2015/05/23 - 2015/05/23
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
来てみたら期待以上のスポレート。1日じっくり歩きたかったと思っても、もう後の祭り。通りの向こうに、ドゥオモが現れた時の感激はひとしおでした。ロマネスクっていいなあ・・・
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
初めて姿を現した時のドゥオモです。建物もさることながら、緩やかに下っていくこのアプローチがまた良いですね。狭いアウレリオ・サッフィ通りの建物が切れた場所からふと横を見ると、そこに忽然と姿を現すのです。
正式名をカテドラレ・ディ・サンタ・マリア・アスンタと言います。シエナの大聖堂と同じ名前ですね。 -
この景色に魅せられてしまって、足がうまく動かないので、ゆっくりゆっくりと階段を下りて行きます。丘の上の広場がない狭い場所に建っていたトレヴィの聖エミリアーノ教会が気の毒になります。
最高のロケーションとアプローチを兼ね備えたドゥオモ。訪れる前から期待に胸が高鳴ります。 -
最初のカテドラルは956年に建てられたという記録があります。その教会は1155年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世のスポレート襲撃により崩壊。その後1175年から1216年にかけて建て直されました。内部は大幅に改修されていますが、ファサードは再建当時の姿を今に伝えています。
建設の最終段階で大変時間のかかった、ファサードのモザイクをじっくり見てみましょう。 -
中央のモザイクは、デイシスと呼ばれるビザンティン様式における伝統的なイコンで、正教会では中央に玉座に座って聖書を片手に持ち、もう一方の手で祝福のポーズを取るキリスト、両脇には聖母と洗礼者ヨハネが描かれることが多いのですが、まさに今見ているのはその三人の姿です。
モザイクの下の碑文に、制作年(1207年)と製作者の名前が記されています。モザイクは何度も修復されていて、1927年には聖ヨハネの首がすっかり置き換わったとありました。
いくつもあるバラ窓の中で最も華やかな中央の窓は、モザイクと同じ年に作られました。小さく見えますが、直径4mもあります。完成以来修復は何度も行われていますが、その位置が変わることはなかったそうです。 -
ドゥオモに入る前に気になった、ドゥオモのすぐ横にあるこちらの建物は、サンタ・マリア・デッラ・マンナ・ドーロ。今は使われていない教会ですが、その八角形の塔屋が印象的です。
なんでも、1527年の「ローマの略奪」の後、帝国軍の前線基地となったスポレートは戦争特需で結構潤ったようで、旧約聖書に出てくる、イスラエルの民のために与えられた奇跡の食料マンナになぞらえて、この教会を1528年に建造したのだそうです。現在は展示スペース等に利用されていて、内部を見学出来たようですが、時間の関係で見ることが出来ませんでした。 -
これも広場のどこかにあった、ローマ時代の石棺を用いた噴水(水飲み場)です。祠と水飲み場は逃しません!
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ドゥオモのポルティコの中に入りました。最初のポルティコは痛みが激しくなったため、1504年に現在見る形に再建されています。
こちらは中央扉前です。扉の上には美しいレリーフが見られました。上に3つ並んだ紋章のうち、右側がスポレートの町の紋章だということはわかりましたが、それ以外は???
それよりもうんと目立つ中央扉の両脇にあるごっつい紋章は、どちらも蜂が3匹止まっていました。バルベリーニ家の紋章です。 -
ポルティコの雰囲気はローマの教会を彷彿させます。床の幾何学模様も懐かしい気がします。向かって右側の扉から入場できるようです。早速潜入!
