2015/07/07 - 2015/07/07
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まみさん
旅行記のオリジナルのタイトル
「ゆったり楽しもうロシア再訪2015年─モスクワとカザン─【第7日目】(1)2年ぶりのトレチャコフ美術館(前編)ロシア絵画史ではマイナーな19世紀絵画に重点を置くつもりで回った常設展と味あるフォークロアテーマの木彫りに惹かれた企画展」
【※次の2016年の海外旅行の前に完成できなかったので、コメントなしの未完成のままいったんアップしていましたが、今年2019年も旅程最後にトレチャコフ美術館を再訪したので、先にあわててこちらを完成させました。後編も順次完成させたいと思います。】
2015/07/07火 モスクワ観光5日目
・トレチャコフ美術館・本館(10:50-15:50 約3時間20分)
(10:50-11:40/11:50-12:15 2階)
(12:15-13:30 1階のイコン)
(14:45-15:50 1階のその他)
・ククラチョフの猫劇場(18:00-19:00 1幕で休憩なし)
・新アルバート街のヨールキー・パールキーで夕食
・ドム・クニーギーで買い物
・新アルバート街でちょっとだけ夜景撮影
【モスクワ泊:マキシマ・パノラマ・ホテル】
トレチャコフ美術館(本館)に到着したとき、いくらボリュームがあって、じっくり鑑賞するとしたら1日では到底足らない美術館とはいえ、たった2年ぶりで再訪できるなんて、なんて贅沢なんだろうと思いました。
海外旅行ってそんなに何度もできるものではないから、1か所にじっくり時間をかけ、さらに再訪するよりは、次々と新しいところに行きたくなるのがふつうだろうと思うと。
私だって他にまだ行ったことのないところもたくさんありますが、2年ぶりで敢えてここを再訪する旅程を組んだ私って、なんて贅沢!
と自分で自分の旅程の立て方に悦に入ってしまいました@
またそういうことをしてみたいです。
(余談ですが、次の2016年の海外旅行では、今度はモスクワ近郊の黄金の環をじっくり回る旅程にしています@)
今回、トレチャコフ美術館・本館では、2年前にかなり駆け足で見てしまったと思っていた1階、すなわちロシア絵画史では世界の美術史から見てあまり有名な画家や作品のない19世紀末?20世紀初頭にじっくり時間をかけようと思いました。
でも、いざ回ってみたら、前回、記憶にある印象ほど駆け足ではなく、わりと丁寧に見ていたことに気付きました。
トレチャコフ美術館では、2年前にさんざん写真を撮り、フォートラベル旅行記にまとめたので、やはり写真を撮った絵については、とてもよく覚えていました。
久しぶり!と絵に話しかけたくなりました。
写真を撮っていない絵も、見れば思い出す程度には覚えていました。
2年前にさんざん写真を撮った作品については、もういまさら写真を撮らなくてもよかったのですが、それでも超お気に入りの作品は、オリジナルを再び見ることが出来た喜びとともに、やっばり撮っておかずにはいられませんでした。
ちなみにトレチャコフ美術館に限らず、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館やロシア美術館など、大規模な美術館は常にどこかが修復中で閉鎖されている部屋があると思っていた方がよいです。
今回のトレチャコフ美術館では、ぜひまた見たかった絵のトップクラスの何枚がある部屋が閉鎖されていて残念でしたが、2年前に見て、写真をちゃんと撮っているので、それほどがっかりせずにすみました。
それから今回はとてもステキな企画展がありました。
セルゲイ・ティモフェヴィッチ・コニョンコフという彫刻家の企画展で、味わい深い彫刻がたくさんでした。
とりわけ表紙に選んだ、ストリーボッグ(スラヴの神さま)の木彫彫刻など。
ふりかえると、今回はこの企画展を含め、常設展の彫刻に、比較的、目をつけました。
トレチャコフ美術館は、1日ですべてを同じテンションで鑑賞しようと思っても無理なので、素通りしたり、あっさり見たりする作品がどうしても出てしまいます。
そんなわけで、常設展示の彫刻の数は多くないものの、スルーしがちでしたから、逆に今回はちゃんと鑑賞したわけです。
三次元の彫刻はともかく、二次元の絵画は、そうバリエーションのある写真が撮れるわけではないので、今回は、なるべく写真をあまり撮らないようにセーブして鑑賞したつもりですが、前に写真を撮っていない作品や、超お気に入りなのでどうしてもまた撮りたくなった絵は、撮影解禁としました。
でも、なるべく写真を撮らずに回ったせいと、ゆっくり見る絵とさっと見て終わらせてしまう絵とメリハリをつけたせいで、思ったより疲れませんでした。
おかげで、今回の再訪でじっくり鑑賞したいと思ったもう一つのハイライトのイコン・コレクションの鑑賞にために時間も体力も気力も十分残すことができました。
イコン・コレクションの写真は、今回のトレチャコフ美術館・本館の後編の旅行記にまとめました。
イコン・コレクションの方は、遠慮なく写真を撮りまくりました。
※2年前の2013年のトレチャコフ美術館編の旅行記
「2013年ロシア旅行?13年ぶりの再訪を3年前にあきらめた旅行計画で実現【第4日目:モスクワ】(1)トレチャコフ美術館(前編)シーシキンやアイヴァゾフスキー等の大好きな絵画が目白押し」
http://4travel.jp/travelogue/10835836
「2013年ロシア旅行?13年ぶりの再訪を3年前にあきらめた旅行計画で実現【第4日目:モスクワ】(2)トレチャコフ美術館(中編)ロシア史とロシアの古き時代にどっぷり浸りながら」
http://4travel.jp/travelogue/10835845
「2013年ロシア旅行?13年ぶりの再訪を3年前にあきらめた旅行計画で実現【第4日目:モスクワ】(3)トレチャコフ美術館(後編)静謐な風景画や庶民のドラマを感じる19?20世紀の絵画とアンドレイ・ルブリョフをはじめ圧倒的なイコン・コレクション」
http://4travel.jp/travelogue/10835847
<2015年ロシア再訪旅行の簡易旅程>
06/30火 職場から成田のホテルに前泊
07/01水 成田第2空港からJALでモスクワへ&モスクワちょっと観光
07/02木 モスクワ半日観光&S7航空でカザンへ
07/03金 カザン観光1日目(クレムリンと国立博物館)
07/04土 カザン観光2日目(現地ツアーに参加)
07/05日 S7航空でモスクワへ&モスクワ半日観光
07/06月 モスクワ観光4日目&ニクーリン・サーカス
07/07火 モスクワ観光5日目&ククラチョフの猫劇場★
07/08水 モスクワ観光6日目&ボリショイ・サーカス
07/09木 モスクワ観光7日目(赤の広場とモスクワ動物園)
07/10金 モスクワ観光8日目(モスクワ動物園とプーシキン美術館)
07/11土 モスクワ観光9日目(アルバート街と東洋博物館)
07/12日 モスクワ半日観光&出国
07/13月 成田第2空港着(猛暑のピークの帰宅)
※この旅行記の対象の日に★印をつけました。
詳細旅程はもう1つのブログ「まみ’s Travel Diarty」
