蟹江・津島・長島から熱田・笠寺・有松の尾張あちこちと浜松の旅(二日目)~金山から熱田神宮周辺は歩ける距離。細々観光スポットをチェックして、笠寺・有松へ。有松の絞りと桶狭間でやっと尾張のホットゾーンに触れた感じです~
2016/12/24 - 2016/12/24
3位(同エリア670件中)
たびたびさん
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今日の街歩きは、名鉄名古屋本線沿いに、金山から熱田神宮周辺。桜駅から笠寺。有松から桶狭間の三つのエリアに分けて回ります。それぞれどこにポイントがあるか分かっていないので、例によってのしらみつぶしの街歩きでしたが、熱田神宮周辺は日本武尊の白鳥だらけだし、笠寺は笠覆寺の門前町。それはそれとして、有松の絞り産業の繁栄と桶狭間の史跡の多さはけっこう新鮮。尾張の視野が確実に広がったような気がしました。
有松古い町並みについて付け加えると、有松駅に降りるとすぐに大きな看板があって、ここが古い町並みをメインとする観光の街であることが一目瞭然です。
ただ、有松のまちはちょっと変わっています。旧東海道沿いですが、宿場街ではないんですね。慶長13年(1608年)、尾張藩の政策によって作られた街で、その後、副業としての絞染めが起こり、経済的な発展によって染物屋などの商家が育ちました。
確かに豪壮な建物は、宿場町のものではない。松阪の伊勢商人の街の方が雰囲気的には似ているような気がします。
そして、有松町並み保存地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区。ちなみに、愛知県の国の重要伝統的建造物群保存地区は二つしかありません。指定種別は染織町。つまり、有松絞りの問屋が何軒もあって、豪壮な建物が軒を並べる景観を評価したもの。東エリアだと服部家住宅、西エリアだと竹田邸が代表格だと思います。
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ホテルから名古屋駅に向かう途中。名古屋の台所、柳橋中央市場です。
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朝早くから魚を乗せた軽トラックとかがせわしなく行き来しています。
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しかしそれにしても、ここは名古屋駅のすぐそば。すごいところに市場がありますよね。
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魚源食堂は、柳橋市場の一角にある小さな食堂。市場の人が入って行ったので、つられて私も入ってみました。
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ご飯とみそ汁にシーチキンじゃが。簡単な食事ですが、ご飯も味噌汁もシーチキンじゃがもめちゃめちゃうまいですよ。今日がいい日になる予感がする。そんな一日の始まりになりました。
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名古屋駅から金山駅に到着。ここから熱田神宮周辺まで歩きます。
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まずは、高蔵公園。一見、都市型の小さな公園ですが、弥生時代の遺跡である高蔵遺跡が発見された場所。土器や骨などが発見されたようです。
なるほど。中央の平坦な芝生の広場から裏山のような林を控えていて、言われてみれば遺跡発見の場所という雰囲気もなくはないでしょう。 -
そして、高座結御子神社は、高蔵公園に隣接した神社。
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ちょっとした森に囲まれて、周囲はうっそうとした感じもしなくはない。歴史ある熱田神宮境外摂社で、神武天皇に霊剣布都御魂をもたらした高倉下命を祀ります。先ほど触れた高蔵貝塚の遺跡はこの境内の楠木の横にありました。
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続いては、雲心寺。こちらは浄土宗の寺で、名古屋三大仏の一つである阿弥陀如来像が本尊。大通りから入って、参道から、白い漆喰の山門をくぐって境内へ。
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境内奥には本堂と仏殿が並んで建っていて、ちょっと見応えがありますね。
しかし、自由に歩ける境内は池のところでおしまい。本堂や仏殿には立ち入れません。境内ではあんまりうろちょろしないようにということでしょうが、あんまりないことかなと思います。 -
また少し歩いて、開けた場所に出てきました。
これは名古屋国際会議場。名古屋市制100周年を記念して開催された世界デザイン博覧会で建てられたものです。一方で周囲は、白鳥公園が整備されていて、堀川沿いに美しい景色が続きます。国際会議場は、周囲を睥睨するように立っていて、まさにランドマークといった存在。近代的で美しい名古屋の姿を表現しているように思います。 -
その堀川にかかるのは熱田記念橋。熱田神宮公園と白鳥公園を結ぶつり橋で、昭和61年にできたそうです。
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美しい橋ですが、橋からの眺めもなかなかいい。
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イチオシ
白鳥公園の中に立つ国際会議場の近景に、遠景は上流の金山辺りの市街。名古屋にもこんな場所があったんだなと思うような眺めです。
