2015/09/22 - 2015/09/22
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ミズ旅撮る人さん
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2015年シルバーウィークで、紀伊半島を和歌山から奈良・三重へと横断しました。
旅の終盤、奈良から三重に入り、国道1号線・東海道に合流しました。
京都に近い東海道は、あまり馴染みが無く、正直、現在のどの辺を走っているのやらわかっていませんでしたが、ひょっこり国道1号線を見つけ「あれ?つまり東海道?」と思ったら、この宿場町に出会いました。
東海道○○宿といっても、石碑くらいしか残っていないことが多いですが、ここは1.8kmにも及ぶ古い街並みが残っています。
車が激しく往来する国道から一歩入ったかつての宿場は、現代の旅人をも静かに迎えてくれました。
鈴鹿山脈を背景にした関宿は、そこだけ昔に帰ったような、ほっとする佇まいです。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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関宿のある場所は、三重県の鈴鹿市と津市の間にある亀山市です。以前は関町でしたが、亀山市と合併しました。
すぐ後ろに鈴鹿国定公園があり、「関富士」「観音山」「羽黒山」「大黒山」「筆捨山」などの山々が連なり、ハイキングコースがあります。
「筆捨山」は、狩野元信が、描こうとして描ききれず、絵筆を投げ捨てたと言う故事に由来した名前です。
関宿には国道に面して道の駅もありますが、観光用の駐車場が役場のそばにあります。そこからちょっと下ってくると、ここに来ます。
関宿は、3つのブロックに別れていて、西から「新所」「中町」「木崎」です。
ここは、「新所」と「中町」の分かれ目で、写っているのは「新所」の街並みです。 -
「新所」方面に行く人は意外と少ないですが、中心部である「中町」を行き交う人は、結構多いです。
関宿は、東海道の47番目の宿場ですが、古来より交通の要衝で、古代三関の一つである「鈴鹿関」として栄えていました(三関の他二関は「不破関(美濃・岐阜)」と「愛発関(越前・新潟)」です)。 -
足元のマンホールも宿場らしい絵柄です。
西隣の宿場である坂下宿の先は、神奈川県と静岡県の境である箱根峠のような厳しい峠があり、滋賀県と三重県の県境となっています。
それを抜ければ、じきに琵琶湖が見えるようになります。
南へ下ればお伊勢さんです。 -
この辺りは、古い建物をそのまま店にしていて、賑わっています。
ちょうど地蔵院の前です。會津屋 グルメ・レストラン
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街並みは古くても、やはり現代。ドッグカフェがありました。
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「関の小万茶屋」
江戸時代、福岡県久留米で、夫を殺された身重の妻が仇討ちのため、鈴鹿峠を越え、関の地蔵院までやって来ました。
しかし、旅籠で女の子を産んだ後に亡くなり、女の子は「小万(こま)」と名付けられて、関宿で育てられました。
小万は両親の無念を知り、亀山藩で武術を習い、1783年に本懐を遂げました。
この話は「鈴鹿馬子唄」にも唄われ、語り伝えられました。
これにちなんだ店の名前です。 -
これが、関の地蔵院です。
地蔵院には、一休禅師とのおもしろい話があります。
一休禅師が東海道を旅していると、地蔵の開眼供養を依頼されました。
禅師は地蔵を前に「釈迦は過ぎ、弥勒は今だ出でぬ間の かかる浮世に 目開(あ)かしの地蔵」と詠み、立ち小便をして去ってしまいました。
人々は腹を立てて別の僧に供養をやり直してもらいました。
ところが村人が高熱を出し、うわごとで地蔵が開眼供養のやり直しを怒っていることがわかりました。
あわてて三重県の北の外れ桑名にいた一休禅師を追いかけ、事情を話すと、私の下帯を地蔵の首に掛けるようにと言いました。
言われたとおりにすると治ったので、以後、関の地蔵には首に布を巻いているのだと言います。関地蔵院 寺・神社・教会
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地蔵院の庭には、なぜか立派な鹿の像があります。
その後ろの塀には、たくさんの庵があります。 -
中には小さなお地蔵様が座っています。
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ずらっと並ぶ地蔵たち。
元々お地蔵様には赤いよだれ掛けが付き物ですが、一休禅師の故事にならってか、たくさんの布が掛けられています。 -
地蔵院の庭には「関の歴史」「地蔵院」「建造物」という3つの項目の説明が書かれた看板が立っています。
「地蔵院は、真言宗御室(おむろ)派に属し、正式には九関山宝蔵寺と号します。
地蔵院略縁起では、761年行基による創建とされます。」
「本堂(国重要文化財)1700年建立。将軍綱吉の声掛りによる江戸出開帳や近在や往来の人々の喜捨によって資金が集められた。」 -