(http://mami1.cocolog-nifty.com/)
の記事に、ハイライト写真と共に前後編に分けて掲載しました。
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2015/07/2015-fd3f.html
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2015/07/2015-7006.html
「(前略)カッサ(チケット売り場)やミュージーアムショップ、カフェ、トイレなどはすべて地階にある。そこから2階まで上がり、2階から1階の順に見学する。18世紀~20世紀初頭のロシア美術を時代順に概観したあと、イコン画を観るという流れになっている。人気があるのは、やはり2階の後半、19室のアイヴァゾフスキーから33室のヴルーベリまで。いわゆる“ロシア美術”として有名な作品の大半が、このエリアに集中している。
1階に下りると、35-48室にかけて、19世紀末-20世紀初頭のロシア絵画が展示されている。2階に比べると有名な画家が少なく、見学する人の数もぐんと減る。その中にあって名高いのはセローフだろう。ロシアでは珍しい印象主義的性格をもった画家とされ、移動派の時代から次世代への転換期に活躍した巨匠である。
その後、革命前までのロシア絵画が並んでいるが、移動派の全盛期は過ぎ、有名な画家はあまり多くない。おもに18世紀以降の画家たちのデッサンやスケッチなどが展示されている。また、49-54室は企画展示室となっている(常設展の料金で見学できる)。
見学の最後は、イコン絵画のコーナーとなる。トレチャコフ美術館はイコン収集においても群を抜いており、世界屈指のコレクションを誇っている。ノヴゴロド派、モスクワ派など、どの系統のイコンも豊富に集められているが、多くの見学者のお目当ては、やはりアンドレイ・ルブリョフの60室ということになろう。なかでも名画『聖三位一体』(60室、1420年代)が観客の目を惹きつけている。またビザンチン時代の至宝『ウラジーミルの聖母』は、展示室ではなく美術館付属の教会に飾られている。」
(「地球の歩き方 ロシア(2014?15年版)」より)
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- その他
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創始者トレチャコフの像とバラ花壇があるトレチャコフ美術館
建物のデザインはロシア式アールヌーボーで、この中にも絵が展示されているヴァツネソフによるものです。 -
地下のチケット売り場から、順路通り、2階のロシア絵画の展示室へと向かう
-
最初に惹かれたのは、大理石のプシケー(キューピット)像
ロシア絵画展示室の最初の方は、18世紀のアカデミー時代のもので、王侯貴族の肖像画が多いです。
ロシア皇帝や女帝の見覚えのある有名な絵もありますが、トレチャコフ美術館で敢えて写真を撮っておきたいほど気に入るものはありませんでした。 -
「A.A. Chelishebaの肖像画」
1809-1810年
O.A.キプレンスキー(1782-1836)画
鼻や頬に赤みのある初々しさに惹かれました。
このくらいのアカデミックな絵がメインの時代はこういうきれいな絵が多いですね。 -
「民衆の前に現れたキリスト」
1837-1857年
A. A. イワノフ(1806-58)画
途中は見るだけにして、撮影は割愛し、一気に有名どころの大作へ。
サイズも大きいため、比較として絵の前で鑑賞している人たちも一緒にフレームインさせました。
中央の洗礼者ヨハネがほぼ等身大なのです。 -
額縁を映らないように撮った絵の全体
タテヨコのフレームが額縁に合っていないので、多少、フレームアウトしている部分がありますが、絵画写真を撮ろうと思ったら、私はそれでよいとしています。
カタログを作成したいわけではないからです。
「アレクサンドル・アンドレイェヴィチ・イワノフ
アレクサンドル・アンドレイェヴィチ・イワノフはサンクトペテルブルクに生まれて、帝国アカデミーでカール・ブリューロフなどと共に学んだ。父親はやはり画家のアンドレイ・イヴァノヴィチ・イワノフ(Andrey Ivanovich Ivanov)である。
彼は生涯のほとんどをローマで過ごし、ニコライ・ゴーゴリと交友を深め、キリスト教美術の誠実性と精神性を取り戻そうとする芸術運動であるナザレ派に属した。彼はたった一幅の絵画『民衆の前に現れたキリスト』(トレチャコフ美術館所蔵)によって有名で、この絵の完成に死の直前まで20年をかけている。ヨーロッパの熱心なクリスチャンはこの絵だけを見にモスクワへ行く、とも評判である。
イヴァノフの評価は、以前よりは増している。『民衆の前に現れたキリスト』の下絵をいくつか残しているが、これらもすばらしいという評判である。 この絵以外のほとんどサンクトペテルブルクのロシア美術館にある。 」
(Wikipediaフリー百科事典「アレクサンドル・アンドレイェヴィチ・イワノフ」より) -
民衆にキリストを紹介するかのように手を差しのべる洗礼者ヨハネと、その背後でヨハネを引き継ぐかのように反対向きに手を伸ばした赤毛の少年
根拠はなく私の想像ですが、この赤毛の少年は、後にキリストの弟子となるヨハネではないかという気がしてきました。
洗礼者ヨハネと弟子のヨハネ。名前は同じヨハネ同士。
一方はキリストを迎え、洗礼し、もう一方は、キリストの弟子となり、(伝説では)福音書記者となってキリストの教えを広めるヨハネ。 -
この大作を作成するために描かれた数々の下絵
習作といえるデッサンもあれば、肖像画として成り立ちそうな油絵もあり、画家が紆余曲折の後に、最終的にどのような人物を描こうとしたか、その過程がよくわかります。 -
完成に近い下絵のキリスト
完成画よりもちょっと目つきが鋭い? -
完成に近い下絵の洗礼者ヨハネの横顔
逆に完成画よりも表情が柔らかい? -
舞台の荒野の下絵
アニメーションの背景画を連想してしまいました。 -
「サトゥルヌスとニンフ」
1845年
ピョートル・スチヴァセル(1816-1850)作
若い妻とじじいの夫の像。
に見えてしまったのですが、ローマ神話のサトゥルヌスはギリシャ神話のクロノスと同一視されていて、えらい神様なんでした。 -
でもやっぱり若い奥さんに鼻を伸ばしているように見える(笑)
チョビ角がひょうきんに見えるからでしょう。 -
「崩壊」
I. S. ソローキン(1821-1892)画
タイトルはロシア語しか書かれていなかったので、あとで調べました。
市場とかいうタイトルかと思ったのですが、意外でした。
というのは、実は2年前の前回も感じていて、忘れていました(苦笑)。
場所は、有名な赤の広場です。
関連の旅行記
「2013年ロシア旅行~13年ぶりの再訪を3年前にあきらめた旅行計画で実現【第4日目:モスクワ】(1)トレチャコフ美術館(前編)シーシキンやアイヴァゾフスキー等の大好きな絵画が目白押し」
https://4travel.jp/travelogue/10835836 -
アンティーク市に見えた!
