2015/11/03 - 2015/11/03
16位(同エリア84件中)
滝山氏照さん
JR高徳線勝瑞駅から線路を渡り西方に徒歩10分、勝瑞城(しょうずいじょう、徳島県板野郡藍住町勝瑞)は室町時代阿波国守護であった細川氏が土成町の秋月から当地に守護所を移し九代に亘って治め、阿波の政治・文化の中心地であった所です。
然しながら戦国時代に入りますと下剋上の嵐が吹きまくり、天文2年(1553)実力を蓄えた家臣三好義賢(みよし・よしかた)が当時の守護細川持隆(ほそかわ・もちたか、1516~1553)を殺害し実権を握り以降三代に亘り支配、その間勢力を背景に不安定な畿内に出兵し三好氏の名を天下に知らしめます。
天正10年(1582)四国統一をもくろむ土佐の雄長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか、1539~1599)は義賢二男十河存保(そごう・まさやす、1554~1587)が守る勝瑞城を攻撃し存保は中富川の合戦で敗れ讃岐に敗走、同城は長宗我部氏の支配下に置かれます。
天正13年(1585)豊臣秀吉命で蜂須賀家政(はちすか・いえまさ、1558~1639)が阿波国入封となり、新たに吉野川河口付近に近世城郭築城により勝瑞の多くの寺院が徳島城下に移転を余儀なくされ城下町の繁栄は終わります。
当該城跡は現在では見性寺(けんしょうじ)となっていますが三好氏の菩提寺としてもともと城の西方に配されていましたが江戸時代中期の享保8年(1723)当地に移転されています。
境内に配置された陶板に記載された勝瑞城跡説明では次の通り記されています。
「 勝 瑞 城 跡
勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。十五世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川純元党、次いでその子晴元党の拠点となった。
天文二年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が立ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が京成されていた。本丸の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。
天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。八月二十八日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に篭城したが九月二十一日、讃岐に退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下すこととなった。
その後、天正十三年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
当地は十六世紀末に築かれた詰の城で、館跡とともに平成十三年一月二十九日に国史跡に指定された。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には、元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絵本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されている。 藍住町教育委員会 」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル ジェットスター
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成田空港第3ターミナル
初めての成田空港第3ターミナル内部を捉えます。Jetstar8:05発高松行に搭乗、天井むき出しの簡素な造りはさすがはLCC専用のターミナルです。 -
164搭乗口
若者中心の搭乗客はいつもの通りです。出発時間が迫るに従って乗客がぞくぞくと集まってきます。 -
搭乗機材A320
このターミナルが出来るまではバスにて沖合留め置きの機材まで行ったことを考えれば随分楽になりました。 -
Jetstar駐機エリア
周りはJetstarA320の機材ばかり駐機しています。 -
(高松空港到着後高速バスにて徳島駅に移動)
勝瑞城跡地図
まずJR四国高徳線徳島駅から高松駅に向けて二つ目勝瑞(しょうずい)駅下車、駅前に掲立の地図にて勝瑞城跡を確認し歩きます。 -
勝瑞城跡入口
県道14号に面した所が勝瑞城跡入口ですが一見しても管理状況が良とは言い難い雰囲気です。 -
勝瑞城跡石柱
「勝瑞城址」の刻印と共に「三好長浩公一族菩提所」と刻された石柱も相並んでいます。 -
見性寺石標
「臨済宗 妙心寺派 龍音山 見性寺」と刻された石票も入口左側に建てられています。 -
勝瑞城跡風景
現在では見性寺の境内となっており、早速土橋と思われる風景に接し、自然と神経が張り詰めます。 -
勝瑞城跡水堀
土橋の左側には水堀が広がり往時の風景が今でも残されています。 -
勝瑞城跡水堀
同様に土橋の右側にも僅かですが水堀の存在が認められます。 -
見性寺標柱
なぜか「龍音山見性寺」と書かれた標柱が倒れています。 -
見性寺参道
一般的な寺院と比較して雑然とした境内を見ながら参道を進みます。 -
見性寺本堂
鉄筋コンクリートで建てられた二階建て本堂には中央部に地上から登り上る階段が設置され、本堂としては独特なデザインとして印象付けられます。 -
寺額
本堂上部には「見性寺」と揮毫された寺額が掲載されています。 -
見性寺境内
寺域の周囲は塀などの囲いがなく一見開放的ではありますが、逆に野放し状況としての印象が強く保存管理の面でがっかりします。 -
見性寺・境内
本堂二階部から境内左方向に眼を向けると芝生が整えられその隅には祠堂らしきものと立看板が置かれているのが見えます。 -
三好氏累代廟
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三好氏累代墓石
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五輪塔
石表には法名が刻されていますが、俗名の併記なく確認ができません。 -
三好家霊廟
歴代の墓石の左に隣接するは「三好家霊廟」と刻された現代的な墓石が見られます。 -
三好家霊廟
側面に刻された文字をたどれば「清和源氏後胤 三十九代 三好三郎建」と読めます。 -
あずま屋と勝瑞義家碑
手前には勝瑞義家、奥にはあずま屋が建つレイアウトとなっています。 -
水堀
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本堂遠景
水堀縁から本堂を窺います。 -
勝瑞義家碑
四国正学と言われた徳島藩儒官那波魚堂(なは・ぎょどう、1727~1789)の撰で、戦国大名三好氏の盛衰を記した歴史的な記録となっています。 -
勝瑞城跡説明陶板
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現存土塁
境内の西端には数少ない遺構として土塁が南北に走っています。 -
現存土塁説明
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現存土塁跡
西側に施された土塁はL字型となって北側にも及んでいます。 -
現存土塁跡
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土塁説明陶板
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境内風景
西側の土塁縁からあずま屋を通して見性寺境内中央部を一望します。 -
現存土塁跡
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土塁と水堀
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水堀に架かる橋
後世の住民が日常生活の利便を考慮して架設したものです。 -
水堀
橋の中央部から東方向の水堀を捕えます。 -
水堀
次に橋の中央部から西方向を展望します。 -
見性寺・本堂
渡り橋中央部から振返って本堂の側面を捉えます。 -
見性寺・入口
勝瑞義家碑側から入口方向を展望します。
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