2015/05/23 - 2015/05/23
14位(同エリア125件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 168,815アクセス
- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
今日は、まず、アッシジとは逆方向に列車で一つ目のトレヴィに向かい、続いてスポレートに行く予定です。またまた2都市訪問だなんて、1日に1都市でも時間が足りなくて失敗しているのに、懲りない奴なんです。
グーグルマップを見て知ったトレヴィは、地球の〇き方にも載っていないマイナーな町。やはり小高い丘の上に広がる美しい町です。たまたま、現地のバス会社のサイトを見ているうちに、フォリーニョからのバスがあることを知り、行ってみることにしました。帰りのバスはないのですが、最寄りの鉄道駅まで2.6km。徒歩で34分の道のりです。下り道だから問題なしと判断したのですが、またしてもやってしまいましたよ!!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
今日は隣室の男性客アントニオと一緒のテーブルで朝食です。彼は28歳くらい。流暢ではありませんが、分かりやすい英語を話します。その彼に、写真の、イタリアの家庭ならどこにでもあるコーヒー沸かし(マキネッタ)の使い方を尋ねることから会話が始まりました。今まで使い方がわからず、インスタントで済ませていたのです。
ちなみに、エスプレッソの入れ方は、マキネッタの中にぎっしりと細挽きにしたコーヒーの粉を、下の部分には水を入れて、火にかけます。沸騰したら少し火を弱めにして加熱を続けると、上のサーバー部分にコーヒーがたまっていきます。とても簡単で便利なグッズです。よほど買って帰ろうかと思いましたが、エスプレッソ用の細挽の粉を見つけるのが大変そうなのでやめました。
朝食を食べながらの会話で、アントニオがイタリア軍の兵士で、フォリーニョには指揮官任用試験を受けに来たことが分かりました。イタリア人の兵士と話す機会なんて、そう滅多に転がっていないので、私も興味津々で、彼の話を聞きます。今日の試験について、少しナーバスになっている彼はのっけからこんなことを言ったのです。
「僕はこの国に対して、どのくらい自分が愛情を持っているのかよくわからないんだよ。イタリアのために死ねるか?って聞かれたら、僕は自信を持ってハイと答えられない。お宅の国の特攻隊のように、誇り高く国のために死ぬなんて、僕にはできそうもない・・・」
彼の話を聞きながら、私は2月に訪れた鹿児島の特攻記念館のことを思い出していました。実は特攻記念館には思い入れがあって、2月は2度目の訪問でした。
そこで、出陣の前夜に宿泊する三角兵舎で、彼ら特攻隊員が使った枕が涙でぐっしょり濡れていたという話をアントニオにしました。そして、
「死ぬのが平気なんていう人はそんなにいるものではないと思う。特攻の若者たちだって、平静を装っていても、心の中は激しい葛藤があったに違いないわ。国のために死ぬことは大切でもなんでもない。想像だけれど・・・最後に彼らの脳ををよぎったのは、自分が国のために何ができるかってことだったと思うの。今は自分を信じて、自分が出来ることを精一杯やるしかないんじゃない? 出来る限りの力を出し尽くすことがあなたの使命なんじゃないかしら? 彼らの死を無駄にしないためにもね。」
・・・なんて、初対面の人にこんな偉そうなことを言ってしまいました。日本語じゃあ絶対に言えない! 思い出すだけでも汗・・・
朝食の話題としては、重たかったけれど、いまだに、この日の朝食の事ははっきりと覚えています。アントニオ頑張ってくれたかな??? -
フォリーニョ10:10発のトレヴィ行のバスに乗ります。トレヴィはフォリーニョから10km、スポレートから20km、セラーノ山の裾野にある小さな町です。
ウンブリアは、本日もお天気がいまいち。また雨が降り始めましたよ。さすがに今日は傘持参ですが、降らないでほしいなあ・・・ -
フォリーニョから南に向かっていたバスはここで東に折れて、山を上り始めます。
-
25分で、トレヴィのガリバルディ広場に到着です。フォリーニョからのバスは、あの青いバスです。Umblia mobilitaというバスには随分お世話になりました。
-
右も左もわからないので、まずはバールに入って美味しい珈琲タイム。ここに、町の地図等が置いてあったので、ありがたく頂戴してきました。
-
紹介するほどでもありませんが、店の名前はカフェ・ローマです。
-
隣にインフォメーションがありましたが、閉まっていました。観光大国なのにインフォメーションが11時から営業開始とかよくありました。信じられません。
トレヴィの町は、前述のセラーノ山の麓近く、クリトゥンノ川が削った天然の要塞の上に紀元前1世紀頃築かれました。フラミニア街道に遠くないこともあり、町はローマの影響を大きく受けながら発展していったようです。 -
ガリバルディ広場に面して建っているのは、パラッツォ・コムナーレ町役場です。中世の時代には自治都市(1213年)となったのを機会に1273年に創建されました。その後、1522年から6年にかけて再建、1703年の地震の後には大改修を行っています。
-
パラッツォ・コムナーレの右隣に建つのがトーレ・デル・コムーネで、こちらは13世紀に建てられましたが、1691年にやはり改修されています。手前の黄色い建物はパラッツォ・デル・カピターノ・デル・ポポロ。町の司令官の館。アッシジにもありましたね。
-
ガリバルディ広場が町の中心だということはわかりました。正確にいうと、旧市街の手前に当たる部分です。この先が本当に小さな旧市街で、1264年に作られた城壁と入口のラルゴ門があったのですが、1910年に取り壊されたそうです。では、心もとない地図1枚きりですが、街歩きに出発です。
