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知多半島南東部にある河和城(こうわじょう、愛知県知多郡美浜町河和字西谷)は長禄年間(1457~1459)頃、渥美半島田原城主戸田宗光(とだ・むねみつ、1439?~1508)が三河湾制海権を確立するため知多半島東岸に進出最初の拠点として河和に築いた城です。<br /><br />その後戸田氏は知多半島を北上し岩田氏支配地である富貴に進出、支城富貴城、布土城を攻略し勢力の拡大を実現、富貴城を新たな拠点とし知多北部からの侵攻に備えるため城郭の修復と充実を図ります。<br /><br />ところが緒川に拠点を有する水野氏は信元の代になると守護代から発展し下剋上により尾張国統一進めている織田氏に与しこれを後ろ盾とし知多半島南下を始め旧岩田氏領地を瞬く間に攻略、本城田原から派遣されていた重臣で富貴城主戸田法雲(とだ・ほううん)は籠城して抵抗しますが将兵ともども討死富貴城も落城となります。<br /><br />知多半島東部における勢力が著しく後退した河和戸田氏は本貫地である田原が今川氏の攻撃を受けて没落した事情もあって水野信元と講和して河和とその周辺の支配を温存を図り、城主戸田守光(とだ・もりみつ)は信元の娘を嫁に迎え河和水野氏として再出発します。<br /><br />天正18年(1590)いわゆる小田原征伐では守光は家康軍の一員として出陣しますが討死、城主死亡を機に郷民が河和城を攻め落城、嫡男光康(みつやす)は母で剃髪した妙源尼と共に江戸に逃れ母の叔母にあたる於大の方(伝通院)の擁護を受けて育ちます。<br /><br />慶長2年(1597)、家康意向により外祖父水野元信の名跡を継いで、旗本として武蔵国にて700石を付され、その後光康の母妙源尼は家康に河和への移封を度々願出て、慶長6年(1601)ようやく1460石を付与されて地頭として河和に復帰、やがて尾張藩士となりその後裔も尾張藩に仕えることになります。<br /><br />主郭に上がる階段の脇に建てられた河和城跡に関する説明内容は下記の通りです。<br /><br />「 河 和 城 跡<br /><br />河和城は渥美半島の田原城主戸田氏によって造られた戦国時代の城です。「城」というと姫路城のような天守閣や石垣を想像するかもしれませんが、戦国時代の城には天守閣や石垣はありません。河和城を始め戦国時代の城は「土塁(どるい)」や「横堀(よこぼり)」で守られていました。河和城には「土塁」や「横堀」などの遺構が良好に残っています。<br /><br />「曲輪(くるわ)」とは、土塁や横堀などで防御をされた平らになった場所です。曲輪の中でも特に中心的なものを「主郭(しゅかく)」と言います。主郭は江戸時代の城に例えると、天守閣があった場所になります。頂上の広い平らな部分が河和城の主郭です。<br /><br />「土塁(どるい)」とは、土を盛って高くした帯状の場所です。土で壁を造りお、敵の侵入を防ぐ施設です。河和城では主郭の西側に残っています。<br /><br />「横堀(よこぼり)」とは曲輪を取り囲むように掘られた堀です。大きな溝で敵の侵入を防ぎます。河和城では主郭の西側に残っています。<br /><br />他にも櫓(やぐら)や柵(さく)などの施設があったと思われます。<br /><br />1590年(天正18年)、秀吉の小田原攻めに出陣した当時の城主戸田孫八郎守光が小田原城で戦死します。戦死の知らせを聞いた河和の人たちは河和城を攻め、河和の人たちによって河和城は壊されました。戸田孫八郎守光の妻子は親戚である於大の方を頼って江戸に逃げました。その後、守光の妻子は姓を「戸田」から母方の姓である「水野」に改め、関ケ原の戦い後、河和に帰ることができました。このようにして河和城は壊されましたが、今でも地元では河和城のあった山を「お城山」と呼んでいます。<br /><br />                      美浜町教育委員会」