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イチオシ
まずは右側廊へと進みます。こちらは聖レオナルドに捧げる礼拝堂(別名司教エローリの礼拝堂)です。
最初の礼拝堂からあまりの美しさに目を見張りました。アンブロージョ・バロッチの設計と言われています。
素晴らしいフレスコはピントゥリッキオの1497年の作品。登場人物は聖母子と洗礼者ヨハネ、そして聖レオナルド。聖母が腰を降ろしている背後には、2本の木が生えていて、その向こうにアーチのある城塞と町、そしてブルーの水をたたえた湖という典型的なウンブリアの自然が広がっています。
上部のルーネットには永久の父なる神が雲の上でプットたちに囲まれて祝福のポーズをとっています。両脇の天使は祈りのポーズですね。
フレスコは礼拝堂の湿気の問題でかなり傷んでいました。1932年にも修復が行われましたが、聖母のガウンとヨハネの衣服に関しては乾燥しきっていて手が付けられなかったそうですよ。 -
下のフレスコ画のアップです。傷んだ部分が分かりますでしょうか?
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こちらも傷んでいますが、完成当初はさぞ見事だったろうと想像することが出来る美しい床のモザイクです。
これまた大変痛々しいキリストを描いたフレスコが、祭壇の前面を飾っていました。 -
聖レオナルド礼拝堂に続く、拡張された部分のアッスンタ礼拝堂です。叔父から司教の職を譲り受けたフランチェスコ・エローリが礼拝堂の装飾に着手しました。こちらも見どころがいっぱい。
後ろの壁には、ルーネット(半月形)部分に、預言者エリーシャが戦車で天へと上る場面、その下に、小さな「サン・ピエトロの使命」がありました。こちらのフレスコは、ヤコポ・シークロの1535年の作品です。 -
祭壇には聖母被昇天と、それを見守る洗礼者ヨハネと12使徒達です。雲の上に座る聖母の傍らで、空っぽの墓を前にして跪いて祈りを捧げているのが司教フランチェスコ・エローリです。
上方には、天使たちのいるキリストの磔場面が描かれていました。こちらもヤコポ・シークロの作品です。 -
左壁の「砂漠の聖ヒエロニムス」。彼はローマ帝国末期のキリスト教神学者、聖職者、聖書のラテン語訳であるウルガータ訳の翻訳者です。
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そしてルーネットには、「神殿の前に立つアーロン」。アーロンはモーゼの兄で、モーゼと一緒になってヘブライ人のエジプト脱出を指揮しました。
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右壁は逆光でうまく撮れませんでしたが、左側にロボットのようないでたちの聖ミケーレ、右に聖ルチアがいました。
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逆光のへぼい写真ですが、モビルスーツを着ているような聖ミケーレです。今までにも何度か登場したミケーレが堕天使ルシファーをやっつけた場面ですね。
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そしてこちらが聖ルチア。シラクサの聖ルチア。両目をえぐりだされて殉教した彼女は、視覚障害者の聖人として知られています。
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ヴォールトには、旧約聖書の登場人物が描かれていました。アダム、ノア、モーゼ、そしてメルキゼデクです。ウィキペディアによると、メルキゼデクは創世記に登場する「いと高き神の祭司」並びに「サレムの王」なのだそうです。エルサレムの王と同一視されているようですよ。
作者は明らかになっていませんが、ラファエッロの追随者たちの影響をうけているとみる人もいます。1535年当時としては、非常に前衛的な色彩が強かったに違いありません。 -
ドゥオモのちょっと寂しい絵ハガキ売り場。この寂しい中から何枚か購入しました。
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右側廊の祭壇の中で少々気になったこちらの若い僧は、日本語では御受難会という修道会出身の「悲しみの聖母の聖ガブリエル」という方です。1838年生まれでわずか23歳で結核で亡くなっています。詳細は不明ですが、1920年にベエディクト15世により列聖されています。
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急にバロックになって面喰らいますが、こちらは、1626年に古い聖具室跡に建てられた聖なるイコンの礼拝堂です。
前回の旅行記でも触れましたが、スポレートは何度も戦火に見舞われていますが、その中でも被害が大きかったのが1155年、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世による攻撃です。イタリアでは彼を赤髭「バルバロッサ」と呼んでいます。バルバロッサはこの戦争でスポレートの町、中でもここに建っていた最初のドゥオモを徹底的に破壊しました。
30年後の1185年にようやく結ばれた平和協定で、バルバロッサからお詫び?にと贈られたのが、11〜12世紀に作られたという聖母を描いたビザンティン様式のイコンです。以来、イコンはこの礼拝堂の祭壇画として、大切に保管されてきたそうです。
この写真では、小さすぎてイコンが分かりませんね。 -
わぁ〜 もう我慢できない!
