2016/07/16 - 2016/07/16
57位(同エリア149件中)
滝山氏照さん
名鉄西尾線西尾駅より西方徒歩20分にある西尾城(にしおじょう、愛知県西尾市錦城町)は清和源氏を祖とする鎌倉時代の武将で足利氏第三代当主であった足利義氏(あしかが・よしうじ、1189~1254)が承久の乱で勝利した幕府の恩賞の地の一つとして三河国幡豆郡吉良荘を得て矢作(やはぎ)川南岸の台地に築城したとされます。
義氏には泰氏(やすうじ)と長氏(ながうじ)の二人の息子がおり、長氏は吉良荘を相続、長氏の二人の息子の内満氏(みつうじ)が初めて吉良姓を名乗り以降満氏の後裔が三河に定着し三河吉良氏となり、弟の国氏(くにうじ、1243~1282)は父長氏から幡豆郡今川荘の相続を受けて今川氏を称し後の駿河守護今川氏の祖となります。
他方長氏の兄義継(よしつぐ)は吉良荘東条に居を構えたことから東条吉良氏と呼ばれますが、その後奥州・四本松(確たる記録見当たらず)に下向した後武蔵(現世田谷区)に移転し武蔵吉良氏と称され、戦国大名として領国拡大をめざしますが新興勢力ともいえる小田原北条氏と姻戚関係を持つことで「足利氏御一門衆」という格式を背景に武蔵吉良氏の存続をはかります。
三河に定住したいわゆる「三河吉良氏」は矢作川流域中心に勢力を拡げ、隣国遠江までその影響力を及ぼすほどの成長を遂げますが、西進する駿河今川氏に阻まれ吉良氏方国人が支配する引間(現浜松市)を始め遠江における各拠点を失う状況に陥ります。
三河吉良氏当主義昭(よしあき)の頃は駿河今川氏の三河進出により長期に亘り圧迫を受けており、義元戦死の後は今川氏から独立し岡崎とその周辺の旧領を掌握した徳川家康の急追を受けその結果永禄4年(1561)西条城が攻め落とされ重臣酒井政親(さかい・まさちか)が城主となり併せて西条城を西尾城と改め、更に最後の本拠としていた東条城も徳川軍の攻撃に耐え兼ね家康に降ることになります。
名鉄西尾線西尾駅前観光案内所で入手のパンフレットには次の様に説明されています。
「 西 尾 城
承久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏が築城した西条城がはじまりと伝えられます。足利氏は吉良氏と改め、この地を治めます。戦国時代末には牧野定成、酒井正親、田中吉政と城主は代わり、城域も次第に拡大しました。
関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601)に本多康俊が西尾2万石の藩主として入りました。その後、藩主は松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と頻繁に代わりますが、いずれも譜代大名でした。
寛永15(1638)、太田資宗が西尾城の大改修を計画し、西尾城の特色である堀と土塁が城下町を囲む「総構え」と呼ばれる体裁を企て、井伊直之が工事を受け継いで明暦3年(1657)に完成しました。
明和元年(1764)に山形から大給松平氏が6万石西尾藩主として入城以来、廃藩まで5代続きました。
西尾城跡一帯は平成8年3月に本丸丑寅櫓・鍮石門などを復元し、西尾市歴史公園として整備され、同26年3月には二の丸北側の整備が行われ、天守台など復元されました。」
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
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西尾城新門址石柱
西尾城に向かう途中、三ノ丸に設けられた新門址を説明する石柱が見られます。 -
西尾城三ノ丸新門址説明板
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西尾歴史公園入口
すっかり公園化された西尾城跡を入城します。この日は公園内で開催されるイベント準備ということで二ノ丸跡広場を中心に各所でその作業が行なわれています。 -
西尾市歴史公園挿絵
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西尾城二ノ丸鍮石(ちゅうじゃく)門
藩主が政務を行う藩庁に相当する二ノ丸御殿に入る正門として鍮石門が配されています。 -
西尾城二ノ丸鍮石門
鍮石(ちゅうじゃく)門は二ノ丸の表門で、間口は約8m、高さは約6.7mの桜門式で大手門・新門に次ぐ門となっています。 -
二ノ丸鍮石門説明板
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旧近衛邸庭園
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旧近衛邸入口
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本丸虎口
二ノ丸と本丸は堀切で遮断され通行は専ら渡橋(木橋)によって繋がっています。 -
堀跡
渡橋中央部から水堀情景を望みます。 -
堀跡
本丸と二ノ丸を隔てる堀ですが規模を現す往時の姿は見当たりません。 -
西尾神社
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丑寅(北東)本丸石垣
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西尾城本丸表門跡・説明板
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丑寅本丸隅櫓