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橋詰め広場辺りから、一帯は川沿いの遊歩道も組みわせた快適エリア。潤いと美しさを両方備えて、申し分ない都市公園です。
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白鳥公園と川を挟んだ熱田神宮公園は広い敷地を持つ公園なんですが、そのほとんどは球場や古墳で占められていて、自由に遊べる広場的なものはないような。公園の中を移動するのに通る通路を散歩代わりに歩く程度です。
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その古墳がこの断夫山古墳。熱田神宮公園の北側を占める巨大な古墳で、全長151m。東海地方で最大の前方後円墳だそうです。周囲の遊歩道を歩いてみましたが、あまりにも大きいのでそれでは全体の形はよくわからない。近くにミニチュアがあって、それで全景を確認しました。なお、6世紀の始めのものですが、誰の墓なのかはよく分かっていないようです。
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再び、白鳥公園の側に戻って、白鳥庭園へ。こちらは白鳥公園に続く有料庭園です。
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入り口を入って、
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奥へと進みます。
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明らかに池泉回遊式の庭園なので、大名庭園のような風格ですが、歴史的なものなのかどうかはよく分かりません。
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全体として整ってはいるのですが、
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イチオシ
まだ、木々がイマイチ細いのと背景に高層マンションが顔を出しているのが気になりました。
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これはまた、断夫山古墳の側に戻って、白鳥古墳。熱田神宮が管理していて、社伝では、これが日本武尊の陵だそう。同じく社伝では断夫山古墳が日本武尊妃の宮簀媛(みやずひめ)の墓なのだとか。学術的には地元の首長の墓としか言われていませんが、この位置からしても、熱田神宮に絡めて想像力を働かせてしまうのもむしろ自然なことかもしれません。
ちなみに、熱田神宮は東征に向かう日本武尊がこちらで妻にした宮簀媛に預けた、天皇の三種の神器の一つ草薙の剣を祀る神社。日本武尊は、草薙の剣を預けたまま、今の三重県亀山市、能褒野(のぼの)で没しているので、いろんなものをそれと関連付けたくなるんですね。白鳥というのも日本武尊のこと。没した日本武尊が白鳥に姿を変えて大和の国に帰っていくという物語です。 -
本遠寺は崖の上に建つ本堂が見えたのですが、どうやって行ったらいいのか分からない。道を聞くと反対側にはなだらかな参道がありました。入口脇に駒札があって、日蓮の孫弟子日澄が熱田神宮内の法華堂を移して本堂としたと書かれていましたが、その本堂は名古屋大空襲で焼失。同じく焼失した楼門も旧国宝だったようです。
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一方、現在の再建された本堂も圧倒的な存在感。下から見ていたよりも境内で眺める方がずっと迫力がありました。
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イチオシ
そして、ちょっと意外な史跡が誓願寺。源頼朝の誕生地です。頼朝の母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前。源義朝の正室となって頼朝を身ごもり、頼朝はここで生まれます。
門の脇に石碑があって説明がありましたが、それにしても門があるだけで変な感じ。あとで調べると本堂は奥の方にあって見えなかったよう。しかし、一見すると門だけが建っているように見えますね。 -
さて、ここから熱田神宮の領域に入っていきます。
下知我麻神社は熱田神宮の東側大通り沿い。熱田神宮には境内内摂社がいくつもあるのですが、通りから直接拝める摂社はここだけだと思います。
小さな祠ですが、祭神は、真敷刀俾命(ましきとべのみこと)。日本武尊の妃、宮簀媛命(みやすひめのみこと)の母で、旅行安全の神様だそうです。 -
熱田神宮は西門から入ります。
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菅原社は、西門を入ってすぐ。敷地内にある末社の一つです。ここは名前の通り菅原道真を祀る神社。学問の神様です。合格祈願の絵馬がいくつも下がっていまして、やっぱり菅原道真はどこでも人気があるようです。
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そこから北へ向かって本殿を目指します。手水者を過ぎて、
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イチオシ
これは熱田神宮の大楠。
神木として回りに囲いもあるので、すぐにそれと分かります。ちなみに、熱田神宮の境内には大楠は7本あって、この大楠は3番目の大きさのようですが、それでも雲を突くような大迫力。途中で二股に分かれていますが、それぞれが力強い幹となって延びています。 -
