ペルージア旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。<br /><br />まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。<br /><br />イタリアには過去3度行ったことがあります。<br />最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。<br />2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。<br />3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。<br /><br />今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。<br /><br />イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。<br /><br />2015/5/6	水	成田→モスクワ→ローマ<br />2015/5/7	木	ローマ<br />2015/5/8	金	ローマ→ティヴォリ→ローマ<br />2015/5/9	土	ローマ<br />2015/5/10	日	ローマ<br />2015/5/11	月	ローマ<br />2015/5/12	火	ローマ<br />2015/5/13	水	ローマ→ナポリ<br />2015/5/14	木	ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ<br />2015/5/15	金	ナポリ<br />2015/5/16	土	ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ<br />2015/5/17	日	ナポリ→バーリ<br />2015/5/18	月	バーリ→マテーラ→バーリ<br />2015/5/19	火	バーリ→レッチェ→バーリ<br />2015/5/20	水	バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ<br />2015/5/21	木	バーリ→アンコーナ→フォリーニョ<br />2015/5/22	金	フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ<br />2015/5/23	土	フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ<br />2015/5/24	日	フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ<br />2015/5/25	月	フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト<br />2015/5/26	火	オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト<br />2015/5/27	水	オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト<br />2015/5/28	木	オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ<br />2015/5/29	金	ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ<br />2015/5/30	土	ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ<br />2015/5/31	日	ボローニャ<br />2015/6/1	月	ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/2	火	ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/3	水	ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/4	木	ヴィチェンツァ<br />2015/6/5	金	ヴィチェンツァ→ミラノ<br />2015/6/6	土	ミラノ<br />2015/6/7	日	ミラノ<br />2015/6/8	月	ミラノ→モスクワ→<br />2015/6/9	火	→成田<br /><br />エトルリア時代からの町の門エトルリア門からチェントロ方面には戻らないでちょっと寄り道。エトルリア城壁とほぼ並行して続いているペルージャ外国人大学の建物脇にある歩行者専用道ゴルドーニ通りをおりていって、ローマ帝国時代のモザイクを見に行きます。<br /><br /><br />

イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その59 ペルージャ2

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2015/05/24 - 2015/05/24

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2

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junemay

junemayさん

2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。

まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。

イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。

今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。

イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。

2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田

エトルリア時代からの町の門エトルリア門からチェントロ方面には戻らないでちょっと寄り道。エトルリア城壁とほぼ並行して続いているペルージャ外国人大学の建物脇にある歩行者専用道ゴルドーニ通りをおりていって、ローマ帝国時代のモザイクを見に行きます。


旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • とんがりアーチの先に見えているのは、サンタンジェロ教会に向かうときに歩いた中世の水道橋跡遊歩道のアーチです。ぐるっと一周してきたことになります。

    とんがりアーチの先に見えているのは、サンタンジェロ教会に向かうときに歩いた中世の水道橋跡遊歩道のアーチです。ぐるっと一周してきたことになります。

  • 探していたのはこちらの建物です!<br /><br />ここにはかつてサンテリザベッタと言う教会が建っていましたが、1875年、教会の果樹園からローマ帝国時代のモザイクが見つかったというのです。教会が隣にあったペルージャ大学化学科の建物の拡張工事のために解体された後の1926年に、複雑かつ大規模な公共浴場跡が出土しました。<br /><br />ガラス窓越しにモザイクが見えていますね。でも、入口に鍵がかかっていますよ。どうして? 日曜日はお休みなのかしら???

    探していたのはこちらの建物です!

    ここにはかつてサンテリザベッタと言う教会が建っていましたが、1875年、教会の果樹園からローマ帝国時代のモザイクが見つかったというのです。教会が隣にあったペルージャ大学化学科の建物の拡張工事のために解体された後の1926年に、複雑かつ大規模な公共浴場跡が出土しました。

    ガラス窓越しにモザイクが見えていますね。でも、入口に鍵がかかっていますよ。どうして? 日曜日はお休みなのかしら???

  • 教会らしい佇まいが残るのは、こちらのタイル画のみ。ハンガリーの聖人エリザベッタに捧げられた教会でした。<br /><br />後でわかったことですが、こちらのモザイクは現在大学が管理をしていて、公開されるのは大学が開いている時間のみ。つまり、日曜日はお休みでした。ガックリ・・・

    教会らしい佇まいが残るのは、こちらのタイル画のみ。ハンガリーの聖人エリザベッタに捧げられた教会でした。

    後でわかったことですが、こちらのモザイクは現在大学が管理をしていて、公開されるのは大学が開いている時間のみ。つまり、日曜日はお休みでした。ガックリ・・・

  • 仕方がないので、窓ガラス越しにモザイクを眺めます。あまりクリアには撮れませんでしたが、モノトーンに近い動物達のモザイクが地面よりかなり低い床一面に描かれていることが分かります。<br /><br />調べた結果、現在の地面より7m下に、月桂樹の木の下でリラ(竪琴)を弾いているギリシャの吟遊詩人オルフェウスと、その音色に聞きほれている動物達のモザイクであることが分かりました。オルフェウスの姿はここからは確認できませんね。まことに残念!

    仕方がないので、窓ガラス越しにモザイクを眺めます。あまりクリアには撮れませんでしたが、モノトーンに近い動物達のモザイクが地面よりかなり低い床一面に描かれていることが分かります。

    調べた結果、現在の地面より7m下に、月桂樹の木の下でリラ(竪琴)を弾いているギリシャの吟遊詩人オルフェウスと、その音色に聞きほれている動物達のモザイクであることが分かりました。オルフェウスの姿はここからは確認できませんね。まことに残念!

  • 地面が反射してまことにみづらいけれど、もしかして、左上の方に座っている男性がオルフェウスかしら?<br /><br />かなりの大きさのモザイクと思われましたので、大型浴場の床だったのでしょうね。ローマ帝国時代、ペルージャの町の城壁すぐ外にあった公共浴場。思わぬところで、アウグストゥス時代のローマを味わえる機会だったんですがねえ。

    地面が反射してまことにみづらいけれど、もしかして、左上の方に座っている男性がオルフェウスかしら?

    かなりの大きさのモザイクと思われましたので、大型浴場の床だったのでしょうね。ローマ帝国時代、ペルージャの町の城壁すぐ外にあった公共浴場。思わぬところで、アウグストゥス時代のローマを味わえる機会だったんですがねえ。

  • モザイクをチラ見した後は、サンテリザベッタ通りからサン・セバスティアーノ通りへと進みます。建物が建てこんでいる表通りから一歩中に入ると、ご覧のような緑が広がっていました。

    モザイクをチラ見した後は、サンテリザベッタ通りからサン・セバスティアーノ通りへと進みます。建物が建てこんでいる表通りから一歩中に入ると、ご覧のような緑が広がっていました。

  • 途中にあったサン・セバスティアーノ・エ・ロッコ(聖セバスティアーノとロッコ)教会は、前述の聖エリザベッタ教会の廃止に伴い、地区教会に格上げされました。<br /><br />主祭壇にはマドンナ・デッラ・パチェ(平和の聖母)といわれる15世紀のフレスコが飾られているそうですが、ここも閉まっています。

    途中にあったサン・セバスティアーノ・エ・ロッコ(聖セバスティアーノとロッコ)教会は、前述の聖エリザベッタ教会の廃止に伴い、地区教会に格上げされました。

    主祭壇にはマドンナ・デッラ・パチェ(平和の聖母)といわれる15世紀のフレスコが飾られているそうですが、ここも閉まっています。

  • 町の中心に戻るには、この途方もない階段をえっちら上っていかなくてはなりません。階段脇に見えるのは、午前中に歩いた水道橋です。水道橋と階段では、景色が全くといっていいほど異なります。

    町の中心に戻るには、この途方もない階段をえっちら上っていかなくてはなりません。階段脇に見えるのは、午前中に歩いた水道橋です。水道橋と階段では、景色が全くといっていいほど異なります。

  • 同じ道を歩いてもつまらないので、午前中通らなかった道をあえて選びます。向こうで、アーチが「おいでおいで」していますよ!

    同じ道を歩いてもつまらないので、午前中通らなかった道をあえて選びます。向こうで、アーチが「おいでおいで」していますよ!

  • 目の前に、大きくて複雑な建物が出現したなと思ったら、もうそこが町の中心サン・ロレンツォ大聖堂(ドゥオモ)でした。<br /><br />1557年から76年にかけて作られた、聖霊の礼拝堂の建物が、ドウォモの横にちょこんと貼りついていました。

    目の前に、大きくて複雑な建物が出現したなと思ったら、もうそこが町の中心サン・ロレンツォ大聖堂(ドゥオモ)でした。

    1557年から76年にかけて作られた、聖霊の礼拝堂の建物が、ドウォモの横にちょこんと貼りついていました。

  • サイドファサードしか見ていなかったので、表側のドゥオモとは初対面です。ファサードの右に見えるのが上記の聖霊の礼拝堂の建物です。<br /><br />ドゥオモの建物は1437年から1452年にかけて建てられましたが、装飾のあるファサードが作られることはありませんでした。理由は単純で、資金調達が困難だったからだそうです。ファサードの装飾があるとないとで随分イメージは変わりますね。中央扉は1729年にバロック様式で作り変えられています。<br /><br />さてと、町の中心に戻ってきたので、今度は南端を目指すことにしましょう。

    サイドファサードしか見ていなかったので、表側のドゥオモとは初対面です。ファサードの右に見えるのが上記の聖霊の礼拝堂の建物です。

    ドゥオモの建物は1437年から1452年にかけて建てられましたが、装飾のあるファサードが作られることはありませんでした。理由は単純で、資金調達が困難だったからだそうです。ファサードの装飾があるとないとで随分イメージは変わりますね。中央扉は1729年にバロック様式で作り変えられています。

    さてと、町の中心に戻ってきたので、今度は南端を目指すことにしましょう。

  • ここはドゥオモからそう離れていないフランチェスコ・ピッチニーノ広場です。<br /><br />右側のオレンジの建物はブルボン家出身のソルベッロ宮。内部は現在ハウスミュージアムとなっています。<br /><br />奥に見える教会は、1570年建造の聖アンドレアと聖ルチア教会。私はどうも箱型のクーポラのある正教会風建築に惹かれる傾向があります。いいなあ。あの屋根に乗っているクーポラ!

    ここはドゥオモからそう離れていないフランチェスコ・ピッチニーノ広場です。

    右側のオレンジの建物はブルボン家出身のソルベッロ宮。内部は現在ハウスミュージアムとなっています。

    奥に見える教会は、1570年建造の聖アンドレアと聖ルチア教会。私はどうも箱型のクーポラのある正教会風建築に惹かれる傾向があります。いいなあ。あの屋根に乗っているクーポラ!

  • ソルベッロ宮の地下にはエトルリア時代の井戸があり、今でも水が枯れることがないそうです。広場中央にあるこちらの井戸は15世紀のもの。第二次大戦時までは、地下のエトルリア井戸からここに水を供給していたのだとか・・・

    ソルベッロ宮の地下にはエトルリア時代の井戸があり、今でも水が枯れることがないそうです。広場中央にあるこちらの井戸は15世紀のもの。第二次大戦時までは、地下のエトルリア井戸からここに水を供給していたのだとか・・・

  • カフェで一休みした後、町歩き後半戦に突入です。民家の壁に屋根付きのフレスコ発見!

    カフェで一休みした後、町歩き後半戦に突入です。民家の壁に屋根付きのフレスコ発見!

