2018/01/20 - 2018/01/20
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河内温泉大学名誉教授さん
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今年初めての奈良行は大和に降雪があったと聞いた日、白洲正子の「かくれ里 葛城のあたり」を愛車寅号とトレンクルでの散策としました。
葛城のあたりは、私にとっては葛城山へ登るロープウエイの最寄り駅がある、吉野へ行く道筋程度のもの以外ではなく、町の中を散策するなど過去一度もありません。当地の旧家出身の親しい恒郎女さんからも、町の古いお話しや人々の暮らしぶりも伺っていましたがさほどの関心もなかった。どうも、明日香や斑鳩の陰で歴史の表舞台とは関係の無い土地との錯覚を持っていたようです。
葛城の高間の茅野とく(はや)知りて標ささましを今ぞ悔しき(読人知らず)美しい葛城処女をもっと早く知っていたら、みすみす人妻にはしなかったであろうにと、嘆いた民謡であるが、それはまた私たちの葛城山へよせる想いでもあったろう。飛鳥は日本のふる里といわれるが、神武天皇以来、いやそれ以前から開けていた葛城地方こそ、大和文化の発祥の地だといえる・・・と白洲正子が得体の知れない魅力にひかれたといい、伝説とフィクションとは違うという白洲説に立って御所や秋津洲(あきつしま)周辺を彷徨のも面白いのでは。
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御所まちと恵比寿神社
御所市役所に寅号を置き、トレンクルで輪行です。駐車場所から、商業が盛んであった西地区方向へ進むと角に社「戎」様をお祀りしています。流石に商業地区ならではの神社です。町中に張り巡らされた江戸期の背割り下水という環濠が現代にも生かされている様子を見ると、公共投資のあり方を考える一助になります。古い家並に突然現れる油長酒造(ゆちょう)さんや往年の万年筆の有名メーカー「モリソン」の子孫がお住まいという自宅を改良したカフェなどを見物しつつ、国道24号沿いに南下すると鴨都波神社(かもつば)の裏口と思われる入口へ。大学入試センター試験中ですが試験官もおられないのでここは裏口から失礼して「入(学)社」です。このお社は以前は、高鴨神社の上鴨社に対して下鴨社と呼ばれていました。
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背割り下水
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油長酒造と杉玉
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往年の万年筆モリソンの社屋
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鴨都波神社裏口入社(学)
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鴨都波神社拝殿
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鴨都波神社正面入口
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役行者の史跡から
JR和歌山線の玉手駅近くで金剛・葛城山系を望みます。何故かこの近くには「柏原」という地名もあり大阪と間違いそうです。同駅北の役行者の誕生地と云う「吉祥草寺(きっしょうそうじ)」では、同日夜のとんどの準備風景です。御所は役行者による薬の発祥地とかで境内に碑が、後ろには佐藤製薬の創業者の何やら時代がかった顕彰の碑も目立ちます。恒郎女さんによると、当地に本社があったダイドードリンコが野球の「新庄選手」をキャラにつかっていたのは、同社の工場が隣町の新庄地区にあるための洒落だったとか。芸と共に名も身を助けるでしょうか。玉手駅前の堤にあったのは役行者が産湯を使ったたらいを埋めたという「たらいの森」碑です、先に述べたように彼は修行中に薬草から薬を作ったそうで「陀羅尼助」もその一つとか。陀羅尼助は大峰山、洞川や吉野の方が有名ですが発祥は御所です、と聞くとなおいっそう御所の地名がありがたく感じます。もっとも、万葉の宮人たちの遊びにも薬草刈り(茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る:額田王巻1-20)があったようだから、それを庶民階層にまで広げたのが役行者だったのかもしれません。
たらいの森石碑の少し南には孝安天皇陵、さらに南には武内宿禰の墓ではないかという宮山古墳と孝安天皇室秋津洲宮跡などを見学。神宿る葛城の麓、田圃の中に浮かぶ小島のような丘とその上の御陵は秋津洲という言葉通りの風景です。そんなことを考えてトレンクルを漕いでいましたら、無性に空腹を覚えてきました -
吉祥草寺本堂