-
まずは福者プラチド・リッカルディ通りを進みます。幸い雨はそうたいしたことありません。
-
まだまだ上るんですね。階段が続きます。
-
スペッロともアッシジとも雰囲気が異なります。イタリアって町の数だけ異なった様相が楽しめるんだなあ・・・
-
建物が3階建、4階建が多いせいか、余計に薄暗い道をずんずん上っていきますが、人っ子一人歩いていません。し〜んと静まり返った町です。
-
なんだかよくわからない、誰かがお風呂に入っている奇妙な絵のある工事現場の横に、町で一番大きな教会を発見しました。ローマ時代の浴場跡ってことはないですよね。
-
広場がないので、後陣から近づきます。聖エミリアーノ教会。トレヴィの町の最高地点に建っている町を象徴する教会です。
創建は1214年とされていますが、現在の建物は15世紀と19世紀に改修が行われています。但し、写真の後陣3つの円筒形部分とそれに続く壁は、創建当時のままだそうです。 -
言い伝えによれば、ローマ時代にはここにダイアナの神殿があったそうです。聖フェリチアーノがそれを壊して三位一体教会を跡地に建てましたが、のちにトレヴィの最初の司教である聖エミリアーノに捧げる教会となりました。彼はディオクレティアヌスの大迫害により303年に殉教しています。
教会前が狭すぎるので、うまく写せませんでしたが、ファサードは15世紀のルネッサンス様式。大変簡素です。 -
内部は19世紀のリフォームですっかりネオクラシカル様式に変わっていました。三廊式で、クリーム色が基調のインテリアは、清楚な雰囲気です。
-
先ほど外側を見た、創建当時のままの後陣の壁が残る礼拝堂です。中に収められているのは、15世紀に作られた聖水盤。そばにあった解説板には、聖アントニーノ・ファントサティは、1842年にここで洗礼を受けたと書かれていました。
司祭であり、修道会小さき兄弟会(聖フランチェスコの開いた修道会)の宣教師であったファントサティは、1900年、赴任先の中国湖南省で、外国人排斥運動の首謀者に殺されたことで、「殉教」の扱いとなっています。
石について知りたかったのに、他には何の説明も得られずじまい・・・ -
こちらが、この教会が捧げる聖エミリアーノ。1660年頃作られた多色木像(こんな言葉ないかもしれませんが、要は多色に塗られた木製の像という意味で使っています)。アッシジでもありましたが、この木像、聖人の記念日(1月27日)には外に持ち出され、人々が担いでお神輿のように町を練り歩くそうです。トレヴィの人々の心の拠り所です。
聖エミリアーノが胸に付けている顔バッジが気になるなあ・・・ -
妙にイケメンのキリスト像がありました。微妙に色がついている石も大変美しい。
-
主祭壇上のクーポラは、白地に、花や王冠、司教の杖、ヤシの葉などがちりばめられた青い四角形が鮮やかなコントラストを見せています。身廊の柱や壁、天井がクリーム色一色なので、人々の視線が主祭壇よりここに集中しそう。
というか、主祭壇の祭壇画が不鮮明でよく理解出来ませんでした。 -
こちらは、「柱の聖母子」と呼ばれているフレスコ画の断片です。モンテファルコのフランチェスコ・メランツィオの作品で、元々あった教会の柱に描かれていたものをこちらに移したものだそうです。16世紀初頭の作品と言われています。
-
秘跡の同胞 サクラメント礼拝堂は、ヴィチェンツァの彫刻家ロッコ・ディ・トマゾの手によるもので、1521年から25年にかけて作られた古い礼拝堂です。彼の作品は、スペッロのサンタ・マリア・マッジョーレの主祭壇で見ましたよね。
http://4travel.jp/travelogue/11112379
中央のニッチェの中心には幕屋があって、その周りを天使たちが守っています。大変美しい浮き彫りで、細部まで手の込んだ装飾で覆われています。
サクラメント=秘跡とは、カトリックでは洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・婚姻の7つの儀式のことを指すそうです。幕屋の中にある7つの顔がそれを表しているんでしょうね。
左右のニッチェには、コモのマッティア・ディ・ガスパーレによる聖母と聖ヨセフの像が置かれていました。
アペニン山脈の柔らかい砂岩で作られたというこの礼拝堂、聖エミリアーノ教会のお宝に違いありません! -
最後はカウンターファサードです。窓の下には、聖エミリアーノの殉教の場面が描かれた6枚のパネルがありましたが、暗すぎて全く見えませんね。
-
外に出て、すぐにあったのが、こちらのカーザ・メディエヴァーレ中世の家です。地図にはいくつか、中世の家が載っていましたが、こちらは16世紀の建てられたものだそうです。
-
現在もどなたかお住いのようで、綺麗に手入れがなされていました。突き出た梁と少しゆがんだバルコニー、そして壁のフレスコ画が、何とも言えない味わい・・・
-
雨が上がって、陽が射してきました。やったぁ〜
-
本日最初の祠です。かつてはニッチェだけあったところに、後でガラス戸をつけたということが良く分かる祠ですね。
-
スペッロやアッシジより漆喰の壁が多いような気がしますねえ。
-
どの家も、緑をうまくあしらって、家の一部に取り込んでいます。
-
そして、それぞれの町が独自の舗装を行っています。見比べてみたら面白そう・・・ウンブリアの町、本当に綺麗。ごみが落ちているのを見たことがないです。
-
左の家、綺麗にモルタルで仕上げても、昔のアーチの跡の部分だけを残しておくというのは、何の意味があるんでしょうね。方々で見かけた気がします。
-
使うのが少々怖そうな階段。手すりがなかったら、上れません!