イチオシ
そのまま進んで、これは信長塀。信長は桶狭間の戦い出陣の際には、熱田神宮で戦勝祈願をしますが、桶狭間の戦いで勝利したお礼として奉納した瓦ぶきの塀です。
特に説明がされているわけでもなく、目だった感じもないのですが、有名な塀。ぜひお見逃しなく。 -
さて、本殿に到着。
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境内の広さの割に規模が小さいように感じるんですが、いかがでしょうか。
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熱田神宮の神楽殿は、本殿に向かって、右手の方。大きさもありますが、まだ真新しいような建物で、全体がキラキラ輝いているような感じです。初宮参りや安産などの祈祷を行う場。赤ちゃんを連れたご夫婦とかの姿も見えました。
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ここから裏手に続くこころの小径です。
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入ってすぐは龍神社。摂社はいくつもあるんですが、一番手前に位置します。
祭神は、吉備武彦命(きびたけひこのみこと)と大伴武日命(おおともたけひのみこと)。日本武尊の東征に従った神々ということです。神社の名前が小さな表札みたいな感じで書かれていました。 -
少し進んで、これは土用殿。結局は神楽殿の北隣りなんですが、これがかつてはあの草薙神剣を奉安していた建物。そういう意味では、熱田神宮では一番大切なものを保管する建物ですからもっと頑丈そうな建物でもいいような気がするんですが、そうでもない。ちょっと拍子抜けするような感じです。
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さらに進んで清水社です。もう本殿の裏手にさしかかるくらいの場所。祭神は水をつかさどる罔象女神(みずはのめのかみ)。隣りに湧水もあるので、ちょうどそれがハマった感じです。屋根の堅魚木がちょっと印象的です。
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こころの小径を出て。
熱田神宮の西楽所は、神楽殿の向かいに建つ桧皮葺の風情ある建物。将軍綱吉の再建なので江戸時代の建物でしょうが、もっと古い感じがするように思います。
なお、舞楽神事ではここで楽が奏されたりするようですが、普段はすべて閉めきりです。 -
これまでスルーしていましたが、今回は熱田神宮宝物館にも入ってみましょう。
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熱田神宮が草薙神剣を有していることもあって、玄関に展示してある真柄十郎の巨大な太刀を始め、刀剣類のコレクションが充実しています。
ただ、名刀と言われても、どこがどう違うのかよく分からない。個人的には能や神楽の面とかの方が気楽に楽しめるように思います。 -
宝物館を出て、南側に移動します。
南神池は、宮きしめんの裏手。宮きしめんの食べる場所からでも見えるし、小さくても、視界いっぱいに池の景色が広がる感じなので、ちょっとした寛ぎの風景となっています。きよめ餅の売店もこの池のほとりです。
ところで、この宮きしめんはとってもうまい。初めて食べたときはちょっと衝撃でした。以降、名古屋できしめんを食べる時は、宮きしめんが私のきしめんのおいしさの基準になっています。 -
二十五丁橋は、南神池の脇。
板石が25枚並んでいるので、二十五丁橋。歌に歌われた西行法師が腰をかけたというのは本当なのでしょうか。今は傷んでいるのか、渡ることはできず。近くから眺めるしかできません。 -
上知我麻神社は、熱田神宮境内の南側、端っこです。正門を入ってすぐ左手に向かった開けた場所に建っていて、下知我麻神社とはちょっと好対照だと思います。
祭神は、大国主社(大黒様)と事代主社(恵比須様)。商売繁盛、家内安全のおめでたい神社です。 -
その隣りすぐが別宮八剣宮。
和銅元年(708年)、勅命により神剣をつくり、境内に社を建てて祀ったことが始まり。本殿の建築様式は全て本宮に準じているので、摂社の中でも厳かな感じは一番のような気がします。
摂社はだんだん増えるもの。歴史が長いとこうなるといった典型でしょう。以上で熱田神宮はおしまいです。 -
熱田神宮東口の通りをはさんだ向かい側。きよめ餅総本家は、大きな構えのお店です。伊勢神宮だとこうしたお餅屋さんは何軒もあるんですが、熱田神宮だとここだけみたいですね。
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柔らかくて薄めのお餅に甘さが強い餡子の組み合わせ。ちょっとストレートすぎて、ひねりがないのでちょっと寂しいような気もしなくはないんですが、そこは正統派という受けとめをするのかなという感じです。
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ちょっとひなびた商店街なんですが、熱田神宮前商店街の方に帰ってきて。もう一つのお目当ては一力菓子。
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期待通り、ここのフルーツ大福すごいです。
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いちご大福みたいな定番を始めとして種類は豊富だし、一つ一つの写真がパネル展示されていてとっても美しいですね。
