ペルージア旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。<br /><br />まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。<br /><br />イタリアには過去3度行ったことがあります。<br />最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。<br />2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。<br />3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。<br /><br />今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。<br /><br />イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。<br /><br />2015/5/6	水	成田→モスクワ→ローマ<br />2015/5/7	木	ローマ<br />2015/5/8	金	ローマ→ティヴォリ→ローマ<br />2015/5/9	土	ローマ<br />2015/5/10	日	ローマ<br />2015/5/11	月	ローマ<br />2015/5/12	火	ローマ<br />2015/5/13	水	ローマ→ナポリ<br />2015/5/14	木	ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ<br />2015/5/15	金	ナポリ<br />2015/5/16	土	ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ<br />2015/5/17	日	ナポリ→バーリ<br />2015/5/18	月	バーリ→マテーラ→バーリ<br />2015/5/19	火	バーリ→レッチェ→バーリ<br />2015/5/20	水	バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ<br />2015/5/21	木	バーリ→アンコーナ→フォリーニョ<br />2015/5/22	金	フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ<br />2015/5/23	土	フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ<br />2015/5/24	日	フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ<br />2015/5/25	月	フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト<br />2015/5/26	火	オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト<br />2015/5/27	水	オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト<br />2015/5/28	木	オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ<br />2015/5/29	金	ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ<br />2015/5/30	土	ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ<br />2015/5/31	日	ボローニャ<br />2015/6/1	月	ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/2	火	ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/3	水	ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/4	木	ヴィチェンツァ<br />2015/6/5	金	ヴィチェンツァ→ミラノ<br />2015/6/6	土	ミラノ<br />2015/6/7	日	ミラノ<br />2015/6/8	月	ミラノ→モスクワ→<br />2015/6/9	火	→成田<br /><br />時間が経つのを忘れてペルージャをさ迷い歩いておりましたが、ふと気がつけばもう5時。6時25分発の列車を逃すと、確か8時台まで次がありません。かといって、国立ウンブリア美術館を見ないで帰るという選択肢はありません。まあ、何とかなるでしょう。遅くなっても帰る列車さえあれば・・・すっかりペルージャ病にかかってしまったようです。<br /><br /><br /><br />

イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その60 ペルージャ3

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2015/05/24 - 2015/05/24

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2

160

junemay

junemayさん

2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。

まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。

イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。

今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。

イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。

2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田

時間が経つのを忘れてペルージャをさ迷い歩いておりましたが、ふと気がつけばもう5時。6時25分発の列車を逃すと、確か8時台まで次がありません。かといって、国立ウンブリア美術館を見ないで帰るという選択肢はありません。まあ、何とかなるでしょう。遅くなっても帰る列車さえあれば・・・すっかりペルージャ病にかかってしまったようです。



旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • イタリア広場の中央には、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世の騎馬像が!<br /><br />統一イタリアの王国が誕生した時、ペルージャの人達はどう反応したのでしょうね。

    イタリア広場の中央には、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世の騎馬像が!

    統一イタリアの王国が誕生した時、ペルージャの人達はどう反応したのでしょうね。

  • ロッコ・パオリーナは、ペルージャ県県庁舎のある建物の中にすっぽりと包まれているようでした。この建物は四方をポルティコがぐるりと囲んでいて、真ん中にはご覧のような中庭もあります。

    ロッコ・パオリーナは、ペルージャ県県庁舎のある建物の中にすっぽりと包まれているようでした。この建物は四方をポルティコがぐるりと囲んでいて、真ん中にはご覧のような中庭もあります。

  • 県庁舎の対面にある立派な宮殿はパラッツォ・チェサローニ。1540年の塩戦争で、取り壊されたモナルディ家の跡地に1897年に建てられました。現在ウンブリア地方評議会が使用しています。

    県庁舎の対面にある立派な宮殿はパラッツォ・チェサローニ。1540年の塩戦争で、取り壊されたモナルディ家の跡地に1897年に建てられました。現在ウンブリア地方評議会が使用しています。

  • 折角なので、通りを渡って、高台からの眺めをもう一度見ていきましょう。朝一番にピンチェット公園から見た景色とさほど変わりませんが、サン・ドメニコ教会のはるか後方に、先ほど訪れたばかりのサン・ピエトロ教会の鐘楼が見えました。<br /><br />自分の足で歩くと、町の地理が少しずつわかってきます。

    折角なので、通りを渡って、高台からの眺めをもう一度見ていきましょう。朝一番にピンチェット公園から見た景色とさほど変わりませんが、サン・ドメニコ教会のはるか後方に、先ほど訪れたばかりのサン・ピエトロ教会の鐘楼が見えました。

    自分の足で歩くと、町の地理が少しずつわかってきます。

  • その向こうには、緩やかな丘陵沿いにいくつもの町が広がっていました。

    その向こうには、緩やかな丘陵沿いにいくつもの町が広がっていました。

  • イタリア広場から移動する途中、ジェラテリア・ヴェネタに捕まりました。時間がないと言っているくせに、いい気なもんです。

    イタリア広場から移動する途中、ジェラテリア・ヴェネタに捕まりました。時間がないと言っているくせに、いい気なもんです。

  • プリオーリ宮までは、ピエトロ・ファンヌッチ通りをまっすぐに歩けば5分程度で到着します。

    プリオーリ宮までは、ピエトロ・ファンヌッチ通りをまっすぐに歩けば5分程度で到着します。

  • また雨が降りだしましたよ。1日中降り続く雨ではありませんが、しょっちゅうにわか雨。

    また雨が降りだしましたよ。1日中降り続く雨ではありませんが、しょっちゅうにわか雨。

  • 向かう道沿いにあったのは、1585年にグラツィアーニ家が購入したパラッツォ・グラツィアーニ。写真で見えている扉がファサードの左右に対になっているのが特徴。全体像を撮らなければ、宮殿かどうかわかりませんね。フレスコや絵画で飾られた部屋サラ・ブルニョーリがあることで有名です。

    向かう道沿いにあったのは、1585年にグラツィアーニ家が購入したパラッツォ・グラツィアーニ。写真で見えている扉がファサードの左右に対になっているのが特徴。全体像を撮らなければ、宮殿かどうかわかりませんね。フレスコや絵画で飾られた部屋サラ・ブルニョーリがあることで有名です。

  • そして、ペルージャで2番目に重要なコッレジオ・デ・カンビオ 両替商達のギルドの館です。ちなみに、最も古く、重要なギルドは商人達のギルドで、その館も近くにあったらしいけれど、見逃したようです。両替商達は裕福だったようで、ポポロ・グラッソ(脂肪の人)と呼ばれていて、商人達のポポロ・ミヌート(一般庶民)とは区別されていたそうですよ。<br /><br />内部のサラ・デルディエンサ 聴衆の間にはペルジーノが描いた貴重なフレスコがあるそうですが、残念ながら閉まっていました。

    そして、ペルージャで2番目に重要なコッレジオ・デ・カンビオ 両替商達のギルドの館です。ちなみに、最も古く、重要なギルドは商人達のギルドで、その館も近くにあったらしいけれど、見逃したようです。両替商達は裕福だったようで、ポポロ・グラッソ(脂肪の人)と呼ばれていて、商人達のポポロ・ミヌート(一般庶民)とは区別されていたそうですよ。

    内部のサラ・デルディエンサ 聴衆の間にはペルジーノが描いた貴重なフレスコがあるそうですが、残念ながら閉まっていました。

  • ファサードには両替商達の紋章がありましたよ。グリフィンが乗っている箱の中にはお金がぎっしりと詰まっていたんでしょうねえ。

    ファサードには両替商達の紋章がありましたよ。グリフィンが乗っている箱の中にはお金がぎっしりと詰まっていたんでしょうねえ。

  • さて、ここからは、国立ウンブリア美術館に入ります。ただただ、ひたすらに宗教画を見続けたので、興味のある方だけお付き合いくださいね。<br /><br />まずは14世紀に遡るフレスコです。サラ・マッジョーレと呼ばれる大きな部屋の壁にかかっていたフレスコで、描かれているのは「マリアの結婚」。廃止となったサン・フランチェスコ・アル・プラート教会の崩れたクリプトから1888年に発見されたものです。1340年から50年にかけての作だそうです。

    さて、ここからは、国立ウンブリア美術館に入ります。ただただ、ひたすらに宗教画を見続けたので、興味のある方だけお付き合いくださいね。

    まずは14世紀に遡るフレスコです。サラ・マッジョーレと呼ばれる大きな部屋の壁にかかっていたフレスコで、描かれているのは「マリアの結婚」。廃止となったサン・フランチェスコ・アル・プラート教会の崩れたクリプトから1888年に発見されたものです。1340年から50年にかけての作だそうです。

  • ドゥオモ前にあった噴水フォンタナ・マッジョーレに続き、あの、アルノルフォ・ディ・カンビオが制作した噴水フォンタナ・ミノーレは現存していませんが、その装飾の一部が展示されていました。1278年から1281年頃の作。カンビオの初期の作品の一つで、ローマで作られ、ここまで運ばれたようです。ミノーレ噴水は1308年には壊されていて、全体像は不明ですが、1872年から1968年までかけて、その断片が集められたのだそうです。<br /><br />あまりにリアルなポーズに見入ってしまいました。左から2番目が特にお気に入り。喉が渇いた女性だそうです。一番右は法学者。

    ドゥオモ前にあった噴水フォンタナ・マッジョーレに続き、あの、アルノルフォ・ディ・カンビオが制作した噴水フォンタナ・ミノーレは現存していませんが、その装飾の一部が展示されていました。1278年から1281年頃の作。カンビオの初期の作品の一つで、ローマで作られ、ここまで運ばれたようです。ミノーレ噴水は1308年には壊されていて、全体像は不明ですが、1872年から1968年までかけて、その断片が集められたのだそうです。

    あまりにリアルなポーズに見入ってしまいました。左から2番目が特にお気に入り。喉が渇いた女性だそうです。一番右は法学者。

  • サン・フエリーチェ・ディ・ジャーノ教会のテンペラ画で、1250年頃のもの。「栄光のキリスト」の下には、永遠の父なる神の周りを4人の福音記者たちがとり巻いています。<br /><br />キリストを囲む楕円形はマンドルラ(イタリア語でアーモンド)と呼ばれていて、聖なるものの象徴を描くときに使われます。

    サン・フエリーチェ・ディ・ジャーノ教会のテンペラ画で、1250年頃のもの。「栄光のキリスト」の下には、永遠の父なる神の周りを4人の福音記者たちがとり巻いています。

    キリストを囲む楕円形はマンドルラ(イタリア語でアーモンド)と呼ばれていて、聖なるものの象徴を描くときに使われます。

  • テンプル騎士団の教会サン・ベヴィニャーテの多翼祭壇画です。中央には聖母子、左側にはキリストの生涯、右側にはキリストの受難が描かれています。1275年頃の作品。<br /><br />1307年にテンプル騎士団は異端とされ、彼らの持ち物はすべて押収されたようで、この多翼祭壇画は後にフランシスコ会の修道院サンタニェーゼで見つかりました。古さを感じさせず、すこぶる状態が良いのに驚きました。

    テンプル騎士団の教会サン・ベヴィニャーテの多翼祭壇画です。中央には聖母子、左側にはキリストの生涯、右側にはキリストの受難が描かれています。1275年頃の作品。

    1307年にテンプル騎士団は異端とされ、彼らの持ち物はすべて押収されたようで、この多翼祭壇画は後にフランシスコ会の修道院サンタニェーゼで見つかりました。古さを感じさせず、すこぶる状態が良いのに驚きました。

  • 1272年頃に作られた「行列(パレード)用の十字架」です。キリストの両脇には聖母と福音記者聖ヨハネの姿があります。この十字架は両面彩色されているため、どちらの面も見れるよう、工夫された展示となっています。ほとんど同じ絵にみえますが、細かい部分には違いがあるみたいです。<br /><br />キリストの右足にすがりついて、キスをしているのは聖フランチェスコです。

    1272年頃に作られた「行列(パレード)用の十字架」です。キリストの両脇には聖母と福音記者聖ヨハネの姿があります。この十字架は両面彩色されているため、どちらの面も見れるよう、工夫された展示となっています。ほとんど同じ絵にみえますが、細かい部分には違いがあるみたいです。

    キリストの右足にすがりついて、キスをしているのは聖フランチェスコです。

  • ペルージャ郊外にあるフランシスコ会のファルネート修道院からこちらに持ち込まれた、1290年頃の「ファルネートのドッサル」と呼ばれる作品です。ドッサル(掛け布)は通常織物で、祭壇の後ろや内陣の端にかけられる布を指しますが、パネルの場合にも同じ言葉が使われるようです。こちらのドッサルはちょっと変わった形をしています。<br /><br />聖母が半身のみしか描かれていないのも珍しいですね。聖母子の両側には、キリストの受難の場面が描かれています。

    ペルージャ郊外にあるフランシスコ会のファルネート修道院からこちらに持ち込まれた、1290年頃の「ファルネートのドッサル」と呼ばれる作品です。ドッサル(掛け布)は通常織物で、祭壇の後ろや内陣の端にかけられる布を指しますが、パネルの場合にも同じ言葉が使われるようです。こちらのドッサルはちょっと変わった形をしています。

    聖母が半身のみしか描かれていないのも珍しいですね。聖母子の両側には、キリストの受難の場面が描かれています。

  • 1878年までサンタ・ジュリアーナ修道院のルーネットにあった2枚のフレスコです。左側は「聖誕」。そして右側は「羊飼いの礼拝」です。1380年ごろの作品とされています。ペルージャの画家が描いたという以外に記録はありません。

    1878年までサンタ・ジュリアーナ修道院のルーネットにあった2枚のフレスコです。左側は「聖誕」。そして右側は「羊飼いの礼拝」です。1380年ごろの作品とされています。ペルージャの画家が描いたという以外に記録はありません。

  • 包帯のような布でぐるぐる巻きにされた幼子は、どうみても中世のヨーロッパ生まれです。

    包帯のような布でぐるぐる巻きにされた幼子は、どうみても中世のヨーロッパ生まれです。

  • 笛の音に合わせて踊っているような犬が面白い・・・

    笛の音に合わせて踊っているような犬が面白い・・・

  • 水を運ぶ3人のニンフ」。一瞬トリプル・デーティかと思いましたが、アンフォラを運ぶご婦人方でした。このブロンズ像は、フォンタナ・マッジョーレの最上壇に立っている像のオリジナルです。1998年にここに運ばれ、噴水にはコピーが置かれました。<br /><br />近くで見るとかなり大きいです。1278年、ニコラとジョヴァンニ・ピサーノ親子の作。

    水を運ぶ3人のニンフ」。一瞬トリプル・デーティかと思いましたが、アンフォラを運ぶご婦人方でした。このブロンズ像は、フォンタナ・マッジョーレの最上壇に立っている像のオリジナルです。1998年にここに運ばれ、噴水にはコピーが置かれました。

    近くで見るとかなり大きいです。1278年、ニコラとジョヴァンニ・ピサーノ親子の作。

  • 何の動物かな? 馬かな?

    何の動物かな? 馬かな?

  • サン・フランチェスコ工房による6枚のパネルです。ここには5枚しか写っていませんね。これらは現存する最も古い両面祭壇画であることが1961年に確認されたそうです。オリジナルは10組20枚あったそうですが、現在あるのはこの6枚とアメリカやイギリスの方々の美術館に散らばった3枚のみ? 未確認です。<br /><br />中央の「キリスト降下」と右隣の「悲嘆」は、教会で修道僧達がいる聖歌隊席側を向いていた10枚の祭壇画のうちの貴重な2枚です。1272年頃の作品。重要な作品だけに、厳重に管理されていて、写真が撮りづらい!<br /><br />

    サン・フランチェスコ工房による6枚のパネルです。ここには5枚しか写っていませんね。これらは現存する最も古い両面祭壇画であることが1961年に確認されたそうです。オリジナルは10組20枚あったそうですが、現在あるのはこの6枚とアメリカやイギリスの方々の美術館に散らばった3枚のみ? 未確認です。

    中央の「キリスト降下」と右隣の「悲嘆」は、教会で修道僧達がいる聖歌隊席側を向いていた10枚の祭壇画のうちの貴重な2枚です。1272年頃の作品。重要な作品だけに、厳重に管理されていて、写真が撮りづらい!

