浅井・湖北・高月旅行記(ブログ) 一覧に戻る
  <プロローグはオムライス><br /> 白洲正子というエッセイストがおられます。詳しいプロフィールは次項にゆずるとして、仏像や能面・作庭等の日本文化に造詣が深く各地を巡り歩き作品に残されています。それらの痕跡が明確に残る滋賀や奈良・京都に関する作品は特に素晴らしいと評価され、お亡くなりになった後も長く読み継がれています。<br /> その白洲作品に紹介されています、十一面観音菩薩立像の中で国宝を含めた三体の像を見学する湖東地区への旅を今回計画しました。湖東地区に神社仏閣集中しているのはこの周辺が戦国の戦に代表されるように、豊穣の地であり地政学的に都という政治の表舞台への花道であるために権力者の争点になりました。その覇者が権勢を誇る上で象徴的な仏教に力を注いだ結果では無いでしょうか。中でも、今回の十一面観音像が湖北から南へと直線的かつ集中している謎の一つの解は先で白洲がこたえています<br /> 仏像巡りには先ずは腹ごしらえ、戦に向かう武将と同じですな。そこで検討候補に挙がったのが「近江西川」ですき焼ですが、これでは昼食で軍費を使い果たすこととなります。次なる候補がたねやが経営する「ラコリーナ近江八幡」という超今風のレストランです。初見でもあり道行きの愚妻の了解も得られて決定です。<br /> 創業の枠を越え、新規業態を開拓するという企業は、滋賀には意外と多い。大きく云えば「伊藤忠商事」や「オオミケンシ」。和菓子の「叶 匠壽庵」もお菓子屋のソニーと云われたこともありました。ラコリーナ近江八幡を経営する「たねや」は近江八幡市の和菓子屋ですが、西の湖近くに広大な土地を求めてテーマパーク型のレストランで若者の好評を得ています。ここの昼食はオムライス一品のみ。五穀玄米をふんわりとした卵焼きで包み、完熟トマトの切り身を乗せスープを注いであります。御飯とサラダそしてスープがワンプレートに合理的に仕上がっています。調理に手間を架けず客も満足、いわば江州商法のお手本のような一品です。<br /> 腹八分目に仕上がりました。力を注いでいると云うカステラを土産に観音様見学に出かけましょう。十一面観音を三体ですから、三十三面観音巡りの出発です。<br /><br /> あきんど<br /> 商人が 近江路から出 世界へと <偐山頭火><br /><br /> <50年ぶりに石塔と再会><br /> 観音様を巡る旅の陰の主役は白洲正子さんですが、プロフィールによりますと<br /> =1910年(明治43年)1月7日東京府東京市麹町区に父樺山愛輔と母・常子の次女として生まれる。祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父に川村純義(海軍大将、伯爵)。1914年(大正3年)能を習い始める。1928年(昭和3年)ハートリッジ・スクール卒業。聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)中退。1929年(昭和4年)白洲次郎と結婚。1942年(昭和17年)東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・東京都町田市能ヶ谷)の古農家を購入。この頃から細川護立に古美術の手ほどきを受ける。1964年(昭和39年)随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。1972年(昭和47年)随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞受賞(随筆・紀行部門)1998年(平成10年)12月26日(88歳没)=<br /> 薩摩藩士の子女として生まれ、戦後の日本復興を陰で支えた白洲次郎と結婚。縁あって小林秀雄、大岡昇平などとの交流の中で文筆や日本文化の博識を研いています。<br /> 今回の道行きの切っ掛けとなった「かくれ里」(ざと)は24編のエッセイ集。岐阜・福井各2編、京都6編、滋賀9編そして奈良が5編の構成で滋賀の油日から始まり奈良の葛城で終わっています。作品中に出てくる地域や寺院そして神社などは彼女と同時期に訪れた場所も多い、しかし感性の違いというか知識の違いをまざまざと覚えさせられるシーンや下りが多い作品です。