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いただいたのは、いくつかのフルーツを組み合わせたタイプでしたが、姿も味もちゃんとまとまりがある。見た目だけではないことも忘れず付しておきたいと思います。
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熱田神宮から桜駅に移動して。今度はここから笠寺まで歩きます。
まずは、長楽寺へ。 -
始まりは、空海が七堂伽藍を創建し、真言宗戸部道場寛蔵寺と命名したという由緒正しいお寺です。
初めに目に飛び込んできたのはペットの供養とかでしたが、やっぱり見どころは、入ってすぐのお堂にある立木十一面観世音菩薩像。涼しげな目鼻立ちの大きな観音様が拝めます。 -
裏手に回って、これは富部神社。素盞嗚尊を祀る神社なんですが、清洲城主、松平忠吉が創建したこちらも由緒正しい神社です。
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ちなみに、この松平忠吉は、徳川家康の四男。徳川四天王、井伊直政の娘婿となり、関ヶ原の戦いでは、島津軍を深追いし、その時に受けた傷が元でほどなく亡くなっています。
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なお、本殿が重要文化財。拝殿の奥にその赤い小さな建物が建っているのですが、普段は誰も気が付かないかもしれません。
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次はあまり知られていないスポット。戸部新左衛門碑は、笠寺にほど近い住宅地の中のはずだったんですが、うろうろしても見つからない。近所の人に尋ねると、今は、近くの富部神社の境内に移ったのだそうです。
しかし、ここ写真の幼稚園の横あたりこそ、戸部が居城としていた戸部城のあった場所。戸部氏は、織田氏と今川氏の二大勢力に挟まれた地域の小豪族で、一旦は織田氏に付きますが、織田信長の代になると今川氏に接近。今川義元の妹婿になったとも伝わりますが、結局は、織田方の謀略にかかり、義元に殺されてしまう。そして、戸部城もこれ以降は廃城になってしまいます。
地形的に、要害の地などない濃尾平野。碑は移転しても、ここを見ることで初めて、人智を尽くしてでしか領地を守れない独特の地理環境が理解できるように思います。 -
ここからは笠寺の市街です。
亀屋芳松は、甘味処も併設していて、大きな構え。明るい店舗です。 -
大福が何種類かあって生クリーム大福をいただきました。お味の方はちょっと洋風も混じって、素直なおいしさ。気さくな女将さんも感じいいです。
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そろそろ昼飯としましょう。
笠寺のうどん屋さんとしてはいづみという人気店があるんですが、こちらも気になった長寿うどんです。 -
比較すると、こちらは普段着のうどん屋さんと言う感じ。
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しかし、少し酸味のあるこのうどん出汁はめちゃめちゃおいしいですね。先ほど触れましたが、名古屋のきしめんだと私の基本は宮きしめん。これを基準にしておいしいかおいしくないかを判断します。そういう意味では、ここの長寿うどんは合格。宮うどんと同格のうまさかと思います。
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笠寺の人気うどん店の横綱はいづみでしょう。やっぱりここも行ってみます。
きれいな店内はこの日も多くのお客さんで賑わっていまして、 -
うどん通ならこれという「天コロうどん」をいただきました。冷たいうどんにつゆがかかって、シンプルに麺のうまさを楽しむタイプ。コシのあるツルツル感がいいですね。ただ、逆に、讃岐うどんに似ているので、新味はあまりないかもしれません。
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落ち着いたところで、街歩き再開。
これは、笠寺一里塚。一里塚は、土が盛られたり、大きな木が生えていたり。そうしたイメージが一般的かと思いますが、まさにそのイメージ通りなのがこの一里塚です。 -
イチオシ
この大木はエノキだそうですが、見事に枝を四方に伸ばして、誰でも目を見たるような見事さです。駅からは少し離れた場所ですが、正真正銘一見の価値ありですので、是非どうぞ。
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東光院は笠覆寺の塔頭ですが、少し離れた場所。山門には「笠寺天満宮東光院」の由緒書があって、境内には本堂の横に幟りを建てたそれらしいお堂が目立っています。
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また、宮本武蔵との関係もあるようですが、わざわざ遺品は一般公開していませんと断り書きも。余計気になるような感じです。
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いよいよ、これが笠覆寺です。笠寺の市街全体がこの寺の門前町といった感じ。町の中心となっているお寺です。
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通称は、笠寺観音。天平時代、僧、善光が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、祀ったのが始まり。
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ただ、この寺が有名になったのは、藤原兼平と玉照姫の観音像を笠で覆った玉照姫伝説。
