2015/11/03 - 2015/11/03
455位(同エリア902件中)
滝山氏照さん
勝瑞城館(しょうずいじょうかん、徳島県板野郡藍住町勝瑞)は室町時代後半、阿波守護である細川氏がそれまでの守護所を秋月(阿波市)から勝瑞に移転させ、その後細川氏の被官ながら阿波の実権を掌握、畿内においては管領細川氏に打ち勝ち足利将軍に代わる執政を行った戦国武将三好長慶(みよし・ながよし、1522~1564)の本貫地でもあります。
三好氏は鎌倉時代の阿波守護であった小笠原氏の後裔と伝えられ、阿波国三好郡内に居住した小笠原氏がその土地の名を名乗ったのが始まりといわれており、後に阿波守護細川氏に従って畿内での活動を始めやがて主家の管領細川氏を凌駕し足利将軍に代わって朝廷から事実上「武家の棟梁」と認められた三好長慶を輩出します。
三好氏が歴史に登場するのは之長(ゆきなが、1458~1520)の時で、永正3年(1506)、管領細川政元(ほそかわ・まさもと)の養子となった阿波守護家出身の澄元(すみもと)の後見人として上洛、永正17年(1520)澄元と家督を争った細川高国(ほそかわ・たかくに)に敗れ京都で自害します。
之長没後は孫の元長(もとなが、1501~1532)が継承し、大永7年(1527)、管領細川晴元(ほそかわ・はるもと)と共に足利義維(あしかが・よしつな)を擁して阿波から堺に渡り、細川高国や足利義晴を圧倒し遂には堺を拠点として幕府政治に影響を及ぼすほどの勢力となりますが、細川晴元と対立、享禄5年(1532)一向一揆軍に攻め込まれ自刃に追い込まれます。
元長の跡を継いだのが嫡男長慶は阿波から畿内へ進出、管領細川氏被官ながら勢力を蓄え求心力を失った足利将軍に代わる武士の棟梁として権力を握り、対立する管領細川氏を京より追放、細川氏居城の芥田川山城にて将軍に代わる執政を執り行います。
他方出身地の阿波においては元長二男の実休(じっきゅう)が勝瑞を拠点として阿波・讃岐・淡路南部に支配を拡げます。
また実休は天文22年(1553)主家で阿波守護の細川持隆(ほそかわ・もちたか)を自害に追い込みついに阿波の実権を握り、永禄3年(1560)摂津芥川山城(高槻市)から飯盛山城(四条畷市・大東市)に居城を移した兄長慶の命により河内高屋城に入り河内国南部及び和泉国北部に勢力を拡大しますが永禄5年(1562)和泉久米田合戦で戦死となります。
実休の跡を引き継いだ長治(ながはる)は反三好勢力に追いつめられ、長原(板野郡松茂町)にて自害、長治の死を受けた十河存保(そごう・まさやす、1554~1587)は天正10年(1582)土佐の太守である長宗我部元親(ちょうそがべ・もとちか)の勝瑞攻撃を受けて讃岐へ敗退、阿波は長宗我部氏の支配地となり勝瑞における三好氏の時代は終わりを告げます。
城館跡東門に建てられた勝瑞城館跡に関する説明は次の通りです。
「国史跡 勝瑞城館跡(しょうずいじょうかんあと)
勝瑞は、室町時代に阿波守護細川氏によって守護所が置かれた地です。室町時代に阿波守護となった細川氏は当初「秋月」(阿波市)に守護所を置きましたが、後に、「勝瑞」に守護所を移転させます。守護所移転の時期は諸説あり明らかではありませんが、遅くとも15世紀後半には「勝瑞」に守護所が置かれました。その後、阿波の実権を握った三好氏もまた当地を本拠としました。中央の政権で活躍した細川氏や三好氏の本拠地であった勝瑞は、当寺、阿波の政治・経済・文化の中心地として大いに繁栄したことでしょう。
勝瑞城館跡は、三好氏の居館跡と推定されており、発掘調査では16世紀中葉頃から徐々に拡張し、最終的には幅10mを超す大規模な濠で区画された複数の曲輪からなる城館の姿が想定されています。また、土塁を持たない勝瑞館跡では、池泉庭園と枯山水庭園の二つの庭園が確認されたり、茶道具や香道具の出土が見られるなど、三好氏の優雅な生活が垣間見られます。
基本的には平和の日々が続いた中世の勝瑞でしたが、天正期に入ると一気に激動の時代となり、この頃に勝瑞の防御のために土塁を持つ曲輪、勝瑞城が築かれます。天正10年(1582)8月、勝瑞に攻め込んだきた土佐の長宗我部氏との決戦である中富川の合戦で大敗を喫した三好勢は一か月ほど勝瑞城館に篭城しましたが、城主の三好(十河)存保は持ちこたえることができず、開城して讃岐へ退きました。
平成6年度から始まった発掘調査では、濠や庭園、礎石建物跡など良好な保存状態の遺構が検出され、希貴重な歴史文化遺産であるため、平成13年1月29日に国史跡に指定されました。その後も発掘調査では様々な発見が相次ぎ、平成19年2月6日と平成26年10月6日にも追加指定を受けました。