  • 午後のお散歩は、グリェルモ・オベルダン通りから左に曲がって、サンテルコラーノ通りの階段道を下っていきます。

    午後のお散歩は、グリェルモ・オベルダン通りから左に曲がって、サンテルコラーノ通りの階段道を下っていきます。

  • 下りるということは、また上ってこなくちゃいけないってことよね。どちらに歩いていっても階段ばかり。むむむ・・・<br /><br />進行方向に見えてきた古い城門は、エトルリア時代の内側の城壁に開けられた門の一つポルタ・コルネアです。

    下りるということは、また上ってこなくちゃいけないってことよね。どちらに歩いていっても階段ばかり。むむむ・・・

    進行方向に見えてきた古い城門は、エトルリア時代の内側の城壁に開けられた門の一つポルタ・コルネアです。

  • コルネア門は奥に見えるサン・エルコラーノ教会に近いことから、聖エルコラーノ門とも呼ばれています。

    コルネア門は奥に見えるサン・エルコラーノ教会に近いことから、聖エルコラーノ門とも呼ばれています。

  • 外側から見たコルネア門(聖エルコラーノ門)です。門の上には教皇派(ゲルフ)のシンボルライオンの像がありました。

    外側から見たコルネア門(聖エルコラーノ門)です。門の上には教皇派(ゲルフ)のシンボルライオンの像がありました。

  • 門のすぐ外にある聖エルコラーノ教会です。ペルージャ市は1297年から1326年にかけて、町の守護聖人である聖エルコラーノに捧げる教会を建設しました。おそらく町の財力、権威を示す目的があったものと思われます。ドゥオモにあった聖エルコラーノの聖遺物は、1609年にこちらの教会に移されています。<br /><br />教会は1997年に起こった地震の影響で長い間工事中でしたが、最近になってようやく一般公開されるようになりました。

    門のすぐ外にある聖エルコラーノ教会です。ペルージャ市は1297年から1326年にかけて、町の守護聖人である聖エルコラーノに捧げる教会を建設しました。おそらく町の財力、権威を示す目的があったものと思われます。ドゥオモにあった聖エルコラーノの聖遺物は、1609年にこちらの教会に移されています。

    教会は1997年に起こった地震の影響で長い間工事中でしたが、最近になってようやく一般公開されるようになりました。

  • それにしても、凄い坂道です。地震があったら近寄りたくないロケーション。

    それにしても、凄い坂道です。地震があったら近寄りたくないロケーション。

  • 階段を上って入場しようとしたのですが、残念ながら閉まっていました。グスン・・・

    階段を上って入場しようとしたのですが、残念ながら閉まっていました。グスン・・・

  • 全体像を撮るには、思いっきり下っていかないとなりません。この教会縦長なんです。難工事が予想される急斜面に建っていることが御分かりになりますでしょうか?<br /><br />最初の教会は、残っているフレスコを見ると八角形をした塔の上に、ちょこんと小さい教会を乗せたような佇まいでしたが、上層部分は1540年ごろ崩れてしまったようです。<br /><br />階段上にあるゴシック様式の扉は建設当時の姿を留めているそうですよ。<br />

    全体像を撮るには、思いっきり下っていかないとなりません。この教会縦長なんです。難工事が予想される急斜面に建っていることが御分かりになりますでしょうか?

    最初の教会は、残っているフレスコを見ると八角形をした塔の上に、ちょこんと小さい教会を乗せたような佇まいでしたが、上層部分は1540年ごろ崩れてしまったようです。

    階段上にあるゴシック様式の扉は建設当時の姿を留めているそうですよ。

  • 聖エルコラーノ教会から更に下ると、右側に巨大な城壁が続く「バラとチェチリア・カゼッリ公園」があります。

    聖エルコラーノ教会から更に下ると、右側に巨大な城壁が続く「バラとチェチリア・カゼッリ公園」があります。

  • 城壁があまりにも高いので、全景を撮るために道路を渡りましょう。<br /><br />内側の城壁の長さは全長3km。トラバーチンのブロックを積み上げてあります。<br />聖エルコラーノ教会同様地震の影響があったのでしょうか、こちらの壁もエトルリア時代のものとは思えません。ごく最近作り変えられたように綺麗です。それにしても高い!<br /><br />

    城壁があまりにも高いので、全景を撮るために道路を渡りましょう。

    内側の城壁の長さは全長3km。トラバーチンのブロックを積み上げてあります。
    聖エルコラーノ教会同様地震の影響があったのでしょうか、こちらの壁もエトルリア時代のものとは思えません。ごく最近作り変えられたように綺麗です。それにしても高い!

  • 公園の真向かいにあった、花いっぱいの民家。宮殿といってもよいほどの大きさです。住んでいる人のこだわりが感じられて、見ていて飽きません。

    公園の真向かいにあった、花いっぱいの民家。宮殿といってもよいほどの大きさです。住んでいる人のこだわりが感じられて、見ていて飽きません。

  • 狭い横丁を抜けていって、大きな通りに出たと思ったら、

    狭い横丁を抜けていって、大きな通りに出たと思ったら、

  • もうそこが外側の城壁のトゥレ・アーチ、文字通り3つのアーチが並んでいる門でした。1857年に作られたこちらの門は、トスカーナからの玄関口マルコーニ通りの道幅が拡げられた記念に作られたのだそうです。この門が作られる前までは、ここには1612年に完成したサン・カルロ門がありました。<br /><br />内側の城壁からわずか100mくらいしか離れていないような気がします。ペルージャの地図を見ると、南北に細長く、小さな4枚羽を持つ蝶の形に見えます。ここはちょうど下の羽の付け根辺りでしょうか。

    もうそこが外側の城壁のトゥレ・アーチ、文字通り3つのアーチが並んでいる門でした。1857年に作られたこちらの門は、トスカーナからの玄関口マルコーニ通りの道幅が拡げられた記念に作られたのだそうです。この門が作られる前までは、ここには1612年に完成したサン・カルロ門がありました。

    内側の城壁からわずか100mくらいしか離れていないような気がします。ペルージャの地図を見ると、南北に細長く、小さな4枚羽を持つ蝶の形に見えます。ここはちょうど下の羽の付け根辺りでしょうか。

  • トゥレ・アーチから先はカミッロ・カブール大通りを南下します。朝ミニメトロでピンチェット駅に着いたときに見えた聖ドメニコ教会。1305年の創建ですが、1614年に身廊の天井が崩落して再建されています。ここもファサードの装飾がありませんね。修道会への弾圧が行われ、ドメニコ会が追放された1800年代には軍事目的に使用されていました。綺麗に改修され、ドメニコ会の修道士たちが戻ってくることができたのは1956年のことです。<br /><br />残念ながら、この教会も閉まっていました。

    トゥレ・アーチから先はカミッロ・カブール大通りを南下します。朝ミニメトロでピンチェット駅に着いたときに見えた聖ドメニコ教会。1305年の創建ですが、1614年に身廊の天井が崩落して再建されています。ここもファサードの装飾がありませんね。修道会への弾圧が行われ、ドメニコ会が追放された1800年代には軍事目的に使用されていました。綺麗に改修され、ドメニコ会の修道士たちが戻ってくることができたのは1956年のことです。

    残念ながら、この教会も閉まっていました。

  • 前方にまた門が見えてきましたよ。この町には一体いくつ門があるんでしょう? ローマのように城壁の詳細図がないので、どのように門と門がつながっているのかまだ把握できていません。

    前方にまた門が見えてきましたよ。この町には一体いくつ門があるんでしょう? ローマのように城壁の詳細図がないので、どのように門と門がつながっているのかまだ把握できていません。

  • 進行方向左側にあったは今は使われていないサンタ・マリア・ディ・コッレ教会です。半分剥げ落ちたり、もろくなったりした石壁がまた良い味わいを醸しだしています。狭い敷地にぴったりとはまった建物と鐘楼のバランスも抜群! と一人で悦に入っています。

    進行方向左側にあったは今は使われていないサンタ・マリア・ディ・コッレ教会です。半分剥げ落ちたり、もろくなったりした石壁がまた良い味わいを醸しだしています。狭い敷地にぴったりとはまった建物と鐘楼のバランスも抜群! と一人で悦に入っています。

  • 次いでやってきたのはポルタ・サン・ピエトロ。13世紀から14世紀にかけて拡張された城壁に設けられています。門はカブール大通りの終点でもあります。<br /><br />この門は大変不思議。というのも、左側に見える塗り込められたものと合わせて、アーチは全部で2つ。1394年に作られた文書にもduas portas「二つのアーチ」と記載されています。ところが1475年に新しく外側に作られたファサードには、3つのアーチが並んでいるのです。<br /><br />2つの門が使われていた時代は確かに存在したようですが、左側のアーチは1502年には閉じられています。ということは、3つのアーチが使われた形跡はない・・・要は見せかけだけだった?

    次いでやってきたのはポルタ・サン・ピエトロ。13世紀から14世紀にかけて拡張された城壁に設けられています。門はカブール大通りの終点でもあります。

    この門は大変不思議。というのも、左側に見える塗り込められたものと合わせて、アーチは全部で2つ。1394年に作られた文書にもduas portas「二つのアーチ」と記載されています。ところが1475年に新しく外側に作られたファサードには、3つのアーチが並んでいるのです。

    2つの門が使われていた時代は確かに存在したようですが、左側のアーチは1502年には閉じられています。ということは、3つのアーチが使われた形跡はない・・・要は見せかけだけだった?

  • 外側から門を眺める前に、アーチの上にあったフレスコです。「聖ドメニコ、聖フランチェスコといるロザリオの聖母」です。1765年に描かれたもので、1817年、1990年にそれぞれ修復されています。<br /><br />

    外側から門を眺める前に、アーチの上にあったフレスコです。「聖ドメニコ、聖フランチェスコといるロザリオの聖母」です。1765年に描かれたもので、1817年、1990年にそれぞれ修復されています。

  • 外側から見たサン・ピエトロ門です。内と外とでは雰囲気が全く異なりますね。外側のファサードはトラバーチンで作られていて、アゴスティーノ・ドゥッチョらの設計によるルネッサンス様式です。建造は1475年から80年。リミニにある、ドゥッチョが20年ばかり前に働いていたマラスティアーノ教会(1468年)をモデルにしたと伝えられています。<br /><br />形は異なりますが、中央のアーチの周りの装飾などを見ると、前回の旅行記で訪ねたエトルリア門を意識しているような気がしませんか? アーチの周りに花と一緒に装飾に使われているのは、丸い楯のモティーフです。<br /><br />そして、2枚前の写真とこの写真を見比べてください。向かって左側のアーチは、もし開いていたとしても確実に民家の中に突っ込むことになりますね。3つのアーチの幅のある道は当時も存在しなかった気がしますが、実際どうなのでしょう?<br /><br />もう一つ。開いているアーチの右側 内門と外門の間には、小さな礼拝堂が建てられているのです。先ほど内側では、1502年に片方のアーチが塗りこめられたと書きましたが、なんとこの礼拝堂少なくとも1285年から存在するのだそうです。ということは、アーチが開けられていても、今度はこの礼拝堂に突入することになりますよね。<br /><br />やはり勝手ながら、左右のアーチは飾りだったということにしておきましょう。これが一番分かりやすい解釈ですね。

    外側から見たサン・ピエトロ門です。内と外とでは雰囲気が全く異なりますね。外側のファサードはトラバーチンで作られていて、アゴスティーノ・ドゥッチョらの設計によるルネッサンス様式です。建造は1475年から80年。リミニにある、ドゥッチョが20年ばかり前に働いていたマラスティアーノ教会(1468年)をモデルにしたと伝えられています。

    形は異なりますが、中央のアーチの周りの装飾などを見ると、前回の旅行記で訪ねたエトルリア門を意識しているような気がしませんか? アーチの周りに花と一緒に装飾に使われているのは、丸い楯のモティーフです。

    そして、2枚前の写真とこの写真を見比べてください。向かって左側のアーチは、もし開いていたとしても確実に民家の中に突っ込むことになりますね。3つのアーチの幅のある道は当時も存在しなかった気がしますが、実際どうなのでしょう?

    もう一つ。開いているアーチの右側 内門と外門の間には、小さな礼拝堂が建てられているのです。先ほど内側では、1502年に片方のアーチが塗りこめられたと書きましたが、なんとこの礼拝堂少なくとも1285年から存在するのだそうです。ということは、アーチが開けられていても、今度はこの礼拝堂に突入することになりますよね。

    やはり勝手ながら、左右のアーチは飾りだったということにしておきましょう。これが一番分かりやすい解釈ですね。

  • サン・ピエトロ門の前に立つと、サン・ピエトロ教会の鐘楼が正面に見えました。今からあそこに向かいますが、またちょっと寄り道!

    サン・ピエトロ門の前に立つと、サン・ピエトロ教会の鐘楼が正面に見えました。今からあそこに向かいますが、またちょっと寄り道!