  • サン・フランチェスコ工房で作られた十字架のうち、唯一制作年が書かれたこちらの大きな十字架は1272年製。「苦悩するキリストと聖フランチェスコ」というタイトルでした。<br /><br />元々はサン・フランチェスコ・アル・プラート教会の主祭壇を飾っていったものと思われます。両腕の先には、悲嘆にくれる聖母と福音記者聖ヨハネ、そして聖フランチェスコはここでも、十字架の下に跪き、キリストの足の傷を丹念に調べているかのように見えます。

    サン・フランチェスコ工房で作られた十字架のうち、唯一制作年が書かれたこちらの大きな十字架は1272年製。「苦悩するキリストと聖フランチェスコ」というタイトルでした。

    元々はサン・フランチェスコ・アル・プラート教会の主祭壇を飾っていったものと思われます。両腕の先には、悲嘆にくれる聖母と福音記者聖ヨハネ、そして聖フランチェスコはここでも、十字架の下に跪き、キリストの足の傷を丹念に調べているかのように見えます。

  • プリオーリ宮の入口扉上のルーネットに立っていたペルージャの守護聖人3人。<br /><br />http://4travel.jp/travelogue/11122498<br /><br />オリジナルはここに展示されていました。やはり、ルーネットにあった方がしっくりする姿ですね。ここではただ立っているだけです。<br /><br /><br />左から聖エルコラーノ、聖ロレンツォ、聖コンスタンテゥヌスです。彼らは3人揃って1316年から町の守護聖人となりました。

    プリオーリ宮の入口扉上のルーネットに立っていたペルージャの守護聖人3人。

    http://4travel.jp/travelogue/11122498

    オリジナルはここに展示されていました。やはり、ルーネットにあった方がしっくりする姿ですね。ここではただ立っているだけです。


    左から聖エルコラーノ、聖ロレンツォ、聖コンスタンテゥヌスです。彼らは3人揃って1316年から町の守護聖人となりました。

  • 窓ガラスが良い具合に? 写ってしまっている聖母子です。14世紀初頭の作品。聖ドメニコ教会の修道院の聖具室に通じる扉近くに飾られていましたが、1863年にドゥッチォの作品だと言うことが分かって、がぜん脚光を浴びました。<br /><br />元々は多翼祭壇画の中央部分だったといわれています。

    窓ガラスが良い具合に? 写ってしまっている聖母子です。14世紀初頭の作品。聖ドメニコ教会の修道院の聖具室に通じる扉近くに飾られていましたが、1863年にドゥッチォの作品だと言うことが分かって、がぜん脚光を浴びました。

    元々は多翼祭壇画の中央部分だったといわれています。

  • 「モンテラバーテの多翼祭壇画」1315年ごろ。<br /><br />ペルージャ郊外モンテラバーテにあるサンタ・マリア・ディ・ヴァルディポンテ修道院の主祭壇を飾っていた多翼祭壇画で、メオ・ディ・グイド・ダ・シエナという画家の署名が残されています。1810年ごろバラバラにされ、中央のパネルとプレデッラのみ教会に残されていましたが、1968年にウンブリア美術館が最後の1枚を買い上げ、殆ど元の姿を取り戻すことが出来ました。<br /><br />左から、聖グレゴリウス1世 上に聖マルタとアレキサンドリアの聖カタリナ<br />二番目は、聖ピエトロ 上に司教聖アントニオと聖ベネディクト<br /><br />中央は聖母子、切妻部分にキリスト、その下に2人の預言者<br /><br />四番目は、福音記者聖ヨハネ 上のパネルは行方不明<br />右側は、聖エミリオン 上に聖アニェーゼとマグダラのマリア<br /><br />プレデッラには12人の使徒が並んでいます。<br /><br />

    「モンテラバーテの多翼祭壇画」1315年ごろ。

    ペルージャ郊外モンテラバーテにあるサンタ・マリア・ディ・ヴァルディポンテ修道院の主祭壇を飾っていた多翼祭壇画で、メオ・ディ・グイド・ダ・シエナという画家の署名が残されています。1810年ごろバラバラにされ、中央のパネルとプレデッラのみ教会に残されていましたが、1968年にウンブリア美術館が最後の1枚を買い上げ、殆ど元の姿を取り戻すことが出来ました。

    左から、聖グレゴリウス1世 上に聖マルタとアレキサンドリアの聖カタリナ
    二番目は、聖ピエトロ 上に司教聖アントニオと聖ベネディクト

    中央は聖母子、切妻部分にキリスト、その下に2人の預言者

    四番目は、福音記者聖ヨハネ 上のパネルは行方不明
    右側は、聖エミリオン 上に聖アニェーゼとマグダラのマリア

    プレデッラには12人の使徒が並んでいます。

  • 上の多翼祭壇画と同じメオ・ディ・グイド・ダ・シエナ作の聖母子です。1325年から1330年頃の作品。こちらの聖母の方が格段に美しい! 母に手を伸ばす幼子のしぐさも愛らしいです。<br /><br />上記と同じサンタ・マリア・ディ・ヴァルディポンテ修道院にあったものですが、多翼祭壇画ではなく、単独の作品です。オリジナルのフレームのままで見つかっています。

    上の多翼祭壇画と同じメオ・ディ・グイド・ダ・シエナ作の聖母子です。1325年から1330年頃の作品。こちらの聖母の方が格段に美しい! 母に手を伸ばす幼子のしぐさも愛らしいです。

    上記と同じサンタ・マリア・ディ・ヴァルディポンテ修道院にあったものですが、多翼祭壇画ではなく、単独の作品です。オリジナルのフレームのままで見つかっています。

  • そしてこちらは、メオ・ディ・グイド・ダ・シエナの初期の作品で、1310年頃と言われています。共通する作風は感じられるものの、段々と円熟味を増していったなと思うのは私の独りよがりでしょうか?<br /><br />こちらは、サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会の多翼祭壇画の一部です。

    そしてこちらは、メオ・ディ・グイド・ダ・シエナの初期の作品で、1310年頃と言われています。共通する作風は感じられるものの、段々と円熟味を増していったなと思うのは私の独りよがりでしょうか?

    こちらは、サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会の多翼祭壇画の一部です。

  • 「天使と聖人と聖母子」14世紀初頭。<br /><br />この祭壇画はペルージャ近郊の小さな村チヴィテッラ・ベナッツォーネにある聖パオロ修道院から1863年に運ばれてきたものです。<br /><br />聖母の左下には聖パオロがいます。彼が持っている剣に、画家の署名が残されていました。マリーノ・ディ・オデリシオ。当時の「画家のギルド」で頭だった人です。

    「天使と聖人と聖母子」14世紀初頭。

    この祭壇画はペルージャ近郊の小さな村チヴィテッラ・ベナッツォーネにある聖パオロ修道院から1863年に運ばれてきたものです。

    聖母の左下には聖パオロがいます。彼が持っている剣に、画家の署名が残されていました。マリーノ・ディ・オデリシオ。当時の「画家のギルド」で頭だった人です。

  • 「サンタゴスティーノの聖母」14世紀初頭。<br /><br />16世紀からサンタゴスティーノ教会の右翼廊と聖歌隊席の間の柱にあるニッチェにあったこちらの木彫りの多色像は、熱心な信仰の対象となっていたようです。<br /><br />幼子キリストが左手で何か掴んでいますが、その正体が分かりません。14世紀初めの作品としては非常に状態が良く、専門家はアンブロージョ・マイターニの作ではないかと推測しています。でもねえ。マイターニの本業は建築家ですからねえ・・・

    「サンタゴスティーノの聖母」14世紀初頭。

    16世紀からサンタゴスティーノ教会の右翼廊と聖歌隊席の間の柱にあるニッチェにあったこちらの木彫りの多色像は、熱心な信仰の対象となっていたようです。

    幼子キリストが左手で何か掴んでいますが、その正体が分かりません。14世紀初めの作品としては非常に状態が良く、専門家はアンブロージョ・マイターニの作ではないかと推測しています。でもねえ。マイターニの本業は建築家ですからねえ・・・

  • 14世紀初頭の聖母子像です。<br /><br />聖母に比して、幼子が小さく描かれすぎのきらいはありますが、いかにも赤ん坊がしそうなそのしぐさは大変親しみが持てるものですね。ペルージャのマドンナ工房という署名が見つかっています。

    14世紀初頭の聖母子像です。

    聖母に比して、幼子が小さく描かれすぎのきらいはありますが、いかにも赤ん坊がしそうなそのしぐさは大変親しみが持てるものですね。ペルージャのマドンナ工房という署名が見つかっています。

  • 珍しい羊皮紙に描かれた「聖母子と磔刑」です。1340年頃の作品。最近になって、アッシジ出身のプッチョ・カパンナの作とされました。<br /><br />左側には天使たちに囲まれた聖母子、右側にはキリストを中心に聖母と聖ヨハネが描かれています。2つの場面を沢山のフランシスコ会の聖人達が囲んでいます。中央にいるのは、勿論、聖フランチェスコです。<br /><br />あまりにも太っちょな聖ヨハネを見て、ショックを受けました!

    珍しい羊皮紙に描かれた「聖母子と磔刑」です。1340年頃の作品。最近になって、アッシジ出身のプッチョ・カパンナの作とされました。

    左側には天使たちに囲まれた聖母子、右側にはキリストを中心に聖母と聖ヨハネが描かれています。2つの場面を沢山のフランシスコ会の聖人達が囲んでいます。中央にいるのは、勿論、聖フランチェスコです。

    あまりにも太っちょな聖ヨハネを見て、ショックを受けました!

  • こちらはシエナの画家ルカ・ディ・トンメによる多翼祭壇画です。<br /><br />左から洗礼者聖ヨハネと聖ピエトロ。上の小さな絵はアレキサンドリアの聖カテリナと大アントニウス<br /><br />中央は聖母子と上にキリストの祝福<br /><br />右側は聖パオロと聖アポリナーレ。上の小さな絵は聖レオナルドと聖マルティーレです。

    こちらはシエナの画家ルカ・ディ・トンメによる多翼祭壇画です。

    左から洗礼者聖ヨハネと聖ピエトロ。上の小さな絵はアレキサンドリアの聖カテリナと大アントニウス

    中央は聖母子と上にキリストの祝福

    右側は聖パオロと聖アポリナーレ。上の小さな絵は聖レオナルドと聖マルティーレです。

  • こちらはどこの教会で使われていたのか分かっていませんが、フィレンツェのセッリストーリ・コレクションの一つでした。メッロ・ダ・グッビオの14世紀作品です。<br /><br />聖母子の左側が福音記者聖ヨハネ、右側がアレキサンドリアの聖カタリナです。カテリナの着ているドレスが大変エキゾチックですね。

    こちらはどこの教会で使われていたのか分かっていませんが、フィレンツェのセッリストーリ・コレクションの一つでした。メッロ・ダ・グッビオの14世紀作品です。

    聖母子の左側が福音記者聖ヨハネ、右側がアレキサンドリアの聖カタリナです。カテリナの着ているドレスが大変エキゾチックですね。

  • 聖母子と聖人達 1330年ごろ<br /><br />こちらの絵も最近になって、ドッサーリ・ディ・モンテラバーテの工房の作と判明しました。市内のサン・トマーゾ教会から移されたものです。<br /><br />幼子が掴んでいるのは、どうも小鳥のようですよ。先ほどの絵も小鳥だったのかしら?

    聖母子と聖人達 1330年ごろ

    こちらの絵も最近になって、ドッサーリ・ディ・モンテラバーテの工房の作と判明しました。市内のサン・トマーゾ教会から移されたものです。

    幼子が掴んでいるのは、どうも小鳥のようですよ。先ほどの絵も小鳥だったのかしら?

  • 3枚のパネルから成る祭壇画トリプテックです。パチャーノの工房による14世紀初頭の作品。<br /><br />左下半分には東方三博士礼拝、右下半分にはキリストの神殿へのお披露目が、その上には殉教者聖ピエトロ、聖フランチェスコ、トゥールーズの聖ルイ、聖ドメニコ、そして上左端と右端が「受胎告知」となっています。ピンクの絵具がとても鮮やかに全体を引き立てているように感じました。<br /><br />

    3枚のパネルから成る祭壇画トリプテックです。パチャーノの工房による14世紀初頭の作品。

    左下半分には東方三博士礼拝、右下半分にはキリストの神殿へのお披露目が、その上には殉教者聖ピエトロ、聖フランチェスコ、トゥールーズの聖ルイ、聖ドメニコ、そして上左端と右端が「受胎告知」となっています。ピンクの絵具がとても鮮やかに全体を引き立てているように感じました。

  • やややこれは・・・と思わず見入ってしまったこちらの絵はシエナの画家タッデオ・ディ・バルトーロの作品で、両面描かれている多翼祭壇画です。1403年。前述のサン・フランチェスコ・アル・プラート教会に初期の多翼祭壇画に代わって置かれました。この新しい祭壇画も1536年には解体されて、長い間聖具室にしまわれていました。<br /><br />こちらは内側の5枚です。中央の聖母子の足元には、音楽を奏でる天使たちがいます。聖母は幼子の肩に片手をかけていますが、これでは次の瞬間に落下すること請け合いです。まあ、聖母のすることを心配する必要はありませんけどね。<br /><br />左から、洗礼者聖ヨハネ、マグラダのマリア、聖母子、アレキサンドリアの聖カタリナ、福音記者聖ヨハネです。

    イチオシ

    やややこれは・・・と思わず見入ってしまったこちらの絵はシエナの画家タッデオ・ディ・バルトーロの作品で、両面描かれている多翼祭壇画です。1403年。前述のサン・フランチェスコ・アル・プラート教会に初期の多翼祭壇画に代わって置かれました。この新しい祭壇画も1536年には解体されて、長い間聖具室にしまわれていました。

    こちらは内側の5枚です。中央の聖母子の足元には、音楽を奏でる天使たちがいます。聖母は幼子の肩に片手をかけていますが、これでは次の瞬間に落下すること請け合いです。まあ、聖母のすることを心配する必要はありませんけどね。

    左から、洗礼者聖ヨハネ、マグラダのマリア、聖母子、アレキサンドリアの聖カタリナ、福音記者聖ヨハネです。

  • そして外側の7枚です。こちらは聖歌隊席の方も向いています。<br /><br />中央の聖フランチェスコは5つの聖痕を見せて、貪欲、渇望、権力等を足蹴にしています。まるでキリスト再来のように描かれていますね。<br /><br />他の聖人は、左から聖エルコラーノ、パドヴァの聖アントニオ、聖ピエトロ。右側は聖パオロ、ペルージャの聖コンスタンティウス、トゥールーズの聖ルイです。<br />やや小さめのキリストのパネルが高みから見降ろしていました。

    そして外側の7枚です。こちらは聖歌隊席の方も向いています。

    中央の聖フランチェスコは5つの聖痕を見せて、貪欲、渇望、権力等を足蹴にしています。まるでキリスト再来のように描かれていますね。

    他の聖人は、左から聖エルコラーノ、パドヴァの聖アントニオ、聖ピエトロ。右側は聖パオロ、ペルージャの聖コンスタンティウス、トゥールーズの聖ルイです。
    やや小さめのキリストのパネルが高みから見降ろしていました。

  • お次はタッディオの孫に当たるドメニコ・ディ・バルトーロの多翼祭壇画です。彼の描く楚々とした美しさ、時には冷酷にさえ見受けられる人物描写に魅せられました。1438年。<br /><br />祭壇画は1863年までペルージャのサンタ・ジュリアーナ教会の聖歌隊席を飾っていました。<br /><br />中央の聖母子の足元で跪いているのは、サンタ・ジュリアーナの女子修道院長ブッコーリで、この絵は彼女の依頼によるものです。<br /><br />聖人は左から聖ベネディクト(上に小さな聖ピエトロ)<br />洗礼者聖ヨハネ(上に小さな大天使ガブリエル)<br />聖母子(上に祝福のキリスト)<br />羽の生えたドラゴンといるニコメディアの聖ジュリアーナ(上に小さな受胎告知のマリア)<br />聖ベルナルド(上に小さな聖パオロ)です。<br /><br />聖ジュリアーナという人はディオクレティアヌスの大迫害の時代に殉教した聖人で、中世の時代には大変人気(特にオランダで)のある聖人で、病人の守護聖人だったそうです。<br /><br />プレデッラには洗礼者聖ヨハネの生涯の場面が描かれていました。ここで、最古の遠近法が使われたとも聞きましたよ。

    お次はタッディオの孫に当たるドメニコ・ディ・バルトーロの多翼祭壇画です。彼の描く楚々とした美しさ、時には冷酷にさえ見受けられる人物描写に魅せられました。1438年。

    祭壇画は1863年までペルージャのサンタ・ジュリアーナ教会の聖歌隊席を飾っていました。

    中央の聖母子の足元で跪いているのは、サンタ・ジュリアーナの女子修道院長ブッコーリで、この絵は彼女の依頼によるものです。

    聖人は左から聖ベネディクト(上に小さな聖ピエトロ)
    洗礼者聖ヨハネ(上に小さな大天使ガブリエル)
    聖母子(上に祝福のキリスト)
    羽の生えたドラゴンといるニコメディアの聖ジュリアーナ(上に小さな受胎告知のマリア)
    聖ベルナルド(上に小さな聖パオロ)です。

    聖ジュリアーナという人はディオクレティアヌスの大迫害の時代に殉教した聖人で、中世の時代には大変人気(特にオランダで)のある聖人で、病人の守護聖人だったそうです。

    プレデッラには洗礼者聖ヨハネの生涯の場面が描かれていました。ここで、最古の遠近法が使われたとも聞きましたよ。

  • この小さなパネルはタッデオ・ディ・バルトーロによる「受胎告知」で、1810年に美術アカデミーに収蔵される前については何もわかっていません。1410年ごろの作品。中央部分がかなり傷んでいます。へぼ写真なので、神が送るのとは別の光線が入ってしまいました!!!