「葛城のあたり」では、橿原神宮と少し南に位置する柏原の神武天皇社との関係など思いもよらぬ展開です。この柏原の地や葛城山麓の社寺も既に訪れており、いずれ紹介できると思う。<br /> さて、十一面観音様のお一人目は「石塔寺」(いしどうじ)です。約50年前に所属する若草読書会の古いメンバーと訪れたことがあります。再訪を希望していたのですが諸般の事情で、今回まで先送りとなっておりました。その頃流行っていた「前衛映画」のロケで使われ、石仏群の中を得体の知れない裸体の女性が動き回る・・・という青年僧偐山頭火には刺激の強いシーンの映画でした。今回受付の若い僧にお尋ねしても、時代劇のロケには使われてこともありましたが最近は・・・とご存じ無い様子、然もありなん。<br /> 158段いう急な石段を息を切らせながら上り詰めたら石塔が待っています。初回見た時は韓国の扶余で見た石塔と同じだと思いました。白洲さんは作品中「石をたずねて」で半島の系統だが作ったのは日本人だと語っています、塔の心柱部分が半島より細いのがその理由かも知れません。この大きな石塔を囲むように幾万と云われる石仏と石塔群が取りまいています。さて、お目当ての観音様は麓の本堂に優しいお顔でおられますが、撮影禁止につき読者の皆様はご辛抱下さい。石塔寺や湖東アルプスにある狛坂廃寺、石垣の穴太衆積み等、石の文化が滋賀の特色と魅力であり半島の文化の影響の痕跡だと思います。<br /> <br /> 石塔にて<br /> 青年が 心惑わす 石塔の 影になったり 顕わになったり <青年偐山頭火><br /><br /> <旅の途中で><br /> 旅をする楽しみの多くは新しい見聞と食べ物、加えて温泉があれば云うこと無し。これに異論を挟む余程の無粋はいないだろう。歳をとると食べ物もそう珍しい物という欲も無くなり、上げ膳、据え膳で喰わせて貰えば大方のご婦人も二の句は無いでしょう。<br /> 初日の昼食はオムレツ、それも一皿完結型という超合理的であり、普通に見たら「超格好いい」ランチであります。そこへ持って値段がそこそこなので非の打ち所がない。近江商人にしてやられたところでしょう。安い飯につい釣られて入り、結構高価な土産を手にして良い気分で帰るしかない。ますますしてやられっぱなしですな。<br /> 琵琶湖での泊まりはここ数年は木之本の「己高庵」(ここうあん)という公設民営の旅館です。残念ながら温泉は無いが、地場産業の薬草をふんだんに使った「薬草風呂」でもてなしてくれます。温泉と云うだけで、消毒薬注入の循環ぐるぐる温泉よりは余程身体に良いと思います。薬草湯にユッタリつかった後はいつまでも身体がほてり、肌がすべすべしています。勿論、自家用にも沢山買い込みました。なお、鯖街道大原にて定番土産、土井しば漬けも買ったのは云うまでもありません。<br /> 料理は一手のみ。特に頼めば近江牛でもやってくれますが、宛行で充分です。北に山を越せば日本海の幸、手前には琵琶湖の幸そして地場の野菜と米が美味しいので、あれこれ口出しせずに調理場に任せるのが一番です。そしてそれが一番安い。愚妻によるとこの宿、ネットでは結構評判が良い。その理由はあれこれ構われないので隠れ家的な利用客の支持が高いとか。私も同感です、石田三成が関ヶ原の戦後の敗走時に隠れていた、己高山(こだかみやま)山中の「オトチの洞穴」を見上げるサンショウウオが生息する渓流沿いの隠れ宿です。<br /> <br /> 己高庵<br />  良い宿は 見たか聞いたか 己高庵 <安コピー屋><br /><br /> <艶めかしい観音に対面><br /> 白洲正子伝の続きです。<br />  彼女は川上徹太郎(軽井沢の別荘隣家に住む縁)、大岡昇平、今日出海、志賀直哉、小林秀雄といった文壇人。細川護立(細川家16代当主)、梅若実(二代目能シテ)等の文化人との交流を得て作家として成長します。本格的な文壇デビューは昭和38年53歳で「能面」を出版、翌年第15回読売文化賞を同作で受賞した。昭和44年59歳で「かくれ里」を芸術新潮に2年間連載。昭和46年新潮社より刊行し翌年第24回読売文学賞を受賞する。昭和49年芸術新潮に「十一面観音巡礼」を連載。昭和50年新潮社より「十一面観音巡礼」を出版。昭和60年夫白須次郎(83歳)死去。遺言により葬式は行わず、遺族が集まり酒盛りをする。昭和61年芸術新潮に「西行」を連載。昭和63年新潮社より「西行」出版。