2016/10/11 - 2016/10/20
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ken-kenさん
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2016年イタリア旅行 ローマ編その2です
ローマはカトリックの信仰の中心として長い間君臨してきました。
そのために枢機卿や貴族たちが小さな国の王様並みの権力と財力を持っていました。
そのためその屋敷は「邸」ではなく「宮」と呼ばれています。
そしてその「宮殿」を飾るために様々な美術品を集めました。
その「宮殿」と美術品が公開されています。
そのコレクションはまるで一国の美術館並みに充実しているのです。
また内装もびっくりするくらい豪華です。
その中からコロンナ宮、ドーリア・パンフィーリ宮、キージ・ファルネーゼ宮、スパーダ宮の四つの美術館を訪れました。
表紙はコロンナ宮。
ローマの休日でオードリー扮するアン王女の新聞記者会見のシーンのロケ地になりました。
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コロンナ宮の誰もいない大広間
大広間は入り口から階段を上がってすぐのところにあります。
係官の人が奥で常に待機しているので、人の入らない写真を撮るのに苦労しました。
コロンナ宮は週に一度、土曜日の午前中だけ公開しています。
この日はフィレンツェにいたのですが、ローマの休日ファンの自分としてはどうしても来てみたかったのです。
そこでフィレンツェ5時50分発、ローマ8時25分着のインターシティに乗ってローマにやってきました。
これなら一番で入れるはずと思ったのですが、途中道に迷い、2番乗りでした(笑)。 -
大広間の奥、この場所でアン王女の新聞記者会見がロケされています。
真ん中に椅子が置かれ、オードリーがそこに座って記者の質問に答えます。
映画を見るとほぼ同じで、当時と変わっているところがありません
ただ一か所、映画では隠されているところがあります。
拡大していただけるとお分かりになると思いますが、階段の真ん中に大砲の玉が撃ち込まれています。
映画では階段には絨毯が敷かれ、大砲の玉を隠しています。 -
これが階段に撃ち込まれた大砲の玉のアップです。
ナポレオン三世(ナポレオンの甥)がローマを侵攻したときに、ジャニコロの丘から打ち込んだ大砲が、この宮殿を直撃し、階段にぶつかったそうです。
1848年のフランス2月革命の影響で、ローマにも共和制が樹立され、教皇のピウス9世がローマを追われてしまいました。
革命をして王や貴族は平気で殺せても、フランス人は敬虔なカトリック教徒たちが多いのです。
教皇だけは絶対に守りたい存在です。
選挙でフランス大統領に選ばれたナポレオン三世はフランス人の強行への思いをよく知っていたため、教皇のローマ帰還の支援を公約にしていました。
目論見は当たって見事大統領になり、1949年にフランス軍はローマに侵攻し大砲の玉の嵐をローマに降らせました。
その結果、見事に教皇はローマに返り咲いたのですが、追い出されるくらいですから、教皇は反動的な人物。
ローマに圧政を敷き始めました。
そのためにナポレオン三世もこのままでは支援できない、一日も早くローマに共和制の体制を敷くようにと提言し、教皇たちを激怒させたそうです。
なんにせよ、撃ち込まれた大砲の玉が単なる鉄の玉だったことが幸いしてこの宮殿の階段を壊しただけで済んだのは僥倖でしたね。 -
反対側から見た大広間。
記者会見が終わり、アン王女は左手に引きさがり、グレゴリー・ペック扮する記者はこちらのほうに帰っていきます。
現在はアン王女が下がったほうが入口で(たぶんかつては裏口)、新聞記者が帰っていく方角に行くと絵が飾られた美術館に行くようになっています。 -
大広間から見上げたコロンナ宮の天井画です。
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豪華絢爛とはこのことですね。
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大広間の先の部屋も素晴らしいです。
左下にカラッチの「豆を食べる男」
真ん中やや右上にペルジーノの「聖ヒエロニムス」が飾られています。 -
アンニーバレ・カラッチ「豆を食べる男」1585年ころの作品。
この豪華なお屋敷を飾るのにはまるで相応しくない、が、この美術館随一の傑作です。
題材のせいか、この絵はまるで印象派の絵のようです。
印象派より三百年近く前、バロック期の絵画です。
16世紀に庶民の姿を描いたのも異例。
当時の庶民が何を食べていたのかがわかる貴重な資料にもなっています。
素晴らしい絵ですね。 -
ペルジーノ「聖ヒエロニムス」
聖ヒエロニムスは聖書をラテン語に翻訳した人です。
シリアの砂漠で隠遁生活をしながらヘブライ語を学んだそうです。
その後ベツレヘムに隠遁し苦行をしながら聖書をラテン語に翻訳したそうです。
そのために聖ヒエロニムスを描いた絵って孤高で険しいものが多いのですが、この絵はペルジーノらしく優雅でほのぼのした感じの絵です。
そしてヒエロニムスの絵にはライオンが登場します。
これはヒエロニムスが隠遁生活をおくっていた時、足に棘を刺して苦しんでいたライオンの棘を抜いてあげたという伝説からきているそうです。 -
美術館としてだけではなく、宮殿としても見応えがあります。
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タペストリーとシャンデリアも見事。
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この宮殿にはいまだにコロンナ家の人が住んでいるそうです。
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実に美しい宮殿です。
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これはボッティチェリかなと思ったら、やはりボッティチェリの「聖母子」でした。
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[あれ?これはルイーニ?]
