2016/01/11 - 2016/01/18
2938位(同エリア6478件中)
明石DSさん
『オーストリア=ハンガリー帝国の首都、19世紀後半まで
形式上はドイツ民族全体の帝都でもあったウィーン。』
「へぇ〜そうなんか、音楽の都ウィーンは知ってたけど」
そのウィーンでの早朝散歩、今俺ウィーン?ピンと来ず
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4日目:1月14日(木):晴れ
ウィーン散策
2016/平成28年1月14日(木)
■ウィーンの朝
プラハからチェスキー・クルムロフ、そしてウィーンにやって来た。見る物満載で一体何を見たのか頭の中で整理できないまま初めてのヨーロッパに時間ばかりあっと言う間に過ぎて行く。今日はウィーン。自分が小学校の頃、漠然と「音楽の都ウィーン」と言う感じで都市名は覚えていたが、まさかそこに自分が来ているとは・・・。
格安さに衝動申し込みをしたツアーだし目的意識もないので下調べもないに等しい。その「花の都・ウィーン」の一日の始まりは朝6時半。モーニングの前に外に出たがまだ真っ暗。そして6時半からのモーニングにレストランに行った。
パンにハムにキュウリにトマト、ジュースにコーヒー。一人参加だったがいつも誰か相手になってくれる人が出来ていた。ホントありがたかった。みんな毎日服を着替えているが私は着替えも少なくトルコの団体ツアーで恥ずかしかった経験を生かさずまたここでも繰り返していた。今度こんなツアーの機会があれば必ずもう少し着替えを持って行く。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
朝食会場は渋滞なく
やっぱり洒落てる:ナプキンの色も置き方も
すっきり、シンプル、色彩、これってセンス
これがヨーロッパか、カルチャーショック -
朝食バイキングはどことも良かった
といっても比較対象は白人国ではない -
こんなん食べました
-
部屋は外部に面しておらず
中庭側の部屋だった -
1月14日(木)午前8時13分
“阪急トラピックス”ご一行27名
ウィーン歴史地区観光に出発する
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■シェーンブルン宮殿
出発は8時15分。準備を済ませバスに乗り込む。座席は最初に“Tさん”が「自分の席だと固定しないで下さいね。皆さん乗るたびに自由に席を変えて座ってください」とハッキリ皆に申し渡したので固定することなく日が変われば当然のように席を変えて座った。そのほうが不満が出ず正解だ。
明るくなったウィーン市内のバスからの車窓の景色はやはり圧巻だった。どこを見てもそれなりに歴史を感じる。新しい建物も沢山あるはずだが古さの中に調和している。新旧含めて歴史を今に繋ぐウィーンの街並みである。
そして最初の観光場所、世界遺産「シェーンブルン宮殿」へバスは到着。「なるほどこれがそうか・・・」であった。。この宮殿は「ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。」そうだが、そのハプスブルク家とは一体何なのか?分りやすい解説をネットで見つけたので下記に記す。
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ハプスブルク家
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1150308926
「戦は他国にさせておけ。幸いなるオーストリア、汝は結婚せよ」という言葉があります。その言葉通りハプスブルク家は、戦争して領地をぶんどるのではなく、「結婚外交」という方法で広大な領地を有する「オーストリア帝国」を築き上げた一門です。
もとはスイスの地方領主にすぎなかったハプスブルク家ですが、ルドルフ一世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれてからハプスブルク家は隆盛をきわめていきます。 成功した理由は、「運」と「多産」ではないかと思います。(もちろん、政治的手腕もあったでしょうが)
とにかく、ハプスブルク家は運が良かった。(なので、ハプスブルク家の人たちには「神様に選ばれた特別な一門」とう意識があったようです)さらに、出産が命がけの行為であった時代においても、ハプスブルク家の女性は8〜10人くらい産むのもザラでした。(マリアテレジアは政治のかたわら16人も産んでいます)
その子供をいろんな国の王族と結婚させて、またハプスブルク家が栄えていく…といったかんじで、16世紀にはヨーロッパのほとんどがどこかしらハプスブルク家とつながっているという状態でした。 東欧はもちろんのこと、スペイン、ポルトガル、時代が下ると南米ブラジルまでハプスブルクの血が及んだのだから、恐るべしです。
そして、ハプスブルク家には「ハプスブルク一門」という結束感が強く、「オーストリアの皇帝=ハプスブルクの当主」という意識があったので、イギリス王室のように血なまぐさい歴史はあまりありません。ヨーロッパの王室史を見ていると一族が血で血を洗う話もたくさんあるので、その辺も凄いのかなと思います。
けれど、1918年にオーストリア帝国が解体され、共和制になってからはただの一貴族になってしまいました。ですが、現在も名門ハプスブルク家は続いています。
ところで、歴史に「if」は禁物なのですが、最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の息子であるルドルフ皇太子。この人は、謎の死を遂げた人物として有名ですが、もしこの人が生きていたら第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件は起こらなかったかもと言われています。
もしルドルフ皇太子が死なず、第一次世界大戦も勃発しなかったら…
ハプスブルク家はいまだに「オーストリア帝国」の皇帝であったかもしれません。
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「シェーンブルン宮殿」の沿革で興味を惹いたのは『1762年 マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットがここに滞在している時、6歳の神童モーツァルトが招待され訪れる。』『1961年 アメリカ合衆国のジョン・F・ケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ首相との会談の場所となる。』等々。
1762/宝暦十二年江戸中期第10代将軍:徳川 家治(とくがわ いえはる)の時、マリー・アントワネットが滞在しモーツァルトもここに来ている。1961/昭和36年から今年で55年。私も当時小学校5年か6年、ケネディ大統領とフルシチョフ首相がこの宮殿に来た。その二人は今の若者にとっては歴史上の人物でしかないだろうけど私は実在していた時のことは良く覚えている。65年間に歴史は作られる。
確かに立派だ。広そうだし。50代くらいのウィーン在住30年の日本人女性ガイドがこのウィーン半日観光のガイドとして来てくれ説明してくれた。内部に入るにはインペリアツアー(12.9ユーロ:1〜27部屋)とグランドツアー(15.9ユーロ:1〜39部屋)の2種類のチケットがあるそうだが私たちのツアーはどっちだったのか知らない。
説明を聞きながら部屋を見て歩いたが「凄いなあ、豪華やな」「ふ〜ん、こんなんか」「そうかモーツァルトがここで、マリー・アントワネットが」と思いながら・・・。ただ廊下がないのがホンマ不思議だった。隠れ部屋はあったが寝室もあるのにドアからドアーと部屋を通り抜けて行く作りには頭を傾げる。
日本史も定かでないのに異国の王朝の歴史や言い伝えをカタカナ名前で聞いても訳が分からず。絢爛豪華な宮殿内部を見て「栄枯盛衰は世の習い」は実感した。見学にはバックの持込、カメラ・携帯はダメなので写真なく説明も残念ながら何も頭に入っていない。 -
アナナス・ホテル前、朝の風景
ウィーン地下鉄「Pilgramgasse駅」前
これがいつもの光景なのだろう -
車窓の街並みはウィーンだった
まだ自分が欧州にいることに現実感なく
今、ホント俺、ウィーンにいるの?と
この感覚は旅期間中ずっとだった
欧州は私には遠い世界だったから -
バスの中からシェーンブルン宮殿を写す
ふ〜ん、これか、なるほど -
図の上の正面から入る
この宮殿には意外にも1913/大正2年造営の日本庭園がある
第一次大戦のきっかけになったサラエボ事件で暗殺された
フランツ・フェルディナント大公(享年51)が造営させた
帰国後この図を見て知る -
道沿いに停まったバスを降り
いよいよ宮殿正門に向かう
天気晴朗風もなく観光日和 -
いよいよ宮殿に入場するぞ
ハプスブルク家のことは何も知らず
この旅に参加し漠然と知識を得る -
華麗なるかなシェーンブルン宮殿の嘘のような話
シェーンブルン宮殿は観光客に公開されている
2階部分を除いた居室が、賃貸住宅として一般に
貸し出されており、住民がいる。