早くもメイン・ディッシュの登場です。
1466年にドゥオモがかなりの出費を覚悟でフィリッポ・リッピに依頼した後陣のフレスコが目に入ってしまいました! -
フィリッポ・リッピは1466年から69年にかけて制作を続けましたが、69年末に死亡。その後は彼の弟子たちが作業を続け、フレスコは1470年に完成しました。
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イチオシ
まずは、下方部分左側から見ていきます。受胎告知です。
聖母の顔は、フィリッポ・リッピの愛したルクレツィア・ブティの顔で描かれています。彼女のいる宮殿の、特にエンタブラチユアの装飾は、先ほど見たドゥルーソのアーチ脇にあった紀元1世紀建造のローマ神殿のエンタブラチユアと同じ彫刻が施されているそうです。
アーチを支える二本の柱の柱頭のデザインは、これまたスポレート郊外にある初期キリスト教徒墓地の脇に立つ8世紀の教会サン・サルヴァドーレ内部にある柱の柱頭に触発されたものだと言われています。フィリッポは絵を描く前にこの辺りの建物をくまなく見て歩いたんですね。 -
それにしても、なんて美しいマリアの横顔なんでしょう!! これまで見た受胎告知の不動の1位はフラ・アンジェリコのものだったのですが、私の中で下剋上が起きそうな按配・・・
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中央の1枚は「聖母の永眠」。聖母は中央のベッドに横たわり、背景にはウンブリアの豊かな自然、緑の丘陵地帯が描かれています。
聖母の手前にいる二人の女性は跪いて祈りを捧げています。
聖母の左側にはフィレンツェの司教アントニオ・ピエロッツィが立ち、使徒達に囲まれて「詩篇」を読んでいます。 -
アップの画像はなんということ!ボケていましたよ!
聖母の右側には、カルメル会の僧衣をつけたフィリッポ・リッピ本人がカメラ目線でこちらを向いて立っています。そばには彼の弟子たちの姿も! フィリッポの手前にいる横向きの美しい少年は、彼とルクレツィアとの間に生まれたフィリッピーノです。のちに父と同じく画家となるフィリッピーノ。彼もまた私好みの画家です。
右手の丘の上に、真新しい棺が置かれているのが気になりました。聖母のための棺でしょうか? -
右端は、「聖誕」。こちらの聖母の顔は、「受胎告知」のルクレツィアとは少々異なる雰囲気。伝承によれば、この絵の大半は、フィリッポの弟子フラ・ディアマンテの筆によるものだそうです。
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そして、ルーネット部分の「聖母戴冠」です。圧巻ですねえ・・・「聖母被昇天」の後に、聖母は天において父なる神から王冠を授かります。
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一番下の段にいるのは、ほとんどが預言者達で、その下の碑文に名前が書かれています。一番内側にいる二人は、左がなんと! おじいちゃんの「アダム」、右が年齢不詳の「イヴ」です!!
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イチオシ
何枚か、ボケた写真を撮り続けたようですが、これが一番綺麗に撮れていました。フレスコは所々傷んでいますが、この部分はほぼ完ぺき!