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とんどの準備
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薬発祥の地と佐藤製薬の社長さんの碑
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役行者たらいの森碑
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孝安天皇陵
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室秋津洲宮跡の説明
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宮山古墳案内
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風の森へ駆け上がると雪景色
この辺で御所まち歩きを中断、高鴨神社わきによく行く蕎麦屋さんがありますので、金剛山を風の森まで寅号で駆け上がることとしました。白洲正子によると「高鴨神社には、神さびた雰囲気がある。ことに神社の下の池に、金剛山が影を落としている景色は美しく、万葉によまれた冒頭の葛城処女(葛城の高間の草野はや知りて標ささましを今ぞ悔しき(巻7-1337)八頁写真)を連想させる」と印象を述べています。古代豪族鴨一族の守護神で、祭神は阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)のほか三神を祀り。京都の上賀茂・下鴨両社の元社にあたるといわれていますが、華やかな京都が分家、葛城が母屋とするなら、湖東の向源寺と国宝十一面観音を有する渡岸寺観音堂と同じとは言い過ぎだが似ていなくもない現状です。
神社境内にNGO法人が設置、神社と市が管理している歴史資料館兼お蕎麦屋さんでは「鴨南蛮」をいただきました。鴨一族の元締めたる高鴨神社が関わるお蕎麦屋さんでは、これがベストチョイスだと思います。神社本殿前の放生池では、我が身の行く末を知って知らないでか鴨の親子が泳いでいます。鴨肉と太い葱そして蕎麦で暖まったついでに、さらに上にある高天彦神社(たかまひこ)まで寅号で登りました。これが本日わざわざ寅号で出掛けた解です。それは「スタッドレスタイヤ」を試したかっただけ、なんです。高天彦神社は参道に樹齢数百年の杉の古木を従え、背景には葛城山(灯明山)をいただく神社です。後日行くことになる橋本院とセットで神宮寺関係にあります。これから先は「郵便道」という金剛登山の最短コースで山頂「葛木神社」と「転法輪寺(てんぽうりんじ)」へとつながります。因みに葛木神社の神主は代々「葛城」さんと云うことらしい。 -
白洲正子が「下の池」といった放生池にも葛城山が写る
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歴史資料館兼お蕎麦屋
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行方も知らず鴨が泳ぐ(うそ)
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鴨南蛮で腹を膨らませ暖を取る
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スタッドレスで攻めるもここらが限界、道幅が狭すぎます
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高天原神社です
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同上
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磐之媛歌碑
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高天原の十一面観音さん
啓蟄を思わせる数日後、前回の見残しを見学に再び御所の町へ。前回は期待通りの降雪で、スタッドレスタイヤの効能を十分に楽しめるドライブでしたが、どうしても車では入れなかった場所がありそこを見学して来ました。
本学ブログの読者であります、ヤナセ自動車のT営業課長から「どうでした、スタッドレスの感想は」とダイレクトに思わぬ反応も入りました。確かに雪道を走っているという感覚がないと云えます。車にも横滑り防止機能と自重で、危ないという感覚はゼロでした。本日御所の高天原の橋本院へ向かう道ではタイヤがスタックして真横へ滑り溝に落ちた痕跡もありました。もっとも、そこは道幅とタイヤ幅が同じですので横滑り防止があっても軽四輪以外は怪しいでしょう。で、そこから先へはトレンクルの出番です。