2LDKで120m?、家賃は日本円で約4万円。
宮殿は賃貸住宅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%AE%AE%E6%AE%BF#.E8.B3.83.E8.B2.B8.E4.BD.8F.E5.AE.85.E3.81.AB.E3.81.AA.E3.81.A3.E3.81.9F.E5.AE.AE.E6.AE.BF -
1762年マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット(7歳)が
ここに滞在している時、6歳の神童モーツァルトが訪れる -
宮殿を背に正門を写す
王侯貴族と一般人と奴隷
同じ人間ながら暮らしぶりに天地の差があるが
「幸不幸はすべて心にあり」「誰しも必ず死ぬ」
でも、やっぱり奴隷は嫌だ。その為に富国強兵は必須なり -
宮殿内部を見学した。確かに絢爛豪華だったけど・・・。
-
自由時間になり宮殿の西側に歩いて来た
目的地は動物園、入場する時間はないけど
世界で最も古い動物園ってどんなのかと
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■シェーンブルン宮殿での自由時間
内部見学終了後バスでの集合時間を言われてしばしの自由行動になった。
私が行きたい場所は「小高い丘のグロリエッテGloriette」
https://www.google.co.jp/maps/place/Sch%C3%B6nbrunn+Palace+Garden+Gloriette/@48.1785851,16.3085072,181m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x0000000000000000:0xe65ea59b69021a4d?hl=ja
と「世界最古のシェーンブルン動物園」だった。
でもガイドに「グロリエッテまで片道30分ほど掛かるから無理」と言われていたので諦めていた。そして動物園も入ることは時間的に無理なので、その存在だけでも確認しておこうとその方向に一目散に歩いて行った。宮殿も大きいがその敷地は広大すぎて歩いていてもどこまでなのか分らない。
散歩やジョギングをしている地元の人がチラホラいた。そして動物園の前に来た。朝まだ早く、人はほとんどいなかったが乳母車を押す女性が園内を歩いていた。園内の案内図を見ただけだが広さもありパンダも飼育する大きな動物園のようだ。ここまで来ただけでも戻る時間を気にしないといけない。ツアーはどこでも駆け足だから仕方がない。動物園のトイレは外にあって無料だった。用を足してUターン。
動物園から庭園の方に戻ると「ネプチューンの泉」がまだ日陰だからか一面に氷が張っていた。急ぎ足で歩いているので寒さは感じず。ネプチューン泉の前から遠く宮殿を仰げば絵もいわれぬ光景が目の前に広がっている。紺碧の青空の下、手入れの行き届いた広い庭園の先の宮殿。あァ〜我65歳にしてシェーンブルン宮殿に来たり。ホンマかいなである。
昨日の“チェスキー・クルムロフ”では雨が降った。今日のウィーンは青空が目一杯広がっている。感謝!30分ほどの自由時間が終わり9時55分の集合時間5分前にはバスの所に戻ってきていた。プラハもチェスキー・クルムロフもウィーンもじっくり観光しようと思えば幾ら時間があっても足りない。 -
庭園は広く市民のウォーキング場所になっていた
今でこそ一般市民に開放されているが
昔は世間と隔絶の場所だったのだろう -
広いので散歩する人の姿もチラホラ
動物園を探してその方向に歩く -
ちゃっちい遊園地動物園かと思いきや
さにあらず本格的な動物園のようで驚く -
木曜日の朝9時37分、寒い中親子連れがいた
残念ながら入園ならずだったが動物園だった -
動物園の外に無料トイレあり、ラッキー
どことも白人し様取り付け位置高い
足の短い黄色人種へのあてつけか? -
この図を見ればこの宮殿動物園が
本格的な動物園というのが一目瞭然
来て見て納得 -
薄っすら凍った「ネプチューンの泉」
まだ陽が当たらぬ朝9時39分
歩き通しで寒さ感じず -
「ネプチューンの泉」を背に宮殿を写す
広い -
オペラ座から徒歩1分の免税店「WALTZ:ワルツ」に向かう
中央ヨーロッパ四ヶ国周遊中、こういった壁の落書きが目に付いた
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■免税店「WALTZ:ワルツ」
http://waltz-wien.sakura.ne.jp/wp/access
バスの車窓から街並みに目を凝らしながら次に向かった。どこともそうだったが壁に書かれた落書きが多い。これもヨーロッパの文化なり。バスは私達が泊まっている「ホテル・アナナス」の前の道、ウィーン川沿いを今日のお買い物店紹介で「WALTZ:ワルツ」に向かっていた。このウィーン川沿いがナッシュマルクト(ナッシュ市場)で、帰りはこの川沿いの市場の中を歩いて帰ることにした。
店内はさすがヨーロッパの本場なのか?名だたるブランド商品が置いてあるようだった。まず日本人店員が商品紹介や購入時の免税取り扱いなどの説明をした。ブランド商品の他にも食料品も各種お土産の類いもある。そして直筆サイン入りミランの10番本田圭祐のユニフォームと最近の本田の話題が記事になったのが額に入って飾られていた。
私も高校時代サッカー部に所属し社会人になってからも30前半までサッカーをしていた。我が家の息子三人のうち二人はサッカーをし、私は息子の小学校の子供会サッカー部の監督を三年間していたサッカー家族。本田のことは最初の頃生意気な態度を嫌っていたが、今はその実力と年齢に似合わない実行力に一目も二目も置き今後に期待している。
すでに本田は日本国内にサッカースクールを開設し、このオーストリア・3部リーグSVホルンを買収しオーナーになった。その高い志と有言実行力は今時の若い日本人では突出しているような気がする。一体本田の最終目標は何なのか?無論彼自身もやれることを着実に実現しながら更に大きな飛躍をしていくつもりだろうが、ホンマに楽しみだ!ただ彼の歴史認識・思想信条・愛国心が気になる。それが私と掛け離れているならガッカリするだけ。
店内滞在30分私は「ユーロコインチョコ」と「ユーロとワルツオリジナルチョコ」計9.9ユーロを買った。 -
日本語文字「小次郎」を見つけシャッターを押す
ナッシュマルクト市場横の『小次郎寿司』
「ウィーンの日本人経営か日本人調理人のレストラン」
http://wien-jp.com/wien-jp/jp-rest.php -
オペラ座
この時は、この9時間後の午後7時
自身が中に座っているとは思わず -
日本橋の向こう隣、赤いひさしが「WALTZ:ワルツ」
日本料理店「日本橋」
外国で日本語が目に入れば「あっ!」と身体が自然反応する
「日本橋」
http://www.nihonbashi.at/?lang=ja -
免税店「WALTZ:ワルツ」で日本語スタッフの説明を聞く
場所はウィーンだが日本人専用店のようだ
土産を買う人買わない人、私買わない人 -
店内に飾っていたミラン本田のユニフォーム
最初の頃クソ生意気で嫌な奴だと思っていたが
今は凄い人間かも、これからがホント楽しみだ
この先偉業を成し遂げ日本の誇りとなる
そんな人物であってほしいと切に願う -
本田は現役選手でありながら
SVホルン(オーストリア)のオーナーになった
日本でも"ZOZOPARK HONDA FOOTBALL AREA(ゾゾパーク)
をすでに完成させ、今年2016/平成28年4月から本格始動となる
http://honda-sports-land.com/zozopark/
本田圭祐29歳恐るべし -
この丸い「ユーロコインチョコ」と
「ユーロとワルツオリジナルチョコ」を買う -
このウィーントラムに乗り込んだ時に事件は起きた
同行者が若い三人組の地元女性スリ集団に財布をすられた
この後ろの車両に最後に乗ろうとした時三人に押された
三人はすった直後に電車を降り、添乗員が追いかけ取り返す
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■王宮庭園・王宮見学へ
10時50分に店を出てウィーントラム体験乗車ということで一駅だけ乗った。この時に事件が起きる。私は最初の方に乗り込んだので事の顛末は見なかったが、同行者の女性がバックから財布とカメラをすられた。
旅ツアーで良く聞く話しだが身近に起こったのは初めて。発車が近づいた時に地元の若い女の子三人が電車に乗り込んできた。ガイドと“Tさん”が「こんな子たちが怪しいよ」と話していた矢先、身体を押されていた“Mさん(女性)”のバックが開き財布がないことに気付いた。
「財布がない!」と叫んで直ぐに“Tさん”が“Mさん”を車外に引っ張り出し、先に降りて逃げようとした女の子の傍に行き「失礼します!」と言ってバックのジッパーをその場で開けたら財布が入っていて、大きな声で「返しなさい!」と怒鳴って取り返したとのこと。間一髪で逃げられずにすんだ。