ただし、タイトルから察するに、破産した金持ちの持ち物が競りにかけられている可能性もあると思いました。 -
政治家の人形やら、どことなく干支を思わせるウサギ、イヌ、鶏の人形もある
-
めったにみられない宝物を珍しげに見ていた子供たち
-
「入浴中の少年」
1845年
大理石
セルゲイ・イワノフ(1828-1903)作
こちらも初々しい少年像に惹かれました。 -
少年像の全体と展示室の様子
写真でみると、彫像の場違い感が満々になっていました(笑)。 -
イチオシ
日本でも有名な「忘れえぬ人」(邦題)の女性の顔のアップ
ほんとうに端正な美人で、憂いを帯びたプライドの高そうな表情が、いわくありげです。 -
馬車に乗った女性全体と、雪でかすんだような背景
「見知らぬ女性」
1883年
クムスコイ(1837-1887)画 -
「ワラーム列島にて」
1878年
クインジ(1842?-1910)画
クインジはロシア絵画史では有名なので、Wikipediaフリー百科事典に情報がありました。
「アルヒープ・クインジ
(前略)
もっぱら我流で絵を学ぶが、イワン・アイワゾフスキーにつき、また、1868年からペテルブルク美術アカデミーにも学んでいる。1870年に結成された「移動派」こと巡廻美術展協会の組合員となる。1872年にアカデミーを退学し、フリーの画家として働き始める。最初の作品は、パヴェル・トレチャコフが自分の画廊に展示するため買い入れた「ワラーム列島にて」であった。
初期のクインジはイワン・アイワゾフスキーの影響を受け、海に関連する題材を選んでいたが、やがてそこから離れ、1870年代の半ばに、自然界をモチーフとした数々の風景画を生み出すようになった(その一例が、1874年の「忘れられた村」である)。1873年に「雪」を発表し、翌1874年にロンドン国際美術展で銅メダルを受賞した。
成熟期のクインジは、最も奥深い情感を、自然界のありさまの輝きに置き換えようと熱望した。(高い地平線など)複合的な知覚を応用して、パノラマ的な全景を作り出し、濃淡をつけるのに光の効果や濃密な色を用いて、錯覚の光を描いている(たとえば「ウクライナの夜」[1876年]、「白樺林」と「雷雨の後」[1879年]、「ドニェプル川にかかる月明かり」[1880年]など)。後年の画風は、色彩の層を用いた装飾効果が顕著である。
(後略)」
(ウィキペディア・フリー百科事典「アルヒープ・クインジ」より) -
2本の木の根元、乾いた大地
-
同じ作品の右3分の1を切り取ると絵の印象ががらっと変わる
初期作品から、クインジらしい荘厳さと静けさがよく現れていると思いました。 -
「朝のドニエプル川」
1881年
クインジ(1842?~1910年)画
3年前にもとても気に入った作品です。
サイズは大きくて、小さな写真に収めてしまうと、壮大さがなくなってしまいますが、まずは全体の写真を撮りました。 -
アザミをはじめとする野花が咲く、朝霧がかかったような大地
部分に注目してカットして写真を撮ると、全体の印象が変わるだけでなく、いかに細かく描かれていたか、ということも思い出すことができます。 -
野花には蝶々も群がる豊かな大地
-
蝶々やトンボなど、さまざまな昆虫たちも描かれている
-
イチオシ
「貝の中で眠るキューピッド」の一部
1853年
大理石
ブロンツキー(1829-1904)作
きっと天使のような子供をモデルにして、天使の像を造ったに違いありません。 -
大好きなシーシキンの大好きな絵
いまの私が動物好きということもあって、トレチャコフ美術館で一番お気に入りと言ってもよいでしょう。
まずは全体。
クマの親子がチョー可愛いのです。
「松林の朝」
1889年
シーシキン(1832-1898)画
「(前略)
シーシキンはヴャトカ県のエラブガの町(現在のタタールスタン共和国内)で生まれ、カザンのギムナジウムを卒業した。モスクワ絵画・彫刻・建築学校で4年間学び、その後サンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーに1856年から1860年の間在籍したが、アカデミー流の授業に飽き足らず、サンクトペテルブルク近郊やヴァラームなどでのスケッチに励んだ。最終年度には首席で卒業して金メダルを得、その褒賞としてヨーロッパでの絵画研究のための奨学金を与えられ、スイスおよびドイツ各地で制作を行っている。5年後ロシアに帰国して芸術アカデミー会員となった。1873年からはアカデミーの絵画の教授となり、死没する1898年までその職にあった。同時にサンクトペテルブルクの高等芸術学校の風景画クラスも担当した。
ヨーロッパからの帰国後、シーシキンは移動派の芸術家サークルの一員となり、同時にロシア水彩画家協会にも入った。ロシアでは芸術アカデミーの官展に参加したほか、1882年モスクワおよび1896年ニジニ・ノヴゴロドでの全ロシア博覧会の美術展、国際博覧会(1867年パリ万博、1878年パリ万博、および1873年ウィーン万博)にも出展している。
ロシアの森林の四季を描いたシーシキンの絵画は、自然に対する分析的研究に基づいた精緻なものであった。詩的で細密な四季の風景、崇高で荒々しい木々や自然、森の中の光や小川、野生の動物や鳥類を描いた彼の風景画は当時から今日に至るまでロシアで非常に人気が高い。シーシキンはサンクトペテルブルクの南にダーチャ(別荘)を構え、風景画を描く拠点としており、代表作のいくつかがここで制作された。また製図家、版画家としても傑出した才能を示した。
1898年、シーシキンはサンクトペテルブルクで絵画の制作中に死去した。」
(ウィキペディア・フリー百科事典「シーシキン」より) -
倒木に登って遊ぶ子グマたちと、それを見守るお母さんクマ
-
イチオシ
1頭だけ少し離れたところで遠くを見ていた子グマ
三つ子といっても、性格はそれぞれでしょうからね。 -
子グマと倒木
嵐の翌朝なのでしょうか。
子グマの少しおちりが下がったポーズが可愛いです@ -
こちらの子グマたちは兄弟同士で遊んでいたのかな
-
「灰色のオオカミに乗ったツァレヴィッチ・イヴン」
1889年
ヴァスネツォフ(1848~1926年)画
この絵は2年前にも気に入っていて、写真を丁寧に撮ったことを覚えていますが、また撮りました。
かなり大きなサイズの絵なのですが、まずはできるだけ全体をフレームインさせました。
これはロシアの民話をモチーフにしたものです。
Wikipediaにあらすじがあるのですが、それを再掲します。
「王様の庭園には黄金のりんごの木が生えていたが、夜になると火の鳥が現れてりんごを食べていた。王様は火の鳥を生け捕りにしたものには国の半分を与え、死後は自分の後継者にするとして3人の子供に木の見張りをさせる。兄弟は順番に見張りをするが、上の2人は見張り中に寝入ってしまう。末っ子のイワン王子は眠らずに火の鳥の尾羽根を手に入れる。火の鳥が逃げてしまったので、王様は3人を火の鳥探しの旅に出す。兄2人はイワンを置いて出かけてしまう。イワンは王様に頼んで洗礼を受けて出発する。
イワンが旅を進めると野原に道標があり、飢えと寒さに襲われる道、自らは助かるが馬は死ぬ道、馬は助かるが自らは死ぬ道の3つが示されていた。イワンが2番目の道を選んで進むと、灰色狼が現れて馬を殺してしまう。イワンが悲しんで歩いていると先ほどの狼が現れて馬の代わりをするという。火の鳥がいる庭につくと狼はイワンに火の鳥だけを連れてくるように言うが、イワンは火の鳥が入っている金の籠を持ちだそうとして捕まってしまう。そこの王様に金のたてがみの馬と引き換えに金の鳥を渡すといわれてイワンは出発する。金のたてがみの馬のいる馬小屋につくと狼はイワンに馬だけを連れてくるように言うが、イワンは金の轡を持ちだそうとして捕まってしまう。そこの王様にエレーナ姫と引き換えに馬を渡すといわれてイワンは出発する。狼はイワンを途中で降ろすと宮殿へ行き、エレーナ姫を連れてイワンのところに帰ってくる。エレーナ姫を好きになったイワンは引き渡したくないといい、狼が姫に変身して馬を得る。狼がイワンのもとに帰るとイワンは馬を引き渡したくないといい、狼が馬に変身して火の鳥を得る。こうしてイワンは火の鳥と金のたてがみの馬とエレーナ姫を連れて帰る。
道標のところで狼と別れたイワンは途中で休憩して眠るが、そこに通りかかった2人の兄がイワンを殺して手柄を横取りしてしまう。しばらくして灰色狼がそこを通りかかり、イワンの死体を見つける。肉をついばもうとした烏を捕まえ、母烏に死の水と命の水を持ってくるよう脅す。母烏の持ってきた水をかけるとイワンは生き返る。狼はイワンを兄とエレーナ姫の結婚式の最中の城へ連れていく。2人の兄は罰せられ、イワンはエレーナ姫と幸せに暮らした。」
(Wikipediaフリー百科事典「イワン王子と火の鳥と灰色狼」より) -
灰色狼だけど、私には茶色いオオカミに見える@
民話によると、イワンの馬を食べてしまった代わりに、馬の代わりを務めると自ら申し出たり、最後は死んだイワンを生き返らせれたりした忠犬のようなオオカミなので、好意的な目をしていると思いました。 -
エレーナ姫がきれいなのはあるあるだけど、一般人のはずのイワンも王子様みたいにかっこいい!
