1994/04/14 - 1994/04/22
3357位(同エリア6975件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1755冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,457,934アクセス
- フォロワー169人
1週間ほどの休みがあったので、急遽ローマに行くことにしました。以前から計画はしていたのですが、ローマ市内をバロックのカラヴァッジオの絵画とベルニーニの彫刻をメインに5日間歩き周るという内容でした。毎日違った地図を用意してホテルからその日に歩くコースを書き込み、教会の開いている時間も克明に調べていました。1日の平均歩行距離は25キロですから5日で120キロ以上歩いた事になります。「ダ・ヴィンチ・コード」で有名なダン・ブラウンの「天使と悪魔」を後年になって読みましたが、小説を読んでいてもその場所や彫刻が目の前にあるかのように鮮明に思い出せました。
ローマへのフライトは4月上旬で一番安かったアエロフロートを選びました。アエロフロートはこの時が最初でしたが、このフライト以降機内で出会う方が魅力的なので、値段以上の魅力もあり努めて選ぶようになりました。当時はタバコを吸っていたこともあり、個人的にはモスクワで一休み出切るのは直行便より快適でした。成田を発って4時間ほど過ぎてシベリアの景色を眺めていると、後ろの席の方が話しかけてこられました。最初は席の前後で話していましたが、イタリアについて造詣の深い方の話の面白さから席を移動してモスクワまでいろいろ勉強させていただきました。特にこの時に教えていただいたベルトリッチやタルコフスキーの映画には惹かれました。マイナーものが多く、LD(当時はDVDは無くレーザー・ディスク)を探すのも大変でしたが、現在もDVDになっていなくて観られないものもあります。タルコフスキーの「ノスタルジア」のサンガルガーノ修道院の廃墟の話に差し掛かると通路を挟んだ隣の女性が「もう我慢できません。私も話しに入っていいですか?」と。結局3人で空港についた後もテルミニ駅に着くまで話しっぱなしでした。3人ともずっとローマに滞在する事もあり、週末に駅で待ち合わせて食事をすることにしました。その女性とはオルタとオルヴィエートにも一緒に行き、ジャーナリストの男性とは20年以上経った今でも旅先から葉書をいただいたりします。その後のフライトでも劇団を主宰されているおじいさんとサンクトペテルブルグの上等のウォッカをいただいたり、旧ソヴィエト連邦の国から化石を借りて日本で恐竜展を企画されている方など、当時は面白い出会いのある航空会社でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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成田からモスクワとモスクワからローマまでのアエロフロートの機内では近くの席の人たちと話が弾み、テルミニ駅までご一緒させてもらいました。誰彼からでもなくテルミニ駅で週末に再会して、晩御飯を食べましょうと約束して別れました。と言っても駅の東口に宿を予約している女性と別れ男二人は西口の安ホテル街へ分かれます。予約していたキャピタルホテルまで案内してもらってフリージャーナリストの方ともお別れです。
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翌朝ホテルの部屋がノックされ、扉を開けると昨晩まで一緒だったジャーナリストのHさんでした。昨晩に泊まったホテルが良くなかったようで、前に泊まったことのあるキャピタルホテルに移動されたとの事でした。近所の八百屋で買ってきたシチリアのオレンジをいただきましたが、真っ赤な果肉のオレンジは懐かしい味がしました。
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しばらく話をして別れましたが、後日市内を歩いていたら首相官邸近くでバッタリ再会しました。物物しい警備がされていたので、それが目的だったのではないでしょうか。詳しくは聞きませんでした。
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イチオシ
今回の旅でローマに滞在するのは2度目でした。1度目はこの旅の4年ほど前にイタリアを1か月ほどかけて縦断した旅でした。ローマに滞在できたのは数日だったので、ローマ時代の遺跡をメインに市内を周っただけでした。今回は時代を変えてバロックの時代に特化して、大好きな画家のカラヴァッジオと彫刻家で建築家でもあるベルニーニの作品とローマ市内の噴水を見て回るという酔狂な計画でした。
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そして1日はローマを離れ、オルテとオルビエートという中世の山岳都市を周る計画もありました。この1日旅行は機内で知り合った長野の女性が面白がってくれて、一緒に行くことにしました。ちなみにその方の旅の目的はイタリアに帰ってしまったボーイフレンドに逢いに行くとのことでした。
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この当時のアエロフロートは値段は安いけれど、人気の無い航空会社だったようでいつ乗っても機内が満席ということはありませんでした。確かに食事は美味しくなく、特にモスクワから成田に戻る食事はひどかったです。ただそれ以上に機内で知り合う方の職業は多岐にわたり、そんな出会いが面白くてよく利用していました。