    この小さなパネルはタッデオ・ディ・バルトーロによる「受胎告知」で、1810年に美術アカデミーに収蔵される前については何もわかっていません。1410年ごろの作品。中央部分がかなり傷んでいます。へぼ写真なので、神が送るのとは別の光線が入ってしまいました!!!

  • 早くもこの美術館で一番見たかった作品が現れてしまいました。<br />フラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエゾーレ またの名をフラ(ベアト)・アンジェリコ 昨年フィレンツェで衝撃的な出会いを経験しました。<br /><br />こちらは、サン・ドメニコ教会のサン・ニコラ礼拝堂のパトロン ギダロッティ家のために描かれたことから、「ギダロッティの多翼祭壇画」と呼ばれています。ギダロッティ家は1398年にある殺人事件に関わった経緯があり、施主はフィレンツェから高名な画家を迎えることで、一族の不名誉を挽回し、威信を回復させようと狙ったと思われています。

    イチオシ

    早くもこの美術館で一番見たかった作品が現れてしまいました。
    フラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエゾーレ またの名をフラ(ベアト)・アンジェリコ 昨年フィレンツェで衝撃的な出会いを経験しました。

    こちらは、サン・ドメニコ教会のサン・ニコラ礼拝堂のパトロン ギダロッティ家のために描かれたことから、「ギダロッティの多翼祭壇画」と呼ばれています。ギダロッティ家は1398年にある殺人事件に関わった経緯があり、施主はフィレンツェから高名な画家を迎えることで、一族の不名誉を挽回し、威信を回復させようと狙ったと思われています。

  • フラ・アンジェリコは、この絵を1447年、オルヴィエートからローマに向かう途中に描いたと言われています。<br /><br />中央には玉座の聖母子と天使たち。左側にはバーリの聖ニコラと聖ドメニコ、右側には洗礼者聖ヨハネとアレキサンドリアの聖カタリナ。上の二つの小さなトンドには「受胎告知」の二人。そして両脇の細い縦長のパネルには様々な聖人達。<br /><br />1440年代としては多少古風な金色の背景画ですが、これは施主であるエリザベッタ・ギダロッティの希望だったそうです。

    イチオシ

    フラ・アンジェリコは、この絵を1447年、オルヴィエートからローマに向かう途中に描いたと言われています。

    中央には玉座の聖母子と天使たち。左側にはバーリの聖ニコラと聖ドメニコ、右側には洗礼者聖ヨハネとアレキサンドリアの聖カタリナ。上の二つの小さなトンドには「受胎告知」の二人。そして両脇の細い縦長のパネルには様々な聖人達。

    1440年代としては多少古風な金色の背景画ですが、これは施主であるエリザベッタ・ギダロッティの希望だったそうです。

  • パネル下のプレデッラ部分3枚には、バーリの聖ニコラの生涯からの場面が描かれていました。<br /><br />貧しい三人の娘のために持参金を投げ込んだという有名な話が右側に描かれていますね。この話がのちにサンタクロースを生みます。

    パネル下のプレデッラ部分3枚には、バーリの聖ニコラの生涯からの場面が描かれていました。

    貧しい三人の娘のために持参金を投げ込んだという有名な話が右側に描かれていますね。この話がのちにサンタクロースを生みます。

  • ここでは、左側に聖ニコラがローマ皇帝の使いに会っている場面、中央では<br />海に落ちて濡れにた小麦を奇跡で乾燥させ、その上量を増やして町を飢饉から救ったという話の一部、右側には、聖ニコラが死後に船を嵐から救う奇跡の場面が描かれています。

    ここでは、左側に聖ニコラがローマ皇帝の使いに会っている場面、中央では
    海に落ちて濡れにた小麦を奇跡で乾燥させ、その上量を増やして町を飢饉から救ったという話の一部、右側には、聖ニコラが死後に船を嵐から救う奇跡の場面が描かれています。

  • 左側には、聖ニコラが無実の3人の騎士を助けるために、死刑執行人の手から剣をもぎ取る場面、右側は聖ニコラの死の場面です。どれも素晴らしいとしか言いようがありません。<br /><br />多翼祭壇画は、1614年頃には祭壇から外され、聖具室にバラバラにして置かれていました。ナポレオン時代にプレデッラは接収され、一時ルーブルに収蔵されましたが、アントニオ・カノーヴァが1815年にヴァチカン絵画館に持ち帰ることに成功。1817年にはサン・ドメニコ教会に戻されています。1915年になって、新しいフレームの元に足りない部分をコピーで補い、組み立て直したそうです。<br /><br />ナポレオン時代に一体どれだけの美術品がイタリアから運ばれたのでしょうね。

    左側には、聖ニコラが無実の3人の騎士を助けるために、死刑執行人の手から剣をもぎ取る場面、右側は聖ニコラの死の場面です。どれも素晴らしいとしか言いようがありません。

    多翼祭壇画は、1614年頃には祭壇から外され、聖具室にバラバラにして置かれていました。ナポレオン時代にプレデッラは接収され、一時ルーブルに収蔵されましたが、アントニオ・カノーヴァが1815年にヴァチカン絵画館に持ち帰ることに成功。1817年にはサン・ドメニコ教会に戻されています。1915年になって、新しいフレームの元に足りない部分をコピーで補い、組み立て直したそうです。

    ナポレオン時代に一体どれだけの美術品がイタリアから運ばれたのでしょうね。

  • 「多翼祭壇画の一部」15世紀初頭。<br /><br />ペルージャ郊外のフランシスコ会系修道院ファルネートにあった多翼祭壇画で、「ファルネート工房」との署名がありましたが、最近ペッレグリーノ・ディ・ジョヴァンニの絵であることが判明しました。<br /><br />左から、聖フランチェスコ、聖母子と巻紙を拡げている天使たち、大アントニオスです。聖母の身に着けている衣装が中東風ですね。

    「多翼祭壇画の一部」15世紀初頭。

    ペルージャ郊外のフランシスコ会系修道院ファルネートにあった多翼祭壇画で、「ファルネート工房」との署名がありましたが、最近ペッレグリーノ・ディ・ジョヴァンニの絵であることが判明しました。

    左から、聖フランチェスコ、聖母子と巻紙を拡げている天使たち、大アントニオスです。聖母の身に着けている衣装が中東風ですね。

  • 「ピエタと苦難のシンボル」15世紀。<br /><br />この作品は、1863年にサンタ・ルチア修道院から美術館に運ばれてきましたが、画家の名前も、オリジナルがどこにあったかもわかっていないそうです。元々は道端にある祠の中にあったとされる説もあります。

    「ピエタと苦難のシンボル」15世紀。

    この作品は、1863年にサンタ・ルチア修道院から美術館に運ばれてきましたが、画家の名前も、オリジナルがどこにあったかもわかっていないそうです。元々は道端にある祠の中にあったとされる説もあります。

  • 「多翼祭壇画の一部」1455年頃。<br /><br />作者のマリアーノ・ディ・アントニオについては、文書化されている記録が乏しいのですが、サン・フランチェスコ・アル・プラート教会のために描かれたこちらの多翼祭壇画については、支払いの記録が残されていました。<br /><br />少々見づらいのですが、両端の2枚は洗礼者聖ヨハネとシエナの聖ベルナルディーノ。中ほどの4枚は多分プレデッラ部分だったと思われ、パドヴァの聖アントニオの奇跡の場面が描かれています。

    「多翼祭壇画の一部」1455年頃。

    作者のマリアーノ・ディ・アントニオについては、文書化されている記録が乏しいのですが、サン・フランチェスコ・アル・プラート教会のために描かれたこちらの多翼祭壇画については、支払いの記録が残されていました。

    少々見づらいのですが、両端の2枚は洗礼者聖ヨハネとシエナの聖ベルナルディーノ。中ほどの4枚は多分プレデッラ部分だったと思われ、パドヴァの聖アントニオの奇跡の場面が描かれています。

  • 「サンタニェーゼの多翼祭壇画」1430年頃。<br /><br />これは文句なく美しいです。ビッチ・ディ・ロレンツォの筆によるもので、サンタニェーゼ修道院にあったもの。興味深いのは中央のパネル。右に立つアレキサンドリアの聖カタリナがキリストの幼子と神秘的な結婚式を挙げている場面です。彼女は幼子から指輪を受け取っていますよ! 彼女のシンボルである車輪も描かれていますね。<br /><br />左には神の子羊を抱えた聖アニェーゼ(サンタニェーゼ)が立っています。<br /><br />下で跪いているのは、ハンガリーの聖エリザベッタ。王冠をかぶり、バラを抱えています。<br />こういった構図の絵は初めてだったので、時間をかけて見てしまいました。<br /><br />左側には手から炎が上がっているパドヴァの聖アントニオ、トゥールーズの聖ルイ、福音記者聖ヨハネが、右側には聖エルコラーノ、コンスタンテゥヌス(ともにペルージャの守護聖人)、そして自らが焼かれた鉄格子を持った聖ロレンツォがいました。<br /><br />パネル上部には、「聖フランチェスコの聖痕(スティグマ)、「受胎告知」、洞窟の聖人達。そしてプレデッラには「我に触れるな」、「王子の求婚を拒絶した聖カタリナ」、「聖エリザベッタの献身的な弱者へのいたわり」そして「キリストの洗礼」が描かれていました。どの絵もじっくりと見る価値があり、この絵だけでたっぷり5分は費やしたかも・・・<br />

    「サンタニェーゼの多翼祭壇画」1430年頃。

    これは文句なく美しいです。ビッチ・ディ・ロレンツォの筆によるもので、サンタニェーゼ修道院にあったもの。興味深いのは中央のパネル。右に立つアレキサンドリアの聖カタリナがキリストの幼子と神秘的な結婚式を挙げている場面です。彼女は幼子から指輪を受け取っていますよ! 彼女のシンボルである車輪も描かれていますね。

    左には神の子羊を抱えた聖アニェーゼ(サンタニェーゼ)が立っています。

    下で跪いているのは、ハンガリーの聖エリザベッタ。王冠をかぶり、バラを抱えています。
    こういった構図の絵は初めてだったので、時間をかけて見てしまいました。

    左側には手から炎が上がっているパドヴァの聖アントニオ、トゥールーズの聖ルイ、福音記者聖ヨハネが、右側には聖エルコラーノ、コンスタンテゥヌス(ともにペルージャの守護聖人)、そして自らが焼かれた鉄格子を持った聖ロレンツォがいました。

    パネル上部には、「聖フランチェスコの聖痕(スティグマ)、「受胎告知」、洞窟の聖人達。そしてプレデッラには「我に触れるな」、「王子の求婚を拒絶した聖カタリナ」、「聖エリザベッタの献身的な弱者へのいたわり」そして「キリストの洗礼」が描かれていました。どの絵もじっくりと見る価値があり、この絵だけでたっぷり5分は費やしたかも・・・

  • 「サピエンツァ・ヌオヴァ祭壇画」1456年。<br /><br />大学の聖ジローラモ礼拝堂の祭壇画で、ベノッツォ・ゴッツォリの署名があります。聖母子は謙譲のマドンナというスタイルで草原に座っています。カメラ目線の幼子は祝福のポーズをとっていますね。<br /><br />周りにもたくさんの人物が描かれていますが、主要人物は左から聖ピエトロ、洗礼者聖ヨハネ、聖母子、聖ジローラモ、聖パオロです。

    「サピエンツァ・ヌオヴァ祭壇画」1456年。

    大学の聖ジローラモ礼拝堂の祭壇画で、ベノッツォ・ゴッツォリの署名があります。聖母子は謙譲のマドンナというスタイルで草原に座っています。カメラ目線の幼子は祝福のポーズをとっていますね。

    周りにもたくさんの人物が描かれていますが、主要人物は左から聖ピエトロ、洗礼者聖ヨハネ、聖母子、聖ジローラモ、聖パオロです。

  • 「オーケストラの聖母」1450年頃。<br /><br />ジョヴァンニ・ボッカーティ作で、サン・シモーネ・デル・カルミネ修道院の祭壇を飾っていました。<br /><br />玉座の聖母子を天使の音楽隊が囲んでいます。あまり可愛くない(失礼!)幼子キリストは小鳥に指をつつかれています。ヨーロッパにいるゴシキヒワ(ゴールドフィンチ)という鳥で、茨の中に巣を作るので、キリストの受難のシンボルなのだそうです。

    「オーケストラの聖母」1450年頃。

    ジョヴァンニ・ボッカーティ作で、サン・シモーネ・デル・カルミネ修道院の祭壇を飾っていました。

    玉座の聖母子を天使の音楽隊が囲んでいます。あまり可愛くない(失礼!)幼子キリストは小鳥に指をつつかれています。ヨーロッパにいるゴシキヒワ(ゴールドフィンチ)という鳥で、茨の中に巣を作るので、キリストの受難のシンボルなのだそうです。

  • ピエタ像。メモを取り忘れました。

    ピエタ像。メモを取り忘れました。

  • 「マドンナ・デッラ・ペルゴラータ」1446年から47年。こちらも前述のジョヴァンニ・ボッカーティ作で、ウンブリアで初めての上部が分割されていない祭壇画と言われています。<br /><br />聖母子以外の登場人物は、ミラノ司教アンブロジウス、ヒエルニムス、アウグスティヌス、グレゴリウスの教会博士達と天使の聖歌隊。手前には、聖ドミニコと聖フランチェスコがそれぞれの仲間を称えています。覆面をしている両端が少々薄気味悪いですね。ボッカーティの描く人物は独特の表情があって、漫画チックに見えてしまいます。<br /><br />プレデッラには、両端にトマス・アクィナスと殉教者聖ピエトロ。中央にはキリストの受難の3つの場面が描かれていました。

    「マドンナ・デッラ・ペルゴラータ」1446年から47年。こちらも前述のジョヴァンニ・ボッカーティ作で、ウンブリアで初めての上部が分割されていない祭壇画と言われています。

    聖母子以外の登場人物は、ミラノ司教アンブロジウス、ヒエルニムス、アウグスティヌス、グレゴリウスの教会博士達と天使の聖歌隊。手前には、聖ドミニコと聖フランチェスコがそれぞれの仲間を称えています。覆面をしている両端が少々薄気味悪いですね。ボッカーティの描く人物は独特の表情があって、漫画チックに見えてしまいます。

    プレデッラには、両端にトマス・アクィナスと殉教者聖ピエトロ。中央にはキリストの受難の3つの場面が描かれていました。

  • またまた美しいものに出会いました。パドヴァの聖アントニオの多翼祭壇画と呼ばれている1枚です。1468年頃。<br /><br />描いたのははピエトロ・デッラ・フランチェスカ。イタリア初期ルネサンスを代表する画家です。<br /><br />聖母子を中心に左側にはパドヴァの聖アントニオと洗礼者聖ヨハネ、右側には聖フランチェスコとハンガリーの聖エリザベッタがいます。その配置と遠近感が素晴らしい!!<br /><br />上の「受胎告知」では、二人の間の空間の真ん中に長く続く回廊を配置して、まるで3Dを見るよう・・・。

    またまた美しいものに出会いました。パドヴァの聖アントニオの多翼祭壇画と呼ばれている1枚です。1468年頃。

    描いたのははピエトロ・デッラ・フランチェスカ。イタリア初期ルネサンスを代表する画家です。

    聖母子を中心に左側にはパドヴァの聖アントニオと洗礼者聖ヨハネ、右側には聖フランチェスコとハンガリーの聖エリザベッタがいます。その配置と遠近感が素晴らしい!!

    上の「受胎告知」では、二人の間の空間の真ん中に長く続く回廊を配置して、まるで3Dを見るよう・・・。

  • こちらの写真の方が良かったかな…と思い、もう1枚のっけちゃいます。<br /><br />上の部分は元々は長方形だったのですが、後陣と良く調和するカスプ状にカットされたのだそうです。ブラヴォー!!<br /><br />プレデッラ上部にはアッシジの聖キアラと聖アガタのトンド、下部にはフランシスコ会の聖人達(パドヴァの聖アントニオが子供を甦らす場面、聖フランチェスコが聖痕を受ける場面、聖エリザベッタが井戸で溺れた子供を救い出す場面)が描かれていました。

    イチオシ

    こちらの写真の方が良かったかな…と思い、もう1枚のっけちゃいます。

    上の部分は元々は長方形だったのですが、後陣と良く調和するカスプ状にカットされたのだそうです。ブラヴォー!!