ロシアには他にも火の鳥の伝説があり、ストラヴィンスキー作曲の音楽を使ったバレエもありますが、そちらはオオカミが出ていないので、これとは違いバージョンだとわかりやすいです。 -
エレーナ姫のドレスと靴は刺繍と宝石が編み込まれている
ヴァスネツォフについても、Wikipediaから引用。
「ヴィクトル・ミハイロヴィチ・ヴァスネツォフ(ローマ字表記例:Viktor Mikhailovich Vasnetsov, 1848年5月15日 - 1926年6月23日)はロシア帝国の画家。神話や宗教・歴史を題材とした絵画の専門家であり、19世紀のロシア画壇における文芸復興運動の立役者の一人とみなされている。叙事的で壮大な表現や耽美主義的な傾向が見られることから、ロシア象徴主義の一員に数えられることもある。(後略)」
(Wikipediaフリー百科事典「ヴィクトル・ヴァスネツォフ」より) -
「アリョーヌシカ」
1881年
ヴァズネツォフ(1848-1926)画
これもいまさら気付いたのですが、ロシア民話が題材でした。
ヴァツネソフの1870年代後半のモスクワ時代に、ロシア民話をモチーフにした作品を次々制作したようです。
「(前略)
1877年にモスクワに戻る。1870年代後半は、ロシアの童話や御伽噺(ブィリーナ)の挿絵に没頭し、「岐路に立つ騎士」(1878年)や「イーゴリ公の合戦」(1879年)、「魔法の絨毯」(1880年)、「アリョーヌシカ」(1881年)といった代表作が制作された。これらの作品は、発表当時には評価されなかった。急進的な評論家の多くは、これらについて、移動派の写実主義の原理を損うものだとして斥けた。パーヴェル・トレチャコフのような有名な美術通でさえ、これらの購入を拒んだほどだった。
ヴァスネツォフの絵画は1880年代になると流行に乗った。ヴァスネツォフが題材を宗教的なものに切り替え、庇護者サーヴァ・マモントフの所有地アブラムツェヴォの芸術家村のために一連のイコンを描くようになったからである。
(後略)」
(Wikipediaフリー百科事典「ヴィクトル・ヴァスネツォフ」より) -
兄と妹というヨーロッパに広く伝わる童話の妹
Wikipediaフリー百科事典であらすじを読んでみたら、ヨーロッパの童話集かなにかで絶対読んだ覚えがあると思いました。
我慢できずにいけの水を飲んだ兄が鹿になってしまった後の場面でしょう。
「あらすじ
意地悪な魔女である継母に虐待されていた兄妹は2人で家出をする。
ふたりは森に入るが、継母は森の泉すべてに魔法をかけていた。
喉の渇いた兄は泉の水を飲もうとするが、「この水を飲んだものは虎になる」という声を聞いた妹は、兄が水を飲むのを止めさせた。しばらくして兄は、再び泉の水を飲もうとするが、「この水を飲んだものは狼になる」という声を聞いた妹は、兄が水を飲むのを止めさせた。
次に見つけた泉の「この水を飲んだものは鹿になる」という声を聞いた妹は、兄に水を飲まないように忠告したが、我慢できなくなった兄は泉の水を飲み、鹿に変身してしまう。妹は靴下留めで作った首輪で兄が変身した姿である鹿と自分をつなぎ、小さな空き家に住み込み始めた。
ある日、兄はその国の王が催した大仕掛けな狩りの音を聞き、見に行きたくてたまらなくなった。狩り場で負傷し、家に帰る鹿を追いかけて来た猟師達に小屋が見つかり、妹は王に見初められた。王は妹を城に連れて帰るが、妹の願いで鹿となった兄も連れて行く。妹は王と結婚し后となり、王子を産んだ。兄である鹿も大切に世話され、自由に過ごした。
継子達の幸せに嫉妬した継母と、継母の実子である隻眼の醜い娘は后となった妹を殺し、醜い娘を后そっくりに変えて王を誤魔化した。その日の夜から后は幽霊となって現れ、生まれたばかりの子供を世話し、側で寝ている鹿の背をなでて消えるようになった。王子の乳母はそれを夜ごとに目撃していたが、最初の頃は無言だった后が、ある日「自分が来るのはあと二度」とつぶやいて去った。乳母は王に目撃談を報告し、驚いた王は自ら待ち伏せすることにした。王が隠れて見ていると、はたして后は現れ「自分が来るのはあと一度」とつぶやいて去った。最後の日、たまらなくなった王は后の前に出て「お前はわたしの妻だ」と呼びかける。后が「はい、わたしはあなたの妻です」と応えたそのとき、神さまのお情けで后は生き返る。
悪事が露見した継母は火刑、隻眼の娘は八つ裂き刑にそれぞれ処せられ、魔女の死とともに鹿となった后の兄は元の姿に戻る。 」
(Wikipediaフリー百科事典「兄と妹」ょり) -
途中に順路をすっ飛ばすようにある大部屋にあるヴルーベリの作品の1つ
「Vlkhoveに別れを告げる海の女王」
1898年
ミハイル・ヴルーベリ(1856-1910)画
リムスキー・コルサホフのオペラ「Sadko」にインスピレーションを得て描いた作品だそうです。
「ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・ヴルーベリは、19世紀から20世紀にかけて、装飾や舞台美術も含め様々なジャンルで活躍したロシアの画家。アールヌーヴォーあるいは象徴主義の傾向を有する。
(中略)
1886年にはキエフに帰り、新しく造られた聖ヴラジーミル聖堂のためにデザインを提出したが、彼の作品の新しさは評価されず拒絶された。この時期彼はハムレットやアンナ・カレーニナを題材として、後のデーモンや預言者を主題とする暗い色調とは大いに異なる豊かな色調による作品を手がけた。
キエフ時代にはミハイル・レールモントフのロマン的な長編詩「デーモン(悪魔)」を主題とするスケッチと水彩画の制作を開始し、彼のライフワークにつながっていく。この時期ヴルーベリはオリエントの美術、特にペルシャ絨毯に強い関心を抱き、絵画の中でそのテクスチャーを真似る試みまでしている。
1890年にモスクワに移り、さらに新しい美術の流れに取り組むことになる。アールヌーヴォーに加わった他の芸術家と同じように彼は絵画のみならず陶芸やステンドグラスにも才能を示した。さらには舞台セットや衣裳の制作にも携わった。彼に名声をもたらしたのは大作「座るデーモン」(1890)である。多くの保守的な批評家は彼の作品を醜いと非難した。しかし美術パトロンのマモントフはデーモンシリーズを称賛し、彼の私設オペラ劇場と友人たちの邸宅の装飾美術を依頼した。1896年に有名なオペラ歌手ナジェージダ・ザベラと愛し合い、半年後に結婚してモスクワに住んだ。ここで彼女はマモントフの劇場への出演を依頼され、ヴルーベリは舞台セットと妻の衣裳のデザインを担当した。妻がリムスキー=コルサコフのオペラを演じる姿を描いた作品も残されている。ロシアのおとぎ話にちなむ「パン」(1899)、「白鳥の王女」(1900)[注釈 1] や「ライラック」(1900)も描き称賛された。
1901年、大作「打倒されたデーモン」で再びデーモンの主題に戻った。精神的なメッセージで公衆を驚かすため、発表後にもデーモンの顔を繰り返し描き直した。しかしついには精神的発作を起こし精神科に入院するが、彼はそこで「真珠貝」(1904)とプーシキンの詩「預言者」を主題にした連作を描いた。しかし1906年、精神疾患と失明のため制作を断念した。1910年サンクトペテルブルクで死去。」
(Wikipediaフリー百科事典「ミハイル・ヴルーベリ」より引用) -
美しい海の女王の後ろに怪しい老人のような姿が……!?