と思ったら、やっぱりルイーニでした。
ベルナルディーノ・ルイーニ「聖母子と洗礼者ヨハネと聖アンナ」
ミラノで活躍した人でレオナルド・ダ・ヴィンチと一緒に仕事をしていたこともあって、その影響を多大に受けている人です。
そのために、この人の作品のうち何作もが後世になってダ・ヴィンチのものと間違えられています。 -
ブロンツィーノの絵もありました。
ブロンツィーノ「聖母子と洗礼者ヨハネと聖アンナ」 -
これはローマの休日のロケ場所である部屋に飾られたブロンツィーノの「ヴィーナスとキューピッド」。
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大広間(2階にあります)からテラスに出られます。
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テラスから見た二階の屋上庭園と下に見えるピロッタ通り。
テラスはピロッタ通りの上にかけられています。 -
コロンナ宮の中庭です。
この中庭の広さからいかに大きな宮殿かわかると思います。
しかも場所はヴィットリオ・エマニエル記念堂のそば、ローマの中心なのですからコロンナ家の財力のすごさが垣間見えます。 -
こちらがコロンナ宮のもう一つの中庭です。
テントが張ってある場所がカフェになっていました。 -
10時近くになると、日本人の団体の方がやってきました。
多分、映画「ローマの休日」のファンの方々なんだと思います。
映画の日本公開からもう60年も経っています。
なのに若い方もいらっしゃって、いかに日本人に「ローマの休日」が愛されているのかがわかって、ファンとしてはとても嬉しくなりました。 -
「一番お気に召した街はどこでしたか?」
「ローマです。なんといってもローマが一番です!」
そんな名台詞を思い出しながら、この宮殿を後にしました。 -
コロンナ宮のそばにあるドーリア・パンフィーリ宮殿の中庭。
15世紀に建てられ、その後デッラ・ローヴェレ家、アルドブウランディーニ家の所有を経て、現在はドーリア・パンフィーリ家の所有となっています。 -
ドーリア・パンフィーリ宮殿の中庭です。
こちらもローマの中心地、ヴィットリオ・エマニエル2世記念堂のすぐそばに建っています。 -
ドーリア・パンフィーリ宮殿の内部。
やはり素晴らしい部屋に素晴らしい絵が飾られています。
美術コレクションとしてはコロンナ宮より充実しているかもしれません。 -
こちらもコロンナ宮の大広間並みの広間があります。
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天井画も素晴らしいです。
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豪華絢爛とはこのことでしょう。
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素晴らしい天井画。
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騙し絵の天井画もあります。
ひびが入っているので騙し絵と分かりますが、それがなかったら本物のドームかと思ってしまうほどのいい出来です。 -
ドーリア・パンフィーリ宮に飾られた三枚のカラヴァッジョ。
右は「洗礼者ヨハネ」
真ん中は「エジプトへの逃避行中の休息」
左は「マグダラのマリア」 -
「若き洗礼者ヨハネ」
1602年ころの作品
オリジナルはカピトリーナ絵画館にあります。
これは本人が描いた模写です。 -
カラヴァッジョ作「エジプトへの逃避行中の休息」
1596年ころの作品
ユダヤ王ヘロデがベツレヘムで新しい王が生まれた(イエス・キリストのこと)という予言を聞いて、自らの保身のため、2歳以下のすべての幼児を虐殺しようとしますが、イエスの両親ヨゼフとマリアは天使からお告げを聞いてエジプトに逃げてイエスは助かります。
その逃避行中に休息している一家を描いた絵。
右にイエスを抱く聖母マリア、左にヨゼフを置き、真ん中に天使を配することによって、場面をより広く見せようとしているそうです。 -
カラヴァッジョ作「マグダラのマリア」1596年ころの作品