  • もう一つ門を見に行きます。サン・ピエトロ門から道を左に折れてしばらく進むと見えてくるサン・ジローラモ門。こちらは1582年の作。門の隣にあるサン・ジローラモ修道院から名前がつけられたようです。アッシジ、ローマ方面へのメインゲートとして1843年まで使われました。<br /><br />現在はサン・ジローラモ修道院は州の財産となり、メインロードの座も他に奪われて、少々寂しい光景が広がっていました。

    もう一つ門を見に行きます。サン・ピエトロ門から道を左に折れてしばらく進むと見えてくるサン・ジローラモ門。こちらは1582年の作。門の隣にあるサン・ジローラモ修道院から名前がつけられたようです。アッシジ、ローマ方面へのメインゲートとして1843年まで使われました。

    現在はサン・ジローラモ修道院は州の財産となり、メインロードの座も他に奪われて、少々寂しい光景が広がっていました。

  • 時間がないので、サン・ジローラモ門の外側まで行かずにサン・ピエトロ門まで引き返し、カブール通りから名前が変わったボルゴ6月20日通りを更に南下します。<br /><br />1859年に起きた「ペルージャの虐殺事件」はサン・ピエトロ門周辺が惨劇の場となりました。ペルージャの虐殺とは、教皇領の支配に反旗を翻した多くの市民が教皇が差し向けたスイス人部隊に虐殺された事件だそうです。この事件が起きた日が1859年6月20日です。

    時間がないので、サン・ジローラモ門の外側まで行かずにサン・ピエトロ門まで引き返し、カブール通りから名前が変わったボルゴ6月20日通りを更に南下します。

    1859年に起きた「ペルージャの虐殺事件」はサン・ピエトロ門周辺が惨劇の場となりました。ペルージャの虐殺とは、教皇領の支配に反旗を翻した多くの市民が教皇が差し向けたスイス人部隊に虐殺された事件だそうです。この事件が起きた日が1859年6月20日です。

  • サン・ピエトロ教会の鐘楼がだいぶ近づいてきました。

    サン・ピエトロ教会の鐘楼がだいぶ近づいてきました。

  • 右側に見えてきたのはフロントーネ公園です。ここはエトルリア時代に墓地(ネクロポリス)だった場所ですが、15世紀にスポーツジムとして作り変えられ、18世紀には公園として整備されました。<br /><br />こちらは6月20日の記念塔。1909年、ジュゼッペ・フランゲッリによる設計です。手前には教皇の支配体制に反旗を翻した人々が戦い、傷つく様子が生々しく再現された彫像がありました。

    右側に見えてきたのはフロントーネ公園です。ここはエトルリア時代に墓地(ネクロポリス)だった場所ですが、15世紀にスポーツジムとして作り変えられ、18世紀には公園として整備されました。

    こちらは6月20日の記念塔。1909年、ジュゼッペ・フランゲッリによる設計です。手前には教皇の支配体制に反旗を翻した人々が戦い、傷つく様子が生々しく再現された彫像がありました。

  • ようやくペルージャの町の南端部に近い場所モンテ・カルヴァリオにある、サン・ピエトロ教会に到着です。あっちへふらふら、こっちへふらふらの私の足で、ドゥオモから約1時間もかかっています。いくらなんでも時間かけ過ぎですね。<br /><br />大変歴史の古い教会で、593年に書かれた教皇グレゴリウス1世の議事録の中に「聖エルコラーノの埋葬場所」として記述があります。入口となっている三重のアーチは、先ほど通ったサン・ピエトロ門と共通するものを感じますね。

    ようやくペルージャの町の南端部に近い場所モンテ・カルヴァリオにある、サン・ピエトロ教会に到着です。あっちへふらふら、こっちへふらふらの私の足で、ドゥオモから約1時間もかかっています。いくらなんでも時間かけ過ぎですね。

    大変歴史の古い教会で、593年に書かれた教皇グレゴリウス1世の議事録の中に「聖エルコラーノの埋葬場所」として記述があります。入口となっている三重のアーチは、先ほど通ったサン・ピエトロ門と共通するものを感じますね。

  • 965年にはベネディクト会修道院がここに開かれていますが、その起源については諸説あり、ほとんど伝説の世界になっています。聖エルコラーノの墓があるということは、かつてはここに司教座が置かれていたのではないかという説まであるそうですよ。<br /><br />入口のアーチをくぐり抜けると・・・

    965年にはベネディクト会修道院がここに開かれていますが、その起源については諸説あり、ほとんど伝説の世界になっています。聖エルコラーノの墓があるということは、かつてはここに司教座が置かれていたのではないかという説まであるそうですよ。

    入口のアーチをくぐり抜けると・・・

  • ローマの古い町並みを思い起こさせるオレンジ色の壁が続く回廊に出ました。この北回廊は、ヴァレンティーノ・マルテッリの設計により、17世紀の初期に作られました。ちょっと感動!<br /><br />回廊の背後にそびえる美しい時計台付きの鐘楼は13世紀の建造。度重なる火災や戦争のために1393年には一部崩落しましたが、塔の付け根部分はいまだにオリジナルのままです。上部部分は1463年から68年にかけて再建されました。高さ70mあるそう。

    ローマの古い町並みを思い起こさせるオレンジ色の壁が続く回廊に出ました。この北回廊は、ヴァレンティーノ・マルテッリの設計により、17世紀の初期に作られました。ちょっと感動!

    回廊の背後にそびえる美しい時計台付きの鐘楼は13世紀の建造。度重なる火災や戦争のために1393年には一部崩落しましたが、塔の付け根部分はいまだにオリジナルのままです。上部部分は1463年から68年にかけて再建されました。高さ70mあるそう。

  • 壁に残る碑文には、1859年の「ペルージャの虐殺」の際に、修道僧たちが傷ついた人達を教皇軍から助けたという記録が残っていました。

    壁に残る碑文には、1859年の「ペルージャの虐殺」の際に、修道僧たちが傷ついた人達を教皇軍から助けたという記録が残っていました。

  • こちらは、教会の入口側を撮った1枚。一番左側のアーチから別の回廊へと行くことが出来ます。列柱の上にあるトンドや2階部分の窓枠は、ほとんどが剥がれ落ちてしまっています。

    こちらは、教会の入口側を撮った1枚。一番左側のアーチから別の回廊へと行くことが出来ます。列柱の上にあるトンドや2階部分の窓枠は、ほとんどが剥がれ落ちてしまっています。

  • 壁に残るのは、建て替えられる前の教会のファサードにあったオリジナルのフレスコです。どうしてこんな形になってしまったのか…もう少し何とかならなかったのでしょうか?<br /><br /><br />14世紀の作品で、左上からピエタ、左下聖ピエトロと聖パオロ、右上受胎告知、右下聖ジョルジョとドラゴンです。聖ジョルジョは日本語ではゲオルギオスと呼ばれていますが、聖ジョージの方がわかりやすいですね。古代ローマ帝国末期の殉教者で、ドラゴン退治の伝説で有名な方です。<br /><br />

    壁に残るのは、建て替えられる前の教会のファサードにあったオリジナルのフレスコです。どうしてこんな形になってしまったのか…もう少し何とかならなかったのでしょうか?


    14世紀の作品で、左上からピエタ、左下聖ピエトロと聖パオロ、右上受胎告知、右下聖ジョルジョとドラゴンです。聖ジョルジョは日本語ではゲオルギオスと呼ばれていますが、聖ジョージの方がわかりやすいですね。古代ローマ帝国末期の殉教者で、ドラゴン退治の伝説で有名な方です。

  • 少しアップで撮ってみました。白い髭で描かれることの多いピエトロとパオロですが、この絵のピエトロはなんだか彼らしくありません。寄り目だし・・・

    少しアップで撮ってみました。白い髭で描かれることの多いピエトロとパオロですが、この絵のピエトロはなんだか彼らしくありません。寄り目だし・・・

  • 聖ジョルジョの着ている白地に赤の十字の服が、イギリス(イングランド)の旗のルーツだという話はご存知でしょうか?<br /><br /><br />フレスコに落書きが多数書かれているのを見て、情けない気持ちになりました。

    聖ジョルジョの着ている白地に赤の十字の服が、イギリス(イングランド)の旗のルーツだという話はご存知でしょうか?


    フレスコに落書きが多数書かれているのを見て、情けない気持ちになりました。

  • こちらは右側にあったフレスコです。3つの顔を持つ女性が玉座に座っています。そばにいた男性に「この女性は誰?」と尋ねたところ、トリプルデーティ、3つの顔を持つ女神だという返答。首をかしげていると、「例えば月の女神は天にあるのはセレネ、地球上では狩猟の神であるアルテミス、そして黄泉の国の破壊的な女神はヘカテの3人なんだよ。」と教えてくれました。<br /><br />でもなぜギリシャ神話の女神が教会のファサードを飾っているのでしょう?<br />疑問符が頭の中で渦を巻いていましたが、その男性が、「この教会の聖具室にはカラヴァッジョがあるんだよ。興味ある?」と聞くので、さらなる質問をし損ねてしまいました。<br /><br />「あります!」<br />

    こちらは右側にあったフレスコです。3つの顔を持つ女性が玉座に座っています。そばにいた男性に「この女性は誰?」と尋ねたところ、トリプルデーティ、3つの顔を持つ女神だという返答。首をかしげていると、「例えば月の女神は天にあるのはセレネ、地球上では狩猟の神であるアルテミス、そして黄泉の国の破壊的な女神はヘカテの3人なんだよ。」と教えてくれました。

    でもなぜギリシャ神話の女神が教会のファサードを飾っているのでしょう?
    疑問符が頭の中で渦を巻いていましたが、その男性が、「この教会の聖具室にはカラヴァッジョがあるんだよ。興味ある?」と聞くので、さらなる質問をし損ねてしまいました。

    「あります!」

  • 教会の中央扉は、サン・ピエトロ門の設計者としても知られているアゴスティーノ・ドゥッチョ。彼が門の建設に携わったことがきっかけで作られたようです。1475年頃の作品。って肝心の扉をルーネット部分しか撮っていませんね。フレスコは1515年頃描かれたジャンニコラ・ディ・パオラの「聖母子と天使たち」です。

    教会の中央扉は、サン・ピエトロ門の設計者としても知られているアゴスティーノ・ドゥッチョ。彼が門の建設に携わったことがきっかけで作られたようです。1475年頃の作品。って肝心の扉をルーネット部分しか撮っていませんね。フレスコは1515年頃描かれたジャンニコラ・ディ・パオラの「聖母子と天使たち」です。

  • というわけで、わきめもふらず身廊を横切り、閉まっていた聖具室を件の男性の口利きで開けてもらい、対面したのがこちらのカラヴァッジョです。とても小さな作品で、「天使から指示を受けるローマの聖フランチェスカ」というタイトルが付けられています。<br /><br />後で調べてみたら、一旦はカラヴァッジョ作とされたものの、彼の後継者であるジョヴァンニ・アントニオ・ガリ、またはロ・スパダリーノの作品である可能性が高いとのことですが、白黒はついていません。

    というわけで、わきめもふらず身廊を横切り、閉まっていた聖具室を件の男性の口利きで開けてもらい、対面したのがこちらのカラヴァッジョです。とても小さな作品で、「天使から指示を受けるローマの聖フランチェスカ」というタイトルが付けられています。

    後で調べてみたら、一旦はカラヴァッジョ作とされたものの、彼の後継者であるジョヴァンニ・アントニオ・ガリ、またはロ・スパダリーノの作品である可能性が高いとのことですが、白黒はついていません。

  • どのくらい小さな作品かというと、聖具室の入口側壁の高いところにこのようにかかっているので、正確には測れないですが、A3位のサイズだったような記憶。

    どのくらい小さな作品かというと、聖具室の入口側壁の高いところにこのようにかかっているので、正確には測れないですが、A3位のサイズだったような記憶。

  • 聖具室の床には、わずかに1563年から64年にかけて敷かれたマジョルカ焼きのタイルが残っていました。イタリアではマジョルカではなく、デルータ・タイルと呼ばれているそう。

    聖具室の床には、わずかに1563年から64年にかけて敷かれたマジョルカ焼きのタイルが残っていました。イタリアではマジョルカではなく、デルータ・タイルと呼ばれているそう。

  • 中央のテーブルの下辺りにあったマジョルカ焼きのタイル。痛みが激しいですが、あまり踏まれずに済む場所だったので、なんとかかろうじて見ることが出来ました。

    中央のテーブルの下辺りにあったマジョルカ焼きのタイル。痛みが激しいですが、あまり踏まれずに済む場所だったので、なんとかかろうじて見ることが出来ました。

  • ヴォールトのフレスコは16世紀後半のものだそうです。シッラ・ピッチニーニ作で旧約聖書からの場面だそうですが、内容が良く分からないなあ・・・左側の1枚は「イサクの犠牲」かな?<br /><br />神がアブラハムの信仰を試すために、息子のイサクをモリヤの丘の岩で、焼いて神に捧げろと言ったというお話です。他の3枚の絵にも、生贄台と燃え盛る火が見えます。

    ヴォールトのフレスコは16世紀後半のものだそうです。シッラ・ピッチニーニ作で旧約聖書からの場面だそうですが、内容が良く分からないなあ・・・左側の1枚は「イサクの犠牲」かな?