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ホテルを出て一人になり、ようやく旅がスタートします。カンポ・デ・フィオーリ広場の朝市まで散歩しました。広場の中央に立つ彫刻は、この広場で処刑された哲学者のジョルダーノ・ブルーノを記念したものです。カンポ・デ・フィオーリ広場は何世紀もの間、死刑執行の場としても使用されていました。ジョルダーノ・ブルーノはコペルニクスの地動説を擁護して異端罪に問われ、1600年にこの広場で処刑されます。彼の死を前例に考えて同じ轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われます。
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「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」はさすがにローマカトリックの4大バジリカと呼ばれるだけあって立派な建物です。ローマの四大バシリカの中で最古の大聖堂です。 ローマ教皇はローマ司教であるので、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会にはローマ司教座聖堂としての教皇の座があります。
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18世紀のクレメンス12世は正面のファサードのデザインをアレッサンドロ・ガリレイに依頼します。 正面のファサードは上部には十字架を持ち右手を掲げるキリストと聖人の彫刻が並んでいます。キリストの足元のPXは救い主の意味であるヘブライ語の「メシア」をギリシャ語で「ΧΡΙΣΤΟ&Sigma」(クリストス)と表現したものです。教会の創立当初からこの最初の2文字を組み合わせて、キリストの名前のシンボルとして用いられてきました。ヨーロッパではキー・ロー(XとPとのモノグラム)と呼ばれれ、壁画やモザイク画、石棺やランプ、祭服や教会のミサなどで使われる容器などキリスト教関係に用いられています。
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内部にはコズマーティ様式の美しい舗装を見ることができます。 大聖堂には5つの側廊がある。 身廊の両脇に壁に設けられたアーチ型のくぼみには12使徒の像が置かれ、 高い祭壇の上部には聖ペトロと聖パウロの頭部が収められている2つの聖遺物があるそうです。
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アプシス内の上部の9人の天使に囲まれた上半身のイエスのモザイクは4世紀のものです。十字架の左側には聖母マリア(聖母マリアの足元でひざまづいているのは
13世紀末の教皇ニコラウス4世)と聖ペテロ、聖パウロと右側には洗礼者聖ヨハネ、
使徒聖ヨハネと聖アンデレが並んでいます。 -
聖体用祭壇内部には聖遺物として聖ペテロと聖パオロの頭蓋骨の一部が収められているそうです。彼らが布教した先々を後にたどることになったのは、ここをお参りしたからでしょうか。
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「サンタ・ビビアーナ教会」の壁龕に納まっているベルニーニ作の聖ビビアーナ像も見て来たのですが写真が残っていません。
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コロッセオの近くを通過しました。古代ローマは今回のテーマでは無いので、写真もろくに撮っていません。当時はフィルムカメラの時代なのでフィルムをケチっていたのでしょう。フィルム代に現像とプリント代を考えるとお金のかかる趣味でした。
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「サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会 」のミケランジェロのモーゼ像です。この作品はミケランジェロ以外の手が加わっていない唯一の作品です。ちょっと時代はズレますが、ベルニーニと並んで個人的に好きな彫刻家なので立ち寄りました。有名な場所ではないので訪れる人も少ないです。この像のレプリカはロンドンのビクトリア&アルバートとスペインのフィゲラスのダリ美術館にもありました。
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ロンドンのビクトリア&アルバート博物館のカスト・コートの巨大な展示スペースに入った途端、部屋の大きさに驚くと同時に置かれている彫刻群に足が止まります。この部屋には60を超えるイタリアのルネッサンス彫刻で埋め尽くされています。19世紀に造られたコピーと分かっていてもその迫力の力に衰えは感じません。ウエストン・カスト法で写し取られた彫刻は、ほとんど人々が海外に旅行する余裕がなかったときに国内で素晴らしい彫刻に触れられるように製作されました。
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そしてこちらはスペインのフィゲラスのダリ劇場美術館のガラス張りの劇場空間の下袖(左側)に置かれたモーゼの像です。この像の由来は分かりませんでした。
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「サンタ・プラッセーデ教会」教会と気が付かないような簡素な建物に入ると、アーチの壁とアプシスにモザイクが美しく残されています。ここにはローマでも特に美しいモザイク画が残っています。9世紀の創建当時に描かれた勝利の門と後陣、そしてサン・ゼノ礼拝堂のモザイクは、4年ほど前に訪れたラヴェンナのモザイクを思い起こすものでした。