-
そうこうしているうちに、急に開けた場所に出ました。トレヴィの丘の外周道路に出たようです。
-
まだ煙っているけれど、下界の景色が見えだしましたよ。
-
こちらも、中世の家。建物がふくらんでいるように思いますが、大丈夫なのかしら?
-
外周道路は、12世紀の第二城壁に沿って作られていました。その途中にあったのは、小さな見張り塔の名残り。中は、聖レパラタに捧げる礼拝堂になっていました。
実はこの辺りには他にもフランシスコ会系の修道会が使用していた元要塞の建物がありましたが、1854年の道路拡張の際に取り壊され、この礼拝堂だけが残ったのだそうです。 -
うう〜ん なんとも痛みが激しい16世紀のフレスコですが、中央に聖母子、左に聖エミリアーノ、右に聖レパラタがいるのが分かりますか?
エミリアーノの両手に、キリストと同じ聖痕がついていたのに気が付きました。この礼拝堂を使用していたのが、「フランチェスコの聖痕の同胞会」という修道会。何か関係があるのかなあ・・・ -
なだらかな丘と平原の所々に、集落が点在しています。これは北の方向、フォリーニョ方面の景色です。
-
隣りの丘の上に建つのは、サン・マルティーノ修道院。聖エミリアーノ教会が建つ前は、あそこにトレヴィの教区教会がありました。
-
フォリーニョからバスが走ってきた大きな通りが見えています。写真のラウンドアバウト(環状交差点)のところを西にまっすぐに進めば鉄道駅に出ます。駅までの道は、な〜んだ、簡単じゃない・・・とそのときは思ったのですが・・・
-
続いてやってきたのは、こちらの博物館。トレヴィにある唯一の博物館で、聖フランチェスコ教会とそのアート・コレクション、郷土博物館、オリーヴ博物館を兼ねていました。早速入場します。
-
まずは、こちらの聖フランチェスコのアート・コレクションを見に行きます。博物館は1996年に、13世紀創建の聖フランチェスコ教会の修道院の南西翼の建物の中にオープンしました。修道院はナポレオン治世下に閉鎖され、それ以降は様々な用途に使用されてきましたが、1980年に修道院内やトレヴィの使われていない古い教会等に散らばっていた絵画やフレスコ類をここに集めて展示しているそうです。
-
元修道院の建物をそのまま使った部屋には説明が一切ないのですが、とても素朴なフレスコが残されています。これは4人の福音記者たちのフレスコです。
雄牛が描かれているので、こちらはルカ。彼は医者だったとされていますが、ウィキペディアによれば、画才があり、初めて聖母マリアを描いたという言い伝えにより、中世には聖母子像を描くルカの姿が好んで描かれました。
まさにおっしゃる通りの場面です。 -
蒲鉾ヴォールトのフレスコを写したので、絵が歪んでしまいました。ご容赦を!