指定地は、県道松茂吉野線の北側にある勝瑞城跡の8,509.88m2とその南側の勝瑞城館跡42,150.67m2、さらに勝瑞駅の西側に位置する三好氏の祈願寺である正基寺跡と考えられている一角7,557,13m2の合計58,217.68mです。指定地の大部分は公有化し、発掘調査成果をもとに整備を進めています。
藍住町教育委員会」
- 交通手段
- JRローカル ジェットスター
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勝瑞城館跡東側入口
入口には勝瑞城郭跡の整備事業を示す予想完成図の絵図が建てられています。 -
「国指定史跡 勝瑞城館跡整備事業」看板
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城館跡風景
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城館跡風景
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国史跡 勝瑞城館跡説明板
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勝瑞城館跡図(拡大)
勝瑞城館跡は勝瑞館跡と県道松茂吉野線の北側にある見性寺の境内となっている勝瑞城跡とで構成されており、この二つの遺跡は一体で機能していたと思われます。 -
国史跡(拡大図)
勝瑞館跡、勝瑞城跡及び正貴寺跡の三ケ所が国史跡の対象となっています。正貴寺は三好氏の祈願所となっていました。 -
勝瑞館跡風景
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礎石建物跡及び土坑墓
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「礎石建物跡及び土坑墓」説明板
「礎石には火を受けた傷跡が残っており、その周辺には炭や焼けた土が拡散している」との説明ですが、もしかして天正10年(1582)に四国統一を狙った長宗我部氏が勝瑞を侵攻した際の火災かもしれません。 -
礎石建物跡及び土坑墓の位置
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礎石建物跡
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「礎石建物跡」説明
宴会や接待などサロン的な役割を果たす「会所」の跡であったことが推定され、長慶を始めとする教養を積んだ武将たちが文化人を招いて茶の湯や連歌を楽しんでいたとのではないかと推定されます。 -
枯山水庭園跡
枯山水庭園とは水を使わずに石や砂で水の流れを表現する庭園様式で、この庭の景石として12個の石が見つかっています。これらの石は50cm~1mほどの小振りな石が単独で配されており作庭者の思いが込められています。 -
「枯山水庭園」説明
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館内の区画溝
庭園等が配されたエリアと日常生活のエリアとがこの溝によって分けられていたようです。 -
館内の区画溝
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「館内の区画溝」説明
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「館内の区画溝」の位置
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大規模東濠跡
東濠は幅約13m、深さ3mの大規模濠を形成していました。 -
大規模東濠跡
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「濠跡」説明
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「濠跡」の位置
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発掘調査途中の風景
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濠跡説明
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発掘調査途中の風景
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「発掘調査中」看板
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