うっとりです。スポレートに来られて良かったと感謝の祈りを捧げたくなりました。 -
後陣は、長い歴史の中で何度も拡張工事の計画が持ち上がるたびに解体される運命にありましたが、なんとか破壊されずに持ちこたえました。フィリッポ・リッピの最後の作品ということが、生き延びた一番の理由だったようです。それでも1785年から92年にかけて行われた改修の中で、フレスコの両端はカットされてしまったそうですよ。
とりあえず、メインが無事で良かったと思わずにいられません。感激の嵐が何度も襲ってきて、しばらくここから離れることが出来ませんでした。 -
後陣を見た後ではあまり食指が動かなかったのですが、デザート。デザート。別の味わいがたっぷり楽しめましたよ。
後陣の左側にあるサクラメント礼拝堂は1590年の建造です。バロックのスタッコ装飾は、1672年から82年にかけて、ジョヴァンニ・フォンターナ・ダ・フォリーニョによって作られました。 -
祭壇に向かって右側には、先ほど出てきたイスラエルの民を救った食料「マンナ」が天から降ってくる場面を描いたピエトロ・ラブルッツィの絵がありました。1791年。
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祭壇向かって左側の絵は、「預言者エリアと天使」こちらもピエトロ・ラブルッツィの作品。
見えにくいですが、その隣には、リボリオ・コッチェッティの「最後の晩餐」。1784年。 -
豪華なバロック様式の祭壇よりもその上、ルーネットに描かれた「聖誕」が光と影をうまく描写していて、記憶に残りました。
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ここでは18枚しか見えていませんが、司教ルドヴィコ・シアマンマが作らせた21枚のパネルが天井を覆っていました。どれも力作揃いですが、詳細は不明。
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この礼拝堂はいつもは一般公開されていないと聞いたせいか、やたら撮りまくっています。最後の1枚は祭壇とは反対側の入口の壁です。
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また、凄いものを見つけちゃいましたよ。
主祭壇に向かって左側の壁にあったフィリッポ・リッピの記念碑です。1488年頃の作品。前述の通り、リッピは後陣のフレスコを制作中の1469年にスポレートで亡くなりました。
ジョルジョ・ヴァザーリの手記によると、スポレートの人達は、ドゥオモの中に赤と白の大理石の墓を建て、リッピを葬りました。
その頃、フィレンツェのドゥオモにフィレンツェ出身の有名人の墓を集めようと試みていたロレンツォ・ディ・メディチは、彼の遺体をフィレンツェに持ち帰ろうとしましたが、スポレートの人々に拒否されます。そこでロレンツォは、フィリッポの息子フィリッピーノの設計による記念碑の制作を提案したようです。ロレンツォはその件で、1488年に実際にスポレートを訪れています。 -
記念碑の製作者の名前はわかっていませんが、フィレンツェ人の彫刻家だと言われています。
アンジェロ・ポリツィアーノによるラテン語の碑文が、一人称で書かれています。その中で、フィリッポはロレンツォへの感謝、「自然」が彼の作品に及ぼした偉大なる力等について語っています。
リッピの像の下には、ちゃっかりメディチ家の紋章を入れることも忘れませんでしたね。 -
サイドチャペルは他にもいくつもありましたが、お腹がいっぱいなのでほとんど素通りです。
二つの礼拝堂にあった絵のみ紹介。こちらは、「聖母と聖人達」。聖母の左端には聖アンデレ、右側にはラテン語で「Charitas」、英語ではチャリティと書かれた楯を持ったパオラの聖フランシス、もう1人はどなたでしょう??がいる1枚です。 -
もう1枚は、「マリアの神殿奉献」。祭司が待つ祭壇へ幼いマリアが階段を上っていく場面が描かれています。キリストの神殿でのお披露目と比べると、マリアの方は年齢がかなり上だと思われます。
ヨアキムとアンナ夫妻は奉納物を持ってマリアを神殿に連れて行き、奉献を済ませると、神に捧げるために娘を神殿に残して帰ったのです。 -
実はドゥオモのデザートにはまだまだ続きがありますよ。
今まで上ばかり見ていましたが、今度は足元に注目です。身廊の床部分は、そのほとんどがオリジナルか、オリジナルの石を再利用した素晴らしいパターンの連続でした。 -
中でも後陣に近い場所の床は、ごく初期のものが残っていて、コズマーティあり、幾何学模様ありで、床好きとしては大興奮のるつぼです。
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よく、こんな古いものが残っていたと感心することしきり。かなり傷んでいますが、願わくは張り替えたりしないで、なんとかこのパターンを維持してもらいたいものです・・・ただし、沢山の長椅子がその上に置いてあるので劣化を早めるのではないかと危惧しています。
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様々なパターンがあって、撮っても撮っても撮り切れないほど。床好きなら、スポレートのドゥオモ是非ともお勧めです。
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いつもなら、教会内部に入って、最初に紹介する身廊の写真がようやくここで登場です。そう、わりと面白みのない(自分勝手な意見です。ご容赦。)バロック様式の三廊式の内部なんです。但し、床を除いて。
カウンター・ファサードに近い部分の床はご覧の通り山型パターンの連続になっていました。これは初めてのパターンかも・・・ -
身廊中程。説教壇がある辺りを左側廊から写しています。
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お終いは、中央にバラ窓が輝くカウンターファサードを聖域側から撮った1枚です。身廊の中央部分で、床のパターンが変わることに注目!