    神がアブラハムの信仰を試すために、息子のイサクをモリヤの丘の岩で、焼いて神に捧げろと言ったというお話です。他の3枚の絵にも、生贄台と燃え盛る火が見えます。

  • 壁のフレスコは、残された文書からジローラモ・ダンティ作の「サン・ピエトロとサン・パオロの生涯」からの場面と判明。1574年の作品です。<br /><br />右から「サウル(後のパウロ)の洗礼」、「サン・ピエトロによる百人隊長コルネリウスの洗礼」です。<br /><br />

    壁のフレスコは、残された文書からジローラモ・ダンティ作の「サン・ピエトロとサン・パオロの生涯」からの場面と判明。1574年の作品です。

    右から「サウル(後のパウロ)の洗礼」、「サン・ピエトロによる百人隊長コルネリウスの洗礼」です。

  • 端がかけてしまったので、再度サウルの洗礼のアップです。若き日のパオロの姿を絵で見たのはあまり記憶にありません。

    端がかけてしまったので、再度サウルの洗礼のアップです。若き日のパオロの姿を絵で見たのはあまり記憶にありません。

  • 中央の小さなパネルは聖母子と聖ヨセフ。パルミニャニーノ、またはその弟子の作と言われています。聖母の凛とした美しさが際立った1枚。

    中央の小さなパネルは聖母子と聖ヨセフ。パルミニャニーノ、またはその弟子の作と言われています。聖母の凛とした美しさが際立った1枚。

  • こちらは、サン・ピエトロが神からヴィジョンを受けているところ。神はなんと大きなシートで包まれた沢山の動物をピエトロに食べろと命じています。牛に鶏、鹿、羊などが見えます。そんな無茶な!

    こちらは、サン・ピエトロが神からヴィジョンを受けているところ。神はなんと大きなシートで包まれた沢山の動物をピエトロに食べろと命じています。牛に鶏、鹿、羊などが見えます。そんな無茶な!

  • 右はローマの属州ガラテアのルステラ(現トルコ)で、足の悪い人の治療を行うサン・パオロと初期キリスト教会のメンバー バルナバ。<br /><br />そして左はピエトロに嘘をついたためにパオロに罰されて急死したアナニアス。今でもアナニアスというと「嘘ばかりつく人」の代名詞になっているんですって。知らんかった・・・

    右はローマの属州ガラテアのルステラ(現トルコ)で、足の悪い人の治療を行うサン・パオロと初期キリスト教会のメンバー バルナバ。

    そして左はピエトロに嘘をついたためにパオロに罰されて急死したアナニアス。今でもアナニアスというと「嘘ばかりつく人」の代名詞になっているんですって。知らんかった・・・

  • 赤いショールをまとっているのがパオロ

    赤いショールをまとっているのがパオロ

  • そして、こちらは中央で鍵を携えて立っているのがピエトロです。大迫力の連続でした。

    そして、こちらは中央で鍵を携えて立っているのがピエトロです。大迫力の連続でした。

  • 入口と反対側の壁には、十字架のある祭壇のあるニッチェを挟んで、左右に小さなフレスコが飾られていました。

    入口と反対側の壁には、十字架のある祭壇のあるニッチェを挟んで、左右に小さなフレスコが飾られていました。

  • アップして写しましたが、この2枚については説明一切なしでした。

    アップして写しましたが、この2枚については説明一切なしでした。

  • 2枚とも、病気の人、体に障害がある人を助けている場面ですね。

    2枚とも、病気の人、体に障害がある人を助けている場面ですね。

  • カラヴァッジョ?の絵の下には、この教会にあった多翼祭壇画の最下部にはめ込まれた5枚のプレデッラと呼ばれる小さな板絵がありました。1608年に祭壇から切り離されたこれらの絵の作者はなんとペルジーノ! 1495年から1500年頃の作品と言われます。絵は一時ローマのカピトリーニ博物館にありましたが、1815年に教会に戻されました。<br /><br />左から、ベネディクト会創始者聖ベネディクトゥスの双子の妹聖スコラティスカ、聖エルコラーノ、この教会の創始者司教聖ピエトロ、ペルージャの聖コンスタンテゥヌス、聖マウルスです。聖スコラティスカが描かれたパネルは1903年に盗まれ、1993年に戻って来ましたが、痛みが激しいですね。<br /><br />

    カラヴァッジョ?の絵の下には、この教会にあった多翼祭壇画の最下部にはめ込まれた5枚のプレデッラと呼ばれる小さな板絵がありました。1608年に祭壇から切り離されたこれらの絵の作者はなんとペルジーノ! 1495年から1500年頃の作品と言われます。絵は一時ローマのカピトリーニ博物館にありましたが、1815年に教会に戻されました。

    左から、ベネディクト会創始者聖ベネディクトゥスの双子の妹聖スコラティスカ、聖エルコラーノ、この教会の創始者司教聖ピエトロ、ペルージャの聖コンスタンテゥヌス、聖マウルスです。聖スコラティスカが描かれたパネルは1903年に盗まれ、1993年に戻って来ましたが、痛みが激しいですね。

  • 他にもこんな可愛いフレスコがありましたよ。幼子キリストと洗礼者聖ヨハネの二人の仲睦まじい姿です。ペルジーノの弟子の作とされていますが、若き日のラファエッロ(彼はペルジーノの弟子だった)とも言われています。

    他にもこんな可愛いフレスコがありましたよ。幼子キリストと洗礼者聖ヨハネの二人の仲睦まじい姿です。ペルジーノの弟子の作とされていますが、若き日のラファエッロ(彼はペルジーノの弟子だった)とも言われています。

  • 絵に見入っていたら、今度は件の男性にクリプトを案内すると言われて、またのこのことついていきました。

    絵に見入っていたら、今度は件の男性にクリプトを案内すると言われて、またのこのことついていきました。

  • クリプトは初期キリスト教の霊廟として使われていたと思われる12面体構造をしていて、それぞれの面に祭壇と思しきものがありました。<br /><br />中央の祭壇は、ローマの教会のクリプトやカタコンブなどで見たミトラ神殿に酷似していました。<br />

    クリプトは初期キリスト教の霊廟として使われていたと思われる12面体構造をしていて、それぞれの面に祭壇と思しきものがありました。

    中央の祭壇は、ローマの教会のクリプトやカタコンブなどで見たミトラ神殿に酷似していました。

  • このライオンと思われる絵はどう見ても後の人の落書きとしか思えませんが、どうなんでしょう?と尋ねましたが、正確なことはまだわかっていないそうです。落書きには間違いないのですが、古い時代の落書きである可能性が高いそうです。<br /><br />他にも紋章やグロテスクな顔のような落書きがありましたよ。昔から落書き大好きだったんだ・・・

    このライオンと思われる絵はどう見ても後の人の落書きとしか思えませんが、どうなんでしょう?と尋ねましたが、正確なことはまだわかっていないそうです。落書きには間違いないのですが、古い時代の落書きである可能性が高いそうです。

    他にも紋章やグロテスクな顔のような落書きがありましたよ。昔から落書き大好きだったんだ・・・

  • 元祭壇には、スラブや建築材料のような破片が沢山散らばっていました。

    元祭壇には、スラブや建築材料のような破片が沢山散らばっていました。

  • こちらは後の調査で発掘された土器や陶器の破片です。

    こちらは後の調査で発掘された土器や陶器の破片です。

  • 一通り見たので、地上の世界に戻ります。暗いし、残念なことにこれらの断片から何のイメージも浮かんできません。

    一通り見たので、地上の世界に戻ります。暗いし、残念なことにこれらの断片から何のイメージも浮かんできません。

  • 順番がいつもと異なりますが、ようやく側廊部分を写す機会に恵まれました。サン・ピエトロ教会の基盤部分は先ほど見たクリプトの上に1002年頃建てられています。勿論、装飾はその後施されたものですが、クロスヴォールトが連なる天井は息を飲むほど美しく、青みがかった柱と壁が幻想的な雰囲気です。

    順番がいつもと異なりますが、ようやく側廊部分を写す機会に恵まれました。サン・ピエトロ教会の基盤部分は先ほど見たクリプトの上に1002年頃建てられています。勿論、装飾はその後施されたものですが、クロスヴォールトが連なる天井は息を飲むほど美しく、青みがかった柱と壁が幻想的な雰囲気です。

  • 身廊にやってきました。思わずうっとりする18本もの列柱が並ぶ荘厳な雰囲気の空間です。

    身廊にやってきました。思わずうっとりする18本もの列柱が並ぶ荘厳な雰囲気の空間です。

  • 勝利の門(凱旋門)には、「受胎告知」が描かれていました。ベネデット・バンディエーラの1590年から1619年にかけての作品です。彼は先に見える天蓋の絵も描いています。

    勝利の門(凱旋門)には、「受胎告知」が描かれていました。ベネデット・バンディエーラの1590年から1619年にかけての作品です。彼は先に見える天蓋の絵も描いています。

  • 左右の列柱の上に並ぶ絵は、美術館で見る絵と違って、何という臨場感に溢れているのでしょう! この教会のために描かれた画家渾身の力作がずらりと並んでいるのを見るのは、美術館で見るものよりずっと深い味わいがあります。<br /><br />アーチを形作る列柱は古い大理石製で、これもどこかのローマ時代の建物から運ばれたもののようですが、ご覧のようにその上の絵にぴったりマッチしています。<br /><br />

    左右の列柱の上に並ぶ絵は、美術館で見る絵と違って、何という臨場感に溢れているのでしょう! この教会のために描かれた画家渾身の力作がずらりと並んでいるのを見るのは、美術館で見るものよりずっと深い味わいがあります。

    アーチを形作る列柱は古い大理石製で、これもどこかのローマ時代の建物から運ばれたもののようですが、ご覧のようにその上の絵にぴったりマッチしています。

  • 絵の題材は新旧約聖書から取られたもので、ヴェネツィア在住のギリシャ人画家アントニオ・ヴァッシラッキの筆によります。彼はパオロ・ヴェロネーゼやティントレットの工房で修行を積み、1577年にヴェネツィアのドゥカーレ宮殿が火災により焼失した後、再建された宮殿のフレスコを修復した画家の一人です。<br /><br />これらの絵は1591年から1611年までかかって完成しました。

    絵の題材は新旧約聖書から取られたもので、ヴェネツィア在住のギリシャ人画家アントニオ・ヴァッシラッキの筆によります。彼はパオロ・ヴェロネーゼやティントレットの工房で修行を積み、1577年にヴェネツィアのドゥカーレ宮殿が火災により焼失した後、再建された宮殿のフレスコを修復した画家の一人です。

    これらの絵は1591年から1611年までかかって完成しました。

  • 身廊のアーチ越しに側廊を見た1枚。側廊のヴォールトが柔らかい光を放っていて大変美しい。アーチとアーチの間に描かれたトンド型の肖像もカメオのブローチのように優雅です。

    身廊のアーチ越しに側廊を見た1枚。側廊のヴォールトが柔らかい光を放っていて大変美しい。アーチとアーチの間に描かれたトンド型の肖像もカメオのブローチのように優雅です。

  • 手の込んだ木製の格子組天井も久々に見た気がします。こちらは1556年、ベネディト・ディ・ジョヴァンニ・ダ・モンテプルチアーノの手によります。

    手の込んだ木製の格子組天井も久々に見た気がします。こちらは1556年、ベネディト・ディ・ジョヴァンニ・ダ・モンテプルチアーノの手によります。

  • 側廊、身廊、天井共に完璧でしたが、こちらも期待を裏切りませんでした。主祭壇の後方に、力強いリブヴォールトを見事に生かした後陣が目に飛び込んできました。<br /><br />身廊と側廊部分は1002年の建築と言われていますが、後陣部分は13世紀後半にゴシック様式で再建されています。