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また、変わったところだと織田家の人質だった松平竹千代(徳川家康)と今川家の人質、織田信広の人質交換が行われた寺でもあります。
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境内は赤い幟が林立してとても賑やか。地元の人たちもなんだかんだとここに集まってくるような感じで、地元と一体になった和やかな雰囲気が感じられました。
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ここから笠覆寺の塔頭を二つ。
西方院は、笠覆寺と通りを挟んだ向かい。一段高いところにあるので、ここからだと笠覆寺の多宝塔はすぐ目の前によく見えます。
祀られている烏瑟沙摩明王は、木曽義仲の母が持ち歩いていたものだそうで、安産のご利益。「粕畠観音御縁起」という説明板もあって、笠覆寺発祥の地でもあるようです。 -
泉増院も西方院の並び。山門から階段を登って行くと、予想外に広い境内が現れました。
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静かな境内でおとなしい感じがしなくもないですが、こちらは玉照姫伝説の寺。ずぶぬれになっていた観音様に自分の笠をかぶせてあげた玉照姫が、たまたま通りかかった藤原兼平に出会い、それが縁で二人は結ばれたという話。縁結びのパワースポットとなっています。
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ここで、見晴台考古資料館にも行ってみます。笠寺から行くと、間に谷があるのでちょっと回り道をしないと行けません。
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しかし、この資料館の建つ台地自体が遺跡の発掘現場。
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弥生時代の立穴式住居跡がそのまま建物で覆われて保存してあったり、
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けっこう大掛かりな施設となっていました。
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これで笠寺はおしまいのはずだったんですが、笠寺駅そばのうどん屋さんを見つけて、ここも入ってみましょう。
小さな店ですが、ゆたかや 本店。今日はまだきしめんを食べていませんでしたよね。 -
ちょっと暗い店内ですが、まあそれも老舗風な感じがしないことはない。
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きしめんはペロンとした麺に程よい味加減。もう少しつやがあってもいいかなと思いましたが、それは余計なことなのかも。あくまで飽きのこない素朴で自然な味わいです。
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笠寺から有松駅に移動。ここが今日の最後の目的地です。
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さっそく、駅近くの古い街並みを散策します。
竹田邸は、有松の市街だと西側。西側ではこの建物がひと際立派。旧東海道沿いのに広い間口の主屋とその隣りには黒光りのするような蔵が並んで建っています。 -
その構えだけでもちょっとないように思うのですが、角を曲がって裏の方を見ると、さらに深い屋敷地が広がっている。今でも、有松絞りを扱う商家だそうですが、その財力は計り知れないような感じです。
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竹田邸から少し西に進んで、これは岡邸。建物は、江戸時代末期に作られたもの。二階窓の縦格子が美しいデザインとなっていますが、やはり、インパクトがあるのは全体としてはシンプルな妻屋造りなのに、巨大であること。そこに絞り問屋の圧倒的な存在感があるように思います。
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さらに進むと今度は小塚邸。竹田邸、岡邸と並んでいて、こちらもかつての絞り問屋の隆盛を伝えています。一階の格子窓に対して、二階は塗りこめ壁。それをうだつも備える塗ごめ造り。主屋に蔵が並ぶのは竹田邸と同じですが、規模はこちらが少し小さいと思います。
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有松天満社は、有松の街並みの西の端。地図で見ると有松の街並みの外れだと思っていたのですが、街並みを西に進むとそのまま天満社の方に導かれるように参道があって、むしろ有松の街並みと一体になっている感じ。
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線路を越えた後には、長い石段もありますが、気分的には遠く来たような気はしませんね。
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境内は、ちょっとした広場のよう。有松天満社の秋季大祭では、からくり人形の演技も披露されるということですが、確かにこれならちょうどいい広さかもしれません。
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市街に戻って、これは祇園寺。ここが、有松の市街の本当の西の端です。正面は少し石段を登った先に山門があるという、しっかりした感じだったのですが、
