2015/05/23 - 2015/05/24
10位(同エリア24件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 168,473アクセス
- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
丘の上の町トレヴィから下界の鉄道駅までは、多く見積もっても40分、途中の聖母の涙教会を見ても1時間少々で行けると踏んでいたのですが、なんと駅まで約2時間かかってしまいました。
予定では13:24の列車に楽々間に合うはずだったのに、駅の手前100mのところで、あらら!! トレニタリアの列車がなんと「定刻通り」出発したところに遭遇したのでした。どうしてこういうときに定刻に来るんでしょう!
で、次の列車はなんと15:20発。2時間もあるではないですか! それではスポレートに正味2時間くらいしか滞在出来なくなってしまいます。わぁ どうしましょう!
駅にたむろしていたのは学校帰りの中学生くらいの子供たち10数人。子供たちがいるということは、何かがやってくるのではと考えた私は、暫く子供たちと一緒に駅前で待ってみることにしました。
すると、5分もたたないうちにやってきましたよ。救いの手が!
ウンブリア・モビリータのバスです。早速運転手さんに
「私、スポレートに行きたい。でも列車2時間来ない。私どうするあるか?」
てな感じで尋ねると、
「途中乗り換えなら、バスでスポレートに行けるよ。」
おお〜なんと頼もしいお言葉!!
「おお〜それ完璧 グラッツェ 私 あなたのバス乗りたい!」
てなわけで、またしても子供たちと一緒のバスに乗って、どこだかわからない村経由で、30分ほどでスポレートに行きつくことが出来たのでした。めでたしめでたし!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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途中の「どこだかわからない村」とはトレヴィとスポレートの中間にあるPissignanoピシニャーノという名前の、これまた素敵な佇まいの村でしたが、なにせ写真を撮る暇もないほど、運転手さんたちの連係プレーで、あっという間にスポレート到着です。
これは車内から撮った途中の村の一つ。ウンブリアの田舎は、どこもフォトジェニックで、歩いてみたくなる村や町ばかりでした。 -
大変親切だったウンブリア・モビリータのバスを下りたところは、スポレート旧市街の入口ガリバルディの記念碑が立つガリバルディ広場でした。
スポレートの歴史は紀元前のウンブロ族の集落から始まり、その後ローマ帝国の植民地(フラミニア街道の宿場町)となり、570年から1198年までは中部イタリア一帯を支配したスポレート公国の首都となりました。1200年代からは教皇領となりましたが、教皇派と皇帝派の争いに翻弄され続けたようです。1860年には、イタリア統一運動の兵士たちの前線基地となりました。 -
この広場の一角にあるのがサン・グレゴリオ・マッジョーレ教会。
スポレートの聖グレゴリオとは、ローマ帝国のディオクレティアヌス帝の時代の神父で、むごたらしい殺され方をした(殉教された)方だそうです。教会は、元々キリスト教徒の墓場(ネクロポリス)だった場所で、彼の聖遺物を収めるために840年に建てられた礼拝堂がその起源とされています。現在の教会は1079年に建築を開始し、1146年に献堂されました。ファサードは時代とともにその姿を変えましたが、1907年に元の外観に戻されたそうです。
狭いスポレートの町には、聖グレゴリオに捧げられた教会が3つもあります。このことからだけでも、スポレートの町の人々が彼に深い敬愛の念を抱いていることを感じます。 -
ファサードの右手に建つ鐘楼のブロックの部分は、12世紀の建造で、初期の教会に使われていたブロックを再利用したもの。上の部分は1492年に完成しました。
ファサードは3つのアーチのある低層部分のポルティコと3つのニッチェが並ぶ高層部分に分かれています。ルネッサンス様式のポルティコは1515年に付け加えられたそうです。高層部分中央のニッチェにはフレスコ画が描かれているのですが、ほとんど消えかかっていてはっきり見ることが出来ませんでした。 -
ポルティコの入口入ってすぐ左側にある「穢れなき者達の礼拝堂」のフレスコが目を惹きました。この場所は20世紀まで洗礼堂として使われてきたのだそうです。
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正面の大きな絵は、ヘロデ王のベツレヘムにおける幼児虐殺事件を描いた、「穢れなき者達の虐殺」でした。幼児虐殺は新約聖書にあらわれるエピソードで、新しい王がベツレヘムで生まれたと聞いて恐れおののいたユダヤの支配者ヘロデ王が、2歳以下の男児を全て殺害させたとされる出来事を元にしています。14世紀の作品です。
