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朝、稲佐山観光ホテルから 長崎湾の対岸を遠望した一帯は、昔、名勝雄浦 (大浦)と呼ばれる美しい海岸で、長崎八景の一つであった。<br /><br />この景観を失わせる切っ掛けとなったのが、天文19年 (1550)、平戸港に入港したポルトガル船。<br /><br />当時のこの一帯の領主・日本最初のキリシタン大名となった大村純忠は、ポルトガルの進言もあり元亀元年 (1571に)長崎港を開港。<br /><br />島原・天草の乱を期に、キリスト教の布教を恐れた秀吉は慶長18年 (1613)に禁教(カトリック教)令を発し、寛永13午 (1636)に扇形の人工島・「出島」を造り、ポルトガル人を封鎖する。<br /><br />出島は雄浦から名勝が失われ、「大浦外国人居留地」と変貌する号砲であった。<br /><br />その後慶長14年 (1609)に平戸にオランダ船が到来。<br /><br />当時長崎ではこの2か国を「南蛮」と称した。<br /><br />しかし寛永16年 (1639)にポルトガル船の渡航は全面的に禁止され、出島在住のポルトガル人は全て帰国させられた。<br /><br />その空き家になった出島にオランダ人が平戸から商館を移設、他の西洋人が少なかったため、長崎では西洋人はすべて”オランダ”人で代表されるようになる。<br /><br />一方長崎の中国との交易は古く、唐時代 (840年代)から行われていたが、幕府は「出島」に習って元禄 2年 (1689)中国人の居留地「唐人屋敷」を設置する。<br /><br />向井去来が郷里長崎で見聞きしたことを芭蕉に伝え、西国行脚に出た各務支考が眺めたのは、この時代の長崎の風景だったと思わる。<br /><br /><br />1855年、日米修好通商条約締結され、名勝雄浦 (大浦)一帯は大々的に埋め立てられ、外国人居留地に変貌する。<br /><br />海岸縁は商館や領事館、銀行等だ並ぶビジネス街、小高い、見晴らしの良い丘の上には住宅街が造られた。<br /><br />今我々が目にすることが出来ると当時の住宅街は、”東山手洋風住宅群”と”南山手洋風住宅群”と呼ばれている辺りで、 有名な”オランダ坂”は”東山手洋風住宅群”の丘を穿って造成したなだらかな坂道(切り通し)で、西洋人が通る坂”オランダ坂”と呼ぶれるようになった。<br /><br />長崎駅前から石橋行の路面電車で市民病院前へ。<br /><br />「梅ケ崎ロシア仮館跡」の案内板の有る大きな病院の壁の先を左折すると、オランダ坂の始まりで、長崎税関の前身”跡”前を通り、”オランダ坂”の石柱を過ぎると峠に当たる処に活水女子大の校門に向かう道(活水坂)がある。<br /><br />”東山手洋風住宅群”のシンボル的建造物が活水女子大本館の“六角堂”。<br /><br />活水女子大の創立は明治12年(1879)。<br /><br />創立者はアメリカ人の女性宣教師、エリザベス・ラッセル。<br /><br />出島のメソジスト教会の要請で明治12年(1879)来日、1週間後には外国人居留地に学校を開始したというから、女性の学校を作ることが教会の要請の趣旨だったのであろう。<br /><br />新約聖書の「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水わき出る」すなわちイエス・キリストの”活ける水”を汲め・・がラッセルの学校創立のモットーで、学校名となった。<br /><br />活水女子大学には、大チャペル内他7台(大学日本一)のパイプオルガンがあるらしい。<br /><br />キャンパスの様子に関心のお有りの方は下記をご覧ください。<br /><br />ヴォーリズを訪ねて<br />http://gipsymania.exblog.jp/11599015/<br /><br />日本では1870年に横浜のフェリス女学院が、1871年に東京女子師範学校(現御茶ノ水女子大)が創業しており、活水女子大は日本最初の女子大ではないが古い老舗の女子大には違いない。<br /><br />因みに朝ドラ「あさが来た」で広岡 浅子が創立に尽力した、日本女子大学校(現・ 日本女子大学)の創業は1901年(明治34年)。<br /><br />峠を過ぎた下り坂で、左に建つ東山手洋風建物保存地区の崖の下を過ぎると、赤レンガのビルの合間に大浦天主堂を中心に、上部にはグラバー公園、左に妙行寺などの屋根が望める場所に出る。<br /><br />さらに進むと左は現海星学園(当初のスチイル記念学校)、その先に”地球館”へ行く細い道とのV字型の分かれ道があり、その角にも”オランダ坂の石柱が建つ。<br /><br />この辺りで雨が降り出し、ビルの軒下をお借りして、リックから合羽を取り出していたら、そのビルのご主人が、「これをお使いなさい。返してくれなくてもいいですよ」と傘を1本恵んでくださった。<br /><br />”こぬか雨降るオランダ坂”を歩くことになったが、”マドロスさんに”遭うことはなかった。<br /><br />傘寿旅行・「海の細道」周遊旅情10,芭蕉が夢見た長崎(目次)へ戻る<br />http://4travel.jp/travelogue/11129855<br /><br /><br />