この女王は、画家の奥さんがオペラで演じたのかもしれません。 -
ヴルーベリの有名なデーモンシリーズの「倒された悪魔(デーモン)」(1902年)の全体
サイズも大きく、長細い絵です。
ところで、この絵はいまいち、どうなっているのか、よくわからないのです。
真ん中に、むき出しになったデーモンの太もも似見えるものがあるのですが、いったいどのように横たわっているのか。 -
中央の太ももに見えるすぐ上に顔らしきものがある
いったいどういうポーズを取っているのか、いまいちわからないのです(苦笑)。 -
トレチャコフ美術館に2枚ある常設展示のヴルーベリのデーモン・シリーズ「座せるデーモン」(1890年)
これは、デーモンが足を抱えるようにして座っているのがよくわかります。
デーモンは、筋肉隆々で豊かな黒髪をしています。 -
これもヴルーベリの絵で私のお気に入り「ライラック」(1901年)
あたり一面に降り注ぐ吹雪のように咲いた見事なライラックがお気に入りです。
未完成作品だそうです。 -
手紙を読んでいる女性は未完成
白いキャンバスの地が残っていて、これから色をつける予定だったかもしれませんが、セザンヌの絵で、キャンバスに色を塗っていない地が残っている絵を見ているので、このままでも完成品でいいのではと思えるくらいです。 -
「ヴルーベリ」にはこのような女性も潜む
-
白い(未完成?)の女性と対比で、黒い衣装の女性
-
「イスカリオテのユダの良心」
1891年
ニコライ・ゲー(1830-1894)画
タイトルを解読するまで、奥のかがり火で暖まっている兵士に近づく婦人だと思っていました(笑)。 -
左奥に描かれていた、かがり火で暖まる人々
ニコライ・ゲーといえば、2000年に初めてトレチャコフ美術館を訪れたとき、感動した絵の1枚「荒野のキリスト」の画家です。
それで、ゲー=宗教画家という思い込みがどうしてもあるのですが、彼は、歴史モチーフ画でも有名です。 -
ベールの向こうの表情に惹かれて
-
「バロネッサ・イクスーリ・フォン・ギルデンバントの肖像」
1889年
イリヤ・レーピン(1844-1930)画
順路が前後したので、少し時代を遡ることになりました。
ロシア絵画史で最も有名なイリヤ・レーピンの作品です。 -
「ナポリの少年」
1870年
N. A. ラベレツキー(1837-1907)作
いまの私は動物撮影をハマったことからすっかり動物好きになっていたので、少年が連れたおサルさんに惹かれました。 -
機嫌良さそうなおサルさんが可愛い@
サルもとてもリアルで、よく観察していると思います。 -
同じ彫刻家の別の作品「少年と少女と小鳥」(1868)
子供のあどけなさがとてもよく出ています
ちょっふっくらした女の子のおなかとかほっぺなど、たまりません! -
イチオシ
熱心に小鳥をのぞき込む少女の愛らしさ
-
2015年4月24日から10月4日まで開催されていた企画展「絵画の時代18世紀のデッサン」のポスター
たしか、この企画展は、写真を撮らず、さくっと回ったんだと思います。
このあとは1階の展示室へ移りました。
日本で有名なロシア絵画や画家の絵はぐんと減り、国際色が混じり、いかにもロシア絵画という印象も薄くなりますが、じっくり見ると、好みの絵がそろっているのです。 -
「古いスラムスキー峠」
1891年
A. A. キセレフ(1838-1911)画
霧がかかった峠の絵です。
壮大なのに重苦しい空気もたちこめているかんじが、ロシアらしい? -
斜面には木のシルエットも見える
-
「ザモツクヴォレツキーの馬車のある庭」
S. I. スヴィャトスラフスキー(1857-1931)画
惹かれた理由は、雪景色、正教会がある背景と、庭の動物たち@ -
野外博物館で見られそうな古い馬車と、たくさん集まったカラスたち
-
「永遠の平和」
1894
I. I. レヴィタン(1860-1900)画
レヴィタンはロシアの風景画家としては日本でも有名だと思います。
少なくとも私にとっては、この翌年の2016年、黄金の環の都市ではないのですが、ヴォルガ川沿いの画家たちに人気のある風光明媚なプリョスに行き、そこでレヴィタンの印象が強まりました。 -
イチオシ
実は、この絵を見て、ソロヴェツキー島を連想したけど……
いまにして思えば、これはヴォルガ川で、プリョスの可能性もあるかもしれません。
「(前略)
レヴィタンの作品は、ロシアの風景の詩的な魅力を反響する深遠なものとされた。『シモノフ修道院の眺め 』(現在所在不明)を除いてレヴィタンは都市の風景を描かなかった。ネステロフによって言及されたように、モスクワ市が描かれている絵は『クレムリンの照明 』だけである。
1870年代後半、彼はしばしばモスクワの近辺で絵を描き、特別に変化に富んだ“漠々とした風景”を確立した。これは曲線と自然の状態を浄化したもので、人間の感情の状態が表されるようになっていった。オスタンキノ宮殿で絵を描く間、彼は邸宅の部屋と公園の断片を描いたが、彼が最も好んだのは森林や穏やかな田舎にある詩的な場所であった。彼の作品で特徴的なのは、静まりかえっていて、ほとんど憂愁の空想が田園の風景に囲まれて、人の存在を欠いているところにある。これらの優秀な例は、『ウラジーミル街道 』(1892年)、『夕暮れの鐘声 』(1892年)、『永遠の残余 』(1894年)などであり、これら全てトレチャコフ美術館に所蔵されている。彼の晩年の作品には印象主義との親密さがうかがえることから、彼のパレットはいつも無言で、彼の意図が視覚的であるとか科学的であるよりさらに自然主義的で詩的であったのである。
1890年夏、レヴィタンはユーリエヴェツへ行き、おびただしい風景の中から習作『クリヴォオセルスキ修道院の眺め 』を描いた。彼の最高の作画の一つである『静寂の修道院』はこうして誕生した。静寂の修道院のイメージと川に架かる橋のイメージは、それが外の世界とつながっていることを意味し、芸術家の精神的熟考を表現している。この絵がチェーホフに強い印象を与えたことが知られる。
1892年にはレヴィタンは再びユダヤ人迫害の中でモスクワを逃れ、ウラジーミルやトヴェリ付近の田舎町を転々とする時期を過ごす。この時にヴォルガ川沿いの小都市プリョスに滞在して描いた数々の風景画は彼の作品の中でも重要なものとなった。
1897年、既に名の知られていたレヴィタンは、帝立芸術アカデミー会員に選ばれ、1898年には彼の母校にある風景画スタジオに彼の名前がつけられた。
レヴィタンは人生最後の年を、クリミア半島にあるチェーホフの家で過ごした。絶え間ない病気の影響にもかかわらず、彼の最期の作品は増大する光で満たされている。それらは静穏とロシアの自然の永遠の美を反映しているのである。
(後略)」
(Wikipediaフリー百科事典「イサーク・レヴィタン」より引用) -
イチオシ
「太陽の光の中の羊たち」
1904年
N. A. トラノフ(1871-1930)画
1階に展示されている20世紀初期の絵画の中では、お気に入りの1枚です。
明るてむじゃきなところに惹かれたのですが、動物好きになるにつれ、羊たちが可愛らしく見えてきたことも理由に入ると思います。 -
イチオシ
可愛らしく頭突き@
この筆のタッチとか、色合いとか、ロシア印象派といえるかもしれません。 -
「20世紀初頭の町のレリーフ」
S. マルティン(1859-1937)作
木の浮き彫りでした!