地蔵院の前に、先程の「小万茶屋」などの店が並びます。
2階部分が青い壁になった建物が「洋館屋」で、明治時代に生糸の問屋として栄えた家です。
明治時代の洒落た外観が目を引きます。 -
中町を歩いてみましょう。この道は、6〜20時はこちら側からの車輌進入禁止です。
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大きな木の看板に「民宿かじや」と書かれています。
木戸の横には「関宿まちかど博物館」とあります。 -
中町は、西から一番町から六番町と並んでいます。
本陣や旅籠などが集中した宿場の中心地で、比較的大きな町家が多くあります。
関宿には400戸余りの町家があり、この内200戸余りが保存の対象になっています。
これらの町家は最古のものは18世紀中ごろと推定され、明治中頃までの物が大半を占めます。明治後半から大正・昭和の町家もあり、これらは2階部分が現代の建築と同じように高くなっています。
近年、これらの町家が現代風にその外観を変えつつあったのを、宿場町として栄えていた頃のように修復し、町並みを整えました。
その際、現代の建物に変わってしまった家屋の前に昔の塀を全面的に配し、周囲に合わせた所もあります。この写真の左隣の家がそうですが、塀だけ見ると違和感はありません。 -
福蔵寺の入口です。ここには小万の墓があります。
写真右側の家が脇本陣です。 -
「東海道 関宿」の石碑。
「右 高札場陣屋跡 100米
左 地蔵院 100米」 -
中町には、お店もいくつかあります。観光客が少ないせいもあり、お土産屋の類は限られます。
店の数や町全体の賑わいからすると、琵琶湖の北西にある福井県熊川宿の方が上かなと思いました。
「若狭の国、鯖街道の中心地・熊川宿で葛まんじゅうを堪能」にて紹介しています。志ら玉屋 グルメ・レストラン
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「東亜足袋商会」の看板です。
「電話十一番」の文字が、交換手を通して通話していた時代を思わせます。
看板の下のガラスには細かい模様があり、羽振りのいい商店だったことが伺われます。 -
こちらの看板には「株式會社塩野義商店特約 ナガオ薬局」とあります。
「塩野義商店」とは、現在のシオノギ製薬のことです。
明治11年大阪で「塩野義三郎商店」として創業、昭和18年に現社名「塩野義製薬株式会社」と変更しました。
カタカナの社名は公式な略称ではありますが、正式名称ではありません。
看板の文字からも歴史を感じます。 -
アンティークを扱う店。所謂、「骨董店」ですね。
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鶏頭(けいとう)の赤い花が、格子戸に映えます。
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赤と黄色の混在した鶏頭もありました。
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「喫茶 田中屋」歩き疲れたらコーヒーをどうぞ。
1杯350円、アイスコーヒー400円、黒豆ココア350円と書かれています。
こういう宿場町に来たら、是非とも古い町家の中に入って、ゆっくり腰を落ち着けてみたいものです。
外を歩くだけでは見えないものも見えてくると思います。
古い瓦がすごくいい雰囲気です。よく見ると大黒様がおわします。
奈良の古い町を歩いていると、塀や屋根の上に結構置かれています。
時代の流行なんですね。 -
店と店に挟まれたお宅は、2階の上に明かり取りの窓がまた付いています。
古い家ほど、2階の高さが低く(左の家)、右の家のように少し高くなってきて、真ん中の家のように明り取りが設けられて、やがて昭和になると2階も1階に近い高さになります。
こうした時代の流れが見て取れるのが面白いです。
2階の役割が物置から、部屋へと移行する過程なんですね。 -
お茶屋さん「創業慶応元年 かねき 伊藤彦市商店」です。
お茶問屋で、三重の伊勢茶を専門に扱っています。
2階の窓の形が不揃いなのが興味深いです。左の窓は、引っ込んでいるし、その右となりの窓は一番下のガラスが外開きになっていそう。2階がどうなっているのか、見てみたいです。かねき伊藤彦市商店 グルメ・レストラン
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「高札場(こうさつば)」。
国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所の作った「東海道への誘い(いざない)」には、
「高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲げておく場所のことです。神奈川県の東海道では、9つの宿場にそれぞれ1カ所ずつありました。いずれも江戸から京都に向かって街道の右側に設置されています。」とあります。
このHPには、東海道のことがいろいろ掲載されていてとても興味深いです。
大名行列はなにしろ大人数ですから、何ヶ月も前から各宿場に通達を出しておき、宿を確保します。
他の藩とかち合うと、格によって明け渡さなければならなかったりします。