こちらは人 あるいは天使がシンボルのマタイ。 -
鷲がシンボルのヨハネは、ほとんどの場合、若い女性と間違えそうな美男子に描かれることが多いですね。
-
そして最後はライオンがシンボルのマルコ。凄い面相のライオンですねえ。額に横皺のあるライオンは初めて見ました。どこかのおやじのような面構えです。
-
こちらはおまけっと言ったら怒られますね。パドヴァの聖アントニオ。いつも幼子のキリストを抱いています。
-
郷土博物館のエリアには、古い棺が展示されていました。解説がイタリア語のみだったので詳細はわかりませんが、ローマ時代のトレヴィのフラミニア街道沿いで発掘された紀元前1〜2世紀のテラコッタ製です。1920年に出土。
他にもいくつかありましたが、皆これと同じような楕円形の筒形でした。 -
博物館にあったトレヴィの全景写真です。この姿に憧れて、やって参りました。今日これと同じような写真が撮れるか、はなはだ不安なので1枚撮っておきます。
これを見ると、やはり先ほど訪れた聖エミリアーノ教会が丘のてっぺんに鎮座していることが分かりますね。 -
こちらは、トレヴィとは全く関係のない画家、イラストレーター、グラフィック・デザイナーのダヴィデ・クエリンDavide Querinのコーナー。たまたま彼の個展がここで行われていましたので、ついでに写してしまいました。
1962年ローマ生まれのイタリアでは人気のある画家で、なかなか面白いです。すべて油絵。 -
右の絵は彼の代表作の一つです。
-
うっかり題名を写してきませんでした。
-
これは、Linea di confine ボーダーラインという題名の作品です。何せ、色々なものが混ぜ合わさった小さな博物館兼美術館なので3歩歩けば、展示がガラッと変わります。
-
さてガラッと変わりますよ。元修道院の中庭の回廊キオストロにやってきました。八角形の柱廊が見事です。こちらのキオストロには、1645年にトレヴィに滞在していた画家ベルナルディーノ・ガリアルディによる「聖フランチェスコの生涯」と呼ばれるフレスコ画のシリーズがありました。
ガリアルディはペルージャ近くのチッタ・ディ・カステッロ出身で、ローマで活躍した画家です。良い状態で残っているので、題名が判明したものだけお見せしましょう。長々と続きます。覚悟してください。 -
順番的にはこちらのフレスコが始まりのようです。「誕生の知らせ」。
-
「フランチェスコの誕生」。後の人が、フランチェスコを神のように崇めてしまった結果、誕生までドラマティックに表現されています。
-
これは、アッシジのジョットの絵にもありました。サン・ダミアーノ教会で祈っていたフランチェスコに、傍らの十字架が話しかけてきたときの場面です。
「フランチェスコよ。行って私の教会を建て直しなさい!」
アッシジのフレスコはこちら
http://4travel.jp/travelogue/11113652 -
「世俗からの離脱」。
こちらもアッシジにありました。有名な、着ているものをすべて脱いで父親に渡し、アッシジの司教の元に駆け寄り、天の神を父とすることを宣言した場面です。 -
「インノケンティウス3世の夢」。
教皇インノケンティウス3世は、ラテラノにある聖ヨハネ大聖堂が今にも倒れそうになり、それを一人の男がその肩で支えるのを見ました。 -
「小鳥たちへの説教」。
一番有名な場面ですね。 -
「トレヴィの町角で説教をするフランチェスコ」。
このフレスコは、トレヴィだけの特別な場面かもしれません。トレヴィで説教をしたという記録があるのかないのかは存じませんが、アッシジからそう遠くないこの地に、フランチェスコが説教のために訪れたのかもしれません。町の人達にとっては、かけがえのない1枚です。 -
このほか、「盲人や障害者へ癒しを与えるフランチェスコ」や
-
「病人を励ますフランチェスコ」など、アッシジでは、お目にかからなかった、場面も描かれていました。
画面中央の病人は、体に発疹が沢山出来ています。ひょっとして黒死病ペスト患者なのでしょうか? -
フランチェスコは、幼子のキリストにとりわけ愛着を持っていた方だそうです。このフレスコでは、右端の衣装箱の中から登場した幼いキリストが描かれていますが、付随するストーリーについては調べましたが良く分かりませんでした。
題名は「聖なる子の奇跡」。 -
「キリストの誘惑」。これもストーリーが飲み込めていません。
他にも題名のわからない2枚があったので、全部で13枚のフレスコを堪能しました。ゆっくりじっくり鑑賞することが出来ましたよ。 -
続いてオリーヴ博物館に向かう途中にあった展示物だと思います。壁には様々な紋章が並んでいます。かなりの家柄でないと、紋章を披露できなかったようなので、ここにあるのは、トレヴィの名門家族のものだと思われます。分かりやすいステータス・シンボルですね。
-
地球儀を持っている男性はガリレオ・ガリレイかな?
-
オリーヴ博物館にあったトレヴィの町の模型です。鐘のようなかたちをしていますよ。圧巻は、周りが全部オリーヴ畑だということです。
-
典型的なオリーヴ栽培農家の模型もなかなかの力作でした。石垣を積んで、斜面を上手に利用しています。
-
オリーヴの栽培とオリーヴオイルの生産は、2000年以上にわたってこの地方の経済を支える基本産業の一つとなってきました。まあ、イタリア中がそうだといわれればそうなんですけれどね。この際だから、オリーヴについて基本を学んでいきます。