娼婦だったマリアはイエスに出会って改心し、それまでの生活を捨てます。
この絵は悔悟するマリアの絵。
左下にそれまでの生活の象徴である宝石が投げ捨てられています。
瓶に入っているのは香油。
聖書にイエスの体に香油を塗るシーンがあります。 -
ドーリア・パンフィーリ宮殿にある
ヴェラスケス作「インノケンティウス10世の肖像」
1650年ころの作品
インノケンティウス10世はパンフィーリ家の出身です。
そのためか、この絵と次に出てくるベルニーニ作の「インノケンティウス10世の彫像」だけ別室に飾られています。
ヴェラスケスといえばスペイン王室のお抱え画家。
でもローマ法王の絵も描いていたのですね。 -
その部屋に置いてある
ベルニーニ作「インノケンティウス10世の彫像」
ベルニーニはインノケンティウス10世の前の教皇ウルバヌス8世に非常に可愛がられ、次から次に仕事をもらっていました。
サンピエトロ寺院の鐘楼の設計、バルベリーニ広場にあるトリトーネの噴水など彼の名声は一気に高まりました。
ところがウルバヌス8世が死去しインノケンティウス10世が教皇に即位するや否や、彼の幸運もついえました。
ウルバヌス8世の出身のバルベリーニ家とインノケンティウス10世の出身のパンフィーリ家とは犬猿の仲。
そのためにインノケンティウス10世はベルニーニを冷遇したそうです。
でも、自分の彫像やナヴォーナ広場の四大河の噴水の設計を任せたところを見ると、やはりその才能を認めざるを得なかったのでしょう。 -
この美術館にはフィリッポ・リッピの「受胎告知」(1445年ころの作品)もあります。
色彩が美しいですね。 -
ラファエロもあります。
ラファエロ作「ふたりの紳士」1516年ころの作品 -
ティツィアーノまであります。
ティツィアーノ作「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」
1515年ころの作品
それほど有名ではないですが、コレクションの豊富さはボルゲーゼ美術館、バルベリーニ宮の国立絵画館に次ぐ、素晴らしい美術館だと思います。 -
その後、カンポ・ディ・フィオーリ広場を通って、テヴェレ川を渡った向こうにあるファルネジーナ・キージ荘に向かいました。
その途中、カンポ・ディ・フィオーリ広場のそばにあるスパーダ宮によりました。
やはり部屋中に絵画が飾られています。 -
ただ、この美術館はあまり有名な絵はありません。
比較的有名な絵が地球の歩き方に載っている
ドメニコ・チェリーニ「ゴリアテの首を持つダヴィデ」 -
スパーダ宮の内部。
こちらも豪華絢爛。 -
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そしてスパーダ宮で有名なのがスパーダ枢機卿がベルニーニのライバル・ボッロミーニに命じて作らせた「遠近法の間」です。
ガラス越しに見た遠近法の間。
スパーダ絵画館に入らないとこんな感じでしか見ることができません。
ここから見るとすごい奥行きだなと思ってしまいます。 -
入場料を払ってスパーダ絵画館に入ると、中庭から直接遠近法の間を見ることが出来ます。
写真ではわかりにくいですが、ここから実際に見ると奥行きがあまりないことがわかります。 -
実際に横から見るとかなりわかるのですが・・・・
やはり写真ではわかりにくいですね。
何人か集まると係りの人がこの中に入ってくれます。
そうすると実際には4mくらいの奥行しかないことがわかります。
段々に天井は低く、床が高くなっているそうです。
廊下の幅も奥に行くほど狭まっているようです。 -
テヴェレ川を渡ってトラス・テヴェレ地区に行きます。
ファルネジーナ・キージ荘はシスト橋を渡ってすぐのところにあります。
この宮殿のルンガラ通りを挟んだ向かい側に国立コルシーニ宮美術館があり、カラヴァッジョの絵も飾られているのですが、この日は残念ながら会議か何かがあったようで特別休館でした。
写真はファルネジーナ・キージ荘の正面の外観です。 -
キージ・ファルネーゼ荘を裏側から見ました。
キージ・ファルネーゼ荘は銀行家のアゴスティーノ・キージによって贅を尽くして建てられました。
