2017/11/18 - 2017/11/30
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HOUKOUさん
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重慶の政治の中心地「中山四路」沿いにある「周公館」「桂園」「民主党派歴史陳列館」などを見学。
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中山四路という,戦前も戦後も行政の中心地を歩いて行き,次に向かったのが「周公館」。
この建物は中国共産党南方局執務室としてつかわれていたものである。 -
周恩来とその妻,鄧穎超(とう えいちょう)の執務室兼寝室。
鄧穎超といえばよく言えば愛嬌のある顔で,美男子の周恩来と少しつり合いが取れない感じもするが,おしどり夫婦だったそうである。
「夫婦というよりもむしろ. 戦友であった」と鄧穎超が回想したように,志(こころざし)の一致もその重要な要素だったかもしれない。
多くの中国人民から慕われた周恩来であるが,文革を止められなかったなどと否定的な見方をする向きもあるようだ。
しかし,全国各地に多数存在する彼の元事務所や滞在した場所を見れば,彼が如何に精力的に革命や国家のために力を尽くしてきたががわかる。
私もこれまで南京,武漢,広州,廬山,南昌,泉州など,ざっと思い出してもいくつもの都市で,彼が心血を注いで革命・共産党・国家のために力を尽くしてかの足跡を見てきた。 -
建物のすぐそばにある防空壕。
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董必武の部屋。
中国共産党の歴史は,権力闘争の連続であった。
数々の英傑たちは,長征,大躍進,文革で排除,迫害され,拷問を受けて悲惨な死に方をしたものも少なくない。
国家主席が紅衛兵という年端もいかぬ少年たちにつるし上げられ,最後はベッドに縛り付けられ糞尿垂れ流しで悲惨な死を迎えたり。
数千万人が餓死の恐怖にさらされ,人肉食が蔓延するほどの失政を批判した国防大臣が罷免され,同じように批判されたうえ非業の死をとげたり。
最高権力者の跡継ぎに指名されていた者が,次第にその最高権力者から疑いの目で見られるようになり,飛行機で逃亡しようとしたが墜落死したり。
その中で痛手を受けず最後まで身の安全を保ったのは,毛沢東を除けば,この董必武だけだといわれる。
劉少奇失脚後,形式的には国家元首であった「国家主席」の座は,それを復活させようとした林彪の死後空席が続いた。
董必武はしばらくの間「国家主席代理」を務めることになる。
よほど運がよかったのか,あるいは写真から想像できるように地味に目立たぬようにして敵を作らなかったのか。
おそらくその両方がなければ,激動の中国を無傷で生き抜くことはできなかっただろう。 -
重慶市共産党委員会。
重慶市の最高権力機関である。
どの都市でも「共産党委員会」の建物は近寄りがたいオーラを放っている。
失脚した薄熙来はここのトップ(書記)だった。 -
続いて歩いて「桂園」に向かう。
現代史において重慶が歴史の舞台となるのは,国民政府の臨時首都となったこと,それに1946年の重慶談判の時である。
西安事件により第2次国共合作が実現したものの,国民党,共産党,両者は水面下では激しいつばぜり合いを続けていた。
日本の敗戦後,どちらが中国の統治者となるのか,内戦が勃発するのは明らかだった。
和平を願ったアメリカの強力な後押しで,ここ重慶でトップ会談が持たれることとなった。
延安から8月に重慶入りした毛沢東は歌楽山で蒋介石にあった後,数回会談し,10月10日に「双十協定」を締結することになる。
これにより一時的に和平が実現したかに見えたが,両雄並び立たずで,間もなく内戦が勃発した。 -
「会客室」
この部屋で両首脳は2回会談している。
また「双十協定」の調印もここで行われた。
写真右端の文具は,おそらくその時のゆかりのものであろう。 -
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2階に上がると,玄関側に廊下を隔てて2つの部屋が向かい合っている。
外から見て右側が毛沢東,左側が周恩来の執務室である。
こちらは毛沢東の部屋。
「桂園」は非常に小さな建物であり,国民党勢力下のこの地では不安もあったのだろう,毛沢東がこの建物に泊まったのは3泊だけで,あとは紅岩村に滞在していたようだ。 -
桂園から更に歩いて行くと巨大なロータリーに出た。
ここが交通の要衝である「上清寺」のようだ。 -
文字通り,明代に建てられたその名前のお寺があったが,1927年に破壊されてその後再建されることはなかった。
抗戦時にはこの付近は「民主諸党派」と呼ばれる人々の活動の拠点であった。
その記念館がお寺の跡地に建っている。 -
共産党一党独裁といわれる中国であるが,実は現在でも憲法上「結社の自由」は認められており,共産党以外に8つの政党が合法的に存在している。(もちろん共産党に刃向うことはできない。)
この群像は,そうした「共産党とともに民主化に貢献」した諸派の代表者たちなのであろう。
毛沢東の隣に座る女性はもちろん江青ではなく,孫文夫人であった宋慶齢である。
宋慶齢は国家副主席など要職を歴任したが,共産党員ではなかった。
なぜなのかはよく知らないが,国民党創設者である孫文の妻の立場では,それは難しかったのかもしれない。
共産党に入党したのは,晩年彼女が危篤状態になってからであった。 -
建物の外にも同じ趣旨の群像があり,その前に「棒棒(軍)」のおじさんが佇んでいた。
「棒棒」とは重慶名物の人力運送屋である。
黄山や廬山などでも担ぎ屋をよく見かけたが,街の中でこれほど多くの「棒棒」を見かけるのは,重慶ならではであろう。
繰り返しになるが重慶は坂の街である。
坂が多いというだけではない。
地形上車が通らない細い道や階段が多いのだ。
また,山で出会う運び屋が持っているのは,竹を平らに切ったものであるが,重慶の棒棒が使っているのはほぼ例外なく丸いままの竹である。
女性の「棒棒」も見かけた。(「プロ」ではないかもしれないが)
数々を棒棒を見ていると,彼らにとって,この竹の丸い棒というのは体の一部みたいに愛着を持っているように感じる。
昔の武士にとって,腰のもの(刀)は武士の魂であり,やはり一心同体だったかもしれないが,毎日それを使って何かするというわけではない。
「棒棒」にとっては,この棒は毎日苦楽を共にするまさに体の一部なのだ。
肩に食い込む憎いやつでもあり,糊口の資を稼ぐ,なくてはならない相棒なのだ。
農業や漁業のような他の肉体労働と異なり,道具はこの野太い竹の棒だけ。
それへの愛着というのは並々ならぬものであろう。
それと「棒棒」のおじさん達の何か哲学者めいた寡黙な雰囲気というものも感じた。
きつい肉体労働の合間というのは,無駄なエネルギーを使わないようにしているのだろう。
それと,棒を担ぐという極めてシンプルなそして忍耐を要する仕事を毎日毎日行っていくうち,何かの哲学的な思念が頭の中に形成されていっているのかも知れない。
そんな風情であり,非常に様になっている。
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