま市教育委員会<br />                   生涯学習部文化財保護課 」

武蔵土呂 甲斐武田氏旧臣で天正壬午の乱を機に家康に仕え旗本として浦賀奉行並びに江戸北町奉行等幕府の要職を務めた初鹿野氏知行の『土呂陣屋』訪問

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2018/01/08 - 2018/01/08

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滝山氏照

滝山氏照さん

東武ア-バンパ-クライン(野田線)大宮公園駅から徒歩10分にある土呂陣屋(とろじんや、埼玉県さいたま市北区土呂町)は天正18年(1590)徳川家康の関東入部後当地に封じられた旗本初鹿野昌久(はじかの・まさひさ、1544?~1624)が政庁とした居館で別名「初鹿野陣屋」とも称されています。

昌久は甲斐国都留郡の国人領主で上野原城主加藤虎景(かとう・とらかげ、生没不詳)の六男で甲斐国戦国大名武田信玄の家臣初鹿野伝右衛門の子忠次(ただつぐ)の戦死に伴い養子として名跡を継承、信玄及び勝頼の二代に仕え、天正10年(1582)武田氏の滅亡後は徳川家康に臣従します。

具体的な経緯としては武田信玄時代では近習衆や使番を務め勇猛さをいかんなく発揮、信玄を引き継いだ武田勝頼の代では側近の一人として勝頼を支え、長篠合戦に敗走する際に勝頼を最後まで守って退却を果たすなど武勇の武将でもあります。

武田氏滅亡後の家康は織田信長横死を機に甲斐国に進出し同国内掌握を進め、その策として離散の武田旧家臣を発掘し自らの勢力に引き入れるなか、昌久は駿河に人質として妻子を差し出し家康に仕えることとなります。

その後家康の麾下となった昌久は、小牧長久手合戦で戦功を挙げ、天正18年(1590)いわゆる小田原征伐で使番として役割を果たし、同年家康関東移封に伴い武蔵国足立郡、下総国葛飾郡・相馬郡・香取郡にて700石を下賜されます。その後の昌久は大坂の陣でも使番を務めます。

武蔵国足立郡土呂村に陣屋を築いた昌久は旧領の甲斐から御嶽社を勧請し初鹿野氏の氏神・土呂の鎮守として祀り、慶長元年(1596)片柳村の萬年寺火災発生に際しては後にこれを再興させます。

その後の初鹿野氏は幕末まで代々に亘り当地の支配を続け、その間歴代当社は旗本として小納戸役(こなんどやく、将軍の日常生活に従事する者)、御書院番(ごしょいんばん、将軍の直轄軍団で江戸城の警備、将軍出行時の侍従などを勤める者)、更に浦賀奉行並びに江戸北町奉行など幕府の要職を勤めます。

現在では土呂地域の区画整備事業が推進され、東大宮メディカルセンタ-(公的医療機関)と関連する建物や新道路が施され、すっかり景観を失った陣屋跡は勿論のこと関連する地蔵堂や御嶽社の位置は変遷をとげ、現在は東武ア-バンパ-クラインの南側に移転された御嶽社に僃された説明板には次の通り記されています。


「 見沼西縁歴史散歩コ-ス 
  御 嶽 社

この社は村の鎮守で、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)に土呂村の領主初鹿野昌久が甲州から同氏の氏神として勧請したものと伝えられています。初鹿野氏は甲州武田氏の家臣で武田家滅亡後土呂へ移ったものです。明治40年に市民の森の北方、神明社に合祀されましたが、昭和14年1月に旧地へ新築再興されたものです。

当社のほかに初鹿野氏ゆかりの場所として、東方約50mの御嶽墓地内には三代の初鹿野昌次及び昌久の子昌季の墓が、北方の地には土呂地蔵堂があり、同地周辺に陣屋を構えていたといいます。また、片柳の萬年寺には同寺を火災による荒廃から復興させた昌久が中興開基として葬られています。

                   さいたま市教育委員会
                   生涯学習部文化財保護課 」

交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • 土呂陣屋跡周辺状況<br /><br />東武ア-バンパ-クライン(野田線)大宮公園駅から陸橋を越えて、土呂陣屋跡の目印となる地蔵堂をめざすも、新設の公共施設らしき大規模建物が見えるだけです。