この礼拝堂が建てられたのは、1254年に教会のすぐそばにあった井戸の中で数人の赤ん坊の死体が見つかった事件がきっかけとなったのだそうです。 -
「幼児虐殺」の上方には、聖グレゴリオのために840年に教会を建立した聖アッボンダンツァの生涯からの場面が描かれていました。聖アッボンダンツァについては詳しいことは調べていませんが、9世紀の未亡人で、1597年に書かれた彼女に関する伝記を元にしていることから、フレスコも同じ時期に描かれたのではないかと推測されています。
幼児虐殺の上の作品は、聖母子と聖アッボンダンツァ。 -
天井のヴォールトには、お馴染みの4人の福音記者達の姿がありました。作者については不明の部分も多いのですが、メヴァーレのファッビオ・アルゲルッチの作だと言われています。
ライオンがシンボルのマルコの下には「貧しい者に施しを与える聖アッボンダンツァ」。 -
教会の内部です。三廊式で、興味深いのは身廊の途中から主祭壇に続く位置に12段の階段があること。主祭壇と後陣部分がかなり高くなっています。反対に、側廊には途中から下りる階段があり、クリプトへと続いています。
レンガがむき出しの柱や壁には、ところどころにフレスコが残っていました。1947年から50年にかけて行われた修復で、以前施したスタッコ装飾を剥し、フレスコが見える状態に戻したのだそうです。 -
いつものように右側廊から見ていきます。この壁はフレスコの断片によって構成されていました。中央の「玉座の聖母子」は1388年頃の作品で、1951年に後陣から剥され、こちらに移ってきたものだそうです。フレスコの下部に碑文が書かれていて、作成年が入っています。おそらく1388年に聖グレゴリオのものと考えられる聖遺物が教会内で発見されたことを祝って描かれたものではないかと言われています。
聖母子の下で寝そべっている女性が気になったので調べてみたら、イヴだそうですよ。前にもどこかで見かけた「第二のイヴ」としての聖母を印象付けるためのもののようですが、顔の造作ははっきりしません。初めからのっぺらぼうだったのかしら? -
こちらのフレスコには、中央に聖母子、左に白馬に乗った聖人(ローマ教皇聖ポンティアヌスだという説あり)、右にろうそくを携えたシラクサのルチアが描かれていました。14世紀の作品。
左下の碑文はファサードにある碑文のコピーで、1146年に教会が献堂されたことが記されています。 -
主祭壇に上る階段そばにあった柱は5世紀のものとされていますが、そこに描かれたフレスコは14世紀のもの。マドンナ・デル・ラッテ。「授乳の聖母」と呼ばれています。
珍しく真っ黒な衣装の聖母でした。 -
いつの間にか左側廊を写しています。写真の左に見える二人は聖グレゴリオと福者マッティア。このフレスコは、1951年にこの上に描かれていた「ロレートの聖母」を剥がした際に見つかったそうです。
中央上には、二人の天使と日付が含まれている長い碑文が書かれたフレスコの断片です。フィレンツェのウフィツィにあるドゥッチオ・ディ・ブオニンセーニャの「Rucellai Madonna」に影響を受けた作品と言われています。こちらは大変古くて1296年の作品。
その下にある聖人は、やはり1951年に上のフレスコを剥がした際に見つかったフレスコですが、誰かはっきりしていません。医者の聖人コズモとダミアーノの片割れではないかという説もあるそうです。 -
聖域にやって参りました。コズマーティの床が美しい! 12世紀のオリジナルの床だそうですよ。
むき出しのレンガの後陣が私好みです。中央にはこの地方でよく見られる十字架が吊り下げられていました。最近のもののようです。向かって右側奥の柱には、アレキサンドリアのカタリナが描かれたフレスコが残っていました。 -
後陣のフレスコのアップです。こちらも教会が建てられてすぐに描かれた12世紀のもので、かなり傷んでいます。前述の「玉座の聖母子」がここを剥がした後に発見された作品です。
窓と窓の間にある上方の「三人の聖人達」はもうほとんど消えかかっていますが、聖バラッターレ、聖ゴレゴリオ、右側は名前のわからない聖人と言われています。その下のトンドの中に並んでいる聖人達は比較的良い状態ですが、描かれた司教や聖人達の正体はわかっていません。 -
聖域の右側部分と
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左側部分です。
上の方が切れてしまいましたが、上半分には1528年作の「ロレートの聖母と聖人達」が描かれています。左側には聖セバスティアーノがいるのですが、足だけしか見えませんね。
下半分には左にスポレートの福者マッティアと右に聖グレゴリオが描かれていました。中央部分には二人の人物が描かれていましたが、15世紀に作られた石造りの幕屋(教会を中心に天使たちが向かいあっている)を制作した際に壊されてしまっています。 -