ここにあるのはオリーヴ栽培に使用する農工具かな? -
こちらはオイルを搾る装置の展示。人形の農夫が作業を実演中です。
-
奥には大きな石臼が見えます。ロバを使って小麦粉を挽く石臼も様々な場所でお目にかかりましたね。
-
オイル保存用の甕や、オイルを持ち運んだり量るための容器の展示を見るのも実は初めて。詳しい説明がなくとも、この博物館だけは十分理解が可能でした。
-
先ほど訪れたキオストロの上の階はギャラリーになっていて、13世紀頃より作られ始めた様々な芸術品、絵画、十字架、パネル、フレスコなどが展示されています。
写真はジョヴァンニ・ディ・コッラドゥッチオの「キリストの生涯からの物語」。14世紀前半の作品です。4枚パネルですが、キリストの磔、十字架降下 などの部分が欠けているため、オリジナルは5枚パネルで、おそらく中央部分が欠落したと考えられています。 -
十字架には、聖母と福音記者聖ヨハネの姿も見えます。ウンブリア州では、このスタイルの十字架が12世紀頃から広く出回っていたようです。作者不詳。14世紀。
-
こちらは、「ロ・スパーニャ」(スペイン人)として知られるジョヴァンニ・ディ・ピエトロの「聖母戴冠」。スペイン生まれの彼は、イタリア中部で活躍した盛期ルネッサンス期の画家で、ナショナル・ギャラリー、ルーブル美術館にも多くの作品が収蔵されています。1522年。
この絵はサン・マルティーノ教会の主祭壇を飾るために描かれたものですが、1486年にドメニコ・ギルランダイオがウンブリア州ナルニにある聖ジローラモ教会に描いたものに構成がとても良く似ています。この教会もフランシスコ会の教会ですが、絵の下の部分の赤い服の人と黄色い服の人が入れ替わっている以外はほとんど同じ! ロ・スパーニャがギルランダイオを絵を見たことは間違いないでしょう。 -
「聖母戴冠」を見上げているのは、聖マルティーノをはじめとする聖人達とフランシスコ会の修道士達。中央に聖フランチェスコがいました。
-
プレデッラ(大きな絵の下部にある2枚の絵)には、聖フランチェスコの生涯の物語から、
「自分のマントを貧しい乞食に与えた聖人フランチェスコ」と・・・ -
「聖フランチェスコのスティグマ(聖痕)」が描かれていました。
-
「慈悲の聖母」アルンノと呼ばれるニッコロ・ディ・リベラトーレの弟子の15世紀半ば作品です。
ちょっと面白い作品なので、興味を持ちました。忠実な彼女の信者たちがぞくぞく彼女のマントの中に集まってきて、聖母を仰ぎ見ていますよ。こういう絵が描かれるのは、聖母の庇護の元に置かれたいという願いが最高潮に達する、町に疫病が流行ったり、飢饉が起こったりした時期が多いのだそうです。いわゆる、困った時の神頼みですね。 -
「エマオの晩餐」。カラヴァッジョやレンブラントの絵で有名ですが、こちらは修道会カプチン会の聖アゴスティーノ教会の食堂に描かれていたフレスコです。
エマオはエルサレムから11km離れたところにあり、キリストの二人の弟子ルカとクレオパの前に復活したキリストが現れたことで知られている町です。 -
え〜と、誰が描いた受胎告知だったかなあ・・・
-
こちらは、前述のカプチン会の教会に飾られていた「パオラの聖フランチェスコ」。彼は修道会ミニム会の創立者です。17世紀の作品。
-
傑作を見たばかりのロ・スパーニャですが、こちらの二人の聖女のテンペラは保存状態が極めてよく、描いた当時の美しさを保持していました。
こちらは聖カタリナ。元々はマドンナ・デッレ・ラクリメ(涙の聖母)教会の聖カタリナ礼拝堂のために描かれた、1520年頃の作品。1741年に上記の礼拝堂を聖アルフォンソに捧げることになったため、こちらに持ち込まれたとのことです。 -
ローマ以来お久しぶりです。音楽の聖人でもある聖チェチリアは古代からある楽器を携えていますね。
ただ一つ気になったのは、足がごっついこと。美しい顔にそぐわない足をしていると思いませんか? -
ピントゥリッキオの「聖母子」。一部には本人の署名ではない、未完成のレプリカだという意見もあるようで(確かに言われてみれば、完成には至っていないような気もしますねえ)、博物館でも学者の意見とやらも書かれていましたが、何せイタリア語オンリーなので、残念ながら理解不能です。なんでも1872年には存在していた記録が残っていますが、それ以前の文書が全く残っていないらしいです。
イギリスのナショナル・ギャラリーにあるピントゥリッキオの同名の作品に風合いが良く似ているそうですよ。興味のある方は見比べてはいかがでしょう。 -
こちらの陰影の表現が見事な作品はオルベットという名で知られているアレッサンドロ・トゥルキの「聖母被昇天と聖人達」1640年頃の作品です。カプチン会の聖アントニオ教会に収蔵されていました。
オルベットはヴェローナ出身のローマで活躍していた画家で、教皇ウルバヌス8世の甥に当たる司教アントニオ・バルベリーニ(あの、バルベリーニ家出身!)が1638年からトレヴィを管轄していた関係でこの「辺境」にやってきた と解説に書かれていました。 -
「辺境の地」の博物館にしては、結構見どころ満載だったと思います。マドンナ・デッレ・ラクリメ教会には、写真のようなピントゥリッキオ、そして・・・
-
ロ・スパーニャの作品が見られるそうだし、是非行かなくっちゃ!