<br />  「かくれ里」の「人と作品」に青柳恵介氏は「女流作家という言葉がこれからいつの時代まで使われる言葉かわからないけれども、白洲正子という作家は俗な分類でいう紫式部タイプとも、清少納言タイプとも違う、女流作家の「女流」ということを全く感じさせない作家」と表している。先の作家連中とつきあうために、全く飲めない酒を飲み三度も胃潰瘍になったという彼女の生き様にも青柳氏の言葉を体現しようとした白洲が重なって見えてくる気がします。<br /> その白洲正子が「かくれ里」で一番力点を置いたのではないかと思われる十一面観音像が「湖北 管浦」の項で登場します。JR高月駅近くの慈雲山向源寺「付属」観音堂に祀られている国宝の十一面観音像とその北すぐにある己高山鶏足寺の十一面観音像です。国宝の観音像は「渡岸寺観音像」としてよく紹介されますが、この渡岸寺(どがんじ)は地名です。お祀りしている向源寺の東にある寺領の飛地の字名が「渡岸寺」であるためこう呼ばれています。なぜこうもややこしいかと云いますと、この観音様は元々は天台宗の光現寺の所蔵でありましたが、信長の焼き討ちを恐れた往時の住職や在家の人々が土中に埋め隠していた。戦の後にこれを掘り起こしたが、光現寺は廃寺されて向源寺が建てられて、宗派が真宗と変わっていた。観音菩薩を本尊とすることが教団から認められなかったため窮余の策として寺の飛地に「付属」観音堂を建てて今もお祀りしているという。像を所有管理されている向源寺は、観音堂の西数メートルにあり、言葉が悪いが隠居の方が母屋より目立っています。しかし、在家の人々の信仰心は今も篤く訪れた日も、壮年会や婦人会が熱心に寺とも云えない観音堂周辺を熱心にお掃除なされていた。<br /> 曰くが長くなりましたが、どういう経緯で渡岸寺におられていようが誠に麗しいお姿の観音様です。右足が少し前に出て腰が垂れ下がった様子が女性らしいと云えば、白洲正子にしかられてしまいそうです。由来によると、聖武天皇の時代天平八年都で疱瘡が大流行、それが祈願のため白山の泰澄大師に命じて十一面観音を祀った、延暦九年最澄が伽藍を建造して以来天台宗の寺院として栄えた。仏像はこの少し下った頃に造られたらしい。<br /> 観音堂の周りは木立と田んぼが、その先にはこの地を本貫として栄えた浅井家の小谷城が望まれます。小谷城も十年も前なら車ででも自由に登城することができましたが、今は車止めがあり専用車でしか上れないと聞きます。麓で湧く須賀谷温泉に至っては、お市の方までもが湯浴みを楽しんだこととなっているらしい。我々はもう少し現実離れして、昨夜の宿近くの鶏足寺十一面観音像へ虎号を進めることしましょう。<br /> <br /> 渡岸寺にて<br /> 十一の アンテナを張る 仏様 渡岸の地から 四方を思いつ <偐聖武> <br /><br /> <素朴な観音像> <br /> 我々が泊まった己高庵は己高山の麓にあるが、山中にあったのが鶏足寺です。己高山山中には己高七寺と呼ぶ修験道の名刹があったそうで、その一つが鶏足寺。開いたのが行基と泰澄大師、後に再興したのが最澄という。先の渡岸寺と同じキャストが登場するのは、白洲正子によると白山信仰が泰澄によって越前から都へと伝えられた痕跡だという。他にも越前から近江にかけてそのような伝説が残っていると「湖北 管浦」で記している。さらに湖北を開いたのは、本地垂迹思想の創始者である泰澄大師だったと述べている。プロローグでふれた、白洲さんの言う琵琶湖の東部を北から南につながる観音信仰の直線的な痕跡の謎解きです。<br />  鶏足寺は本堂は焼失しているが、本尊などは輿志漏神社(よしろじんじゃ)内の己高閣に保管されている。ちなみに現在紅葉で著名な鶏足寺は、旧飯福寺(はんぷくじ)のことで元々は鶏足寺の別院です。己高閣の後ろに世代閣という収蔵庫があるが、これは巳高七寺の一つ世代山戸岩寺(といわじ)の本尊薬師如来立像などを保存している。<br /> その己高閣の十一面観音像は先に拝見した渡岸寺にある観音様に比べて素朴、田舎娘といった雰囲気だがこれは好みの問題か。収蔵物には他にもあったが案内のおじさんに特に紹介されたのが猿の彫り物。白洲さんも「単純な彫りと木目が美しく、顔つきも愛らしい」と感想を述べている。加えるなら、信長の仕打ちで壊滅状態になった天台宗寺院を秀吉が手厚く援助しているが、その秀吉の文書に並んで「猿」が置かれていることに含み笑いしてしまいました。