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境内は脇からも入れるし、幼稚園のような遊具もあったりして、結局は、なんか緩い感じ。敷居は全然高くありません。
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今度は古い街並みの東側を歩いてみます。
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神半邸は、東のエリアに入ってすぐ。ここも旧絞り問屋の町家ですが、
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入口から奥に入ると、玄関先のような場所にダーシェンカというパン屋さんがあります。
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なんか雰囲気いいなあと思ったら、写真を撮るなら声を掛けてくれと書いてある。ということで、お断りしてからお店や建物の内部を撮らせてもらいました。
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ハード系のパンとか品数は少ないですが、どれも高級感があって、このお店とマッチしています。
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東のエリアの代表格は、この服部邸。
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連子格子になまこ壁の蔵、 虫籠窓、塗籠造、卯達など、見どころがすべて揃っているでしょう。
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棚橋邸は、有松の古い街並み。東側エリアで絞り会館の隣り、服部家住宅の向かいにあります。ただ、東側エリアのランドマークは服部家住宅なので、この棚橋邸に目が向く人はほとんどいないかも。蔵もないし、大きさもかなり落ちるのでまあ仕方ないかもしれません。白い漆喰の二階壁がちょっと頑張っているかなというくらいです。
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こちらは有松山車会館。
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イチオシ
展示されているのは、毎年10月第1日曜日に開催する秋まつりに使われる山車。祭りは400年の歴史があるようですが、展示されている山車は、修復も終えて、きらびやかな姿。カラクリ人形もいくつか乗っていて、祭りの華となっている様子が鮮やかに想像できました。
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そして、結果として、有松 鳴海絞会館は、有松の一番の見どころだったかなという感じ。地元の隆盛を支えた絞りの実演や着物などの作品が豊富に展示されています。
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実演しているおばちゃん二人にもお話を聞きましたが、元々は九州の方から名古屋城の築城のためにやってきていた人たちがきれいな絞りを着ていて、それが気に入った地元の篤志家、竹田庄九朗がそれを真似て作りだしたのが始まりだとか。技法として伝えられた豊後絞りもありますが、さらに当地では長足の進歩を遂げることとなりました。
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絞りは120種類くらいあったようですが、今は70種ちょっと。
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鹿の子絞りくらいしか知りませんが、なかなかそんなに単純なものではないようです。
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イチオシ
絹だと絞った跡が立体的に残るのですが、木綿だと残らないとか。
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なるほどねといった話を聞いて、けっこう盛り上がりました。
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日が暮れかかってきましたが、ここから桶狭間です。
まず目指したのは桶狭間古戦場公園。有松の市街から歩きましたが、ちょっと距離がありますね。 -
住宅地のような一角にほどほどの広さの公園があって、織田信長と今川義元がそれぞれに合戦に備える像。
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傍らには、戦いの展開を地図とともに解説する説明板も。歴史を動かした場所というにはちょっと軽い感じですが、まあ基本的には親切な整備が出来ていると思います。
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ところで、おけはざま山は、今川義元が本陣を敷いた山。地元の人にも聞いてみましたが、どこというのは特定できていなくて、今は住宅がそこそこ建っている小高い山全体を指しているよう。ただ、いずれにしても、小高い山なので視界はそれなりにきくような感じ。そんなに変な場所ではないと思うのですが、たぶん、信長はそれもお見通し。術中にはまってしまったのは紛れもない事実です。