しかしその顛末を知らずに電車に乗ったままの私たちもいるし、添乗員の“Tさん”と被害者“Mさん”の二人は犯人の女たちを放置し、直ぐに電車に乗り込んだとのこと。その話を降りてからみんなで輪になって聞き、驚きながらも小さな身体の“Tさん”の女三人組を恐れない添乗員魂に感心した。しかし残念ながら財布しか頭になくカメラはその時盗まれていた。
しばし王宮見学そっちのけで皆が輪になって興奮収まらず。夫婦で参加し盗られた女性(“Mさん”)もその時のことを手振り身振りを交えて解説してくれた。私はちょっと落ち着いてから“Tさん”に「返しなさい!と怒鳴ったのは何語で?」と聞いたら「もちろん日本語よ!」だった。こんな時は言葉なんか関係ない。
やっと王宮庭園にいることを思い出しモーツアルト像の前でそれぞれ記念写真を撮り観光モードに戻る。この王宮はハプスブルク家が13世紀後半から1918年第一次世界大戦敗戦までの600年以上住居としていた。日本史で言えば鎌倉幕府から大正7年までの長きに渡って君臨していたのか・・・。
http://www.wien-kanko.com/2013/09/21/%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%83%8F%E3%81%AF%E6%98%AF%E9%9D%9E%E8%BF%91%E3%81%8F%E3%81%A7%E3%82%82%E8%A6%8B%E3%82%88%E3%81%86/
シェーンブルン宮殿もそうだが、この王宮も敷地も広いし外観だけの短時間見学では全容はさっぱり分らない。ガイドの説明も聞くには聞いたが記憶には残らず。「広いなァ〜・大きいなァ・凄いなァ〜」とガイドに付いて歩きながら写真を写した。
モーツアルト像の次は扇形に湾曲した新王宮の庭に立つ。「オイゲン公の騎馬像」「カール大公騎馬像」などがあった。この周囲には国会議事堂もあり教会のような新市庁舎の姿も見える。
そこからブルク門 (?・u?・eres Burgtor)を潜って道を渡り双子ミュージアム「ウィーン美術史美術館」と「ウィーン自然史博物館」の公園に行く。真ん中には立派な「マリア・テレジア( 1717-1780年享年63)像」があった。テレジア像の背中にはミュージアム・クオーター・ウィーンが建っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
今日のツアーでの「世界遺産ウィーン歴史地区観光:シェーンブルン宮殿・王宮・シュテファン寺院・ケルントナー通り。ウィーントラム体験乗車(計4時間)」では外から建物を見て「凄いなァ」でもあっと言う間に時間が経つ。博物館や美術館の展示品には名立たる作品があるようだが残念ながら何一つ見ることなくバスに乗って移動した。滞在15分に満たず、ハハハ。
バスの車窓から「ミュージアム・クオーター・ウィーン」「国民劇場:Volkstheater」「国会議事堂」「新市庁舎」等々の建物を見ながらウィーン市内を10分ほど走り道沿いで停車した。 -
私たちが見た順番
①王宮庭園→②王宮→③ブルク門→④マリア・テレジア像
⑤ミュージアム・クオーター・ウィーン→⑥国民劇場→⑦国会議事堂→⑧新市庁舎 -
①王宮庭園のモーツアルト像
ここでスリ事件の顛末を皆で輪になって聞き入る
被害者“Mさん”と添乗員“Tさん”の捕り物劇が
ガイドの案内よりこの旅一番の盛り上がりだった -
②湾曲した新王宮とオイゲン公の騎馬像
オーストリアの英雄になったフランス人
http://www.onyx.dti.ne.jp/sissi/episode-38.htm -
カール大公騎馬像
25歳で陸軍元帥。25歳で元帥とは・・・
1809/38歳の時、ナポレンオンに初の黒星を付けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92%EF%BC%9D%E3%83%86%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B3 -
③ブルク門を潜って美術史・自然史博物館を見に
どことも内部見学はなく外観を見るだけ
「古図 城壁に囲まれたウィーン」・・・面白い
https://de.wikipedia.org/wiki/Wiener_Stadtmauern -
ウィーン自然史博物館
旅のガイドブック「地球の歩き方」解説(↓)
『ウィーンで美術館をひとつだけ見るなら、迷わずここへ』
私たちご一行は外観だけ見た -
④マリア・テレジア像
マリア・テレジアは16人の子供を生んだ
結婚せず子も産まず
綺麗事を喚く女ほど醜い者はない
(悪女例)土井たか子・田嶋陽子他多数 -
美術史博物館
マリア・テレジア像の両側に外観同じで建つ -
⑤ミュージアム・クオーター・ウィーン
『美術館群、および約 60,000 m? の面積を占めるその区域の呼称。』 -
⑥国民劇場(Volkstheater)
バス車内から写す
https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g190454-d245642-Reviews-Volkstheater-Vienna.html -
⑦国会議事堂
バス車内から写す
1)面積約8.4万平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)2)人口約850万人
3)首都ウィーン(人口約176万人)4)民族、主としてゲルマン民族
5)言語ドイツ語 6)宗教カトリック約63.1%、プロテスタント約3.55%、イスラム約6.8%
世界の平均年収 国別ランキング 14位オーストリア 18位日本
http://www.globalnote.jp/post-10401.html -
⑧新市庁舎
バス車内から写す
“Google・Map”
https://www.google.co.jp/maps/@48.2071623,16.3646821,1444m/data=!3m1!1e3?hl=ja -
⑨ローティントゥルム通り(Rotenturmstra?・e)→⑩シュテファン大寺院→⑪ルベッラ (Lubella)
⑫券販所(Bundestheater Kassen)→⑬オペラ座→⑭ウィーン美術アカデミー
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■シュテファン寺院の見学と昼食
バスを降りて角にマクドナルドのある「ローティントゥルム通り:Rotenturmstra?・e」を南方向に歩いてシュテファン寺院に向かう。通りの中央には赤い大きな玉?が等間隔でいくつもぶら下がっていた。
シュテファン寺院は『1359年に65年がかりで南塔が完成。107メートルの高さを持ち、教会の塔としてはウルム大聖堂(161メートル)、ケルン大聖堂(157メートル)についで世界で3番目の高さがある。』1359年は日本では南北朝時代『1336年(延元元年/建武3年)~1392年(元中9年/明徳3年)』。
プラハで聖ヴィート大聖堂を見てから、どんな教会を見ても外観も中味も皆同じに見える。最早新鮮な驚きはなく「凄いなあ」とは思うが慣れてしまった。我が家は一応真言宗の檀家。だが分家筋ゆえ我が家に位牌はないがネット購入の小さな仏壇と、ホームセンターで購入した神棚もある。
私はこの二十年来毎朝毎夜神棚に二礼二拍手一礼し、仏壇前に座してロウソクを灯し線香を立て般若心経を二度読経「ご先祖様」と「八百万の神」に一族・家族の無事を頼み感謝する。日本人は宗教に関して世界一おおらかで寛容だが宗教心の熱き民だと信じて疑わず。そして「恥の文化」を持ち道徳心は高い。
白人狩猟民族は闘争本能は強烈で勝敗が全て。そして勝者と敗者を明確にし、勝者の立場で敗者を支配することに自分の存在価値を見出す。敗者・弱者を冷徹に服従させ差別し、その上で自分の優しさを強調する。そんな自らに潜む悪魔の心を打ち消すために宗教で誤魔化す。それが私の白人に対しての認識だ。私の独断であり誰にも同意は求めない、ハハハ。
シュテファン寺院の中に入って荘厳な雰囲気を堪能したが1359年に65年掛かって完成した南塔(137m世界三番目の高さ)には343段の螺旋階段を登って上がれる。北塔にはエレベーターで上れる。しかし残念ながら、その時は時間なく内部の見学だけ。でも登れることが分って自由時間になってから“いの一番”にここに来ようと思った。
そして昼食のレストランに行くのに寺院前からオペラ座まで続く、歩行者天国「ケルントナー通り (K?・rntner Stra?・e)」をボチボチ歩く。ブランドショップが並ぶ通りでガイドの店舗やホテル等々の紹介を聞きながら歩いていた。
「Caf?・ Sacher Wien」・・・この文字を見て英国首相サッチャーと関係が?と思ったらザッハトルテ(独:Sachertorte:チョコレートケーキ)発祥と言われる店:ホテルだった。マーガレット・サッチャー元首相のスペルは「Margaret Thatcher」
ツアーご一行の昼食レストランは「ルベッラ (Lubella)」。『パスタやピザのほか、リゾットなどもある本格イタリアンの店。』とのこと。