    プレデッラ上部にはアッシジの聖キアラと聖アガタのトンド、下部にはフランシスコ会の聖人達(パドヴァの聖アントニオが子供を甦らす場面、聖フランチェスコが聖痕を受ける場面、聖エリザベッタが井戸で溺れた子供を救い出す場面)が描かれていました。

  • なんともや楽屋の多いこちらの受胎告知は、「受胎告知のゴンファローネ」と呼ばれています。ゴンファローネとは、中世イタリアの自治共和国などで使用された旗のことです。ニッコロ・ディ・リベルトーレの1466年の作品で、サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会にありました。<br /><br />構図が面白いですねえ。天上界で、父なる神は天使たちの聖歌隊、音楽隊に囲まれています。一方地上界では、聖フィリッポ・ベニッツィと聖ジュリアーナ・ファルコニエリが崇拝者の一団を引き連れて、このただならぬ場面を案内しているように見えます。例の覆面集団も一団の中にいますね。これもまた、風刺をてらったポンチ絵か漫画のように見えます。

    なんともや楽屋の多いこちらの受胎告知は、「受胎告知のゴンファローネ」と呼ばれています。ゴンファローネとは、中世イタリアの自治共和国などで使用された旗のことです。ニッコロ・ディ・リベルトーレの1466年の作品で、サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会にありました。

    構図が面白いですねえ。天上界で、父なる神は天使たちの聖歌隊、音楽隊に囲まれています。一方地上界では、聖フィリッポ・ベニッツィと聖ジュリアーナ・ファルコニエリが崇拝者の一団を引き連れて、このただならぬ場面を案内しているように見えます。例の覆面集団も一団の中にいますね。これもまた、風刺をてらったポンチ絵か漫画のように見えます。

  • 1460年ごろの三翼祭壇画からのパネルです。サン・フランチェスコ・アル・プラート教会の聖具室にしまわれていました。ピエトロ・デル・フランチェスカの弟子ジョヴァンニ・フランチェスコ・ダ・リミニの作品。<br /><br />玉座の聖母子の左右にはヒエロニムスと聖フランチェスコがいます。

    1460年ごろの三翼祭壇画からのパネルです。サン・フランチェスコ・アル・プラート教会の聖具室にしまわれていました。ピエトロ・デル・フランチェスカの弟子ジョヴァンニ・フランチェスコ・ダ・リミニの作品。

    玉座の聖母子の左右にはヒエロニムスと聖フランチェスコがいます。

  • 少々近づきすぎの「受胎告知」です。大天使ガブリエルは、一方の手にユリの花、もう一方には巻紙を持っているように見えますね。詳細のメモ取っていません。

    少々近づきすぎの「受胎告知」です。大天使ガブリエルは、一方の手にユリの花、もう一方には巻紙を持っているように見えますね。詳細のメモ取っていません。

  • フレスコが描かれた祠は1488年の作。ノチェーラ・ウンブラという町の近くにあったフェリチッシモという人の家から剥されたものです。個人のお宅だったのでしょうか? マッテオ・ダ・グアルドの作品。<br /><br />

    フレスコが描かれた祠は1488年の作。ノチェーラ・ウンブラという町の近くにあったフェリチッシモという人の家から剥されたものです。個人のお宅だったのでしょうか? マッテオ・ダ・グアルドの作品。

  • かなり奥行きがある造りで、左側には、少々情けない聖セバスティアーノ、右側には大アントニオスが描かれていました。<br /><br />祠ごと持ってきてしまうというところが凄いです。

    かなり奥行きがある造りで、左側には、少々情けない聖セバスティアーノ、右側には大アントニオスが描かれていました。

    祠ごと持ってきてしまうというところが凄いです。

  • 「サン・ベルナルディーノのゴンファローネ」1465年 ベネデット・ボンフィッリ作。彼はピエトロ・ペルジーノの先生だったことで知られています。<br /><br />こちらもパレードなどに使われるゴンファローネ(旗)です。ジョルジョ・ヴァザーリは1568年、その書の中で、サン・ベルナルディーノの祈祷所にあったこの旗の存在について記しています。聖ベルナルディーノが列聖してから毎年彼のお祭りに行われた、ドゥオモからサン・フランチェスコ・アル・プラートまでのパレードに使用されたものだそうです。円盤状のものを持っているのが聖ベルナルディーノ。<br /><br />パネルの下部には、ペルージャの市民たちがお祭りに使うろうそくを寄進しています。ろうそくを盗もうとしている小さな男の子の服には「盗めば、吊るされる」と書かれているんですって! 市民たちに裸足の人が多いのにはびっくり!

    「サン・ベルナルディーノのゴンファローネ」1465年 ベネデット・ボンフィッリ作。彼はピエトロ・ペルジーノの先生だったことで知られています。

    こちらもパレードなどに使われるゴンファローネ(旗)です。ジョルジョ・ヴァザーリは1568年、その書の中で、サン・ベルナルディーノの祈祷所にあったこの旗の存在について記しています。聖ベルナルディーノが列聖してから毎年彼のお祭りに行われた、ドゥオモからサン・フランチェスコ・アル・プラートまでのパレードに使用されたものだそうです。円盤状のものを持っているのが聖ベルナルディーノ。

    パネルの下部には、ペルージャの市民たちがお祭りに使うろうそくを寄進しています。ろうそくを盗もうとしている小さな男の子の服には「盗めば、吊るされる」と書かれているんですって! 市民たちに裸足の人が多いのにはびっくり!

  • こちらもボンフィッリの作品の「東方三博士の礼拝」1466年頃。サン・ドメニコ教会の礼拝堂にあったものです。聖ドメニコ教会では1614年に身廊部分が崩壊したため、多くの作品が被害を受けましたが、こちらは無事でした。<br /><br />聖誕を聞いて飛んできたはずなのに、幼子はもうすでに首が座って聖母の膝に抱かれているのがおかしいですねえ。左側には洗礼者聖ヨハネ。この方もキリストと同じくらいに生まれたはずなんですが・・・<br /><br />聖母子の前で跪いているのは、バーリの聖ニコラのようです。<br /><br />プレデッラには聖ヨハネによるキリストの洗礼、磔、バーリの聖ニコラの奇跡 が描かれています。

    こちらもボンフィッリの作品の「東方三博士の礼拝」1466年頃。サン・ドメニコ教会の礼拝堂にあったものです。聖ドメニコ教会では1614年に身廊部分が崩壊したため、多くの作品が被害を受けましたが、こちらは無事でした。

    聖誕を聞いて飛んできたはずなのに、幼子はもうすでに首が座って聖母の膝に抱かれているのがおかしいですねえ。左側には洗礼者聖ヨハネ。この方もキリストと同じくらいに生まれたはずなんですが・・・

    聖母子の前で跪いているのは、バーリの聖ニコラのようです。

    プレデッラには聖ヨハネによるキリストの洗礼、磔、バーリの聖ニコラの奇跡 が描かれています。

  • ベネデット・ボンフィッリ3作目は「天使と聖母子」。1450年頃の作品で、こちらも上記のサン・ドメニコ教会所蔵だったものです。この絵に関しては多翼祭壇画の一部ではなく、単独の祭壇画だったという見方が強いようです。<br /><br />岩場のある背景の中にいる聖母子の手前では、天使達のクアルテットが音楽を奏でています。幼子は母のガウンを掴んではいますが、今にも滑り落ちそうなポーズ!<br /><br />

    ベネデット・ボンフィッリ3作目は「天使と聖母子」。1450年頃の作品で、こちらも上記のサン・ドメニコ教会所蔵だったものです。この絵に関しては多翼祭壇画の一部ではなく、単独の祭壇画だったという見方が強いようです。

    岩場のある背景の中にいる聖母子の手前では、天使達のクアルテットが音楽を奏でています。幼子は母のガウンを掴んではいますが、今にも滑り落ちそうなポーズ!

  • 「聖ルカとの受胎告知」1450年頃。ボンヴィッリ4作目です。この祭壇画はペルージャの公証人ギルドの本部のために描かれたものですが、文書に初めて登場したのは、サンタ・マリア・アヌンツィアータ(受胎告知)病院付設の教会においてです。<br /><br />公証人ギルドの共同聖人は「受胎告知」と「聖ルカ」で、それにぴったりマッチした絵になっています。マリアの横顔の端正なこと!<br /><br />受胎告知が行われた宮殿(マリアの家)はルネッサンス様式。大天使ガブリエルとマリアの間で邪魔?しているのが、牛をそのシンボルとする聖ルカです。彼はその目でしかと見た奇跡を福音書(ルカによる福音書)に記している最中です。

    「聖ルカとの受胎告知」1450年頃。ボンヴィッリ4作目です。この祭壇画はペルージャの公証人ギルドの本部のために描かれたものですが、文書に初めて登場したのは、サンタ・マリア・アヌンツィアータ(受胎告知)病院付設の教会においてです。

    公証人ギルドの共同聖人は「受胎告知」と「聖ルカ」で、それにぴったりマッチした絵になっています。マリアの横顔の端正なこと!

    受胎告知が行われた宮殿(マリアの家)はルネッサンス様式。大天使ガブリエルとマリアの間で邪魔?しているのが、牛をそのシンボルとする聖ルカです。彼はその目でしかと見た奇跡を福音書(ルカによる福音書)に記している最中です。

  • 「バラを運ぶ天使たち」1484年。ボンフィッリが続きます。5作目です。作品は2枚ずつのペアのようです。幕屋の両側を飾るものとして作られたようですが、メインの部分は見つかっていません。

    「バラを運ぶ天使たち」1484年。ボンフィッリが続きます。5作目です。作品は2枚ずつのペアのようです。幕屋の両側を飾るものとして作られたようですが、メインの部分は見つかっていません。

  • ボンフィッリ6作目は、かなり傷みの激しいこちらのパネル「聖人と天使たちといる聖母子」です。1450年頃の作品。聖ヒエルニムス、聖フランチェスコ、聖ベルナルディーノを祀った祈祷所のオルガンの下にある礼拝堂に飾られていました。<br /><br />左からトマス・アクィナス、ライオンと一緒のヒエルニムス、聖母子、聖フランチェスコ、聖ベルナルディーノ。後方には天使の音楽隊が描かれています。<br />おかしいというか奇妙なのは、幼子キリストが、ヒエルニムスの教えの寓意である「太陽マーク」をに手を伸ばしていること。どういう意味なんでしょう?<br /><br />

    ボンフィッリ6作目は、かなり傷みの激しいこちらのパネル「聖人と天使たちといる聖母子」です。1450年頃の作品。聖ヒエルニムス、聖フランチェスコ、聖ベルナルディーノを祀った祈祷所のオルガンの下にある礼拝堂に飾られていました。

    左からトマス・アクィナス、ライオンと一緒のヒエルニムス、聖母子、聖フランチェスコ、聖ベルナルディーノ。後方には天使の音楽隊が描かれています。
    おかしいというか奇妙なのは、幼子キリストが、ヒエルニムスの教えの寓意である「太陽マーク」をに手を伸ばしていること。どういう意味なんでしょう?

  • どんどん行きますよ。「天使と聖母子」1465年。サンタ・マリア・ディ・モンテルーチェ教会から移された祭壇画です。作者はバルトロメオ・カプラーリ。ルネッサンス初期に最初に部分的にですが油絵具を使用した人です<br /><br />背景の金色の部分はブロケードと呼ばれる絹紋織物。聖母子の周りには6人の天使がいて、手前の2人はバラの花瓶を携えています。聖母子は大変高価そうなベルベットの衣服に身を包んでいますね。<br />

    どんどん行きますよ。「天使と聖母子」1465年。サンタ・マリア・ディ・モンテルーチェ教会から移された祭壇画です。作者はバルトロメオ・カプラーリ。ルネッサンス初期に最初に部分的にですが油絵具を使用した人です

    背景の金色の部分はブロケードと呼ばれる絹紋織物。聖母子の周りには6人の天使がいて、手前の2人はバラの花瓶を携えています。聖母子は大変高価そうなベルベットの衣服に身を包んでいますね。

  • 「正義のトリプテック(三翼祭壇画)」と呼ばれるバルトロメオ・カプラーリと彼の仲間であるサンテ・ディ・アポッロニオ・デル・チェランドロの作品と言われています。1475年から78年。聖アンドレアと聖ベルナルディーノの祈祷所にありました。<br /><br />中央パネルの下には、奉仕団体の2人のメンバーが聖母子の前に跪いています。両側のパネルには、左聖ムスティオーラと聖アンデレ、右聖ピエトロと聖フランチェスコが描かれています。ムスティオーラは3世紀の殉教者だそうで、彼女は手に聖母の結婚指輪をぶら下げています。随分と大きな指輪だこと! 聖母の結婚指輪はペルージャのお宝。今回行けなかったドゥオモの聖リングの礼拝堂にあります。<br /><br />プレデッラには、左聖ベルナルディーノと洗礼者聖ヨハネ、中央聖母、キリストと福音記者聖ヨハネ、右聖ヒエルニムスと兵士の守護聖人が描かれていました。<br />小さな2枚の絵にあるのは、奉仕団体のメンバー2人です。

    「正義のトリプテック(三翼祭壇画)」と呼ばれるバルトロメオ・カプラーリと彼の仲間であるサンテ・ディ・アポッロニオ・デル・チェランドロの作品と言われています。1475年から78年。聖アンドレアと聖ベルナルディーノの祈祷所にありました。

    中央パネルの下には、奉仕団体の2人のメンバーが聖母子の前に跪いています。両側のパネルには、左聖ムスティオーラと聖アンデレ、右聖ピエトロと聖フランチェスコが描かれています。ムスティオーラは3世紀の殉教者だそうで、彼女は手に聖母の結婚指輪をぶら下げています。随分と大きな指輪だこと! 聖母の結婚指輪はペルージャのお宝。今回行けなかったドゥオモの聖リングの礼拝堂にあります。

    プレデッラには、左聖ベルナルディーノと洗礼者聖ヨハネ、中央聖母、キリストと福音記者聖ヨハネ、右聖ヒエルニムスと兵士の守護聖人が描かれていました。
    小さな2枚の絵にあるのは、奉仕団体のメンバー2人です。

  • いよいよペルジーノの登場です。無知な私はペルジーノ=ペルージャの人というのをここで初めて知りました。彼の絵としては初期の1470年頃の作品「東方三博士の礼拝」です。おそらくサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会の祭壇の一つに飾られていたとみられています。<br /><br />画面左端に赤い帽子をかぶったカメラ目線の男性がいますが、それがペルジーノ本人ではないかと言われています。<br /><br />聖母子の右側に立っている男性はキリストの養父聖ヨーセフ。複雑そうな心境が顔に出ているよう・・・<br /><br />すべての光は聖母と幼子に注がれていて、二人は神々しい膜に包まれているかのようです。

    イチオシ

    いよいよペルジーノの登場です。無知な私はペルジーノ=ペルージャの人というのをここで初めて知りました。彼の絵としては初期の1470年頃の作品「東方三博士の礼拝」です。おそらくサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会の祭壇の一つに飾られていたとみられています。

    画面左端に赤い帽子をかぶったカメラ目線の男性がいますが、それがペルジーノ本人ではないかと言われています。

    聖母子の右側に立っている男性はキリストの養父聖ヨーセフ。複雑そうな心境が顔に出ているよう・・・

    すべての光は聖母と幼子に注がれていて、二人は神々しい膜に包まれているかのようです。

  • 「天使と聖母子」1470年頃。<br />バルトロメオ・カプラーリの作品で、オリジナルはもっと大きなパネルでしたが、この部分だけカットされたようです。ここに運ばれるまでは、サンタゴスティーノ教会の聖具室にありました。

    「天使と聖母子」1470年頃。
    バルトロメオ・カプラーリの作品で、オリジナルはもっと大きなパネルでしたが、この部分だけカットされたようです。ここに運ばれるまでは、サンタゴスティーノ教会の聖具室にありました。

  • 「1473年」という名で知られる工房の作品で、シエナの聖人「聖ベルナルディーノの奇跡」という8点ものです。なぜだか7点しか展示されていませんでした。サン・フランチェスコ・アル・プラート教会の聖具室にあったものです。<br /><br />一体どんな奇跡かというと<br />聖ベルナルディーノは(左から)<br />・潰瘍にかかっていたジョヴァンニ・アントニオ・ペトリッツォの娘を直します。<br />・盲目の少年の視力を回復します。<br />・不正に投獄されていた男を助け出します。<br />・木の根元で亡くなっていた男を生き返らせます。

    「1473年」という名で知られる工房の作品で、シエナの聖人「聖ベルナルディーノの奇跡」という8点ものです。なぜだか7点しか展示されていませんでした。サン・フランチェスコ・アル・プラート教会の聖具室にあったものです。

    一体どんな奇跡かというと
    聖ベルナルディーノは(左から)
    ・潰瘍にかかっていたジョヴァンニ・アントニオ・ペトリッツォの娘を直します。
    ・盲目の少年の視力を回復します。
    ・不正に投獄されていた男を助け出します。
    ・木の根元で亡くなっていた男を生き返らせます。

  • ・雄牛に踏みつけられたニコロ・ディ・ロレンツォ・ダ・プラートを復活させます。<br />・死んだ状態で生まれた赤ん坊を蘇生させます。<br />・待ち伏せでけがを負ったジョヴァンニ・アントニオ・トルナーノの傷を癒します。<br /><br />奇跡より、この時代の町並みに興味津々な私です。白い立派な宮殿は何をモデルとしているのかな? と思っていたら、フィレンツェ、リミニ、ウルビーノなどの町が舞台となっているようです。<br />

    ・雄牛に踏みつけられたニコロ・ディ・ロレンツォ・ダ・プラートを復活させます。
    ・死んだ状態で生まれた赤ん坊を蘇生させます。
    ・待ち伏せでけがを負ったジョヴァンニ・アントニオ・トルナーノの傷を癒します。

    奇跡より、この時代の町並みに興味津々な私です。白い立派な宮殿は何をモデルとしているのかな? と思っていたら、フィレンツェ、リミニ、ウルビーノなどの町が舞台となっているようです。