高野山真言宗宝有山高天寺橋本院は高天原の最も奥で、行基開基の同寺から先には畝の様な人道しか無いという環境です。このお寺にも十一面観音像が祀られており、白洲正子は「十一面観音像は、必ず山に近いところ、もしくは山岳信仰と関係のある寺院に祀ってある」と語り。また、「素人の私には(仏様に)どう近づけばいいのか。とにかく手さぐりで歩いて。なるべく多くの十一面さんに会ってみよう」(十一面観音巡礼 聖林寺から観音寺へ)と観音巡礼の端緒を語っている。その状況に近いのが橋本院ではないかと思うが彼女はここまでは足を伸ばしていない。背景の葛城山(白洲正子は二上、葛城そして金剛を総称して葛城と古人は語っていると云う)にいだかれるようなロケーションが、白洲正子の言葉通りです。本尊の十一面観世音菩薩立像は、木造で高さが5.4mと大きく秘仏とされていますが、障子の桟の隙間から覗くことが出来ます。住職はおおらかな方で、音楽を説法にも生かされていると聴いていましたが庫裏の方向からPAアンプを調整する音が漏れてきます。ポップな高天原も良いものです。「高天、高鴨、風の森は、地図で見ると一直線に繋がっている。古代の神社のこういう配置は、かなり正確で何かの根拠があったに違いない」(かくれ里 葛城のあたり)と云う直感、伊勢神宮と大和を結ぶとか出雲大社まで結ぶという説もあるようです。古代人は生真面目でもあったというか、何かに頼らねばならない気持ちも良く分かる気がする。 -
橋本院
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十一面観音菩薩
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観音堂の裏には葛城山が
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九品寺から一言さんへ
現代の横大路とも云える山麓バイパスで北へ逆戻りします。楢原交差点を過ぎると、左手に藁の塔が一本立っています。その三叉路を左に曲がると九品寺への参道です。白洲正子は「街道(横大路)といっても、ようやく車が通れるほどのせまい道で、往来のはげしい国道から、人けのない田圃道に入ると、急に古代の世界へ連れ戻されたような心地がする」と記していますが、道路の形態が変わっても概ね風景に変化は無いだろうと思います。彼女は、ここに泊まることで葛城と大和三山から多武峰、吉野を囲む箱庭のような眺めに「葛城一族が大和に君臨したのも、この様な眺望にふれると合点がいく」とインスピレーションを感じている。浄土宗の古刹で、「石仏の寺」の異名がある。奈良時代、聖武天皇の勅により行基が開基した寺で、門前の手入れの行き届いた庭園と山門そして本堂へと続く設えは花道、せりと云った歌舞伎舞台とも感じさせられます。山内には二千体以上と云われる石仏がある。駐車場所でもあれば**観光のバスで溢れかえるだろう。観光ガイド風の文を書かせていただいていて悪いとは思うが観光化されて欲しくない。 -
大和盆地が坪庭のように見えます
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石仏のピラミッド
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二千体以上ともいわれる石仏
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白洲正子が御所の町のラウドスピーカーの音を聞いた寺の裏から
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高丘宮趾へと
さて、次は綏靖天皇(すいぜい)高丘宮趾(たかおかのみやあと)とされている場所です。ここは、いくら好天でも車では無理。歩くかバイク以外にはたどり着けませんが、前回の降雪ではアイゼンも無く挑戦すらする気にもならなかった場所です。九品寺から葛木坐一言主神社へ向かう「葛城の道」というハイキングコース上ですが、獅子避け柵を開けて分け入らねばならない場所、十年以上前にか偐もの仲間の偐家持氏とバイクで走ったことがある道沿いです。その宮趾に立つと目の前に大和三山や多武峰などが眺められ、帝ならずとも飛鳥へと転居したい気持ちにさせられる場所です。この地は、仁徳天皇の后の一人磐之媛命(いわのひめ)が育った場所とされていて、古事記にこの地を歌っている。しかし、その歌碑が高天彦神社前に在ったのが解せないと云えば解せない。もっとも、この宮趾に歌碑を建てても人の目に触れる機会は現在ある場所とは比較にならないだろう。投資効果を考えると然もありなん。 -
葛城の道道標
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同案内
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高丘宮趾碑
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白洲正子の時は無かったのか田もありました