とつかの間の喜びに浸っていたのでした。ところが・・・詳細は後程。 -
博物館の至宝である聖フランチェスコ教会は、本日会合のため貸し切りで、入れないと言われていましたが、ちょうど休憩中だったため、少しの間お邪魔することが出来ました。博物館からしか入場できない元?教会のようです。1354年創建で、聖フランチェスコに捧げる教会となったのは1477年。修道会への弾圧が始まった1810年以降はほとんど教会として使われないまま、博物館の一部に組み入れられました。
内部全体を撮った写真はボケてしまっていたので写真はありませんが、教会は一廊式で、天井は木製のトラス構造。中央が多角形、左右が円筒形の後陣を備えていました。 -
主祭壇付近で会議が行われているので、邪魔をしないように、向かって左側の壁中ほどから反時計回りで見ていきます。オリジナルの教会には8つの礼拝堂があったそうですが、現在残るのは4つだけです。
こちらはキリストの磔の礼拝堂。
どこかで見たような気がする絵だと思ったら、グイド・レーニのコピーでした。作者不詳。17世紀の作品です。 -
カウンターファサードに近い壁の大きなニッチェには、「1577年、ファビオ・アンジェルッチ・ダ・メヴァーレ」と署名のあるフレスコが残されています。このフレスコは1832年に「発見」されたのだそう。
作品には、聖母子を中心に、大天使ガブリエル、聖フランチェスコ、パドヴァの聖アントニオ、聖ヨセフが左右に描かれています。
その上の半月形部分には、十字架を背負って歩くキリストが。そばには聖母、ヴェロニカなどの女性の姿がありました。 -
ニッチェ以外にも、この教会の壁という壁は、かつてはフレスコで覆い尽くされていたようです。今ではほとんど消えかかっていますが、状態の良いものだけ探して歩きます。
カウンターファサードにあったフレスコ画。左側はサン・ミケーレ(サン・ミッシェル)ですね。1480年頃の作品だそうです。 -
左側のニッチェを作ったために、フレスコが削られたようです。キリストともう一人右の人物は聖フランチェスコかな?
他にも、かなり状態が悪いフレスコが沢山残っていました。 -
「聖霊」に捧げる礼拝堂は、雨漏り等の水の浸入によって、ご覧の通り半ば崩れかかっていました。1613年、フリッポ・パラッツィの設計。祭壇画は聖母を中心に、下の方には、左聖ピエトロ、右聖パオロの姿も見えます。光輪のほかに、聖人達の頭の上に灯(精霊)がともっている(宿っている?)のが面白い。シメオン・チブッリの1614年の作。
-
メイン扉の左側にあった祭壇には、壁のフレスコの一部が額縁をはめたような状態で残されていました。スタッコ製の額縁は17世紀の制作。
フレスコには、聖母子と殉教者聖ピエトロが描かれています(15世紀)。 -
主祭壇の右隣にあるこちらは、この教会で最も大切にされてきた「雪の聖母」の礼拝堂です。素晴らしく凝った造りの礼拝堂で、1620年、アレッサンドロ・ヴァレンティの設計です。聖母の背後の壁には、沢山の黄金の星が瞬いています。
-
礼拝堂の左側壁部分。このフレスコの3人は身元が判明しましたよ。
左から福者ベントゥーラ、バーリの聖ニコラ、聖アンデレです。 -
右側の窓のある壁にもフレスコが描かれていましたが、これじゃあよく見えませんね。
-
主祭壇です。何かの会議中(こんなところで会議をしなくてもと思うのは私だけ?)だったにもかかわらず、室内は暗くて光が足りずに写真はボケボケです。
祭壇上のキリストの十字架、そして後陣の窓の前に合唱隊席がご覧いただけますでしょうか? ヴォールトを構成する6本のアーチの彩色が綺麗に残っていましたが、この写真では良く分かりません。 -
後陣の左右の壁には、聖母の生涯からの物語がフレスコで綴られていましたが、これも暗すぎて没ですね。右側を撮ったものはライトが当たりすぎてこれまた没でした。
情けない(泣)・・・ -
主祭壇に向かって左側のニッチェにはパドヴァの聖アントニオの像が置かれていましたが、撮影失敗。礼拝堂の右壁の壁のフレスコも傷んでいて、どなたの顔だかはっきりしません。
後で調べてみたら、左から教皇ウルバヌス5世、アレキサンドリアのカタリナ、パドヴァの聖アントニオだと書いてありました。 -
ルネッサンスを強く感じさせるオルガンは、1509年に作られましたが、その後も何度かモデルが変更されています。この古風なオルガン、勿論ウンブリア一古いのだそうです。残っているだけでも貴重ですが、是非その音色を聞いてみたいものだと思いました。今でも調音をしているのかしら???