    土呂陣屋跡周辺状況

    東武ア-バンパ-クライン(野田線)大宮公園駅から陸橋を越えて、土呂陣屋跡の目印となる地蔵堂をめざすも、新設の公共施設らしき大規模建物が見えるだけです。

  • 区画整備された空地風景<br /><br />今後新設されると思われる区画が整備されて空地としてあります。<br /><br /><br />

    区画整備された空地風景

    今後新設されると思われる区画が整備されて空地としてあります。


  • 区画整備された空地風景<br /><br />グ-グルマップではこのあたりに土呂陣屋跡のマ-クがあったものの実際歩いてみても整理された空地となっています。

    区画整備された空地風景

    グ-グルマップではこのあたりに土呂陣屋跡のマ-クがあったものの実際歩いてみても整理された空地となっています。

  • 区画整備された霊園<br /><br />新見霊園と刻された墓地もありますが、周囲を見渡すと関係する寺社らしき姿は見られません。

    区画整備された霊園

    新見霊園と刻された墓地もありますが、周囲を見渡すと関係する寺社らしき姿は見られません。

  • 霊園風景<br /><br />霊園には一般の墓石が立ち並び、その隣接地は整備されたものの空地となっているだけです。

    霊園風景

    霊園には一般の墓石が立ち並び、その隣接地は整備されたものの空地となっているだけです。

  • 老人ホ-ム入居者募集<br /><br />新規につき横断幕を付して入居者を募集しているところです。

    老人ホ-ム入居者募集

    新規につき横断幕を付して入居者を募集しているところです。

  • 東大宮メディカルセンタ-<br /><br />東武ア-バンパ-クライン(野田線)大宮公園駅から陸橋を越えて、土呂陣屋跡の目印となる地蔵堂をめざします。目前には大規模建物があり「東大宮メディカルセンタ-」と称する医療関連施設があります。

    東大宮メディカルセンタ-

    東武ア-バンパ-クライン(野田線)大宮公園駅から陸橋を越えて、土呂陣屋跡の目印となる地蔵堂をめざします。目前には大規模建物があり「東大宮メディカルセンタ-」と称する医療関連施設があります。

  • 駐車場<br /><br />地蔵堂なるものは見当たりません。

    駐車場

    地蔵堂なるものは見当たりません。

  • 東大宮メディカルセンタ-新設の道路<br /><br />当該センタ-の建物の南側は新設された道路が完成したばかりで、更にその南側は開発以前の姿と思わせる雑木林などの景観が残っています。このあたりが開発前の土呂陣屋跡であるかどうか判りません。

    東大宮メディカルセンタ-新設の道路

    当該センタ-の建物の南側は新設された道路が完成したばかりで、更にその南側は開発以前の姿と思わせる雑木林などの景観が残っています。このあたりが開発前の土呂陣屋跡であるかどうか判りません。

  • 新設道路風景<br /><br />雑木林や竹林といった開発される前の風景が残存として一部見られ、掘り起こされたと思われる石塊が数多く積まれています。

    新設道路風景

    雑木林や竹林といった開発される前の風景が残存として一部見られ、掘り起こされたと思われる石塊が数多く積まれています。

  • 工事案内板<br /><br />期間を区切って「調整池」が造成されているようです。

    工事案内板

    期間を区切って「調整池」が造成されているようです。

  • 区画整理組合ニュ-ス<br /><br />現在でも区画整理組合が存在しているようです。

    区画整理組合ニュ-ス

    現在でも区画整理組合が存在しているようです。

  • 開発を免れた南側の小道<br /><br />旧家の敷地を挟む小道がむなしく残っています。<br /><br />

    開発を免れた南側の小道

    旧家の敷地を挟む小道がむなしく残っています。

  • 土呂陣屋跡で開発を免れた南側風景<br /><br />当該建物の南側は旧家があって開発を免れており、地形的にはなだらかな斜面となっているのが認められます。軒先で作業されている男性に尋ねると「初鹿野陣屋跡は自宅の裏側にあった」との証言がありました。

    土呂陣屋跡で開発を免れた南側風景

    当該建物の南側は旧家があって開発を免れており、地形的にはなだらかな斜面となっているのが認められます。軒先で作業されている男性に尋ねると「初鹿野陣屋跡は自宅の裏側にあった」との証言がありました。

  • 移設された地蔵堂<br /><br />併せて地蔵堂の場所をお聞きすると「区画整理のため移設された」として現在の場所をご教示いただきました。

    移設された地蔵堂

    併せて地蔵堂の場所をお聞きすると「区画整理のため移設された」として現在の場所をご教示いただきました。

  • 土呂地蔵堂<br /><br />

    土呂地蔵堂

  • 土呂地蔵堂説明板<br /><br />説明板には次の通り記されています。<br /><br />「 土呂の地蔵堂<br />     所在地 さいたま市北区土呂町1510<br /><br />この地蔵堂は、地元の人の話によると、かなり古くから、この地にあって、村民の信仰をあつめていたといわれている。一説には、江戸時代の土呂村領主旗本初鹿野氏が近くにある同家の墓守堂として建てられたものといわれているが、『新編武蔵野風土記稿』には「村民の持」と記されているのみで、その創建や由来については詳かではない。<br /><br />地蔵堂には、現在、本尊の地蔵菩薩のほか、薬師如来、大黒天の三尊が安置されている。<br /><br />なお、初代初鹿野昌久は甲斐国武田の家臣であったが、主家滅亡後、徳川家康に仕え、天正18年(1590)徳川氏の関東入国に伴って土呂村の領主となったもので、この地蔵堂付近に陣屋を築き、以来幕末まで知行した。同氏が甲斐国から勧請したという御嶽社は幾度かの変遷をみて、現在隣の薄田氏屋敷内に祀られている。また、東武線南側の墓地跡には初鹿野の墓碑が残っている。<br />              昭和60年3月<br />                     さいたま市 」<br />