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カウンターファサードの中央には、バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世の胸像と碑文が掲げられていました。1644年とあります。
この胸像はなんと! あのベルニーニに依頼したもので、教皇がスポレートの司教を努めていた時代(1608年から17年)の記念に作られました。スポレートにこれが届いたのは1944年、教皇が亡くなった年のことです。
ベルニーニというだけでお宝中のお宝になるので、この胸像はコピー。本物は教区博物館で厳重に保管されているそうですよ。 -
スポレートのドゥオモでの素晴らしい出会いの数々に興奮しつつ、外に出ます。名残惜しいなあ・・・
このドゥオモへのアプローチ、しつこいけどもう一度言わせていただきます。
感動的でしたぁ。 -
もっと長い間見ていたかったドゥオモを後に、再びアーチをくぐって、さらにスポレートの町の高い場所を目指します。
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鉛色の空だけれど、今日の午後はなんとか持ちこたえてくれた天気にも感謝。高度が高くなるにつれ、ドゥオモの姿がどんどん魅力を増していきます。
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とんがり屋根の鐘楼は、破壊された最初のドゥオモ、司教館、そして城壁などの建材の寄せ集めで出来ているそうです。使われた石の中に、1175年から78年にスポレートの司教だったロタールの名前が刻まれた石が見つかったことも、この事実を裏付けしているようです。下の部分はスポレート公国が滅亡した後の12世紀末、上部部分は1512年から15年の間に建てられたと書かれていました。
ここまで来て、ようやくクーポラの部分も見ることが出来ました。 -
やってきたのは、ロッカ・アルボルノツィアーナ。町一番の高台にそびえる城塞です。ロッカは、紆余曲折を経て1354年にスポレートが教皇領に返り咲いた年に、枢機卿アルボルノツが建設を開始し、1370年に完成後は教皇庁の重要拠点および居城として使われてきました。
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ロッカからの展望です。
眼下に広がるのは、スポレートの町の赤と茶色の瓦屋根。赤は新市街、茶色は旧市街のようです。無粋なクレーンが風景を台無しにしていますね。 -
方角を変えて、こちらは旧市街の町並み。なだらかな丘が続くウンブリア。パッチワークのような畑を囲む緑の木々が本当に美しい・・・
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城壁にへばりつくように建てられた一軒の家は庭師の家? それとも門番?
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私がどうしても見たかったのは、こちらのポンテ・デッレ・トッリ 塔の橋です。水道橋を兼ねているこの橋は、ロッカのあるコッレ・ディ・サンテリア山と今見えているモンテルーコ(ルーコ山)の間、テッシーノ川が作った渓谷の上に作られています。ロッカとスポレートの町の高い部分に水を提供するために、文書は残っていませんが、ロッカと同じ頃に建設されたようです。
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あの橋のたもとまで行きたかったのですが、ロッカは四方を完璧に壁で覆われていて、橋に下りて行く道がありません。途中で会った人達に尋ねてみたのですが、皆私と同様の観光客で、適当なことをおっしゃる・・・ロッカに上る前の道を辿るんだったと気が付いても、もう後の祭り・・・グスン。
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地元産の石で作られているこの橋には10のアーチが連なっています。中央のアーチの高さは、川面から76mあるそうです。端の両側には塔があって、それが橋の名前の由来となっています(塔の複数形=トッリ)。塔には入口や窓が備わっていて、橋の警護に使われたようです。
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おお〜 橋を歩いているカップルが見えますよ。歩道の両側は壁になっていますが、中央付近に開けられたアーチから絶景が眺められるのかなあ???