ステンドグラスは最近のものらしいですが、とても綺麗でした。
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主祭壇付近からカウンターファサードを臨みます。かなりの高低差があることがわかりますね。
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主祭壇に向かって左側の階段を下りてクリプトに向かいます。
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柱が林立するクリプトは五廊式。主祭壇を中心に半月形の後陣が三つ並んでいるスタイルでした。
この中には、840年に建てられた当時の教会の柱も残っているようです。 -
右側にろうそくが2本立っているのが主祭壇。祭壇は碑文の刻まれた古い石で出来ていました。左側の礼拝堂にどなたかの石棺も見えますね。近づいて見てみましょう。
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こちらがその石棺です。最初の教会を建てた聖アッボンダンツァの墓です。碑文には、1854年にこの石棺が上の教会後陣にあった彼女自身に捧げられた礼拝堂から移されたと書かれていました。
元々の棺の蓋は失われています。1854年まで使われていた蓋はローマ帝国時代に亡くなった兵士のもので、今は考古学博物館に所蔵されているそうです。
ローマ皇帝マクシミアヌスとディオクレティアヌス治世下に、スポレートでは1万人以上の人々が殉教しています。聖アッボンダンツァはそれらの人々の骨を拾い集めてここに収め、供養するための祈祷所を開設したのだそうです。 -
クリプトの主祭壇です。祭壇画はやはりフレスコの断片を加工したものでした。
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クリプトを出て再び地上の教会に戻ってまいりました。
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左側廊を歩いていると、また「マドンア・デル・ラッテ」発見!
こちらの授乳する聖母のフレスコは1400年前後の作。18世紀に壊されたサイド・チャペルのうちの一つに描かれていたものではないかといわれています。サンタ・エリザベッタの職人さんの作だそうです。 -
カウンターファサードには、「この教会を殉教者聖グレゴリオに捧げる」という碑文が残っていました。その中に、1079年に建設が始まったことが記されています。
かなりダメージのあるその上のフレスコは、キリストの磔の場面。聖母と福音記者聖ヨハネが左右に描かれています。
聖母の左側にいる女性はどなただかわかりませんが、キリストの方を手で指し示している姿が、まるで報道リポーターのようだと感じました。 -
こちらのフレスコも興味深いです。
上は、多分キリストを棺に納めているシーン、
そしてその下は、空っぽの棺をみて、驚いているシーン、
だと思われます。手が雄弁に物語っています。 -
教会の最後の1枚も14〜15世紀にかけて描かれたフレスコの断片です。
左からロレートの聖母、聖レオナルド(レオナルドという名前の聖人は沢山いて、特定できませんでした)、ツールの聖マルティーノ、聖バルトロマイだそうです。バルトロマイは皮剥ぎの刑で殉教したと言われる方で、そばにいる女性は彼の剥された皮を持って立っています!
煌びやかなスタッコの壁を崩して、これらのフレスコを生き返らせた教会の姿勢にはとても共感することができました。
ふらっと寄っただけのサン・グレゴリオ・マッジョーレ教会でしたが、実り多い時間となりました。 -
ガリバルディ広場を後にします。写真のポルタ・ガリバルディから旧市街の中心へと続くガリバルディ通りを進みます。
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町はシエスタの時間??? ひっそりと静まり返っています。
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こんなところで、ファティマの手発見!
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おいおい、本当に誰もいないの?
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次第に道は緩やかに坂を上っていきます。他の町とは異なるスポレートの町の歩道の装飾にも注目!
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こちらは下りて行く階段。思わず下りて行きたくなるような衝動に駆られます。でも私は上らねば!!