<br /> 我々が訪れたのは秋が足早に過ぎ去り己高山の頂には雪が積っている厳冬、秋には波のように観光客が訪れて応対に大変だが今は時間をかけて案内できると、係のおじさんは朴訥と語る。「鶏足寺は建物等は何も無くなったが、形式上は真言宗豊山派奈良長谷寺に属しています。それをお守りしている我々は真宗ですわ」と鶏足寺の仏様方も先の向源寺と同じ境遇にあることを面白おかしく語っていた。ボランティアと云えばそれまでだが、篤い素朴な信仰心のなせるボランティアではないかと思わせる。おかげで三十三面観音像巡りの結願です、丁寧にお礼を述べて辞した。<br /> さあ、虎号を管浦を大きく迂回して琵琶湖の西へと進め、朽木の興聖寺へと向かうこととする。背後からは大きく黒い雪雲が迫ってきているが、観音様の御慈悲を期待しよう。<br /> <br /> 輿志漏神社versus鶏足寺<br />  神様に  屋台を借りて  本地垂迹 <偐泰澄><br />  どちら様 貸して借りても 本地垂迹 <偐白洲><br /><br /> *本地垂迹説:仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。白洲正子はこの逆が本質ではないか(かくれ里 宇陀の大蔵寺)とも語っている。<br /> <br /> <エピローグは借景山水庭園> <br /> 賤ヶ岳へ登るロープウエイを横目で見て狭いトンネルを抜け、管浦への曲がりくねった道との交点を更に北に走ると、湖西へ貫通する近代的な国道303号に出る。これを左折して走り西琵琶湖へ向かう。旧奥琵琶湖ドライブウエイから管浦経由で行くのが、白洲さんらしい走り方だが暗雲を背にしてのドライブはリスクを排除しよう。国道303号の奥琵琶湖トンネルをくぐるとマキノ、さらに西へ進むと業平が隠棲したと伝わる在原地区へ行くが、今回は国道161号を南下して琵琶湖岸道路へ進む。今津で再び国道303号で西へ向かい、函館山スキー場を右手にしつつ比良山系の山並みを迂回すると鯖街道へ入ります。<br /> 鯖街道朽木宿の高厳山興聖寺は嘉禎3年(1237年)近江の守護佐々木信綱が曹洞宗開祖道元禅師に願い出て建立、仁治元年(1240年)遷仏式が行われた永平寺の末寺。西近江の宗派を統括する総禄所でありました。佐々木信綱は宇多天皇の直系(とも寺伝に書かれているが)、晩年この地に入り隠棲、高野山で没しています。曾孫の義綱より朽木氏に改め廃藩置県まで1万石の大名だったそうです。<br />  室町幕府十二代将軍足利義晴が三好松永の乱を避け朽木氏を頼り三年間、十三代将軍義輝は細川幽斎を従えて六年半それぞれこの地に滞在した。その時、細川幽斎は熊川城主の沼田光兼の娘・麝香(じゃこう)と結ばれる。幽斎も相当な趣味人だったらしく和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、今の十八代当主細川護熙もその血筋をひいているのでしょうか。<br /> 脇道へ入り込んでしまいました。興聖寺に十二代足利義晴が滞在した期間、将軍を慰めるために銀閣寺の庭園を基に造られたのが旧秀隣寺庭園です。「近江には、人に知られていないが、名園が多い」と「かくれ里 石をたずねて」で白洲さんが紹介している庭園です。「安曇川の渓流をへだてて、比良山が眺められる。今は少々荒れているが妙に手のこんだ庭園より、石組みも自然で、気持ちがいい。」と云うように素朴な石と借景が素晴らしい庭園です。案内を請うと寺の奥様が出てこられて、本堂へ案内された。寺の生い立ちや朽木の歴史、朽木氏のお話と細川家との関係等を皇室や総理大臣の写真を並べて説明を受けるが、庭園に関してはどうぞご覧くださいという程度で些か肩すかしでした。だが、それだけ先入観なしに山水画のような薄い雪景色の比良山系を借景にした庭園を堪能することができたとも云えます。その雪雲がさらに低くなってきました、鯖街道を京へ急ぎましょう。<br /> 石の文化で入った滋賀の旅、十一面観音が三体で三十三面になって再び石の庭園で幕を下ろすのは何かの縁でしょう。足早でありましたが白洲ワールドの中、奥琵琶湖の東西を楽しめた旅でもありました。<br /> <br /> 借景山水<br />  石と池 比叡を従え 雪の中 <偐山頭火><br />