あららっ?! 橋の反対側は欄干がそう高くはないようで、川を覗きこんでいる人をたった今発見!!
うらやましい〜!! -
まあ、ポンテ・デッレ・トッリが見られただけでも良しとしましょう。いずれにしろ、帰りの列車の時刻が迫っていて、これから丘を下って橋まで往復する時間はありません。
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アーチが並んだこちらは、ロッカの主要部分と渡り廊下で繋がっている半島のように付きだした部分の建物。何に使われていたのでしょう?
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ロッカの主要部分は長方形をしていて、各角と、長い方の辺の中央にそれぞれ塔が立っています。今見えているのは、その中央の塔です。
ロッカは16世紀に入ると、その戦略的重要性を失い、教皇庁が1764年に町に移ると、その後は御多分に漏れず、兵舎、そして刑務所という道を辿りました。最近ではムッソリーニが政治犯を収容する施設として使ったそうですよ。あな 恐ろしや!
1982年になってロッカは復元され、現在はスポレート公国の博物館となっています。そう言えば、スポレートの町中には、スポレート公国時代の遺物がほとんど見当たりませんでしたね。 -
長い坂を上っていくと、スポレート公国博物館の入口に到達します。
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スポレート公国博物館はその大半をコルティーレ・ドノーレ、かつてのロッカの居住部分を利用しています。コルティーレ・ドノーレは中央に三方を二階建てのアーチが並ぶ中庭がある建物で、1階部分は教皇庁の事務所、2階部分は居住区及び教皇や教皇庁の役人が訪問する際の宿泊スペースとなっていました。
博物館は、この両方のスペースを展示室としているようです。今回は残念ながら時間切れですが、次回は(いつになるかわからないけれど)ここでロンゴバルド族についてしっかり学習しようと心に決めました。 -
最後にもう一度スポレートの町を見降ろして、帰路につきます。
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観光案内所の人が教えてくれた駅までの早業は、バスではなくてこちらのエスカレータ。かつての城壁に沿って、長い長いエスカレータがあっという間に地上に運んでくれるのです。
だあれも乗っていないのが勿体ないけれど・・・ -
途中で、確か2回乗り換えます。
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すると、みるみる地上が近くなってきて・・・
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あっという間に下界に引き戻されるのです。これは二つ目の乗り換え口だったかな?
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少しプロムナードを歩いて、最後のエスカレータに乗って・・・
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丘の上からわずか5分で地上に戻ってまいりましたよ。城壁に沿って作られたことが良く分かりますね。
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鉄道駅までは、この後テッシーノ川沿いを歩きます
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こちらも5分も歩くと、スポレートにバスで到着した広場ピアッツァ・デッラ・ヴィットリアに到着です。
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途中で見つけた壁の装飾の面白い家です。
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はい。丘の上からわずか15分足らずでスポレート駅までやってくることが出来ました。リベルタ広場まで戻って、バスに乗っても多分それ以上かかったと思われるので、このルート大正解です。
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駅前広場にあったのは、なんじゃこりゃあ・・・何かのモニュメント?開けて見てのお楽しみっていうところでしょうか?
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駅にあったドゥオモの古い写真です。注目は、ドゥオモ広場を埋め尽くす人、人、人。物凄い数です。
宗教行事かお祭りか・・・ -
丘の上からたっぷり30分はかかると踏んでいたので、駅で時間が余ってしまいました。やたらと意味もない写真を撮っていますよ。2分差で列車に間に合わないよりはずっとまし・・・
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イチオシ
おまけの写真は、車窓から撮った夕暮れ時のトレヴィです。少々シャッターを切るのが遅れて、中心地を通り過ぎた後だったようですが、これでも何枚か撮ったうちのベストです。
しかし、今日は歩いた。歩いた。2万歩を大幅に超えていて、さすがに疲れました。浴槽に浸かって、休足時間を貼ってゆっくりと休むことにしましょう。この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その58 ペルージャ1で。
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