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「サンタ・マリーア・マッジョーレ教会」は偉大なる聖母マリアにささげられた聖堂という意味で、教皇が建築させたローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の聖堂)の一つに数えられます。四大バシリカとはこのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)です。さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。 今回全部回ろうと考えていました。
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1680年11月28日はベルニーニ82歳の誕生日の9日前でした。15日間の病の床につき最後に教皇の特使から教皇の祝福を受けて、9人の子供に見守られて息をひきとります。彼の遺体は息子の一人が聖職者でもあったサンタ・マリア・マッジョーレ教会に安置され、多くの人々の告別の訪問を受けてから、同教会の一族の墓に納められます。この一族の墓は今日も教会に残りますが、ベルニーニ個人の墓碑はありません。主祭檀右側の手すりのすぐ外側の床には、簡潔なデザインの大理石の墓石がはめ込まれていて、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの名前がラテン語で記されていました。
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「モーゼの噴水」はローマ教皇シクストゥス5世が修復と再建をしたフェリクス水道の末端施設として、建築家ドメニコ・フォンターナにより1585年から1588年に造られた泉です。有名なトレヴィの泉とパオラの泉と共にローマ三大噴水と呼ばれます。壁龕に立つちょっと太めのモーゼが印象に残ります。
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有名な「蜂の噴水」です。ローマで蜂といえばバルベリーニ家の紋章が想像され、バルベリーニ家といえばベルニーニであるように、この蜂の噴水もベルニーニの作品です。ラテン語で「公共の民とその動物たちのための水」とかかれています。
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共和国広場の「ナイアディの噴水」噴水の周りにはブロンズ像の4体の妖精の姿があります。「ローマの休日」でアン王女が夜遅くに宮殿から抜け出し、三輪の荷車から飛び降りて市内に駆け出していくシーンがここ共和国広場です。
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ローマの街をじっくり歩いているとものすごい数の噴水に出会います。その時々の権力者が自分の権力を誇示するかのように、新しい噴水や泉を造り、古い噴水や泉を修復します。
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「トリトンの噴水」はバルベリーニ広場の中央に立つベルニーニの手がけた噴水で、彼の彫刻の中でもダイナミックな動きのある作品の一つです。ギリシャ神話のポセイドンの息子であるトリトンがほら貝を吹く典型的な姿が表現されている。トリトンがまたぐ二枚貝を4頭のイルカが支えています。
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春先はツツジで飾られた「スペイン階段」がきれいです。手前には「バルカッチャの噴水(舟の噴水)」があります。テヴェレ川が1598年に氾濫した際に、1艘の舟がこの場所まで流れ着いたという話から、ベルニーニはこのデザインにしたと言われます。
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春先とはいえまだ寒い日が続くので、焼き栗屋の匂いに目が行ってしまいます。
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翌年の秋に来た3度目のローマの旅では無残にも工事囲いに覆われたスペイン階段を見ることになりました。
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その後何度も訪れたのですが、この時の階段が一番印象に残っています。正面に延びるコンドッティ通りでラ・パボーニ社のエスプレッソコーヒーマシン プロフェッショナル を購入しました。当時580,000リラで38,280円という値段でした。免税手続きしたら日本で買う1/10の値段でした。この年公開のウォン・カーウェイ監督の「恋する惑星」にも出てきたかっこいいやつです。
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スペイン階段を登った右手に少し進むと怪物の顔がファサードになった家があります。16世紀に活躍したマニエリスムの画家で建築家フェデリコ・ツッカリの屋敷でした。ツッカリはヴァザーリの死により未完のままとなっていたフィレンツェのドォーモのクーポラのフレスコ画を完成させた人でもあります。
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ローマの北ボマルツォのオルシーニ家のパルコ・デ・モストリ(モンスターパーク)にも通ずるものを感じます。もちろんバロック様式の窓もこの通り。