アゴスティーノ・キージは1465年生まれ。
15世紀から16世紀にかけて活躍した大変有能な銀行家だったようです。
ボルジア家出身の法皇アレキサンデル6世に認められ、ボルジア家に融資を行うとともに、法王庁の財産管理も託されます。
その結果塩、小麦、明礬の専売権を得、莫大な財産を作ります。
アレキサンデル6世の後のユリウス2世にも信頼され、ボルジア家の戦費のためにボロボロになっていた法王庁の財政を立て直します。
そのため、ユリウス2世から厚く保護され、1506年にはユリウス2世の姓である「デッラ・ローヴェレ」の紋章を授与され、法王庁出納官、書記官などの実入りの多い役職にもつけたそうです。 -
その財産を惜しみなくつぎ込んで作ったのがこのキージ宮殿です。
ラファエロに描かせたフレスコ画「ガラテアの勝利」
1511年ころの作品 -
「ガラテアの勝利」のアップ。
ガラテアはギリシア神話に登場する海の妖精です。
海の神ネーレウス(ポセイドンではないんですね。太陽神もアポロンとヘリオスの二人がいて、ギリシア神話ってすごくわかりにくいです)の娘だそうです。
画はそのガラテアが二匹のイルカが曳く貝の船に乗って凱旋するシーンを描いています。 -
「ガラテアの勝利」が描かれた豪華な部屋。
右側に「ガラテアの勝利」が描かれています。
アゴスティーノ・キージはこの屋敷で夜な夜な豪奢な宴会を催します。 -
その隣にあるラファエロが設計したプシュケのギャラリーです。
天井画は(多分)ラファエロが下絵を描き、ジュリオ・ロマーノを中心とした弟子が描いた、「プシュケの結婚式」と「神々の集い」が描かれています。
1518年ころの作品 -
この絵が「プシュケの結婚式」
人間の女性プシュケに恋をしてしまったヴィーナスの息子クピド(キューピッド)が様々な困難の末に結ばれて、晴れて結婚式を挙げるというシーンなんですが、最初プシュケとクピド夫婦がどこにいるのかわかりませんでした。 -
当然真ん中の二人がそうだと思ったのですが・・・・
-
この写真の右にいる二人がクピドとプシュケなんでしょうか?
女性のほうはともかくこの髭面男がクピド(キューピッド)?
プシュケはその美しさからヴィーナスに憎まれ、息子のクピドに命じて、醜男と結婚するように矢を打たせようとしました。
ところがクピドは誤って自分の指を矢で傷つけてしまい、プシュケと恋に落ちます。
プシュケはなんとしても母ヴィーナスに結婚の許可を得るために、ヴィーナスの出した数々の難題を乗り越えます。
そして最終的にゼウスの許可を得て、めでたく結婚式を挙げることができたのです。 -
と思っていたら、右側にいました。
天使が香油(でしょうか?)を振りかけているのがクピド(キューピッド)とプシュケ夫妻でしょう。
この二人なら納得です。
真ん中のカップルの上で天使が花束を掲げていたのですっかり勘違いしてしまいました(笑)。
なぜこの天井画が描かれたかというと、アゴスティーノ・キージも高級娼婦フランチェスカと恋に落ち、彼女を修道院に入れ、銀行家の妻に必要ないろいろな教養を身につけさせ、最終的に結婚にまでこぎつけます。
依頼主の結婚話とリンクする話だったため、描かれたのだと思います。 -
そしてこちらが「神々の集い」
アゴスティーノ・キージとフランチェスカの結婚は一見美しいハッピーエンドに見えますが、その裏にはもう一人の女性の悲劇がありました。
彼女の名前はインペリア。やはり高級娼婦でアゴスティーノ・キージの長年の愛人でした。
なかなかの才女でこの屋敷も初めは彼女のために作られ、さまざまな芸術家の集まる高級サロンの用を呈していたようです。
二人の間には娘までいたにもかかわらず、結局まだ少女だったフランチェスカにその座を奪われ、結局インペリアは自殺してしまったそうです。 -
こちらも誰が誰だかわかりません。
右側の白い髭がゼウス、その左隣で三又の鉾を持っているのがポセイドンでしょう。
ゼウスの前の背中に羽をはやした少年がクピド(キューピッド)でその後ろにいるのが母のヴィーナスでしょうか? -
こちらは帽子をかぶったヘルメスとその右下にたたずむスフィンクスだけわかりました。
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二階にある「遠近法の間」