  • こちらのパネルはサン・ドメニコ教会の多翼祭壇画からの生き残りです。15世紀後半としかわかっていません。フィオレンツォ・ディ・ロレンツォの作です。彼については、サン・ピエトロ教会で、印象的なピエタを見ています。<br /><br />左から大アントニウス、聖ディナメリータ、アレキサンドリアの聖カタリナです。中央の聖ディナメリータについては、ローマの殉教者一覧にディーナとエメリータという2人の名前で出てきていますが、1人だった可能性が高いようです。彼女は手に、口の中に指輪をくわえた魚を持っていますが、それが何を示すのかわかっていないそうです。

    こちらのパネルはサン・ドメニコ教会の多翼祭壇画からの生き残りです。15世紀後半としかわかっていません。フィオレンツォ・ディ・ロレンツォの作です。彼については、サン・ピエトロ教会で、印象的なピエタを見ています。

    左から大アントニウス、聖ディナメリータ、アレキサンドリアの聖カタリナです。中央の聖ディナメリータについては、ローマの殉教者一覧にディーナとエメリータという2人の名前で出てきていますが、1人だった可能性が高いようです。彼女は手に、口の中に指輪をくわえた魚を持っていますが、それが何を示すのかわかっていないそうです。

  • 「慈悲の聖母」1476年。<br /><br />聖エジディオ病院にあったフレスコ画です。同じようなスタイルの作品をトレヴィで見ましたね。<br /><br />http://4travel.jp/travelogue/11115813<br /><br />この作品についても、ペストの流行時にフィオレンツォ・ディ・ロレンツォに委託したという文書が残っているそうです。聖母はそのマントの中に「商人達のギルドのメンバー」をかくまっています。聖エジディオ病院は、商人達のギルドの病院だったんですね。

    「慈悲の聖母」1476年。

    聖エジディオ病院にあったフレスコ画です。同じようなスタイルの作品をトレヴィで見ましたね。

    http://4travel.jp/travelogue/11115813

    この作品についても、ペストの流行時にフィオレンツォ・ディ・ロレンツォに委託したという文書が残っているそうです。聖母はそのマントの中に「商人達のギルドのメンバー」をかくまっています。聖エジディオ病院は、商人達のギルドの病院だったんですね。

  • 「サン・フランチェスコ・アル・プラート教会のニッチェ」1487年。聖フランチェスコの彫像を置くために作られたとみられています。こちらもその後、聖具室にしまわれっぱなしになっていました。こちらもフィオレンツォ・ディ・ロレンツォの作品です。<br /><br />中央のニッチェには彫像はありませんが、聖フランチェスコを教会の従順なる僕と称える碑文を見ることが出来ます。ルネッサンス・スタイルの装飾が素晴らしいですね。左右の像は、聖ピエトロと聖パオロです。

    「サン・フランチェスコ・アル・プラート教会のニッチェ」1487年。聖フランチェスコの彫像を置くために作られたとみられています。こちらもその後、聖具室にしまわれっぱなしになっていました。こちらもフィオレンツォ・ディ・ロレンツォの作品です。

    中央のニッチェには彫像はありませんが、聖フランチェスコを教会の従順なる僕と称える碑文を見ることが出来ます。ルネッサンス・スタイルの装飾が素晴らしいですね。左右の像は、聖ピエトロと聖パオロです。

  • こちらの聖母子像は15世紀、アントニアッツォ・ロマーノの作です。15世紀ローマ派を代表する画家で、以前私はローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会で、彼の「受胎告知」を見ています。目元の涼しい聖母の顔、結構気にいっています。

    こちらの聖母子像は15世紀、アントニアッツォ・ロマーノの作です。15世紀ローマ派を代表する画家で、以前私はローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会で、彼の「受胎告知」を見ています。目元の涼しい聖母の顔、結構気にいっています。

  • 「修道会シルヴェステル会の多翼祭壇画」1487年から1493年。4番目に紹介するフィオレンツォ・ディ・ロレンツォの作品です。サンタ・マリア・ヌオヴァ教会の主祭壇を飾っていましたが、17世紀には解体され、オリジナルのフレームは失われています。<br /><br />左から聖ピエトロ、福音記者聖ヨハネ、中央には聖母子と跪く二人の天使、聖ベネディクト、そしてシルヴェステル会の聖人(二人候補者がいます)です。両側の壁柱には、左ベネディクト会の修道僧、大天使ガブリエルと洗礼者聖ヨハネ、右ベネディクト会の修道僧、受胎告知のマリア、聖セバスティアーノがいました。上の小さなパネルには、父なる神を中心として、4人の教会博士の姿がありました。衣服のひだが大変優美に描かれていますね。

    「修道会シルヴェステル会の多翼祭壇画」1487年から1493年。4番目に紹介するフィオレンツォ・ディ・ロレンツォの作品です。サンタ・マリア・ヌオヴァ教会の主祭壇を飾っていましたが、17世紀には解体され、オリジナルのフレームは失われています。

    左から聖ピエトロ、福音記者聖ヨハネ、中央には聖母子と跪く二人の天使、聖ベネディクト、そしてシルヴェステル会の聖人(二人候補者がいます)です。両側の壁柱には、左ベネディクト会の修道僧、大天使ガブリエルと洗礼者聖ヨハネ、右ベネディクト会の修道僧、受胎告知のマリア、聖セバスティアーノがいました。上の小さなパネルには、父なる神を中心として、4人の教会博士の姿がありました。衣服のひだが大変優美に描かれていますね。

  • この小さな「聖セバスティアーノ」のパネルは、ペルージャ郊外にあるリパ城にあったもので、城の主ナルドゥッチ家の紋章と主のポートレートが加えられています。サンティ・ディ・アポッロニオによるもので、1476年頃の作品と言われています。

    この小さな「聖セバスティアーノ」のパネルは、ペルージャ郊外にあるリパ城にあったもので、城の主ナルドゥッチ家の紋章と主のポートレートが加えられています。サンティ・ディ・アポッロニオによるもので、1476年頃の作品と言われています。

  • 次の部屋には、ペルージャの教会から集められた貴金属や象牙工芸品が展示されていました。重要なものはほとんどサン・ドメニコ教会から来ているようですが、時間の都合でオミット。

    次の部屋には、ペルージャの教会から集められた貴金属や象牙工芸品が展示されていました。重要なものはほとんどサン・ドメニコ教会から来ているようですが、時間の都合でオミット。

  • 「受胎告知の2つのパネル」1467年から68年。<br /><br />サン・ドメニコ教会にあった祭壇画の一部で、バルトロメオ・カプラーリ作です。祭壇画の他の主要な部分には、ベネデット・ボンフィッリの作品が含まれているのですが、現在公開されていないそうです。

    「受胎告知の2つのパネル」1467年から68年。

    サン・ドメニコ教会にあった祭壇画の一部で、バルトロメオ・カプラーリ作です。祭壇画の他の主要な部分には、ベネデット・ボンフィッリの作品が含まれているのですが、現在公開されていないそうです。

  • ルーム18と書かれていたこちらの部屋は、天井近くノフリーズにのみフレスコが残っていました。歴代の教皇領責任者が居室として使用した後、教皇庁の会議等に使われていた部屋だそうです。

    ルーム18と書かれていたこちらの部屋は、天井近くノフリーズにのみフレスコが残っていました。歴代の教皇領責任者が居室として使用した後、教皇庁の会議等に使われていた部屋だそうです。

  • バルトロメオ・カプラーリの1476年から7年にかけての作品「羊飼いの礼拝」です。サンタ・マリア・ディ・モンテルーチェに1784年の段階では祭壇があったという文書が残っています。<br /><br />左手に、直接地面に寝かされている幼子に敬意を払っている東方三博士の姿があるので、彼らの礼拝かと一瞬混乱してしまいました。天使の音楽隊が、方々の羊飼いに救世主誕生のニュースを知らせているようです。<br /><br />プレデッラには、トンドの中に聖ミケーレ、シエナの聖ベルネルディーノ、トゥールーズの聖ルイ、聖キアラ、パドヴァの聖アントニオ、そして聖ヒエロニムス姿があります。

    バルトロメオ・カプラーリの1476年から7年にかけての作品「羊飼いの礼拝」です。サンタ・マリア・ディ・モンテルーチェに1784年の段階では祭壇があったという文書が残っています。

    左手に、直接地面に寝かされている幼子に敬意を払っている東方三博士の姿があるので、彼らの礼拝かと一瞬混乱してしまいました。天使の音楽隊が、方々の羊飼いに救世主誕生のニュースを知らせているようです。

    プレデッラには、トンドの中に聖ミケーレ、シエナの聖ベルネルディーノ、トゥールーズの聖ルイ、聖キアラ、パドヴァの聖アントニオ、そして聖ヒエロニムス姿があります。

  • フリーズのフレスコについても詳細な説明書きがあったのですが、時間の都合でパス。枢機卿ティベリオ・クリスポがトマゾ・ベルナベイ(またの名をイル・パパチェッロ)に依頼したもので、この部屋をパパチェッロの部屋とも呼んでいるそうです。

    フリーズのフレスコについても詳細な説明書きがあったのですが、時間の都合でパス。枢機卿ティベリオ・クリスポがトマゾ・ベルナベイ(またの名をイル・パパチェッロ)に依頼したもので、この部屋をパパチェッロの部屋とも呼んでいるそうです。

  • 雰囲気だけ味わいます。前述の「羊飼いの礼拝」の右側に見える小さなパネルは、キリストの受難を描いた3枚組で、サン・フランチェスコ教会にあった祭壇画のプレデッラだと思われます。マリアーノ・ディ・アントニオ作。

    雰囲気だけ味わいます。前述の「羊飼いの礼拝」の右側に見える小さなパネルは、キリストの受難を描いた3枚組で、サン・フランチェスコ教会にあった祭壇画のプレデッラだと思われます。マリアーノ・ディ・アントニオ作。

  • どこの部屋にあったのか忘れましたが、ずらりと並んでいるのは15世紀から16世紀にかけてのワッフルメーカー。いろいろな刻印が楽しめます。ワッフルは家庭のみならず、結婚式や教会に新しい会員が入った時などにふるまわれたそうです。今もあまり変わらぬ形ですよね。

    どこの部屋にあったのか忘れましたが、ずらりと並んでいるのは15世紀から16世紀にかけてのワッフルメーカー。いろいろな刻印が楽しめます。ワッフルは家庭のみならず、結婚式や教会に新しい会員が入った時などにふるまわれたそうです。今もあまり変わらぬ形ですよね。

  • 「洗礼者聖ヨハネ、天使たちといる聖母子」。懐かしいテラコッタのトンドです。作者はやはりフィレンツェの人でベネデット・ブリオーニ。1487年から89年頃の作品です。

    「洗礼者聖ヨハネ、天使たちといる聖母子」。懐かしいテラコッタのトンドです。作者はやはりフィレンツェの人でベネデット・ブリオーニ。1487年から89年頃の作品です。

  • プリオーリ宮の礼拝堂だった部屋にやって参りました。ここには2種類のフレスコが描かれていて、非常に複雑。一つはトゥールーズの聖ルイの生涯に関するシリーズ、そしてもう一つは聖エルコラーノの生涯に関するシリーズです。<br /><br />トゥールーズの聖ルイは、ナポリ王カルロ2世の第2子で、ナポリ王相続権を弟のロベールに譲り、フランシスコ修道会に入った人物です。沢山の名前があって覚えられない・・・<br /><br />彼の物語は、右の窓の右側から始まります。最初のフレスコは1454年にベネデット・ボンフィッリが依頼されたトゥールーズの聖ルイの生涯に関わる物語の1枚で、彼が教皇ボニファシオ8世の前で、フランシスコ会の会則を説明している場面です。<br />

    プリオーリ宮の礼拝堂だった部屋にやって参りました。ここには2種類のフレスコが描かれていて、非常に複雑。一つはトゥールーズの聖ルイの生涯に関するシリーズ、そしてもう一つは聖エルコラーノの生涯に関するシリーズです。

    トゥールーズの聖ルイは、ナポリ王カルロ2世の第2子で、ナポリ王相続権を弟のロベールに譲り、フランシスコ修道会に入った人物です。沢山の名前があって覚えられない・・・

    彼の物語は、右の窓の右側から始まります。最初のフレスコは1454年にベネデット・ボンフィッリが依頼されたトゥールーズの聖ルイの生涯に関わる物語の1枚で、彼が教皇ボニファシオ8世の前で、フランシスコ会の会則を説明している場面です。

  • こちらの壁はかなりダメージが大きく、あまりよく調べられなかったのが残念。<br /><br />左側3つのアーチのあるサン・ドメニコ教会の前で繰り広げられているのは、聖ルイによる魚の奇跡だそうです。

    こちらの壁はかなりダメージが大きく、あまりよく調べられなかったのが残念。

    左側3つのアーチのあるサン・ドメニコ教会の前で繰り広げられているのは、聖ルイによる魚の奇跡だそうです。

  • 左側のフレスコは、トゥールーズの聖ルイの葬儀の場面です。<br /><br />聖ルイに関するフレスコはこれでお終いですが、もう一つ聖エルコラーノの生涯に関わる物語がここから始まります。<br /><br />右側は二つの場面から成っています。542年にペルージャを震撼させたトティーラの包囲の様子を描いていて、左の方にはトティーラの兵士たちがマルツィア門の外にあった円形劇場の廃墟に集まっている場面。そして右の方には戦いで亡くなった聖エルコラーノの姿があります。生涯といっても、初めから亡くなっている!!<br /><br />

    左側のフレスコは、トゥールーズの聖ルイの葬儀の場面です。

    聖ルイに関するフレスコはこれでお終いですが、もう一つ聖エルコラーノの生涯に関わる物語がここから始まります。

    右側は二つの場面から成っています。542年にペルージャを震撼させたトティーラの包囲の様子を描いていて、左の方にはトティーラの兵士たちがマルツィア門の外にあった円形劇場の廃墟に集まっている場面。そして右の方には戦いで亡くなった聖エルコラーノの姿があります。生涯といっても、初めから亡くなっている!!

  • 聖エルコラーノのフレスコについては、15世紀末に追加でボンフィッリに依頼されました。状態の悪いフレスコが続きますが、順番としては、右壁の一番左端から左壁に続いているようです。とても複雑。時計回りになっていません。<br /><br />左側の壁に描かれているのは、聖エルコラーノの聖遺物が、サン・ピエトロからドゥオモへと移される行進の場面(936年)だそうで、目を凝らすと、創建時の聖ドメニコ教会、プリオーリ宮、ドゥオモの建物が一部残っているのを見ることが出来ます。

    聖エルコラーノのフレスコについては、15世紀末に追加でボンフィッリに依頼されました。状態の悪いフレスコが続きますが、順番としては、右壁の一番左端から左壁に続いているようです。とても複雑。時計回りになっていません。

    左側の壁に描かれているのは、聖エルコラーノの聖遺物が、サン・ピエトロからドゥオモへと移される行進の場面(936年)だそうで、目を凝らすと、創建時の聖ドメニコ教会、プリオーリ宮、ドゥオモの建物が一部残っているのを見ることが出来ます。

  • 窓の周りは状態が良いものが残っていました。<br /><br />左側は、聖エルコラーノに関する4枚のフレスコのうちの1枚で、彼の聖遺物がサン・ピエトロ教会に移される行進の様子が描かれています。その後、再び聖遺物はドゥオモへと移されるのです。<br /><br /><br />そして中央は、「キリストの磔と聖フランチェスコ、聖エルコラーノ」で、1565年頃の作です。フランドル出身の画家で、Hendrik van den Broeck イタリア名をアッリゴ・フィアッミンゴ・ダ・マリネスはボンフィッリのフレスコを修復する目的で雇われたようです。フレスコが描かれた場所には以前祭壇がありましたが、それを移動したため、ブランクとなっていました。右手前の人物は、画家に依頼したペルージャにおける教皇庁の治世者フランチェスコ・ボッシだと思われます。

    窓の周りは状態が良いものが残っていました。

    左側は、聖エルコラーノに関する4枚のフレスコのうちの1枚で、彼の聖遺物がサン・ピエトロ教会に移される行進の様子が描かれています。その後、再び聖遺物はドゥオモへと移されるのです。


    そして中央は、「キリストの磔と聖フランチェスコ、聖エルコラーノ」で、1565年頃の作です。フランドル出身の画家で、Hendrik van den Broeck イタリア名をアッリゴ・フィアッミンゴ・ダ・マリネスはボンフィッリのフレスコを修復する目的で雇われたようです。フレスコが描かれた場所には以前祭壇がありましたが、それを移動したため、ブランクとなっていました。右手前の人物は、画家に依頼したペルージャにおける教皇庁の治世者フランチェスコ・ボッシだと思われます。

  • ここからペルジーノが続きますよ。まずは「受胎告知」1496年頃。<br /><br />1742年の段階で、ラニエーリという人の所有だったため、「ラニエーリの受胎告知」と呼ばれることもあります。大天使とマリアの間に絶妙な空間があると感じました。この絵は近づきすぎても、遠すぎても魅力が失われると思っています。

    ここからペルジーノが続きますよ。まずは「受胎告知」1496年頃。

    1742年の段階で、ラニエーリという人の所有だったため、「ラニエーリの受胎告知」と呼ばれることもあります。大天使とマリアの間に絶妙な空間があると感じました。この絵は近づきすぎても、遠すぎても魅力が失われると思っています。

  • もう1枚。<br />窓の向こうの町や木々に金色の光が当たって、素晴らしく綺麗です。もうじき夕焼けの時間なのでしょうか・・・

    もう1枚。
    窓の向こうの町や木々に金色の光が当たって、素晴らしく綺麗です。もうじき夕焼けの時間なのでしょうか・・・

  • 「テツィ家祭壇画」1500年。<br /><br />ペルジーノの代表作の一つで、サンタゴスティーノ今日会のテツィ家礼拝堂のために依頼されました。<br /><br />中央には雲の上にいる聖母子、両脇をトレンティーノの聖ニコラ、シエナの聖ベルネルディーノが固めています。左手前にはライオンを従えた聖ヒエロニムス、右手前には聖セバスティアーノ。半身を赤い布で覆って、祈りのポーズをしているセバスティアーノを初めて見ました。<br /><br />

    「テツィ家祭壇画」1500年。

    ペルジーノの代表作の一つで、サンタゴスティーノ今日会のテツィ家礼拝堂のために依頼されました。

    中央には雲の上にいる聖母子、両脇をトレンティーノの聖ニコラ、シエナの聖ベルネルディーノが固めています。左手前にはライオンを従えた聖ヒエロニムス、右手前には聖セバスティアーノ。半身を赤い布で覆って、祈りのポーズをしているセバスティアーノを初めて見ました。

  • 「慰めの聖母のゴンファローネ」1496年から8年。ペルジーノ作。<br />聖母は表情も衣服も上の1枚とほとんど変わりませんね。ってこちらの方が先の作品なので、テツィ家の祭壇はこの絵を元に作られたということかしら?<br /><br />「慰めの聖母奉仕団体」の所有であるゴンファローネはパレードがないときは、彼らの地下にある礼拝堂の祭壇を飾っていましたが、ペルジーノの作品を飾るには不向きと考えたのか、1500年には新しい礼拝堂を建設しています。1797年に奉仕団体が活動禁止となった時には、ナポレオン軍による没収を恐れ、メンバーの一人が自分の家に作品を隠したそうです。<br /><br />

    「慰めの聖母のゴンファローネ」1496年から8年。ペルジーノ作。
    聖母は表情も衣服も上の1枚とほとんど変わりませんね。ってこちらの方が先の作品なので、テツィ家の祭壇はこの絵を元に作られたということかしら?