https://www.google.co.jp/maps/place/Restaurant+Lubella/@48.2051271,16.3687631,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1s-Q80W70wn-z0%2FVVMed3zYRmI%2FAAAAAAAAAA0%2FVtl2FIymZNw!2e4!3e12!6s%2F%2Flh6.googleusercontent.com%2F-Q80W70wn-z0%2FVVMed3zYRmI%2FAAAAAAAAAA0%2FVtl2FIymZNw%2Fs86-k-no%2F!7i1353!8i1352!4m7!1m4!3m3!1s0x476d079bfaffa665:0x273a1d85f6617f69!2sRestaurant+Lubella!3b1!3m1!1s0x476d079bfaffa665:0x273a1d85f6617f69!6m1!1e1?hl=ja
ヨーロッパのレストランはどことも洒落ていてそれなりの雰囲気はある。テーブルには赤いテーブルクロス。しかし料理はツアーご用達メニューのようで、ここもまず最初にスープ。「“フリターテンスッぺ(Frittatensuppe)”クレープ入りコンソメスープ。」と「鶏肉のフライとポテト」。スープと盛り合わせ皿の二つが定番だった。腹八分不満はない。 -
ローティントゥルム通り(Rotenturmstra?・e)を南に
シュテファン大寺院を目指して歩く
https://www.google.co.jp/maps/@48.2117055,16.3760242,45m/data=!3m1!1e3?hl=ja -
シュテファン大聖堂、北塔側に到着
観光馬車「フィアカー」が並んで客待ち
ハプスブルク家の歴代君主の墓所
モーツァルトの結婚式と葬儀が行われた -
1609/慶長14年のウィーン古図
周囲を城壁に囲まれシュテファン寺院が中央に
日本では4月5日 琉球の尚寧王が首里城を開城
薩摩藩に降伏(島津侵入事件) -
シュテファン大寺院:北塔
北塔展望台にはエレベーターあり -
1359年に65年がかりで完成した南塔
展望台へは螺旋階段を登る -
教会の前でたむろしていた少年たち
どう見ても少年たちはゲルマン民族ではなく
北アフリカ?からの移民の子供たちに見える
少年たちの二本の指の仕草は何を表すのだろう? -
この正門が現存で最古の物
13世紀 後期ロマネスク
第二次大戦では直接の爆撃はなかったが
火災で深刻な被害を受け大聖堂は灰と化した
しかし戦後7年で大聖堂の全部分を再建する -
プラハの「ヴィート大聖堂(1334)」と
ウィーンの「シュテファン大聖堂(1359)」
どちらも荘厳であり圧倒される
共に歴史の証人であり未来を見続ける -
お揃いなのか?ジーパンに黒のジャンパー
やはり教会にお似合いは白人だ
こういう光景を見ればそう感じる
私にとって教会は違和感がある
心休まるのはお宮でありお寺である -
傍で見てもデカ過ぎて全体像が分らない
この模型を見て「あァこんな感じか」 -
ウィーン随一の目抜き通り「ケルントナー通り」
旅たちから四日目、いまだに夢幻の如く
ヨーロッパ、ウィーンの目抜き通りを歩く
そんな自分がピンと来ない。アジアと違う
これは白人コンプレックスというのか -
ザッハトルテ(チョコレートケーキ)発祥の店
ホテル・ザッハー(五星ホテル)でもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%83%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%86
ザッハトルテとはザッハーが考案したトルテ(菓子)
ガイドが歩きながら右を見て左を見て
いろんな店のことを紹介してくれた
「Caf?・ Sacher Wien」
https://www.google.co.jp/maps/place/Hotel+Sacher+Wien/@48.203988,16.369252,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1s70368731!2e1!3e10!6s%2F%2Flh3.googleusercontent.com%2Fproxy%2F1ZZNgwNtzcUczTezcvvPkpFspt9asi6vE0-2t983M-WOnYeICABSX83iKZtiIoEb7rkKxeP9AET999EsaJqxDMULBPSDpg%3Dw203-h135!7i1296!8i864!4m2!3m1!1s0x0000000000000000:0x4e2cf36fc6ff9288!6m1!1e1?hl=ja -
我らのウィーンでの昼食は「ルベッラ (Lubella)」で
-
そうかこんな店内だったのか・・・と
写真がなければ何も思い出せない
誰と一緒のテーブルだったのか?
一人参加は私だけの27名ツアーなので
添乗員“Tさん”と席はいつも一緒 -
昼食はずっとこのスープが出たように思う
フリターテンスッぺ(Frittatensuppe)
短冊状のクレープ入りコンソメスープ -
なかなかシンプルな料理、何の肉だったか?
食い物に文句はなし、量もちょうど、腹膨れる -
ウィーンでオペラを観劇する術も知らず
あわよくばという希望でしかなかった
それが現地に来て「見れそうだ」と分った
切符はどこで?ダフ屋のお兄さんたち多数
でも・・・買わずに券販所を探す
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■自由行動の時間がスタート
昼食タイムが終了し午後1時、ウィーン自由時間の始まり。今日のウィーンでのオプショナルツアーは「ハプスブルク家ゆかりの地巡り¥13.000円」。午後からの自由時間を過ごすのは初日のプラハが最初だった。そこで午後4時半に暗くなった。ということは午後からの自由行動といってっも3時間半で暗くなる。初日に実体験していたので目的地も 優先順位をつけ多くは望めない。
この時点での私の自由行動の予定は「オペラの観劇」「シュテファン寺院の南北の塔」「岩倉使節団が訪れたウィーン万博跡地」「ヒットラーが受験し不合格になったウィーン美術アカデミー」他にも“地球の歩き方”に沢山記しを付けていたがとっくに諦めていた。
まず一番先に向かったのは国立オペラ劇場、今日のチケットを買いに行く。「音楽の都:ウィーン」にたまたま来れた。そして人生二度来る可能性は限りなくゼロに近い。ならば目の前にあるオペラ劇場に行こうと、ついさっき決めた。
レストランから数分の距離にオペラ座はある。そしてその周囲には中世の衣装を着た笑顔のダフ屋兄ちゃんがあちこちにいた。チケット購入場所も買い方も不明なので、まずオペラ座の周囲をうろついた。でも分らないのでダフ屋兄ちゃんに近寄り「今日の券」というとニコッと笑顔で出してきた。
兄ちゃんは「50ユーロ」と言ったが券は「12ユーロ」くらいの価格表示だった。ダフ屋だから値段の差は当然だが、騙されるのも癪だしその場では買う気が失せた。まともな券を買う場所を探したらケルントナー通り側のオペラ座内に小さな券販所のような所があった。
そこに入って行ったら窓口で券を購入していた“おっちゃん”が「チケットは向こうで売っている」と場所を教えてくれた。今も謎だが?帰国後“地球の歩き方”を見たら私が行ったオペラ座の券販所も買えるとあった。でもその時は何も分からずその“おっちゃん”に教えられた場所に向かった。
その場所はオペラ座の西側の通りオペルンガッセ通りの北角附近だったと思う。そこはガイドブックにも紹介されている国立劇場前売りセンター(Bundestheater Kassen)だった。窓口の椅子に座って「当日券:トゥデェー」というと「OK!」とパソコンで空席を検索し席と価格を示してくれた。二階か三階席のようで高かった。
「170ユーロ」くらいの席を言われたので驚いた。「席はどこでも雰囲気だけ味わえれば良い」くらいの気持ちだったのでダフ屋の50ユーロより高いし、「モアーチープ」と言うと窓口のお姉さんは頷いてまた検索し、今度は「Loge1 Reihe1 Platz3 124ユーロ:¥15400」だった。それでも三階席だがまあ生涯一度だし「ええか」と・・・。
ジャンパーに綿パンなので「ディス ユニフォームOK?」と聞いたら「OK」というので、その座席券をカード購入した。演目はフィデリオ(FIDELIO) 午後7時開演。1時半無事チケットを手に入れ今日の自由行動最後のスケジュールは決まった。あとは6時過ぎまでに予定を達成したい・・・と。 -
オペラ座(東側)にあったこの券販所に入ったが
どこの“おっちゃん”なのか正体不明の人が
ここではなく向こうで買えと場所を教えてくれた -
⑪ルベッラ (Lubella):⑫国立劇場前売りセンター(Bundestheater Kassen):⑬オペラ座
⑫が券販所:場所はオペラ座西側:オペルガッセ通り -
⑫国立劇場前売りセンター(Bundestheater Kassen)
「あっ、ここにあった」と見つかりホッとする -