    側廊、身廊、天井共に完璧でしたが、こちらも期待を裏切りませんでした。主祭壇の後方に、力強いリブヴォールトを見事に生かした後陣が目に飛び込んできました。

    身廊と側廊部分は1002年の建築と言われていますが、後陣部分は13世紀後半にゴシック様式で再建されています。

  • 後陣の中央に描かれた美しいフレスコは、1592年に後陣を装飾した職人チームの一員であったシッラ・ピッチニーニの作品。いずれも神学的な寓話像だということです。聖具室の美しい天井も彼の作品でしたね。

    後陣の中央に描かれた美しいフレスコは、1592年に後陣を装飾した職人チームの一員であったシッラ・ピッチニーニの作品。いずれも神学的な寓話像だということです。聖具室の美しい天井も彼の作品でしたね。

  • 続いて、後陣左側部分。下のフレスコはジョヴァンニ・バッティスタ・ランボルデッリの1591年から52年の作です。<br /><br />左端に聖ピエトロがいますね。右側のフレスコにも、キリストから鍵を手渡されたピエトロが描かれています。

    続いて、後陣左側部分。下のフレスコはジョヴァンニ・バッティスタ・ランボルデッリの1591年から52年の作です。

    左端に聖ピエトロがいますね。右側のフレスコにも、キリストから鍵を手渡されたピエトロが描かれています。

  • 右側部分です。聖ピエトロとくれば、反対側にいるのはこの方です。右端の人が聖パオロ。サウルと名乗っていた時代、パオロが仲間とダマスコという町に「キリスト教徒狩り」に向かう途中、天の声「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか?」を聞いて落馬した有名な場面がその左に描かれています。ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会で見たカラヴァッジョの絵を思い出しました。

    右側部分です。聖ピエトロとくれば、反対側にいるのはこの方です。右端の人が聖パオロ。サウルと名乗っていた時代、パオロが仲間とダマスコという町に「キリスト教徒狩り」に向かう途中、天の声「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか?」を聞いて落馬した有名な場面がその左に描かれています。ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会で見たカラヴァッジョの絵を思い出しました。

  • 上とあまり変わり映えしませんが、「パオロの落馬」のアップです。

    上とあまり変わり映えしませんが、「パオロの落馬」のアップです。

  • ランボルデッリの作品をもう1枚。どれもとても分かりやすく、色遣いが見事です。<br /><br />下のフレスコは「百人隊長の前のキリスト」です。ローマの軍人百人隊長がキリストの前にやってきて、「主よ、わたしの部下が病気で苦しんでいます。どうか、彼をお救いください」と、懇願した時のことがマタイによる福音書に載っています。

    ランボルデッリの作品をもう1枚。どれもとても分かりやすく、色遣いが見事です。

    下のフレスコは「百人隊長の前のキリスト」です。ローマの軍人百人隊長がキリストの前にやってきて、「主よ、わたしの部下が病気で苦しんでいます。どうか、彼をお救いください」と、懇願した時のことがマタイによる福音書に載っています。

  • 現在の主祭壇は1592年から1608年にかけて作り直されました。<br /><br />こちらは身廊側から撮った1枚。

    現在の主祭壇は1592年から1608年にかけて作り直されました。

    こちらは身廊側から撮った1枚。

  • そして後陣側から撮った1枚です。主祭壇下に見える鉄格子で覆われた部分には、教会創始者司教聖ピエトロの聖遺物が納められています。<br /><br />1500年にペルジーノによる描かれた多翼祭壇画に代わって置かれている中央の幕屋は、1627年から1635年にかけてヴァレンティーノ・マルテッリによりローマで作られました。教会に入って最初に見た北回廊を設計した人です。主祭壇を飾っていた銀製の祭壇前面部分(1627年製)はフランスに持ち去られ、現在あるのはその後のコピーです。

    そして後陣側から撮った1枚です。主祭壇下に見える鉄格子で覆われた部分には、教会創始者司教聖ピエトロの聖遺物が納められています。

    1500年にペルジーノによる描かれた多翼祭壇画に代わって置かれている中央の幕屋は、1627年から1635年にかけてヴァレンティーノ・マルテッリによりローマで作られました。教会に入って最初に見た北回廊を設計した人です。主祭壇を飾っていた銀製の祭壇前面部分(1627年製)はフランスに持ち去られ、現在あるのはその後のコピーです。

  • そして主祭壇の天蓋に描かれているのは、聖ピエトロと聖パオロの三位一体の場面です。こちらは1590年から1619年にかけてのベネデット・バンディエーラの作品。

    そして主祭壇の天蓋に描かれているのは、聖ピエトロと聖パオロの三位一体の場面です。こちらは1590年から1619年にかけてのベネデット・バンディエーラの作品。

  • この教会見るものが多すぎて、次々に目移りしているのが、撮った写真からもわかります。左端でちょん切れている美しい説教壇。他の教会であれば流石にこんな写し方はしないと思いますが、それが目に入らないほど、教会全体が素晴らしい美術館なのです。って単なる言い訳です。ハイ。

    この教会見るものが多すぎて、次々に目移りしているのが、撮った写真からもわかります。左端でちょん切れている美しい説教壇。他の教会であれば流石にこんな写し方はしないと思いますが、それが目に入らないほど、教会全体が素晴らしい美術館なのです。って単なる言い訳です。ハイ。

  • その時私の目に写っていたものは、後陣のカーブに沿って作られていた目を見張るばかりの聖歌隊席とそれに続く木製の見事なパネルです。

    その時私の目に写っていたものは、後陣のカーブに沿って作られていた目を見張るばかりの聖歌隊席とそれに続く木製の見事なパネルです。

  • ゴシック様式で作られたこちらの聖歌隊席はイタリアでも一、二を争う素晴らしい仕上がりで、1525年から1591年の間に完成したと言われています。

    ゴシック様式で作られたこちらの聖歌隊席はイタリアでも一、二を争う素晴らしい仕上がりで、1525年から1591年の間に完成したと言われています。

  • 見たこともないような形のランプシェード?

    見たこともないような形のランプシェード?

  • 書見台には古いミサ用の楽譜がさりげなく置かれていました。楽譜自体も見事な芸術品です。

    書見台には古いミサ用の楽譜がさりげなく置かれていました。楽譜自体も見事な芸術品です。

  • 椅子の背もたれの部分も、一つずつ異なったデザインが彫られています。これがまた大変緻密で美しい! <br /><br />聖歌隊席は、元々身廊部分の中央にあったのですが、それを1525年から後陣に移したのだそうです。作業はペストの流行により中断を余儀なくされ、完成したのは1535年のこと。彫刻はベルガモ出身のステファノ・ツァンベッリ。聖歌隊席を囲む壁を構築したのは、父親から仕事を引き継いだセッティニャーノ出身のグイド・ディ・フランチェスコでした。

    椅子の背もたれの部分も、一つずつ異なったデザインが彫られています。これがまた大変緻密で美しい! 

    聖歌隊席は、元々身廊部分の中央にあったのですが、それを1525年から後陣に移したのだそうです。作業はペストの流行により中断を余儀なくされ、完成したのは1535年のこと。彫刻はベルガモ出身のステファノ・ツァンベッリ。聖歌隊席を囲む壁を構築したのは、父親から仕事を引き継いだセッティニャーノ出身のグイド・ディ・フランチェスコでした。

  • 背もたれの装飾のアップです。

    背もたれの装飾のアップです。

  • 合唱隊席の中ほどにあった外に出る扉にも注目。光が当たってひどい写真ですが、聖歌隊席の背もたれを手掛けたステファノの兄弟 ダミアーノによる8枚のパネルから構成されています。ここでは上の6枚のパネルしか写っていません。

    合唱隊席の中ほどにあった外に出る扉にも注目。光が当たってひどい写真ですが、聖歌隊席の背もたれを手掛けたステファノの兄弟 ダミアーノによる8枚のパネルから構成されています。ここでは上の6枚のパネルしか写っていません。

  • 上の2枚に描かれているのは「受胎告知」

    上の2枚に描かれているのは「受胎告知」

  • そして 「ナイルに隠された赤ん坊時代のモーゼ」。おぞましい出来の写真ですが、ご容赦。

    そして 「ナイルに隠された赤ん坊時代のモーゼ」。おぞましい出来の写真ですが、ご容赦。

  • 中央の2枚は飛ばして、びっくりしたのはこちらの「聖ピエトロの頭」!

    中央の2枚は飛ばして、びっくりしたのはこちらの「聖ピエトロの頭」!

  • そして「聖パオロの頭」です。リアル過ぎる・・・

    そして「聖パオロの頭」です。リアル過ぎる・・・

  • 一番下の2枚はともに船が描かれていました。漁師をしていたピエトロが初めてキリストに会った場面でしょうか? 弟アンドレと共に夜の漁からようやく帰りつき、岸に舟をつけたときに彼は岸辺に立っていたキリストの姿を見たのです。

    一番下の2枚はともに船が描かれていました。漁師をしていたピエトロが初めてキリストに会った場面でしょうか? 弟アンドレと共に夜の漁からようやく帰りつき、岸に舟をつけたときに彼は岸辺に立っていたキリストの姿を見たのです。

  • 合唱隊席上の左側オルガン周りのフレスコと

    合唱隊席上の左側オルガン周りのフレスコと

  • 右側のオルガン周りです。一つ一つ丹念に見ていたら、いくら時間があっても足りないほど。

    右側のオルガン周りです。一つ一つ丹念に見ていたら、いくら時間があっても足りないほど。

  • 目立たない彫像には、像の名前はなく、「触るな!」と書かれていました。ベネディクト会の創始者の聖ベネディクトかなあ・・・

    目立たない彫像には、像の名前はなく、「触るな!」と書かれていました。ベネディクト会の創始者の聖ベネディクトかなあ・・・

  • 反対側にもう一人・・・確かではないけれど、教会の創始者司教聖ピエトロだと思います。

    反対側にもう一人・・・確かではないけれど、教会の創始者司教聖ピエトロだと思います。

  • 天蓋のすぐ横にいたのは、聖セバスティアーノ・・・

    天蓋のすぐ横にいたのは、聖セバスティアーノ・・・

  • さて、サイド・チャペル巡りに参りましょう。左側廊からスタートですが、途中から順不同になっています。<br /><br />こちらは、1506年にモデルチェンジしたヴィービ礼拝堂です。祭壇にあるのは、1473年に作られた金メッキの縁取りが施された大理石製の祭壇。1473年にミーノ・ダ・フィエゾーレによって作られました。

    さて、サイド・チャペル巡りに参りましょう。左側廊からスタートですが、途中から順不同になっています。

    こちらは、1506年にモデルチェンジしたヴィービ礼拝堂です。祭壇にあるのは、1473年に作られた金メッキの縁取りが施された大理石製の祭壇。1473年にミーノ・ダ・フィエゾーレによって作られました。

  • 碑文には、制作年と施主であるバリョーネ・ディ・モンテヴィビアーニの名前が刻まれています。<br /><br />中央部分には、ピエタ像のある金色をした幕屋の扉が鈍い光を放っていました。その下には幼子キリストが天使たちに見守られています。<br /><br />両脇には聖ヒエルニムス、洗礼者聖ヨハネの像が立っています。最初てっきり左が聖ヨハネだと思っていたのですが、よく見たら足元にヒエロニムスの従順な僕ライオンがいましたよ。

    碑文には、制作年と施主であるバリョーネ・ディ・モンテヴィビアーニの名前が刻まれています。

    中央部分には、ピエタ像のある金色をした幕屋の扉が鈍い光を放っていました。その下には幼子キリストが天使たちに見守られています。

    両脇には聖ヒエルニムス、洗礼者聖ヨハネの像が立っています。最初てっきり左が聖ヨハネだと思っていたのですが、よく見たら足元にヒエロニムスの従順な僕ライオンがいましたよ。

  • 星空が広がるクーポラです。1521年の作。だいぶ傷んでいますね。中央には天の父の姿が! あっ逆だ!

    星空が広がるクーポラです。1521年の作。だいぶ傷んでいますね。中央には天の父の姿が! あっ逆だ!