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コンドッティ通りを抜けてコルソ通りから「ポポロ広場」に着きました。ここの双子寺も有名ですがその横にひっそりと建つ「サンタマリア・デル・ポポロ教会」にはベルニーニとカラヴァッジオの作品があります。ダン・ブラウン原作の映画「天使と悪魔」で最初の殺害事件が起きた場所でもあります。
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堂内の写真は控えたので当時の絵葉書です。キージ礼拝堂に納められたベルニーニの「預言者ハバククと天使」と「ダニエルとライオン」が有名です。
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チェラージ礼拝堂には、カラヴァッジョの作品が2点置かれています。「サンピエトロの磔刑」ピエトロが皇帝ネロの治世に現在のサン・ピエトロ大聖堂がある場所で逆さ向けに十字に磔けられるシーンです。イエスと同じ磔ではなく自ら望んで逆さまにしたと言われます。
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同じくカラヴァッジオの「聖パウロの改宗」です。馬丁は倒れているパウロのことに気づいていない様子で、馬も驚いていなないようです。パウロは当初はキリストを迫害するパリサイ派で、キリスト教徒を弾圧するために一隊の指揮官となり、ダマスカスに向かっているところでした。突然、天からの光があって、パウロは地面に倒れます。この後パウロはしばらく盲目となってしまい、ダマスクスに着いたパウロは洗礼を受け改宗します。
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広場の脇に建つ「ポポロ門」は1475年にローマ教皇シクストゥス4世の時代に、それまでこの地にあった古代ローマ時代の城門の跡に建てられます。古代ローマの時代にはフラミニア街道がアウレリアヌス城壁を通過するフラミニア門とされていました。
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この日の最後は「サンタ・アンドレア・フラッテ教会」です。ここにはベルニーニの「十字架を持つ天使」「荊の花冠を持つ天使」の2つの天使像で知られています。もとはサンタンジェロ橋の欄干にありましたが、風雨から守るために1729年に当時の教皇によって移されます。
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翌日はラッシュ時間の地下鉄でオッタヴィアーノ駅に行きヴァチカン美術館に急ぎます。開門まで1時間ほどありましたが、前に並んでいるのは20~30人ほどでした。今では考えられません。さらにこの時はミケランジェロの「最後の審判」の修復が終わった直後でした。開門を待っていると前にイギリス人のおじいさんが車椅子に乗ってつまらなさそうにしていました。こちらも暇なのでタバコの箱の銀紙を取り出して正方形に切りました。おじいさんが興味を示したので、目で合図して鶴を折りました。最後に羽を広げた瞬間目が輝くのを見逃しませんでした。
おじいさんに鶴をあげるのとほぼ同時に開門しました。 -
ヴァチカン美術館は何度か来ていたので、わき目もくれずにシスティーナ礼拝堂に急ぎました。ラファエロのアテナの学堂の下を走り抜けるのは少々罪悪感がありましたが。そして到着したシスティーナ礼拝堂には3人程の警備員がいるだけでした。次の見学者が来るまでの20分程の間、たった一人で大きな礼拝堂に佇んでいました。今思い返しても素晴らしい時間でした。切手はその当時のものです。ユーロになる前のものですから今は使えません。
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ヴァチカン美術館の余韻を感じながらサン・ピエトロ大聖堂にもお参りします。ベルニーニが晩年に製作した後陣の「ペテロの司教座」が見えます。雲に浮いたような「ペテロの司教座」を4人の教会博士が支えています。神の光を囲んで飛翔する天使たちは、凄いとしか言いようがありません。
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ここの堂内で一番好きな彫刻と言うか右上は、アレクサンドル7世の墓碑でベルニーニの最晩年の作品でもあります。
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すでにあった彫像の下の扉を「死後の世界への象徴的入り口」ということにし、時間を表す砂時計を持った死神が宙に浮かびます。
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誰にでも平等に死は訪れるという意味でしょうか。
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イチオシ
巨大なミケランジェロのクーポラと大天蓋のバルダッキーノです。祭壇の左右にはそれぞれ螺旋状の柱が2本ずつ立っていますが、その柱はエルサレムの神殿から持って来たといわれています。
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このバルダッキーノもベルニーニの作品です。
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この時も凄い列だったので屋上には上がりませんでした。その次も登らず初めて登ったのはこの後10年後でした。
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イチオシ