カウンターに二人の女性が並びそれぞれパソコンを前に座っていた
「トゥデェー」「OK」「ディス ユニフォームOK?」「OK」
とりあえず通じた手に入れた。ウィーンでオペラ観劇だ、やったぜ! -
⑫国立劇場前売りセンター(Bundestheater Kassen)を背にオペラ座を写す
ここでは良い席が買えるようだ。私が手にした券は
「Loge1 Reihe1 Platz3 124ユーロ:¥16000」
オーストリア観光協会
http://www.austria.info/jp -
シュテファン寺院南塔
下から上を見上げても
展望場所がどこなのか分からない
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■シュテファン寺院南塔展望台へ上がる
まず近くのシュテファン寺院の塔に上りに行く。最初はエレベーターがなく343段の螺旋階段を登る南塔に行った。なるほどこれぞ螺旋階段。一本の支柱を中心に隙間ない1359年完成の螺旋の石階段を見て登るだけでも値打ちがある。螺旋階段は狭くて降りて来る人あれば片方が立ち止まり壁にへばりついて避ける。共に動きながらの行き違いは難しい。
343段を上りきり展望台からの眺めは絶景なり。今日のウィーンも青空が一杯、眼下に広がる歴史地区には教会の尖塔がアチコチに見受けられ高層ビルの林立とは無縁の歴史都市の風景が広がっていた。その風景は東京や大阪の大都市とはまったく違う。遠くに高層ビル群が集まる一画も少しあるにはあった。
『19世紀後半(江戸時代)まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。』ウィーン。人口180万人。、国際機関の本部の集積地。 1873/明治6年、ウィーン万博はウィーンのドナウ河に沿ったプラーター公園で開催され明治新政府が初参加した。
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1873-2.html
そこに1871/明治4年11月に出発した岩倉使節団も帰国前の1873/6月、この博覧会を見学している。そのプラーター公園は現在もあり焼失したメーンパビリオン跡地にウィーン見本市会場(メッセ)が建つ。日本人の足跡を訪ねる私の今日の目的の場所でもある。南塔343段自力で登って眺めて降りて合計20分か。次を焦る気持ちがこの滞在時間になった。 -
343段の螺旋階段
螺旋に隙間なく素晴らしきかな石階段
行き違い窮屈なれどこの階段登る価値あり -
螺旋階段最上部
ここから展望台へ出る -
1月14日ウィーンの空は晴れ渡り
北西方向を写す
正面遠くに二本の尖塔のあるヴォティーフ教会(Votivkirche)が見える
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%95%E6%95%99%E4%BC%9A
すぐ前の緑の丸屋根はウィーンで2番目に古い
聖ペーター教会(KatholischeKirche St. Peter)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%95%E6%95%99%E4%BC%9A -
南東方向を写す
ウィーン・マリオット・ホテル(Vienna Marriott?・ Hotel)が見える
「ウィーン。人口180万人。国際機関の本部の集積地」 -
地上67mからの展望台からモザイク屋根を写す
-
北東方向
正面遠く「ドナウタワー」
https://www.wien.info/ja/sightseeing/sights/from-a-to-f/danube-tower
螺旋階段登って眺望を楽しみ降りる
デジカメ時間によればその間たったの20分ほどなり
人生二度ない機会なのに何故我先を急ぐのか?性分 -
写真左側の門:モーツァルト・ハウス入り口
シュテファン大聖堂のすぐ近くにモーツアルトは暮らしいていた
その家が記念館になって開放されている
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■モーツァルト・ハウスへ行く
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9/@48.2082439,16.3745749,20z/data=!4m2!3m1!1s0x476d079fa76346c1:0x3b665eede17e02be?hl=ja
シュテファン寺院のすぐ傍にモーツァルト(1756-1791享年35)が「生涯で最も恵まれた歳月を過ごし、ウィーンで最も長期間(1784:28歳-1787:31歳)住んでいた家」と言われる「モーツァルト・ハウス」が、すぐ近くなので北塔に上る前にそこに行った。寺院から徒歩3分ほど。入場料11ユーロ約1400円。日本語の無料音声ガイドを貸してくれた。
音楽好きでなくてもモーツァルトは誰でも知っているはずだ。私も「神童モーツァルト」ととして知っていた。でも彼が作曲した曲が何のか?一つも知らない。「曲名は聞いたことはある」というくらい。その人となりをこの地、このハウスに来て初めて知る。
神童から天才作曲家として輝かしい人生だったのではと漠然と思っていたが、35歳の若さで死に毒殺の噂もある。浪費家であったり収入が少なくなって金持ちの女性に擦り寄ったりと音声ガイドでの解説で生々しいモーツァルトの人生の一端を知った。「へぇ〜そうだったのか」である。モーツァルトは230年前にここに暮らし、ここで曲を作り生きていた。ハウス滞在25分、先を急ぐ。 -
モーツアルト(享年35才)が生涯で最も恵まれた歳月を過ごした家
音楽に興味なくても名前は誰しも知っている -
玄関から外を写す。この道を歩いたはずだ
ウィーンに来て初めて知った
35才の若さで亡くなっていたということ
浪費家であり、金に困ってセレブ女性に媚を売っていた
そんな現実を知り尚更天才音楽家としての信憑性が高まった
モーツアルトは作られた偶像ではなく
生身の天才であり努力の人だった -
玄関に飾っていた神童モーツアルト自画像
内部は写真撮影ダメ
トルコ行進曲
https://youtu.be/zaxQxgyjw2M -
観光馬車「フィアカー」が並ぶ
寒いからなのか?乗る人見かけず
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■シュテファン寺院北塔展望台へ
シュテファン寺院に戻り今度は北塔に上った。料金は5.5ユーロ。寺院の中に券販所とエレベーターがある。三、四人で恰度くらいのエレベーターで上に登ればさっきの南塔とは違った方向が開けて見える。大観覧車が遠望できる。そこがプラーター公園でありウィーン万博会場だった場所。
下を覗き見ればちょうど今寺院は修理中で足場を組み高い所で職人が仕事をしていた。展望台は金網フェンスで囲まれていた。プラハ、チェスキー・クルムロフ、そしてウィーン。三日連続で場所を変えながら中央ヨーロッパ歴史遺産巡りをしている自分が現実なのか?夢の中なのか時折不思議な感じになる。北塔滞在20分。来て、見た、ことは事実なり。 -
エレベーターで昇り下を覗く
馬車は待機だけで動く気配なし -
北塔より南塔を写す
-
モザイク屋根に沿って北西方向を見る
正面二本の尖塔はヴォティーフ教会(Votivkirche)
写真右端の尖塔は岸辺のマリア教会(Maria am Gestade)
http://www.howtravel.com/europe/austria/vienna/vie-sightseeing/vie-building/maria-am-gestade/ -
高所足場を組んで修復作業中
こんな小さな人間がこんな大きな建物を建てる
人間とは一体何ぞや?恐るべし -
北方向を写す
雲ひとつない青空、旅これに勝る物なし
正面左尖塔「岸辺のマリア教会」 -
北東方向を写す
中央左遠くにプラーター公園大観覧車が見える
1873/明治6年その場所でウィーン万博は開催された
岩倉具視遣欧使節団訪れる、西郷征韓ならず下野 -
北塔にある大鐘「プンメリン」
http://www.wien-kanko.com/2013/10/19/%E6%9C%89%E5%90%8D%E3%81%AA%E5%A4%A7%E9%90%98-%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%B3/
『毎年大晦日から新年になる時の真夜中に鳴らされ
その直後に「美しき青きドナウ」が流れる』・・か
https://youtu.be/1nWbuwLshrk
除夜の鐘の如く -
北塔のエレベーター
これに乗って降りた
南塔と同じく北塔滞在20分 -
シュテファンスプラッツ駅(Stephansplatz)
プラハに続いて二回目の地下鉄乗車
切符を買って打刻機で刻印、そのまま乗車
入り口出口改札なく、おまけに検札もなく
ブタペストも同様、訳分らないまま帰国した
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■岩倉具視遣欧使節団が訪れたウィーン万博跡地へ