白洲正子ワールド「湖東三十三面観音菩薩立像巡り」

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2017/12/25 - 2017/12/26

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旅行記グループ 白洲正子ワールド

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河内温泉大学名誉教授

河内温泉大学名誉教授さん

<プロローグはオムライス>
 白洲正子というエッセイストがおられます。詳しいプロフィールは次項にゆずるとして、仏像や能面・作庭等の日本文化に造詣が深く各地を巡り歩き作品に残されています。それらの痕跡が明確に残る滋賀や奈良・京都に関する作品は特に素晴らしいと評価され、お亡くなりになった後も長く読み継がれています。
 その白洲作品に紹介されています、十一面観音菩薩立像の中で国宝を含めた三体の像を見学する湖東地区への旅を今回計画しました。湖東地区に神社仏閣集中しているのはこの周辺が戦国の戦に代表されるように、豊穣の地であり地政学的に都という政治の表舞台への花道であるために権力者の争点になりました。その覇者が権勢を誇る上で象徴的な仏教に力を注いだ結果では無いでしょうか。中でも、今回の十一面観音像が湖北から南へと直線的かつ集中している謎の一つの解は先で白洲がこたえています
 仏像巡りには先ずは腹ごしらえ、戦に向かう武将と同じですな。そこで検討候補に挙がったのが「近江西川」ですき焼ですが、これでは昼食で軍費を使い果たすこととなります。次なる候補がたねやが経営する「ラコリーナ近江八幡」という超今風のレストランです。初見でもあり道行きの愚妻の了解も得られて決定です。
 創業の枠を越え、新規業態を開拓するという企業は、滋賀には意外と多い。大きく云えば「伊藤忠商事」や「オオミケンシ」。和菓子の「叶 匠壽庵」もお菓子屋のソニーと云われたこともありました。ラコリーナ近江八幡を経営する「たねや」は近江八幡市の和菓子屋ですが、西の湖近くに広大な土地を求めてテーマパーク型のレストランで若者の好評を得ています。ここの昼食はオムライス一品のみ。五穀玄米をふんわりとした卵焼きで包み、完熟トマトの切り身を乗せスープを注いであります。御飯とサラダそしてスープがワンプレートに合理的に仕上がっています。調理に手間を架けず客も満足、いわば江州商法のお手本のような一品です。
 腹八分目に仕上がりました。力を注いでいると云うカステラを土産に観音様見学に出かけましょう。十一面観音を三体ですから、三十三面観音巡りの出発です。

 あきんど
 商人が 近江路から出 世界へと <偐山頭火>

 <50年ぶりに石塔と再会>
 観音様を巡る旅の陰の主役は白洲正子さんですが、プロフィールによりますと
 =1910年(明治43年)1月7日東京府東京市麹町区に父樺山愛輔と母・常子の次女として生まれる。祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父に川村純義(海軍大将、伯爵)。1914年(大正3年)能を習い始める。1928年(昭和3年)ハートリッジ・スクール卒業。聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)中退。1929年(昭和4年)白洲次郎と結婚。1942年(昭和17年)東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・東京都町田市能ヶ谷)の古農家を購入。この頃から細川護立に古美術の手ほどきを受ける。1964年(昭和39年)随筆『能面』で第15回読売文学賞受賞。1972年(昭和47年)随筆『かくれ里』で第24回読売文学賞受賞(随筆・紀行部門)1998年(平成10年)12月26日(88歳没)=
 薩摩藩士の子女として生まれ、戦後の日本復興を陰で支えた白洲次郎と結婚。縁あって小林秀雄、大岡昇平などとの交流の中で文筆や日本文化の博識を研いています。
 今回の道行きの切っ掛けとなった「かくれ里」(ざと)は24編のエッセイ集。岐阜・福井各2編、京都6編、滋賀9編そして奈良が5編の構成で滋賀の油日から始まり奈良の葛城で終わっています。作品中に出てくる地域や寺院そして神社などは彼女と同時期に訪れた場所も多い、しかし感性の違いというか知識の違いをまざまざと覚えさせられるシーンや下りが多い作品です。「葛城のあたり」では、橿原神宮と少し南に位置する柏原の神武天皇社との関係など思いもよらぬ展開です。この柏原の地や葛城山麓の社寺も既に訪れており、いずれ紹介できると思う。
 さて、十一面観音様のお一人目は「石塔寺」(いしどうじ)です。約50年前に所属する若草読書会の古いメンバーと訪れたことがあります。再訪を希望していたのですが諸般の事情で、今回まで先送りとなっておりました。その頃流行っていた「前衛映画」のロケで使われ、石仏群の中を得体の知れない裸体の女性が動き回る・・・という青年僧偐山頭火には刺激の強いシーンの映画でした。今回受付の若い僧にお尋ねしても、時代劇のロケには使われてこともありましたが最近は・・・とご存じ無い様子、然もありなん。
 158段いう急な石段を息を切らせながら上り詰めたら石塔が待っています。初回見た時は韓国の扶余で見た石塔と同じだと思いました。白洲さんは作品中「石をたずねて」で半島の系統だが作ったのは日本人だと語っています、塔の心柱部分が半島より細いのがその理由かも知れません。この大きな石塔を囲むように幾万と云われる石仏と石塔群が取りまいています。さて、お目当ての観音様は麓の本堂に優しいお顔でおられますが、撮影禁止につき読者の皆様はご辛抱下さい。石塔寺や湖東アルプスにある狛坂廃寺、石垣の穴太衆積み等、石の文化が滋賀の特色と魅力であり半島の文化の影響の痕跡だと思います。
 
