2016/02/11 - 2016/02/11
1036位(同エリア1416件中)
滝山氏照さん
智光院(ちこういん、千葉県千葉市市場町)は千葉宗家を奪取した千葉一族馬加康胤(まくわり・やすたね、1441~1456)が康生2年(1456)に創建したと言われています。
鎌倉公方足利成氏(あしかが・しげうじ)と関東管領上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)との不仲により享徳3年(1454)成氏は憲忠を謀殺、これが契機となって成氏と上杉氏の敵対関係に発展、関東の豪族たちは自らの去就を明確にすることが求められます。
当然ながら下総千葉氏もこの事態に巻き込まれ、宗家の猪鼻城主である千葉胤直(ちば・たねなお、1419~1455)は守護の立場から成氏を敵対し上杉氏を支持する将軍足利義政の意向に従い上杉氏方に付きます。
これに対し一族で有力重臣である馬加康胤及び原胤房(はら・たねふさ)は鎌倉から古河に拠点を移した足利成氏方に与し双方譲らず、加えて筆頭重家老である原胤房と円城寺尚任(えんじょうじ・ひさのり)の確執が絡み、千葉氏は真っ二つに分かれる内紛状態に発展します。
享徳4年(1455)、筆頭家老の一人である原胤房は宗家千葉胤直・胤宣父子を猪鼻城に攻め込み、胤直父子は撃退叶わず円城寺氏を頼って千田庄(現在の千葉県香取郡多古町)に逃げ込みます。
上記状況を見て出家していた馬加康胤は原胤房に同調して千田庄で原氏と合流、上杉軍の後詰を期する胤宣と重臣円城寺氏は多古城に、胤直は志摩城に籠城を続けるなか馬加・原連合軍はそれぞれの城を包囲します。
然しながら兵糧を断たれ窮地に陥った胤宣は康胤に対し降伏と多古城開城を申し入れ、一族郎党と共に自刃して千葉宗家は断絶します。
他方志摩城に籠城継続中の胤直は原胤房からの度々の降伏勧告を拒否した結果、原胤房の攻撃を受け志摩城は落城、胤直も自刃してここに千葉常胤以来の300年続いた千葉氏宗家は没落します。
千葉氏宗家を奪った馬加康胤は千葉家惣領として古河公方足利成氏より認められますが、他方事の重大さを深く認識した足利義政は馬加康胤及び原胤房を追討鎮圧すべく歌人でもある千葉氏一族の武将である東常緑(とうの・つねより)を関東に派遣します。
関東に入った常緑軍は国内の有力千葉一族の協力を得て原氏の根拠地千田庄を襲撃、原胤房は防御できず同盟の康胤の本拠馬加城(千葉県千葉市花見川区)に逃げ込み、常緑はこれを追って馬加にて戦いを繰り広げ胤房は更に千葉に逃れ、康胤と胤持(たねもち)の親子は前後して生実を経て八幡(現千葉県市川市)に逃れますが双方とも常緑追討軍に討たれとされ、他の千葉一族の支持を得られなかった故に短命の千葉家惣領に終わりました。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル
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