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そして見えてきたのはポルタ・フーガ(gateway)。最後から二番目にできた城門で、紀元前217年、カルタゴの名将ハンニバルのエトルリアへ浸入した際、塔の上から熱い油を振り撒いで撤退させたというエピソードからつけられた名前だそうですよ。フーガというのは撤退とか避難とかいう意味らしいです。
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門の上には、「ハンニバルは、スポレートの人々の奇襲攻撃の末、トラジメーノの戦いでローマ軍に敗れ、城門から撤退した」と書かれた碑文が残っています。ハンニバルの時代にはこの城門はなかったはずなんですけれどね。
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城門をくぐると、建物が一層古さを感じさせるものになりました。
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スポレートで最初の祠みっけ!
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続いてやってきたのは、急坂に建つこちらの教会 聖ドメニコ教会です。ドメニコ会が最初にスポレートにやってきたのは1235年のこと。1245年には、後に「殉教者聖ピエトロ」と呼ばれるようになったヴェローナ出身のピエトロが町で説教をした記録が残っています。教皇の承認を受け、教会が建設されたのは1251年のことだそうです。
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教会は赤と白の大理石で、縞模様に作られています。現在のファサードは、身廊を広げる工事を行った14世紀のもの。
右壁中央の扉の上のルーネット(半月形の部分)には、ちょっと可愛らしいキリストのフレスコが描かれていました。16世紀の作品だそうですが、かなり損傷激しいように思いました。 -
中に入ってみて吃驚! この教会も1934年から37年にかけてバロック時代のスタッコを剥し、オリジナルの壁に戻したようです。壁は所々に、時には点々と続くフレスコの断片の連続です。
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こちらは主祭壇に向かって左側の壁です。フレスコは14世紀から15世紀にかけて描かれたものだそうです。
手前の壁と装飾がフルに施されている中央に見える礼拝堂との対比が面白いですね。 -
では急ぎ足で回ってみることにしましょう。
右側最初の祭壇は、一風変わったフレスコです。15世紀初頭に描かれたとされる「トマスアキナスの戴冠」です。
画面下には学者や聖職者らが集まって、議論をしている場面が描かれています。 -
私ったらこの教会ではフレスコ以外は目に入らなかったようですよ。
殉教者聖ピエトロの礼拝堂のすぐ左隣にあった、とても不思議なこちらのフレスコ、一体何をしているところなのかな?と思って調べてみたら、キリストが飛んできて、シエナの聖カタリナに聖体を授ける場面なのだそうです。カタリナの手にはスティグマ(聖痕)がくっきりと描かれていますね。
彼女の頭上には二人の天使(右側は消えています)がまさに彼女に王冠を授けようとしています。作者はバルトロメオ・ダ・ミランダと推測されています。1461年頃の作品。 -
身廊から見えた美しいステンドグラスは聖母に花や祈りを捧げる聖人達の構図です。大改修が行われた後の1955年の作と書かれていました。
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こちらのピエタ オリジナルは15世紀の作品ですが、見てお判りの通り何度も修復され、色を重ねた形跡があります。最近の画家により修復されたとみえ、立体感が半端じゃありません! 絵の技術は格段に進歩していますね。
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こちらの聖母子もとても美しいけれど、左端にちらっと見える機械が無粋だなあ・・・
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ベネディッティ家の礼拝堂。珍しくフレスコではありません。この礼拝堂で特筆すべきは、祭壇上に置かれた金メッキの聖遺物箱です。金メッキの中にはさらに銀製の聖遺物箱があるのが分かりますでしょうか。両方ともローマの金細工師ルドヴィコ・バルキの1726年の作品だそうです。
聖遺物箱の中にはサクロ・キオドと呼ばれる「キリストの磔に使われ、4世紀にコンスタンティヌス1世の母聖ヘレナによって回収された釘」が収められているそうですよ。なぜここにあるかというと、スポレートの福者グレゴリオという方が15世紀にこれを手に入れたからなのだそうですが、詳細は不明。
毎年グッドフライデイと5月3日に、聖遺物箱は一般公開されるとのことです。 -