    「慰めの聖母奉仕団体」の所有であるゴンファローネはパレードがないときは、彼らの地下にある礼拝堂の祭壇を飾っていましたが、ペルジーノの作品を飾るには不向きと考えたのか、1500年には新しい礼拝堂を建設しています。1797年に奉仕団体が活動禁止となった時には、ナポレオン軍による没収を恐れ、メンバーの一人が自分の家に作品を隠したそうです。

  • ゴンファローネが続きます。こちらは「正義の聖母のゴンファローネ」。1496年。聖ベルナルディーノの奉仕団体の所有で、1879年にこの美術館に移されるまで、奉仕団体の礼拝堂に保管されていました。<br /><br />上部に雲にのる聖母子と天使達。下部には聖フランチェスコと聖ベルナルディーノがともに空を見上げています。絵の中で後方に続く道はポルタ・エブルネア(ペルージャ南西部にある門)に続く道だそうです。何本もの塔が乱立している町の様子は随分変わってしまったようです。

    ゴンファローネが続きます。こちらは「正義の聖母のゴンファローネ」。1496年。聖ベルナルディーノの奉仕団体の所有で、1879年にこの美術館に移されるまで、奉仕団体の礼拝堂に保管されていました。

    上部に雲にのる聖母子と天使達。下部には聖フランチェスコと聖ベルナルディーノがともに空を見上げています。絵の中で後方に続く道はポルタ・エブルネア(ペルージャ南西部にある門)に続く道だそうです。何本もの塔が乱立している町の様子は随分変わってしまったようです。

  • ペルジーノの「羊飼いの礼拝」は1504年頃の作品。<br /><br />エルコラーニ家が自分の家族の礼拝堂のために3枚のフレスコをペルジーノに依頼したうちの1枚です。他の2枚は消失し、最後に残ったこのルーネットを飾る1枚も1994年に可能な限りの修復をされてこの程度の復元です。<br /><br />地面に横たわった赤子のキリストは、聖母、聖ヨセフの他、3人の羊飼いに祝福されています。

    ペルジーノの「羊飼いの礼拝」は1504年頃の作品。

    エルコラーニ家が自分の家族の礼拝堂のために3枚のフレスコをペルジーノに依頼したうちの1枚です。他の2枚は消失し、最後に残ったこのルーネットを飾る1枚も1994年に可能な限りの修復をされてこの程度の復元です。

    地面に横たわった赤子のキリストは、聖母、聖ヨセフの他、3人の羊飼いに祝福されています。

  • 「洗礼者聖ヨハネの祭壇画」ペルジーノの1510年頃の作品。<br />ジョルジョ・ヴァザーリは、彼の書物の中で、この祭壇画をサン・フランチェスコ・アル・プラート教会の洗礼者聖ヨハネの礼拝堂で見たと綴っています。<br /><br />聖ヨハネの両脇には、左から聖フランチェスコ、聖ヒエロニムス、聖セバスティアーノ、パドヴァの聖アントニオが描かれています。聖セバスティアーノがローマの軍服姿?で登場したのは私にとっては初めての経験です。<br />

    「洗礼者聖ヨハネの祭壇画」ペルジーノの1510年頃の作品。
    ジョルジョ・ヴァザーリは、彼の書物の中で、この祭壇画をサン・フランチェスコ・アル・プラート教会の洗礼者聖ヨハネの礼拝堂で見たと綴っています。

    聖ヨハネの両脇には、左から聖フランチェスコ、聖ヒエロニムス、聖セバスティアーノ、パドヴァの聖アントニオが描かれています。聖セバスティアーノがローマの軍服姿?で登場したのは私にとっては初めての経験です。

  • モンテリピード修道院のために描かれたこの祭壇画には両面あって、もう片方にはキリストの磔場面が描かれていましたが、あまり好きな絵ではなかったので、片面だけ紹介。ペルジーノの1502年の作です。<br /><br />こちらは会衆に向けられた側で、使徒達が見守る中での聖母戴冠が描かれています。聖母のいる玉座はマンドルラ(アーモンド)の形をしていますね。

    モンテリピード修道院のために描かれたこの祭壇画には両面あって、もう片方にはキリストの磔場面が描かれていましたが、あまり好きな絵ではなかったので、片面だけ紹介。ペルジーノの1502年の作です。

    こちらは会衆に向けられた側で、使徒達が見守る中での聖母戴冠が描かれています。聖母のいる玉座はマンドルラ(アーモンド)の形をしていますね。

  • 「台所の聖母」と呼ばれている作品で、ペルジーノ1515年の作。<br /><br />なんてふくよかな、おかみさんタイプともとれる聖母なのでしょう! 神々しさはなく、町のあちこちで見かけることが出来そうな親密感あふれた聖母に仕上がっています。プリオーリ宮の台所に飾られていた1枚です。まさに台所にぴったり!<br /><br />聖母の後ろにいるのは左聖エルコラーノ、右ペルージャの聖コンスタンテゥヌスです。

    イチオシ

    「台所の聖母」と呼ばれている作品で、ペルジーノ1515年の作。

    なんてふくよかな、おかみさんタイプともとれる聖母なのでしょう! 神々しさはなく、町のあちこちで見かけることが出来そうな親密感あふれた聖母に仕上がっています。プリオーリ宮の台所に飾られていた1枚です。まさに台所にぴったり!

    聖母の後ろにいるのは左聖エルコラーノ、右ペルージャの聖コンスタンテゥヌスです。

  • 「聖ヒエロニムス」16世紀。ペルジーノの作品ですが、正確な制作年が判明していません。最古の記録は1784年で、その時には聖エルコラーノ教会の聖具室に収められていたそうです。<br /><br />ヒエロニムスが十字架に祈りを捧げている場面で、彼のそばには赤い枢機卿の帽子が置かれています。勿論ライオンも! 彼が握っている石はどういう意味があるのでしょう?

    「聖ヒエロニムス」16世紀。ペルジーノの作品ですが、正確な制作年が判明していません。最古の記録は1784年で、その時には聖エルコラーノ教会の聖具室に収められていたそうです。

    ヒエロニムスが十字架に祈りを捧げている場面で、彼のそばには赤い枢機卿の帽子が置かれています。勿論ライオンも! 彼が握っている石はどういう意味があるのでしょう?

  • 眠るような聖母の横顔が印象的なこちらのフレスコは、フィオレンツォ・ディ・ロレンツォの1498年の作品です。生まれたばかりの赤子は裸で馬小屋の前の牧草地に置かれ、聖母と聖ヨセフに跪かれています。<br /><br />かなり状態の悪いフレスコです。地区教会の一つサン・ニコロに置かれていた、2枚のフレスコのうちの1枚で、フレスコは1878年、教会が研究機関に売却される直前に壁から剥されました。<br /><br />

    眠るような聖母の横顔が印象的なこちらのフレスコは、フィオレンツォ・ディ・ロレンツォの1498年の作品です。生まれたばかりの赤子は裸で馬小屋の前の牧草地に置かれ、聖母と聖ヨセフに跪かれています。

    かなり状態の悪いフレスコです。地区教会の一つサン・ニコロに置かれていた、2枚のフレスコのうちの1枚で、フレスコは1878年、教会が研究機関に売却される直前に壁から剥されました。

  • もう片方のフレスコがこちら。アレキサンドリアの聖カタリナの「神秘的な結婚」です。聖母の左側にいるのは、バーリの聖ニコラです。髭のない聖ニコラにお目にかかるのは初めてなので、解説がなければ全く分からないところでした。司教の衣服を身にまとっています。

    もう片方のフレスコがこちら。アレキサンドリアの聖カタリナの「神秘的な結婚」です。聖母の左側にいるのは、バーリの聖ニコラです。髭のない聖ニコラにお目にかかるのは初めてなので、解説がなければ全く分からないところでした。司教の衣服を身にまとっています。

  • 続いて登場するのはピントゥリッキオの大作「サンタ・マリア・デイ・フォッシの祭壇画」です。1496年。彼はベネデット・ボンフィッリやフィオレンツォ・ディ・ロレンツォの弟子だったといわれています。<br /><br />この祭壇画は、ペルージャのサンタ・マリア・ディ・フォッシ教会の主祭壇のために描かれました。すでにフレームはマッティア・トマゾ・レッジョにより制作済みで、教会の参事たちは内容についてもストーリーを決めていたので、あとは絵を待つだけの状態だったのです。<br /><br />パネル中央には聖母子と幼い洗礼者聖ヨハネが描かれています。ヨハネはキリストに彼の運命のシンボルとしての紐のついた十字架を手渡しています。キリストは左手に罪の贖いのシンボルであるザクロを持っています。<br /><br />中央パネルの上部左右には受胎告知、その下には二人の教会博士 やはり罪の贖いのシンボルリンゴを持つ左聖アウグスティヌスと右ポルティコのある教会のモデルを持つ聖ヒエロニムス。意味深長ですね。<br /><br />トップパネルにはピエタ。天使が死んだキリストの腕を支えています。<br /><br />細密ですが大変分かりやすく、ピントゥリッキオらしい美しい色彩に圧倒されました。幼子キリストとヨハネの見つめあう表情が何ともキュートです。

    続いて登場するのはピントゥリッキオの大作「サンタ・マリア・デイ・フォッシの祭壇画」です。1496年。彼はベネデット・ボンフィッリやフィオレンツォ・ディ・ロレンツォの弟子だったといわれています。

    この祭壇画は、ペルージャのサンタ・マリア・ディ・フォッシ教会の主祭壇のために描かれました。すでにフレームはマッティア・トマゾ・レッジョにより制作済みで、教会の参事たちは内容についてもストーリーを決めていたので、あとは絵を待つだけの状態だったのです。

    パネル中央には聖母子と幼い洗礼者聖ヨハネが描かれています。ヨハネはキリストに彼の運命のシンボルとしての紐のついた十字架を手渡しています。キリストは左手に罪の贖いのシンボルであるザクロを持っています。

    中央パネルの上部左右には受胎告知、その下には二人の教会博士 やはり罪の贖いのシンボルリンゴを持つ左聖アウグスティヌスと右ポルティコのある教会のモデルを持つ聖ヒエロニムス。意味深長ですね。

    トップパネルにはピエタ。天使が死んだキリストの腕を支えています。

    細密ですが大変分かりやすく、ピントゥリッキオらしい美しい色彩に圧倒されました。幼子キリストとヨハネの見つめあう表情が何ともキュートです。

  • 「サンタゴスティーノのゴンファローネ」1499年。<br /><br />サンタゴスティーノの奉仕団体がピントゥリッキオに依頼したゴンファローネです。聖アゴスティーノは玉座に座り、彼の周りには奉仕団体のメンバーが跪く姿があります。

    「サンタゴスティーノのゴンファローネ」1499年。

    サンタゴスティーノの奉仕団体がピントゥリッキオに依頼したゴンファローネです。聖アゴスティーノは玉座に座り、彼の周りには奉仕団体のメンバーが跪く姿があります。

  • これから5枚続くペルジーノによる作品は、「サンタゴスティーノ教会の多翼祭壇画」のパネルです。その巨大な両面多翼祭壇画のフレームは、前述のピントゥリッキオによる多翼祭壇画と同じ、マッティア・トマゾ・レッジョの制作で、サンタ・マリア・ディ・フォッシ教会のものをモデルにしているとされています。<br /><br />ペルジーノはこの祭壇画に30枚の絵を描く契約で1502年から仕事を開始しましたが、彼の仕事は大変遅く、途中で何度も訴訟になっています。結局1523年彼が亡くなるまでかかったようです。<br /><br />祭壇画は1654年に解体され、教会のあちこちに保管されていました。ナポレオン軍は1794年そのうちの7枚を没収、様々な美術館に分散させて現在も1枚を除いて返却していません。行方不明のものを除き。残った作品については、1863年にこの美術館に収蔵されました。プレデッラの12枚に関しては1512年までに納品されましたが、この間ペルジーノはほとんどペルージャを離れていたので、作品は彼の弟子によるものと考えられています。<br /><br />こちらは、修道僧を向いた側の1枚「ヒエロニムスとマグダラのマリア」です。<br /><br />

    これから5枚続くペルジーノによる作品は、「サンタゴスティーノ教会の多翼祭壇画」のパネルです。その巨大な両面多翼祭壇画のフレームは、前述のピントゥリッキオによる多翼祭壇画と同じ、マッティア・トマゾ・レッジョの制作で、サンタ・マリア・ディ・フォッシ教会のものをモデルにしているとされています。

    ペルジーノはこの祭壇画に30枚の絵を描く契約で1502年から仕事を開始しましたが、彼の仕事は大変遅く、途中で何度も訴訟になっています。結局1523年彼が亡くなるまでかかったようです。

    祭壇画は1654年に解体され、教会のあちこちに保管されていました。ナポレオン軍は1794年そのうちの7枚を没収、様々な美術館に分散させて現在も1枚を除いて返却していません。行方不明のものを除き。残った作品については、1863年にこの美術館に収蔵されました。プレデッラの12枚に関しては1512年までに納品されましたが、この間ペルジーノはほとんどペルージャを離れていたので、作品は彼の弟子によるものと考えられています。

    こちらは、修道僧を向いた側の1枚「ヒエロニムスとマグダラのマリア」です。

  • 同じく修道僧側で「羊飼いの礼拝」

    同じく修道僧側で「羊飼いの礼拝」

  • 会衆に向いた側の1枚で「キリストの洗礼」。

    会衆に向いた側の1枚で「キリストの洗礼」。

  • 同じく会衆側の「父なる神」

    同じく会衆側の「父なる神」

  • そして同じく会衆側の「大天使ガブリエル」です。対となる受胎告知のマリアは行方不明のようです。

    そして同じく会衆側の「大天使ガブリエル」です。対となる受胎告知のマリアは行方不明のようです。

  • こちらはプレデッラの絵から、「カナの結婚」

    こちらはプレデッラの絵から、「カナの結婚」

  • そして「キリストの神殿へのお披露目」です。プレデッラは全部で12枚ありますが、展示されていたのはこの2枚だけでした。

    そして「キリストの神殿へのお披露目」です。プレデッラは全部で12枚ありますが、展示されていたのはこの2枚だけでした。

  • 「福音記者聖ヨハネの祭壇画」1518年頃。<br />作者はベルト・ディ・ジョヴァンニで、サン・ジュリア-の教会左壁の祭壇を飾っていました。彼の座る後方には、船が浮かぶ川や高い塔のある小高い丘の上の町があり、ウンブリアの当時の景色を楽しむことが出来ます。<br /><br />上部のルーネットにはマンドルラの中に父なる神が祝福のポーズを取っています。