2度目のミケランジェロの「ピエタ」です。ガラス越しに遠くからしか見ることはできませんが素晴らしい作品です。翌年ミラノの「ロンダニーニのピエタ」を見て、フィレンツェは3回目にして大聖堂美術館に行けたので、最後の「フィレンツェのピエタ」も見る事が出来ました。
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ほぼ目的も達成されたのでヴァチカンを後にします。広場にあるベルニーニの噴水は何度も見ているので、わざわざ近くまでは行きませんでした。
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4月だというのに毎日曇り空で寒い日が続きました。広場を真っすぐ抜けてサンタンジェロ城に向かいます。
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「サンタンジェロ城」は135年にローマ帝国の皇帝で「五賢帝」のひとりハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始し、アントニヌス・ピウス治世の139年に完成します。霊廟はきれいな円形平面をなし、太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像が頂上に設置されますが、しばらくすると軍事施設として使用されはじめます。サンタンジェロ城の名は590年にローマでペストが大流行した際、教皇グレゴリウス1世が城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見て、ペスト流行の終焉を知ったことによります。
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サンタンジェロ城もダン・ブラウンの「天使と悪魔」では重要な場所とされています。果たしてこの地下にあるという通路は本当にあるのでしょうか?
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テヴェレ川に架かるサンタンジェロ橋の天使10体もベルニーニの作品です。オリジナルは別の場所に安置されていますが、それぞれの天使像はキリストの10の受難を表しています。磔刑になった十字架や、磔にされた釘や、ロンギヌスの槍などが見てとれます。「ローマの休日」ではこの橋のたもとでオードリーヘップバーンがギターで男の人の頭を叩いていましたっけ。
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天使たちが手にしているのはキリストの受難にゆかりの品「聖遺物」です。
具体的には「柱」「むち」「荊の王冠」「聖骸布」「聖衣とサイコロ」「釘」「十字架」「INRIの銘」「海綿」「ロンギヌスの槍」です。 -
キリストが磔刑にされた十字架にしてはちょっと小さい感じがしいます。
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イチオシ
この時はまた翌年に来ることになるとは思いませんでした。
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サンタンジェロ城を振り返ります。ここからはテヴェレ川に沿って歩きます。
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ローマには本当に沢山の噴水があります。
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トラステヴェレに移ってから遅い昼食を摂りました。かなり歩き疲れましたが、午後もまだまだハードスケジュールです。フォルナリーナの家から少し歩いた「シスト橋の泉」です。
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「パオラの泉」まで上がってきました。こんな所を見学に来る酔狂な観光客は他にいません。この泉はローマの街を見下ろすかのような大きな泉で、古代ローマのトライアヌス帝が造った水道の終点を讃えるモストラという装飾建築です。紀元109年のトライアヌス水道は完成しますが、後年になってボルゲーゼ家出身の教皇パウルス5世の命でフラミニオ・ポンツィオにより修復され、その教皇の名にちなんでパオラの泉とされました。ボルゲーゼ家の紋章の鷹とドラゴンと教皇の冠がデザインされています。
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こんな丘の上に泉を造る古代ローマの水利システムには驚かされます。その驚きはポルトガルやスペインからトルコの果てまで感じる事が出来ます。まだ行ったことのない中東や北アフリカにもそんな遺跡が残されています。
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イチオシ
扉の鍵穴を覗くとサン・ピエトロ大聖堂が見えると言われるマルタ騎士団の建物にまで行きました。ローマに住んでいてもこんな所には行かないでしょう。でも後年マルタに行った時はこの時のことを思い出しました。鍵穴からの写真はうまく撮れませんでしたが、確かに見えました。
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「サンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ教会」3世紀に殉教したローマ出身の聖女チェチリアを祀るために9世紀にパスカリス1世により建てられた教会です。祭壇の下には聖チェチリアのお墓があり、1599年に改修する際にお墓を開けた時には古代ローマの時代の遺体にもかかわらず、元のままの姿だったため「奇蹟」が起こったとローマ中が沸いたと伝えられています。その祭壇には、ステファノ・マデルノが制作した「聖チェチリアの像」が置かれています。斬首刑に処せられても3日間生き続けたとされるチェチリアの横たわる遺体を再現しており、首には切られた傷跡もしっかりと残っています。