    土呂地蔵堂説明板

    説明板には次の通り記されています。

    「 土呂の地蔵堂
         所在地 さいたま市北区土呂町1510

    この地蔵堂は、地元の人の話によると、かなり古くから、この地にあって、村民の信仰をあつめていたといわれている。一説には、江戸時代の土呂村領主旗本初鹿野氏が近くにある同家の墓守堂として建てられたものといわれているが、『新編武蔵野風土記稿』には「村民の持」と記されているのみで、その創建や由来については詳かではない。

    地蔵堂には、現在、本尊の地蔵菩薩のほか、薬師如来、大黒天の三尊が安置されている。

    なお、初代初鹿野昌久は甲斐国武田の家臣であったが、主家滅亡後、徳川家康に仕え、天正18年(1590)徳川氏の関東入国に伴って土呂村の領主となったもので、この地蔵堂付近に陣屋を築き、以来幕末まで知行した。同氏が甲斐国から勧請したという御嶽社は幾度かの変遷をみて、現在隣の薄田氏屋敷内に祀られている。また、東武線南側の墓地跡には初鹿野の墓碑が残っている。
                  昭和60年3月
                         さいたま市 」

  • 土呂地蔵堂

    土呂地蔵堂

  • 供養塔<br /><br />地蔵堂の区画内には移設された供養塔が並んでいます。

    供養塔

    地蔵堂の区画内には移設された供養塔が並んでいます。

  • 土呂地蔵堂(近景)

    土呂地蔵堂(近景)

  • 地蔵堂周辺風景

    地蔵堂周辺風景

  • 地蔵堂風景(遠景)<br />

    地蔵堂風景(遠景)

  • 東武線南縁にある墓地<br /><br />

    東武線南縁にある墓地

  • 東武線南縁にある初鹿野氏墓石<br /><br />判然としませんが初鹿野氏に関わる墓石が見られます。<br /><br /><br />

    東武線南縁にある初鹿野氏墓石

    判然としませんが初鹿野氏に関わる墓石が見られます。


  • 地東武線南縁にある墓<br /><br />

    地東武線南縁にある墓

  • 東武線南縁にある墓地<br />

    東武線南縁にある墓地

  • 東武線南縁にある墓地<br /><br />区画整理から取り残された墓所を捉えます。

    東武線南縁にある墓地

    区画整理から取り残された墓所を捉えます。

  • 土呂陣屋跡(遠景)<br /><br />東武ア-バンパ-クライン越しに開発建設されたメディカルセンタ-を望み、手前(南側)には開発を逃れた雑木林と民家が確認されます。

    土呂陣屋跡(遠景)

    東武ア-バンパ-クライン越しに開発建設されたメディカルセンタ-を望み、手前(南側)には開発を逃れた雑木林と民家が確認されます。

  • 土呂陣屋跡(近景)<br /><br />僅かに区画整理から外された旧来の景観があって、2~3軒ほどの民家とそれを取り巻く雑木林が確認され、手前の畑からなだらかな斜面が手前の線路側に下ってきています。

    土呂陣屋跡(近景)

    僅かに区画整理から外された旧来の景観があって、2~3軒ほどの民家とそれを取り巻く雑木林が確認され、手前の畑からなだらかな斜面が手前の線路側に下ってきています。

  • 御嶽社と鳥居<br /><br />区画整理された土地の隅には新しい鳥居と祠堂が建っています。

    御嶽社と鳥居

    区画整理された土地の隅には新しい鳥居と祠堂が建っています。

  • 初鹿野氏氏神の御嶽社<br /><br />徳川家康に従って関東入部後に土呂を下賜された初鹿野昌久が氏神として祀った御嶽社があります。かつては土呂陣屋内にあったと思われますが、土呂地区区画整理事業の一環で道路貫通予定地内に在していたため不本意ながら台地の南縁に遷座されています。

    初鹿野氏氏神の御嶽社

    徳川家康に従って関東入部後に土呂を下賜された初鹿野昌久が氏神として祀った御嶽社があります。かつては土呂陣屋内にあったと思われますが、土呂地区区画整理事業の一環で道路貫通予定地内に在していたため不本意ながら台地の南縁に遷座されています。

  • 御獄社説明板

    御獄社説明板

  • 御嶽社展望<br /><br />芝川に臨む低地側から御嶽社を一望します。

    御嶽社展望

    芝川に臨む低地側から御嶽社を一望します。

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