宿場に着くと「関札」を入口に掲示し、他の藩の宿泊を許さないということを明示します。
殿様はもちろん本陣に泊まり、家臣たちは旅籠へ、足りなければ寺ということもあり、それでも足りなければ前後の宿場に分宿ということもあったそうです。
まるで、修学旅行ですね。関宿 高札場跡 名所・史跡
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「高札場」の後ろには、郵便局があります。その郵便局の入口にこの看板がありました。
「このポストは、逓信総合博物館に所蔵されている日本最古のものを模して作成したものです(中略)当時のポストは江戸時代の目安箱に似た木製の箱で、書状集め箱と呼ばれていました」 -
どんなポストかというと、実は撮り損ねていました。
しかし、幸運なことに良く似たポストが地蔵院前のドッグカフェの前にありました。
郵便局の前にあるのより半分くらいの大きさですが、仕様はほぼ同じです。雰囲気だけでもご覧ください。
黒いポストに目立つ赤い張り紙は現在の郵便局JPのマークです。 -
関町道路元標です。
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「関宿旅籠玉屋歴史資料館」です。
関宿の二大旅籠のひとつで、縦に長い町家の構造を実際に見ることが出来ます。
離れや中庭・土蔵・納屋と続く1階と客室の2階です。関宿旅籠玉屋歴史資料館 美術館・博物館
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玉屋の象徴ともいえる2階の虫籠(むしこ)窓です。
漆喰で塗り籠めた竪格子の窓で、屋号にちなんで、宝珠の玉(玉から火焔があがる様)をかたどった意匠になっています。 -
軒の看板や格子がいい雰囲気を醸し出しています。
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「橋爪家」両替商を営む豪商。
三角の屋根が正面を向いているのは、関宿では珍しいです。
板に「丸みある 屋根の形は 起り屋根」と書かれています。
これは関宿を題材に詠んだ「関宿かるた」です。橋爪家 名所・史跡
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「深川(ふかわ)屋」です。
徳川家光の時代から続き、京都の御室仁和寺の御用達を仰せつかるなど、由緒正しい和菓子屋です。
店先の目立つ庵(いおり)看板に書かれた「関の戸」という菓子だけを作り続けています。
この看板、旅人が方向を間違わないように、右と左では文字が異なります。
この写真と、「深川屋」のHPを比べてみるとよくわかります。全然違います。すごい心遣いです。深川屋 陸奥大掾 グルメ・レストラン
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「伊藤本陣跡 松井家」
「伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした(中略)間口11間余 建坪69坪 西隣の表門は、唐破風造りの桧皮葺であった。
現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。」川北 伊藤本陣跡 名所・史跡
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せっかく整えた町並みなので、「クリーニング」の看板は外せたらよかったのにね。
家と家との境の2階部分にある壁は、「そで壁」といい、火事の延焼を防ぐ役割がありました。
右側手前の家の2階の窓には飾りの窓枠があっておしゃれです。 -
関宿の絵地図です。南北が逆さまになっているので、ちょっとわかりにくいですが、右(西)の地蔵院から左(東)に歩いて来ています。
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「川北本陣跡」関宿には、本陣が2つありました。
この辺が一番格好よく関宿を写せるスポットです。川北 伊藤本陣跡 名所・史跡
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「山車倉(だしぐら)」
最盛期には16基あったという祭りの山車は、現在4基が残り、祭りを盛り上げています。
関宿の狭い道を山車が練り歩く様は、軒先ギリギリを通ることから「関の山」という言葉を生みました。
「夏祭り 屋台が回る 関の曳山」関宿かるた -
「鶴屋」。
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた関宿を代表する旅籠。
江戸末期には、脇本陣も勤めました。
2階の手前にある千鳥格子が格の高さを表しています。
2階の大壁は洒落た黄色で、虫籠窓もそれぞれ形を変えるなど、趣向を凝らしています。 -
「関まちなみ資料館」。旧別所家。
町家で使われていた道具や、歴史資料などを展示しています。
大人300円(旅籠玉屋歴史資料館と共通)関まちなみ資料館 美術館・博物館
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特に説明書きのない建物でしたが、2階の虫籠窓が立派ですし、1階の建具がとても洒落ています。
