2016/11/23 - 2016/11/23
1637位(同エリア4063件中)
滝山氏照さん
出島(でじま、長崎県長崎市出島)はポルトガル人がもたらしたキリスト教布教の拡大に懸念を抱いた江戸幕府が慶長19年(1614)に発したキリスト教禁止令後、布教を阻止するためそれまで雑居していたポルトガル人を収容管理するため長崎市内に造った人工島です。
寛永14年(1637)肥前国島原や肥後国天草などでキリシタンによる一揆が発生(島原の乱)、幕府は九州諸大名支援により対処を命ずるも膠着状態が続き、ついには幕閣の松平信綱(まつだいら・のぶつな)を派遣してようやく鎮圧します。
この一揆鎮圧後幕府はポルトガルに対し警戒感を強め、寛永16年(1639)ついにポルトガル人を追放、暫く出島は無人の島となります。
ポルトガル人が出島から追放された後、長崎は経済的な活気が失われたため地元の商人の疲弊が顕著となります。幕府はその対策として寛永18年(1641)それまで肥前平戸に在ったオランダ商館を出島に移し、以降安政の開国までの約218年間に亘り西洋に開かれた唯一の窓口としてその役割を果たし日本の近代化に貢献します。
商館跡正面玄関前に建てられた説明板には下記の通り記されています。
「国指定史跡 出島和蘭商館跡
出島は寛永13年(1836)キリスト教の布教を防ぐ目的で、市中に雑居していたポルトガル人を一か所に集め、住まわせるため幕府の命により造られた面積約15,000m2の扇形をした人口の島です。寛永16年(1839)のポルトガル人退去後は一時無人の島となりましたが、同18年(1841)平戸のオランダ商館がここに移され、以来安政の開国までの218年間我が国で唯一西洋に向けて開かれた窓となり、海外から新しい学術や文化が伝えられました。出島内にはオランダ商館員の住まいや倉庫が建ち並び、家畜を飼い様々な植物が植えられていました。幕末から明治にかけての港湾改良工事などで周囲は埋めたてられ海に浮かぶ扇形の原形が失われましたが、日本の近代化に大きな役割を果たした貴重な歴史的文化遺産であることから大正11年(1922)に国の史跡に指定されています。」
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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出島商館跡
商館跡東南部を一望します。 -
出島商館跡入口
路面電車の出島側が主たる玄関とすれば、築町側からの入口があり入場可能で、ここは二階建ての商館が建っています。 -
国指定史跡 出島和蘭商館跡 説明板
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出島商館南側護岸石垣
南側東端の位置に積まれた石垣で、発掘調査によれば高さ1.2mを四段に積まれた石垣であったとのことです。 -
南側護岸石垣説明板
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商館建物
この通路から敷地内に入城可能で、玄関にて入場券を購入して内部に入ります。 -
教会建物
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南側護岸石垣説明板
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デジマノキ
和名ではコバ-ルノキと呼ばれ、東南アジアに分布するナンヨウスギ科の常緑木で、オランダが東南アジア貿易拠点とするバタビア(現ジャカルタ)から持ち込んだものと思われます。 -
デジマノキ
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デジマノキ説明板
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出島橋石材調査保存小屋説明
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出島商館跡見取絵図
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出島商館建物
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出島商館跡南側護岸石垣
ここは南側護岸の中央部にあたり、発掘調査の結果10~11段の及ぶ石垣が発見されたとのことです。 -
南側護岸石垣説明板
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南側護岸石垣
この辺りは通常の石垣の上に更に石壁が張られ、内部の様子が見えないようになって入ます。 -
出島商館跡南側護岸西側の石垣
発掘調査では6~7段に及ぶ石垣が積まれていたそうです。 -
南側護岸石垣説明板
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出島商館跡南側西端石垣
ここは南側の西端に配された石垣から東方向を展望します。 -
出島南西端石垣説明板
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商館跡内部建物
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イチオシ
出島オランダ商館玄関
路面電車で出島下車し反対側道路を渡るとオランダ商館の玄関に通じます。 -
出島オランダ商館敷地内部
訪問客はまばらですが当時の絵図などを参考に模擬建物を配しています。
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