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「サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会」の創建は教皇カリクストゥスの時代の紀元221年といわれ、12世紀初めに教皇インノケンティウス2世により現在の姿に再建されます。公式の教会堂としてはローマで最も古いといわれ、ファサード上部のモザイク画は「玉座の聖母子」を中央に、ランプを奉献する10人の聖女を描いた12世紀の作品です。古代の円柱が連なって梁を支える身廊は、初期キリスト教時代の教会の構造を伝えます。
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「ブラマンテの小聖堂」はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会の中庭にあるテンピエットは1502年頃にドナト・ブラマンテが建てた小さなマルティリウム(殉教者記念礼拝堂)で、盛期ルネサンス建築の最高傑作と言われています 。見逃してしまうような所に佇んでいますが聖ペテロの殉教の地と伝えられる場所に建てられています。
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「サンタ・フランチェスコ・リーパ教会」の福者ルドヴィガ・アルベルトーニ。日本語だと法悦、英語だとエクスタシーになりますが、この時の旅では聖テレーザとチェチュリアとこの像が印象に残っています。
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「パンテオン」です。最初のパンテオンは紀元前25年に初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近のマルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造された様々なローマ神を奉る万神殿でした。2代目のパンテオンはローマ皇帝ハドリアヌスによって118年から128年にかけて再建されます。現在ローマで見ることが出来るのはこの再建されたパンテオンです。
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建物は深さ4.5メートルのローマン・コンクリート基礎の上部に直径43.2メートル の円堂と半球形のドームが載った構造で、頂上部分にはオクルス(ラテン語で「目」の意味)と呼ばれる採光のための直径9メートルの開口部があります。開口部だけで9メートルとするとこのドームの大きさが想像できると思いますが、2000年近く前にこれだけの建築技術があったと思うと驚かざるをえません。
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パンテオンにはラファエロのお墓がありますので、先日のヴァチカンで見学もしないで通り過ぎたお詫びをしておきます。
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イチオシ
どんより曇った空では噴水が余計に寒々しく思えます。
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噴水のモチーフのすべてが読み解けたら楽しいと思います。緊要な顔にはどんな意味があるのでしょうか。
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しかし。ローマにはバロックが溢れています。
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イチオシ
パンテオンの裏に「象のオベリスク」があります。この当時は周辺は駐車場でした。ベルニーニの作品なのに酷い扱いだと思いましたが、十年ほど経ってから行って見ると綺麗な広場に戻っていました。
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ベルニーニは象を見たことがあったのでしょうか?顔が人のような表情をしています。オベリスクは高さが 5.47メートルありますが、この背中でそれを支えているのが驚きです。
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「ナボーナ広場」に到着しました。昔はここを池のようにして水遊びをしたと聞くとローマ人も酔狂な人がいたのだと思います。1世紀にドミティアヌス帝が造らせたドミティアヌス競技場が元になっているので円を長く伸ばしたような形をしています。何度来てもこの広場は美しいです。
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広場中央には4つの大河(ナイル川、ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川)を擬人化した彫像の噴水型のオベリスクがあります。
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この彫像はバロック時代ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって造られたものです。ベルニーニはインノケンティウス10世の栄光を讃えて、当時壊れていたオベリスクを修理し1649年に噴水の上に立てました。