  • 改めて紹介します。永遠の父なる神です。

    改めて紹介します。永遠の父なる神です。

  • クーポラの周りの壁に描かれていた「受胎告知」です。平ぺったい半月形という制約を逆に上手に利用して人物が描かれていると思いました。クーポラ部分は、ジョヴァンニ・バッティスタ・カポラーリの1521年の作品です。

    クーポラの周りの壁に描かれていた「受胎告知」です。平ぺったい半月形という制約を逆に上手に利用して人物が描かれていると思いました。クーポラ部分は、ジョヴァンニ・バッティスタ・カポラーリの1521年の作品です。

  • 左側廊にあった、いつ見ても衝撃的な「ユディトとホロフェルネス」。カラヴァッジョの絵でも見たことがあります。<br /><br />唯一の神を信じる若きユダヤの未亡人ユディトが、アッシリアの王ネプカドネツァルによりユダヤの地に派遣された司令官ホロフェルネスの首を彼自身が持っていた短剣を奪って切り落とした場面です。司令官を殺されたアッシリア軍は動揺し敗走。ユダヤの小さな町に平和が訪れたという、旧約聖書外典「ユディト記」からのお話です。<br /><br />イル・サッソフェッラートとも呼ばれるジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィの作品。彼の作品はこの教会に沢山ありましたよ。17世紀としか書かれていませんでした。

    左側廊にあった、いつ見ても衝撃的な「ユディトとホロフェルネス」。カラヴァッジョの絵でも見たことがあります。

    唯一の神を信じる若きユダヤの未亡人ユディトが、アッシリアの王ネプカドネツァルによりユダヤの地に派遣された司令官ホロフェルネスの首を彼自身が持っていた短剣を奪って切り落とした場面です。司令官を殺されたアッシリア軍は動揺し敗走。ユダヤの小さな町に平和が訪れたという、旧約聖書外典「ユディト記」からのお話です。

    イル・サッソフェッラートとも呼ばれるジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィの作品。彼の作品はこの教会に沢山ありましたよ。17世紀としか書かれていませんでした。

  • ここで順不同になりますが、私が見たイル・サッソフェッラートについて、ここでまとめて掲載します。<br /><br />「キリストの十字架降下」は1638年の作品。これも左側廊にありました。これはラファエッロ作の「パーラ・バリオーニ」(1507年)をコピーしたものです。ラファエッロの作品は現在ローマのボルゲーゼ宮にあるそうです。

    ここで順不同になりますが、私が見たイル・サッソフェッラートについて、ここでまとめて掲載します。

    「キリストの十字架降下」は1638年の作品。これも左側廊にありました。これはラファエッロ作の「パーラ・バリオーニ」(1507年)をコピーしたものです。ラファエッロの作品は現在ローマのボルゲーゼ宮にあるそうです。

  • お次はこちらの「受胎告知」です。この作品はラファエッロのPala Oddi「パーラ・オッディ」と呼ばれる祭壇のプレデッラ部分に描かれた受胎告知を元にしています。完全なるコピーではありません。<br /><br />オッディ家の祭壇は元々ペルージャのサン・フランチェスコ・アル・プラート教会にありましたが、現在はヴァチカンの絵画館に収蔵されています。<br /><br />こちらの「受胎告知」は、1812年にローマのカピトリーニ博物館に送られるリストに入っていましたが、教会に残すべきという意見が多数を占めたため、留まったのだそうです。

    お次はこちらの「受胎告知」です。この作品はラファエッロのPala Oddi「パーラ・オッディ」と呼ばれる祭壇のプレデッラ部分に描かれた受胎告知を元にしています。完全なるコピーではありません。

    オッディ家の祭壇は元々ペルージャのサン・フランチェスコ・アル・プラート教会にありましたが、現在はヴァチカンの絵画館に収蔵されています。

    こちらの「受胎告知」は、1812年にローマのカピトリーニ博物館に送られるリストに入っていましたが、教会に残すべきという意見が多数を占めたため、留まったのだそうです。

  • 修道院への入口上にあったのは、サッソフェッラートの左聖マウルス、右聖プラシディスです。どちらもベネディクト会に関わる聖人で、ペルジーノの作品のコピー。聖マウルスについては、聖具室でオリジナルを見たばかりですね。<br /><br />聖プラシディスのオリジナルは、ヴァチカンのピナコテカ絵画館にあります(1495年〜98年)。

    修道院への入口上にあったのは、サッソフェッラートの左聖マウルス、右聖プラシディスです。どちらもベネディクト会に関わる聖人で、ペルジーノの作品のコピー。聖マウルスについては、聖具室でオリジナルを見たばかりですね。

    聖プラシディスのオリジナルは、ヴァチカンのピナコテカ絵画館にあります(1495年〜98年)。

  • ついでと言ったら失礼ですが、二人の聖人に挟まれた中央のパネルは、聖母子と聖ヨハネのほかにもう一人女性の聖人が描かれています。ヨハネの母の聖エリザベッタではないのかしら?<br /><br />ボニファチオ・デ・ピターティ・ダ・ヴェローナの16世紀の作品。

    ついでと言ったら失礼ですが、二人の聖人に挟まれた中央のパネルは、聖母子と聖ヨハネのほかにもう一人女性の聖人が描かれています。ヨハネの母の聖エリザベッタではないのかしら?

    ボニファチオ・デ・ピターティ・ダ・ヴェローナの16世紀の作品。

  • 礼拝堂巡りに戻ります。こちらは1506年に建てられたラニエーリ礼拝堂にあるクーポラ。描かれていたのは、アニーガレ・ブルニョーリの作品で「聖母被昇天」。1863年。

    礼拝堂巡りに戻ります。こちらは1506年に建てられたラニエーリ礼拝堂にあるクーポラ。描かれていたのは、アニーガレ・ブルニョーリの作品で「聖母被昇天」。1863年。

  • そして、こちらの「ゲッセマネの祈り」は、グイド・レーニです! ボローニャ生まれでローマで長く活躍したレーニの作品をペルージャで見ることが出来るなんて思っても見ませんでした! 17世紀の作品としか書かれていませんでした。

    そして、こちらの「ゲッセマネの祈り」は、グイド・レーニです! ボローニャ生まれでローマで長く活躍したレーニの作品をペルージャで見ることが出来るなんて思っても見ませんでした! 17世紀の作品としか書かれていませんでした。

  • 正面祭壇に飾られた「ジリオの聖母」を祀るために、1643年に建てられたサクラメント礼拝堂です。1760年から63年にかけて再建されたこの礼拝堂も見るものが満載です。<br /><br />今見えている左右の壁の絵は、すべてあの、アレッツォ出身ジョルジョ・ヴァザーリの作品です。左が「カナの饗宴」、そして右が「エリシャの奇跡」です。

    正面祭壇に飾られた「ジリオの聖母」を祀るために、1643年に建てられたサクラメント礼拝堂です。1760年から63年にかけて再建されたこの礼拝堂も見るものが満載です。

    今見えている左右の壁の絵は、すべてあの、アレッツォ出身ジョルジョ・ヴァザーリの作品です。左が「カナの饗宴」、そして右が「エリシャの奇跡」です。

  • 向かって右側の壁手前には、同じくヴァザーリの「聖ベネディクトの食堂での奇跡」がありました。3枚揃って、サン・ピエトロの修道僧に引き渡されたのが1566年頃だということです。<br /><br />ヴァザーリは画家というよりも建築家として、また執筆活動で知られていますが、なかなか素晴らしい画家でもあるんだと認識しました。

    向かって右側の壁手前には、同じくヴァザーリの「聖ベネディクトの食堂での奇跡」がありました。3枚揃って、サン・ピエトロの修道僧に引き渡されたのが1566年頃だということです。

    ヴァザーリは画家というよりも建築家として、また執筆活動で知られていますが、なかなか素晴らしい画家でもあるんだと認識しました。

  • 左側の壁手前にも、ベネディクト会の創始者聖ベネディクトを描いた作品がありました。ヴァザーリについては資料がありますが、この絵に関しては全く見当たりませんでした。

    左側の壁手前にも、ベネディクト会の創始者聖ベネディクトを描いた作品がありました。ヴァザーリについては資料がありますが、この絵に関しては全く見当たりませんでした。

  • 「マドンナ・デル・ジリオ」はジョヴァンニ・スパーニャ(ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ別名ロ・スパーニャとは異なります)がある別荘内の礼拝堂のために1443年に描いたフレスコの一部。それをウルバヌス8世の許可を得た司教レオーネ・パヴォーニがこちらに持ち込み、専用の礼拝堂を建てたのです。<br /><br />無理な剥され方をしたのではないかと想像できる、痛々しいフレスコですが、柔和な表情の聖母子の部分だけはなんとかセーフです。

    「マドンナ・デル・ジリオ」はジョヴァンニ・スパーニャ(ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ別名ロ・スパーニャとは異なります)がある別荘内の礼拝堂のために1443年に描いたフレスコの一部。それをウルバヌス8世の許可を得た司教レオーネ・パヴォーニがこちらに持ち込み、専用の礼拝堂を建てたのです。

    無理な剥され方をしたのではないかと想像できる、痛々しいフレスコですが、柔和な表情の聖母子の部分だけはなんとかセーフです。

  • 遠近法を用いて波打っているように描かれたヴォールトが魅力的です。フランチェスコ・アッピアーニによる作品で、中央には印象的な「聖母被昇天」が。これもまたエレガントで美しいです。1762年から3年にかけての作品。

    イチオシ

    遠近法を用いて波打っているように描かれたヴォールトが魅力的です。フランチェスコ・アッピアーニによる作品で、中央には印象的な「聖母被昇天」が。これもまたエレガントで美しいです。1762年から3年にかけての作品。

  • ドーニャ・レオナルダ・オリヴィエーリ・ボリオーニ(という貴族のご婦人)寄贈の「東方三博士の礼拝」は、1509年、エウセビオ・デイ・サン・ジョルジョが描いた作品。

    ドーニャ・レオナルダ・オリヴィエーリ・ボリオーニ(という貴族のご婦人)寄贈の「東方三博士の礼拝」は、1509年、エウセビオ・デイ・サン・ジョルジョが描いた作品。

  • 次なるお宝はヴェントゥーラ・サリンベーニによる2枚のパネルです。ウンブリアの教皇使節で枢機卿のボニファシオ・ベヴィラックアの注文によるもので、1602年の作品です。<br /><br />最初の作品は、「イスラエルの王ダヴィデの処罰」。ダヴィデ王にも傲慢さがあったとして、神が天使を遣わし、3つの罰の中から1つを選ぶよう伝える場面です。ダヴィデ王と言えばイスラエルの名君、ダヴィデの星でも有名な人物ですが、神に対して大きな罪を犯したとして悔い改め、信仰に励むのです。

    次なるお宝はヴェントゥーラ・サリンベーニによる2枚のパネルです。ウンブリアの教皇使節で枢機卿のボニファシオ・ベヴィラックアの注文によるもので、1602年の作品です。

    最初の作品は、「イスラエルの王ダヴィデの処罰」。ダヴィデ王にも傲慢さがあったとして、神が天使を遣わし、3つの罰の中から1つを選ぶよう伝える場面です。ダヴィデ王と言えばイスラエルの名君、ダヴィデの星でも有名な人物ですが、神に対して大きな罪を犯したとして悔い改め、信仰に励むのです。

  • 2枚目は「グレゴリウス1世のヴィジョン」。グレゴリウス1世は590年、ペスト流行の終焉を告げる確かなあらわれとして、ローマのハドリアヌス霊廟の上に、剣を携えた大天使ミケーレ(ミカエル)の姿を見たのです。ハドリアヌス霊廟、後のサンタンジェロ城の姿を見ることが出来て、興味深い1枚でした。

    2枚目は「グレゴリウス1世のヴィジョン」。グレゴリウス1世は590年、ペスト流行の終焉を告げる確かなあらわれとして、ローマのハドリアヌス霊廟の上に、剣を携えた大天使ミケーレ(ミカエル)の姿を見たのです。ハドリアヌス霊廟、後のサンタンジェロ城の姿を見ることが出来て、興味深い1枚でした。