そして、聖ドメニコ教会の圧巻はこちらのマグダラのマリアに捧げる礼拝堂でした。15世紀初頭に描かれたフレスコが所々状態は悪いものの、完成当時を十分思い描くことが出来る精密さで残っていました。
背面の壁いっぱいに描かれたキリストの磔場面。よろけそうになっている聖母を支えているのは聖ヨハネ? マグダラのマリアは十字架の根元で跪いています。 -
ヴォールト部分に描かれた大きなキリスト像はなかなか迫力がありますねえ。
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左右の壁を埋めているのは、マグダラのマリアの生涯からの場面の数々。左側の壁はエルサレムとマルセイユでの場面。
左上はマグダラのマリアの兄「ラザロの蘇生」。キリストが3、4日前に亡くなったラザロの墓の前に立ち、「ラザロ 出てきなさい」と呼びかけると、布に巻かれたラザロが墓から出てきたというシーンです。
中央上は、「我に触るな」。復活したキリストがマグダラのマリアの前に姿を現した時に言ったセリフのシーンですね。 -
マグダラのマリアはラザロ、妹のマルタとともにその後海を渡って、マルセイユの地で布教に励んだという伝承があります。
こちらの絵は、「マルセイユの王子の奇跡」。マグダラのマリアによりキリスト教に改宗したマルセイユの王子は妻を伴い、ローマまで巡礼に向かいますが、妻が途中で亡くなり、ローマの手前のとある島に彼女を葬ります。ローマで彼は聖ピエトロに会い、神のみを信ぜよと告げられます。そして巡礼の帰り、王子は自分が葬ったその同じ場所で元気に生きている妻を発見したという「奇跡」の物語が展開しています。そして二人は仲良くマルセイユで洗礼を受けた という結末です。めでたしめでたし。 -
右壁にも、窓の縁にまでびっしりとマグダラのマリアの物語が描かれていました。
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もう一度、奥の壁にある磔の場面を激写! この教会もほとんど調べてこなかったのですが、意外な収穫があり、ほくほく気分です。
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右翼廊の背面壁には、ご覧のサンシ家の礼拝堂がありました。1630年、ジョヴァンニ・ランフランコという署名のある祭壇画には、栄光の聖母子、聖アン、シエナの聖カタリナ、アレキサンドリアの聖カタリナ、聖ヘレナらが集っています。少々見えづらいですが、右側で大きな十字架を抱えているのがヘレナです。
ここでランフランコに出会うとは、思ってもみませんでした! -
上記の祭壇右横壁のフレスコです。少々状態悪すぎるなあ・・・
左端には、パドヴァの聖アントニオ像がぽつんと立っていました。 -
左側にあるニッチェの中には、15世紀に描かれた聖母子像が、状態良く残っていました。しかしながら、なんだかおっさんのような幼子キリストですなあ・・・
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簡素な主祭壇は暗くてよく見えず、吊り下げられている十字架もはっきりと分かりません。後陣のステンドグラスが思いっきり自己主張していました。これらのステンドグラスも1934年から7年にかけての修復の後に取り入れられたものです。
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ステンドグラスをアップで撮ってみました。
キリストを中心に、左側はキリストの養父聖ヨセフ、右側の赤い帽子をかぶった人は、司教であり、教会博士でもある聖ボナヴェントゥーラです。 -
外に出るとすぐに、だまし絵の窓があるこちらの建物が目につきました。聖ドメニコ教会が面しているコッリコーラ広場には、この町の名士コッリコーラ家の邸宅がでーんと鎮座していました。
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コッリコーラ家は、タッデオ・コッリコーラが1637年に教皇ウルバヌス8世専属の医師となり、ローマ大学医学部に彼の席が用意されて以来、急速にその勢力を増しました。1714年に、裕福な叔父から財産を相続したフランチェスコ・コッリコーラは、建築家セバスティアーノ・チプリアーニにこの宮殿を建てるよう依頼。建物は1730年に完成。見事な内装と調度品のあるこの宮殿には、のちにスペイン王となるカルロス3世、教皇ピウス6世、サルディニア王カルロ・エマニュエーレ4世等、そうそうたる人物が訪れています。
1939年にコッリコーラ家は途絶え、建物は現在、コムーネが管理する近代美術館となっています。 -
広場の反対側には噴水もありました。大した噴水ではないみたいですけれど。
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コッリコーラ広場から道は東に曲がり、まだもう少し坂を上っていきます。
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スポレートでの二つ目の祠みっけ!