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エジプトで造られたものではないので象形文字が逆さまになったりしています。
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ダン・ブラウン原作の「天使と悪魔」の映画ではローマに残るベルニーニの作品がたくさん出てきて、自分がテーマを作って旅した場所と重なっていたことに驚きました。ストーリーの先が読めてしまい、次はあの彫刻だとかあの教会だとか分かってしまうのは嬉しくもあり残念でもありました。
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オベリスクは西暦80年のローマの大火のあと、ドミティアヌス帝の時代に立てられたものです。オベリスクのトップにはインノケンティウス10世の紋章の鳩が据え付けられています。
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ナヴォーナ広場には四大河の噴水以外にも「ネプチューンの噴水」と「ムーア人の噴水」があります。
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宏奈はいきなりヒッチコックの世界に変わります。たくさんいる鳩が何かに驚いて急に飛び立ちます。
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鳩に餌をあげて楽しんでいた子供も。
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楽しみはだんだん恐怖に変わっていきます。
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このくらいの距離感と鳩の数がベストですね。
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この辺りが一番ローマらしくて好きです。
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いつか泊まってみたいホテル・ラファエロ。いつも蔦がきれいです。
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イチオシ
この当時は良かったですね。最近は大道具を使った派手なものに変わってしまっていて興ざめで、パントマイムなど見掛けなくなりました。
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ヨーロッパの古い街で見かける馬車にも一度乗ってみたい気もしますが、値段を考えると躊躇してしまいます。
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バルベリーニ家の紋章。「バルベリーニ宮」は、1627~1629年に教皇ウルバヌス8世の命により、建築家カルロ・マデルノと助手のフランチェスコ・ボロミーニにより建設が始められました。その後ベルニーニとボロミーニにより完成となります。肝心の建物の写真が残っていません。
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バルベリーニ美術館で見たカラヴァッジオの「ナルキッソス」水に映る美しい自分の姿に酔いしれておぼれ死んだとされます。
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カラヴァッジョの「ホルフェルネスの首を切るユディット」ユディットを題材にした絵画はたくさんありますが、リアリティーではカラヴァッジオが一番だと思いますが、美しさではクリムトが一番だと思います。カラヴァッジオを見に来ていながら、一番印象に残ったのはラファエロの婚約者と言われる「フォルナリーナ(パン屋の娘)」でした。
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「サンタ・マリア・ヴィットリア教会」のベルニーニ作の聖テレジアの法悦です。
小説「天使と悪魔」にも出てきます。指差す方向というのはあまりに陳腐ですが、映画でこの教会が燃やされる場面は本当にリアルでした。あの映画は実際にその場所に行ったことがあるほうが面白いです。 -
日本人には法悦(エクスタシー)という感覚が理解しにくいです。個人的な深甚の無さから来るものかもしれませんが。
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一度こんな立派なホテルに泊まってみたいものです。現在はウェスティン・エクセルシオールホテル。泊まるときはフィリップ・グリンリーフという偽名にしないといけません。この意味が分かる方はアラン・ドロンのファンですね。「太陽がいっぱい」で使われています。
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同じローマ市内でありながらボルゲーゼ公園はとても静かでした。
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翌日は朝からボルゲーゼ美術館に行きましたが、この時は美術館が修復中だったので臨時展示場での見学になりました。ここに展示されていた「プロセルビーナの略奪」プルートが嫌がるプロセルビーナを抱えるシーンですが、その肌に食い込む指の部分などは鳥肌が立ちました。足元に座る三頭のケルベロスも個人的には好きです。石から掘り出したのでは無く、その瞬間を石に閉じ込めたようです。