  • サン・ジュゼッペ礼拝堂のヴォールトです。こちらは比較的新しいもので、1857年ドメニコ・ブラスキの手によるものです。

    サン・ジュゼッペ礼拝堂のヴォールトです。こちらは比較的新しいもので、1857年ドメニコ・ブラスキの手によるものです。

  • 祭壇には大好きなラファエッロ・サンティの「カニジャーニの聖家族」がありました。勿論コピーで、オリジナルはミュンヘンのアルテ・ピナコテークが所蔵しています。しかしながら、この場には大変ふさわしい作品で、何枚も撮ってしまいました。

    祭壇には大好きなラファエッロ・サンティの「カニジャーニの聖家族」がありました。勿論コピーで、オリジナルはミュンヘンのアルテ・ピナコテークが所蔵しています。しかしながら、この場には大変ふさわしい作品で、何枚も撮ってしまいました。

  • 登場人物は聖母子と、母聖アンナ、父聖ヨアヒム、そして洗礼者聖ヨハネです。ラファエッロはこの絵を1507年に完成させています。

    登場人物は聖母子と、母聖アンナ、父聖ヨアヒム、そして洗礼者聖ヨハネです。ラファエッロはこの絵を1507年に完成させています。

  • 他にも、聖母子と聖ヨハネ、その母聖エリザベッタという二組の親子が描かれた絵が壁にかかっていました。ジャコポ・カルッチの作品で、こちらもお気に入り。<br /><br />ヴォールト下の4枚の半月形をした部分のフレスコは、カルロ・ファンタキオッティ作と書かれていました。

    他にも、聖母子と聖ヨハネ、その母聖エリザベッタという二組の親子が描かれた絵が壁にかかっていました。ジャコポ・カルッチの作品で、こちらもお気に入り。

    ヴォールト下の4枚の半月形をした部分のフレスコは、カルロ・ファンタキオッティ作と書かれていました。

  • 壁にある小さなモニュメントは、ベルデスキという名の女性の墓碑あるいは記念碑で、カルロ・ホフマン作だそう。

    壁にある小さなモニュメントは、ベルデスキという名の女性の墓碑あるいは記念碑で、カルロ・ホフマン作だそう。

  • とても珍しい光景を描いた1枚です。<br />御柱祭ではなく、聖ピエトロ教会が建築工事中の966年、列柱が倒れ掛かり、職人が下敷きになったり、落ちたりするところを、創建者司教聖ピエトロが十字を切ったことで間一髪悲劇が避けられたという「奇跡」について、描かれたものだと思われます。作者は???

    とても珍しい光景を描いた1枚です。
    御柱祭ではなく、聖ピエトロ教会が建築工事中の966年、列柱が倒れ掛かり、職人が下敷きになったり、落ちたりするところを、創建者司教聖ピエトロが十字を切ったことで間一髪悲劇が避けられたという「奇跡」について、描かれたものだと思われます。作者は???

  • 右翼廊では、とびっきりの美少年と会いました。こんなに美形な少年時の洗礼者聖ヨハネを見たのは初めて!<br /><br />ジャン・ドメニコ・チェッリーニの1660年頃の作品です。

    イチオシ

    右翼廊では、とびっきりの美少年と会いました。こんなに美形な少年時の洗礼者聖ヨハネを見たのは初めて!

    ジャン・ドメニコ・チェッリーニの1660年頃の作品です。

  • もう1枚。チェッリーニの作品です。こちらも文句なく美しい。聖母は授乳中・・・<br /><br />チェッリーニの作品2点も、1812年にローマのカピトリーニ博物館に送られるリストに入っていましたが、教会に残すべきという意見が通ったものに入っています。ここで見れて良かったと大きな喜びを感じました。

    イチオシ

    もう1枚。チェッリーニの作品です。こちらも文句なく美しい。聖母は授乳中・・・

    チェッリーニの作品2点も、1812年にローマのカピトリーニ博物館に送られるリストに入っていましたが、教会に残すべきという意見が通ったものに入っています。ここで見れて良かったと大きな喜びを感じました。

  • 左側廊の終わりにあったのはこちらの「ピエタ」。絵の周りに書かれた碑文から長らくベネデット・ボンティッリ作と信じられてきて、教会での展示にもその名前が書かれていましたが、最近ウンブリア派の隠れた巨匠フィオレンツォ・ディ・ロレンツォの最古の作品ではないのかと言われています。<br /><br />左右に聖ヒエロニムスと聖レオナルドを配しています。ヒエロニムスの足元にはお馴染みのライオンが寝そべっています。

    左側廊の終わりにあったのはこちらの「ピエタ」。絵の周りに書かれた碑文から長らくベネデット・ボンティッリ作と信じられてきて、教会での展示にもその名前が書かれていましたが、最近ウンブリア派の隠れた巨匠フィオレンツォ・ディ・ロレンツォの最古の作品ではないのかと言われています。

    左右に聖ヒエロニムスと聖レオナルドを配しています。ヒエロニムスの足元にはお馴染みのライオンが寝そべっています。

  • ベネディクト派の修道院らしい、聖ベネディクトの雄姿をもう1枚。これは聖ベネディクトが溺れかけた聖プラシードを助ける場面で、1679年のジャチント・ジミニャーニの作品です。

    ベネディクト派の修道院らしい、聖ベネディクトの雄姿をもう1枚。これは聖ベネディクトが溺れかけた聖プラシードを助ける場面で、1679年のジャチント・ジミニャーニの作品です。

  • カウンターファサードです。<br /><br />オラツィオ・アルファーニが請け負った4枚のフレスコのうち、彼自身の作とされる左 足の不自由な人を癒す聖ピエトロ、右 牢獄から釈放された聖ピエトロです。1556年の作品。

    カウンターファサードです。

    オラツィオ・アルファーニが請け負った4枚のフレスコのうち、彼自身の作とされる左 足の不自由な人を癒す聖ピエトロ、右 牢獄から釈放された聖ピエトロです。1556年の作品。

  • こちらの2枚は、当時画家仲間だったレオナルド・クンギの作だとされています。左マルタに上陸した聖パオロ、右 船の難破で生き残った聖パオロ です。これらのフレスコは剥されて額に入れられた状態でカウンターファサードを飾っていました。

    こちらの2枚は、当時画家仲間だったレオナルド・クンギの作だとされています。左マルタに上陸した聖パオロ、右 船の難破で生き残った聖パオロ です。これらのフレスコは剥されて額に入れられた状態でカウンターファサードを飾っていました。

  • お終いは、カウンターファサードの上に掲げられている、途方もなく大きな1枚の絵です。おまけに大変暗くて、詳細がわかりにくい!<br /><br />これは、ベネディクト会の聖人達(教皇、枢機卿、司教、修道院長など)を描いた作品で、画家は身廊の左右の壁に並んでいる10枚の絵を描いたギリシャ人アントニオ・ヴァッシラキスです。

    お終いは、カウンターファサードの上に掲げられている、途方もなく大きな1枚の絵です。おまけに大変暗くて、詳細がわかりにくい!

    これは、ベネディクト会の聖人達(教皇、枢機卿、司教、修道院長など)を描いた作品で、画家は身廊の左右の壁に並んでいる10枚の絵を描いたギリシャ人アントニオ・ヴァッシラキスです。

  • 宗教改革に対抗する気運の高まりがテーマだそうです。下の中央に描かれているのは聖ベネディクト。そしてその上にいるのが教皇グレゴリウス1世と思われますが、定かではありません。絵が描かれた当時であれば,誰もが知っていた顔なのでしょうが、今はすべてが忘れ去られようとしています。聖ピエトロと聖パオロもこの絵のどこかにいるはずなのですが、見つけられませんでした。偉大な作品だけに、きちんとした説明が必要ですね。

    宗教改革に対抗する気運の高まりがテーマだそうです。下の中央に描かれているのは聖ベネディクト。そしてその上にいるのが教皇グレゴリウス1世と思われますが、定かではありません。絵が描かれた当時であれば,誰もが知っていた顔なのでしょうが、今はすべてが忘れ去られようとしています。聖ピエトロと聖パオロもこの絵のどこかにいるはずなのですが、見つけられませんでした。偉大な作品だけに、きちんとした説明が必要ですね。

  • いやあ〜 あまりに盛り沢山で、また写真も撮りすぎでまとまらず、感じたことの半分も書けなかったサン・ピエトロでした。時間をかけ過ぎたので、後の予定が押せ押せになってしまいましたが、それだけ価値のある教会だと思いました。<br /><br />もう一つあるという回廊、その先にあるという中世の庭園を見ずに帰ってしまったことが残念です。

    いやあ〜 あまりに盛り沢山で、また写真も撮りすぎでまとまらず、感じたことの半分も書けなかったサン・ピエトロでした。時間をかけ過ぎたので、後の予定が押せ押せになってしまいましたが、それだけ価値のある教会だと思いました。

    もう一つあるという回廊、その先にあるという中世の庭園を見ずに帰ってしまったことが残念です。

  • 幾つ目の門になるのかなあ・・・ペルージャの南の端ポルタ・サン・コスタンツォに向かって歩きます。サン・ピエトロ教会は長い間、城壁の外の教会とされてきたのですから、この門は比較的新しいはずと思っていたのですが、果たして、15世紀に拡張された城壁に、1586年から87年にかけて作られた門でした。

    幾つ目の門になるのかなあ・・・ペルージャの南の端ポルタ・サン・コスタンツォに向かって歩きます。サン・ピエトロ教会は長い間、城壁の外の教会とされてきたのですから、この門は比較的新しいはずと思っていたのですが、果たして、15世紀に拡張された城壁に、1586年から87年にかけて作られた門でした。

  • 内側の門は、白っぽい漆喰が塗られていて、比較的簡素な造りです。右側には内側から数えて3番目の城壁が続いています。後で調べてみたら、向かって左側の壁の中には、サン・ピエトロ教会の中世の庭園があったようです。

    内側の門は、白っぽい漆喰が塗られていて、比較的簡素な造りです。右側には内側から数えて3番目の城壁が続いています。後で調べてみたら、向かって左側の壁の中には、サン・ピエトロ教会の中世の庭園があったようです。

  • 外側から見たポルタ・サン・コスタンツァです。1997年の地震で被害を受けましたが、最近修復が完成したようです。外側もシンプル。<br /><br />この門をくぐるものは、戦いあるいは戦争に勝利した者であるというジンクスがあるそうです。1799年には、1797年から町を占拠していたフランス軍(ローマ共和国という短命の国をペルージャに創生)を追い出したオーストリア(教皇)軍、1859年には、リソルジメント(イタリア統一運動)の暴徒(ペルージャの虐殺)を追い出した教皇軍、1944年7月20日には米英国軍がこの門からやってきたとのこと。

    外側から見たポルタ・サン・コスタンツァです。1997年の地震で被害を受けましたが、最近修復が完成したようです。外側もシンプル。

    この門をくぐるものは、戦いあるいは戦争に勝利した者であるというジンクスがあるそうです。1799年には、1797年から町を占拠していたフランス軍(ローマ共和国という短命の国をペルージャに創生)を追い出したオーストリア(教皇)軍、1859年には、リソルジメント(イタリア統一運動)の暴徒(ペルージャの虐殺)を追い出した教皇軍、1944年7月20日には米英国軍がこの門からやってきたとのこと。

  • 門の南には、緑に囲まれた何かの研究所がありましたが、これ以上進まずにそろそろ町の中心に戻るとしましょう。

    門の南には、緑に囲まれた何かの研究所がありましたが、これ以上進まずにそろそろ町の中心に戻るとしましょう。

  • 今度は門の前を走るローマ通りに沿って進みます。

    今度は門の前を走るローマ通りに沿って進みます。

  • なだらかな丘陵地帯がどこまでも続くウンブリアの景色を愛でながら・・・

    なだらかな丘陵地帯がどこまでも続くウンブリアの景色を愛でながら・・・

  • ローマ通りは緑の街路樹が美しい、散策にもってこいの道でしたが、その街路樹がなくなった辺りに、奇妙な形の建物がありました。何度も改修されていますが、昔の城壁を再利用した住居だと思われます。歴史あるものでも利用できるものはとことん利用するイタリアならではの建物だと思いました。

    ローマ通りは緑の街路樹が美しい、散策にもってこいの道でしたが、その街路樹がなくなった辺りに、奇妙な形の建物がありました。何度も改修されていますが、昔の城壁を再利用した住居だと思われます。歴史あるものでも利用できるものはとことん利用するイタリアならではの建物だと思いました。

  • 道の左側の手すり越しに、沢山の列車が止まっている私鉄ウンブリア中央鉄道のサンタ・アナ駅を見降ろすことが出来ます。

    道の左側の手すり越しに、沢山の列車が止まっている私鉄ウンブリア中央鉄道のサンタ・アナ駅を見降ろすことが出来ます。

  • しかしド派手な落書きのオンパレードですねえ。手前の列車なんざぁ、窓ガラスも含め一両分丸ごと使った「豪華版」です。あの列車に乗って、わずかに残された隙間から窓の外を眺める気はしないなあ・・・

    しかしド派手な落書きのオンパレードですねえ。手前の列車なんざぁ、窓ガラスも含め一両分丸ごと使った「豪華版」です。あの列車に乗って、わずかに残された隙間から窓の外を眺める気はしないなあ・・・

  • いつの間にか、マルコーニ通りにかかるトゥレ・アーチまで戻って来ましたよ。同じ道から帰りたくはないので、門の前を横断して、反対側に渡ります。

    いつの間にか、マルコーニ通りにかかるトゥレ・アーチまで戻って来ましたよ。同じ道から帰りたくはないので、門の前を横断して、反対側に渡ります。

  • ほらっ 私に「おいで、おいで」と囁いている可愛いアーチがありましたよ。上のトゥレ・アーチの左隅です。

    ほらっ 私に「おいで、おいで」と囁いている可愛いアーチがありましたよ。上のトゥレ・アーチの左隅です。

  • そこからは歩行者専用道を進みます。これから上りの連続だぁ〜!