塀の門柱部分にタイルが使われているのも、その時代の流行を表していて、興味深い建物です。 -
「環金具に 手綱つながれ 馬や牛」関宿かるた
かるたの文句を読むと、説明書きの代わりになっています。
関宿の建物はとても趣向を凝らした物が多いので、もっとひとつひとつの建物の見るべき場所を教えてくれる説明書きが欲しいです。
漆喰塗りの中に素晴らしい作品が隠れていたりするそうなのですが、あまり見つけられませんでした。
亀井市のHPによると、龍・寅・鶴・亀・鯉の滝のぼりなどがあるそうです。
どこの建物でみられるのか表示しておいてくれるとよかったなあ。 -
「英国紅茶の店 Earl Grey」。やたらと鉢植えが目立つティールームです。
他の町家が往時の姿を復元しているのに対し、この建物はその発展系というのでしょうか、「和モダン」な感じがします。
ちょっとオリジナルとは違うかも知れませんがこういう店が増えると、もっと明るく親しみやすくなるのではないかと思いました。アールグレイ グルメ・レストラン
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関宿の東隣が亀山宿で、西隣が坂下宿です。関宿の外れが西追分と東追分になります。
東追分は、伊勢別街道の分岐に当たり、ここにある大鳥居は、伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮の際に交換される内宮宇治橋詰の鳥居が移されたものです。
西追分は、大和・伊賀街道の分岐点です。 -
「百五銀行」です。ATMコーナーには、「現金自動取扱所」と書かれています。
百五銀行は明治11年、津藩の武士により第百五国立銀行として設立し、明治30年に普通銀行となり、百五銀行となりました。
本店は津市にあり、三重県中心の地方銀行です。 -
「山石」という食堂です。敢えてレストランとは言わず「食堂」が似合う店です。
なんだか懐かしい食品サンプルの並んだ店頭。
「本日のおすすめ」には、関宿弁当780円・麦とろご飯定食830円・亀山鉄板みそ焼うどん定食980円・わらじかつ重定食850円など、面白そうなメニューが並びます。
「わらじかつ」って、かつが巨大なのかな?
「奥に和室(30名様)3部屋、横に洋室(30名様)3部屋」「奥の長〜い山石」という張り紙も見えます。
正面から見ると狭そうですが、町家なので中はずうっと奥まで続いているんですね。
町家ならではのおもしろい店です。ダイニング 山石 グルメ・レストラン
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百五銀行の辺りから西に引き返して来ています。
「百六里庭」です。街道に面した部分の建物には、「眺関亭」という展望台があります。
ちょっと味気ないコンクリートの階段を上がると、関宿が一望・・とあったので期待して上ったのですが、他の町家と同じ高さのため、屋根に遮られて、素晴らしい眺望とは行きませんでした。
街道の先に見える大きな屋根は、地蔵院です。百六里庭 公園・植物園
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反対側の眺めはこんなもの。仕方ないですね。
「百六里庭」とは、関宿が江戸から106里にあることから名付けられました。
「眺関亭」の建物は、玄関部分だけで、すぐに細長い庭になります。ちょっとひと休みすることの出来る公園になっています。 -
「旅人宿 石垣屋」。ここは、町家がゲストハウスになっています。
素泊まりで、相部屋だと3,500円。寝袋持参だと2,500円です。
個室は4,500円。繁忙時期には相部屋のみのことも。お手伝いをすると宿代が割り引かれます。
基本は男女別の相部屋で、知らない者同士が同じ部屋で寝起きするシステムです。
子供連れはお断りなので、気ままに過ごせます。
一人旅には絶好の宿だと思います。三重の古民家ゲストハウス 旅人宿石垣屋 宿・ホテル
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中町と新所の境まで戻って来ました。ここから脇道の坂を上って駐車場に行きます。
駐車場は大きいのですが、観光バス用のスペースがかなりを占めているので、乗用車の停められる台数は少ないです。
そこで、正面向かって左側にある小道を奥に進み、役所の脇にある空き地に停められるようになっています。
こちらは、数十台は停められます。
最後までお付き合いいただいた方に取って置きの情報です。
駐車場の向かいに卵の自動販売機があります。
これは、地元の養鶏場から一日に2回セットされる新鮮そのもの(当日生んだもの)で、知る人ぞ知るお値打ち品。
実際、買ってみたら、卵を割ると黄身がこんもりしていて、白身まで盛り上がるのです。
だから、目玉焼きにすると普段よりちょっと小さめに感じます。広がらないからなのです。
もったいないから、卵かけご飯にしています。これだけの卵にはなかなか出会えませんよ。お試しあれ。
それでは、関宿からさようなら。
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