10,芭蕉が夢見た長崎10,-3雨のオランダ坂の大浦東山手居留地区

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2016/01/28 - 2016/01/28

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WT信

WT信さん

朝、稲佐山観光ホテルから 長崎湾の対岸を遠望した一帯は、昔、名勝雄浦 (大浦)と呼ばれる美しい海岸で、長崎八景の一つであった。

この景観を失わせる切っ掛けとなったのが、天文19年 (1550)、平戸港に入港したポルトガル船。

当時のこの一帯の領主・日本最初のキリシタン大名となった大村純忠は、ポルトガルの進言もあり元亀元年 (1571に)長崎港を開港。

島原・天草の乱を期に、キリスト教の布教を恐れた秀吉は慶長18年 (1613)に禁教(カトリック教)令を発し、寛永13午 (1636)に扇形の人工島・「出島」を造り、ポルトガル人を封鎖する。

出島は雄浦から名勝が失われ、「大浦外国人居留地」と変貌する号砲であった。

その後慶長14年 (1609)に平戸にオランダ船が到来。

当時長崎ではこの2か国を「南蛮」と称した。

しかし寛永16年 (1639)にポルトガル船の渡航は全面的に禁止され、出島在住のポルトガル人は全て帰国させられた。

その空き家になった出島にオランダ人が平戸から商館を移設、他の西洋人が少なかったため、長崎では西洋人はすべて”オランダ”人で代表されるようになる。

一方長崎の中国との交易は古く、唐時代 (840年代)から行われていたが、幕府は「出島」に習って元禄 2年 (1689)中国人の居留地「唐人屋敷」を設置する。

向井去来が郷里長崎で見聞きしたことを芭蕉に伝え、西国行脚に出た各務支考が眺めたのは、この時代の長崎の風景だったと思わる。


1855年、日米修好通商条約締結され、名勝雄浦 (大浦)一帯は大々的に埋め立てられ、外国人居留地に変貌する。

海岸縁は商館や領事館、銀行等だ並ぶビジネス街、小高い、見晴らしの良い丘の上には住宅街が造られた。

今我々が目にすることが出来ると当時の住宅街は、”東山手洋風住宅群”と”南山手洋風住宅群”と呼ばれている辺りで、 有名な”オランダ坂”は”東山手洋風住宅群”の丘を穿って造成したなだらかな坂道(切り通し)で、西洋人が通る坂”オランダ坂”と呼ぶれるようになった。

長崎駅前から石橋行の路面電車で市民病院前へ。

「梅ケ崎ロシア仮館跡」の案内板の有る大きな病院の壁の先を左折すると、オランダ坂の始まりで、長崎税関の前身”跡”前を通り、”オランダ坂”の石柱を過ぎると峠に当たる処に活水女子大の校門に向かう道(活水坂)がある。

”東山手洋風住宅群”のシンボル的建造物が活水女子大本館の“六角堂”。

活水女子大の創立は明治12年(1879)。

創立者はアメリカ人の女性宣教師、エリザベス・ラッセル。

出島のメソジスト教会の要請で明治12年(1879)来日、1週間後には外国人居留地に学校を開始したというから、女性の学校を作ることが教会の要請の趣旨だったのであろう。

新約聖書の「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水わき出る」すなわちイエス・キリストの”活ける水”を汲め・・がラッセルの学校創立のモットーで、学校名となった。

活水女子大学には、大チャペル内他7台(大学日本一)のパイプオルガンがあるらしい。

キャンパスの様子に関心のお有りの方は下記をご覧ください。

ヴォーリズを訪ねて
http://gipsymania.exblog.jp/11599015/

日本では1870年に横浜のフェリス女学院が、1871年に東京女子師範学校(現御茶ノ水女子大)が創業しており、活水女子大は日本最初の女子大ではないが古い老舗の女子大には違いない。

因みに朝ドラ「あさが来た」で広岡 浅子が創立に尽力した、日本女子大学校(現・ 日本女子大学)の創業は1901年(明治34年)。

峠を過ぎた下り坂で、左に建つ東山手洋風建物保存地区の崖の下を過ぎると、赤レンガのビルの合間に大浦天主堂を中心に、上部にはグラバー公園、左に妙行寺などの屋根が望める場所に出る。

さらに進むと左は現海星学園(当初のスチイル記念学校)、その先に”地球館”へ行く細い道とのV字型の分かれ道があり、その角にも”オランダ坂の石柱が建つ。

この辺りで雨が降り出し、ビルの軒下をお借りして、リックから合羽を取り出していたら、そのビルのご主人が、「これをお使いなさい。返してくれなくてもいいですよ」と傘を1本恵んでくださった。

”こぬか雨降るオランダ坂”を歩くことになったが、”マドロスさんに”遭うことはなかった。

傘寿旅行・「海の細道」周遊旅情10,芭蕉が夢見た長崎(目次)へ戻る
http://4travel.jp/travelogue/11129855


同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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