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瀬名氏俊陣地跡も、桶狭間の戦いの古戦場の一つ。桶狭間古戦場公園から長福寺に向かう途中です。
ちなみに、瀬名氏俊というのは、今川義元方の武将。今川氏の先発隊としておけはざま山に本陣を設営するため、200名くらいで着陣した場所です。ここも詳しい説明板がありました。 -
長福寺は、桶狭間古戦場のエリアにあって、
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桶狭間の戦いで討ち取られた今川義元の供養寺。
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今川義元の位牌と座像があるということで拝観をさせてもらいました。
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本堂の内陣脇に置かれた坐像。小さな厨子に入っています。
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イチオシ
この座像は下から見上げるようにすると普通の顔なんですが、同じ高さの目線で見ると表情は一変。悲しみか恐れか。恨みも混じったような苦痛にゆがんだ表情に深い無念の気持ちが籠っている。よくできているといえばそうなんですが、こんなことまでするかなあ。不思議な像を作ったものだと思います。
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桶狭間神明社は、桶狭間の戦いの際、今川方の先発隊として着陣した瀬名氏俊が戦勝を祈願した神社。その願いはかなわなかったのですが、その後も、地元の神社として大事に守られて来ています。
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坂道を少し登ると広場のような境内。本殿の前には、いかめしい門が構えていて、威厳を整えた姿。気軽な感じがないように思えました。
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戦評の松は、長福寺からため池沿いに有松方面に少し戻ったところ。
桶狭間の戦いの際、今川勢の先発隊であった瀬名氏俊が本陣の設営を終えた後、この下で軍議を開いたといわれる松。初代の松は樹齢400年を超える立派な松だったようですが、今はその名残はない。小さな駒札が立っていて、ちょこっとそれらしく整備されているだけです。 -
七ッ塚は、信長から桶狭間の戦いの戦死者を葬るよう命ぜられた村人がこのあたりに七つの穴を掘り埋葬したと伝わるもの。桶狭間の戦いでの戦死者は、3,500名あまり。意外に多い人数です。塚は住宅地の中の細い道を入った先。入口に標識はありますが、けっこう見つけにくい。地元の人に聞いてもすぐには分からず、けっこう苦労しました。
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有松神社は、桶狭間の古戦場の一つ、高根山の頂上にポツンと建つ小さな神社。
標高54mですが、見晴らしがきいて、ここに陣を敷いた今川勢の先鋒、松井宗信隊は悪くない選択。しかし、激戦の中で、松井宗信は討ち死にしています。
一方で、この神社はそれとは関係なし。日清戦争以降の戦没者を祀るため、昭和になって建立されたもの。神社自体は特にどうということはありません。 -
高根山は、桶狭間の戦いにおいて、今川勢が布陣していた山。布陣していたのは先陣隊でもある松井宗信隊の1,500名。織田軍を監視するには適した所でした。標高54mの小山は実際に立ってみると周囲がよく見渡せて、それでも信長の急襲には対応できなかったのは不思議なくらい。戦いで松井宗信も戦死しています。
桶狭間の戦いの史跡は点在していて、なかなか見つけにくいものもありましたが、以上で予定どおり。もう暗くなっていましたが、何とかこれで任務完了です。 -
有松からは今夜の宿の豊橋に移動。
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駅前のイルミネーションを確認して、
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晩飯は宝来亭へ。
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ここは、豊橋の人にとっては懐かしい味のようですが、まさにそんな感じのレトロなお店。実直そうな親父さんが一人で切り盛りしていました。
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いただいたのは、ハヤシライス。玉ねぎがたっぷり入って凝縮された甘さがいけてますね。肉が少ない感じもしなくはないですが、少なくてもその分いい肉を使ってあるような気がして悪くはない。心もほんのり温かくなりました。
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そして、今日の宿は豊橋パークホテル。JR豊橋駅から少し歩きますが、それよりも線路と線路の間のような場所なので、行き方がちょっと分かり辛いかもしれません。
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ただ、建物はけっこう頑丈そうでしっかりしているし、ロビーもゆったり。受付がちょっとぞんざいですが、省力化のためと思えばまあ許せる範囲かな。安いのでいいと思います。
さて、明日は最終日。浜名湖の南側、弁天駅周辺から、浜松を回ります。
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