 石塔にて
 青年が 心惑わす 石塔の 影になったり 顕わになったり <青年偐山頭火>

 <旅の途中で>
 旅をする楽しみの多くは新しい見聞と食べ物、加えて温泉があれば云うこと無し。これに異論を挟む余程の無粋はいないだろう。歳をとると食べ物もそう珍しい物という欲も無くなり、上げ膳、据え膳で喰わせて貰えば大方のご婦人も二の句は無いでしょう。
 初日の昼食はオムレツ、それも一皿完結型という超合理的であり、普通に見たら「超格好いい」ランチであります。そこへ持って値段がそこそこなので非の打ち所がない。近江商人にしてやられたところでしょう。安い飯につい釣られて入り、結構高価な土産を手にして良い気分で帰るしかない。ますますしてやられっぱなしですな。
 琵琶湖での泊まりはここ数年は木之本の「己高庵」(ここうあん)という公設民営の旅館です。残念ながら温泉は無いが、地場産業の薬草をふんだんに使った「薬草風呂」でもてなしてくれます。温泉と云うだけで、消毒薬注入の循環ぐるぐる温泉よりは余程身体に良いと思います。薬草湯にユッタリつかった後はいつまでも身体がほてり、肌がすべすべしています。勿論、自家用にも沢山買い込みました。なお、鯖街道大原にて定番土産、土井しば漬けも買ったのは云うまでもありません。
 料理は一手のみ。特に頼めば近江牛でもやってくれますが、宛行で充分です。北に山を越せば日本海の幸、手前には琵琶湖の幸そして地場の野菜と米が美味しいので、あれこれ口出しせずに調理場に任せるのが一番です。そしてそれが一番安い。愚妻によるとこの宿、ネットでは結構評判が良い。その理由はあれこれ構われないので隠れ家的な利用客の支持が高いとか。私も同感です、石田三成が関ヶ原の戦後の敗走時に隠れていた、己高山(こだかみやま)山中の「オトチの洞穴」を見上げるサンショウウオが生息する渓流沿いの隠れ宿です。
 
 己高庵
良い宿は 見たか聞いたか 己高庵 <安コピー屋>

 <艶めかしい観音に対面>
 白洲正子伝の続きです。
 彼女は川上徹太郎(軽井沢の別荘隣家に住む縁)、大岡昇平、今日出海、志賀直哉、小林秀雄といった文壇人。細川護立(細川家16代当主)、梅若実(二代目能シテ)等の文化人との交流を得て作家として成長します。本格的な文壇デビューは昭和38年53歳で「能面」を出版、翌年第15回読売文化賞を同作で受賞した。昭和44年59歳で「かくれ里」を芸術新潮に2年間連載。昭和46年新潮社より刊行し翌年第24回読売文学賞を受賞する。昭和49年芸術新潮に「十一面観音巡礼」を連載。昭和50年新潮社より「十一面観音巡礼」を出版。昭和60年夫白須次郎(83歳)死去。遺言により葬式は行わず、遺族が集まり酒盛りをする。昭和61年芸術新潮に「西行」を連載。昭和63年新潮社より「西行」出版。
 「かくれ里」の「人と作品」に青柳恵介氏は「女流作家という言葉がこれからいつの時代まで使われる言葉かわからないけれども、白洲正子という作家は俗な分類でいう紫式部タイプとも、清少納言タイプとも違う、女流作家の「女流」ということを全く感じさせない作家」と表している。先の作家連中とつきあうために、全く飲めない酒を飲み三度も胃潰瘍になったという彼女の生き様にも青柳氏の言葉を体現しようとした白洲が重なって見えてくる気がします。
 その白洲正子が「かくれ里」で一番力点を置いたのではないかと思われる十一面観音像が「湖北 管浦」の項で登場します。JR高月駅近くの慈雲山向源寺「付属」観音堂に祀られている国宝の十一面観音像とその北すぐにある己高山鶏足寺の十一面観音像です。国宝の観音像は「渡岸寺観音像」としてよく紹介されますが、この渡岸寺(どがんじ)は地名です。お祀りしている向源寺の東にある寺領の飛地の字名が「渡岸寺」であるためこう呼ばれています。なぜこうもややこしいかと云いますと、この観音様は元々は天台宗の光現寺の所蔵でありましたが、信長の焼き討ちを恐れた往時の住職や在家の人々が土中に埋め隠していた。戦の後にこれを掘り起こしたが、光現寺は廃寺されて向源寺が建てられて、宗派が真宗と変わっていた。観音菩薩を本尊とすることが教団から認められなかったため窮余の策として寺の飛地に「付属」観音堂を建てて今もお祀りしているという。像を所有管理されている向源寺は、観音堂の西数メートルにあり、言葉が悪いが隠居の方が母屋より目立っています。しかし、在家の人々の信仰心は今も篤く訪れた日も、壮年会や婦人会が熱心に寺とも云えない観音堂周辺を熱心にお掃除なされていた。
 曰くが長くなりましたが、どういう経緯で渡岸寺におられていようが誠に麗しいお姿の観音様です。右足が少し前に出て腰が垂れ下がった様子が女性らしいと云えば、白洲正子にしかられてしまいそうです。由来によると、聖武天皇の時代天平八年都で疱瘡が大流行、それが祈願のため白山の泰澄大師に命じて十一面観音を祀った、延暦九年最澄が伽藍を建造して以来天台宗の寺院として栄えた。仏像はこの少し下った頃に造られたらしい。
 観音堂の周りは木立と田んぼが、その先にはこの地を本貫として栄えた浅井家の小谷城が望まれます。小谷城も十年も前なら車ででも自由に登城することができましたが、今は車止めがあり専用車でしか上れないと聞きます。麓で湧く須賀谷温泉に至っては、お市の方までもが湯浴みを楽しんだこととなっているらしい。我々はもう少し現実離れして、昨夜の宿近くの鶏足寺十一面観音像へ虎号を進めることしましょう。
 