こういう町並みも見たいなと思いますが、浮き彫りだとますますわくわくしました! -
丸太の壁の家の凹凸の魅力と彫刻刀の跡が見える野原
-
「水車小屋」
1913年
K. F. ユオン(1875-1958)画
20世紀絵画はこういう、行ってみたいと思わせる美しい田園風景が見られるのがいいです。
実際に描かれているのもロシアのどこかでしょう。 -
水車小屋で製粉するためにやってきた人々が細かく描かれている
-
「家族」
1907年
S. V. イワノフ(1864-1910)画
この時代の風俗画は、こういういかにも(一昔前の)ロシアにいそうな家族と、服装などを見る楽しみもありました。
先頭の女の子が意気揚々と進む様子が微笑ましいです。 -
後ろに続くお母さんは赤ちゃんを抱いていたらしい
-
「青年時代の聖セルギウス」
1892-1897年
M. V. ネステロフ(1862-1942)画
この絵は、「地球の歩き方」でも紹介されていました。
この象徴主義の画家については、短いながらも、Wikipediaに紹介がありました。
「19世紀末のロシア画壇における宗教的象徴主義の代表的指導者。
帝国美術アカデミーにてパヴェル・チスチャコフに師事した後、芸術家集団「移動派」に参加する。ラドネジのセルギイの回心を描いた絵画「若きヴァルフォロメイの聖なる光景」(1890年~1891年)は、しばしばロシア象徴主義運動の幕開けを告げる作品と見なされている。1890年から1910年までキエフやサンクトペテルブルクに暮らして、聖ウラジーミル大聖堂や血の上の救世主教会のそれぞれのフレスコ画制作に取り組んだ。1910年以降は、余生をモスクワで送り、マルフォ=マリインスキー女子修道院に仕えながら肖像画を描いた。 」
(Wikipediaフリー百科事典「ミハイル・ネステロフ」より引用) -
胸に当てられた祈りの手と、数珠と、衣服の粗末なひもベルトからぶらさがっているものに注目
ひもベルトからぶら下がった木彫りのカップや皮のポシェットのようなものは、よく民俗博物館で見たことがあります。
森に入るときに持参するものだろうと思っていました。
この青年は、野草を採りに来たのでしょうか。 -
青年はヒグマを従えて
キリストの聖人に猛獣も仕えるエピソードはよくあります。 -
イチオシ
パンダ顔したヒグマが可愛い@
-
「秋の風景」
1906年
M. V. ネステロフ(1862-1942)画
ネステロフの作品は1部屋使って何枚も展示されていました。
さきほどのヒグマの絵とわあせて、これも気に入った1枚です。
この静かな静寂に満ちた、聖なる雰囲気に満ちたところ気に入りました。 -
紅葉した木々と水面に映った様子が日没前の景色に彩りを添える
フランス発祥の印象派の影響はばっちり受けています。
これは比較的サイズの小さい絵でした。 -
「聖セルギウスの労働」(三連祭壇画)
1896-1897年
M. V. ネステロフ(1862-1942)画
描かれている聖人については、Wikipediaフリー百科事典にありました。
それによると、セルギエフ・ポサードの起源となった教会をそうしした聖人のようです。
「ラドネジの聖セルギイ(当初の洗礼名はヴァルフォロメイ、ロシア語: Варфоломей、ラテン文字転写: Varfolomei、1321年/1322年頃 ? 1392年9月25日)は、正教会・カトリック教会の聖人。至聖三者聖セルギイ大修道院の創設者。日本正教会ではラドネジの克肖者聖セルギイ(ラドネジのこくしょうしゃせいセルギイ)と呼ばれる。正教会全体でも著名であるが、特にロシア正教会で崇敬される。日本のカトリック教会では聖セルジオ(ラドネーシュ)と呼ばれる。
中世のロシアにおける最も偉大な宗教的・精神的な指導者であり、修道院の建設者である。今日、サロフのセラフィムとともに、ロシアにおける最も偉大な聖人のひとりとして人々の崇敬を受けている。
ラドネジのセルギイ(ヴァルフォロメイ)の誕生した年についてはよく分かっていない。現在のところ、1314年説、1319年説、1321年説および、1322年説がある。ロストフのボヤール(boyar、大貴族)の家系に生まれたとされ、彼の両親キリルとマリアの頃には貧しくなり、ラドネジ (Radonezh) にステファン、ヴァルフォロメイ、ピョートルの三人の子を連れて移った。両親の死後、ヴァルフォロメイは、モスクワの近郊、ホトコヴォへ行き、そこで長兄ステファンは仕官した。ヴァルフォロメイは、ステファンに対して、より神に近づける平安の地を見つけるよう長兄を説得しマコヴェッツ丘の深い森に至聖三者を記念する小さな教会堂を建設した。これが至聖三者聖セルギイ大修道院の起源である。
しばらくして、長兄ステファンは、モスクワの修道院に移った。ヴァルフォロメイは、セルギイに改名し、修道士として誓いを立てて、森に分け入り隠者として1年以上孤独な生活を過ごした。間もなくすぐに、他の修道士達が、セルギイのもとに集い教会を建設し始めた。しばらくして修道士達はセルギイに師父として自分達を導くよう促した。セルギイは自ら範を垂れ、修道士達に労働により生計を立てることを求めた。セルギイの徳を慕い、多くの修道僧達、寄付が集った。こうして「ポサード」が形成され、現在のセルギエフ・ポサードの起源を形成した。
(後略)」
(Wikipediaフリー百科事典「ラドネジのセルギイ」より) -
井戸から水をくんできたところかな
背景の田園景色にも惹かれました。 -
冬の町を歩く聖セルギウス
美しい刺繍入りの手袋に惹かれました。 -
この冬景色にも
昔のセルギエフ・ポサードだったりするのかな。 -