-
下部にある6つのパネルには、左から聖ボナヴェントゥーラ、パドヴァの聖アントニオ、聖ヨセフ、トレヴィの守護聖人聖エミリアーノ、シエナの聖ベルナルディーノ、マグダラのマリアが描かれていました。こちらは17世紀の作品。
-
会議の邪魔をしないよう、さらっと一周してまいりました。出入りに使った扉の上にもフレスコが沢山描かれていましたよ。もう少しゆっくりと見たかったけれど、見れただけでもラッキーと思うべし。
-
空は鉛色ですが、雨は止んでいました。
-
聖フランチェスコ教会のメイン扉を外から見てみようと近づきます。
-
半月形のルネットのフレスコは、聖母子と聖人達 1400年頃の制作です。聖母の左側が聖フランチェスコ、右側が聖キアラです。モンテファルコの聖フランチェスコ教会で後陣の装飾を担当した職人(作者不詳)の作だといわれています。
-
今回行くことが叶わなかった、やはり丘の上の美しい町モンテファルコからトレヴィはわずか6kmほどしか離れていないため、こちらの教会は、1340年代に建てられたモンテファルコの聖フランチェスコ教会をモデルとして建てられたようです。モンテファルコの聖フランチェスコ教会は、その見事なフレスコで有名だそうで、いつか行ってみたい町の一つです。
壁は白とピンクの石を使った簡素な造り。ちょこんと建つ鐘楼もシンプルで可愛いですね。中の鐘には1340年という制作年が刻まれているそうです。
今気が付きましたが、メイン扉の上方にライオン像が一対ありました。 -
もう少し町をぶらつきます。せっかく丘の上から降りてきたのに、こういうのを見ると、また上っていく私って・・・
-
アーチをくぐってみては喜んでいます。
-
再度丘のてっぺんの聖エミリアーノ教会前に着いてしまいました。今度は正面から近づけそうです。
-
その前に、立派なパラッツォがあったので、調べていきましょう。こちらは1650年頃建てられたヴァレンティ家の屋敷です。現在はホテルとなっています。どおりでメンテナンスが行き届いていると思った・・・
-
忘れちゃいけない、トレヴィのナゾーネ(水飲み場)君もしっかり撮りましょう!
ナゾーネ君の後ろに建つ邸宅も由緒あるもの。パラッツォ・マネンティ。15世紀にトレヴィで最大の勢力を誇った一族です。 -
ようやく教会の正面から近づけたと思ったら・・・
-
???違いました。小さな3つの円筒形をした古い後陣は、現在の教会の右壁にくっついていたんだ。そうかぁ。配置が良く分かっていなかったのですが、ここに来てようやく納得。
壁にあいたニッチェには、聖エミリアーノの像が見えました。こちらの壁も古い時代の教会の遺物です。 -
先ほどとは別の方向から古い後陣の円筒形部分を写して満足しました。
-
聖エミリアーノ教会の隣にあったパラッツォ・ウりギ。シンプルナルネッサンス様式の建物ですが、飾られていた花が美しかった・・・
-
この屋敷も、先ほどのヴァレンティ家邸宅と一緒に4つ星のホテルアンティカ・ディモーラ・アッラ・ロッカというホテルに改装されていました。思わず入っていきたいような素敵なホテルでした。
-
こんなアーチをいくつくぐったことか・・・
-
狭い町を何周したことか・・・
-
ようやく見つけましたよ。町で一番古いアーチ・モスタッチオ。ローマ時代の内側の城壁の一部におそらく1200年ごろに開けられたアーチです。
-
アーチの手前にあった、こちらの古い壁の家も気になりました。
-
さて、そろそろ丘を下っていく時間です。途中で会った3人の人に、行く方向と所要時間を確かめたのですが、皆口々に「駅まで30分はかからない。」「この方向だよ」とお揃いの答えだったので、安心して帰り路を辿ります。
-
また少し雨が降りだしました。
-
は〜い 猫ちゃん。こんにちは!
-
雨に濡れた下り道は苦手。恐る恐る進みます。
-
進む先にあったのは、チエコ門(盲人の門)。現在6つ残っている外側の城壁の門の一つです。
-
あの小さな門から出てきました。振り返ってトレヴィに別れを告げます。
-
おお〜ここからは、突然傾斜が急になりました。これは上ってくるのは大変だわ。
-
眺望の良さそうなこちらの家。ベランダから絶景を見下ろすことが出来ます。
-
坂道の向こうに、なだらかな丘の斜面に沿ったオリーヴ畑が見えてきました。さっき、博物館の模型で見た景色だわ・・・
-
祠発見!
こういったセラミカを見ると、アンドレア・デッラ・ロッビアしか思い出さない私です。長い間退色しないので、制作当時の姿を見ることが出来ますが、残念ながら割れていました。 -
見よ! 見渡す限りのオリーヴ畑です。
-
今度こそ晴れてきましたよ。道の向こうに、行きたいと思っている涙の聖母教会マドンナ・デッレ・ラクリメ教会が見えてきました。
つづれ折の道なので、見えていてもなかなか到着しません。 -
何度も曲がりくねった道を下りていってやっと到着。
-
と思ったのですが、扉は固く閉ざされています。前に車が止まっているので、どなたかいらっしゃるかな?と、扉を叩いたりしたのですが反応なし。がっくり・・・
ペルジーノとロ・スパーニャのフレスコ画を見るのを楽しみにしていたのに・・・ -
1483年、ここに1軒の家が建築中でした。家のオーナーに家の外壁にフレスコを描くよう依頼され、地元の画家が描き上げた「聖母子と聖フランチェスコ」がその後「奇跡」を起こしました。絵の中の聖母が血の涙を流すようになったからです。
これこそ敬虔な贈り物であると判断した町は、その建物を守るための新しい教会を建設することを決定し、教皇インノケンティウス8世も1489年にこれを承認しています。1500年の段階で、教会はまだ未完成でしたが、町は教会を教皇直轄の委員会に移譲しています。
エレガントな中央扉は1495年にヴェネツィアからやってきたジョヴァンニ・ディ・ジャンペトロによって作られました。 -
仕方がないので、扉を守るライオン像に呼びかけます。
私「ねえ、どうして開いていないの?」
ライオン「・・・・」! -
左側のライオンは、だいぶ形が崩れています。この教会、度重なる地震(1592年、1703年、1752年)のたびに被害を受けているので、その影響があるかもしれません。
-
隣りの元修道院だったらしい建物に行ってみたけれど、医療関係の研究所に変身していました。ベルを鳴らすのも気が引けるし・・・
-
内部には、博物館のところで書いたように、ロ・スパーニャ(1520年)、ペルジーノ(ペルジーノ)の絵がある祭壇があるはずでした。
教会のそばにあった解説板によると、こちらが、教会が建てられるきっかけとなった「マドンナ・デッレ・ラクリメ(涙の聖母)」です。1483年。現在では同名の礼拝堂の祭壇画となっています。 -
こちらが、ペルジーノの「東方三博士の礼拝」1521年です。左右のニッチェには聖ピエトロ、聖パオロが描かれています。
ロ・スパーニャのフレスコがある聖フランチェスコの礼拝堂に関わる写真は解説にはありませんでした。 -
涙の聖母教会から見るトレヴィの町です。まだ全体が見えてきていませんね。気を取り直して、駅までの道を歩くことにしましょう。
-
オリーヴ畑の中にあった作業小屋?を眺めたり、
-
段々とオリーヴの彼方に姿を現す・・・
-
トレヴィの町の絶景を愛でたりしながら歩きます。
-
どうでしょうか?かなりいい線いってない?