 渡岸寺にて
 十一の アンテナを張る 仏様 渡岸の地から 四方を思いつ <偐聖武>

 <素朴な観音像>
 我々が泊まった己高庵は己高山の麓にあるが、山中にあったのが鶏足寺です。己高山山中には己高七寺と呼ぶ修験道の名刹があったそうで、その一つが鶏足寺。開いたのが行基と泰澄大師、後に再興したのが最澄という。先の渡岸寺と同じキャストが登場するのは、白洲正子によると白山信仰が泰澄によって越前から都へと伝えられた痕跡だという。他にも越前から近江にかけてそのような伝説が残っていると「湖北 管浦」で記している。さらに湖北を開いたのは、本地垂迹思想の創始者である泰澄大師だったと述べている。プロローグでふれた、白洲さんの言う琵琶湖の東部を北から南につながる観音信仰の直線的な痕跡の謎解きです。
 鶏足寺は本堂は焼失しているが、本尊などは輿志漏神社(よしろじんじゃ)内の己高閣に保管されている。ちなみに現在紅葉で著名な鶏足寺は、旧飯福寺(はんぷくじ)のことで元々は鶏足寺の別院です。己高閣の後ろに世代閣という収蔵庫があるが、これは巳高七寺の一つ世代山戸岩寺(といわじ)の本尊薬師如来立像などを保存している。
 その己高閣の十一面観音像は先に拝見した渡岸寺にある観音様に比べて素朴、田舎娘といった雰囲気だがこれは好みの問題か。収蔵物には他にもあったが案内のおじさんに特に紹介されたのが猿の彫り物。白洲さんも「単純な彫りと木目が美しく、顔つきも愛らしい」と感想を述べている。加えるなら、信長の仕打ちで壊滅状態になった天台宗寺院を秀吉が手厚く援助しているが、その秀吉の文書に並んで「猿」が置かれていることに含み笑いしてしまいました。
 我々が訪れたのは秋が足早に過ぎ去り己高山の頂には雪が積っている厳冬、秋には波のように観光客が訪れて応対に大変だが今は時間をかけて案内できると、係のおじさんは朴訥と語る。「鶏足寺は建物等は何も無くなったが、形式上は真言宗豊山派奈良長谷寺に属しています。それをお守りしている我々は真宗ですわ」と鶏足寺の仏様方も先の向源寺と同じ境遇にあることを面白おかしく語っていた。ボランティアと云えばそれまでだが、篤い素朴な信仰心のなせるボランティアではないかと思わせる。おかげで三十三面観音像巡りの結願です、丁寧にお礼を述べて辞した。
 さあ、虎号を管浦を大きく迂回して琵琶湖の西へと進め、朽木の興聖寺へと向かうこととする。背後からは大きく黒い雪雲が迫ってきているが、観音様の御慈悲を期待しよう。
 
 輿志漏神社versus鶏足寺
 神様に  屋台を借りて  本地垂迹 <偐泰澄>
 どちら様 貸して借りても 本地垂迹 <偐白洲>

 *本地垂迹説:仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。白洲正子はこの逆が本質ではないか(かくれ里 宇陀の大蔵寺)とも語っている。