「ルーシーにて(民衆の魂)」
1914年
M. V. ネステロフ(1862-1942)画
ぱっと見て目を引くのは、白いかぶりものをした手前の女性と、司祭と思われる黄色いガウンのおじいさんですが……。 -
華やかなガウンの司祭と、掲げられた聖旗
宗教行進の最中のようです。
いまでも行われる重要な儀式のようです。 -
行進の行く手に半裸で踊る隠者
-
「ヴァルフォロメイ少年の幻視」
1889-1890年
M. V. ネステロフ(1862-1942)画 -
幻の聖人に教会のミニチュアを渡される
彼はのちにセルギエフ・ポサードの元となる教会を建てるので、そのお告げがあったという伝承がテーマでしょう。
背景のタマネギ型ドームのある教会のある田園景色にも惹かれました。 -
正教会がある美しいロシアの田園風景
-
セルゲイ・ティモフェビッチ・ノーネンコフの木造彫刻の企画展
-
木造彫刻のストリーボッグ(スラヴの神さま)
この企画展の中ではとりわけ気に入った作品です。
その後も、これが展示されていたところを見ると、このときの企画展の作品の一部は常設展示として残ったのか、もともとトレチャコフ美術館蔵だったものを集めたのかもしれません。 -
イチオシ
なんともいえない愛らしい表情と不思議な姿
-
たくさんの色石が埋め込まれていて
-
「口笛を吹く者」
1915年
ロシア民話にでものでてきそうなおじいさんか仙人みたいです。 -
「森の住人」
1909年
これも見れば見るほど愛嬌がある像でした。
耳がだいぶ大きいので、人間ではなく、妖精とか、人外のものではないかと思いました。 -
「平原の老ゴブリン」
1910年
ゴブリンというと、いま流行の異世界もののゲームだのラノベでは悪役にされている気がしますが、もっと民間伝承に根ざした、ちょいと悪さをする妖精といった存在だったと思います。 -
いい笑顔している@
ゴブリンって、日本でいうなら、カッパとか、そんな存在かも。
他にもいっぱい魅力的な作品があったのですが、全部撮ってもきりがないので対象をしぼったところ、こういう愛嬌のあるおじいちゃん像ばかりになりました。 -
「庭で」
1914年
K. A. コロヴィン(1861-1939)画
思いっきり印象派らしい絵だなと思ったら、まさしくロシアの印象画家のコロヴィンの絵でした。
「ロシア帝国のモスクワでうまれた。兄セルゲイ(英語版)も画家である。モスクワにある美術学校で学んだ。1885年にフランスやスペインを訪れ印象派に魅せられた。
ボリショイ劇場等、数多くの劇場のステージデコレーションを担当した。また、各地を訪れ、風景画を描いた。1900年に開催されたパリ万国博覧会でコローヴィンがデザインしたロシア帝国のパビリオンは絶賛され、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与された。
母校で教員に就いた。革命の余波もあって最終的にフランスに移った。パリで死去した。
(Wikipediaフリー百科事典「コンスタンチン・コローヴィン」より引用) -
四角い面で人物と光を描いた見事さ!
ずっと昔、日本で、印象派とその同時代人の絵画展を見に行ったときに、コロヴィンの作品もあった気がします。
経歴をみると、フランスに移住したし、フランスで高い評価を受けたので、あたかもフランスの印象派画家として扱われていてもおかしくないと思います。
彼がロシアの印象派絵画の先駆者であると意識するようになったのは、トレチャコフ美術館で出会った跡です。
それをいうならシャガールも、ロシア人だと分かっていても(生誕地は現ベラルーシ)、私の中では長らく、フランスの後期印象派の画家という分類でした。 -
「魚、ワイン、果物」
1916年
K. A. コロヴィン(1861-1939)画
コロヴィンもこういう静物画を描いたんだなぁと思って写真を撮りました。
セザンヌを連想したのです。 -
「セーロフのオペラ「ユディット」のホロフェルネスに扮したシャリャーピンの肖像画」
1908年
A. Y. ゴロヴィン(1863-1930)画
コロヴィンではなく、ゴロヴィンです。
あきらかに印象派絵画ではなく、どちらかというとクリムトを連想させる耽美な絵でした。
ユディットとホロフェルネスといえば、有名な旧約聖書の人物です。
シャリャーピンはロシアで有名なオペラ歌手なので、いわば舞台絵画でしょう。
そしてこれは、ユディットに首を切られる前で、彼女にもてなされているところかも。 -
「古い公園で」
1910年
A. Y. ゴロヴィン(1863-1930)画
こちらにも耽美的な印象の素敵な絵でした。
輪郭線がしっかりしているので、イラスト的でした。 -
「パヴロフスクの風景」
1911年
A. Y. ゴロヴィン(1863-1930)画
まずは全体です。
ゴロヴィンの絵にすっかり魅了されましたが、描かれている景色には見覚えがありました。 -
池の向こうの建物とあわせて縦構図にすると
パヴロフスクといえば、エカテリーナ2世の息子パーヴェルの宮殿と公園があるとこで、その庭園の一部にこういう景色がたしかにありました。 -
池の向こうの建物とあわせて横構図にすると
もちろん似たようなところはロシアの各地にあると思いますが、タイトルで確信がもてたわけです。 -
キャンバスの白い地が残ったような筆の入れ方
水彩画のような色合いとあわせて、とても耽美的でしたる -
「磁器と花」
1915年
A. Y. ゴロヴィン(1863-1930)画
ゴロヴィンも静物画を描いていましたが、なんと華やかだったことか!
まずは全体。 -
磁器もすばらしい!