-
この辺りから道をそれたようです。1本道のはずだったのに、どうしてそれてしまったのか、どうやらスポレート方面に向かう道を辿ったみたいです。
-
絶景を写す機会を頂いたという意味では、感謝以外にないのですが、徒歩で30分の予定がいつまでたっても駅につかないよ!
-
結局、フォリーニョからのバスが走ってきた大きな通りに出た時には、トレヴィは遥か彼方にあったのでした。あちゃ〜! またやっちまったぁ!
-
本来はここに出てくるはずだった場所にたどり着いたのは、1時間半後。おかげで予定していた列車に乗り遅れ、もう少しで本日の2つ目の町スポレートに行けないところでした。何度やっても懲りないおバカな私。ケセラセラとまたしても笑って済まします。それにしても、マドンナ・デッレ・ラクリメ気まぐれに休まないで欲しいなあ・・・
この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その56 スポレート1で!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- マリアンヌさん 2016/04/04 13:01:28
- いい街ですね
- junemayさん、こんにちわ。
私のささやかな旅行記にポチありがとうございます。
トレヴィ、いいですねぇ。
いつも絵画をとても丁寧に解説してくださるので、行った気分になっちゃいます。
いつかウンブリアの村めぐりをする時、予習に使わせていただきますね。
素晴らしい全景が撮れて良かったです。
それからアントニオとの会話、内容もですが英語力に感動です。
私の父、飛行機乗りだったんです。
もう何日か戦争が伸びたら特攻隊でした。鹿児島にも行きました。
続き楽しみにしています。
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2016/04/05 00:04:27
- RE: いい街ですね
- マリアンヌさん こんばんは
いいねとコメント、いつもありがとうございます。
今初めての広島です。
今週はゆったりとこの町で、そして5月はスペイン、ポルトガルへと行くつもりなので、更新がなかなかできないのが悩みの種です。
この町にも、ご存知のようにわたくしたちが知らない悲惨な戦争の遺産があって、この歳にして初めて知る過去の悲劇のあまりにもむごたらしい実態に胸の苦しさを覚えました。
今は、すべてを覆い隠すような見事な桜の花が咲き誇っています! 今日は岩国まで足を延ばして、3000本の桜と錦帯橋と古い城下町を歩いてきました。
勿体ないようなお褒めのコメントを頂きましたが、私の英語は全く大したものではありませんよ。イタリア人のアントニオがなぜか「特攻隊」という日本語を知っていたので、あのような会話に発展してしまったのですが、単語を並べていっただけのお粗末な会話でした。ただ、こちらの言いたかったことは伝わったのではないかなと楽観しています。日常、全く英語を使わない生活をしているので、どんどん語彙がなくなってきています。
旅に使う英語だけは何とか忘れないようにしたいと思っている今日この頃です。
マリアンヌさんの旅行記を拝見すると、私の行ったところはもうほとんど行ってらっしゃるみたい。羨ましいです。いつも眺めては、次回の旅の参考にと活用させていただいておりますよ。これからも素敵な旅を紹介くださいね。
junemay
> junemayさん、こんにちわ。
>
> 私のささやかな旅行記にポチありがとうございます。
> トレヴィ、いいですねぇ。
> いつも絵画をとても丁寧に解説してくださるので、行った気分になっちゃいます。
> いつかウンブリアの村めぐりをする時、予習に使わせていただきますね。
> 素晴らしい全景が撮れて良かったです。
>
> それからアントニオとの会話、内容もですが英語力に感動です。
> 私の父、飛行機乗りだったんです。
> もう何日か戦争が伸びたら特攻隊でした。鹿児島にも行きました。
>
> 続き楽しみにしています。
>
> マリアンヌ
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
154