南塔から降りて次はウィーン万博跡地に向かう。地下鉄シュテファンスプラッツ駅(Stephansplatz)から三つ目のプラーターシュテルン・バーンホフ駅(Praterstern Bf)で降り大観覧車方向に歩く。切符はその度に買った(¥2ユーロ)が改札もなく券を打刻機に入れて刻印してOK。プラハ・ウィーン・ブタペストとも車内で検札を一度も受けず出る時は無人。謎のようで、よう分らんまま帰国した。
駅から出て今回の旅で初めて方位磁石使って見本市会場(メッセ)方向に歩く。ウィーン万博会場だったプラーター公園。この公園には1908/明治41年ウィーンに引っ越してきた「クーデンホーフ・光子(伯爵夫人)」も週末には馬で息子たちと来ていたそうだ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%95%E5%85%89%E5%AD%90
公園内を横切るように東方向に歩いたつもり。歩けどもメッセの見本市会場らしきものはなく道を間違った。大観覧車から東方向が南方向に歩いたようでメッセとは反対のドナウ運河に出てしまった。
途中何人かに地図を見せて道を尋ねた。みんな親切に教えてくれた。今から思えば正しい道を教えてくれたのに私のバカな思い込みで教えてもらった方向を信用せず余計に迷う。運河に出て間違いを確信。反対方向に歩く。
運河の河川敷コースをジョギング中の男性に道を道を尋ねたら、立ち止まってタイムを計っていたのか腕時計を止めて教えてくれ別れ際に「Your Welcome」と言ってくれた。そして遠くから振り返って大きなゼスチャーで方角を示してくれた。みんな嫌な顔をせず教えてくれる。そして「Your Welcome」と言ってくれた人が多い。
旅先で親切に出会えば旅は百倍楽しいものになる。素晴らしい景色も良いけど人の優しさはありがたい。歩きつかれて痛い足を引き摺るように歩いた。帰国後“Google・Map”を見たらまったく反対方向のヴィヴァリウム通り(Vivariumstra?・e)を運河に向かって歩いていたことが分った。何で?
https://www.google.co.jp/maps/place/Austria+Trend+Hotel+Messe+Wien/@48.214442,16.394005,90m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x476d0719fdd62239:0xbeb937449ac55dac?hl=ja -
プラーターシュテルン・バーンホフ駅(Praterstern Bf)下車
-
地上に出てビックリ、国鉄・地下鉄・路面電車が集まっている
“Google・Map”
https://www.google.co.jp/maps/place/Westbahnhof+140%2F1,+1150+Wien,+%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2/@48.218369,16.3921258,361m/data=!3m1!1e3!4m2!3m1!1s0x476d07f5c7fbe587:0x2245e14d4b6d262c?hl=ja
ここから大観覧車を目指して歩く -
大観覧車に迷わず到着
さあもう少しで万博メインパビリオン跡地
見本市会場に行けると思っていたのに・・・ -
ウィーン万博会場だったプラーター公園を歩く
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%85%AC%E5%9C%92
1908/明治41年頃クーデンホーフ・光子も来ていた -
この「ヴィヴァリウム通り」のバス停にいた青年に尋ねたが
青年の言うことを信用せず真逆の方にまだ歩く -
このドナウ運河に出てやっぱりこれはおかしいと気付く
ジョギング中の“オジサン”に声を掛けたら
ストップウォッチを止め親切に教えてくれる -
「Hotel Messe」という文字が目に入りホッとする
午後4時13分、もう夕暮れの雰囲気になって来たから
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■ウィーン万博のメインパビリオン跡地へ
教えてもらった方向にひたすら歩く。ドナウ運河から言われたように20分ほどでメッセという文字に出会う。オーストリア トレンド ホテル メッセ(Austria Trend Hotel Messe Wien)であり、そのすぐ傍に見本市会場「MESSE WIEN」があった。ここにウィーン万博のメインパビリオンが建っていた。
会場内は賑やかだった。ちょうどこの会場で「オートショー」が開催されていた。
https://www.jetro.go.jp/j-messe/tradefair/ViennaAuto_48282
入場券販売窓口がずらっと並びこの時間も多くの人が券を買っていた。でも時間は午後4時20分過ぎとなりもう明るい観光時間は少ない。
維新幕開けの直後、幕府が消滅し若き公家と志士たちが中心になって立ち上げた新生日本はまだ混乱の渦中だった。そんな明治4年から2年もの歳月を掛けて岩倉具視他明治政府要人多数が米国を皮切りにこの欧州にやって来た。そして長い旅路から帰国三ヶ月前の1873/明治6年6月、この万博会場を訪れた。
日本政府として初めて参加したウィーン万博、日本館が建設され日本庭園が作られた。世界は驚いたことだろう。白人国家以外にこれだけの文明智力を持つ有色人種国家があるとは想像外だったと思う。今から143年に遣欧団がここを訪れた場所に我も来る。たった143年前なのか?百年は世界を大きく変える。65年の我が人生零歳の時と今では世の中随分変わった。
モーターショーを見たかったがメッセ滞在10分強で立ち去る。来ただけ。感傷に耽るまもなく。午後4時半頃夕闇迫り始める頃、メッセ前にあるメッセプラター駅(Messe-Prater)から地下鉄で今日最後の目的の場所「ウィーン美術アカデミー(Akademie der bildenden K?・nste Wien)」向かう。降りる駅はメッセプラター駅から八つ目のミュージアムクォータ駅(Museumsquartier)。
https://www.google.co.jp/maps/@48.2014779,16.3650329,180m/data=!3m1!1e3?hl=ja -
1873/明治6年5月1日から10月31日
オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン中心
プラーター公園で、開催された国際博覧会である -
ウィーン万博のメインパビリオン
-
今は見本市会場「MESSE WIEN」がある
2106/平成28年、今から143年前岩倉使節団は
この博覧会を訪れている、そして今私が来た
百年、二百年後、わが子孫ここに来るかも -
この日はモーターショーが開かれており
結構な人の賑わいがあった
入るのは有料だったが、時間なく断念す -
見本市会場「MESSE WIEN」
ウィーン万博のメインパビリオン昔この地にあり
爾来143年が経過し現在はこのようになっている
百年後は如何に? -
見本市会場前にメッセプラター駅(Messe-Prater)があった
ここで降りておけば迷わず時間短縮になったが
迷ったからこそ現地の人との係わりが出来運河も見れた
すべては旅の顛末なり、何が幸いするか分らない -
地図で見ていた通り「ミュージアムクォータ駅」で降りた
頭の中では直ぐに行けるはずだった・・・のに
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■ヒットラーが二度不合格になったウィーン美術アカデミーを目指す
ミュージアムクォータ駅に無事に降りて直ぐ近くにあるはずのウィーン美術アカデミーを目指して歩いたが、ここでも道を間違った。
https://www.google.co.jp/maps/@48.202647,16.3608084,19z?hl=ja
駅からゲトライデマルクト通り(Getreidemarkt)を行くべきはずが方向違いのマリアヒルファー通り(Mariahilfer Stra?・e)を西に向かって歩いた。引き返してどうも違うと思いながらまた同じ道を西に向かって歩いたり・・・と。錯覚はどうしようもない。
結局貴重な時間を50分近くさ迷う羽目になった。この時は地図を見直して自分で気付き今度は直ぐに見つかった。1692年江戸時代初期に開設され三百年以上の歴史を持つ。画家を目指したアドルフ・ヒトラー18歳の1907年と翌年の1908年の二年続けて受験し不合格になった。
歴史にイフはないが、もし合格していたら世界の今は??どうなのだろう。美術アカデミーの前に行った時にはすでに午後5時半、夜になっていた。ヒトラーのウィキペデイア「生い立ち」を読めば小さい時から青年期までそれほど際立って目立っていた様子は伺えない。政治家への道を歩み「演説の上手さ」と「政治力」で国民を惹き付け首相になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC#.E7.94.9F.E3.81.84.E7.AB.8B.E3.81.A1