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ここから先へはバイク(トレンクル)でも無理、ターンして九品寺へ戻りましょう。葛木坐一言主神社(かつらぎにいますひとことのぬし)へは、山麓バイパスの側道に入りバイパスをくぐると参道へ出ます。白洲正子が「旧道を自然に参道の前へ導かれて行く」と書いている当時の状況とあまり変わっていないだろう。同じく「『悪事も一言、善事も一言』というのは、占いか予言をしたもののようである。そこから一言主の名は出たが、今でも村の人たちは、『一言(いちごん)さん』と呼んで親しんでおり、葛城をめぐる神社の中でも、もっとも霊験あらたかな神であった」と語っているが、私の訪れた日も早朝というのに、その一言を頼ってか合格祈願と覚しい参拝者が絶えることが無かった。何年か訪れていますが、乳銀杏と呼ばれる神木が朽ちて、再び蘇る姿を見ていると霊験もあったものだと感じさせられます。
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バイパスをくぐると一言さんへの参道
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本殿
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ご神木乳銀杏
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同アップ
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かつては枯れかかり樹木医が手当てをしておりました
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昨秋ですがこの様に蘇りました
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土蜘蛛伝説でしょうか
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八咫烏郎女に出会う
この辺で再び山を下りて、この旅の一番の気に掛かる神社へと車を走らせます。そこは、柏原地区で神武天皇社(しゃ)という神社です。途中、秋津洲ハイキングコース上のみやす古墳、条池北・南古墳を見学。現代の東征の道とも云える奈和道路が巨大な蛇のように横たわり、その腹をくぐり抜けながら行ったり来たり。行くと集落の狭い道に引っかかりバックする、バックしすぎると又同様となり私にも八咫烏が欲しい気分に。そんな気になっていると富田地区で老婦人に「何やっている」と問われる、日本武尊の古墳を探していると答えると家の後ろがそれや、お茶でも飲んで行きなさいと田舎言葉を田舎時間で語られる、彼女が現代の八咫烏でした。いくら八咫烏郎女でも独りだと云うから座敷へ上がることは丁寧に辞して、森戸さんという八咫烏郎女にはまた来ますと答えてその裏山へ行くことにする。何でも、森戸さんによると去年の台風で古墳の周囲の木が倒れ迷惑になった、宮内庁から人が来て何とかしていきはったと。あまり関心の無い様子。私にも応神陵の脇に地所があって、何かと口やかましい宮内庁や文化財保護担当者に同様の気分になったことを思い出します。三十段ほどの階段を上がると一応柵はあるが印だけです。白鳥の二番目の休憩地となるとこうも扱いが雑になるのか。先の孝安天皇陵と同じく自然の丘を利用した古墳ですが、葛城山を越えると前方後円墳へと昇格します。これは宮様の財政が豊かになったのか、聖武天皇へと続くインフラ整備と称する公共投資の経済効果を狙ったものか。規模は小さいが御所の町の背割り下水の方が、後世への経済効果という点ではより効率的且つ永続性がある気がします。 -
条池北・南古墳
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家の裏に日本武尊陵が見えます
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階段と坂の先に
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意外にさっぱりとした古墳でした
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あの柏原この橿原
さて、柏原地区へ入ります。ここは水平社博物館があり、それを中心に周辺の整備が行われたようで、白洲正子が訪れた当時とは雰囲気が変わっている様子です。初見につき水平社博物館へも立ち寄った。館内を一巡して感想をポストする。受付に断って寅号を置くことの了解を得る。ついでだが「神武天皇社」の場所を尋ねると、「真横」と云う。どうもそれらしい看板等を期待していた自分に気づかされるのが恥ずかしくなる。この辺りの人にとっては先ほどの八咫烏郎女と同じで、それがどうした・・・とでも云う気持ちなのかも知れません。社にお参りして更にその確証を強くさせられるほど見窄らしい。柏原の帰路、橿原へも立ち寄った白洲正子は「あの柏原と、この橿原なんという違いであろうか。だが、ここは公のものとして造られた橿原なのだ。それで何が悪い。歴史というものはそういうものではないか。ひそかに囁く声が私の内部でする」「あの柏原は、この橿原の奥の院」と訪問の感想を独白でしめています。