尾張知多 渥美半島田原に本城を構える戸田氏の知多半島北進の経略かなわず徳川家外戚として遇された河和水野氏の『河和(こうわ)城』訪問

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2016/07/16 - 2016/07/16

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滝山氏照

滝山氏照さん

知多半島南東部にある河和城(こうわじょう、愛知県知多郡美浜町河和字西谷)は長禄年間(1457~1459)頃、渥美半島田原城主戸田宗光(とだ・むねみつ、1439?~1508)が三河湾制海権を確立するため知多半島東岸に進出最初の拠点として河和に築いた城です。

その後戸田氏は知多半島を北上し岩田氏支配地である富貴に進出、支城富貴城、布土城を攻略し勢力の拡大を実現、富貴城を新たな拠点とし知多北部からの侵攻に備えるため城郭の修復と充実を図ります。

ところが緒川に拠点を有する水野氏は信元の代になると守護代から発展し下剋上により尾張国統一進めている織田氏に与しこれを後ろ盾とし知多半島南下を始め旧岩田氏領地を瞬く間に攻略、本城田原から派遣されていた重臣で富貴城主戸田法雲(とだ・ほううん)は籠城して抵抗しますが将兵ともども討死富貴城も落城となります。

知多半島東部における勢力が著しく後退した河和戸田氏は本貫地である田原が今川氏の攻撃を受けて没落した事情もあって水野信元と講和して河和とその周辺の支配を温存を図り、城主戸田守光(とだ・もりみつ)は信元の娘を嫁に迎え河和水野氏として再出発します。

天正18年(1590)いわゆる小田原征伐では守光は家康軍の一員として出陣しますが討死、城主死亡を機に郷民が河和城を攻め落城、嫡男光康(みつやす)は母で剃髪した妙源尼と共に江戸に逃れ母の叔母にあたる於大の方(伝通院)の擁護を受けて育ちます。

慶長2年(1597)、家康意向により外祖父水野元信の名跡を継いで、旗本として武蔵国にて700石を付され、その後光康の母妙源尼は家康に河和への移封を度々願出て、慶長6年(1601)ようやく1460石を付与されて地頭として河和に復帰、やがて尾張藩士となりその後裔も尾張藩に仕えることになります。

主郭に上がる階段の脇に建てられた河和城跡に関する説明内容は下記の通りです。

「 河 和 城 跡

河和城は渥美半島の田原城主戸田氏によって造られた戦国時代の城です。「城」というと姫路城のような天守閣や石垣を想像するかもしれませんが、戦国時代の城には天守閣や石垣はありません。河和城を始め戦国時代の城は「土塁(どるい)」や「横堀(よこぼり)」で守られていました。河和城には「土塁」や「横堀」などの遺構が良好に残っています。

「曲輪(くるわ)」とは、土塁や横堀などで防御をされた平らになった場所です。曲輪の中でも特に中心的なものを「主郭(しゅかく)」と言います。主郭は江戸時代の城に例えると、天守閣があった場所になります。頂上の広い平らな部分が河和城の主郭です。

「土塁(どるい)」とは、土を盛って高くした帯状の場所です。土で壁を造りお、敵の侵入を防ぐ施設です。河和城では主郭の西側に残っています。

「横堀(よこぼり)」とは曲輪を取り囲むように掘られた堀です。大きな溝で敵の侵入を防ぎます。河和城では主郭の西側に残っています。

他にも櫓(やぐら)や柵(さく)などの施設があったと思われます。

1590年(天正18年)、秀吉の小田原攻めに出陣した当時の城主戸田孫八郎守光が小田原城で戦死します。戦死の知らせを聞いた河和の人たちは河和城を攻め、河和の人たちによって河和城は壊されました。戸田孫八郎守光の妻子は親戚である於大の方を頼って江戸に逃げました。その後、守光の妻子は姓を「戸田」から母方の姓である「水野」に改め、関ケ原の戦い後、河和に帰ることができました。このようにして河和城は壊されましたが、今でも地元では河和城のあった山を「お城山」と呼んでいます。

                      美浜町教育委員会」

交通手段
高速・路線バス 私鉄

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  • 名鉄河和駅<br /><br />太田川駅と河和駅を走る河和線の終点が河和(こうわ)駅でその先はありません。当該駅からバスが港まで走り、フェリーや高速船で対岸の渥美半島・伊良湖に連絡しています。