そして一気にドイツを復興させるも戦争に突入し敗北した。独裁政権下で戦争に突入して以後はパーキンソン病に罹患したりで、まともな判断が出来なかったのか敗北は当然の成り行きだろう。戦後ドイツは「ナチ」に全ての戦争責任を押し付けた。私は違うが日本人の多くは先の戦争を「間違った開戦」と言い自らも自虐し続けている。
いつの時代も歴史は勝者が作る。しかし真実は消えず。いつの日か新たな真相が浮かび上がる時が来るかもしれない。同じ第二次世界大戦で枢軸国として戦ったドイツと日本だが戦争目的は全然違う。ドイツは積極的侵略戦争と言えるが、日本は自尊自立の為に黄禍論が根底にある世界の白人列強から仕掛けれた戦いに挑んだだけだ。
ヒットラーの書いた「我が闘争」にもアジア人蔑視が読み取れ、日本との戦いにさえ言及している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC#.E5.AF.BE.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.83.BB.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E8.A6.B3
私が生まれるたった5年前1945年にヒットラーは自殺した。今の世でも誰もがその名を知る「モーツァルト」に「ヒットラー」歴史に名立たる人物がこのウィーンを歩いていた。その場所に自分もいる。時間差はあれど、それが旅の面白さ。
美術アカデミーの前に公園がありそこに「フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805享年46)」像がアカデミーの灯りに照らされ建っていた。シラーは「ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の原詞を書いた詩人でもある」「文豪ゲーテ(1749-1832享年83)の盟友」・・・聞いたことのある名前ばかりなり。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC
オーストリア人は日本の歴史上の人物を一人でも知っているのだろうか?織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は如何に? -
“Google・Map”
https://www.google.co.jp/maps/@48.2012393,16.3622682,17z?hl=ja
ゲトライデマルクト通り(Getreidemarkt)を歩いているつもりが
マリアヒルファー通り(Mariahilfer Stra?・e)を歩いてしまった
メッセ会場と同じく痛恨のミス、またもや迷う羽目になる -
マリアヒルファー通りを西の端まで歩く
なかなか間違いに気付かず
何度か尋ねたが要領を得ず
暗くなっていくばかり、アァ〜
50分近くさ迷った -
ウィーン美術アカデミー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%BC
地図を見直しやっと間違いに気付く
ゲトライデマルクト通りを歩けばすぐに到着
アドルフ・ヒットラーは1907年・1908年(日露戦争1904−1905)
二年連続(18,19才)この学校を受験し不合格になった
合格していれば今の世界はどうなっていたのだろう -
いつの世も勝者が歴史を作る
巷間言われているナチスの残虐非道の真実は如何に?
世界で言われる史実は事実とイコールではない
あくまで真実を探求し国を守る為に戦った
同胞先人を安易に批判するは万死に値する -
ウィーン美術アカデミーの前に立つ
フリードリヒ・フォン・シラー銅像
『シラー死亡は1805年、ヒトラー16才
思想家でもあるシラーはドイツ国民の
精神生活に大きな影響を与えた』 -
オペラ座
ウィーン美術アカデミーからオペラ座は徒歩5分
すでに時刻は午後5時40分、夕食はまだ
開演7時、6時半にはオペラ座に入りたかった
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■マクドで夕食
すでに午後5時半、夕食を食べてオペラ座に行かなければと気持ちは少し焦りだした。確か?オペラ座近くケルントナー通りに日本食の店があったような?と思って歩いたが見当たらず刻々と時間が過ぎるので「マクドナルド店」に入った。
ハンバーグ・セットを頼んだつもりではなかったがポテトチップも付いて渡された。ハンバーグは札を渡されてしばし待つ。出来れば番号を呼んでくれるのかと思っていたがそうではなかった。しびれを切らしてカウンターに行くととっくに出来ていたのか棚に置いてあった。それで十分の腹ごしらえをしていざ鎌倉!オペラ座(ウィーン国立歌劇場)へと向かう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%AD%8C%E5%8A%87%E5%A0%B4 -
日本料理店が見つけられずマクドナルドへ
「ケルントナー通り」のマクド -
ふ〜ん、やっぱりマクドはどことも同じ雰囲気
番号札を渡されたが呼ばれず、ずっと待っていた
なるほど、ところ変われば対応変わる -
通りからちょっと入ったところに入り口がある
午後6時12分、さあオペラ座へいざ行かん -
世界三大歌劇場
ウィーン国立歌劇場(ウィーン)・スカラ座(ミラノ)・メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
何の因果か、明石の“オジン”がたまたま入場券を手に入れ
綿パン・ジャンパー姿で恐れ多くもウィーン国立歌劇場に来た
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■オペラ観劇
オペラ座入場は午後6時17分。正面から入ってそのまま階段前に立っているスタッフにチケットを見せたら、まずリュックを荷物預かり所に置いてくるように言われた。なるほど。リックを預ける所は結構な広さがあり数人のスタッフが次々と来る観客から荷物やコートを引き取り整理している。
そして再び正面階段前に行きチケットを見せたら「上にどうぞ」と手を指し示してくれた。安いチケットの人は「あちらから」「向こうから」と左右に振り分けられている。それだけでも優越感を感じ気分は良い。伝統ある国立オペラ座、中央に絨毯を敷いた大理石階段をまるで貴族にでもなったような気分で上って行った。
残念ながら私は正装ではなくジャンパー・綿パン姿なのでこの場に似合わない。正装の紳士やドレスの淑女たちは服装や終了後の歓談も含めてオペラ座での観劇を楽しむのだろう。私は何も知らずに来てしまった“おっさん”なので敷居高く雰囲気を楽しむ余裕は皆無。建物に圧倒され落ち着かず。
オペラ座の中がどうなっているのかも分らないし、足はすでに棒だから自分の席に早く落ち着きたいとスタッフの女性に案内を頼んだ。そして席に着いた。私の席は「エアステン・ラング・ロージェ1(1.RANG LOGE RECHTS)」「Loge1 Reihe1 Platz」平土間から二段目で舞台から二番目のボックス席の前列3(左端)」が¥124?の私の席だった。
舞台から見れば左側。真下にオーケストラが見える。平土間座席の上周囲を五層の客席が囲む。三層目まではボックス席だが四、五層目は仕切りなく階段座席が幾層にもある。自分の座席に座ったのが6時26分。ミッテルロージュ(舞台真正面の席)には団体客なのか多く座っていたがその他はガラガラ。
旅行前この光景は限りなく可能性が低かったが、それが実現していることに夢心地。「立ち見で見た」というだけではなく、この席に座って“ゆっくり”出来て良かったと¥124?も惜しくはない。オーケストラ席も二人ほどが練習するだけでガラガラだった。 -
ふ〜ん、へぇ〜、これがそうか、こんなんか
「場違い」を絵に描いた私だが、何もかもが興味津々
・・・と言っても立見席もあり入場券もピンきりだ -
ジャンパーにリュックを背負って階段を上ったら
写真のお姉さんにリュックを預けるように言われた -
リュックを預け中央階段より入場する
オペラ観劇にも興味はあったがそれよりなにより
ここにいる自分自身にテンションが上がっていた -
こんな通路を通って自分の席に向かった
席分らずスタッフに聞いて案内を乞う -
赤丸が私が座った2階ボックス席¥124?(\15,400円)
因みにピンは¥260?前後(¥32,200)キリ立見¥3?(¥370)
「エアステン・ラング・ロージェ1(1.RANG LOGE RECHTS)」
「Loge1 Reihe1 Platz」
座席の説明は以下の旅行記に詳しい
ウィーン国立歌劇場でオペラ
http://blogs.yahoo.co.jp/kaoriarctic/23766158.html -
開演まで34分のオペラ座
まだ客席はガラガラ
オーケストラ席も一人か二人 -
ここだけ多くの人がいる中央立見席
ここの立見席の料金4?(\500円)他は3?
