2017/11/18 - 2017/11/30
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HOUKOUさん
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重慶を代表する博物館であろう「三峡博物館」で,三峡文化や重慶の歴史を学ぶ。
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(2017/11/6 旅行2日目)
朝7時ごろ目が覚める。
やはり,ホテル近くの裏路地のラーメン屋で麺を食べる。
この店で最も高級な「特色筋品牛肉麺」を3両注文。 -
ところで重慶の街中の食堂でよく見かけるのが,「20強」とか「50強」の表示だ。
要するにランキング入り(入ったことがある)をアピールしているのである。 -
ホテルに隣接している「臨江門」から地下鉄に乗り,最初の観光スポットがある曽家岩で降りる。
起伏がある重慶の特有な地形は,交通手段の形態にも大きな影響を与えている。
たとえば地下鉄は一部地上を走ったりする。
この地下鉄2号線も駅を出て間もなく地下を抜け出し,重慶半島の北側,嘉陵江のほとりに出た。
すばらしい景観が堪能できる。 -
曽家岩駅から歩行者専用トンネルを通り人民広場へ。
中国のおそらくほとんどの都市に「人民広場」または「人民公園」というものがあり,その都市のメインの憩いの場となっていることが多い。
都市の規模などにもよるが,日本人のスケール感からしたらいずれも茫洋とした広大な面積を有する。
重慶の人民広場は,大都市のそれの割には驚くほど狭い。
それは日本人のスケール感に珍しくマッチするほどである。
いかに重慶が平地が貴重なものかということを象徴しているかのようだ。
広場を中心に「大礼堂」と「三峡博物館」が向かい合うように立っている。
「大礼堂」の方は1950年代に建てられたの巨大な会堂である。
おそらく中に入っても巨大なホールがあるだけであろう,外観を見るだけにした -
私の中国旅行の最大級の楽しみは博物館見学である。
巨大な建物,豊富な展示品いずれをとっても,日本の博物館は中国の博物館の足元にも及ばない。
さらには,CGの多用や展示手法にしても中国の方がかなり進んでいると思う。
日本の博物館(たとえば大宰府の九州国立博物館,福岡市博物館)などは,特別企画展なしにはほとんど行く価値を私は見いだせないが,中国の場合常設展だけで見応え十分である。
今回の旅でも幾つもの博物館めぐりを予定している。
その第1弾である「三峡博物館」に,9時の開館と同時に入館する。 -
博物館の名前のとおり,最初に三峡文明の展示がある。
中原から遠く離れた山奥のこの地は,実は中国で最も古い人類「巫山人」の骨が出土している。
その年代は今から200万年前といわれており,有名な北京原人の46万年よりはるかに古い。
これは,その食事の跡らしい。(ちょっと微妙だが) -
三峡地方の伝統的な手漕ぎ舟。
四角形の船体が独特である。
大まかなデザインは紹興などの水郷でみかけるものと似ているが,激流や難所が多いこの地では,頑強な構造や工夫が凝らされているのであろう。 -
漢代「偏将軍金印」
「偏将軍」とは,そんなに高い地位でもなかったようであるが,それでも材質は最上級の金である。
ちなみにどこかの国の多くの国民が,昔漢の皇帝から「金印」を「プレゼント」されたことを,皇帝と王の違い,印を賜るということがどういうことかという最低限の知識をも持ち合わせず,無邪気に喜んでいるのを見ると哀れを催してくる。(国の宝だそうだ)
その内中国が,その過去の歴史的事跡を持ち出してきて,再びその国に印鑑を「プレゼント」することにならなければよいが。 -
これは明朝末期に活躍した重慶出身の女将軍「秦良玉」の戦闘服である。
女将軍といえば数年前安陽殷墟でみた「婦好」の墓や副葬品やその物語などに深い感銘を覚えたが,その活躍は半ば以上伝説の世界である。
「秦良玉」はその活躍が史実として確実な記録がのこされており,正史に列伝を持っている唯一の女性武将といわれている。 -
この酔っ払いおじさんの群れにも見える群像は三峡にゆかりの詩人たちである。
手前は杯を持ち上げ「将進酒!杯莫停!(さあ飲もう!杯を停めるな!)」とでも言っている李白。
左端は天に向かって「我ひとり澄めり!」と訴えているかのような屈原である。 -
「巫山」という地名から連想されるように,この地方は独特のプリミティブで神秘的な宗教儀礼が残っているようだ。
重慶市雲陽県にあった「巫師」による宗教儀式を画いた石刻。 -
法衣や仮面
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旧重慶城。
嘉陵江を挟んで北の対岸には「江北城」という出城があった。
西側以外は川に囲まれた重慶城は,いかにも難攻不落に見える。
半島全体が硬い岩盤でできているのでトンネルを掘って攻め込むこともできず,さすがのモンゴル軍も攻城には苦労したはずである。
余裕があれば行きたいと思っていた重慶郊外合川にその遺構が残る「釣魚城」もおそらくこうした地形を利用した山城だったのだろう。
モンゴル軍の攻撃に36年間耐え,モンゴル皇帝モンケに死をもたらし,それが帝国内の内訌を引き起こし,モンゴル軍の怒涛の侵攻の勢いを削いで世界の歴史を変えたとまで言われている。 -
談判のため重慶に赴くことを伝えた毛沢東から蒋介石への手紙。
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蒋介石と袂を分かち「南京国民政府」を発足させ,日本との和平への道を模索した汪兆銘(精衛)。
当然「裏切り者」の汚名を着せられる。
蛇(日本)とキスする汪兆銘の絵をカバーにした「汪精衛 売国の理論とその実践」。 -
重慶といえば,数年前のサッカー試合での大ブーイングもあった反日感情が強い街としても有名だ。
それは言うまでもなく,日中戦争時の200回にも及ぶ爆撃が大きな要因である。
日本軍に南京さらには武漢まで陥落され,蒋介石率いる国民政府は重慶に遷都した。
日本軍としては重慶へ侵攻したかったが,兵站的にも地形的にもそれは容易ではなく,空爆により攻撃を行った。
犠牲者は中国側の発表では約12,000人となっている。
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