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「ダビデ像」はミケランジェロの方が良く思えました。そして一番の作品は「アポロンとダフネ」。これはもう見ているだけで悲しくなりました。エロス(キューピット)に金の矢を射られたアポロンはダフネを愛しますが、銅の矢を射られたダフネはアポロンを嫌います。上へ逃げようとするダフネの体がまさに月桂樹に変わる瞬間を閉じ込めたものです。指先から枝葉に変わっていく様は奇跡の彫刻と思えます。
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ボルゲーゼ収蔵のカラヴァッジオ。「病めるバッカス(バッカスとしての自画像)」
この当時のボルゲーゼ美術館は写真撮影は禁止でした。 -
ボルゲーゼ収蔵のカラヴァッジオ。「果物籠を持つ少年」
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ボルゲーゼ収蔵のカラヴァッジオ。「執筆する聖ヒエロニムス」
仮設展示なので収蔵品を絞って展示していたのが残念でした。サンタ・ルイージ・フランチェジのカラヴァッジオの3部作、マテオの生涯はコインを何度も入れて見ました。(小銭を寄進しないと照明がつかなくて絵がみられない。)税を集めていたマテオの前にイエスが現れる場面を見るためにお金を教会に払うとは粋なものです。殉教の場面もいたいたしいですが。 -
ここにも噴水がありました。
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美術館は混雑していましたが、それ以外の場所は閑散としています。
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池でボート遊びもしましたが、人も少なく寂しい気分になりました。
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「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂」は1885年にサヴォイア朝によるイタリア王国を成立させたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を王国の国父と見なし、その偉業を讃えるべくその息子であるウンベルト1世の治世に建設されます。巨大なタイプライターに見えます。
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「トレヴィの泉」も忘れずに見学しました。右手でコインを持って左肩越しに投げ込むのが正式だそうです。コイン1枚だと再びローマに来ることができ、2枚では大切な人と永遠に一緒にいることができ、3枚になると恋人や夫・妻と別れることができると言われます。
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元々は古代ローマ時代に皇帝アウグストゥスが造らせたもので、ヴィルゴ水道の終端施設としての人工の泉でした。その後教皇クレメンス12世の命によりローマの建築家ニコラ・サルヴィの設計で改造が始まり、彼の没後の1762年に完成します。ローマにある数ある噴水の中でも最も巨大なバロック時代の人工の泉(噴水)です。
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イチオシ
オシャブリをしていても様になっている女の子でした。
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週末に約束どおりテルミニ駅に集合して3人で食事に行きました。フリージャーナリストの方のオススメの安くて美味しい店でした。ワインも進み楽しい時間を過ごしました。フルッタ・マチェドニアの名前の由来を教えてもらったのもこの時でした。バルカン半島についても造詣の深い方で、食後も別れがたい雰囲気で、ローマの夜景を楽しもうと歩き回りました。
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今から思えば良くこんなに歩いたと思います。トリトンの噴水もライトアップしてきれいでした。
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さらに歩いてナボーナ広場まで来ました。雰囲気は映画「天使と悪魔」ですね。
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この当時は夜間は美しいけど我々意外誰もいない寂しい広場でした。
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最後に「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂」の近くでエスプレッソを飲んでホテルに帰りました。
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日本に帰ってから一度3人で再会しました。長野に住んでいる女性とは数年後に成田空港の出発ロビーでバッタリ再会しました。彼女はロンドンへ、私はウィーン経由でコルチナへのスキー旅でした。最終の搭乗口で見送っていたら周りに人に変な目で見られました。ここまで見送りに来る人はいないですからね。そんな彼女とはローマを離れてオルテとオルヴィエートにも一緒に出掛けました。
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