    そこからは歩行者専用道を進みます。これから上りの連続だぁ〜!

  • ニッチェにある彫像の首が半分以上落ちてしまっている、古いファサードのある建物に差し掛かります。ポルタ・マルツィアと書いてありますが、門には見えません。<br /><br />ポルタ・マルツィアはエトルリア時代のメインゲートで、カルダス・マクシムスの南側に位置しています。マルツィアという名前は、そばにあった軍神マルスの神殿に由来しているそうです。

    ニッチェにある彫像の首が半分以上落ちてしまっている、古いファサードのある建物に差し掛かります。ポルタ・マルツィアと書いてありますが、門には見えません。

    ポルタ・マルツィアはエトルリア時代のメインゲートで、カルダス・マクシムスの南側に位置しています。マルツィアという名前は、そばにあった軍神マルスの神殿に由来しているそうです。

  • 1531年、比較的自治が認められていた教皇領であったペルージャに塩に対する税金が課せられ、それを不満に思った貴族バリオーニは、教皇相手に塩戦争を起こします。しかし1540年、時の教皇パウルス3世が、ペルージャを制圧すると、教皇の息子ピエル・ルイジ・ファルネーゼはマルツィア門の上にあったバリオーニ宮を取り壊し、その敷地を組み込む巨大な教皇宮殿の建設に取り掛かります。<br /><br />設計を任されたのはアントニオ・ダ・サンガッロ・イルジョヴァーネ(同名が2人いますが、若い甥の方)。当初の計画では、彼は宮殿の東側ファサードに、エトルリア時代の城壁をそのままそのまま採用し、マルツィア門をそのメイン扉とする予定でした。

    1531年、比較的自治が認められていた教皇領であったペルージャに塩に対する税金が課せられ、それを不満に思った貴族バリオーニは、教皇相手に塩戦争を起こします。しかし1540年、時の教皇パウルス3世が、ペルージャを制圧すると、教皇の息子ピエル・ルイジ・ファルネーゼはマルツィア門の上にあったバリオーニ宮を取り壊し、その敷地を組み込む巨大な教皇宮殿の建設に取り掛かります。

    設計を任されたのはアントニオ・ダ・サンガッロ・イルジョヴァーネ(同名が2人いますが、若い甥の方)。当初の計画では、彼は宮殿の東側ファサードに、エトルリア時代の城壁をそのままそのまま採用し、マルツィア門をそのメイン扉とする予定でした。

  • しかし、更に強固な防御を実現するために、計画は宮殿の外側の壁に新たな城塞(ロッカ・パオリーナ=教皇の城塞)を築き、最後に外堀を設ける方法に変更されました。これにはエトルリア時代の一連の城壁及びマルツィア門の解体が必要でした。<br /><br />イルジョヴァーネがこのプロジェクトでどういう役回りを演じたかは不明ですが、彼が古代文化に対し最大の敬意を払った結果、マルツィア門の上部はほぼ元々の位置のまま城壁の一部にはめ込まれ、大々的な破壊を免れたのです。それで、建物に埋められたような門になったというわけだったんですね。<br /><br />彼の膨大な数の計画書はフィレンツェのウフィッツィ美術館の中に今も保存されています。<br /><br />私はこの時、門に関わる事情は一切知らず、扉が開いているけれど、入って良いのかなと恐る恐る辺りの様子を伺いながら進みました。

    しかし、更に強固な防御を実現するために、計画は宮殿の外側の壁に新たな城塞(ロッカ・パオリーナ=教皇の城塞)を築き、最後に外堀を設ける方法に変更されました。これにはエトルリア時代の一連の城壁及びマルツィア門の解体が必要でした。

    イルジョヴァーネがこのプロジェクトでどういう役回りを演じたかは不明ですが、彼が古代文化に対し最大の敬意を払った結果、マルツィア門の上部はほぼ元々の位置のまま城壁の一部にはめ込まれ、大々的な破壊を免れたのです。それで、建物に埋められたような門になったというわけだったんですね。

    彼の膨大な数の計画書はフィレンツェのウフィッツィ美術館の中に今も保存されています。

    私はこの時、門に関わる事情は一切知らず、扉が開いているけれど、入って良いのかなと恐る恐る辺りの様子を伺いながら進みました。

  • わぁ〜 中に入って、驚きの連続です。どこかの建物の中に入ったと思ったのですが、ここは何と公共の道だったのです! 壁にも「バリオーナ通り」と書いてあります。かつて、栄華を極めたバリオーニ家の宮殿だったところなのかもしれません。<br /><br />

    わぁ〜 中に入って、驚きの連続です。どこかの建物の中に入ったと思ったのですが、ここは何と公共の道だったのです! 壁にも「バリオーナ通り」と書いてあります。かつて、栄華を極めたバリオーニ家の宮殿だったところなのかもしれません。

  • 途中にあった案内板を読んで、ようやく上記の歴史について知った次第です。教皇の宮殿を建てるために取り壊された建物は、バリオーニ宮だけでなく、バリオーニが1430年に建てたサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会、二つの修道院、その他300の建物に及んだとのことです。

    途中にあった案内板を読んで、ようやく上記の歴史について知った次第です。教皇の宮殿を建てるために取り壊された建物は、バリオーニ宮だけでなく、バリオーニが1430年に建てたサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会、二つの修道院、その他300の建物に及んだとのことです。

  • ロッカ・パオリーナは5階建。その一番てっぺんに贅を尽くした教皇の宮殿がありました。その後教皇の宮殿は300年間に渡り、ペルージャの市民に居心地の悪さを感じさせていましたが、1849年のペルージャの虐殺事件の際に半壊、その後教皇ピウス9世が再建したものの、10年足らずで完全に取り壊されました。よほど市民の反発が強かったんですね。イタリア統一を迎える時代でしたから、無理もないでしょう。<br /><br />

    ロッカ・パオリーナは5階建。その一番てっぺんに贅を尽くした教皇の宮殿がありました。その後教皇の宮殿は300年間に渡り、ペルージャの市民に居心地の悪さを感じさせていましたが、1849年のペルージャの虐殺事件の際に半壊、その後教皇ピウス9世が再建したものの、10年足らずで完全に取り壊されました。よほど市民の反発が強かったんですね。イタリア統一を迎える時代でしたから、無理もないでしょう。

  • ロッカの中の道は、幻想的な光に包まれています。ある部分はまだ発掘調査を待っている段階であり、ある部分はまるで遺跡の中を歩いているよう。

    ロッカの中の道は、幻想的な光に包まれています。ある部分はまだ発掘調査を待っている段階であり、ある部分はまるで遺跡の中を歩いているよう。

  • こんな道を、ごく普通の主婦がスーパーの袋などを下げて通っていくのですから、頭の中が混乱してしまいそう。

    こんな道を、ごく普通の主婦がスーパーの袋などを下げて通っていくのですから、頭の中が混乱してしまいそう。

  • 展覧会や展示会の準備をしているコーナーも見受けられました。

    展覧会や展示会の準備をしているコーナーも見受けられました。

  • 通路が途中で交差したり、分かれても、ちゃんとそれぞれの通路に名前が割り当てられていました。

    通路が途中で交差したり、分かれても、ちゃんとそれぞれの通路に名前が割り当てられていました。

  • いつまでも彷徨っていたいロッカ・パオリーナでしたが、・・・

    いつまでも彷徨っていたいロッカ・パオリーナでしたが、・・・

  • 最後はあっという間にエスカレータで運ばれて、

    最後はあっという間にエスカレータで運ばれて、

  • 教皇の宮殿を確認できないまま、

    教皇の宮殿を確認できないまま、

  • 現実のペルージャへと引き戻されたのでした。着いたところはイタリア広場に面したペルージャ県庁舎のポルティコでした。<br /><br />そう言えば、階段上らずに町の中心に戻ってこれましたね。まさか遺跡の中をエスカレータで上ってくるとは、全く想像していませんでした。ラッキー!って言ってよいのかどうか複雑。<br /><br />まだまだペルージャ続きますよ。イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その60 ペルージャ3で!<br />

    現実のペルージャへと引き戻されたのでした。着いたところはイタリア広場に面したペルージャ県庁舎のポルティコでした。

    そう言えば、階段上らずに町の中心に戻ってこれましたね。まさか遺跡の中をエスカレータで上ってくるとは、全く想像していませんでした。ラッキー!って言ってよいのかどうか複雑。

    まだまだペルージャ続きますよ。イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その60 ペルージャ3で!

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この旅行記へのコメント (2)

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  • マリアンヌさん 2016/05/07 09:15:38
    Bellisima☆
    junemayさん、こんにちわ。

    サンピエトロ教会、内容が濃いですね〜!
    カラヴァッジョらしき絵やイケメンの聖ヨハネやてんこ盛りです。
    junemayさんのようにお詳しくなくても十分楽しめそうな教会です。
    確か少し離れたところにありましたよね?
    オープンバスで一回りした時、通っただけだったような…

    それに発見されたローマンモザイク、よく調べられましたね。
    お散歩距離もハンパないです。
    ちょこっとだけ私もそこ歩いたなという場所もあって懐かしかったです。

    私は2度ともロッカのエレベーターから旧市街に入ったのでうわぁ何これ、こんな歴史的建物にエレベーター設置しちゃっていいの?と驚きました。

    まだ続きがあるんですね。
    楽しみにしています♪

    マリアンヌ

    junemay

    junemayさん からの返信 2016/05/07 14:34:32
    RE: Bellisima☆
    マリアンヌさん こんにちは
    いつもありがとうございます。

    今日は気持ちの良い五月晴れですね。実は明日出発です。
    ペルージャ3はその殆どがお散歩ではなくて、国立ウンブリア美術館の写真。調べるのに手間取って、まだちょっとだけ手直ししたいので、旅先から更新します。

    ペルージャ1日では、主な町の見どころの半分も見ていないという気がします。非常に内容の濃い町であることだけは確かで、再訪したい気持ちでいっぱいです。


    > サンピエトロ教会、
    > 確か少し離れたところにありましたよね?

    はい。南の外れにありました。まっすぐ歩けば、中心地から20分くらいの距離だと思います。

    > それに発見されたローマンモザイク、よく調べられましたね。

    見損なったので、次回に期待しています。

    > 私は2度ともロッカのエレベーターから旧市街に入ったのでうわぁ何これ、こんな歴史的建物にエレベーター設置しちゃっていいの?と驚きました。
    >

    本当に、すごいですよね。何十という建物を壊して作られたということは、ついこの間知りました。イタリアってどんな小さな道にも名前がついていますが、あの洞窟のような要塞の迷路1本1本にも名前が付けられていることには感激しました。イタリアは知れば知るほど奥が深いですね。

    junemay

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