2016/11/03 - 2016/11/05
163位(同エリア531件中)
naoさん
旅の行程
11月 3日 宇津ノ谷、東海道 岡部宿、花沢の里
11月 4日 蓬莱橋、東海道 島田宿 大井川川越遺跡、東海道 日坂宿、遠州森町
11月 5日 遠州横須賀、東海道 白須賀宿
静岡県掛川市日坂は、東海道五十三次の日本橋から数えて25番目の日坂宿(にっさかしゅく)があったところで、箱根峠や鈴鹿峠と並んで、東海道の三大難所として知られる「小夜の中山」の西麓に位置しています。
大井川西岸の金谷宿と、掛川城の城下町でもある掛川宿との間にある日坂宿は、駿河国の由比宿、伊勢国の坂之下宿に次ぐ3番目に小さい宿場町で、宿場町の条件として定められた人馬継立の馬100頭を揃えることもできないほどの小宿でした。
天保14年(1843年)の記録によると、そんな小さな宿場にもかかわらず幕府直轄の宿場町に加えられ、街道筋には本陣1軒、脇本陣1、旅籠屋33軒が軒を連ねていました。
明治時代に開通した東海道本線は、「小夜の中山」を迂回するルートで建設されたため衰退を余儀なくされた日坂宿ですが、「小夜の中山」の北側を通る新たなルートで整備された国道1号線が、日坂を経由するかのように町の東側を通っています。
ゆるやかに弧を描きながら下る街道筋に、往時の姿を留める町並みが連なる日坂宿は、新たに旅籠川坂屋が復元されたことで、かつての宿場町の風情がより一層魅力的なものになりました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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日坂宿へ向かう前に、箱根峠や鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所として知られる「小夜の中山」に残る「夜泣石」伝説の地を訪れました。
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この「夜泣石」には、以下のような伝説が伝えられています。
『小夜の中山の久延寺に安産祈願に来た臨月の婦人が、丸い石にもたれて休んでいるところを山賊に襲われ殺されますが、幸いお腹の赤ちゃんは無事に産まれます。
産まれたばかりの赤ちゃんを助けたい一心の母の魂が丸い石にのり移り泣き続けていると、久延寺のお坊さんがそれに気づき、赤ちゃんは無事保護されました』。
いつの世も、子を思う親の気持ちは変わりませんね。 -
「小夜の中山」から一気に駆け下って、日本橋から数えて25番目の日坂宿にやって来ました。
日坂宿と「小夜の中山」をつなぐ道は相当に距離のある上り坂で、東海道の三大難所と呼ばれるのも無理からぬことと実感しました。 -
町並みに連なる町家には・・・
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宿場町当時の屋号を示す看板が掲げられています。
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日坂宿の町並みです。
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近くにあった日坂宿の汚水枡の蓋にカメラを向けていると、「色つきの蓋もあるよ」と地元の方に教えていただいて撮ったのがこれ。
籠に乗って東海道を旅する様子が描かれています。 -
各地の地名を付けた屋号が残っています。
皆さんの出身地なんでしょうね。 -
屋号看板の向こうに、常夜燈が見えています。
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火伏せの神として信仰の厚かった秋葉神社の常夜燈。
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こちらは本陣跡です。
本陣の跡地は明治12年(1879年)から日坂小学校の敷地として利用されましたが、建物は現存していません。 -
花の名前の屋号がありました。
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この町家は、花の名前の屋号が掛かった塀と繋がっていたので、同じお宅かと思ったら、違う名前の屋号が掛かっています。
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旅籠行燈を通して本陣跡を見たところです。
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こちらは問屋場跡です。
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旅籠屋の看板が掛かっているこちらの町家は・・・
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格子戸が特徴的に使われています。
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こちらは、時代の変化とともに何軒かで務めた脇本陣の内の一軒です。
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大八車の木の車輪が飾られています。
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日坂宿の町並みです。
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こちらは、屋号を藤文と称する伊藤文七邸です。
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伊藤文七は、万延元年(1860年)から慶応3年(1867年)にかけて最後の問屋役を務めました。
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また、明治4年(1871年)に郵便制度が開始されるのと同時に、日本最初の郵便局の一つと云われる「郵便取扱所」をここ藤文に開設します。
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町並みは、この辺りから緩やかな下り勾配になっています。
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こちらは嘉永5年(1852年)の大火で焼失後再建された江戸時代末期の旅籠屋です。
再建時期を示す明確な記録は残っていませんが、建物内部の史料などから安政年間(1854年~1859年)の早い時期と推定されています。 -
この後登場する「川坂屋」が身分の高い武士などの宿泊した大旅籠だったのに対し、こちらは庶民の利用に供された旅籠屋だったようです。
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ここまでの日坂宿の町並みを振り返った光景です。
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先にふれた「川坂屋」が見えてきました。
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「川坂屋」も嘉永5年(1852年)の大火で焼失後に再建された旅籠屋で、再建にあたっては江戸から棟梁を招き、当時禁制だった檜材を用いた精巧な木組みや見事な造作が特徴になっています。
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「川坂屋」が本陣や脇本陣を務めたという記録は残っていませんが、床の間付きの上段の間があることなどから、身分の高い武士や公家などが宿泊した格式の高い旅籠屋だったことを伺わせています。
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明治新政府高官の書などが当家に伝わっていることから推察して、旅籠屋を廃業した後も新政府要人には宿を提供したものと考えられています。
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江戸時代には身分の高い武士や公家が、また、明治時代には新政府要人が宿泊したと言うだけあって、格式の高さを示すに十分な規模を誇っています。
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相伝寺観音堂の敷地内には、秋葉神社の常夜燈と・・・
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「下木戸の高札場」があります。
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「下木戸の高札場」の先には・・・
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名前の由来になっている下木戸跡があります。
下木戸は宿場の治安維持のために設けられますが、規模の小さい日坂宿では川がその役割を果たしていました。
宿場町としてはここまでですが、下木戸の先にも町並みが続いているので歩いてみます。 -
千本格子の嵌った町家の軒先では・・・
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南天の実が赤く色づいています。
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長屋門のある町家。
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この町家の角に、「賜硯堂成瀬大域出生の地」の碑が立っています。
成瀬大域はこの地に生まれた人で、「川坂屋」の上段の間の襖には彼の書が残っているそうです。 -
屋号看板の掛けられた町家もこの辺りまでのようです。
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日坂宿に三基ある内の、最後の秋葉神社の常夜燈です。
では、ここで引き返します。 -
下木戸の役割を果たしていた逆川が見えてきました。
逆川にかかる古宮橋は、江戸時代初期の頃までは幅の狭い粗末な木橋だったので、何か事が起こったときには、宿場の治安維持のため橋を外したとも伝えられています。 -
「下木戸の高札場」と秋葉神社の常夜燈。
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弧を描きながら続く街道筋の先に、格式高い旅籠屋の風情がただよう「川坂屋」が見えてきました。
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日坂宿の汚水枡の蓋。
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「川坂屋」まで戻って来ました。
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看板と格子が特徴の町家の先に本陣跡が待っています。
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さて、日坂宿もひと通り歩いたので・・・
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次は、この日最後の目的地へ向かいます。
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