 <エピローグは借景山水庭園>
 賤ヶ岳へ登るロープウエイを横目で見て狭いトンネルを抜け、管浦への曲がりくねった道との交点を更に北に走ると、湖西へ貫通する近代的な国道303号に出る。これを左折して走り西琵琶湖へ向かう。旧奥琵琶湖ドライブウエイから管浦経由で行くのが、白洲さんらしい走り方だが暗雲を背にしてのドライブはリスクを排除しよう。国道303号の奥琵琶湖トンネルをくぐるとマキノ、さらに西へ進むと業平が隠棲したと伝わる在原地区へ行くが、今回は国道161号を南下して琵琶湖岸道路へ進む。今津で再び国道303号で西へ向かい、函館山スキー場を右手にしつつ比良山系の山並みを迂回すると鯖街道へ入ります。
 鯖街道朽木宿の高厳山興聖寺は嘉禎3年(1237年)近江の守護佐々木信綱が曹洞宗開祖道元禅師に願い出て建立、仁治元年(1240年)遷仏式が行われた永平寺の末寺。西近江の宗派を統括する総禄所でありました。佐々木信綱は宇多天皇の直系(とも寺伝に書かれているが)、晩年この地に入り隠棲、高野山で没しています。曾孫の義綱より朽木氏に改め廃藩置県まで1万石の大名だったそうです。
 室町幕府十二代将軍足利義晴が三好松永の乱を避け朽木氏を頼り三年間、十三代将軍義輝は細川幽斎を従えて六年半それぞれこの地に滞在した。その時、細川幽斎は熊川城主の沼田光兼の娘・麝香(じゃこう)と結ばれる。幽斎も相当な趣味人だったらしく和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、今の十八代当主細川護熙もその血筋をひいているのでしょうか。
 脇道へ入り込んでしまいました。興聖寺に十二代足利義晴が滞在した期間、将軍を慰めるために銀閣寺の庭園を基に造られたのが旧秀隣寺庭園です。「近江には、人に知られていないが、名園が多い」と「かくれ里 石をたずねて」で白洲さんが紹介している庭園です。「安曇川の渓流をへだてて、比良山が眺められる。今は少々荒れているが妙に手のこんだ庭園より、石組みも自然で、気持ちがいい。」と云うように素朴な石と借景が素晴らしい庭園です。案内を請うと寺の奥様が出てこられて、本堂へ案内された。寺の生い立ちや朽木の歴史、朽木氏のお話と細川家との関係等を皇室や総理大臣の写真を並べて説明を受けるが、庭園に関してはどうぞご覧くださいという程度で些か肩すかしでした。だが、それだけ先入観なしに山水画のような薄い雪景色の比良山系を借景にした庭園を堪能することができたとも云えます。その雪雲がさらに低くなってきました、鯖街道を京へ急ぎましょう。
 石の文化で入った滋賀の旅、十一面観音が三体で三十三面になって再び石の庭園で幕を下ろすのは何かの縁でしょう。足早でありましたが白洲ワールドの中、奥琵琶湖の東西を楽しめた旅でもありました。
 
 借景山水
 石と池 比叡を従え 雪の中 <偐山頭火>

交通手段
自家用車

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  • ラコリーナ近江八幡全景

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  • 店内

    店内

  • オムライス

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  • 石塔寺のシンボルかな

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  • 数万の石仏・石塔群

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  • 同

  • 158段の先に

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  • 本堂には十一面観音像

    本堂には十一面観音像

  • 宿は己高庵、前日までの雪が積もっていました。愛車寅号はスタッドレスで準備完璧

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  • お天気が良いと露天が楽しめたのですが

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  • 己高山、山腹には石田三成が隠れた「オトチの洞窟」があります

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  • 土産の薬草湯と河内温泉大学グッズの手ぬぐい(手ぬぐいは非売品)

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  • 京都大原のしば漬け

    京都大原のしば漬け

  • 渡願寺十一面観音像(正確に表現すると、慈雲山向源寺の寺領渡願寺地区にある観音堂に納めらている観音像)

    渡願寺十一面観音像(正確に表現すると、慈雲山向源寺の寺領渡願寺地区にある観音堂に納めらている観音像)

  • 戦禍を逃れてこの場所に埋められていたと云います

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  • これがお姿

    これがお姿

  • 「十一面観音立像版画」(河内の樹々氏作)

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  • 己高閣・世代閣のある輿志漏神社

    己高閣・世代閣のある輿志漏神社

  • 薬師堂

    薬師堂

  • 鶏足寺十一面観音像、どこかおぼこい

    鶏足寺十一面観音像、どこかおぼこい

  • 右が猿

    右が猿

  • 世代閣

    世代閣

  • 興聖寺

    興聖寺

  • 奥が比良山系、手前が枯山水

    奥が比良山系、手前が枯山水

  • 枯山水と老椿

    枯山水と老椿

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