バルダッサーレ・ペルッツィが1517年に作りました。 -
大理石の柱の間から16世紀のローマの街並みが見えます。
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手前の大理石の柱は本物ではないかと思ってしまうくらい、非常によくできた絵です。
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暖炉の向こうにもローマの街並みが続いています。
今回は行かなかったのですが、ダン・ブラウンの「天使と悪魔」にも登場したサンタ・マリア・デル・ポポロ教会にある「キージの霊廟」はアゴスティーノ・キージがボルジア家の墓を破壊してラファエロに設計を命じて作ったものです。 -
素晴らしい部屋です。
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その隣に「婚姻の間」があります。
アゴスティーノ・キージがフランチェスカとの結婚のために作った部屋です。
壁に描かれているフレスコ画はシエナのソドマの作品。
「アレキサンダー大王とロクサーヌの結婚」
1517年ころの作品
この壁画が描かれているために「婚姻の間」と呼ばれています。
ソドマの本名はジョヴァンニ・アントニオ・バッツィです。
ヴァザーリの壁画の「芸術家列伝」を批判したために、ヴァザーリの復讐か、同書の中でめちゃくちゃひどく書かれています。 -
四方の壁にはソドマが描いたアレキサンダー大王の絵が描かれています。
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「アレキサンダー大王とロクサーヌの結婚」の左部分。
1519年8月28日、時の教皇レオ十世にフランチェスカとの間に生まれた三人の子を祝福してもらい、法王庁直属の公証人にフランチェスカとの結婚を記録させ、アゴスティーノの死後はフランチェスカとその子供が遺産相続できるように手続きを行いました。
この時、アゴスティーノは54歳。
これで安心したのか、翌年の1520年4月11日に亡くなっています。 -
「アレキサンダー大王とロクサーヌの結婚」の右側部分と右側の壁に描かれた
「アレキサンダー大王の前に連れ出されたダレイオス三世の家族」
アゴスティーノの死の翌年、後を追うように1521年フランチェスカも死亡します。
二人の息子ロレンツォは凡庸でアゴスティーノの財産を浪費するだけでした。
このキージ宮殿も16世紀末にはファルネーゼ家に買い取られ、現在のファルネジーナ・キージ荘の名前の由来となっています。
やがてキージ家はローマの社交界から忘れられた存在になって行きます。 -
「アレキサンダー大王の前に連れ出されたダレイオス三世の家族」
1517年ころの作品
そんなキージ家が復活するのは、百年以上後のこと。
アゴスティーノの曾孫に当たるファッビオが1655年にアレキサンデル七世の名前で法王になってからです。
ファッビオは長い間、前に出てきたインノケンティウス十世の秘書を務めてきました。
インノケンティウス十世が冷遇したベルニーニのパトロンになり、サンピエトロ広場を建設させました。
また、キージ霊廟にある「ダニエルとハバククと天使の像」をベルニーニに作らせたのも彼。
そんなベルニーニの活躍がダン・ブラウンの「天使と悪魔」を生んだわけです。
アレキサンデル七世は親族重用主義をもって身内から枢機卿をたくさん輩出させました。
結果、キージ家は再び表舞台に返り咲き、1659年にはコロンナ広場に面した豪壮なキージ宮殿を買い取りました。
このキージ宮殿、現在では大統領府になっています。 -
補足です。
2009年のイタリア旅行の時に撮ったサンタ・マリア・デル・ポポロ教会にあるキージ家の礼拝堂。
残念ながらカメラが古くピンボケです。
ラファエロが設計しました。
ここにアゴスティーノ・キージが眠っています。
近年、ダン・ブラウンの小説「天使と悪魔」で枢機卿が殺される場所に使われ、非常に有名になりました。
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