2016/07/16 - 2016/07/16
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滝山氏照さん
阿久比城(あぐいじょう、愛知県知多郡阿久比町卵坂字栗ノ木谷、別称・坂部城、英比城、阿古屋城)の築城に関する資料は戦乱により残されておらず時期は不明、築城者は久松定益(ひさまつ・さだます、生誕不詳~1510)とも定益の孫俊勝(としかつ、1526~1587)とも言われており定かではありません。
出自については久松氏は本姓菅原氏とされ、遠祖は菅原道真(すがわら・みちざね)で道真が大宰府に左遷された際、孫の久松麿(雅親)は尾張国知多郡阿久居(現在の愛知県知多郡阿久比町)へ配流され、南北朝時代には久松麿の後裔が阿久居に下向し当地とその周辺を支配します。
室町時代前期では足利将軍家に仕えた事から阿古居領を正式に認められこれを機に先祖久松麿にちなんで久松氏を称することになり、尾張国守護に任用された斯波氏の被官として知多郡を領する国人領主の一人として治めます。
やがて尾張国守護斯波氏の没落を機に久松氏は伸長著しい織田信秀(おだ・のぶひで、1510~1551)に属するようになり、一方刈谷城の水野忠政(みずの・ただまさ、1493~1543)は今川氏に近い武将であったことから娘の於大を松平広忠(まつだいら・ひろただ、1526~1549)に嫁がせやがて嫡男竹千代(後の徳川家康)が生まれます。
然しながら忠政没後は家督を相続した嫡男信元(のぶもと、生誕不詳~1576)は従来の方針を変え今川氏から離れ織田信秀に奔り、それを知った広忠は今川氏の嫌疑を回避するため止む無く於大の方を離縁し信元へ還します。
その後久松俊勝は知多郡の国人領主佐治氏との勢力争いを有利に展開するため信元との連携が必要と考え、信元の姉で広忠に離縁されて刈谷に帰った於大を妻に迎えます。
俊勝に嫁いだ於大はここ阿久比城で暮らしその間3人の男児(康元・勝俊・定勝)をもうけ、やがて桶狭間の戦いの際今川方として出陣した松平元康(後の徳川家康)は密かに阿久比城に赴き実母於大と異父弟たちと対面をします。
そして今川義元の桶狭間戦死を機に今川方から離れ独立して岡崎とその周辺旧領を復活させた家康は三河統一をめざすなか、家康方となった久松俊勝は家族ともども岡崎に移り、阿久比城は庶子長子である信俊(のぶとし、生誕不詳~1577)に委ねます。
阿久比城を譲られた信俊は織田方佐久間信盛(さくま・のぶもり、1528~1582)の与力となりますが天正5年(1577)信盛の讒言を受けて切腹に追い込まれ、併せて本拠の阿久比城も信盛軍に攻められ落城します。
他方家康より松平姓と葵の紋を授けられた異父弟3人はそれぞれ出世しいずれの家系も大名として遇せられ、嫡男元康系は当初は城主でしたが断絶により旗本に落し、二男勝俊系は無城大名に留まったのに対し三男定勝系は久松松平家三系の中で最も発展し、定勝は遠江掛川3万石、伏見城代5万石、伊勢桑名11万7千石と栄進、定勝の6名の息子たちも長男の早世以外はそれぞれ大名(4名)並びに旗本(1名)として栄華を極めます。
城郭入口に建てられた案内板には下記のように紹介されています。
「 坂 部 城 跡
坂部城は久松定益(ひさまつ・さだます)が築城したと言われる平城で、当時は阿古屋(あこや)城、阿久居(あくい)城とも呼ばれたと言われている。
『尾張誌(おわりし)』には、「坂部村に、其跡東西40間(約73m)、南北50間(約90m)英比(あくい)の城ともいふ。久松佐渡守菅原俊勝(ひさまつ・さどのかみ・すがわら・としかつ)の居城なり」と記されている。
徳川家康の生母の於大の方は天文16年(1547)、坂部城主の久松俊勝のもとに再嫁し、俊勝が岡崎城代として移るまで15年間在城した。その間、熱田や駿府で人質の身であった家康に、励ましの手紙や衣類を送り続け、後に徳川家康の運命や人間形成に大きな影響を与えたと言われている。
桶狭間の戦いを控えた永禄3年(1560)5月17日、於大の方と家康(当寺、松平元康)はこの地で母子16年ぶりの感激の再会を果たした。
天正5年(1577)佐久間信盛(さくま・のぶもり)におとしいられ、城主の久松信俊(俊勝の長男)は大阪四天王寺にて切腹させられた。信盛の手勢によって攻められ、落城炎上したと伝えられている。
阿久比町教育委員会」
また、阿久比城に隣接した場所に洞雲院があり、この寺院は家康の生母である於大の方の菩提寺となっています。下記のように案内されています。
『龍渓山久松寺洞雲院(りゅうけいざん きゅうしょうじ どううんいん)
寺伝によれば、平安時代、天暦2年(948)に菅原道眞公の孫である菅原雅規が開基となり、天台宗の久松寺(洞雲院の前身)を創建したと言われる。