    名鉄河和駅

    太田川駅と河和駅を走る河和線の終点が河和(こうわ)駅でその先はありません。当該駅からバスが港まで走り、フェリーや高速船で対岸の渥美半島・伊良湖に連絡しています。

  • 名鉄車輌<br /><br />朱色のカラーを帯びた車両が待機しています。

    名鉄車輌

    朱色のカラーを帯びた車両が待機しています。

  • 河和町周辺地図

    河和町周辺地図

  • 知多厚生病院<br /><br />河和駅から徒歩約20分、左手に知多厚生病院があり、駐車場を隔てた東側の山が河和城となっています。

    知多厚生病院

    河和駅から徒歩約20分、左手に知多厚生病院があり、駐車場を隔てた東側の山が河和城となっています。

  • 河和城(遠景)

    河和城(遠景)

  • 河和城登城口

    河和城登城口

  • 駐車場<br /><br />登城口を進むと右側に民家跡と思われるブロック塀が現れ、中に入ると中央部に説明板とともに主郭への階段が配されています。

    駐車場

    登城口を進むと右側に民家跡と思われるブロック塀が現れ、中に入ると中央部に説明板とともに主郭への階段が配されています。

  • 主郭上り階段<br /><br />丸太を敷いた急峻な階段が造られています。

    主郭上り階段

    丸太を敷いた急峻な階段が造られています。

  • 河和城跡説明板

    河和城跡説明板

  • 河和城駐車場

    河和城駐車場

  • 主郭から見た階段

    主郭から見た階段

  • 主郭

    主郭

  • 主郭(遠景)

    主郭(遠景)

  • 「主郭」案内板

    「主郭」案内板

  • 「土塁」案内板

    「土塁」案内板

  • 土塁と空堀<br /><br />手前の土塁とその向こうの空堀が認められます。

    土塁と空堀

    手前の土塁とその向こうの空堀が認められます。

  • 土塁<br />

    土塁

  • 「曲輪」案内板<br /><br />樹間を通して「曲輪」の看板が見えますが生い茂った樹々に遮られ曲輪の実態が把握できません。

    「曲輪」案内板

    樹間を通して「曲輪」の看板が見えますが生い茂った樹々に遮られ曲輪の実態が把握できません。

  • 主郭<br /><br />主郭西側から中央部に向かって一望します。

    主郭

    主郭西側から中央部に向かって一望します。

  • 主郭

    主郭

  • 主郭

    主郭

  • 市街展望<br /><br />駐車場から市街を一望します。

    市街展望

    駐車場から市街を一望します。

  • 渥美半島<br /><br />微かに灯台らしき建物が確認されます。

    渥美半島

    微かに灯台らしき建物が確認されます。

  • 市街展望

    市街展望

  • 渥美半島方向

    渥美半島方向

  • 河和港

    河和港

  • 新江川河口<br /><br />両面の岸がコンクリートで張られた人工的な河川となっていますが、河和城ありし時期には自然を利用した堀として活用されたでしょう。

    新江川河口

    両面の岸がコンクリートで張られた人工的な河川となっていますが、河和城ありし時期には自然を利用した堀として活用されたでしょう。

  • 名鉄特急電車車輌<br /><br />河和から名古屋に向けて特急に乗り込みます。

    名鉄特急電車車輌

    河和から名古屋に向けて特急に乗り込みます。

  • 特急電車指定席車輌<br /><br />歩き疲れもあり体を休めるため指定席を利用します。<br /><br />

    特急電車指定席車輌

    歩き疲れもあり体を休めるため指定席を利用します。

  • 特急車輌指定席内部<br /><br />「ミューチケット」と称する指定席券を購入して乗車します。乗車距離に関係なく指定席券360円は安いです。

    特急車輌指定席内部

    「ミューチケット」と称する指定席券を購入して乗車します。乗車距離に関係なく指定席券360円は安いです。

  • 特急車輌指定席内部

    特急車輌指定席内部

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