    「福音記者聖ヨハネの祭壇画」1518年頃。
    作者はベルト・ディ・ジョヴァンニで、サン・ジュリア-の教会左壁の祭壇を飾っていました。彼の座る後方には、船が浮かぶ川や高い塔のある小高い丘の上の町があり、ウンブリアの当時の景色を楽しむことが出来ます。

    上部のルーネットにはマンドルラの中に父なる神が祝福のポーズを取っています。

  • 「聖母の生涯の場面」1525年頃<br />サンタ・マリア・ディ・モンテルーチェの修道女は、彼女らの教会の主祭壇の祭壇画を描く契約をラファエッロとベルト・ディ・ジョヴァンニの二人と結びました。修道女はメインをラファエッロに、サブと全体の進行と調整をディ・ジョヴァンニにと考えていたようですが、ラファエッロはローマでの仕事が忙しく、結局体が空く前に亡くなってしまいます。ここに展示されている小さなパネルは、いずれもベルト・ディ・ジョヴァンニの作品です。<br /><br />こちらは「マリアの誕生」

    「聖母の生涯の場面」1525年頃
    サンタ・マリア・ディ・モンテルーチェの修道女は、彼女らの教会の主祭壇の祭壇画を描く契約をラファエッロとベルト・ディ・ジョヴァンニの二人と結びました。修道女はメインをラファエッロに、サブと全体の進行と調整をディ・ジョヴァンニにと考えていたようですが、ラファエッロはローマでの仕事が忙しく、結局体が空く前に亡くなってしまいます。ここに展示されている小さなパネルは、いずれもベルト・ディ・ジョヴァンニの作品です。

    こちらは「マリアの誕生」

  • 「マリアの神殿へのお披露目」

    「マリアの神殿へのお披露目」

  • 「マリアの結婚」自分の父親のような歳にみえるヨセフとの結婚。余りというか全然嬉しそうではないですね。

    「マリアの結婚」自分の父親のような歳にみえるヨセフとの結婚。余りというか全然嬉しそうではないですね。

  • そして「聖母の死」です。

    そして「聖母の死」です。

  • こちらは、ラファエッロの「バリオーニ家のキリスト降下」のコピーです。1609年。名門バリオーニ家は1540年塩戦争に負けて滅ぼされますが、その全盛期の1507年、ラファエッロに家族の礼拝堂の祭壇画を依頼します。そして描かれたのがこちらの1枚です。<br /><br />1608年、礼拝堂のあったフランチェスコ・アル・プラート教会の修道僧はこれを枢機卿ボルゲーゼに売却、よって現在、オリジナルはローマのボルゲーゼ美術館の所蔵となっています。<br />コピーの作者はジュゼッペ・チェーザリ、またの名をイル・カヴァリエル・ダルピーノという長い名前の画家です。

    こちらは、ラファエッロの「バリオーニ家のキリスト降下」のコピーです。1609年。名門バリオーニ家は1540年塩戦争に負けて滅ぼされますが、その全盛期の1507年、ラファエッロに家族の礼拝堂の祭壇画を依頼します。そして描かれたのがこちらの1枚です。

    1608年、礼拝堂のあったフランチェスコ・アル・プラート教会の修道僧はこれを枢機卿ボルゲーゼに売却、よって現在、オリジナルはローマのボルゲーゼ美術館の所蔵となっています。
    コピーの作者はジュゼッペ・チェーザリ、またの名をイル・カヴァリエル・ダルピーノという長い名前の画家です。

  • 「聖ヒエロニムスの祭壇画」1510年頃。<br />ジョヴァンニ・バッティスタ・カポラーリの作品。サン・ジローラモ・教会の主祭壇を飾っていました。ペルジーノの作品と一時言われたこともあるほど、作風が似ています。<br /><br />左から聖フランチェスコ、洗礼者聖ヨハネ、聖母子、聖ヒエロニムス、パドヴァの聖アントニオです。

    「聖ヒエロニムスの祭壇画」1510年頃。
    ジョヴァンニ・バッティスタ・カポラーリの作品。サン・ジローラモ・教会の主祭壇を飾っていました。ペルジーノの作品と一時言われたこともあるほど、作風が似ています。

    左から聖フランチェスコ、洗礼者聖ヨハネ、聖母子、聖ヒエロニムス、パドヴァの聖アントニオです。

  • 「東方三博士の礼拝」1505年。エウゼビオ・ダ・サン・ジョルジョの作品で、ヴァザーリによれば、サンタゴスティーノ教会のオッディ家の祭壇に飾られていました。三博士のかぶる帽子がとてもエキゾチックです。印象に残る1枚です。

    「東方三博士の礼拝」1505年。エウゼビオ・ダ・サン・ジョルジョの作品で、ヴァザーリによれば、サンタゴスティーノ教会のオッディ家の祭壇に飾られていました。三博士のかぶる帽子がとてもエキゾチックです。印象に残る1枚です。

  • こちらはちょっと変わった「クアトロ・コロナーティ(4戴冠殉教者)の祭壇画」1506年から1512年。<br /><br />ローマのクアトロ・コロナーティ教会を訪問したことを思い出します。「石と木のロンバルディ工房」という職人集団が受注したサンタ・マリア・デイ・セルビ教会の主祭壇のプレデッラ部分です。<br /><br />この祭壇画もメイン部分はフランスに没収されてルーブルにあるそうです。なんだかフランス、イギリスって盗人集団に思えてきますね。<br /><br />左端のパネルには聖エルコラーノと聖コンスタンティヌス、右端には聖ベルナルディーノと聖セバスティアーノ。そして中央には、皇帝ディオクレティアヌスの迫害によって殉教した4人の殉教のシーンが再現されています。

    こちらはちょっと変わった「クアトロ・コロナーティ(4戴冠殉教者)の祭壇画」1506年から1512年。

    ローマのクアトロ・コロナーティ教会を訪問したことを思い出します。「石と木のロンバルディ工房」という職人集団が受注したサンタ・マリア・デイ・セルビ教会の主祭壇のプレデッラ部分です。

    この祭壇画もメイン部分はフランスに没収されてルーブルにあるそうです。なんだかフランス、イギリスって盗人集団に思えてきますね。

    左端のパネルには聖エルコラーノと聖コンスタンティヌス、右端には聖ベルナルディーノと聖セバスティアーノ。そして中央には、皇帝ディオクレティアヌスの迫害によって殉教した4人の殉教のシーンが再現されています。

  • 「全聖人の祭壇」1506年から07年。<br /><br />ジャンニコラ・ディ・パオラがサン・ドメニコ教会のために制作した主祭壇です。<br /><br />なんと沢山の登場人物! わたくしに識別できるのは、聖母、キリスト、洗礼者聖ヨハネ、バーリの聖二コラ、聖ピエトロ、聖パオロ、聖セバスティアーノ、マグダラのマリア位です。オールスターズですね。

    「全聖人の祭壇」1506年から07年。

    ジャンニコラ・ディ・パオラがサン・ドメニコ教会のために制作した主祭壇です。

    なんと沢山の登場人物! わたくしに識別できるのは、聖母、キリスト、洗礼者聖ヨハネ、バーリの聖二コラ、聖ピエトロ、聖パオロ、聖セバスティアーノ、マグダラのマリア位です。オールスターズですね。

  • 「サンタニェーゼ教会の祭壇画」1517年。<br /><br />何度か登場しているベルト・ディジョヴァンニがサンタニェーゼ教会のために描いたという記録が碑文が残っています。<br /><br />中央ではキリストによる聖母戴冠が行われていますが、それを熱心に見ているのは、左から2番目の聖ピエトロのみ。左端のムキムキの洗礼者聖ヨハネはなにやらカメラ目線ですし、ほかの聖人たちもよそ見をしているみたいに見えます。<br />手前で跪いているのはヒエロニムスと聖フランチェスコ。右側には剣を持った聖パオロと聖エルコラーノがいます。

    「サンタニェーゼ教会の祭壇画」1517年。

    何度か登場しているベルト・ディジョヴァンニがサンタニェーゼ教会のために描いたという記録が碑文が残っています。

    中央ではキリストによる聖母戴冠が行われていますが、それを熱心に見ているのは、左から2番目の聖ピエトロのみ。左端のムキムキの洗礼者聖ヨハネはなにやらカメラ目線ですし、ほかの聖人たちもよそ見をしているみたいに見えます。
    手前で跪いているのはヒエロニムスと聖フランチェスコ。右側には剣を持った聖パオロと聖エルコラーノがいます。

  • こちらは上のメインパネルに付随するプレデッラを構成する8枚です。これで全てかどうかも、組み合わせもわかっていないそうです。<br /><br />細長いほうのパネルには、左上から聖コズマと聖ダミアーノ、シエナの聖ベルナルディーノの説教、左下から聖キアラ、トゥールーズの聖ルイが描かれていました。<br /><br />中央の4枚のパネルは、左上から羊飼いの礼拝、東方三博士の礼拝、左下から最後の晩餐、ピエタです。

    こちらは上のメインパネルに付随するプレデッラを構成する8枚です。これで全てかどうかも、組み合わせもわかっていないそうです。

    細長いほうのパネルには、左上から聖コズマと聖ダミアーノ、シエナの聖ベルナルディーノの説教、左下から聖キアラ、トゥールーズの聖ルイが描かれていました。

    中央の4枚のパネルは、左上から羊飼いの礼拝、東方三博士の礼拝、左下から最後の晩餐、ピエタです。

  • 「多翼祭壇画からのパネル」1510年頃。<br /><br />サン・ドメニコ教会に残されていたジャンニコラ・ディ・パオラによる多翼祭壇画の一部です。左側には福音記者聖ヨハネと聖母、右側にはマグダラのマリアと聖セバスティアーノが描かれています。4人とも悲嘆に満ちたポーズですが、特に聖ヨハネと聖セバスティアーノの表情にうっとり・・・メイン部分に何が描かれていたかわかりませんが、多分磔かキリストを十字架から降ろす場面だったのではないかと想像しています。

    「多翼祭壇画からのパネル」1510年頃。

    サン・ドメニコ教会に残されていたジャンニコラ・ディ・パオラによる多翼祭壇画の一部です。左側には福音記者聖ヨハネと聖母、右側にはマグダラのマリアと聖セバスティアーノが描かれています。4人とも悲嘆に満ちたポーズですが、特に聖ヨハネと聖セバスティアーノの表情にうっとり・・・メイン部分に何が描かれていたかわかりませんが、多分磔かキリストを十字架から降ろす場面だったのではないかと想像しています。

  • 「リエティの福者コロンバ」1505年頃。<br /><br />こちらもジャンニコラ・ディ・パオラの作品で、福者コロンバが亡くなってすぐの時期に描かれたものです。彼女の聖遺物とともにサン・ドメニコ教会の彼女に捧げる礼拝堂に置かれていました。<br /><br />右上から突き出している手はキリストの手だそうですよ。

    「リエティの福者コロンバ」1505年頃。

    こちらもジャンニコラ・ディ・パオラの作品で、福者コロンバが亡くなってすぐの時期に描かれたものです。彼女の聖遺物とともにサン・ドメニコ教会の彼女に捧げる礼拝堂に置かれていました。

    右上から突き出している手はキリストの手だそうですよ。

  • 「聖母子と聖人達」1530年頃。<br /><br />漫画チックと言ったら怒られそうですが、筆のタッチや構図は現代風で親近感があります。ベルナルディーノ・ディ・マリオットの作品ですが、どこに帰属していたものかわかっていません。<br /><br />聖母は床に座り、幼子を聖アンナ(マリアの母親)に手渡している場面です。光っていてよく見えませんが、右上にいる二人の聖人は聖セバスティアーノと聖ロッホ。天使たちが持っているフィンチ(鳥)と幼子が持っているザクロは、どちらも受難のシンボルです。

    「聖母子と聖人達」1530年頃。

    漫画チックと言ったら怒られそうですが、筆のタッチや構図は現代風で親近感があります。ベルナルディーノ・ディ・マリオットの作品ですが、どこに帰属していたものかわかっていません。

    聖母は床に座り、幼子を聖アンナ(マリアの母親)に手渡している場面です。光っていてよく見えませんが、右上にいる二人の聖人は聖セバスティアーノと聖ロッホ。天使たちが持っているフィンチ(鳥)と幼子が持っているザクロは、どちらも受難のシンボルです。

  • 「聖母戴冠」1528年頃。<br />ベルナルディーノ・ディ・マリオットの作品をあと2枚紹介。こちらはサン・トマゾ修道院のために描かれたものです。<br /><br />雲の上のマンドルラで、聖母の戴冠が行われています。下にいる天使は音楽を奏で、上後方にいる天使は宝石と花束を捧げています。

    「聖母戴冠」1528年頃。
    ベルナルディーノ・ディ・マリオットの作品をあと2枚紹介。こちらはサン・トマゾ修道院のために描かれたものです。

    雲の上のマンドルラで、聖母の戴冠が行われています。下にいる天使は音楽を奏で、上後方にいる天使は宝石と花束を捧げています。

  • もう何回目の登場になりますが、「アレキサンドリアの聖カタリナの神秘的な結婚式」。1530年頃の作品で、サンタ・カテリナ・ヌオヴァ教会のために描かれました。<br /><br />彼の描く人物は皆八頭身で、スタイルよく、美男美女揃いですね。中世のペルージャで、アレキサンドリアのカテリナの人気が高かったことが伺えます。聖母子の左側に立つのは聖ピエトロと聖カテリナ。右側にはマグダラのマリアと司教聖人。マグダラのマリアの美しさも際立っていますね。<br /><br />幼子がカタリナの指に指輪をはめるのに、聖母が手伝っていて、カテリナの腕をつかんでいるのが面白いです。

    もう何回目の登場になりますが、「アレキサンドリアの聖カタリナの神秘的な結婚式」。1530年頃の作品で、サンタ・カテリナ・ヌオヴァ教会のために描かれました。

    彼の描く人物は皆八頭身で、スタイルよく、美男美女揃いですね。中世のペルージャで、アレキサンドリアのカテリナの人気が高かったことが伺えます。聖母子の左側に立つのは聖ピエトロと聖カテリナ。右側にはマグダラのマリアと司教聖人。マグダラのマリアの美しさも際立っていますね。

    幼子がカタリナの指に指輪をはめるのに、聖母が手伝っていて、カテリナの腕をつかんでいるのが面白いです。

  • 宗教画ばかりの美術館の中で、とても新鮮に見えた風景画です。ペルージャのポンターニ宮のサラ・マッジョーレ(メインルーム)から剥がされた18枚のフレスコの中の1枚です。<br /><br />ペルージャのボルゴ・サン・ピエトロ(現在のカブール大通り)にあったポンターニ宮が右側に見えています。後方の鐘楼はサン・ピエトロ教会のものですね。先ほど歩いた辺りです。屋敷は1836年に取り壊されて現存しません。

    宗教画ばかりの美術館の中で、とても新鮮に見えた風景画です。ペルージャのポンターニ宮のサラ・マッジョーレ(メインルーム)から剥がされた18枚のフレスコの中の1枚です。

    ペルージャのボルゴ・サン・ピエトロ(現在のカブール大通り)にあったポンターニ宮が右側に見えています。後方の鐘楼はサン・ピエトロ教会のものですね。先ほど歩いた辺りです。屋敷は1836年に取り壊されて現存しません。

  • 「商人たちを神殿から追い出すキリスト」16世紀。<br /><br />彫刻家ヴィンチェンツィオ・ダンティの作品ですが、出所に関しては何の文書も残っていません。中世にもこのような古典的なレリーフが作られていたんだと認識した次第です。ダンティの代表作は、ドゥオモの前にあった「教皇ユリウス3世像」です。

    「商人たちを神殿から追い出すキリスト」16世紀。

    彫刻家ヴィンチェンツィオ・ダンティの作品ですが、出所に関しては何の文書も残っていません。中世にもこのような古典的なレリーフが作られていたんだと認識した次第です。ダンティの代表作は、ドゥオモの前にあった「教皇ユリウス3世像」です。

  • 「聖アンナとキリスト降誕」1536年。<br /><br />サン・フランチェスコ・アル・プラート教会の祭壇画で、ドメニコ・アルファーニの作品。聖ヨセフ。聖アンナ、聖母に囲まれて、すでにもう首がしっかり座った幼子キリストがいます! 聖アンナが何をしようとしているのか気になります。

    「聖アンナとキリスト降誕」1536年。

    サン・フランチェスコ・アル・プラート教会の祭壇画で、ドメニコ・アルファーニの作品。聖ヨセフ。聖アンナ、聖母に囲まれて、すでにもう首がしっかり座った幼子キリストがいます! 聖アンナが何をしようとしているのか気になります。

  • 「サピエンツァ・ヴェッキアの祭壇画」1518年。<br /><br />大学の古いカレッジ内にあったこちらの祭壇画もドメニコ・アルファーニの作品で、彼の最高傑作と言われています。戴冠した聖母子の両脇には聖グレゴリウス1世とばーりの聖二コラが描かれています。古いカレッジの名前は、聖グレゴリウスでしたので、ぴったりのキャスティングです。

    「サピエンツァ・ヴェッキアの祭壇画」1518年。

    大学の古いカレッジ内にあったこちらの祭壇画もドメニコ・アルファーニの作品で、彼の最高傑作と言われています。戴冠した聖母子の両脇には聖グレゴリウス1世とばーりの聖二コラが描かれています。古いカレッジの名前は、聖グレゴリウスでしたので、ぴったりのキャスティングです。

  • プリオーリ宮の時計台の裏にある部屋です。低いクロスヴォールトには紋章らしきものが沢山描かれていました。

    プリオーリ宮の時計台の裏にある部屋です。低いクロスヴォールトには紋章らしきものが沢山描かれていました。

  • カルロ・ペッレグリーニ作の「ウルバヌス8世の肖像」。例の蜂がトレードマークのバルベリーニ家出身の教皇で在位 1623年〜1644年です。

    カルロ・ペッレグリーニ作の「ウルバヌス8世の肖像」。例の蜂がトレードマークのバルベリーニ家出身の教皇で在位 1623年〜1644年です。

  • ようやく終わりが近づいて参りました。サンタゴスティーノの祈祷所にあった4人の美徳の寓意像は、シモーネ・チブッリ作。4枚組ですが、ここでは2枚だけ。左から<br />「信仰」、「神学的徳」です。寓意像は何度見てもよく理解できません。どうやって判別するのでしょう?