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やっとこさ、町の中心リベルタ広場に到着です。道がまっすぐでなく、所々つながっていないので、歩いてこの広場に出るのには少々苦労しました。
この広場にやってきた理由は観光案内所があると聞いていたからです。残り少ない滞在時間をいかに有効に使えるか、きちんとした地図と説明を求めて案内所に入ったのですが、結果は大正解。係の人のお勧め通り歩いて、駅まで楽々徒歩で移動できました。今日は人に恵まれていますよ! -
広場の反対側に建つパラッツォ・アンカジャーニ 17世紀の建物です。この建物のすぐ左側にローマン劇場があったのですが、なんと1枚も写真を撮っていません!
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リベルタ広場の周りを少し歩いてみます。
素敵なレストランも見つけたのですが、食べる時間がない!
ちなみにブルスケッタから始まるコース料理が13ユーロから20ユーロと、お手軽な料金でしたよ。 -
アーチを見つけると、相変わらず吸い寄せられていきます。
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でもそのおかげで、こんな噴水を見つけましたよ。ピエトロ・フォンターナ広場のマッカベイの噴水です。1800年までピアンチアーニ広場にあったこの噴水は、典型的な市の立つ広場にある様式の噴水なのだそうです。
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道の向こう側に姿を現したのは、アルコ・ディ・ドゥルーソ。ローマ時代の紀元23年に建てられた2000年前のアーチです。
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アーチは古代ローマの中心部を南北に貫く基幹道路カルド・マキシムスからフォーラム(公共広場)に入る入口に当たります。
アーチの碑文には、「スポレートの元老院は、皇帝ティベリウスの息子ドゥルーソ(ドゥルスス)と養子ゲルマニコ(ゲルマ)に敬意を表してこのアーチを建てた」と書かれているそうです。
1955年から57年にかけて、元々のアーチとローマ時代の道路舗装の全貌がわかるよう道路を掘り下げましたが、アーチの右側部分は、依然として右側にある建物の中に埋もれたままとなっています。 -
アーチをくぐって、反対側から見ると、こんな感じです。建物にめり込んでいる・・・いや逆だ! アーチに建物がめり込んでいるんですね!
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アーチにめり込んでいるこちらの教会に入ってみましょう。聖アンサーノとパドヴァの聖アントニオ教会です。思った通り、この教会は9世紀にローマ時代の神殿跡に作られたそうです。現在の教会は1164年にベネディクト会の修道僧により建てられました。
最初の教会は今の教会と全く逆方向に建てられていたそうで、1955年から57年にかけての調査で、ファサード下から後陣跡が見つかっています。 -
ファサードの中央扉上に掲げられたレリーフはアントニオ・チムベッリによる20世紀の作品です。中央に聖母子、左に福者コッラツォーネのシモン、右はあまりにも童顔で少々イメージが狂いますが、パドヴァの聖アントニオだそうです。
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教会の右側には16世紀に作られた修道院のキオストロが見えました。現在使われているのかわかりませんでしたが、人影はありませんでした。
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身廊部分はローマ帝国時代の神殿の基礎部分をそのまま利用しているようです。左奥にクリプトに下る階段があったようですが、気が付きませんでした。クリプトの部分は、かつてのフォーラムの一部だったようです。
床は1971年に全面修復されましたが、工事の際にローマ神殿時代の舗装の断片やファサードの柱の基盤部分などが見つかりました。
2000年にドゥオモから福者コッラツォーネのシモンの聖遺物が、教皇ピウス9世が寄付された石棺に入れられ、こちらの教会に移されました。現在石棺は主祭壇に置かれています。祭壇画は聖アンサーノの殉教でした。 -
この教会で目についたのは、主祭壇に向かって右側最初の祭壇にあったこちらのフレスコです。色使いが鮮やかな雲の上の聖母子像は、なんとロ・スパーニャ作です!!