雅規は幼名を久松麿と言い、後に英比丸、英比殿とも称された。英比殿は天性朴質、極めて聡明、仁恵に厚く善政を敷いた。没後、いつの頃からか人々はその徳を追慕し、英比殿夫妻の木像を彫刻し、厨子に奉安して英比荘の民家1戸1日の割で廻送し、供養を怠らなかった。世に「廻り地頭信仰」と言われた。この民俗信仰は明治維新とともに途絶え、現在、木造と厨子は、当山霊廟に安置され、学問上達信仰として祭られている。
室町時代、明應3年(1494)雅規の後裔、久松貞益が曹洞宗の洞雲院として再建し、七堂伽藍と四つの塔頭を整備した。開山には加木屋普済寺在室たい存大和尚を迎えた。
天文16年(1547)久松俊勝のもとに徳川家康の生母於大の方が再婚された。阿久比在城15年間に三男四女の計7人の子女を出生。俊勝の子は松平姓に改められ、後に桑名城主、松山城主をはじめ多くの大名、旗本として世に出した。当山の境内墓地には、英比殿をはじめ於大の方等の墓がある。また、例年3月16日には於大の方が女性の幸福招来を願ってはじまった観音懺法会、通称「おせんぼ」が行われる。
阿久比町教育委員会 』
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
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阿久比城主郭虎口
虎口には「久松家創業地城山公園」と刻された石標と説明板が建っており、地元では坂部城と呼称されています。因みに名鉄線最寄りの駅は坂部という無人駅で、ここから徒歩で約15分程度です。 -
阿久比城跡説明
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大手道
比較的狭いながらも主郭への道を登って行きます。 -
棉畑
主郭跡に再現された棉畑は竹千代を産んで離婚され、後に久松氏と再婚した於大の方が里人に棉の栽培を勧め、自らも棉づくりに励んだと語られています。 -
棉畑説明板
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於大の方四百年遠忌記念石標
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阿久比城主郭跡
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阿久比城跡碑
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主郭に建つ歌碑
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阿久比城主郭跡
隣接する阿久比町立図書館駐車場側から阿久比城本丸跡を一望します。 -
阿久比町立図書館
主郭の西側には切削改変された平坦部に町立図書館が建てられています。 -
阿久比城縄張
図書館玄関脇の壁に張り出されていた阿久比城縄張が掲載されています。 -
阿久比城説明
同様に図書館脇の壁に阿久比城(坂部城)について説明が記されています。 -
洞雲院
阿久比城郭跡に隣接する洞雲院があります。久松氏に再稼した於大の方(徳川家康の生母)の菩提寺となっています。 -
洞雲院山門
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石碑
当寺は「知多新四国第十五番」及び「尾張三十三観音第六番」と共に「徳川家康公
生母於大の方菩提所と刻されています。 -
洞雲院説明板
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山門・扁額
山号である「龍渓山」と書かれた扁額が掲載されています。 -
洞雲院・本堂
当院は正式には「龍渓山久松寺洞雲寺(りゅうけいざん きゅうしょうじ とううんいん)と称する漕洞宗の寺院で、寺伝によれば天歴2年(948)に菅原道真の孫である雅親が開基となって久松寺を創建、明應3年(1494)雅親の後裔にあたる久松定益が再建しています。 -
洞雲院・本堂(近景)
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洞雲院・境内
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於大の方墓所石碑
「徳川家康公生母 傳通院殿於大の方居域」と刻された石碑が供養塔の前部に建っています。 -
於大の方供養塔
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於大の方供養塔
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於大の方供養塔(近景)
於大の方は慶長7年(1602)8月に京都伏見城で75歳で逝去、遺髪が阿久比洞雲院の墓所に分納されているそうです。
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