私も「この橿原」を帰路に訪れてみました、神宮は正面だけにして元は神武陵とも云われていた綏靖天皇陵に行く。初代の天皇陵をかくも盛大に再開発して造営したものの、二代目の何とも貧弱なこと。きっと当時の担当者が鉛筆を滑らせすぎて、新たに造る初代を大きくしすぎたミスだったのかも知れない。でも、神武陵にも奥の陵があるやも知れませんね、いや見つかって欲しいですね。 -
神武天皇社説明
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拝殿、この先数キロメートルに橿原が
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橿原神宮拝殿への参道
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二代目天皇陵への参道
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綏靖天皇陵
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道行きか
白洲正子の紀行文について青柳恵介は人と作品『かくれ里』の魅力でー白洲さんの文章の魅力の一つに「道行き」がある。「道行き」とはー中略ー謡曲や浄瑠璃における狭義の「道行き文」に限定せず、古事記の地名縁起説話や和歌の世界の枕詞なども包み込む広義の「道行き」を念頭にー中略ーおそらくその「道行き」の呼吸は能から学ばれたものに違いない。言うまでもなく、橋掛かりあっての能舞台である。ー中略ーその土地を通過することによって日常のリズムを脱落させ、浮かれ出ずる一人の空なる心を持ったワキに徹することによって、「歴史」というシテが現わすのを待つということであろう。「行くへも知らずなりにけり」と失せたものをもう一度追い求めるのが「かくれ里」の旅である。ー略ーと評しています。五十歳にして免許皆伝を得ると同時に捨てたという能が彼女の紀行文創作と思考の構造を支えていたのだろうか。そして七十七歳にして再び能の世界へ戻るところを見ると能は彼女の行動や思考の「隠れた引き出し」または「奥の院」であったのかもしれません。また、斯様な作風は如何にも知ったかぶりをして知識をひけらかす、「知識人」とは一線を画していて非常に上品だが読むものには非常に辛い。何がと問われると隠し味と云えるシテを、読者自身が見つけ出し探求しなければ先へ進むことが出来ない。何ともシンドイ読書だが、おぼれると引き込まれます。 -
エピローグに代えて
男世界が普通の時代に、白洲正子が本格的な能を学んだと云うことは大変な事だったらしい。所謂「芸事」としての師弟関係はあっても本格的な能の世界は「女人禁制」であった。現代もそれに近いと、知人の大阪大学能学部出身という女性薬剤師に意見を聞いた。彼女によると今や稽古事では全国の殆どの能舞台で女性が立つことは可能だが、広島厳島神社は未だに女人禁制だという。
この女人禁制について白洲正子は、「吉野から熊野へ」で桜本坊(さくらもとぼう)の住職から「この山(大峰山)は女人禁制で」と気の毒そうに断りをいわれたが、「私もそのことは知っていたが、大賛成なのである。どこもかしこも男女同権では興ざめだし、女はつけ上がり、男は弱虫になる」と書いている。男女の発声と声の質が違い、能という舞台表現では男女共演が難しいという理由以上の何か確信的な意志がそこにあるような気がしてならない。
奈良行の帰りには當麻寺の「中将餅」をよく買って帰ります。病み上がりにはお酒より饅頭や餅が良いのでしょうか。又は、先の男女同権云々で家人からの高評価が受けたいという弱虫男になったせいでしょうか。橿原神宮からだと當麻は遠いのでこの日は坊城駅前南の「だんご庄」としました。ここはいつのまにか有名となり、行列が出来る店となりました。丁度列が途絶えた所で入店でき、一串口にして茶をいただき残りを土産に。身体にはどうか知れませんが、運転には団子の方が宜しいようです。法隆寺インターから西名阪高速を河内へと走ると、二上山から葛城、金剛山の山並みが先ほど口にした串に刺した団子のようにも見えます。古人や白洲正子とは似て非なる己を恥じつつ国境のトンネルをくぐると此処も「柏原」、先には「玉手」地区の丘が見えて来ます。先ほどまで見ていた、柏原、玉手そして富田地区は幻だったのでしょうか。 -
だんご庄本店
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中将餅
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