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丑寅本丸隅櫓と堀
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西尾城址・石標
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丑寅本丸澄櫓階段
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丑寅本丸隅櫓・説明板
他の櫓に比べて高く、三層の櫓で展望がきくので物見台として使用されていたと思われます。 -
丑寅本丸隅櫓玄関
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丑寅本丸隅櫓展望
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丑寅本丸隅櫓展望
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丑寅本丸隅櫓展望
正面建物は西尾市資料館となっています。 -
丑寅本丸隅櫓展望
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西尾市資料館玄関
二ノ丸跡に建てられた西尾市資料館が見られます。 -
西尾城姫丸門址
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旧近衛邸入口
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旧近衛邸玄関
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旧近衛邸
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二ノ丸広場
二ノ丸は西尾城で最も重要で中心となる城郭で、中央部は政庁にあたる二ノ丸御殿を置き、北西隅には三重四階の天守を配していました。 -
天守台
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西尾城天守閣二ノ丸址石標
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天守閣説明板
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出土石
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復元石垣写真
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天守台
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天守台
天守台から西方を展望します。 -
西尾城天守台・説明板
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西尾城城郭見取図(拡大)
天守閣は珍しく二ノ丸に配置されておりこれが西尾城の特徴となっています。また、本丸隅櫓のうち丑寅隅櫓は三層、他の隅櫓は二層となっていることが示されています。 -
天守台展望
東方向の二ノ丸広場はイベント準備として各種テントがセットされています。 -
天守台
道路から天守台を展望します。 -
天守台と丑寅本丸隅櫓
道路のバス停から天守台石垣と本丸丑寅櫓を一望します。 -
西尾市観光地図
西南部に流れる矢作川を天然堀に見立てた城郭造りは絶妙というしかありません。
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この旅行記へのコメント (1)
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- くんたさん 2016/10/25 09:41:16
- 西尾城探訪ありがとうございます
- 地元民としては 西尾城界隈を探訪していただきうれしく思います。
地元では全国小京都会議に参加して 「三河の小京都」として地域を売り出しているのですが、観光政策としてはちょっと行き詰り始めている街の姿があります。現状では 街の姿は トヨタの企業城下町の一つで 産業面からはトヨタに足を向けて寝ることが出来ない現在の都市の姿があります。
「西尾抹茶」を特産PR品と位置付けてはいますが 数年前の町村合併の中で 6万石の城下町といった歴史とともに 全国的には悪役の代名詞 忠臣蔵の吉良上野介の領地 「吉良」を持つ土地として 地域の持つ歴史的な価値や街の歴史的位置づけもちょっと微妙なものとなりつつあります。
滝山さんも書いて見えますように 西尾は「吉良」の街であった歴史はあるのですが、実はちょっと微妙な位置関係で 忠臣蔵の「吉良」は足利家から続いた 高家の「吉良東条」であったわけですが 西尾藩は 「吉良西条」といわれ 吉良でもちょっと立場の違う物でした。
そもそも 「きら」という地名は 西尾の北東部にある「八ツ面山」という小山が 「きらら(雲母)」の産地として奈良、平安時代からとらえられていたという経緯から出た地名らしいのですが、地元では 東条吉良と西条吉良は別物の感覚があります。
西尾藩は 徳川家の譜代大名として 老中職などを執り行ってきた地位にありますが、ご存知の通り 東条吉良家は忠臣蔵で取り潰しになり 天領地になってしまった歴史があります。
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