-
平面的な描き方とあわせて、クリムトを連想
-
「夕暮れ」
1900-1902年
K. A. ソモフ(1869-1939)画
なんともいえない不思議な雰囲気のある絵でした。
デ・キリコとまではいわなくても、形而上学派のような、どこか現実味がない絵に見えました。 -
マリー・アントワネット時代の貴族たちのよう
ソモフについて、Wikipediaで見つけることができました。
特に形而上学派というわけでもなく、彼の代表作はもっと写実的なようですが、ロココ風の絵画を好み、フラゴナールにインスピレーションを得ていたようなので、なるほどと思いました。
「ロシアの画家で「芸術世界」の同人。美術史研究者でエルミタージュ美術館の学芸員の家庭に生まれ、18世紀の西欧美術に早くから興味を持っていた。3年がかりの最高傑作「青衣の夫人」は、18世紀の肖像画家の手法で描かれている。
ペテルブルク帝国美術アカデミーにてイリヤ・レーピンに1888年から1897年まで師事。在学中にアレクサンドル・ベノワと親交を結び、その紹介でディアギレフやバクストの知遇を得る。この三者が『芸術世界』を創刊すると、ソモフはこの機関誌に任意で寄稿した。また他の同人の例に漏れず、ソモフも同性愛者であった。
1910年代を通じて、ロココ風の道化師の場面や挿絵を、アレクサンドル・ブロークの詩集に寄せている。ソモフはワットーやフラゴナールに霊感を受け、水彩やグワッシュで描くことを好んだ。
作品の多くは海外で、とりわけドイツで展示され、ソモフに関する最初のモノグラフは1909年にドイツで出版された。
十月革命の後にアメリカ合衆国に移住するが、この国の環境が「自分の芸術にはまるで相容れない」と悟ってパリに移った。1925年に同地でセルゲイ・ラフマニノフの最も有名な肖像画の一つ[注釈 1]を完成させている。
パリに客死し、サン・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワ墓地に埋葬された。
2007年6月14日にソモフの風景画「虹」(1927年)がクリスティーズのオークションに出品され、330万ポンドの価格をつけた。これはクリスティーズで競り出されたロシア美術としては、最高記録を更新した[2](ただし、後にナターリヤ・ゴンチャローワの「リンゴ狩り」が494万8000ポンドで落札されることにより、記録を塗り替えられた)。 」
(Wikipediaフリー百科事典「コンスタンチン・ソモフ」より引用) -
「干し草作り」
1917年
B. M. クストディエフ(1878-1927)画
こういう風景画で少し風俗画の要素が混ざっているのは大好物です!
そしてこういうのは、原画を近くでつぶさに見る甲斐があるってものです。 -
小さいけれど丁寧に描かれた背景にもたくさんのドラマがある
ドラマといっても、みんな熱心に草を刈っていますけどね。
描かれた年代としては、ソ連成立後で、まだ農村などが集団農場化されて崩壊していない頃かな。 -
「マースレニッツア祭り(ロシアのカーニバル)」
1916年
B. M. クストディエフ(1878-1927)画
この画家の絵は好みかもしれないです。
さきほどの絵よりもさらに気に入りました。
タイトルをチェックするまで、カーニバルの絵とは思わなかったです。むしろクリスマスかと思っていました。 -
イチオシ
絵の全体ではなく、周辺を少し切り取ってフレームインさせてみると
前景の馬車と中景の教会のある町並み、そして茜色の空が強まりました。 -
丘の上の様子と町並み
ここだけでも十分ステキな風景画になる丁寧な描きこみです。 -
中景の町並みを切り取ってもさらに絵になる
町の広場にサーカス会場があるように見えました。
雪景色の町がほんとうに魅力的です。 -
反対側の丘の上では、楽しそうに遊ぶ子供たち
原画を近くで見ないと、こんなところまでなかか気付かないです。 -
「ウンブリアの谷」
1910年代
A. Y. ゴロヴィン(1863-1930)画
再びゴロヴィンです。
イタリアのウンブリア地方が窓の外に見える絵のようです。
庭のバラが見事です。
四角い絵でしたが、まずはその全体。 -
バラをメインにタテ構図
-
ウンブリア地方の田園風景にズーム
-
「化粧台の前で/自画像」
1909年
Z. Ye. セレブリャノヴァ(1884-1967)画
とても魅力的な女性で、ぱっと目を引かれました。
いやまさか、自画像であったとは。 -
素敵な笑顔@
出かける支度をしながら、今日一日に対してうきうきしているようです。 -
化粧台の上のいろいろな化粧品やネックレスなども興味津々
-
「池」
1902-1903年
V. E. ボリソフ・ムサトフ(1870-1905)画
絵の大きさも含めて、独特の雰囲気とたおやかな女性たちに惹かれました。 -
レースの上着を着た少女の横顔
髪型が少しオリエント的かも?
ムサトフは「青いバラ」派というそうです。
Wikipediaではなく、展覧会の画集を紹介するサイトが見つかりました。
カタログの説明を引用します。
「ボリソフ=ムサトフ(1870-1905)をはじめとする19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した芸術家たちにフォーカスした展示となった。
「青いバラ」という名前ら1907年にモスクワで開かれた展覧会からとられた。このグループに所属したのはクズネツォフ、サリヤン、サプーソフ、スデイキン、ウートキンなど。本展ではそれぞれの芸術家の代表的な作品を展示。彼らの作品にはボリソフ=ムサトフ以降の象徴主義的志向に加えてプリミティブの傾向も見られる。
「青いバラ」派は若き日のラリオーノフも参加しており、ロシア・アヴァンギャルドの黎明期を知る上でも欠かすことのできない芸術家グループである。」
https://iskusstvo-jp.com/items/5c51a06d3b63657414e4e1a2 -
「エメラルドのネックレス」
1903-1904年
V. E. ボリソフ・ムサトフ(1870-1905)画
タイトルが不思議です。
エメラルドといえそうなネックレスをしている人といえば、左はじの女性です。
エメラルドのネックレスをめぐって、中央の女性との間になにかあったのか!? -
右側の女性群
ネックレスよりも、貴族の女性のもののようなステキな衣装に惹かれました。 -
ロシアの印象派画家コロヴィンのコレクションがたくさん展示されていた部屋
-
「クリミアの埠頭」
1861-1939年
K. A. コロヴィン(1861-1939)画
風光明媚なクリミアにも行ったんでしょうね。
ただ、私もウクライナ旅行中にクリミア半島に行きましたが、これを見てデジャブ感はありませんでした。 -
船の描き方がステキ!
これで少し離れてみると、いや離れてみなくても、ちゃんと船に見えるのですから。
そして船のそばに人物がいるのも分かります! -
「パリ、カフェ・ド・ラ・ペ」
1906年
K. A. コロヴィン(1861-1939)画
コロヴィンの絵としてはこちらが有名でしょう。
どうやらパリのオペラ座に隣接した、いまでもある老舗のカフェのようですから、さもありなん。
公式サイトを見ても、すごく素敵なカフェです。
https://www.cafedelapaix.fr/ja/ -
街路から見たそのカフェかな
-
コロヴィンが描いた雨の「パリ、シャンゼリゼ通り」
1906年
これも有名ですね。 -
「北の田園風景」
1892年
K. A. コロヴィン(1861-1939)画
コロヴィンはこういう絵も描いていたのだと驚きましたが、比較的初期でしょうか。
これはサイズも大きな絵でした。
まずは全体。 -
フレームに収めて、伝統的な衣装の少女たちに注目
-
野花あふれる
こんなに花が咲いているなんて、これでもロシアの夏ではないかと思いました。 -
「冬に」
1894年
K. A. コロヴィン(1861-1939)画
ロシアの田園風景らしい雪景色と、馬に惹かれました。
そりをつなぐためのアーチ型の馬具をつけているとこめなど、いかにもロシア的だと思いました。 -
「ひざまづく女性」
1907年
彫刻家の名前のラベルを撮り損ねたようです。
こういう力強さを感じさせる彫刻が、なにげに気に入りました。 -
そうじゃないかと思った、「ヨハン・セバスチャン・バッハ」
1910年
さきほどの「ひざまづく女性」と同じ彫刻家の作品ではないかと思いますが、名前が分かりませんでした。
自信満々のバッハ!?
トレチャコフ美術館・後編の旅行記「ゆったり楽しもうロシア再訪2015年─モスクワとカザン─【第7日目】(2)2年ぶりのトレチャコフ美術館(後編)イコン・コレクションをこまかい描き込みまでじっくり鑑賞」へとつづく。
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