こちらのフレスコ、バロック時代にはスタッコの中に塗りこめられ、忘れ去られていましたが、1907年にジュゼッペ・ソルディーニにより再発見されました。
この一作に出会えただけで、短い時間でしたが、訪問出来てよかったと思う教会となりました。 -
もう少し町をぶらぶら・・・
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ようやく人が増えてきましたよ。こちらの方が賑やかな旧市街の中心かなと思われるピアッツァ・デル・メルカート商人広場です。どうやらここが、昔のフォーラムの中心だったみたいです。アルコ・ディ・ドゥルーソをくぐって、真っ直ぐに進んだ先にあります。
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パステルカラーの建物がなぜか新鮮です。私の大好きなズグラッフィート(2層の対照的な色からなる漆喰の装飾)を施した建物がありました。スペインでは散々楽しませてもらったけれど、イタリアではこれまであまり見かけませんでした。
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広場で目立つ建物といったらこちら。サン・ドナートという11世紀か12世紀に建てられた教会ですが、1573年に教会としての機能を終えています。
かつてのファサードに作られたモニュメントの数々が面白い! まずは一番上から行きましょう。
ファサードの頂、三角のペディメントの下の3つ並んだ紋章のあるモニュメントは、1623年に作られたバルベリーニ記念碑。1608年から17年にかけてスポレートの司教を務めていたマッフェオ・バルベリーニ(例のベルニーニの大切なパトロンの一人です)が1623年に教皇ウルバヌス8世に選ばれたことを記念して制作されたものです。
設計はローマでは頻繁にその名前を聞いたカルロ・マデルノ。3つ並んだ紋章は、左から「蜂」でお馴染みのウルバヌス8世、マッフェオの後任の司教となった司教フランチェスコ・バルベリーニ、アントニオ・バルベリーニ。
紋章の下にある長い碑文には、バルベリーニがスポレートと町の人々にとっていかに寛大かつ有能な采配を振るったかが長々と書かれています。 -
バルベリーニ記念碑の下には公共の時を告げる時計。そしてその下には、1746年から48年にかけて作られた噴水がありました。ローマの建築家コスタンテイ−ノ・フィアシェッティの設計によるもので、トラバーチン製。水をいかに印象的に見せるかという点で、ローマ人好みのスタイルを取り入れています。
左右にも小さな噴水がありますね。 -
ここからは、こちらのパラッツォ・ディ・ドゥーキ通りを行きます。そうそう、写真にも写っていますがウンブリアはトリュフの産地。小さな瓶に詰められた極上のトリュフがお手頃価格で楽しめます。
私はパスタ等にのっけて、随分とその香りを楽しませてもらいました。 -
なおも狭い道を進みます。またアーチが前方にありますね。ルンルン!
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角を曲がると、またまたアーチが迫ってきます。この辺りは画廊が沢山立ち並んでいました。
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横丁も雰囲気があって素敵でしょう。ウンブリアの町、何度も書いていますが清掃が行き届いていて、大変清潔。ごみは全く見かけません。
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ライオンさんの小さな噴水 というよりは水飲み場でしょうか?
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入口の壁面にフレスコがあるこちらの建物は司教館。
スポレートに最初の司教館が建てられたのは1178年頃だったと伝えられていますが、こちらの建物は真ん中に中庭を抱えた造りになっていて、15世紀から17世紀に順次拡張されました。途中何度も大きな地震を経験しています。
フレスコは1800年のピウス7世の訪問を記念して描かれたもので、中央の大きな紋章もピウス7世のものです。 -
時間の関係で中に入らなかったことを今となっては後悔しています。中には、
・ノルチア・スポレートの大司教教皇庁
・聖エウフェーミア教会
・教区博物館
があります。
中庭まで入っていって、美しいロマネスク様式の聖エウフェミアを一目見てくれば良かったなあ・・・ -
続いて通り沿いにあったのはエクス・モンテ・ディ・ピエタ(元質屋)?という風変わりな名前の建物。ここは元々町役場の一つでしたが、現在は展示会場として使われているそうです。
関係ないお話ですが、イタリアで言う「質屋」とは、中世の15、6世紀頃からある非営利団体で、なんでも修行僧らが始めたものらしいですよ。地方の銀行は、当初モンテ・ディ・ピエタ(公益質屋)として設立され、19世紀に再編されて銀行としての道を歩み始めたのだそうです。イタリアを歩いていると、時々モンテ・ディ・ピエタ礼拝堂なんてものを見ることがあるので、調べてみました。 -
スポレート自体は世界遺産にはなっていないけれど、イタリアのロンゴバルド族:権勢の足跡 (568-774年) という名前で2011年に登録されています。ウンブロ族ならぬロンゴバルド族については、まったく知識がありませんが、スポレート公国というのは、どうやらロンゴバルド族の国だったようです。
今調べてみたら、スポレートの「サン・サルヴァトーレ聖堂」がロンゴバルド族の「足跡」の中に含まれていることが分かりました。今頃わかってどうする!?
さあ、これからドゥオモなのですが、長くなってきましたので、この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その57 スポレート2で!
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