2016/11/23 - 2016/11/23
2008位(同エリア4063件中)
滝山氏照さん
高島秋帆(たかしま・しゅうはん、1798~1866)は江戸時代末期における高島流砲術を以て日本に於ける火砲の近代化に貢献し幕府から重用された砲術の先駆者です。
海外の情報に接する機会が多かった秋帆は西洋砲術のレベルの高さに驚き、出島に商館を置くオランダ人を通じて洋式砲術を学び天保5年(1834)自らの流派の高島流砲術を完成させます。
折から清国がアヘン戦争でイギリスに敗れる事態が発生すると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える「天保上書」を上申、天保12年(1841)5月に幕府天領の武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)にて日本初となる洋式砲術並びに洋式銃陣の公開演習を実施します。
この演習により秋帆は幕府から砲術の専門家として重用され、その後高島流砲術が広く普及しますが天保13年(1842)に謀反の容疑で捕えられ12年間に亘り幽閉されます。
嘉永6年(1853)ぺリ-が来航してくると特赦を受けた秋帆は海防や大砲鋳造に携わり、慶応2年(1866)幕府講武所師範となったのを最後に69歳で死去します。
秋帆旧邸玄関下の石段横に建てられた説明板には次の通り記載されています。
「国指定史跡 高島秋帆旧宅
高島四郎太夫茂敦は秋帆と号し、家は代々町年寄を務めていました。秋帆は、蘭学、儒学・書道・絵画などを修め、荻野流砲術を極めた上に蘭学を加え、西洋砲術を学び、砲術の発達と海防の急務を幕府に進言しました。天保12年(1841)には、幕命により武蔵国徳丸原で、野戦砲・銃隊の射撃と部隊の様式訓練を実演し周囲を驚かせました。
高島家は、大村町(現在の万才町)に本宅がありましたが、天保9年(1838)、市中の大火により類焼したので、ここ小島町の「雨声楼」とよばれる別邸に移り住みました。建物は原爆で大破して解体され、現在は、石垣・土塀・井戸・砲痕石などが残っています。
長崎市教育委員会(平成14年3月)」
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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高島秋帆宅跡
長崎市内を走る路面電車、終点の正覚寺下から正覚寺を経て坂を登り「高島秋帆旧宅」の看板に沿って石段を進みます。 -
史跡「高島秋帆宅跡」石標
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高島秋帆旧宅説明板
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高島秋帆旧宅への石段
平地に恵まれない長崎市街は坂が多く、高島秋帆の敷地もその例にもれず石段を登って行きます。 -
高島秋帆旧宅入口
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旧宅を取り囲む石垣
高島秋帆旧宅の敷地を取り囲む石垣を見ながら狭い小路を進みます。 -
旧宅を取り囲む石垣
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高島秋帆旧宅入口
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高島秋帆旧宅入口
高島秋帆旧宅の入口は二つあって、正覚寺側から石段を登るコ-スの他、丸山町側から入るコ-スもあります。 -
高島秋帆旧宅見取図
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高島秋帆旧宅敷地風景
門を潜ると辺りは建物は見当たらずただ広々とした空地だけしかありません。 -
井戸跡
広い空地の中央には井戸跡があります。 -
旧宅敷地
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旧宅敷地
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敷地内通路
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建物跡
この旧宅は父の茂紀が別邸として文化3年(1806)に建てた二階建ての茅葺木造建築で、秋帆は天保9年(1838)から5年間ほど居住していたそうです。 -
石倉
説明板によれば硝煙蔵あるいは石倉であったと言われています。この旧宅が国史跡に指定された大正11年(1922)にはこの石倉はすでに存在していたそうです。 -
高島秋帆宅内石倉説明板
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イチオシ
高島秋帆旧宅の入口
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正覚寺からの入口方向
高島秋帆旧宅の入口は二ケ所あって、一つは正覚寺側から石段を登るコ-スとなっているようです。 -
正覚寺側入口
再び正覚寺側入口にあたる石段を降りて振り返ります。
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