高い料金の平土間座席すぐ後
この立見席は並んで手に入れるようだ
立ち見定員567人・座席定員1709席 -
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
一人が練習していた
ここで小澤征爾が2002-2010年まで指揮をとった -
壁を挟んで左側ボックス席
開演前にはほぼ満席になっていた
左のお隣さん方はそれなりの服装
私の右横二席には若い女性二人
見えない後席には若い男性と中年男性 -
2016年1月14日 19:00−21:45 ウィーン
フィデリオ(Fidelio)
https://classicworld.at/vienna/opera-and-operetta/fidelio-tickets/?p=31&l=6&c=1&d=12&id=59
指揮者:ペーター・シュナイダー(Peter Schneide:77才)
監督:オットー・シェンク(Otto Schenk:86才)
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■オペラ座開演前と終了後
帰国後に知ったが「2002年9月〜2010年8月まで小澤征爾が指揮者」だった。今日の演目「フィデリオ(Fidelio)」はベートーヴェンが完成させた唯一のオペラであり、このオペラ座が第二次世界大戦1945/3月空爆で破壊され、その修復が終わって1955年11月、今日の演目『フィデリオ』によって再開したそうだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%AA
オペラ座初の入場の私は興味津々待ち時間はいくら長くとも苦にならず。開始15分前の6時45分になっても客席は3割方。10分前でもオーケストラボックスに楽団員は半分に満たず。私のボックス席計6人はいつの間にか満席になっていた。開幕時間が近づくと気が気でなかったが5分前くらいになると一気に客席も埋まりオーケストラも全員が揃っていた。
お客さんは平土間席は男はネクタイと黒っぽいスーツ姿が多かったが全体を見渡せばラフな服装の人も少なくはない。この歌劇場も1999年民営化になりお堅いことばかりでは運営もままならないのか?私のようなジャンパー綿パン飛込みの観光客でも大目に見てくれるのだろう。
プログラムによればこの日の指揮者はペーター・シュナイダー(Peter Schneider 1939年生:77歳 )。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC
監督はオットー・シェンク(Otto Schenk1930生:86歳) ホンマかいな指揮者も監督も高齢だ。監督は86歳とは・・・。
オペラ「フィデリオ」は開演の挨拶も指揮者の紹介もなく、いきなり始まった。午後7時いよいよ開演の時が近づき、ほぼ満員の客の入りで熱気を感じた。開演間近、楽団員はそれぞれの楽器を手に準備に余念なくいろんな音が入り混じり騒がしい。そこに一人の指揮者らしき老人が現れた。私は真上から見下ろす位置でその老人らしき人の一挙手一投足を注視した。
大丈夫かいな足元おぼつかない。そして中央式台に近づいたが二段の段差を上ろうとした時、少しよろめき壁に手を付いた。しかし老人は何事もなく式台に立ち壁から三番目に座っていたコンサートマスターらしき男性バイオリニストとがっちり握手を交わした。そして式台に置かれた丸椅子に腰掛けた。
その直後座ったまま指揮棒を手にし、肘を上げちょっと構えたかと思うと次の瞬間両肘を一気に上げて力強くタクトを振った。刹那雷鳴のような音がオペラ座に鳴り響いた。その瞬間私は鳥肌が立ち頭真っ白感動の一瞬。その実体験こそが私には何にも得がたいものになった。その瞬間の興奮は一生忘れないだろう。
よろついた老人指揮者が指揮棒を振るやいなや一変してパワーみなぎる男になった。どこにそんなエネルギーがあるんや?腕だけでなく身体全体で指揮する力は半端じゃないで・・・と。無音の静寂から雷鳴の如く。それも一糸乱れぬ音だった。曲は何か知らんけど真っ暗な中に思い切り鳴り響いた。劇場の灯りはあったのかなかったのか分らないけど私の脳裏は闇に光る雷鳴だった。
その数秒だけで十二分の満足感に浸りその後は夢遊病者の如く、オペラは子守唄となる。私のボックス席前列は三人右横には二人の友達同士か姉妹なのか若い女性が座った。乗り出すように見ていた。後ろの人は舞台は半分くらい死角で見えないのではと思う。ボックス席は最前列でなければダメだ。
我が生涯で舞台を見ての感動の順番は今まで「1番」が新疆ウィグル:「ウルムチで見た民族舞踊と歌」、「2番」がタイ「バンコクのニューハーフショー」、「3番」が「京都の都踊り」・・・その他、宝塚歌劇・スペインのフラメンコ・人形浄瑠璃・四季ミュージカル・サーカス・歌謡ショー等々沢山あるが、感動と衝撃度という点でこのオペラ座の最初の数秒は凄かった。
午後8時20分閉幕した。寝てしまっていたけど満足感一杯。観客は整然と引揚げる。その後は地元の人達は折角の正装で来ているのだから皆でビヤホールやレストランで楽しんで帰るのかも・・・。私はリュックを受け取ってオペラ座を出てホテルに向かって歩いた。 -
開演15分前 えっこんなん?
お客の入りは如何ほどなのかと心配になる -
開演12分前 オーケストラ席もまだまばら
楽団員は今頃どこで何をしているのか?
練習なしのぶっつけ本番ってことか・・・と -
こけら落とし(1869/明治元年)の様子
2016/平成28年1月14日、147年の時を経て -
私の心配は杞憂に終わる
開演時間にはご覧の様にほぼ満席
間際になって老紳士杖を付いて入場
オペラを楽しみに来た紳士淑女の皆様
入場券は3万円〜400円まで
「ピンきり」が今日一同に介し
同じオペラを鑑賞す人生模様 -
中央立見席人溢れるが如し
ふ〜ん、オペラ観劇ってそんなに良いのか?
新疆ウィグルの民族舞踊と歌が私の最高だが -
この雰囲気を夢見心地で楽しむ
この場にいることが信じられず、時代が実現させてくれた
もし大正時代に生まれたならば、戦地で餓死した可能性大 -
開演時刻になりしも老指揮者現れず
そしてこの直後、足元おぼつかず登場
階段でふらつき壁に手を付く指揮者
コンサートマスターと固く握手す
劇場内は暗転、直後指揮者やおら両肘を上げ
一気に渾身の力全身に漲らせ指揮棒を振り下ろすや否や
雷鳴轟くが如く管弦楽団の音鳴り響き我が身体硬直す
鳥肌立つとはこのことかと頭ガーン真っ白、感動す!
この一瞬で我大満足、その瞬間のことは生涯忘れない
指揮者とはかくに力強き者なのか・・・と、驚く -
オペラは終わった
終始座席に座り寝ていた。寝るつもりなかれども
一瞬で満足のあと起きていることならずウトウトと -
私の席は最前列左端、右に彼女たち二人
彼女たちの私への印象は想像する必要もなし -
観劇後は皆余韻を楽しみ、人生を語り合うのか?
日常の中で音楽芸術に親しみ暮らしを豊かにする
白人社会の中ではそうだが、白人は他と一線を画す
一線を画すは白人に限らず生きとし生きる者皆同じなり
博愛平等差別をしない等々の優しき理性は皆偽善なり -
預けていたリュックを返してもらい背負う
オペラ座からの退散 -
ウィーン国立歌劇場よ、サラバ!
ウィーンよサラバ!もう再び来ることなかりしか -
賑やかだろうと思っていた市場もひっそり
ここは台湾・中国ではなくウィーンだった
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■ナッシュマルクト市場を歩いてホテルに戻る
帰り道は賑やかな「ナッシュマルクト市場」を通ってルンルンと帰るつもりがナッシュ市場は「日の出から日没までオープン」でレストランやビヤホール以外は店が閉まり人通りもなく。黙々と30分ひたすら歩いてホテル到着は午後9時ジャスト。時差(日本時間午前5時)がまだ体内に残り眠気十分。風呂に“ゆっくり”つかって午後10時頃就寝。
ウィーンの一日も充実した一日だった。明日はブラチスラバからブダペストへ。旅も終盤となる。 -
ビヤホールのような店は賑やかだったけど
それ以外歩く人なし -
ウィーン地下鉄「Pilgramgasse駅」がある
1月14日(木)午後8時55分の光景
この道向かいにホテルがある -
午後9時、午後1時に自由時間がスタートし
8時間をウィーンで一人過ごし無事戻って来た
明日はスロバキアからブダペストへ
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④2016/中央ヨーロッパ四ヶ国の旅:4日目ウィーン散策
https://youtu.be/yYalqxHKgHQ
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