    ようやく終わりが近づいて参りました。サンタゴスティーノの祈祷所にあった4人の美徳の寓意像は、シモーネ・チブッリ作。4枚組ですが、ここでは2枚だけ。左から
    「信仰」、「神学的徳」です。寓意像は何度見てもよく理解できません。どうやって判別するのでしょう?

  • 光の演出が素晴らしいこちらの作品は、「キリストの神殿へのお披露目」。1580年頃の作品です。<br /><br />これはジェス教会へのアナスターギ家の遺贈の一部だと考えられていますが、詳細は分かっておりません。聖母のまなざしが少々きついように思えます。

    光の演出が素晴らしいこちらの作品は、「キリストの神殿へのお披露目」。1580年頃の作品です。

    これはジェス教会へのアナスターギ家の遺贈の一部だと考えられていますが、詳細は分かっておりません。聖母のまなざしが少々きついように思えます。

  • 「東方三博士の礼拝」1545年。<br /><br />ドメニコ・アルフィーニ作。サンタ・マリアイ・ノヴェッラ教会(後のサン・ベネデット・ディ・コンドーティ教会)の両面祭壇画は元々ジョヴァンニ・ディ・パオラに依頼されていましたが、彼が描き上げる前に亡くなったため、アルフィーニに再依頼されたものです。<br /><br />日付と碑文が入っていたプレデッラはその後行方不明となりました。もう片面(訪問)は、ナポレオン軍に没収され、現在なおルーブルが所蔵しています。

    「東方三博士の礼拝」1545年。

    ドメニコ・アルフィーニ作。サンタ・マリアイ・ノヴェッラ教会(後のサン・ベネデット・ディ・コンドーティ教会)の両面祭壇画は元々ジョヴァンニ・ディ・パオラに依頼されていましたが、彼が描き上げる前に亡くなったため、アルフィーニに再依頼されたものです。

    日付と碑文が入っていたプレデッラはその後行方不明となりました。もう片面(訪問)は、ナポレオン軍に没収され、現在なおルーブルが所蔵しています。

  • 「聖母の誕生」ピエトロ・ダ・コルトーナ作 1643年。<br /><br />ローマでは彼の作品を沢山拝むことができたのですが、ペルージャでも見られるとは思っていませんでした。4枚前の写真教皇ウルバヌス8世のお気に入りの一人です。サン・フィリッポ・ネリ教会の聖母の誕生礼拝堂の祭壇画として描かれました。<br /><br />当時の教会の神父達がマリアの母アンナの官能的な肉体に動揺したという話がまことしやかに伝わってきています。

    「聖母の誕生」ピエトロ・ダ・コルトーナ作 1643年。

    ローマでは彼の作品を沢山拝むことができたのですが、ペルージャでも見られるとは思っていませんでした。4枚前の写真教皇ウルバヌス8世のお気に入りの一人です。サン・フィリッポ・ネリ教会の聖母の誕生礼拝堂の祭壇画として描かれました。

    当時の教会の神父達がマリアの母アンナの官能的な肉体に動揺したという話がまことしやかに伝わってきています。

  • 美術館の36室は、かつてプリオーリ宮の食堂兼集会場だったそうです。こちらは、最近見つかった(壁の中から出てきた)ジャンニコロ・ディ・パオロ作のフレスコ「最後の晩餐」の一部です。1493年。あまりにも状態が悪いですが、キリスト、聖ヨハネ、ユダだけはよくわかりますね。

    美術館の36室は、かつてプリオーリ宮の食堂兼集会場だったそうです。こちらは、最近見つかった(壁の中から出てきた)ジャンニコロ・ディ・パオロ作のフレスコ「最後の晩餐」の一部です。1493年。あまりにも状態が悪いですが、キリスト、聖ヨハネ、ユダだけはよくわかりますね。

  • 「ヴィテルロのサンタ・ロサ」1660年〜70年。<br /><br />作者のチーロ・フェッリはバロック時代の彫刻家兼画家で、ピエトロ・ダ・コルトーナの弟子と言われています。サンタ・ロサは13世紀のフランシスコ会の修道女で、未来予知能力と奇跡を起こす力を持っていたようですが、わずか18歳で亡くなっています。

    「ヴィテルロのサンタ・ロサ」1660年〜70年。

    作者のチーロ・フェッリはバロック時代の彫刻家兼画家で、ピエトロ・ダ・コルトーナの弟子と言われています。サンタ・ロサは13世紀のフランシスコ会の修道女で、未来予知能力と奇跡を起こす力を持っていたようですが、わずか18歳で亡くなっています。

  • 「祈る聖母」1660年頃。<br /><br />サン・ピエトロ教会で沢山の作品を見たイル・サッソフェッラートの作品です。サン・セヴェーロ教会に所蔵されていました。じっと見入ってしまいました。

    イチオシ

    「祈る聖母」1660年頃。

    サン・ピエトロ教会で沢山の作品を見たイル・サッソフェッラートの作品です。サン・セヴェーロ教会に所蔵されていました。じっと見入ってしまいました。

  • 「聖家族」1660年頃。<br />ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリーニ作。彼は修道会小さき兄弟カプチン会の熱心な信者だったようで、この絵は彼の家族がカプチン会のために購入した家にありました。チェッリーニは1670年頃死去しましたが、財産はすべて修道僧に残したそうです。聖母の母アンナに比べて、聖ヨセフの存在のなんて希薄なこと!

    「聖家族」1660年頃。
    ジョヴァンニ・ドメニコ・チェッリーニ作。彼は修道会小さき兄弟カプチン会の熱心な信者だったようで、この絵は彼の家族がカプチン会のために購入した家にありました。チェッリーニは1670年頃死去しましたが、財産はすべて修道僧に残したそうです。聖母の母アンナに比べて、聖ヨセフの存在のなんて希薄なこと!

  • 「マリアの神殿へのお披露目」1665年頃。<br /><br />サン・フィリッポ・ネロ教会のビガッツィーニ家礼拝堂にあったルイジ・ペッレグリーノの作品。マリアは3歳くらいでしょうか?一人で祭司長ザカリヤの下へと赴いています。手前にはマリアの両親(父ヨアキム、母アンナ)が奉献物の山鳩を持ち、控えています。彼らの間にいるカメラ目線の女の子は誰でしょう?

    「マリアの神殿へのお披露目」1665年頃。

    サン・フィリッポ・ネロ教会のビガッツィーニ家礼拝堂にあったルイジ・ペッレグリーノの作品。マリアは3歳くらいでしょうか?一人で祭司長ザカリヤの下へと赴いています。手前にはマリアの両親(父ヨアキム、母アンナ)が奉献物の山鳩を持ち、控えています。彼らの間にいるカメラ目線の女の子は誰でしょう?

  • 「我に触れるな」1620年頃。<br /><br />フランス人画家ヴァレンティン・ド・ブローニュの作品で、復活したキリストが、マグダラのマリアに告げた有名なセリフがタイトルです。カラヴァッジョの影響を受けていると思われる光と影の演出がにくいです。

    「我に触れるな」1620年頃。

    フランス人画家ヴァレンティン・ド・ブローニュの作品で、復活したキリストが、マグダラのマリアに告げた有名なセリフがタイトルです。カラヴァッジョの影響を受けていると思われる光と影の演出がにくいです。

  • 「聖チェチリアと天使」1620年頃。<br /><br />オラツィオ・ジェンティレスキの作品ですが、1970年代にトーディのサン・フランチェスコ・ディ・ボルゴ修道院にあったということ以外何もわかっていません。<br /><br />音楽の聖人チェチリアが弾いているのはいるのはスピネッタ。ハープシコードを小型にしたような楽器です。

    「聖チェチリアと天使」1620年頃。

    オラツィオ・ジェンティレスキの作品ですが、1970年代にトーディのサン・フランチェスコ・ディ・ボルゴ修道院にあったということ以外何もわかっていません。

    音楽の聖人チェチリアが弾いているのはいるのはスピネッタ。ハープシコードを小型にしたような楽器です。

  • 終盤です。もう帰りの列車の時刻はとっくに過ぎてしまったので、今更じたばたしても始まりません。ゆっくりと見ることにしましょう。<br /><br />プリオーリ宮の内部がわかるようになっている模型がありました。

    終盤です。もう帰りの列車の時刻はとっくに過ぎてしまったので、今更じたばたしても始まりません。ゆっくりと見ることにしましょう。

    プリオーリ宮の内部がわかるようになっている模型がありました。

  • 最後から2番目にあったこちらの部屋には、1860年頃のペルージャの町の風景が展示されていました。すべてジュゼッペ・ロッシの作品です。<br /><br />枢機卿リヴァローラが建てた闘牛やパッローネと呼ばれる球技を行ったスタジアムです。右手には要塞が顔をのぞかせていますね。<br /><br /><br />

    最後から2番目にあったこちらの部屋には、1860年頃のペルージャの町の風景が展示されていました。すべてジュゼッペ・ロッシの作品です。

    枢機卿リヴァローラが建てた闘牛やパッローネと呼ばれる球技を行ったスタジアムです。右手には要塞が顔をのぞかせていますね。


  • パオリーナ要塞シリーズその1<br /><br />右手に見えるのはサン・ドメニコ教会ですね。

    パオリーナ要塞シリーズその1

    右手に見えるのはサン・ドメニコ教会ですね。

  • パオリーナ要塞シリーズその2<br /><br />巨大な要塞だったことがよくわかります。

    パオリーナ要塞シリーズその2

    巨大な要塞だったことがよくわかります。

  • パオリーナ要塞シリーズその3<br /><br />この絵を見てから、また実際に現地を見たかったなあ・・・

    パオリーナ要塞シリーズその3

    この絵を見てから、また実際に現地を見たかったなあ・・・

  • パオリーナ要塞シリーズその4

    パオリーナ要塞シリーズその4

  • ペルージャのカヴァロッティ広場の風景。左側にあるサンタ・マリア・デッリ・アラトリは1874年に取り壊されています。

    ペルージャのカヴァロッティ広場の風景。左側にあるサンタ・マリア・デッリ・アラトリは1874年に取り壊されています。

  • 最後の2枚は作者不詳です。ペルージャの遠景。これはあまり変わらないかもしれません。

    最後の2枚は作者不詳です。ペルージャの遠景。これはあまり変わらないかもしれません。

  • そしてこれもまたパオリーナ要塞を描いたものですね。いやあ〜150年前の風景を満喫しました。

    そしてこれもまたパオリーナ要塞を描いたものですね。いやあ〜150年前の風景を満喫しました。

  • 「マグダラのマリアの聖体」1738年。<br />サンタ・マリア・マッダレーナデッレ・レペントゥーテ教会の祭壇にあった1枚で、セバスティアーノ・コンカの作です。<br /><br />天使により、マグダラのマリアの聖餐式が行われている場面が描かれています。マグダラのマリアは裸の胸を青い布で隠していますが、目がうつろ。エクスタシーの表情なのでしょうか?

    「マグダラのマリアの聖体」1738年。
    サンタ・マリア・マッダレーナデッレ・レペントゥーテ教会の祭壇にあった1枚で、セバスティアーノ・コンカの作です。

    天使により、マグダラのマリアの聖餐式が行われている場面が描かれています。マグダラのマリアは裸の胸を青い布で隠していますが、目がうつろ。エクスタシーの表情なのでしょうか?

  • 最後の1枚です。「モンテモルチーコ・ヌオヴォからのパネル」1745年。<br /><br />モンテモルチーコ・ヌオヴァ修道院の教会にあったミラノの司教聖アンブロジウスがテッサロニキの住民を大量虐殺した罪で破門された皇帝テオドシウスの罪を許している(赦罪)場面だそうです。ピエール・シュブレーラスの作品です。

    最後の1枚です。「モンテモルチーコ・ヌオヴォからのパネル」1745年。

    モンテモルチーコ・ヌオヴァ修道院の教会にあったミラノの司教聖アンブロジウスがテッサロニキの住民を大量虐殺した罪で破門された皇帝テオドシウスの罪を許している(赦罪)場面だそうです。ピエール・シュブレーラスの作品です。

  • 最後までお付き合いいただいた皆様、ぐったりでしょう? 私も流石にお腹がいっぱいになりました。ペルージャの絵画は1400年代から1500年代に集中していたことが良く分かりました。ペルジーノをたっぷりと見ることが出来て良かったです。<br /><br />ドゥオモにはとうとう寄る時間がありませんでしたが、いつの日か再訪できますように!

    最後までお付き合いいただいた皆様、ぐったりでしょう? 私も流石にお腹がいっぱいになりました。ペルージャの絵画は1400年代から1500年代に集中していたことが良く分かりました。ペルジーノをたっぷりと見ることが出来て良かったです。

    ドゥオモにはとうとう寄る時間がありませんでしたが、いつの日か再訪できますように!

  • ペルージャ最後の写真は、プリオーリ宮からすぐのチェザーレ・ファーニ通りにあった素敵なバルコニーのある家です。町並みにしっかりと溶け込んでいました。<br /><br />ペルージャ、いつまでも余韻が残る、本当に離れがたい町でした。旅行記は、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その61 オルヴィエート1に続きますが、現在スペイン、ポルトガルを旅行中のため、暫く更新できません。帰国次第また続きを書きますね。

    ペルージャ最後の写真は、プリオーリ宮からすぐのチェザーレ・ファーニ通りにあった素敵なバルコニーのある家です。町並みにしっかりと溶け込んでいました。

    ペルージャ、いつまでも余韻が残る、本当に離れがたい町でした。旅行記は、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その61 オルヴィエート1に続きますが、現在スペイン、ポルトガルを旅行中のため、暫く更新できません。帰国次第また続きを書きますね。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • マリアンヌさん 2016/05/19 12:51:31
    素晴らしい絵画♪
    junemayさん、こんにちわ。

    今頃、スペイン・ポルトガルの何処を旅していらっしゃるのでしょう?
    教会が多い国なのでさぞ満喫されていらっしゃるでしょうね。

    ところで旅の途中でペルージャのアップ、すごいです。
    それも内容の濃い旅行記で。

    昔、行ったのにピエロ・デッラ・フランチェスカやペルジーノを見たという記憶くらいしかなくて、お恥ずかしい限りです。
    モンテファルコのペルジーノも良かったなぁ。
    いつかペルージャに行く時は、junemayさんの旅行記をバイブルに絵画を見たいと思います。

    表紙のフラ・アンジェリコ素敵な絵ですねぇ。
    ぜひ、再会したいものです☆

    Buon viaggio♪

    マリアンヌ

    junemay

    junemayさん からの返信 2016/05/19 21:34:31
    RE: 素晴らしい絵画♪
    マリアンヌさん
    こんにちは

    今スペインのオヴィエドにいます。850年頃に建てられた、世界遺産にもなっているプレ・ロマネスクの教会を見て歩いて、感激している最中です。オヴィエドの町は小さいので、シエスタに一度帰ってきたところで、マリアンヌさんのうれしいメールを拝見しました。ありがとうございます。

    やはり旅の途中の更新は難しいですね。ほとんど日本にいる間に書いたもので、少し手直ししようかなと思いましたが、そのまま公開してしまいました。帰国してからまたペルージャモードに戻れるのか、とても心配です。

    スペイン、心地よい天気が続いていて、街歩きには最適な季節です。明日はレオンに向かいます。ではまたね!

    junemay

    > junemayさん、こんにちわ。
    >
    > 今頃、スペイン・ポルトガルの何処を旅していらっしゃるのでしょう?
    > 教会が多い国なのでさぞ満喫されていらっしゃるでしょうね。
    >
    > ところで旅の途中でペルージャのアップ、すごいです。
    > それも内容の濃い旅行記で。
    >
    > 昔、行ったのにピエロ・デッラ・フランチェスカやペルジーノを見たという記憶くらいしかなくて、お恥ずかしい限りです。
    > モンテファルコのペルジーノも良かったなぁ。
    > いつかペルージャに行く時は、junemayさんの旅行記をバイブルに絵画を見たいと思います。
    >
    > 表紙のフラ・アンジェリコ素敵な絵ですねぇ。
    > ぜひ、再会したいものです☆
    >
    > Buon viaggio♪
    >
    > マリアンヌ

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